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ムゲの悪夢と夜告げ草の花畑



ごうごうと悪夢が唸る。

強い風が吹き荒れ、窓枠はがたがたと音を立てた。

美しい石造りのインク屋の周囲に植えられた灌木が大きく揺れ、花壇の花から花びらが千切れ飛ぶ。



あの後、アルテアの予想通りに、ムゲの教会の崩壊で発生した悪夢は厄介な変化を遂げた。

気象性の悪夢にはその大きさごとに階級があり、ネアは以前に最も大きいとされるハイダットの悪夢を体験している。


今回の悪夢は突発的な発生だったこともあり、リリットと呼ばれる最小規模だった筈なのだ。

しかし今、そのリリットの悪夢はハイダットに変化していた。



その上、魔術的な天候異変にありがちなことで、ひどく不規則な形で渦を巻いているらしい。




「ここは、悪夢の真ん中なのでしょうか?」

「悪夢が明けたように見えても、決して窓を開けるなよ。階位飛ばしの魔術異変は、そのような油断で多くの死者が出る」

「ザハのホテルに泊まるのは、夏夜の宴以来です。………本物のザハではなかったので、初めてと言うべきかもしれません」

「相変わらず、シルハーンは対岸のままか」



タオルで髪を拭いているアルテアに、ネアはこくりと頷く。



からんからんと、通りを何かが転がってゆく音がして、一際強い風が、またごうっと吹き抜ける。


実は先程、ネア達はとんでもない災難に見舞われたばかりで、ずぶ濡れになったアルテアはこれからお風呂である。



(まさか、悪夢が突然育つとは思わなかったな…………)



ネアは今日、ディノと一緒に、市場の蜂蜜クリームチーズを食べに行く予定だった。

しかしそこに、突然の悪夢の発生警報である。


ムゲの教会はウィームから離れた場所にあるが、魔術異変からの荒天で発生する悪夢は、荒れ狂う雲や風に流されるので、核が生まれる位置がずれるのだそうだ。


おまけに、今回はノアが対処出来ないものだった。

その結果、ネアとの相性が宜しくない悪夢の経路を変える為に、ディノは、ネアをグレアムのいるザハに預けて悪夢に向かってくれている。


そのザハのティールームで失礼な客人に絡まれたネアの為に、グレアムがアルテアを呼んでくれたのだが、今となってはそれが幸いとなった。



きっと、悪夢の中でネアが一人でいたら、ディノは無理をして戻ろうとしただろうし、グレアムにも迷惑をかけたかもしれない。



「………この様子だと、晴れるのは明日だろうな」

「むむぅ。やはり今夜は、リーエンベルクには帰れないのですね」

「ザハで幸いだったと思うべきだ。宿泊用に整えられていない施設だとしたら、遮蔽の出来る併設空間を備付けるにせよ、不特定多数の目に晒されただろうからな」

「美味しい晩餐もいただけますしね!」

「やれやれだな……………」



悪夢の定着が済んだ後、ネアをリーエンベルクに送ってゆく為にザハから連れ出そうとしたアルテアは、突如として変化した悪夢の揺らぎに押し戻され、おまけに土砂降りに見舞われてしまった。


激しい雨は悪夢が歪に育った事で吹きすさぶ嵐が降らせたのだが、悪夢の階位が上がる瞬間にだけ生まれるものなのだそうだ。



(でも、本来の気象性の悪夢は、発生してから徐々に解けてゆくものなので、そのような嵐に出会う人は稀なのだとか)



この悪夢は階位を上げると予想していたアルテアも、その成長がここまで早いとは思っていなかったらしい。

定着を待ちザハを出ようとしたのだが、定着した途端に階位を上げた悪夢の影響に直撃され、ネア達は這々の体でザハに戻ることになった。


もしザハから一歩踏み出したのが、今回の悪夢との相性のいいアルテアでなければ、ザハ側の遮蔽も含め、一緒にいたネアも無事では済まなかっただろう。


悪夢の変化を読み違えはしたものの、アルテアは、一歩目で空気の変化に気付き、ネアを遮蔽結界の中に押し戻す事もしてくれた。


その結果、アルテアだけがずぶ濡れになってしまったのだが。



入浴するのでと、魔術でしゅんと乾かすのではなくタオルを使っていたアルテアは、同室にいる淑女の事を忘れてしまったのか、シャツまで脱ぎ始めてしまっている。


とは言え今回は状況が状況なので、ネアもさして気にせず、びしゃびしゃのシャツは洗い物籠に入れるのだなと頷くばかりだ。



「アルテアさん、お風呂の間は、浴室の扉を開けておいて下さいね」

「お前の情緒は減る一方だな」

「なぬ。なぜなのだ。分断されて一人で悪夢に迷い込むのはご免なのです…………」

「何なら、一緒に入るか」

「ちびふわをお風呂に入れられるのであれば、吝かではありません!」

「やめろ……………」



悪夢というものの影響は、遮蔽の中にも薄く忍び寄る。

そんな心を持ち上げる、もふもふふかふかが出来るのだろうかと目を輝かせたネアに、アルテアは顔を顰めて浴室に隠れてしまった。



ざあっと浴室のシャワーからお湯が出る音と、窓の外の悪夢が降らせる豪雨の音が重なる。

闇が晴れて見えていた景色が、またゆっくりと翳り始めると、ネアは小さく身震いして窓から離れた。



(ディノは、怖がっていないだろうか……………)



こちらは、同じ建物内にグレアムもいるし、右隣の部屋はミカで、左隣の部屋はバンルという万全な体制である。


幸い、嵐を伴う悪夢に成長したからと、ディノはヨシュアに調整を頼んでいるようだ。

頼りになるノアが一緒ではなくても一人ではないし、ネアはこんな時の伴侶の側にいて欲しい魔物の一人として、ヨシュアならとも思う。



“でも、大切な魔物が心配なのです。ディノ、怖くないですか?”

“ネア、君は怖くないかい?………こちらは、悪夢が半分しかかかっていないからね。あまり影響も出ていないようなんだ。………アルテアが君の側にいてくれて良かった”

“私はディノが心配なばかりなので、大丈夫ですよ。そして、私の大事な魔物のいる場所が、少しだけでも晴れていて良かったです!イーザさんも一緒なので心強いですが、きちんと晩餐をいただいて、夜は眠れるだけ眠って下さいね”

“うん………。君は眠れそうかい?”

“ええ。アルテアさんがいてくれるので、きっと。……………くれぐれも、無理をしてこちらに来てはいけませんからね”

“虐待する……………”



その返事を読み、ネアはむむっと眉を寄せた。


不穏な気配を察知したので、このまま放置は出来ないと厳しく頷き、素早く、けれども魔物が荒ぶらないように言い含められる言葉を並べた。


窓から離れたネアは、座っていた椅子を引き摺って浴室の前に陣取っているのだが、浴室の扉に取り付けられた結晶石の魔術が湯気をあまり通さないので、扉が開いていても、背中が湯気でもわもわする事はない。



“ディノ、今回の悪夢は動きが不規則で厄介だと言うことですし、無理をしなくてもいい時に無理をしてはいけませんよ。ディノがこのような時にぐっと堪えてくれたら、私もとても危険な時には容赦なくディノを呼びますから”

“ずるい……………”

“ええ。人間はとても狡猾な生き物なのです。そして私はディノが大好きなので、もしディノが無茶なことをしてしまったら、錯乱して悪夢の中にディノを助けに飛び出してしまうかもしれません”

“………イーザもそのように言うんだ”

“ふふ、さすがイーザさんです!”

“イーザなんて……………”

“あら、私がイーザさんが頼もしくてほっとしているのは、大事なディノの側にいてくれているからなのですよ?”

“ずるい…………”



水紺色の瞳を揺らすディノの表情が見えた気がして、ネアは微笑んだ。

撫でてやりたいが、ここからでは手が届かない。

また窓を揺らした悪夢を恨めしく思いながら、そんなむしゃくしゃを、晩餐でいただける鴨肉を思い何とか宥めた。



(割れ嵐の時のように、コロッケで鎮められたらいいのにな……………)



そう考えて、ふと背後が気になった。

浴室はいつの間にかしんと静まり返っており、ネアは俄かに不安になる。


扉が開いているのに、水音一つしないというのは流石におかしいのではないだろうか。


一度そう考えてしまうと次から次へと良くない想像をしてしまうのを知っているネアは、やり取りを終えたカードを金庫にしまうと、すっと立ち上がった。


ホラーな展開の時はわざわざ確認しに行く愚行を犯すつもりはないが、このような時はずばんと確認してしまう派である。

特に今回は、悪夢が来ているので、不安を育てて悪夢を呼び込みたくはない。



そしてネアは、若干大雑把な人間らしい無頓着さで、開いた部分を覗き込まないと中が見えないように角度をつけてあった浴室の扉を、ドアノブを掴んでぐいっと開いてみた。



「……………っ?!」



怖い物語の展開のようにそこは無人だったと言うこともなく、ただ湯船に浸って考え事をしていただけだったらしいアルテアがぎょっとしたようにこちらを見る。


残念ながら、魔術仕掛けで湯気や水飛沫を防ぐこちらの世界には、お洒落で取り付けない限りはシャワーカーテンなどはないのだ。



「……………うむ。音がしないのでひやりとしましたが、存在確認をしました」

「……………声をかければいいだろうが。お前の情緒は空か!」

「そして、このくらいの肌色感は大浴場で見ているので、今更なのです。では、お騒がせしましたが、ゆっくりお風呂に入って下さいね」



さすがにアルテアはきゃっとなったりはせず、いきなり人間に浴室を覗かれても比較的落ち着いていた。

僅かな驚愕を見せたものの、その後は呆れたようにこちらを見るばかりで、扉を開けた時と姿勢を変える事もない。



なのでネアはそのまますっかり忘れてしまい、そう言えばザハのお部屋には素敵な紅茶があるのだと、そちらの発掘にかかりきりになっていた。




「……………むぐ。なぜ、湯上りの使い魔さんに虐められているのだ」

「いいか、何の為に扉を開けてあったと思ってるんだ。いきなり扉を引く前に、どうして声をかけられなかった」

「む、むぐぐ、鼻を摘まむ悪い魔物です。その手を離さないと、二人分淹れようとしていた紅茶を一人分に削減しますよ!」

「まさか、スノーや夏夜の宴の時もこんな状態だったんじゃないだろうな?」

「唐突に、過去に言及されましたが、その時には同室の方の浴室を訪問する理由はありませんでした」

「その空っぽの情緒で、お前が良しとした範囲がどれだけのものかだな………」

「か、空っぽなものですか!私とて、季節の花や季節の食材を愛でる心は持ち合わせていますし、美味しい季節の味覚を楽しむ第一人者だと自負しております!」

「よく考えてみろ。その例えからしても、ひと匙の情緒もないのが分かるだろ」

「…………む?」



ネアは、美しいものと美味しいものを愛でる以外の情緒とは何だろうと首を傾げてしまい、いっそうに呆れ顔になったアルテアは鼻から手を離してくれた。


何かをぶつぶつと呟いているが、ここは湯冷めしない内に、上に何か着るべきではないだろうか。

そう考えかけ、ネアははっとした。



「……………アルテアさん、もしかして……………」

「…………何だ?」

「パジャマがなくて、着るものがないのですか?」

「何でだよ」

「………ほわ、違うのですか?」

「この時間から、ましてや悪夢の変化が進んでいる中で、それに着替える訳がないだろ」

「むむぅ。確かにお部屋に食事を持ってきていただくので、きっとその時に顔を出してくれるであろうグレアムさんに、お気に入りのパジャマで会うのは恥ずかしいかもしれませんね」

「よし、お前はもう黙れ」

「解せぬ」



グレアムにパジャマで会いたくない事を見抜かれて恥ずかしかったのか、なぜかつんつんし始めた魔物はそっとしておく事にして、ネアはまた少しだけ明るくなった窓に近付こうとした。



しかし、二歩も歩かない内に、背後から伸ばされた腕にしっかりと抱き込まれてしまう。

じたばたしたネアを、アルテアはそのままひょいっと持ち上げてしまい、窓から離れた長椅子に設置するではないか。



「ぎゅむ。なぜ、後ろから捕獲されたのだ」

「忘れているようだから重ねて言うが、悪夢が揺らいでいる時には、その境界には不用意に近付くな」

「…………ほんの少し外が明るく見えたのですが、また少しだけ、晴れ間が覗いているのではないのですか?」

「魔術の動きを見れば、悪夢の真っ只中だと………そうか、お前は見えないな」

「……………私の、上品で親しみやすい可動域を虐められています」



あまりの仕打ちにへにゃりと眉を下げたネアに、アルテアはわざとらしく溜め息を吐いてみせる。

それなのに、か弱い人間なりの精一杯の抵抗で、まだ紅茶を注いでいなかったカップを視線で指してみせる、とても我が儘な魔物ではないか。



「おのれ、これはもう、デザートの胡桃とキャラメルのタルトを味見させて貰う事でしか許しませんよ!」

「やれやれだな。…………おい、やめろ。つつくな」

「むぐぐ。攻撃を加えても、お腹がびくともしません!」

「攻撃なのかよ」

「は!アルテアさんの場合は、尻尾の付け根が有効……………?」

「それを本気でやるつもりなら、俺なりの方法でお前に情緒を教え込む事になるぞ。幸い、この夜いっぱいは隔離されているからな」

「なぜこちらの問題も情緒区分なのだ。たいへん謎めいています……………」




ネアは、魔物にとって情緒とは何なのだろうという大きな謎を抱えてしまったが、きちんと服を着たアルテアがどこからともなく取り出した書類で仕事を始めてしまったので、心置き無く考えてみる事にした。


しかし、コツコツとノッカーの音がして、ザハの従業員が食事を運んで来れば、ぱっと顔を輝かせてそんな問答はぽいしてしまう。



淡い金髪の青年が押して来た森結晶と花楓のワゴンには、水晶の覆いをかけられた美味しそうな食事が並んでいる。

特に、白磁に繊細な絵付けのあるお皿の上には、秋らしい彩りの付け合わせに、黒すぐりと梨のソースを添えた鴨が鎮座しており、ネアの心を素敵に騒がせた。


びょいんと小さく弾んだネアに、ワゴンを押す青年の後ろから現れた、いつものおじさま給仕が優しく微笑んでくれる。



(あ、……………こうして微笑むと、造作や瞳の色が違っても、グレアムさんの微笑みだわ……………)



そんな小さな発見にも贅沢な気持ちになり、ネアは、後でディノに教えてあげようと嬉しくなる。



「窓の外は生憎の荒れ模様ですが、ご不便等ありませんか?」

「はい。それどころか、ザハの素敵な客室でぬくぬくしています」

「ご安心いただけているようで、ほっといたしました。……………こちらの銘柄で宜しいでしょうか?」

「ああ。シュタルトの湖水メゾンだな、それでいい」

「むむ、葡萄酒はシュタルトのものなのですね。そのメゾンの白はどれもとても美味しくて、すっかり大好きなのです」

「おや、ではお連れ様は、それをご存知だったのでしょう」

「ふふ、そうかもしれません。アルテアさんも、湖水メゾンの甘めの白が大好きなのですよね?」

「甘めの……………?」

「後はこちらでやる。戻って構わないぞ」



選択の魔物の嗜好が意外だったのか、目を瞠った給仕姿のグレアムに、アルテアはぞんざいに手を振った。

甘めのお酒なので小さな瓶のシュタルトの葡萄酒だけでは足りないと思ったものか、水のように透明なお酒の入った見慣れない瓶も頼んでいたようだ。



「こちらは、嵐と雨のお酒なのですか………?」

「御誂え向きだろ。ロクマリアの酒だが、多く出回った割には出来がいい」

「ラベルの絵がとても素敵ですね。これも甘口なのでしょうか?」

「お前の口には合わないだろうな」

「むぅ……………」



勿論、ネアはそのお酒もいただいてみたが、アルテアの言う通り、シュタルトの湖水メゾンの葡萄酒に勝るものではなかった。


からりとした鋭さの残る辛口の蒸留酒で、嵐という名前が付けられているだけあり、かなり強いもののようだ。



「コルヘムとどちらが強いのでしょうか?」

「コルヘムは、通常の酒では酔えない者の為の酒だ。あれと比べるな」

「ほわ、専用の小さなグラスに、稲光が走りましたよ!」

「純度の高い嵐から醸造したものだからな。満月の夜にかかる嵐から降る雨と、嵐そのものから作る事で雷を蓄えるらしい」



飴色の一枚板のテーブルの上に、嵐と雨のお酒専用の小さな雷鳴水晶のグラスが置かれていた。

とぷりと注がれたお酒の表面に雷光が煌めくのはとても不思議で美しい光景で、こんな悪夢の落ちてきている夜の薄暗さの中で、青白い光をぼうっと浮かび上がらせる。


前菜の干し鱈とトマトの冷製をはむりといただきながら、ネアは、そんなグラスの美しさに唇の端を持ち上げる。


トマトの上にしゃりしゃりと乗っているのは、月帽子という初めましての野菜の蜜果実なのだそうだ。

小さなビーズのような蜜粒が、干し鱈の塩気とトマトの爽やかさを上手く纏めてくれてとても美味しい。




どおんと、どこか遠くで巨人の足音のような響きが聞こえた。



ちょうど風の音が和らいでいた時だったので、ぎくりとしたネアが窓の方を見れば、アルテアがくすりと魔物らしい酷薄な笑みを浮かべる。



「頭も技量も足りていなかった誰かが、魔術書の扱いに仕損じたな。ウィームに、ここまで変則的な悪夢の中に自ら出ていくような愚か者はいない。恐らくは、他国から来ている商人あたりだろう」

「商人さんだというところまで、分かってしまうのですね………」

「あの音は、悪夢の魔術収集をしようとしていた魔術書が破裂した音で間違いないだろうからな。魔術師達は、己の魔術書を悪夢に晒すような扱い方はしない。羞恥もなくそれをやってのけるとしたら、売り物の魔術書を持つ商人くらいだろう」


魔術書本来の系譜のものではない障りや祟り、そして悪夢や蝕で魔術書を満たす行為は、魔術師達にとっては下賤の振る舞いであるらしい。

所持している大事な魔術書に、自ら悪変の資質を招き入れる事は好まないのだそうだ。


もぐもぐしながら、破裂した魔術書はどうなってしまうのだろう、粉々になるのかなと首を傾げていると、ついつい難しい顔になってしまったらしい。


すいっとフォークが差し出され、ネアは目を瞬いた。



「無花果ハム様!」

「少し気鬱にはなるだろうが、それ以上の侵食は起こらなさそうだな。一晩ぐらいは我慢しろ」

「……………むぐ。無花果とハムは最高の組み合わせですね」

「ったく。不安になったり、機嫌を持ち上げたり、忙しい奴だな」



差し出されたフォークからぱくりといただき、ネアはこちらのお皿にはなかった味覚に頬を緩める。



(もしかして、不安になっていると思われてしまったのだろうか……………)



どうやら選択の魔物は、ご主人様が破裂した魔術書の欠片が紙吹雪のようになりはしまいかと考えていたとは思っていないようだ。




とろとろとぷんと夜が更けてゆく。



奇妙な表現だが、この悪夢の夜は黒い黒いインクの中に沈められたような暗さと粘度があり、けれどもどこか澄んでいた。


あまり多くの事を考えて煩わされないように寝てしまえと早々に寝かしつけられ、明るくては眠れないと思ったものか、アルテアも室内灯を消す。




(星空の下にいるみたいだ……………)




このような夜なので、起きていられる限りは悪夢を見張っていようとしたのに、寝台に入れられぐるると唸っていたネアがすとんと眠ってしまったのは、ネアの寝台の端に腰掛け、額に手を当ててふっと微笑んだアルテアが、何かの魔術をかけたのかもしれない。



そうして、どれくらい眠っていたのだろう。




真夜中にふと目を覚ますと、窓から銀色の光がこぼれていた。



ぼうっと明るく光るのは、馥郁たる夜の光。

ネアは胸の底に沈み込むその煌めきと青さに心を打たれてしまい、そろりと体を起こすと窓の方へ身を乗り出した。



(あ、……………)



アルテアとは同じ寝室の筈なのだが、窓側の寝台は空っぽに見える。

そして、窓の向こうには不思議な不思議な銀白の花畑がどこまでも続いていた。



(綺麗……………)




「ウィーム、じゃない……………?」




切り立った山々がその向こうに控え、花畑の向こうには目を瞠る程に青い湖が見える。

雪を這わせた山肌はひたむきな美しさで、輝く花々を守るように佇んでいる。



(ああ、外に出て、あの湖の畔に行きたい…………)



その願いは切実な程で、ネアは焦がれるような切なさに胸を押さえた。




そうだ。

ずっとどこかに行きたかった。

どこか、美しく胸の中を澄み渡らせるような、そんな素敵な場所に。



どうしてだったのかは忘れてしまったものの、それでも外に出てはいけないという心の枷は残っていて、ネアは、きりりと痛む胸を押さえてせめて窓辺に立っていようと考えた。


この美しい景色を、少しでもしっかりと目に焼き付けておきたかったのだ。




「ネア」



けれども、不意に誰かから名前を呼ばれ、ネアはのろのろと振り返る。

そこにいたのは、赤紫色の瞳を眇めたアルテアだ。



手首にするりと巻きつくものがあり下を見れば、伸ばされた手がネアの手首をしっかりと掴んでいた。




「あれは、幻惑や悪夢の中にだけ咲く、白銀の夜告げ草の花だ。隠された切望と、破滅や死に至る願いを映して獲物を呼び寄せる」

「……………夜告げ草………」



アルテア曰く、窓からの景色こそが、今回の悪夢の核なのだとか。

獰猛に捻れた苦しみを想像していたが、あまりの美しさに驚いてしまう。



「お前は終焉の子供でもあるからな、それ以上窓辺には近付くな」

「……………窓のところから見るだけでも、良くないものなのですか?あんなに綺麗なのに」

「そう思うなら、今夜は手放せないな。夜が明けて、その心を持ち去られていたら流石に割に合わない」

「割に合わない、のですね…………」

「何の為に、今夜の商談をナインに任せてきたと思ってる。いいか、俺との契約を損なうような真似はするなよ?」

「……………む」



ひょいと抱えられ、ネアはもう一度寝台に戻された。

そして今度は、なぜかアルテアも一緒に同じ寝台で眠るようだ。



「アルテアさんなのに、パジャマではありません…………」

「お前が、また事故る可能性があるのにか?」

「そして何故、こちらの寝台なのですか?もう一つの寝台にお帰り下さい」

「ふらふらと夜告げ草に魅了されかけておいて、我が儘を言うな。………死に至るような願いは、眠りの淵程にその願いが深くなる。お前は、情緒は皆無のくせに、妙なところで影響を受けやすい」

「……………個別包装がいいです。せめて、綺麗な景色を見ながら眠ろうかと…」

「それでも引き摺られ過ぎだ。……………ったく。他の事に意識を向けておけ」



ふっと落とされた口づけには、どこか獣の所有欲にも似た鋭さが滲んだ。

淡い吐息の温度に、ネアはなぜかこの状況で少しだけくしゃみがしたくなる。

むずむずする鼻を宥めていたら、少しだけ奇妙な切望が収まった。



「……………では、食べたいものの品名を、延々とアルテアさんに語りかけるのはどうでしょう?」

「情緒が空にも程があるな」

「解せぬ」

「……………さっさと眠れ。夜が明ける頃には、悪夢も晴れるだろう。離別や決別の選択を孕んだ悪夢なんぞに、お前が触れる必要はない」



(ああ、そうなのか……………)



だからこの悪夢は階位を上げたのだと、ネアは思い知らされた。



避難場所になっていた教会に入った女達は、逃げ込めた安堵こそあれ、元の場所に帰りたいとは思わなかっただろう。


けれども、そこに降り積もった苦しみや悲しみが離別や決別に紐付くなら、統一戦争で多くのものを失ったウィームの土地からも、違う形の同じ多くの悲しみを吸い上げたのかもしれない。



(私も、大切なものを沢山取られてしまった事があるから…………)



アルテアの体に隠されるようにした窓の向こうにちらりと見えた銀白の花畑に目を凝らせば、さわさわと温度のない風に揺れるような花々には、やはり触れたいと思った。



「お肉の入ったパイが食べたいです」

「やれやれだな」

「じゅわっとごろごろ肉のものと、とろりとシチューなどが絡んだものとでは違うのですよ。私はどちらも好きなので、この二つを決して一緒にしてはなりません」

「……………続ける気か」

「なお、果物のパイはその甘酸っぱさが勝つものと、甘さでいただくものがあり……………」

「おい、いい加減にしろ。おかしな気持ちになる」

「むむ、さてはパイを作りたくて堪らない気持ちに………」

「何でだよ。これまでに聞いた中でも、最低の睦言だぞ」

「では、おかずパイについて………」



アルテアがかなりげんなりしていたが、心の中で揺れている夜告げ草の花の美しさを搔き消すには、他の欲求を司るものでなければと、なぜだか強く思ったのだ。





「あ、……………」




瞬きをすると、ネアは、その花畑の真ん中に立っていた。




(いや、これは夢だ……………)



けれども、肌に花が触れる感覚はとても生々しく、甘い香りに少しだけくらくらする。

これはまずいぞとひやりとしたネアは、咄嗟に心に浮かんだ言葉を大きな声で叫んだ。




「私はもう、満腹で幸せです!お腹いっぱい食べました!!」




その途端、ぱちんと夢が弾けた。

ネアがいるのは元の寝室で、隣には目を閉じて顔を顰めたアルテアがいる。



「……………ほわ。難を逃れました。もしかして私は天才……………?」

「ほお、よりにもよってこの距離で、突然叫ぶ言葉がそれなのか……………」

「なぬ、なぜ怒っているのだ。起きていたのなら、ここはもう、良くやったと褒めて下さい」




ネアは、なぜかアルテアに色々叱られてしまったが、しょんぼりして見た窓の向こうは、元通りの静かな暗闇に包まれていた。


あの美しい花畑と冠雪の山々はどこにもなく、指先を浸してみたいと思った青い湖もない。




その後、なぜか悪夢は急速に勢力を弱め、階位を再びリリットに戻したようだ。


ネアとしては、今回の悪夢を倒したのはきっと自分であるという誇らしい気持ちでいたが、実際には、シヴァルとその一族の者達が鎮めの舞などで悪夢の階位を引き落とす儀式をしたらしい。



仲良く雑魚寝するのでもなく、甘やかに共寝するのでもなく、犯人を取り押さえるような姿勢で使い魔と眠る羽目になったことはたいへん遺憾であるが、その夜を無事に乗り越え、尚且つザハの朝食も忘れずにいただいたネアは、翌朝、大切な伴侶の迎えに笑顔で手を振ったのであった。





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