予防接種と無花果のタルト 1
「ネア、……その、……本人も納得済みではないんだな……………」
「ウィリアムさん、これは未来を賭けた壮絶な戦いなのです。そして、あの尻尾は偽物なのですよ」
「……………うん?………偽物なのか?」
「はい。アルテアさんは、冬毛になるのが早いなと呆れ顔ですが、あのふさふさ尻尾は、魔術でずるをして夏毛を通らずに今に至るのです。狐さんも、自慢の尻尾が可愛いの武器だと自分で理解しているのでしょう」
「……………ノアベルトが」
「むむ、ウィリアムさんの反応が、ディノのいつもの反応と同じものになりました」
その日、リーエンベルクの出発前控え室で、ネアは起きてきたばかりのウィリアムと寄り添い、柱の影から銀狐を監視していた。
朝食の時間からは少し経っているのだが、ウィリアムは、今朝は少し朝寝坊して軽めの朝食を食べたばかりである。
昨晩の夜会が疲れたのかなと心配していたネアに、ふっと微笑んだウィリアムは、リーエンベルクに来ると安心してぐっすりと眠ってしまうのだと教えてくれた。
「あまり格好のいいものではないからな。秘密にしておいてくれ」
「そう聞いてしまうと、このお家に暮らしている私は嬉しいばかりなのですが、秘密なのですか?」
首を傾げてそう言えば、ウィリアムは小さく笑って人差し指をネアの唇に当てる。
無防備な状態になるのが気になるのかなと思ったネアは、素直にこくりと頷き、二人の秘密として胸にしまっておくことを誓った。
枕を安眠枕に変えた事は秘密なので、それ以外の目的で終焉の魔物の寝込みを襲う事はないだろう。
終焉の魔物がリーエンベルクで安らぎを得ていることは、ウィリアムに憧れがあるエーダリアだけではなく、そんなエーダリアと共にこのウィームを守れるようになったヒルドも密かに喜んでいる節がある。
(大事な大事な、宝物のような場所だから………)
だからこそ、ウィリアムがリーエンベルクを気に入っている様子を見ると、誇らしいような気持ちになる。
ここが家族しか住まないような普通の邸宅であれば、ちょくちょく遊びにきてしまう友人に気を遣うこともあるかもしれないが、リーエンベルクは何棟もの壮麗な建物が連なる、元は王宮だった場所だ。
これだけ広いと、親しい者であればという前提はつくものの、一人二人が増えるくらいは気にならないのかもしれない。
ますます大きな家族のようになってきたとご機嫌になりかけ、ネアははっとすると、ぴしゃりと背筋を伸ばした。
本日のネア達には、とても重要な任務がある。
疑惑の冬毛から今年の冬毛に隠密に移行しようとしている銀狐を、予防接種に連れて行かなければならないのだ。
だからこそ、諸事情から昨晩はリーエンベルクに泊まったウィリアムも、その任務に立ち会う羽目になってしまっているのである。
意外に早起きな選択の魔物と違い、こちらの終焉の魔物はお昼まででも眠れるノアと同じタイプであるらしい。
無駄に早朝から起きて鍛錬でもしていそうな爽やかな騎士風の見た目に反して、まだ少しだけ眠たげなのがどこか無防備だった。
なお、ネアはウィームとリーエンベルクがここまで素敵な場所でなければ、午後までも寝汚く寝台にいられる怠惰な人間なのだが、こちらの世界が朝から無駄なく楽しみたい煌めきに満ちているので、結果的にずっと規則正しい生活をしている。
「そう言えば、シルハーンはどうしたんだ?」
「…………実は昨晩は珍しく一人の時間があったので、私は、こちらに来たばかりの頃に見ていたご挨拶全集を読んでいたのですが……」
「おっと、そんな本があるんだな……………」
「はい。ウィームでは、唇への口付けが家族相当の祝福であるとか、後ろ向きにぴょんと飛ぶのは妖精お断りの意思表示だとか、そのようなものをまとめた本なのですよ」
「となると、それを読んでいて、……………ああなったのか?」
「……………実はそうなのです」
ウィリアムがちらりと見た先には、何とかこの部屋までは付いて来てくれたものの、長椅子の上に横倒しになったまま事切れているディノがいる。
ネアは悲しい目でそんな伴侶を見つめ、うっかり引き起こしてしまった悲惨な事故について語り始めた。
「口付けによる祝福と、口付けの意味の章を読んでいたところ、後ろからうなじに口付けるのは、ずっと一緒にという意味だと知ったのです。となると、ディノにはしておかなければなりません」
「成る程。それでシルハーンは動かなくなったのか」
残酷な人間に背後から近付かれ、よいしょと髪の毛を持ち上げられて突然うなじに口付けられた魔物は、ぼぼんと赤くなるとそのまま儚くなってしまったのだ。
なぜそんなことをしたのかを説明する前に力尽きてしまったので、最期の言葉はずるいの一言であった。
最期の力でこの部屋までは一緒に来てくれたのだが、廊下で会ったウィリアムが心配してくれるほどに、よろよろふらふらしており、漸く辿り着いた長椅子でぱたりと倒れたのである。
(でも、ディノが儚くなってくれたお陰で、何かの気配を感じていた狐さんが、いつもの日だと思ってくれたのは良かったのかも……………)
「……………ウィリアムさん?」
「いや、いい祝福だなと思ったんだ。ネアが一人でどこかにはぐれないように、俺からもその祝福を贈っておこう」
「……………む、むぎゅ。なぜだか猛烈に恥ずかしいのです。それともこれは、誰かに背後に忍び寄られる事への防衛本能なのでしょうか……………」
ふ、と笑ったウィリアムが体を屈め、大きな手で髪の毛を持ち上げると、ネアのうなじに口付けを落す。
その甘さと優しさにネアはどぎまぎしていまい、首筋に触れた温度にびくりとすると、ウィリアムが微かに微笑む気配があった。
(でも、ウィリアムさんがせっかくこうしてくれたのだから………… )
こうなると、ネアも、ずっと一緒にという口付けをウィリアムに返さなければなるまい。
しかし、ネアが凛々しい眼差しでウィリアムの肩をがしりと掴むと、なぜか終焉の魔物は視線を彷徨わせた。
緊張しているウィリアムのうなじに口付けを落とすのは、どこか背徳的な趣きであったが、これは正統なる仲良しの証である。
ぜいぜいしながらそれを終え、はっとしたネアは、今日の任務がウィリアムにずっと一緒にの口付けをする事ではなかったのだと思い出した。
(予防接種!今日の任務は、予防接種だった……………)
銀狐本人はどうしているかと言えば、朝一番で颯爽とリーエンベルクに現れたアルテアに、丁寧にブラッシングされて気持ち良さそうにしていた。
しかし、野生の勘が働くものか、時折不審そうな目をして周囲を見回すのだから、実行班はひやひやしてしまう。
今も、すっと瞳を細めて用心深く周囲を見回し、世界の全ては敵であるという猜疑心まみれの暗い目をしているではないか。
幸いにも、銀狐のそんな様子に動揺する事もなく、アルテアは専用の換毛期用ブラシで銀狐をブラッシングしてやっていた。
しかしこちらは、そこにいるのが塩の魔物なのだと知らず、随分早く冬毛になったなと呟いているので、普通の狐に見える銀狐が、魔術で疑惑の冬毛を維持していたとも知らない、とても不憫な選択の魔物である。
つまり、その光景を見守るネア達の心は、あまりのやるせなさに千々に乱れるのであった。
「……………あの瞳を見ても、ノアベルトだと気付かないんだな」
「ノアの擬態魔術が、完璧過ぎるようなのです。ディノも、最初の頃は気付かなかったみたいですし……………」
「最初の頃は、確かに俺も普通の狐だと思っていたんだが、……………数ヶ月もすれば、ノアベルトだなと察したんだが……………」
珍しくウィリアムも口籠ってしまうので、やはり選択の魔物と塩の魔物な銀狐の問題はとてもデリケートなものなのだろう。
けれども今日は、そんな銀狐に、予防接種を受けさせなければいけないのだ。
アルテアに丁寧に梳かして貰い、ご機嫌で尻尾を振り始めた銀狐は、ここですっと立ち上がり物陰から姿を現したネアにも尻尾を振った。
ぶんぶんふさふさとした尻尾が、ネアの手にしたリードを見ていっそうに振り回される。
銀狐のムギムギの足踏みに微笑み、ネアは予防接種などというものを微塵も感じさせない朗らかさを装った。
「狐さん、アルテアさんと無花果のタルトを食べに行くのですが、外のテラス席のあるお店なので、そこまで一緒にお散歩しませんか?」
「……………おい待て。それはいつ決まった」
「たった今です?………ウィリアムさんもご一緒しますか?」
「……………そ、そうだな」
「ただ、少し歩くので、お疲れであればお部屋でごろごろしていても………」
「いや、………シルハーンの様子も心配だし、俺も行こう」
「おい、勝手に増やすな」
「むむぅ。ほんのりひやりの気温もちょうどいい季節ですし、みんなでお散歩するのはきっと楽しいですよ」
かくして、今年の銀狐予防接種は、高位の魔物の揃い踏みとなった。
直前までの疑い深さはどうしたものか、ご機嫌で尻尾を振り回し連れ出されてゆく銀狐を、エーダリアやヒルドがそっと見守っている。
ウィリアムに助けられてよろよろ歩くディノもいるので、何とも奇妙な一団に見えるのだろう。
外に出て並木道の木々を見上げると、陽光を透かした葉っぱが鮮やかに煌めく。
暗さと明るさのコントラストが美しく、枝の上には小鳥が羽を休めていた。
枝には見事な赤い実をつけた蔓苺がかけられているので、そんな収穫を運ぶ途中らしい。
ムギムギと歩く銀狐のリードを持ったネアを先頭に、予防接種会場誘導部隊はウィームの街に向かう。
ネアの隣はアルテアで、銀狐のもふふかのお尻を楽しめる後方には、ディノとウィリアムが配置されていた。
(あ、……………!)
並木道も半分くらいきたところで、ネアはきらりと光るものを落ち葉の中に見付け、素早くしゃがみ込んで拾い上げた。
銀狐も興味津々なのか、ふんふんと顔を寄せて覗き込むので、ネアはついでにそんな銀狐の胸毛をもふもふしておく。
「むむ、団栗です!」
「いや、おかしいだろ。何で黄金なんだよ」
ネアから銀狐のリードを引き取りながら、呆れ顔になったのはアルテアだ。
少し回復してきたらしいディノも、おやっと眉を持ち上げる。
「ネア、それは金水晶化した秋の前触れではないかな」
「ディノ?………良いものなのですか?」
「珍しいものであるし、豊かな秋を約束するものでもあるけれど、窓辺に置いておくと妖精が集まってしまうかも知れない」
「むぐぐ。有象無象を集めても危険でしょうから、金庫に入れて持って帰り、エーダリア様やヒルドさん達が使うかだけ聞いてみますね。リーエンベルクでいらなければ、アイザックさんに売り払います」
「凄いな。街に続く並木道でも、こんなものが拾えるのか……………」
王宮前広場から続く並木道を抜け、ウィームの街に入れば、秋告げはまだであるが、街並みはすっかり秋の装いで、飲食店には秋の食材による新メニューが並んでいた。
ネアは、お酒の香りをつけて甘く煮込んだお芋のお店をじーっと見ながら歩き、見かねたアルテアに手を引かれてしまう。
魔物達は擬態しているものの、銀狐ショップが出来てからウィームの領民たちの人気者である銀狐に、すれ違う人達は気付いているらしい。
街の人々も、今日がどんな日であり、なぜこの厳戒態勢でお散歩が成されるのかを知っているのだろう。
微笑んで会釈してくれる領民たちが、銀狐に予防接種を悟らせるような不用意な発言をするようなことはない。
それでもどこか、穏やかな午前中の空気の中にどこか不穏な気配が混ざるのは、この街のそこかしこにネア達と同じ戦いに挑む者達がいるからだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、ネアは隣を歩くディノの口元が少しだけむずむずしていることに気付いた。
何か嬉しい事があったのかなと思い内心首を傾げていたが、ネアの大事な魔物は、こうしてみんなでお出かけするのも嬉しいのかもしれない。
(良かった。ディノもきっと、昨日の夜会でウィリアムさんが傷付いているのを見たら、悲しかった筈だもの……………)
ネアがその全てを知る事はないのだろうが、昨晩の夜会では、薔薇の妖精の一人が、ウィリアムに難癖を付けたのだとか。
無関係ではない部分もあるからと、アルテアからカードで教えて貰ったことによると、その妖精はロクサーヌの弟で、ディノに叱られて漸く引き下がったらしい。
他にも色々あったようだが、ロクサーヌはヴェルクレアの第五王子の婚約者であり、リーエンベルクにネアが暮らしていることを知っている人物だ。
エーダリアを介して何らかの問題が出て来た時の為に、アルテアは知っておくべきだと考えたのだろう。
順調に会場に向かっていたその途中で、見慣れない青い看板のお店を見付け、ネアは目を瞠った。
「じゃがいものふかふかバターケーキ……………?」
「無花果のタルトはいいのか?」
「む、むむぅ。しかし、じゃがいものケーキは初めての出会いです。マッシュしたジャガイモにたっぷりのバターを使った素朴なお菓子のようですが、バターのいい匂いがふんわり漂ってきますね」
広めの歩道の片隅に出ていた屋台からはいい匂いがして、ネアはそのままぴたりと立ち止まってしまう。
くんくんしてみればお腹がぐーっと鳴りそうになるが、朝食を食べてからまださしたる時間は経っていない筈なのだ。
しかし、表面の焦げ目が何とも食欲をそそるジャガイモのケーキは、さぁ食べ給えな素晴らしい輝きでネアを誘うのだった。
「ぎゅ……………」
「一つでいいのか?」
「ウィリアムさん!」
「甘やかし過ぎだ。こいつの場合は、それで無花果のタルトが入らないということはないんだからな」
「はは、アルテアは意地悪だな」
「じゃがいものケーキです!ウィリアムさん、いいんですか?」
「ああ。昨日はネアからのメッセージが嬉しかったからな。これでは足りないくらいだ。シルハーンもいりますか?」
どうやら、ジャガイモのケーキはウィリアムが奢ってくれるようで、人間に混じって暮らしている事も少なくない終焉の魔物は、屋台での買い物にも慣れている。
そう問いかけられたディノは、少しだけもじもじしながらこくりと頷き、なぜかその反動でウィリアムも恥じらうという、たいへん心温まる光景が出現した。
自分もジャガイモのケーキを食べるのだと荒ぶる銀狐が、そんなウィリアムの爪先を前足でぎゅーっと踏みつけている。
そちらについては若干の戸惑いを感じているようだが、ウィリアムは銀狐の分のジャガイモのケーキも買ってくれた。
聞くまでもなくアルテアの分も買っているのは、昨晩のことのお礼も兼ねているのだろうか。
「むぐふ。美味しいれふ」
「……………美味しいね」
「ふふ、ディノにまた新しいお気に入りが出来たのは、ウィリアムさんがこのケーキを買ってくれたからですね」
ふかふかさっくりとしたジャガイモのケーキは、頬張ると素朴な甘さに頬が緩んでしまう。
ウィームに多くあるお菓子とは違い、家庭でお母さんが作ってくれるような優しい味なのだが、お菓子文化の発達したウィームらしく、手が込んでいるなと思わせる奥深さもある。
まずは近くのベンチに落ち着き、はふはふとそのジャガイモのケーキを食べて大満足のネアの隣で、ディノとウィリアムは、アルテアが、ジャガイモのケーキを千切って銀狐に食べさせてやっている光景から目が離せないようだ。
一口ずつ美味しいケーキを貰い、銀狐の尻尾はぎゅんぎゅんと激しく振り回されている。
お口に入れて貰った分をはぐはぐすると、次を食べるのだと前足でアルテアをたしたし叩いているのだから、その正体を知っている魔物達には刺激の強い光景なのかもしれない。
やがて四人と一匹と言うべきか、実は五人の仲間たちは、封印庫前広場の近くまでやって来た。
そっと銀狐の表情を伺ったネアは、ぎくりとしてディノを振り返る。
実は先程、小さなくす玉のような形のオーナメントが通りに面した店で売られており、店頭に飾られている見本に銀狐がムギーと弾んでしまい、ネアが、一生懸命にそれはボールではないのだと説明しなければならない場面があった。
なので、その段階でもう、銀狐の瞳には世の中の不条理に対する疑惑と悲しみが溢れていたといっても過言ではない。
「すっかり、不信感でいっぱいです………」
「ボールだと思ってしまったんだね……………」
ミギャーと、壮絶な声がどこからともなく聞こえてきたのは、その時だった。
それでも何とか持ち上がっていたふさふさの尻尾が、その断末魔を聞いてしまいぱさりと落ちる。
(ま、まずい……………!)
ゆっくりとネア達を振り返り、けばけばになった銀狐が事態を飲み込む前に、アルテアは無言で屈むと、銀狐のお腹の下に手を差し込んでさっと抱き上げてしまう。
その直後、とうとうこれは予防接種の旅程であると気付いてしまった銀狐が、ムギーと狂乱の雄叫びを上げた。
ムギャムギャと大騒ぎで荒れ狂う銀狐に、疑惑の尻尾以外の部分から換毛期の毛が飛び散る。
出かける前に入念にブラッシングされた筈なのにこうなるのかと慄くネアの視線の先では、どこか遠い目をしたアルテアがいた。
本日の装いが上品な銀鼠色の薄手のセーターに、シンプルな砂色のパンツなのは、銀狐の抜け毛がついても目立たないようにしてのことなのだろう。
鳴き叫ぶ銀狐が不憫でならないのか、今年に入って二度目の予防接種でも慣れずにうろうろしてしまうディノと、擬態せずに白金色のままの瞳をどこか無防備に瞠ったまま、呆然と立ち尽くすウィリアムがいる。
(全く動じないように思えたウィリアムさんは、ディノと同じ反応なのだわ……………)
ネアはそんなウィリアムが心配になってしまい、そっと腕に触れると、はっとしたようにこちらを見る。
終焉の魔物の、まるで初めてサンタクロースはいないのだと知ってしまった子供のような無垢な瞳に、ネアは胸がぎゅっとなってしまった。
アルテアは、そのまま荒れ狂う銀狐を抱いたまま会場に向かって黙々と歩き、ネア達はそんなアルテアと共に予防接種会場への道を歩いた。
ここまで来ると予防接種に向かう他の獣達の姿がちらほらと見え始める。
どの獣達も銀狐と同じような状態でいやいやをしているので、なかなかに阿鼻叫喚の光景ではないか。
毎回様々な光景に出会うが、今回は、すらりとした熊のような不思議な獣を連れたご婦人が、容赦なくその熊を引き摺りながら歩いている豪快な連行方法を見ることになった。
その後ろを歩く男性も、小さな竜や狼型の使い魔の何頭かを懸命に引っ張り、予防接種会場に引き摺り込んでいる。
勿論、そんな光景を見てしまえば、銀狐はいっそうにムギャムギャ大騒ぎだ。
「……………急ぐぞ」
「はい!いつもの獣医さんを目指しましょうね」
「注射されてしまうのだね…………」
「まさか、こうなるとは思わなかったな……………」
しかしここで、ネア達にとっては不測の事態が起こった。
封印庫前の広場での予防接種は、ベテランの獣医師と若手の獣医師とで会場が分かれているのだが、いつもの若手獣医師の会場に、首に羊角の髑髏面をかけたシヴァルの姿がなかったのだ。
愕然とするネア達に対し、ぴたりと泣き止んだ銀狐がどこか勝ち誇った表情をする。
例えご贔屓の獣医師がいなくても、予防接種は必須であることを忘れてしまったらしい。
「シヴァルさんは今日は出ていないのでしょうか……………。いらっしゃらないのであれば、他に腕の良さそうな方を見付けて、並んでしまうしかありませんね」
「……………あの獣医がいなくて、大丈夫かい?」
心配そうなディノにそう尋ねられた銀狐は、質問の意味を測りかねるように必死に首を傾げていたが、そろりと予防接種会場の方を見ると、けばけばにした尻尾をぴしりと立てた。
じわっと涙目になり狐語で何かを喋り始めたのは、慣れ親しんだ素早い注射の獣医がいないことへの不安が爆発したようだ。
そんな悲しい訴えに、狐語は分からないものの不憫になってしまったらしいディノは、おろおろと周囲を見回し、水紺色の瞳を揺らめかせる。
「ネア、…………少し離れた位置に、あの医師の気配があるようだよ」
「なぬ。近くにいらっしゃるのですか?」
「うん。噴水の向こう側なのだけれど、向こうにはもう一つ会場があるのではないかい?」
「……………あの方向だとすると、担当する会場が変わったのかもしれないな」
「は!若手の獣医さんの会場を卒業したのですね…………!」
ほっとしたネア達は、けばけばになったままの銀狐を抱えて第一会場に向かった。
しかしそこには、予想もしていなかった恐ろしい光景が待っていたのである。




