薔薇の軟膏と焦げたパイ
本日の更新は、
昨日のTwitter上のアンケート投票より、SSを書かせていただいております。
ご参加いただき、有り難うございました!
それは星の降る賑やかな夜が更け、真夜中が本来の静謐さを取り戻したばかりの時だった。
窓の外の森には落ちてきた星屑が散らばり、いつもよりも明るい森を僅かな風が揺らしている。
栓を開けて空気に触れさせている葡萄酒と、オーブンから出したばかりのローストビーフ。
ネアが背後で奇妙な動きをしているなと思い、眉を顰め、振り返ってからの事だった。
「……………っ、」
グラスを置きに行くついでに無言で歩み寄られて驚いたものか、ネアが、はっとしたように息を飲む。
その直後、がしゃんと音がして石床に落ちたのは、夜結晶の小瓶であった。
しまったと思い眉を寄せた視線の先で、足元を見たネアの表情が見る間に強張ってゆく。
もしこの人間を知らない者がその変化を見たのなら、怜悧な程に無表情になったと言うだろうし、シルハーンあたりが見れば、酷く動揺していると言っただろう。
ふ、と震えた目元と引き結ばれた唇から、涙を堪えたのだと気付いてぞっとした。
「……………粉々です」
途方に暮れたような声はか細く、かける言葉を誤れば簡単に扉を閉ざしてしまいそうな危うさで、ゆっくりと緩慢な仕草でしゃがみ込み、細い指を伸ばして砕けて壊れた小瓶に触れる。
「……………片付けは俺がやる。お前は、向こうに行っていろ」
「……………これは、お気に入りのお店のものをという特別な贈り物で、…………大切に使っていたんですよ。床に落として粉々にするつもりで、少しずつ使っていたのではなかったんです」
「……………ネア」
思わず名前を呼べば、その唇が僅かに歪んだ。
じわりと濡れた鳩羽色の瞳は、俯いたせいで前髪に隠されてしまう。
「完全に、私の不注意でした。だから、もう取り返しはつかない事が堪らなく悲しいのは、きっと私の我が儘なのでしょうね」
微かに震えたその声に例えようもない落胆を嗅ぎ取り、その静かさに血が下がるような感覚を覚えた。
この人間はとても身勝手で、己の心の傷を塞ぐ為に、こちらに通じる道諸共橋を落とすようなところがある。
開いていた扉をいとも容易く閉じてしまうネアは、かつて閉ざしたまま開ける事のなかった扉を恒常とした人間なのだ。
「コロールの店だな。同じものを手に入れてきてやる。…………ったく、割れた夜結晶に素手で触れるな」
「……………これは非売品のものをノアがどこからか貰ってきてくれた品物なのです。それに、アルテアさんが忍び寄ったから、驚いて落としてしまった訳ではありませんから」
「……………おい、その割には恨みがましいぞ」
「心がくしゃくしゃなので、少しばかり外的要因にも八つ当たり気味になってしまっているので、どうかそっとしておいて下さい。……………もう少しすれば、落としたのは自分ではないかと、しっかり冷静になれますから」
そう呟き、ネアは触るなと言った瓶の残骸に触れ、小さな欠片を集めようとしていた。
小瓶の中に入っていたらしいクリームは、床に無残に広がり、夜結晶の欠片が入ってしまっているので、もう捨てるしかなさそうだ。
項垂れてその光景に向き合うネアが涙を落としていそうで、小さく舌打ちすると、屈み込んでその手を掴んだ。
こちらを見た眼差しが、どれだけ打ちのめされているのかを想像していたが、これ程だとは思わなかった。
どんな生き物であれその心を揺らす要因は決して同じではないが、ネアは特に喪失を厭う傾向にある。
今回のように、大切に使っていたものを壊したり駄目にしたりすることは、この人間の心を想像以上に傷付けるらしい。
それは、もしかしたら、望んだものを殆ど手に入れられずに無残に壊されてきた人間の、切望にも似た執着の歪さなのだろうか。
「溜め込んで歪にするより、我慢がならなければ好きに暴れておけ。どうせ、クリームを塗り忘れている事に気付いて、隠れて塗ろうとしたんだろう」
「……………ふぎゅわ」
「ったく。指を見せてみろ。切ったりはしていないな?」
「……………ふぁい」
「得意用の贈答品だとしても、同じものを取り寄せておいてやる。クリームは諦めるしかないが、夜結晶は、後で錬成し直して同じような小瓶にでもするか」
「そんな事が、……………っく。出来るのですか?」
「結晶石から彫り出したものではなく、錬成で作られた瓶だからな。一度解いて、錬成し直すだけだ」
そう説明してやってもまた触れようとするので、手早く魔術で割れた瓶を集めてしまい、床にこぼれたクリームは濡らした布で綺麗に拭き取った。
上客用の試用商品だが、愛用していたらしいクリームが布の染みになる様をまた悲しげに見つめ、ネアは諦めるようにゆっくりと立ち上がった。
「……………アルテアさん。その可哀想な瓶を、もう一度瓶の形にしてくれますか?」
「ああ。食事が終わったらやっておいてやる。それでいいな?」
「……………はい。自分の不始末でもだもだしてしまい、ご迷惑をおかけしました」
「いつもの強欲さは、どこへやったんだかな」
「……………ぐむ。なぜこんな可哀想な私の鼻を摘まむのだ。今は身勝手にむしゃくしゃもしているので、その手を離さないと、アルテアさんの鼻をへし折りますよ」
小さく唸ったネアを片手で抱えると、晩餐の前に開けた喘鳴と静謐の酒で、完全に潰れているウィリアムの隣に座らせておく。
入浴中のノアベルトが余計な事をしていないか気になったが、残念ながら今は手が埋まっている。
「ウィリアム」
「……………っ、…………寝過ごしたかな」
「悪酔いも大概にしろ。……………こいつの面倒を見ておけ。いいか、くれぐれも目を離すなよ」
静かな声でそう言い含めると、さすがに異変に気付いたのか、ウィリアムがしっかりと瞼を開き、テーブルから顔を上げる。
とは言え、顔を上げてからすぐに額を押さえたので、頭痛に苛まれている筈だ。
「……………ネア?……………どうしたんだ。泣きそうじゃないか」
「……………ふぇっく」
一度落ち着いた事で、悲しみが正しく飲み込めたのだろう。
そちらは暫く任せておけると思ったところで、すっかり頭から抜け落ちていた事を一つ思い出し、不自然にならないようにオーブンの前に戻った。
「……………やれやれだな」
案の定、程良いところで取り出す筈だったパイは、生地の上につけた模様の縁が焦げてしまっている。
とは言え、その程度で料理を無駄にするのは性に合わないので、取り出したいつかの贈り物のナイフで、慎重にしっかりと黒くなった部分を薄く薄く削ぎ、火を通し過ぎて脆くなったパイ生地が少し崩れてしまったかのようにしておいた。
どちらにしても見た目は悪いが、食べる際には焦げた部分がない方が幾らかはマシになる。
ちょっとした事故があり、入浴を余儀なくされたシルハーンとノアベルトもそろそろ戻るだろう。
他の料理をテーブルに並べてしまうと、なぜかウィリアムの膝の上に座らせられているネアのところに戻る。
「準備が出来たが、その前にお前はクリームだな」
「心の傷を抉る悪い使い魔さんです……………」
「仕損じた行為で、他を欠くのはやめておけ。自己嫌悪になるぞ」
「……………むぎゅ。良いクリームがあるのなら、献上する事を許します」
「何でだよ」
けれども、漸く落ち着いて来たらしいネアを連れて隣室に向かうと、僅かに思案して一つの軟膏を魔術道具を入れた棚から取り出す。
それを見た途端、ネアの表情が明るくなった。
「お、同じお店の、お肌が艶ぷるになる薔薇の軟膏のお顔専用のものです!」
「お前が我が儘を言いかねないからと備えてあったが、妙な事で役に立ったな」
「私用なのですか?であればもう、容赦なく使ってもいいのではないでしょうか。……………むぐ」
指先で掬った僅かな軟膏を肌で温め、丁寧に肌に塗り込んでやる。
ついでに強張った眉間や口元をしっかりとマッサージしてやり、目を閉じて無防備にされるがままになっていたネアの額に、一つ口付けを落とした。
瞼を開いてこちらを見たネアの瞳には、先程の落胆の涙の名残がある。
それを押し止めるように親指で目尻を拭えば、ネアは、悲しげに鼻を鳴らしていた。
「私のせいで、……………パイも駄目になってしまったのですか?」
「……………少し焦げただけだ。パイ部分が崩れやすくなっているから、いつものように雑にナイフを入れるなよ」
「ふぁ。アルテアさんのパイが無事で良かったです……………」
神妙な様子でそう呟くネアを連れ、工房で夜結晶の瓶の再練成をしたのは、食事の後の事だった。
小さな瓶を手に笑顔になったネアを見て、密かに胸を撫で下ろしたが、ウィリアムの悪酔いや、ノアベルトの浴室での騒ぎには心から辟易とした。
今後、この二人は出来るだけ屋敷に入れないようにしようと思いつつ、通信の先の部下達にネアが持っていたクリームを入手するよう伝えておいた。
ネアは、貰ったクリームを落として駄目にしてしまったことをノアベルトに詫びていたが、そのノアベルトやシルハーンに慰められ、また少し落ち着いたようだ。
再錬成した夜結晶の小瓶には、幾つかの選択肢から選ばせ、作業用に作り置いてあるヴァーベナのクリームを入れてやった。
素手で触れなければならないが、指先を損なう魔術素材は幾らでもある。
どうせ作業が終わるまではその状態が続くので、作業中の半日の間に家事などをする際には、クリームを使う事もあるのだ。
「私の宝物が、生まれ変わって戻ってきました」
嬉しそうに微笑むネアを見つめ、やれやれと肩を竦めた。
パイを焦がした事など初めてだったが、この人間がおかしな荒れ方をしなかっただけ、今夜は運が良かったと思っておこう。
(さて、また潰れ直したウィリアムをどうするかだな……………)
そして、ノアベルトには運試しの酒壺を二度とこの屋敷に持ち込まないよう、誓約を取らなければならない。
その二人を屋敷に近付けないようにするつもりだったが、その術式だと有事の際に障害になる可能性もある。
「寝る前のおやつは何でしょう?」
「…………軽いものにしておけ。ゼリーかシャーベットくらいなら作ってやる」
「むぐぐ、何という難しい選択なのだ」
夜は真夜中に差し掛かる頃合いだが、星の雨で夜が長くなる今夜は、まだまだ夜が続くことになる。
小さく唸ったネアがしっかりと握りしめている夜結晶の小瓶を見ると不思議な満足を覚え、薄く微笑んだ。




