78. お誕生日が始まります(本編)
日付の変わるちょうどその時に、ネアはお祝いの言葉を伝え、隣にいたディノにそっと口づけを落とした。
うっかり起きていた魔物に捕まってしまい睡眠時間を削る事になったが、そこはお誕生日の伴侶なのでやむなしとする。
水紺色の瞳を凄艶に細めた魔物の微笑みにくらりとした事を思い出してしまうとじたばたしたくなるものの、夜明けに目を覚まして隣を見ると、そんな魔物はすやすやと寝ているようだ。
寝台に広がった真珠色の髪は、光を孕むような宝石の煌きだ。
閉じている瞳にかかる睫毛も同じ色をしていて、頬には窓から差し込む淡い夜明けの光が影を落としている。
寝台の柱には鉱石の花が咲いてしまっていて、小ぶりな薔薇のようなふっくらとした蕾が愛らしい。
昨晩は夜空にオーロラが出ていたが、夜明けの光もいつもとは少し色相が違うような気がした。
(寝てる……………)
ぼんやりとした意識を瞬きで揺らし、ネアは、ディノの寝顔をこっそり眺めた。
昨晩の老獪さと、いつもの無垢さのこの差は何だろうと思いつつ唇の端を持ち上げて微笑み、そっと頭を撫でてやれば、ディノはぴゃっと体を揺らすではないか。
「むむ、さては起きていますね!」
「…………おいで。まだ夜明け前だよ」
「眠っているディノをこっそり大事にしようと思ったのに、罠にかけられました。なぜ私は、捕獲されているのでしょう…………」
「ネアだからかな」
「解せぬ……………」
落とされる口づけの温度に、ぐぐっと体を伸ばしてぴったりと寄り添う。
こんなに力を抜いていて、こんなに無防備でいても当たり前のように自分のものである大切な家族がここにいるのだと思うと、ネアは安堵と幸せでうっとりした。
目を閉じて幸せな眠りに落ちるその直前に、ディノが少しだけしょんぼりするのが分かったが、残念ながら眠気には勝てないのだ。
ただ、大事な魔物に寄り添ってしっかりとその温度に顔を埋めた。
「……………むぐ、朝です」
「おはよう、ネア」
「…………ディノ、あれから寝られましたか?」
やけに早いおはようの返しにそう問いかけると、吐息の温度も感じられる距離ですすっと視線を逸らす悪い魔物がいる。
ぐいっと背筋を伸ばしてこつんと額を合わせれば、ずるいと呟いて目元を染める儚い生き物だ。
「…………ネアが可愛い」
「今日は盛り沢山の一日なのですよ。疲れてしまいません?」
「ネア、私は眠らなくても平気なんだよ」
「平気だからといって、眠らなくてもいいという事ではありませんからね?本来なら起きる時間ですが、体の疲れが取れないようなら少し眠りますか?」
「…………起きる」
少しだけ頑固にそう言い張る魔物は、お誕生日のわくわくであまり眠れなかったようだ。
視線を窓の方に向ければ、この季節らしい柔らかな夜明けの霧に包まれた窓の外には、霧に混ざり込むようにして朧な虹がかかり、季節の花ではないものも満開になっている。
余談だが、ディノのお誕生日期間はウィームの土地の魔術に祝福が満ちるので、ワイアートなどは雪竜の仲間達の中で少しでも外に出られる者達を連れて、ウィームの森の中で過ごすのだそうだ。
ワイアート以外の雪竜達は、雪の降らない時期に外に出るととても眠たくなるようだが、それでもこの日の祝福に体を馴染ませる事には意味がある。
古傷や病が治ったりするだけでなく、寿命が延びたり魔術階位が上がったりするらしい。
こうして窓の外を見ているだけでも、霧に虹が溶け込むのだから、それだけの祝福を宿した霧というだけでも素晴らしい効果があるのだろう。
「ディノ、あらためてお誕生日おめでとうございます」
「…………有り難う」
「ディノとウィームの森で出会ってから、今日で三年目なのですね。伴侶になってからは初めてのお誕生日なので…………、ディノ、今日を頑張って生き延びて下さいね」
「………………ずるい」
素敵な一日にしましょうねと続けたかったネアだったが、魔物は既にくしゃくしゃなので諦めるしかないようだ。
手のひらでそっと頭を撫でてやり、さて顔を洗いにゆくかと立ち上がると、よれよれの魔物も、もそもそと起き出してついてくる。
ネアは一度、ディノの肩を掴んでくるりと後ろに回しておくと、すぽんとかぶる系の室内着を着てしまい、それからなぜ後ろを向かされたのだろうと困惑している魔物を元に戻してやった。
このあたりは、ネアとて淑女らしい恥じらいがあるのだが、魔物はあまり理解してくれない。
「ネアがいなくなった………」
「はいはい、また見えるようになりましたよね?顔を洗って来ますから、その後で三つ編みにしてあげますね」
「うん。…………ネア、顔にクリームをつけるんだよ」
「…………ぐぬぅ。ディノを味方につけた、恐ろしい使い魔さんです」
どうやらアルテアは、ディノに、人間の女性は、洗顔後には顔用の保湿クリームをつけないと肌が傷付きやすくなると説明してしまったらしい。
薄く伸ばしてべたべたしないくらいの量でと付け加えてくれるあたりがそつのない選択の魔物だが、お陰でネアは、洗顔後の行動を見張られるようになってしまった。
お陰で肌の調子はとてもいいのだが、眠たい夜などにその工程を省きたいこともあるのにと、がさつな人間は困っているのだった。
顔を洗うとディノの髪を梳かしてふんわり三つ編みにしてやり、ネアはそこに、今日ばかりはディノの好みを聞かずに新しいリボンをきゅっと結んでやった。
澄明な水紺色の瞳を丸くしてディノが見ているのは、こっそり買っておいた新しいリボンだ。
ディノが持っているラベンダー色のリボンよりも青みの強い色だが、天鵞絨の表面の毛艶で白灰色にも見える。
昨年のディノの誕生日の夜明けの色に似ていると思って衝動買いしたこのリボンは、ネアが、そろそろまたリボンを増やしてあげようと密かに用意していたものであった。
「……………くれるのかい?」
「はい。お誕生日の朝にデビューしたリボンなので、この子も使ってくれると嬉しいです。去年のディノのお誕生日の夜明けの色に似ていると思いませんか?」
「……………有難う、ネア」
そんな短い言葉を苦労して押し出すように囁くと、ディノは口元をむずむずさせながら、新しいリボンを指先でそっと撫でる。
瞳はきらきらで、窓の外の空にはオーロラのようなものまで現れているので、今頃ウィームの魔術大学は大わらわだろう。
ウィームの魔術大学では、ウィームの歌乞いの魔物のお誕生日を逃さぬよう保管庫の魔術書や魔術道具を並べ、窓を開けて霧の中からの祝福を移す作業をするのだとか。
リーエンベルクではエーダリアも同じことをしており、ディノの誕生日の朝のウィーム領主はとても忙しい。
「今日は、このドレスなのですね」
「うん。君の好きなポケットも沢山あるよ」
「あら、ディノの新しいリボンとお揃いみたいな色合わせになりましたね」
本日のネアの装いは、白灰色とラベンダー色の柔らかな雰囲気のドレスだ。
如何にもな堅苦しいドレスではなく、ネアの好きな着心地の良い柔らかなもので、敢えて見せる裾のチュールレースがふわっとけぶるような色合いを添えるあたり、過去にネアが大喜びしたドレスの傾向が生かされている。
シンプルだが優美さが特徴の仕立ては、恐らくシシィによるものだろう。
上品で繊細なレースの襟元の他には装飾がなく、ふわりと膨らむスカートが女性らしい艶やかさをしっかりと表現してくれるデザインだ。
「着てみました。どうですか?」
「……………可愛い」
最近のディノは、自分の用意したドレスを誕生日に着て欲しいようだ。
早速着替えてくるりと回って見せると、それだけで息も絶え絶えになってしまう。
去年は誕生日のディノからの贈り物ということで複雑になりもしたが、とても嬉しそうにしているので、有り難く受け取ることにした。
二人は手を繋いで会食堂まで歩いてゆき、その入り口で興奮した面持ちでやって来たエーダリアに出会う。
「おはようございます、エーダリア様」
「おはよう。ネア、ディノ」
「あら、………素敵なお花ですね」
「森結晶を外に出しておいたら、この通り満開に花が咲いたのだ。森結晶からこのように鮮やかな花が咲くのを、私は初めて見た………!」
エーダリアが手にしているのは、元々は、親指と人差し指で作った輪の大きさくらいの森結晶だったものだ。
それが今や、たっぷりと色とりどりの花々が咲き乱れる鉱石の株になっており、こんな風に元の結晶石の色とは違う花が咲くことの希少さは、もうネアにも分かるのだった。
「やあ、おはよう。………ありゃ、エーダリアのそれ、森結晶?」
「そうなのだ。お前に見て貰おうと思って持って来たのだが、森結晶本来の色彩の他に、四色も色があってな…………」
「わーお。こりゃシルに、特別にいいことがあったみたいだぞ」
「…………新しいリボンかな」
「ふふ、そのリボンを気に入ってくれたみたいで、とても嬉しいです」
新しいリボンを結んだ三つ編みを誇らしげに手に持ち、ディノは、また嬉しそうに目元を染めている。
「ディノのリボンとネアのドレスの色が、お揃いみたいだね」
そう言ってくれたのはゼノーシュで、こちらは愛くるしいクッキーモンスターが見せる魔物らしい側面として、同じ卓につくのだとしても、いつも先に食事を食べ始めている。
隣に座ったグラストも、お似合いのドレスですねと微笑みかけてくれ、こんな時にネアは、木漏れ日のような微笑みのこの騎士が、伯爵家で育った貴族なのだと思い出すのだ。
「ディノ、誕生日おめでとう」
全員が席に着くと、エーダリアが皆を代表してお祝いを言ってくれる。
まだ慣れない様子のディノが口元をもにょりとさせてから頷き、鮮やかな水紺の瞳を揺らした。
「おめでとうございます、ディノ様」
「シル、おめでとう。僕の義理の弟が僕より年上なんだからなぁ」
「ディノ、おめでとう。ネアがね、またフレンチトーストを焼いてくれたんだよ。僕、ネアのフレンチトースト大好き」
「ディノ殿、おめでとうございます」
それぞれにお祝いを貰い、ディノはまた大きく瞳を揺らしている。
エーダリアが窓の外を見て目を丸くしているので、外はどんな事になってしまっているのだろう。
「有難う」
そう答える声は昨年よりは安定しているが、それでもまだ慣れない嬉しさにもじもじしてしまうようだ。
お祝いが終わったのを見て運ばれて来たグヤーシュには、毎年恒例のメッセージが生クリームで描かれている。
ご結婚後最初のお誕生日ですねと書かれたグヤーシュをじっと見つめ、そのお皿をどこかにしまおうとするディノをネアが制止するのも、去年と同じだ。
「…………飲んでしまうと、…………この文字はなくなってしまうんだね」
「でも、ディノの為の美味しいグヤーシュですから、そのお祝いをお口に入れて味わってあげて下さいね」
「……………欠けた」
ネアに言われて、お皿の端っこからグヤーシュを飲んでいた魔物は、スプーンで掬って欠けてしまった文字を名残惜しそうに見ている。
けれど、リーエンベルクのグヤーシュはディノの大好物なので、口に入れるとそれはそれでとても幸せそうだ。
ディノの誕生日の朝食のメニューは、本人の希望で昨年とほぼ同じものになった。
グヤーシュとご主人様のフレンチトーストは欠かせないとおずおずと申し出てくれたディノの為に、ネアは、頑張って美味しいフレンチトーストを焼いてある。
シロップの甘い香りと、おかずフレンチトーストとして食べる燻製ベーコンやハム達との組み合わせは意外に皆に好評で、全員が同じメニューになっていた。
それだけでは足りないゼノーシュやグラストには他にも一品追加があるが、食事には妥協を許さないゼノーシュにもフレンチトーストを気に入って貰えているのは、ネアとしても嬉しい。
「まぁ、今年の付け合わせのハムは美味しいハムですね。しっとりしていて食べ応えがあって、…………少しだけ林檎のお酒のような独特の香りがします」
「…………わーお。ダンキンの林檎酒ハムだ。これ、滅多に食べられないやつだよ。確か、エーダリアも好物だよね」
「………………ああ」
ダンキンの林檎酒ハムは、燻製時に林檎のお酒を祝福蒸気にして部屋の中に充満させることで、林檎酒の香りのあるハムを作るらしい。
元は、ダンキンの蒸留場で作られる林檎酒のおつまみとして作られたハムだったが、ハムの好事家達にもいたく気に入られ、今では高級レストランや王宮などの前菜に出される事もあるらしい。
値段が特別に高い訳ではないのだが、流通数が少なく、あまり出回らないのだ。
「……………美味しいね」
「お誕生日の日に、また一つ新しい好きなものを見付けてしまいましたね」
「…………うん」
林檎酒ハムはディノも気に入ってしまったのか、ネアの作ったフレンチトーストと合わせて甘い塩っぱいの組み合わせでも、美味しそうに食べている。
朝は食の細いノアも、この朝食の組み合わせは好きだと綺麗に完食していた。
「ネア達は、今年も木馬に乗るんだよね」
「はい。他にもお誕生日チケットが使える施設があったので、シュタルトの湖底美術館や、シカトラームの特別区画の探検ツアー、歌劇場の昼公演など色々迷ったのですが、昨年は修繕中だったもう一台の木馬さんが戻ったと聞いて、ディノと相談してそちらにしたのです」
「いいなぁ、僕もそっちの木馬は乗ったことがないんだ。海底花火と星月夜なんだよね」
「ええ。海底花火は初めて見るので、帰って来たら感想を報告しますね!」
この、誕生日のおでかけについては、他にも様々な選択肢があった。
砂風呂のお誕生日チケットは拘束時間が長過ぎるので難しかったが、ザルツの動物園コースなどもあったものの、そちらについては、ディノがふるふると首を横に振った。
結果として昨年と同じ木馬になったが、ディノも海底花火を見たことはないそうなので、今からとても楽しみだ。
恙無く朝食を終えると、ネア達は早速その木馬に乗れるウィームの森に向かう。
今日はウィームらしく霧深い天気のようで、しっとりと立ち込めた霧に虹色が宿り、そこかしこに満開になった花々が咲き乱れる光景は、物語のような贅沢な美しさだ。
霧に濡れた花々には祝福が宿り、あちこちに煌めく人ならざる者達の光が、霧の中にぼうっと浮かび上がる。
二人が訪れたのは、ザルツに繋がる街道沿いの深い森で、今年は二度目なので間違えて反対側の森に向かう事もなく、可愛らしく花びらの敷き詰められた小道に入った。
「ふふ、この花びらがとても気に入ったのを思い出しました。これは、木馬さんに乗る為に魔術の道を敷く為のものだと聞いてはいるのですが、何だかこの道もディノのお祝いをしてくれているように感じてしまうんです」
「木馬が違うからかな。昨年の道とは違う属性の魔術を敷き詰めてあるようだ。ほら、花びらの色が違うだろう?」
「むむ、言われてみれば確かに、今年は、水色と黄色の花びらですものね」
森の中には、昨年と同じ素晴らしい彫刻を施した木のカウンターがあった。
今年の受け付け係は女性のようで、狼の頭に女性もののスーツの装いである。
カウンターの上には青磁の花瓶が置かれ、今年はそこに柔らかなピンク色の薔薇が生けられていた。
ふっくらとしたら花びらに乗った露が、しゃりしゃりとした祝福石に育ちつつあるのは、ここが霧深い森の中だからだろう。
歴史のある劇場の入り口のような優雅さに、ネアは気持ちが浮き立つのを感じる。
「予約をしています、ネアと申します。こちらが、お誕生日チケットです」
「ネア様、お待ちしておりました。昨年担当させていただきました支配人がご対応させていただく予定でしたが、先日のクッキー祭りで足を折ってしまい、本日はわたくしが担当させていただきますね」
「まぁ、クッキー祭りで…………」
どうやら、昨年この場所にいたのは、今は亡きウィーム王家から託された移動木馬の運用をしている妖精達の中でも、この施設の支配人という立場の人物だったようだ。
副支配人だという女性にお誕生日チケットを差し出せば、ぺたんとスタンプを押し、昨年同様に水晶を削いで作られた紙挟みに入れて返してくれる。
今年のチケットは、昨年の黒い木馬の時とは違い、本日乗る予定の赤毛の木馬に合わせて赤いチケットになっているので、それも嬉しかったのだろう。
ディノは、そんな記念のチケットを、大事そうにいそいそとしまい込んでいる。
優美な箔押しの金文字で誕生日優待と記されたチケットにも、これからの時間を思えば期待は高まるばかりだ。
「では、こちらからご案内いたします」
慇懃なお辞儀と共にメイド服の女性達がやって来ると、ネア達を赤い木馬のところへ案内してくれた。
「こちらの赤い木馬には、月結晶と夜琥珀の馬車をご用意させていただきました。ベルトを締めていただくと、観測魔術で体を保護させていただきます。肌に感じる風は、初期設定は小となっておりますが、男性側にあります森鉱石のボタンで、最大まで上げることが出来ます」
「まぁ!昨年のものは黒い木馬さんに白緑の馬車でしたが、今年の馬車は淡い金色に青みの強い菫色で何て華やかなんでしょう………」
ここにあるのは、元々はウィーム王家の子供達の教育用に作られた木馬型の使い魔だったものだ。
昨年の黒馬より一回り大きく、乗り場に佇んでいる赤い木馬はどっしりとした大きさだった。
手綱にはふんだんに宝石が飾られ、花飾りの手綱で精悍な美しさのあった黒馬より華やかな印象である。
聞けば、この木馬は、ウィーム国内を走った黒馬に対し、国外騎乗申請を出して他国の領土にも出かけてゆける仕様のものなのだそうだ。
「だから、こちらの木馬さんは華やな装飾なのですね。むふぅ、わくわくしてきました………」
「可愛い、弾んでしまうんだね………」
「そして、ほんの微かにですが、ふわっといい匂いがします」
「目眩しの魔術の香炉だろう。実際に外の国に出していた時には、それで災い除けにしたのだと思うよ」
ネア達が馬車に乗り込み、メイド服の女性達が馬車の横にあった踏み台を外すと、するすると息を吹き込まれたように質感を変えた木馬が、ヒヒーンと嘶いた。
毛並みを揺らし蹄を鳴らした赤い馬は、ふくよかな紅茶色の毛並みに瑠璃色の瞳をした美しさで、こうして馬車の上から見てみると、やはり黒馬よりも一回り大きい。
しっかりとした体の持つ力強さに、馬車の車輪ががこんと動く。
「わ、動き出しました!」
「ネア、乗り出してしまわないようにね」
だしんと強く地面を蹴ると、木馬は勢いよく走り始めた。
期待に胸を躍らせて座っているネア達を乗せて走る馬車の横を、ぎゅんぎゅんと森の景色が流れ去ってゆき、ざざんと森を抜けるとそこはもう、ウィームとは明らかに空気の違う夜空の上だった。
(わ、………………ぁ、)
その瞬間の驚きと感動は、言葉にならなかった。
突然、月の明るい晴れた夜の海の上に抜けるので、景色の変化の大きさに圧倒されてしまう。
大興奮のネアは、ディノの手をぎゅっと握ってしまい、隣の魔物がきゃっとなっているが、それでも足りずにネアは爪先をぱたぱたさせた。
「…………綺麗ですね」
「うん。星月夜だね。月の祝福がとても明るい夜だ」
心地よい夜風に髪が靡き、月光を浴びた馬車は眩く輝いていて、眼下に広がる海は南洋のものだろうか。
海上に落ちる馬車の影を追って波間に顔を出すのは美しい人魚達で、月の光に祝福の煌めきを纏う珊瑚が海の底で光っている。
そのまま沖合いに出てゆくと、月明かりだけで海底まで見通せる透明なその海に、どどんと花火が揺れた。
「……………か、海底花火です!」
「…………これが、そうなのだね」
海の中に、大輪の花火が揺れる光景は、えもいわれぬ幻想的な美しさだ。
海竜の宮殿や、海溝の人外者達の祝祭の日にだけ見ることの出来る海底花火だが、地上に住む者達が目に出来る事は滅多にないとされているものであるらしい。
星や月の祝福を受けた者達だけが、こうして空から眺める事が出来るそうで、月の魔物とあまり親交のなかったディノは、見るのは初めてなのだ。
花火が次々と打ち上がり、遠くの海のその中までもが鮮やかな色に染まる。
祝祭の花火には勿論祝福が宿るので、それを喜ぶように流れ星が海に落ち、今度は海面に花火のように鮮やかな星の光が広がる。
「…………君はまた、初めてのものを見せてくれた」
「今回は、二人で初めての海底花火でしたね。ディノと一緒にこんな素敵な花火が見られた事が、とっても嬉しいです」
「……………うん。ネア、…………有難う」
やがて、花火が打ち上げ終わり、静かな夜が戻ってきた。
月の光がヴェールのように下りる空を馬車で駆け抜け、今度は、海の中の生き物達が万華鏡の彩りの海の美しさを楽しむ。
ふっと体を寄せ、落とされた口づけに、ネアは、幸せで堪らない時のディノの瞳の煌めきに胸がいっぱいになった。
吸い込まれそうな程に深い水紺色の水面が、喜びだけの色できらきらと揺れている。
なお、ゆっくりと空の上で向きを変え、ウィームの森に帰ってゆく馬車の中で、二人は一度だけ肌に感じる風の量を変えてみたが、普通にしたところでネアが吹き飛びそうになったので、やはり魔術防御は大切であるという結論に達した。
「そして、今年は早めに到着された方はいなかったみたいですね」
「ヨシュアは、昼食から来るのだよね」
「はい。イーザさんもご一緒してくれて、昨年の顔合わせを出来たからと、今年はドリーさんも一緒にお昼を食べていかれるようです」
「今年もあの王子は来るのかな…………」
「個人的な予想ですが、ヴェンツェル様も来てしまうに違いありません…………」
しかし、二人がリーエンベルクに入ると、時間よりも早く到着したお客は、既に屋内に入っていた事が判明した。
「ほぇ、シルハーンだ。僕はお祝いに来たんだよ」
「…………申し訳ありません。また時間より早く行くと言って聞かずに、早めにお邪魔させていただいております」
ネアは木馬の強風で髪の毛がくしゃくしゃになっていないか心配だったので、一度部屋に戻ってから会食堂に行くと、そこには既にヨシュアとイーザの姿がある。
恐縮したように頭を下げたイーザの様子を見るに、また少し早めにこちらに着いてしまったようだ。
そんな二人と話していたヒルドに、ネアは、大興奮で海底花火の美しさを報告した。
「ほぇ、海底花火を見て来たのかい?」
「ウィームの森で、海底花火の見られる移動木馬に乗れるので、そちらで見てきたんです。ヨシュアさんはご覧になったことはありますか?」
「僕は雲の魔物だからね。いつだって見られるんだよ。僕はとても偉大だからね」
誇らしげにそう告げたヨシュアは、隣に座っているイーザにじっと見つめられ、不思議そうにしていたが、何かに気付くとぎくりとしたようにこちらを見た。
「シルハーン、誕生日おめでとう」
「誕生日おめでとうございます」
どうやら、お祝いを忘れていたらしく、そんなヨシュアの後から、イーザもお祝いを言ってくれる。
「有難う」
今回のディノは、すんなりとお礼が言えたようだが、言った後で少しだけ視線を彷徨わせた。
「やぁ、久し振りだなネア」
「ドリーさん、お久し振りです!」
そこにやって来たのは、火竜のドリーだ。
お気に入りだった竜の優しい微笑みは相変わらずで、ネアは久し振りに心をほんわりと包むような暖かさにじんわりする。
先日会ったワイアートも長身だが、やはり火竜であるドリーとは体格が違う。
騎士のようにしっかりとした筋肉のついた肢体は、竜姿になっても雪竜より体格のいい火竜特有の人型なのだ。
「おや、お一人ですか?」
「ヒルド、久し振りだな。さすがに今年も王都を空けさせる訳にはいかないからな。ヴェンツェルは置いて来た」
「それは妙ですね。こちらには、ヴェンツェル様の転移申請が届いておりましたが………」
「…………まさか」
ぎょっとしたように振り返ったドリーに、ネアは、ああやはり来てしまったのだなと、ディノと顔を見合わせる。
背後を見て小さく呻いたドリーに、そちらを覗き込むと、そろそろ達観の面持ちになったエーダリアの隣に立つ、盛装姿のヴェルクレア第一王子の姿が見えた。
「どうした?」
「どうしたじゃないだろう、ヴェンツェル!王都での式典に出ている筈だろう?!」
「今年は、父上に手を回して予め欠席とした。あの方には、朝の内に挨拶に出向き、不在の非礼を詫びておいたから問題ない」
「…………俺に言わなかったのは、わざとだな?」
「お前は過保護過ぎるのだ。…………久しいな、ネア」
「ご無沙汰しております、ヴェンツェル様。…………まぁ、目元はどうされたのですか?」
ふくよかな金髪に赤い瞳のヴェンツェルは、火竜の祝い子と並んでも引けを取らない男らしい美貌と、どこか尊大そうな微笑みの似合う、エーダリアの兄王子だ。
冷淡に見える事もあるが、なんだかんだでエーダリアをとても可愛がっており、今日も機会を逃さずにリーエンベルクに来てしまったらしい。
そして、そんなヴェンツェルの目元には、見慣れない一筋の傷がある。
傷の状態からすると、まだ新しい傷なのだろう。
なぜかヴェンツェルは、傷のことに触れられると僅かに視線を彷徨わせる。
言い難い理由でついたものなのかなと首を傾げたネアに、まだ遠い目をしているドリーが、この国の第一王子がどうしてそんなところに怪我をしたのかを教えてくれた。
「中庭に迷い込んだコグリスを撫でようとして、引っ掻かれたんだ」
「……………コグリスに」
「そのコグリスを捕まえて爪を洗い、周囲に血が落ちていないかを調べ、ヴェンツェルの傷の浄化治癒をしたりと、代理妖精達は大騒ぎだった。何度も同じような事をするので、嫌がる生き物を無理やり捕まえてはいけないと言ってあったんだが………」
「…………初めてではないのですね」
傷を完全に治癒していないのは、魔術的に万が一、その傷が呪いなどに紐付けられていた場合を考慮してであるらしい。
治癒してしまうと、後で証跡を辿れなくなるので、不確定な軽い怪我は敢えて一定期間残しておくのだ。
「迷い込んだ事で怯えていたのだろう。あの王宮の作りは厄介だからな」
「…………兄上、コグリスは最初に背中に触られるのを嫌がるのですが、腹部から手を入れましたか?」
「……………そうなのか?」
エーダリアからの助言を受け、ヴェンツェルは目を瞠っている。
これはもう、背中に触ってばりっとやられたのだなと、ネアは、ふうっと大きな溜め息を吐いて天井を仰いだドリーの方を見た。
ネアの視線に気付きこちらを見たドリーが、光るような黄金色の瞳を細めて、柔らかな苦笑を浮かべる。
叱ってはいても、この竜は契約の子供が可愛くてならないのだ。
「…………すまないな。俺に隠して、公務の調整をしてしまったらしい。ヴェンツェルも一緒にいいだろうか?」
「ええ、勿論です。去年と同じ顔ぶれで、賑やかな昼食になりそうですね」
「うん。…………いつものかな」
「あら、ディノはもう、ドリーさんからの贈り物に釘付けなのですね」
「はは、気に入ってくれているようで良かった。今年のものも、職人と相談して決めた自信作なんだ」
「ほぇ、僕はもう昼食を食べるんだよ」
「ヨシュア、本日は万象の君のお祝いの会なのですから、我が儘は控えて下さい」
「ふぇ、…………もう食べるんだよ………」
「おやおや、ではそろそろ始めましょうか。ネア様、ディノ様、宜しいですか?」
「はい!」
こうして、お誕生日の昼食が始まった。
本日にて、薬の魔物シリーズも三周年となりました。
いつの間にか長い物語からの長いシリーズとなりましたが、現在の継続理由まで読んでいただき、心より御礼申し上げます。
これからも、どうぞ宜しくお願いいたします!




