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満月と薔薇の夜会




満月の夜だった。

砂漠の向こうに広がる深い森の上に、真円の月が佇んでいる。


ぼうっと明るくけぶる月光に胸がざわつき、その不思議な夜の光に小さく息を飲んだ。



『こんな風に美しい夜は、どこかに行きたくて堪らなかったんです。どこかに行きたくて、こんな夜ならいける気がして、ここではないどこかへの憧れで胸が潰れそうになって…………』



いつかのこんな夜に、遠い目でそう微笑んだネアの横顔を思い出す。


その夜は明るい月夜で、目を離したらネアがどこかへ行ってしまいそうな気がした。

なぜならば、そんな願いがどれだけ切実なものかを、ウィリアムも知っているのだ。



小さく苦笑して視線を戻すと、こちらにやって来た顔見知りの竜と目が合った。

夜空に直接取り付けた月のシャンデリアの並ぶ、ここは人外者の主催する夜会の入り口である。



「やあ、ウィリアム」

「久し振りだな。………おっと、その鱗はどうしたんだ?」

「鱗で属性が一目瞭然なのが不満でな。色変えの魔術で変えるようにしている」



そう笑った男は、霧竜の王族の一人だ。


竜種の中では決して頑強ではない霧竜であることは、確かに知られない方が良い場面もあるだろう。

極上の毛皮を持つ霧竜達は、えてして狩りの獲物にされ易く、それは人型を持つ高位の霧竜でも例外ではない。


寧ろ、人型を持つ竜だからこそと狩る者達も少なくはないのだ。



こつこつと床石を踏む音がして、そこに加わったのは小柄な女性だ。

裾を引くような鈍色のドレスには、月の光を損なわないように照度を抑えた月のシャンデリアの光が煌めいている。



「ウィリアム様、ご無沙汰しております。まぁ、今夜はお一人ですの?」

「ああ。堅苦しいのは苦手なんだ。一人の方が身軽に動けるからな」

「でしたら後でダンスにお誘いしても?女から誘うのは無作法でしょうが、そんな遠慮をしていたら、あなたは他の誰かに取られてしまいますもの」

「すまない、ファズナ。実は既に約束してしまっているんだ」

「まぁ。残念ですわ。それなら、今ここでお喋りをしてしまうしかありませんのね」



そう微笑んだファズナは、絹糸の魔物だ。

琥珀色の瞳にゆるやかに波打つ黒髪と、穏やかな物腰からこの魔物に思いを寄せる男達は多い。


柔和な表情の女性だが、決して扱い易いばかりの魔物ではない。

高価な絹糸の資質そのままに、ファズナは、才能や資産のない男には見向きもしないのだ。



そっと腕に触れた指先に、ウィリアムは苦笑した。

階位の高い魔物の寵を欲する魔物らしいしたたかさだが、こちらの捉え方次第で如何様にも振る舞える余地を残しているのが頭のいいファズナらしい。


時として獰猛な程に女性らしい女性であるものの、彼女のことは嫌いではなかった。



ざわざわと心地よく揺れる人々の談笑が耳に届き、手にしたグラスはとうに飲み干してしまった。

満月の夜会は秋告げの前に行われる、季節の変わり目の祝福を司るもので、五年に一度の開催だからか、多くの者達が会場を訪れている。


月の魔物が主催するのは当然のこととして、開催ごとに花の系譜の者達がその主催者の手伝いをすることになっていた。



(いい夜だが、薔薇の系譜の者達が多いな……………)



薔薇は嫌いではないのだが、ロクサーヌとのことがある。

美しい夜を穏やかに楽しむだけでは済まなさそうな者達の顔も、ちらほらと見えていた。



「そう言えば、秋の収穫と蓄えについて話したいとジアートが探していたが、いいのか?」

「ふふ、かつて心を捧げはしましたが、取り返した今は、素敵なチョコレートの包み紙ほどの価値もない男ですわ。無粋な事を言わないで下さいまし」

「うーん、この夜会でそう言われると、俺も包み紙にされた事があるのだと思い出すよ」

「あら、ロクサーヌとは友人ですが、他人の過去の恋を引き摺り出して、お喋りがてら火にくべるような趣味はありませんわ」

「ああ。確かに君は、そういうことはしないな」

「まぁ、普通はしないべきなのですよ」

「だと良いんだが………」

「すっかり疑い深くなられてしまって。………でも、ウィリアム様は最近、ご寵愛の人間がいるのでしょう?私の存じ上げない方のようですが、どのような方なのですか?」



そう尋ねたファズナに、周囲にいた他の者達もこちらを見るのが分かった。


否定しても良かったが、そうしても面倒だと思い曖昧に微笑んで頷いておいた。


こちらを見たファズナが僅かに首を傾げ、明確な返答を避けたウィリアムの真意を確かめるような聡明な微笑みを浮かべる。


琥珀色の瞳には、女らしい鋭さが過ぎり、そしてゆっくりと消えていった。



「………ウィリアム様にも、心を傾ける方が出来たのですね」



そう微笑んだファズナに、ああ彼女はそれを厭わない者なのだと知れば、小さな安堵が揺れた。

やっとの思いで心を傾けるものを得てみれば、身勝手な価値観を押し付けてそれを惜しむ者達がどれだけ多いことか。


ファズナのように微笑む者は、思っていた以上に少ない。




けれどもそこで和らいだものは、瞬きほどの間にくるりと入れ替わる。




「おやおや、どなたかと思えば終焉の君」

「……………リュイジーヌか」



冷ややかな声音に振り返れば、艶やかな薔薇色の髪に深い緑色の瞳の男が立っていた。

姉のものとは違う、黒にも近しい深い真紅の羽は六枚あり、この男がシーであることを示している。



リュイジーヌは、紅薔薇のシーだ。



紅薔薇の女王であるロクサーヌの弟にあたる妖精で、人間の世で暮らす姉の代わりに、妖精の国にある紅薔薇の妖精の城を治める彼は、紅薔薇の王と呼ばれることもあった。



漆黒の装いの襟元を指で押さえ、どこか怜悧な眼差しのまま、わざとらしく優雅な礼をする。

同じ色合いの装いだが、リュイジーヌの服には華やかな装飾がある。


けれども、ウィリアムには華美にも思えるその装いも、紅薔薇の妖精の王族であるリュイジーヌの容貌を霞ませるには至らなかった。


それは特別な事ではなく、薔薇とはそのようなものなのだ。



「終焉の君におかれましては、ご機嫌が麗しいようで何よりです。いやなに、偶然通りかかったところでお二人の会話が漏れ聞こえてしまいましたが、まさかあなたが、またもや人間などという脆弱なもので遊ばれているとは」

「珍しい事ではないだろう。俺は、人間との接点は多いからな」

「ええ。存じておりますよ。あなたが人間の女に入れ込むのは珍しくはありません。そして、大抵はその手で殺してしまわれる」

「……………リュイジーヌ、失礼ではありませんか」

「ファズナ様、ご機嫌を損ねたら申し訳ない。僕はまだ若輩者です。そして愛情の恩寵を司る妖精であるからこそ、姉を苦しめた不実な魔物が許せないのです」



(今年の月下の夜会は、持ち回りで薔薇の夜会にあたる。いるとは思っていたが、相変わらずだな……………)



ロクサーヌとその侍女達の姿を見かけたので、彼女達と偶然顔を合わせてしまうことを懸念していたが、まさかリュイジーヌから噛み付かれるとは。


煩わしさを噛み殺し、淡く微笑む。


不愉快な男だが、薔薇の妖精達は総じて情が深く、それが拗れるとこのようになる。

決して珍しい事ではない。



「かもしれないな。確かに俺は、その手で人間達の終焉を成す事が多い。それは、どのような人間とて例外ではないが、今回は、幸いにもそのような心配をせずとも構わない人間に出会えたようだ」


構わず流しておけば良いのだが、リュイジーヌは紅薔薇の妖精である。

愛情などを司るシーからの言葉を、呪いに近しいものとして残してゆくのはいささか危うい。


それが分かっているからか、ファズナがこちらを見て僅かに苦笑する。

そしてそれが、リュイジーヌの気に障ったようだ。



すっと細められた緑の瞳に、このまま大人しく立ち去りはしないかと諦観にも似た思いで息を吐く。

煩わしいからと首を落とす事も出来ない、厄介な相手なのだ。



「さて、あなたはとても心のない方ですから、その言葉通りで済むかどうか。あなたはその人間を愛しているつもりでも、いつものように、その女はあなたの腕の中であなたを憎み、死にかけているかもしれませんよ。死者の日は?疫病祭りは?それとも、夏至祭や蝕などはどうでしたか?殺して壊すのがあなたの流儀でしょうに」



ひたひたと染み込むような声音は、侵食を好む妖精らしい毒の在り方だろう。

ちりりと心が揺らいだのは、確かに蝕の中で彼女の命を危険に晒したのは、自分の身に持つ履歴だと知っているからだろう。



僅かに息を吐きじっと見返せば、リュイジーヌは微かにたじろいだようだ。

求められることでその魔術階位を上げる紅薔薇のシーとは言え、この男の階位は、精神圧で殺せる程度ではある。



(それを、リュイジーヌは知らないのだろうし、ファズナを含めた多くの魔物達も知らないのだろう…………)



それは、隔たりとなる溝がより深まるようで、敢えて公にはしていない資質であり、階位の差だった。


自ら明かしている者でもない限り、公爵位の魔物の可能にする領域は、この程度はと多くのそうではない者達が思い描くものより遥かに大きい。



それが例えばウィリアムの場合は、愛情を司る紅薔薇については、触れずに枯らしてしまえる。

リュイジーヌが他のどんな色の薔薇でもなく、愛情を司る薔薇のシーだからこそ、終焉というものの手でそれを滅ぼすのは容易いのだ。



(……………そう言えば、だからこそ俺は、ロクサーヌから求められた時に、愛情を司る紅薔薇の女王がこの身を望んだ事に驚いたような気がする……………)



けれども、共に過ごした時間はさして長くもなく、失望して去っていったロクサーヌは、今もまだウィリアムを許してはいない。

だからこそ、彼女の弟であり一番の信奉者であるリュイジーヌは、輝かしく慕わしい紅薔薇の女王の姉を傷付けたウィリアムを憎んでいるのだ。



そんな紅薔薇の妖精達に何かを思うかと言えば、それはもう自分ではどうしようもなかった顛末として、さしたる懸案でもない。


とは言え、今のウィリアムには決して失えないものがあるのだ。


ここで歪みひび割れたものが、ネアやシルハーンを傷付ける事だけはあってはならない。



ここは少しだけその力を削いでおこうと思い、正面で苦しげに顔を歪め、それでも踏み止まったリュイジーヌを見据えた時の事だった。




「確かに君は、命であれ心であれ、いつでも殺してしまうからな。そうして恨む者達が残るのは至極当然だろう。リュイジーヌの言葉が鋭いのは、君が終焉を司る者だからに他ならないのでは?」

「……………っ、」



その声に視線を巡らせ、リュイジーヌの背後に立っていた一人の男を見た途端、喉が引き攣れるような気がした。



長い黒髪を一本に結び、かつて毎晩のように語らった頃には見ることもなかった盛装姿で立っているのは、遠い昔に滅びた国の一人の騎士だ。


黄褐色の夜会用の装いには、かつて彼が身に纏うことはなかった薔薇色の宝石が輝いている。



「ガザン……………か」

「久しいな、ウィル。それとも、終焉の王とお呼びすれば?」



こちらを見る眼差しにはいつかの穏やかさは欠片もなく、凍えるような憎悪ばかりがくっきりと揺れていた。



無理もない。

そう思い、この言葉を一体どれだけ自分の中で繰り返せばいいのだろうと、気が遠くなった。


この男の友として過ごしたあの国の辺境の町は、疫病で腐り落ち、彼は男手一つで育て上げた最愛の息子を喪っている。


その後二度と会う事はなかったが、近いうちに人間の災厄払いの魔術では退けられない疫病の障りがあるからと、町を出るように伝えた日のことを、ガザンは忘れはしなかったのだろう。


なぜ息子を救ってくれなかったのだと彼は叫び、ある呪いの二次災厄の顕現となる疫病の出現を待つ為にその町に滞在していたウィリアムは、その芽吹きを待たずに退けることが出来ないのだと説明したが、勿論、ガザンが理解する事はなかった。



だが、二次顕現となるその疫病は、芽吹いてから刈り取らなければ、魔術の理において姿を隠し、またどこかで芽吹いてしまう。


その時には終焉の系譜の回収が間に合わないかもしれず、もし再び災厄としての形を成せば、辺境の町の一つどころではなく、大国の一つを失うような事態になるかもしれないではないか。



(だが、彼にはそのような事は理解出来ないだろうし、人間が理解しなくてもいい事なのだろう。疫病が息子を殺し、彼が命をかけて守り続けてきた町を殺したその現実を和らげるものではないからな………)



こちら側とあちら側に分かれてしまった以上、あの穏やかな日々が戻る事は二度とない。

だが、ガザンとはもう会う事もあるまいと思っていたウィリアムにとって、この古い友人が生きていた事は大きな誤算であった。


人間の寿命であればもうとうに死んでいるだろうと思い安堵していたのであれば、それもそれで醜悪な事だが。



「……………好きなように呼ぶといい。君が、生きていたとは思わなかった」

「リュイジーヌが俺を救ってくれたのだ。妖精に転属することで、こうして生き長らえた。紅薔薇の妖精の伴侶を得た今、君への復讐を望み、八つ裂きにされるような危険を冒す事は出来なくなったが、……………それでも決してあの仕打ちを許す事は出来ない」

「であれば、許さずにいるといい。俺にはあれ以上の事は出来なかったし、俺が終焉である事は変えようもない。君には恨むだけの理由がある」

「……………君はいつもそうだな、ウィル。死を成しながらも、その死を決して振り返らない。君にとっては有象無象の砂粒のような矮小な命なのだろうが、それを踏みしめながら殺してゆく君は、砂の一つ一つに心があり魂があるのだと、どうして理解してくれないのだろう」



ガザンの表情には嫌悪がありありと浮かび、このような会話に巻き込まれては堪らないと、何人かの者達がそそくさと離れてゆく。


ウィリアムは何も言わず、ただかつての友人の顔を見ていた。


こうして憎しみや嫌悪を向けられるのは、なにもガザンが初めてではなく、寧ろそうする者達が圧倒的に多いくらいなのだ。


知った事ではないと言うには心を傾け過ぎている。

けれど、だからといってその刃を心に受けるには、このようなことは日常茶飯事なのだ。



「ガザン、我が友よ。君もこの終焉には辛酸を舐めさせられたと聞く。であれば、我々の愛する者を傷付けた終焉の魔物が、のうのうと愛する女を得ているというのも癪な話だ。……………ウィリアム、あなたは、例えば私が、そのお気に入りとやらをずたずたに引き裂いてしまうかもしれないと、考えてみたことは?」

「まぁ!逆恨みだとしても、醜い罵りようですこと。私の友人でもある紅薔薇の女王は、あのように誇り高い方ですのに、弟君の出来はあまり宜しくないようですわね」

「ファズナ、構わないさ」

「しかし、………」



構わないと言ったのは、その程度の暴言と聞き流す為ではなかったのだが、ファズナは多くの男達が魅惑的だと評する瞳を細め眉を顰めた。





「……………ウィリアム?」



その時だった。

輪の外側からかかった静かな声に、誰かの喉がひゅっと音を立てる。


隔絶にも似た恐怖の暗さを訝しむより、その声がここで聞こえたことに驚き振り返った。



「シルハーン……………?」



そこに立っていたのは、はっとする程に鮮やかな万象のその人だ。

長い白い髪をゆるやかに編んだ三つ編みには先日の誕生日会で見たリボンが結ばれており、けれどもその表情は、魔物らしい酷薄さと冷ややかさに整えられている。


まさかこの夜会を訪れているとは思わずに瞠目すれば、明るい夜と夜明けの色をした瞳が僅かに微笑んだ。



「お一人で?」

「うん。用があってね。…………このような夜は、私達は少しばかり残忍になる。だから、彼女には部屋で待って貰っているよ」


ネアと離れている事が心配なのだろう。

微笑みに滲んだ不愉快さは鋭く薄く、そんな表情の温度一つで周囲の者達がさざめき顔色を失う。


元々夜会や舞踏会に足繁く通う人ではなかったが、かつて程にも夜会に顔を出さなくなった今、こうして触れる万象の気配はより重く感じる筈だ。



「アルテアなら、奥で見かけましたよ。何やら悪さをしているようですが」

「いや、アルテアに用があったのではないよ。………今夜は出かけるつもりはなかったのだけれど、一つ均さなければいけないものがあってね。だが、そのようなものは一つだけではなかったようだ」



美しい声音は冴え冴えと冷たく、その瞳が向けられたのはリュイジーヌの方であった。



「……………っ、」


艶やかな六枚羽をすっかり下げてしまい、紅薔薇のシーは怯えて震えている。


ひたと見据えられただけで、リュイジーヌは何歩か後退るとそのまま床に崩れ落ち、両手を突いた。

がたがたと震える様子に先程までの力に溢れた美貌の妖精の名残りはなく、小さな子供のように声にならない嗚咽を飲み込んでいる。



「ウィリアムが守護を授けているのはね、私の伴侶なんだ。君は、私の伴侶を損なおうとしているのかい?」



静かな問いかけは、鞭のようだった。

どこかでどうっと誰かが昏倒する音が聞こえ、周囲は静まり返り、皆が、万象の魔物の怒りに触れた哀れな妖精の顛末を見守っている。


ここで、人間だった魂にシルハーンの精神圧は重過ぎたのか、ガザンもどさりと床に倒れた。


恐怖のあまりに声が出ないのか、リュイジーヌは何度も首を横に振り、絞り出すようにして小さく呻いている。


けれど、どれだけ仕草で否定してみても、言葉による問いかけには言葉で答えるのが礼儀なのを思い出したのか、ややあって嗄れた声を発した。




「……………そのようなこ……………とは、決して」

「どうだろう?」



微笑んで首を傾げたシルハーンは美しかった。


万象が万象として振舞うその気配は、最も階位を近くするウィリアムですら重く暗い。


リュイジーヌがどれだけ否定してみせても、シルハーンが、であればと了承しなければ、彼は断罪されるばかりだ。

誰もがそれを知り、固唾を飲んで成り行きを見守っている。


リュイジーヌは掠れた声で何度もそんな事はしませんと繰り返していたが、やがて、言葉を重ねても何も言わないシルハーンに心を挫いたものか、小さく啜り泣く声が聞こえた。



ふっと、視界の端に艶やかな薔薇色が揺れた。

リュイジーヌを背に庇うようにして、万象の足元に優雅に跪いたのは、ふくよかな深紅の羽を持つもう一人の薔薇のシーだ。



まずは深く頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げたロクサーヌの表情は青白く、華やかな美貌は、弟程ではないものの恐怖に強張っていた。



「万象の君、謝罪も釈明も出来ない愚かな弟の代わりに、わたくしがその咎を負いましょう。リュイジーヌは如何様にしていただいても構いません。………ですが、もし、この愚かで浅はかな弟を、殺すまでではないとお赦しいただけるようであれば、わたくしがこの手で羽を落とし、決してあの方を損なわぬよう、血の誓約を結ばせましょう」

「……………あね、うえ」

「黙りなさい!お前は、その顛末を想像することも出来ずに、何という愚かなことをしたのです。自らの愚かさの幕引きすら出来ない、軟弱者だとは思いませんでした」



縋るように伸ばされた手を払い落とし、紅薔薇のシーはもう一度シルハーンに頭を下げた。

勿論、こちらを見る事はなかったし、ウィリアムがロクサーヌを擁護する事もない。



「君達は自由な妖精なのだから、それで贖いとするのであれば、羽など落とさなくていいよ。その代わり、誓約は必要だね」



そう答えたシルハーンに、誰かがこくりと喉を鳴らす音が聞こえ、羽を落とされた方が良かっただろうにと囁く声がどこからともなく聞こえた。



まさしくその通りだ。



シルハーンは、ロクサーヌからの謝罪を受け取らなかった。


リュイジーヌを殺しもせず、対価も受け取らないことで、紅薔薇の妖精達は万象の怒りに触れた者達という汚名を背負い続けることになる。

ロクサーヌがそれに気付かない筈もなく、薔薇色の瞳にはありありと絶望の影が落ちていた。




(暗に、赦すつもりはないと言われたに等しいな………)



弟の浅慮さでその汚名を背負うことになる紅薔薇の妖精達は哀れだとは思ったが、魔物の伴侶への執着はこのようなものだということくらい、この夜会を訪れる者達であれば誰もが知っていることなのだ。



(ネアは、俺の伴侶という訳ではないが、だとしても)



それが万象ではなくウィリアムに向けられた言葉であっても、同じことになっても不思議ではなかったのに、リュイジーヌは自分の言葉の先に何が起こるのかを想像することが出来なかった。


そして勿論、ウィリアムもそうするつもりであった。


ネアに何かがあってからでは遅いのだ。

リュイジーヌが蝕の話題に触れたからこそ、自分一人であれば受け流せてしまった悪意をそのままには出来ないと考えたのだが、それよりも早く、シルハーンの耳に入ってしまったらしい。



「……………ウィリアム、君達の会話を遮ってしまったかな」

「いえ。もう終わっていましたから。……………シルハーン、ご迷惑をおかけしました」



苦笑してそう言えば、シルハーンは困ったように淡く微笑んだ。


既にリュイジーヌに向けた眼差しの冷ややかさは剥がれ落ち、誓約をとロクサーヌに告げればもう、薔薇の妖精達には興味を失ってしまったようだ。


ふと、少し離れた場所にグレアムの姿が見え眉を持ち上げると、そこにいるのが彼だと知ったばかりの古い友人が、小さく頷くのが見えた。


ここでシルハーンに寄り添わない事で、彼は彼の秘密を守り続けてるのだが、それでも何か問題がないかとこちらを注視していたのが分かる。



「ウィリアム。私はもう帰るところなのだけれど、帰りにこちらに寄ってゆくといい」

「シルハーン……………?」

「君に会えればあの子も喜ぶだろう。今夜は、私が持ち帰るものを待っていて、まだ起きているからね」



なぜそう言われたのかは、考えるまでもなかった。


反射的にその必要はないのだと言おうとしたが、今夜は、リーエンベルクに立ち寄ってから帰ろうと思い直した。

苦笑して頷けば、そうするのがいいだろうと微笑んだシルハーンの表情は、ネアが来てからの彼に宿った、穏やかで安らかな温度を取り戻している。




「ええ。では、必ず」

「うん。それとね、あの子がこれを君に見せて欲しいようだ」

「…………俺に?」



シルハーンがそっと広げたのは、いつものカードだ。

そしてそこには、淡く光る文字が浮かび上がっていた。




“アルテアさんから、ウィリアムさんに悪さをするかもしれない方が夜会にいると伺いました。もし、ウィリアムさんを虐める悪い奴がいたら、私が踏み滅ぼしにゆくので呼んで下さいね!”




(ネア……………)




ぐらりと揺れた胸を押さえ、何も言えないまま一つ頷いた。



カードをしまったシルハーンは、本当に帰るところだったのだろう。

会場の出口に向かい歩いて行くと、ダイアナの侍女の一人から何かの包みを受け取っている。



倒れたままのガザンを、会場の給仕達が人々の往来に邪魔にならないところへ移動させ、視線を巡らせると、ぱしんと乾いた音が響きロクサーヌがリュイジーヌの頬を叩いたところだった。



(どうしたものかな……………)



その光景を捉え、僅かに思案する。

そちらに向かって踏み出そうとすると、ついと袖を引く手があった。



「ファズ……、アルテア……………」

「やめておけ。あの女はなかなかにしたたかだからな、自分でどうにか策を見つけ出すだろうよ。あの国の守りの一つである以上、シルハーンもどこかで手を打つだろう。放っておく事だ」

「……………ネアに、連絡をしたんですか?」

「さてな。満月の夜会は、豊穣と収穫の印となる夜会の一つだ。豊穣と対になるお前の存在は必要不可欠だが、俺の商談の場は荒らすなよ」

「荒らしはしませんよ。危ういと思えば、首を落としておこうかなとは思いましたけれどね」

「……………お前は一度、その顔をあいつに見せてみろ」

「リュイジーヌ一人が欠けても、妖精の国の城を維持するだけの力を持つ紅薔薇の王子は、まだ何人かいますからね」



静かにこちらを見た赤紫色の瞳に眉を寄せれば、呆れたように肩を竦められた。



「…………あの元人間についても、必要であれば手を打っておけよ。出来ないなら貸しにしておいてやる」

「いえ、まさか。俺だって、優先順位はありますからね」



そこまでを聞けば満足したのか、アルテアはそれ以上には何も言わずに立ち去ってゆく。



(……………だが、アルテアが?)



その後ろ姿を見送り、訝しさに袖口を見つめていると、ふふっと軽やかな笑い声が聞こえた。

そちらを見れば、ファズナが、いつの間にこちらに来たものか、霧雨の妖精王と白薔薇の魔物と共に立ち、おかしそうに口元を押さえて立っているではないか。



「袖をお引きしたのは、私ですわ。アルテア様ではなく」

「……………君だったか、少しほっとした」

「そのまま誤解を残しておくのも面白そうでしたが、それではあまりにもお気の毒ですものね」

「災難だったな、ウィリアム」

「薔薇の夜会に決まった時から、ある程度の覚悟はしていたんだが。……………ネビア?」

「……………ウィリアム、今代の梔子の魔物が代替わりすることになった。森で見かけた彼女に、恋をしたらしくてな」

「……………ああ、だからシルハーンが来ていたのか」



均したのはそれなのかと頷き、ネビアと踊るのだと言うファズナに別れを告げた。

給仕の女性からシュプリのグラスを受け取っているグレアムに偶然行き会ったかのように挨拶をし、互いに小さな苦笑を交わす。




「いい夜だな、ウィリアム。紅薔薇は残念な事になったが、月光には白薔薇がよく映える」

「はは、かもしれないな。ネビアに感謝しておこう」




友と並んで月明かりを見上げると、どこからともなくワルツの音楽が聞こえてくる。

満月の夜会に招かれる者達は、その夜の深さに心を波立たせるのだそうだ。


騒がしい夜ではあったが、今夜はリーエンベルクに泊まろうかと思えば、不思議と心が温かくなった。

だが、まずはグレアムとゆっくり話し、ダンスの輪に連れ出されるまでの時間を楽しむべきだろう。









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