雛玉の贈り物と栗蜜パイ
「ピギャ!」
その日、朝一番でリーエンベルクを訪れていたのは、ネアの可愛い名付け子であるほこりだ。
白いふくふくとした体でどすばすと弾み、ディノの誕生日にお祝い出来なかった事が悲しいのか、涙目で嘴を震わせる。
「………ほこり、そんなに悲しい顔をしなくても、ディノのお祝いは今日してくれるのでしょう?」
「ピ!!」
「それなら、今日のこの時間だけは、ほこりの為のディノのお誕生日ですからね」
「ピ!ピ!」
弾み過ぎてしまったほこりは、そのままごろごろと転がり、後見人として立ち会っていたアルテアの足でがしっと止められた。
「……………さっさと終わらせろ」
「ピ?」
「ふふ、ほこりがこんなにお祝いに喜んでくれるのですから、ディノも嬉しくなってしまいますよね」
「転がってしまうのだね……………」
「ピ!」
「おい、弾むなら他所でやれ!足を踏むな!!」
「ピ?」
「くそ、わざとだな……………」
腕を組んで立っているアルテアは、統括の魔物としての厄介ごとを終えたほこりを連れてリーエンベルクに来た後、今夜は夜会に出るらしい。
そうなると明日の銀狐の予防接種はどうするのだとネアは悲しい目になったが、明朝にはこちらに戻ると聞いて一安心した。
しかし、アルテアも一人の男性である。
夜会で素敵なご婦人に出会ってそんな事がどうでもよくなってしまうかもしれないので、ネアは、念の為にも自分達だけで予防接種に行けるように準備をしておこうと思った。
(ゼノはお仕事だから、ディノと二人でも大丈夫かしら?それとも、非番の騎士さんに手伝って貰うとか…………)
ふと、禁足地の森に住んでいる雨降らしのことを思い出した。
ミカエルなら、銀狐とも仲が良く獣の扱いには長けていそうだが、生き物としてかなり上位の本来は獰猛な雨降らしが予防接種会場に現れたら、とんでもない大騒ぎになりかねない。
となると、やはりディノと二人で行くのが適切だろうか。
「おい」
「は!アルテアさんの代わりに、ミカエルさん…?」
「……………何の悪巧みだ?」
突然声をかけられてしまい、ネアはうっかり考えていた事を漏らしてしまった。
慌てて、何の発声もしておりませんという表情を取り繕ったが、すっと瞳を細めた魔物に頬をぐいっと摘まれてしまう。
「むぐ。おのれ、ゆるすまじ」
「俺の代わりに誰なのか、ゆっくり聞かせて貰う必要があるようだな」
「予防接種でふ!………むぐる、その手を離すのだ!私はただ、もしかしたらいなくなるかもしれないアルテアさんの代わりに、誰が予防接種で助けになるだろうと考えていただけではないですか………」
「ほお、俺は明朝にはこちらに来ると言わなかったか?それとも何だ。森とやらか?或いはそれはただの口実で、他に同行したい相手がいるのか?」
「勿論、アルテアさんが一番なのですが、今夜は夜会なのでしょう?事故や恋で急に帰れなくなるかもしれないではないですか」
「何で、事故を当たり前のように可能性に入れた。やめろ」
ここでアルテアは、音もなく忍び寄り爪先を齧ろうとしたほこりを、じろりと睨んだ。
気付かれてしまった雛玉は、仕方なく体当たりに予定を変えたらしい。
ずばんとぶつかられ、アルテアは顔を顰めている。
やっと頬を解放されたネアは、さっと両手で頬を押さえて守った。
そんなネアを守るように、ほこりはアルテアの足をげしげしと踏みつける。
「……………っ、おい!」
「ピ?」
アルテアを思う存分踏みつけると、ほこりはどすばすと弾みながらこちらに戻ってきた。
どうやら、ネアの頬を摘んだアルテアを懲らしめたということであるらしい。
「ピ!」
「まぁ、ほこりは、優しい子ですね」
「ピィ」
「……………どこがだ」
「ピ?」
「ネア」
アルテアに名前を呼ばれることは、実はあまりない。
それなのにここで呼ぶのだから、この魔物はやはり、私生活に深く分け入られるのは不愉快なのだろう。
ネアだって、射抜くようにこちらを見たアルテアが、自分で優先するべきことくらい選べると知っているつもりだ。
けれども、それでもこうしていいのだと、であればこうするとこちらの対応を伝えておくのは、彼を使い魔として縛る人間の務めだとも思うのだ。
「俺は、余分を取るなと言ったはずだ。明日は、俺が来るまで大人しく待っていろ」
「……………私がお願いした事で、アルテアさんの自由や快適さが削られる事はありませんか?空いた時間に作れるパイやタルトとは違い、明日の予定は決められた時間をしっかりと押さえてしまうものなのです」
「俺がそれでいいと言ったんだ。狐の予防接種程度のことだろうが。お前は余計な気を回さなくていい」
「…………やはりアルテアさんは、狐さんのことがとても大切なのですね……………」
「何でだよ。やめろ」
ともかく、アルテアは明朝には必ず戻る予定なので、代替要員に声をかける必要はないと、ネアは厳しく言い含められた。
かなり鋭い口調で絶対にしないようにと重ねて言われ、ネアは、何もそこまで意固地にならなくてもと首を傾げる。
(……………やっぱり、狐さんのことを、そんなにも気に入っているのだわ)
これは、そんな銀狐の正体がノアだと知ってしまって大丈夫だろうかと、いっそうに不安になる。
いつ告白するのかは分からないが、ノアは、予防接種が終われば話すかもしれないと言っていた。
「むぅ。アルテアさんを沢山撫でてあげたい気分です」
「やめろ」
「ずるい。アルテアなんて……………」
「ピィ」
ピチチと、小鳥の鳴き声がする。
今日は夏の終わりから霧の日が多くなるウィームでは珍しく、からりと晴れた晴天の日だ。
窓から差し込む木の枝の影を踏んで、ディノの方を向いたほこりが、ぶるりと体を膨らませる。
今はもうシャンデリアの伴侶のいるほこりだが、この可愛い雛玉にとって、ディノは初恋の人なのだ。
少し緊張しているほこりが可愛くて、ネアはふかふかの頭をそっと撫でてやる。
つやつやとした羽の手触りだけでなく、極上の毛皮のようなふかふかつやつやとした手触りは、ほこりがただの星鳥ではない証でもあった。
美味しい祟りものを沢山食べ、順調に階位を上げているほこりが今はどのあたりに位置するのかは、もはや誰にも分からないのだそうだ。
(統括を任されるくらいだから、公爵位にはあるのかしら……………)
「ピィ」
そんな事を考えていたら、けぷっと大きな宝石を吐き出したほこりが、小さな足でその宝石をディノの方に押し出していた。
今年の贈り物は、乳白色のダイヤモンドのような光を多く孕む美しい宝石だ。
きらきらと光るその表面には、霧に映した虹のような複雑で美しい煌めきがある。
つぶらな目でじっと見上げているほこりに、ディノは屈んでその宝石を受け取ると、淡い微笑みを向けた。
「これを、私にくれるのかい?」
「ピ!」
「……………有り難う、ほこり」
「ピ!!……………ピギャ!!!」
「ふふ、ディノが喜んでくれて、ほこりも幸せいっぱいですね。なんて綺麗な宝石なのでしょう。ほこり、ディノに素敵な贈り物をくれて、有り難うございます」
「ピ!」
ネアにまた沢山撫でて貰い、ほこりは大興奮で弾み回った。
「ディノ、今年の宝石は、お誕生日の日の窓の外のようですね。この宝石を見る度に、今年のディノのお誕生日会を思い出せそうです」
「うん………」
「おい、転がるなら離れてやれと、俺は言わなかったか?」
「ピ?」
ディノは、ほこりに貰った宝石を眺め、唇の端を持ち上げた。
そんなディノを床に転がったままじーっと見ていたほこりは、喜んで貰えたと実感して嬉しくなってしまったのか、またしても大興奮で転がり回る。
ネアはこちらに転がってきた時に撫でてやったが、最終的にはアルテアに足でがすっと止められていた。
落ち着いたほこりは、ネアからちくちくのセーターのお話を聞き、うっとりとしてからヒルドが用意してくれた祟りものを食べた。
やがて、ほこりが帰る時間になると、ネアは、まだ貰った宝石を手に持っている魔物をつつく。
はっとしたように背筋を伸ばしたディノは、そうっと手を伸ばして期待の眼差しで自分を見上げているほこりの頭を撫でてやった。
「…………ピィ」
「あらあら、ちょっぴり恥じらってしまいました?」
「ピ」
「こいつに、そんな繊細さがあるとは思えないな」
「ピギャ」
「おい、踏むな!」
「ピ?」
どすんばすんと弾んだ雛玉は、アルテアの付き添いで騎士棟に寄ってから帰る予定である。
仲良しのゼノーシュは仕事で出かけてしまっているが、リーエンベルクには、ほこりが小さな雛玉だった頃からの知り合いの騎士達が沢山いるのだ。
また、クッキー祭りで共闘するようになってから、より絆が深まったのだとか。
弾む雛玉の後ろ姿が見えなくなると、ネアは可愛いほこりを撫でていた手をわきわきさせ、少しだけ寂しくからんとした胸の中から息を吐いた。
共に暮らした日々は長くはなかったのに、ほこりはやはり可愛い名付け子なのだ。
「…………可愛い雛玉が帰ってしまいました。ディノ、貰った宝石をお部屋に飾りにゆきます?」
「……………もう少し持っていようかな」
「ふふ、さてはとても気に入っていますね?」
「うん。君が教えてくれたけれど、あの日の色だからね」
さらさらと、風に真珠色の前髪が揺れる。
ばさりとした睫毛の影になった水紺色の瞳が、嬉しそうに微笑みに細められるのを見て、ネアはきゅっと唇の端を持ち上げた。
その時だった。
こつりと床石が鳴る音がして、ネアはおやっと顔を上げる。
「おや、こちらにおられましたか」
「ヒルドさん………?」
「ロマックが、栗蜜パイを買ってきたのですが、お茶にしませんか?」
「栗蜜パイ!!」
外回廊から顔を出した森と湖のシーから思いがけないお誘いを受け、ネアは小さく弾む。
うっかりディノの三つ編みを持ったままやってしまったので、びいんとなった三つ編みに隣の魔物はきゃっとなってしまい、ネアは、もう一度三つ編みを引っ張ってくれるかなと目をきらきらにした魔物と一緒に会食堂まで歩く羽目になった。
(そう言えば……………)
ではお先にと一言残して行ってしまったヒルドに、ふと微かな違和感を覚えたが、ロマックの栗蜜パイの管理もあるのだろう。
そう考えたネアはまた少しだけ弾んでしまい、隣を歩いているディノがこちらを見て微笑んだ。
「良かったね、ネア」
「はい!今年も売り始めたと聞いて、今週中には買いに行こうと思っていたのです。それなのに、リーエンベルクで食べられてしまうのですから、こんな幸運はありませんね」
「可愛い、弾んでしまうんだね」
「あら、ディノも栗蜜パイは好きでしょう?」
「うん。最初のものは、君が買ってくれた」
「覚えていますよ。二人で美術館前の広場で食べたのですよね。あの頃は焼き栗落ち葉のかさかさ達もいなかったので、静かにベンチで食べられたのでした」
「袋が開けられなくて可愛かった……………」
「むむぅ。あの時は、妖精さんに狙われ易いパイの袋が、魔術で封じられているとは思っていなかったのです……………」
栗蜜パイは、秋の気配がしてくるとウィームで売り始める美味しいおやつパイだ。
マロングラッセのように、ほこほこの栗を甘く煮込み、パイで包んで焼き上げる。
パイの表面には糖蜜をかけ、美味しいけれどパイだけの部分を齧ってしまうと味がないという事件を避けてくれるのだから、何とも優秀なお菓子である。
様々なお店でこの栗のパイを売り出すので、基本の作りは変わらないまま、それぞれに個性を出すのだが、栗蜜パイと呼ばれるパイ達は、上にかけた糖蜜がしっかりめの正統派のものだ。
最近では、栗と豚挽肉の煮込みを入れたおかず栗パイのようなものもあるのだとか。
これはもう、絶対に探し出して食べなければならない。
懐かしいパイの話をして、ネアはますます栗蜜パイへの熱い思いを昂ぶらせた。
しかし、そんなネアの、栗蜜パイへの道を阻む敵が現れたのだ。
「む……………」
「おや、………」
何の危険もない筈の廊下を歩いていたネア達は、突如として目の前に現れたものに愕然としてしまい、ディノは慌ててネアを腕の中に入れた。
(どう見ても、……………綺麗な紺色の紐で縛り上げられたノアが床に落ちているような……………)
栞の魔物の祝福を持つネアとしては、何となく胸をざわつかせる光景だが、ノアはその方面の特定の縛り方をされているようには見えなかった。
寧ろ、謎の紐生物に襲われて逃げ出せずに力尽きた被害者という感じがする。
白い髪はくしゃくしゃになっているし、ぱたりと床に落ちた片手が何とも儚く悲しい。
一体何が起きたのだろう。
少しも状況が読めないので、ネアはおずおずともう一人の関係者に声をかけてみることにした。
「エーダリア様、何が起きたのでしょう?」
「……………すまない」
「ネア!それよりお兄ちゃんだよね?!お兄ちゃんを助けようか!!」
「エーダリア様が謝罪をされるという事は、この謎のうねうねは、エーダリア様の秘密のペット………?」
「ではない!捕縛したインク紐の怪人なのだが、私の不注意で逃してしまってな…………」
「インク紐の怪人さん……………」
「ノアベルトが……………」
ノアを助けなくてはと、試しにネアが一歩近づくと、紺色の紐はしゃーっとこちらを威嚇している。
紐なので蛇のように見えてもいいのだが、糸を編んだようなロープ状の紐は、表面をけばけばにするので、細長い森竜のように見えなくもない。
そんな生き物が廊下で荒ぶるのはたいへん奇妙な光景だが、捕らわれているのは、この世の理にも触れられるという公爵位の魔物の筈なのだ。
そんな美麗な魔物が、綺麗な紐にぐるぐる巻きにされて床にべしゃりと倒れ伏しているのだから、これを異常事態と言わずして何と言うのだろう。
「ノアが捕まってしまうくらいに、強い怪人さんなのですか…………?」
「この怪人は、幻惑を操るのだ。獲物が望むような情景を見せることで誘い込み、自分が動きやすい場所で獲物に絡みつくのだが………」
「なぬ。姑息なやつでした」
「私も、魔術書を預かったというヒルドの幻を見せられてここに来たのだが、偶然、ノアベルトが通りかかり、先に捕まってしまったことで、インク紐の怪人の仕業だと知る事が出来た」
「……………ヒルドさんの幻」
「ああ。このインク紐の怪人を最初に捕らえたのはヒルドだからな。姿を記憶していたのだろう。よく見れば足元に影がなかった筈なのだが、獲物の記憶の中からその姿を抜き取るので、かなり精密な幻を作れる生き物なのだ」
人間は、時として不都合な真実を受け入れようとしない愚かな生き物だ。
なのでネアはまず、へにゃりと眉を下げたまま、もう視界の隅に見えてきている会食堂の方を見た。
「……………エーダリア様」
「ど、どうしたのだ?」
「ロマックさんから、美味しい栗蜜パイの差し入れがあったのですよね?」
「ロマックから………?い、いや、私は聞いていないが………」
「さっき、ヒルドさんが、一緒に食べようと声をかけてくれたのです」
「……………ネア、…………その、非常に言い難い事ではあるが、ヒルドは所用で不在にしているのだ。つまりだな…」
「……………ぎゅ。栗蜜パイはないのですか?」
「お、恐らくは、インク紐の怪人の見せた幻だったのだろう」
そんな恐ろしい言葉を聞いてしまったネアの顔色は、どんなものだったのだろう。
ふるふるしながら振り返ったネアに、ディノは心配そうな顔をしてそっと頭を撫でてくれる。
しかし、みんながどれだけ同情してくれても、そこに栗蜜パイがないのであれば、ネアの心はひび割れたままだった。
「……………おのれ、よくも可憐な乙女の心を弄びましたね。ゆるすまじです!」
栗蜜パイへの憧れを無残に打ち砕かれたネアは、勿論、愚かなインク紐の怪人を許しはしなかった。
突然がすがすと床を踏み鳴らしたネアに、インク紐の怪人はびゃっと伸び上がってけばけばになっていたらしいが、怒り狂ったネアにはそんな様子は見えていなかった。
あっと声を上げた伴侶な魔物を振り切り、ノアを縛り上げている紺色の紐生物を鷲掴みにする。
邪悪で獰猛な人間に引っ張り出され、親の仇のように振り回されたインク紐の怪人は、このままではずたずたにされると必死に抵抗したのだろう。
「この愚かな紐めは、保冷庫に投げ込んでカチンコチンにしてくれる!!………ぎゃ?!」
「ネア!」
命を賭けた抵抗を試みたインク紐の怪人は、咄嗟に獰猛な人間を無力化しようとしたのだろう。
ぶんぶんと振り回す遠心力を利用してするりと体に巻き付かれ、ネアは思いがけない反撃に飛び上がる。
解放されたものの、まだ床に倒れたままでいたノアが、なぜか呆然と目を丸くした。
「ぐるる!私の体に巻きつくなど、何と不届きな紐生物なのだ!!漂白剤と共に水に漬けてくれる!」
「……………っ、ネア!ちょっとその巻き付かれるやつは駄目だから!僕はかなり色々経験してるけれど、視覚的にかなりいけないやつ!!」
「……………む?」
「ネア、その生き物を剥がそうか……………その、構わないかい?」
「ディノ……………?なぜ、ディノもノアも目が合わないのですか?」
「わーお、………これちょっと、扇情的すぎるぞ」
「ネア、そのインク紐の怪人は、希少な亜種なのだ。出来れば、箱か何かに封印出来ないだろうか?」
「エーダリアはエーダリアで、男なのにどうして目線がそっちなのかな?!」
「ノアベルト……………?」
ネアは、うねうね動くインク紐の怪人の首部分をがしっと掴んだところだった。
必死の抵抗を続けるインク紐の怪人は、ネアの体に巻きついた部分をぎゅっと締め上げたが、ネアが掴んだものを力任せに引き剥がすよりも早く、背後を見たままぴしゃんと凍りつく。
そのままがくがくと震え始めたインク紐の怪人に、ネアは、そろりと背後を振り返った。
そこに立っていたのは、美麗な森と湖のシーだ。
「おや、騎士達を転ばせるからと捕縛した筈のインク紐の怪人が、なぜネア様のお体に巻きついているのでしょうね?」
「ヒルドさん、こやつは、ノアを虐めただけでなく、私に美味しいおやつの幻を見せた卑劣な紐生物なのですよ!」
「……………成る程。まずは、解きましょうね」
優しく艶やかに微笑んだままではいたが、ネアは漸くここで、ヒルドが微笑んだままとても怒っている事に気付いた。
よく考えてみれば、捕まえた筈のものが脱走しているのだから当然かもしれない。
そう考えたネアは、ヒルドが失礼と一言詫びてくれた後、体に巻きついたインク紐の怪人をずるりと引き剥がしてくれる間は大人しくしていた。
正直、体に巻きついた紐を剥がすとなるとなかなか気恥ずかしい作業なので自分でやりたかったが、とてもではないが今のヒルドに逆らえる雰囲気ではない。
ヒルドを見つめたまま恐怖に震えていたインク紐の怪人は、そのまま抵抗も出来ずに回収されてしまい、エーダリアがすかさず広げた魔術仕掛けの封印箱に押し込められる。
容赦なくまとめられ、固結びにされて箱に放り込まれたインク紐の怪人に、ネアは思わず同情しそうになってしまった程だ。
「エーダリア様、くれぐれも管理を怠らないようにと、言いませんでしたか?」
「すまない……………。今回の事は、封印術式を属性に合ったものに書き換えようとした私の失態だ。ノアベルトが捕まるまで、脱走に気付いてもいなかった……………」
「ネイ、あなたまで捕らえられるとは思いませんでしたよ」
「僕のボールが転がっている幻を見せられて、屈んじゃったんだよね…………」
「ノアベルトが……………」
ディノは、友人がインク紐の怪人に捕まった理由がとても悲しいようだ。
ここでネアはすかさず、この邪悪な紐生物は、栗蜜パイを餌にして自分を捕まえようとしたのだと、悲しい声でヒルドに訴える。
「おや、ではちょうど良かったのかもしれませんね。私がリーエンベルクを空けていたのは、これを買ってきていたからでして」
そう微笑んだヒルドがどこからともなく取り出した紙袋を見て、ネアは、きらきらと光る希望の明かりを確かに見たのだと思う。
「栗蜜パイ……………」
「休憩時間にダリルのところを訪ねる予定でしたので、その帰り道に買ってきました。ネア様はこの栗蜜パイがお好きだった記憶ですが、ご一緒に如何ですか?」
「……………ぎゅわ。いいのですか?」
「ええ。皆で食べられるようにと、人数分買ってありますから」
「ヒルドさん!」
にっこりと微笑んでくれたヒルドの優しさに、ネアは自分の身に訪れた幸運が信じられずくらくらした。
どうやらこの午後は、予定通りに栗蜜パイを食べる事が出来そうだ。
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