きらきら星と夕青の月
青い青い夕闇の中に、猫の目のような月が浮かんだ。
その細さに目を凝らし、月の横で瞬いた星の明るさに何となく目を奪われる。
ネアはその日、前夜祭という素敵なものを堪能するべく、ウィームの街へ繰り出していた。
「夏の名残りが僅かにあるのに、すっかり涼しくなりましたね。とても素敵な夕暮れで、嬉しくなってしまいます」
「……………うん」
「ディノ、美術館前の通りに公園がありますので、そこで少しだけ休憩しましょうか」
「……………うん」
同じような返事が繰り返されたので、ネアはちらりと手を繋いだ伴侶の方を見た。
ディノは魔物の王様らしく美しくきりりとしてはいるが、その目元は隠しようもないくらいに赤くなっている。
事の発端は、ゼノーシュの白いケーキだ。
グラストと歌乞いの契約をする前から憧れていたらしいそのケーキについては、これからも特別な思い入れがあるのだと話している愛くるしいクッキーモンスターにクッキーを渡しながら、ネアは、ディノにもそのようなものがあるのだろうかと考えた。
(薔薇の祝祭の時のように、何か叶えたい事を他にも持っていたら、せっかくお誕生日前だし叶えてあげたいな…………)
さっそく本人に聞いてみたのだが、ご主人様が生きて動いているだけでいいとの事だったので、これは要領を得ないなと聞き込み相手を変える事にした。
ネアからの聞き取り調査を受けたのは、ウィリアムとグレアムだ。
ギードは、仲良しの狼の群れが逃げ沼のような意思を持つ沼と戦っており、その助っ人として忙しくしてしまっていたので今回は聞き取りを見送ることにした。
そしてその結果、ディノは伴侶と手を繋いでのお散歩に憧れていたらしい事が判明したのである。
ディノに伴侶とのお作法を教えた包丁の魔物を見て憧れたようだが、なぜか、ディノは手を繋ぐと弱ってしまう。
本来ならいつでも叶えてあげられるのに、手を繋いでのお散歩はあまりしてこなかったなと気付いたネアが、特別なイベントとしての手を繋いで散歩を提案したのが事の経緯となる。
(それにしても、…………包丁の魔物さんか………………)
こちらの魔物については、ノアがあまりよく思っていなさそうな様子だったので、最近気にかけていたところだ。
ディノがどれだけ多くの事をその魔物から学んだかを思えば、ディノとは相性が悪くなかった魔物なのだろう。
しかし、考えてみれば、ウィリアムやグレアム、ギード達が特別に親しくしていたと聞いた事はないし、ディノからウィリアム達が側にいてくれたのだと聞いているように、包丁の魔物の話が出てきた事はなかった。
「ディノ、………前にも聞いた事がありますが、包丁の魔物さんはどんな方だったのですか?グレアムさん達とのことを知るようになってみると、その方が特別にディノと親しくしていたような話は聞かないのです」
なので、歩きながらそう尋ねてみると、こちらを見た魔物は少しだけ考える様子を見せた。
はらりとかかった前髪は青灰色に擬態しているが、ふとした時にそこに真珠色の美しい魔物の姿が重なる。
薄っすらとかかり始めた夜霧の中で、空にはこんな時間には珍しい虹がかかっていた。
以前に、内側に多くの魔術を蓄えている人外者は、擬態していても本来の姿が透けて見える事があると聞いたのを思い出し、ネアは、今のディノはそんな感じだろうかと首を傾げる。
かれこれ半刻くらいはもう手を繋いで歩いているので、歩道沿いの街路樹に花が咲いてしまったりと、あちこちに影響が出始めていた。
「……………そうだね、ウィリアムは彼に惹かれてもいたが、同じように嫌悪もしていたのではないかな。グレアムはそのような反応はしていなかったけれど、私にはあまり会わない方がいいと話していたね…………」
「…………なぬ。思っていた方と少し印象が変わってきました。なんとなくですが、グラストさんとドリーさんの間くらいの方を思い描いていたのです…………」
「そのような印象も、間違いではないんだ。彼は、穏やかな愛情や、身近な愛着などを司っていたから、多くのものを愛し多くのものから愛される気質を過分に備えていた。……………けれども、大衆の悪意という相反する気質も持っていて、その部分に触れてしまう者は、彼を苦手としていたのではないかな」
静かな声でそう語られ、ネアは眉を持ち上げる。
そう語る時のディノの眼差しに、僅かではあるが、恐れにも似た傷深い何かを見たような気がしたのだ。
「もし、ディノがその魔物さんを好ましく思っていても、その方がディノを傷付けるような事をしていたのだとしたら、私がずたぼろにします」
「…………ネア?」
「人間はとても獰猛で残酷なので、大切なものを損なわれたら、そんな事をした相手を許してはおきません。…………ディノは、包丁の魔物さんに沢山の事を教えて貰ったのだとしても、その方の事があまり得意ではなかったのではありませんか?」
繋いだ手をぎゅっとして尋ねたネアに、ディノはゆっくりと瞬きをし、深く深く息を吐いた。
美術館の近くにある美しい公園の街灯には魔術の火が入り、噴水の水にその光が煌めく。
夕暮れと夜の間の時間の青さは胸の中までが染まるようで、ネアは、空気に少しだけ潜む美しい祝祭の季節の予感に心が震えた。
今でもどうしてだか分からないのだけれど、イブメリアの気配に触れると、時折、無性に泣きたい気持ちになる。
それはきっと、誰もいない一人きりの屋敷で一人でケーキを食べた胸が引き攣れるようなクリスマスの記憶が、どれだけ幸せになっても決して消える事はないからだろう。
それはきっと、ディノもなのだ。
どれだけネアと手を繋いでいたとしても、心のどこかに孤独に喘いでいた時の苦痛は少なからず残る。
その全てを払拭したいと願うのは愚かな事だったが、ネアは、それでも大切な魔物の中にある辛い記憶の全てを踏み滅ぼしてしまいたいと願う、強欲な人間なのだった。
「…………どうなのかな。あまり、彼自身についてよく考えた事はないんだ。けれど、色々な事を教えてくれたし、彼がいなければ知らない事も多かっただろう」
「むむぅ。では、その方が近くにいて、ディノと仲良くしたいと思っていたら、お誕生日会に呼びたいと思いますか?」
「……………思わない」
その質問は悲しかったようで、ディノは、ネアをぎゅっと抱き締めて羽織りものになってしまう。
(…………ディノは、まだ好き嫌いが明確ではない部分もあるのに、ここまできっぱりと言うのだから、やっぱりあまり得意ではなかったのかもしれない……………)
しかし、せっかくの誕生日の前夜祭なのだから、悲しい思いをさせても可哀想だ。
ひとまず話は聞けたので、不確かな部分も多いので判断を保留としていた包丁の魔物については、あまり好きではないとしておくことにし、ネアは伴侶な魔物を丁寧に撫でてやった。
「では、そんな魔物さんが来たら私がぽいしますので、ディノは安心していて下さいね」
「……………彼はね、とても人間に好かれる魔物だったんだよ」
「……………ディノ?」
しかし、切り捨てて踏みつけてゆこうと思ったその話を、珍しくディノが続けるではないか。
話したいのであれば話して欲しいので、ネアは、静かな声でぽつぽつと切り出したディノをじっと見上げる。
幸い、公園の中に入ったので、立ち尽くしていても問題はない。
「確か、多くの方々に使われて望まれる事で、階位を上げた魔物さんなのですよね?」
「……………うん。だから、彼の知る事は私の知り得ない事で、…………君が来るまでは、私が決して手に入れられないものばかりを持つ魔物だった」
「…………それを聞けば、元の世界でちくちくのセーターを投げ捨てた私としては、とても苦手な方だと思わざるを得ません」
そう断言したネアに、ディノは僅かに瞳を揺らした。
その寄る辺なさと惨めさに、ネアは、遠い日の鏡の中の自分の姿を見てしまい、胸が締め付けられそうになる。
ネアは、空いている方の手をぐぐっと握り込み、これまでは、ディノに人間に寄り添った暮らしの親しみやすさを教えてくれたのかなと思っていた魔物への怒りが渦巻いた。
(その人が教えたのは、ディノの知らない事ばかりじゃない。…………私の大事な魔物に、寄る辺なさや惨めさを教えたのだ…………)
「…………君は、あまりそのようなものが、好きではないのだね」
「はい。私はとても心が狭いので、自分の持っていないものを見せつけ、それが普通なのだよと言われたら荒れ狂います」
「そのような者に、…………惹かれてしまう事はないのかな?」
「まぁ!もしかして、私がそんな魔物さんに出会ったら、ディノをぽいすると思っていたのですか?」
暗い目をしてそう問いかけたネアに、ディノはふるふると首を横に振った。
けれど、そのまま水紺色の瞳を揺らして黙ってしまった魔物は、とても怯えているようだ。
こうなってしまうともう、今夜が誕生日の前夜祭だとしても、ネアには、この話題を切り上げるつもりはなかった。
怖がっている大事な魔物をそのまま放置出来るはずもない。
何を恐れているのかと追及するべく、こてんと首を傾げてみせた悪辣な伴侶に、ディノは、途方に暮れたように視線を彷徨わせた。
やがて小さく息を吐いたのは、ネアに引く様子がない事を察したのだろう。
ネアの手首にそっと三つ編みをかけてから、酷く言い難そうにぽそりと告白する。
「…………彼に、………そのような事を可能とする者に出会うと、…………私が、人間が普通に望むような事すら成せないものなのだと、……………君に知られてしまうから」
「……………まぁ」
痛みを堪えるような静かな声に、ネアは絶句してしまった。
それが直接言われた言葉ではないにせよ、大事な魔物にそんな残酷な諦観を植え付けたのだとしたら、確実に有罪である。
「……………ノアがその方を好まない理由が、分かったような気がします。…………いいですか、ディノ。ディノはきっと、その方に知りたかった事を教わり、その方が多くの方に支持されていた事から、包丁の魔物さんを苦手だと感じてはいけないと無意識に自分を戒めているのです」
まずはそこを引き剥がしてしまおうと、ぴしりと指を立ててそう主張したネアに、ディノは目を瞠ってから、そろりと頷いた。
まだ納得は出来ていないようだが、この魔物は良くも悪くも、自信を持って言われた事に対して影響され易い面がある。
これは、ディノが万象だからこその資質でもあるのだが、狡猾な人間はそれを利用してしまう心積もりであった。
「そうなのかな…………。私が、普通ではなかったことと、普通のものがどのようなものなのかを知らないのは、確かだと思うよ…………」
「むぐぅ。私の大事な魔物をこんな風にしゅんとさせるだなんて、許すまじです!ディノはディノなので、それだけで私の望む大切な伴侶なのですよ!」
ネアは我慢出来ずに、しょんぼりしたディノをえいっと抱き締めてしまい、外では持ち上げにも難色を示すネアから、公園でいきなり抱き締められた魔物はへなへなになった。
大事な魔物が倒れてしまってもいけないのでと慌ててベンチに移動すれば、ちょうど座っていた二人組の男性が立ち上がったので、有り難く座らせていただく。
ぷんすかするネアに手を引かれ、魔物はよろよろしながら椅子に座った。
街灯の光に煌めく噴水の正面の、とても素敵な席だ。
ベンチの近くの花壇には、赤紫色のラベンダーのような可憐な花が咲いており、一緒に植えられた白緑色の葉っぱとの組み合わせが美しい。
ちかりと光ったのは、花壇の中で休んでいた妖精だろう。
今から光り始めるという事は、夜行性の妖精かもしれない。
「ディノは、私がちくちくのセーターを着られない、困った人間だった事を知っていますよね?」
「うん。…………今はもう、ちくちくしないセーターなのだよね」
「はい。ディノに出会えたので、私の手に出来るセーターは、つやとろの素晴らしい手触りになりました。でもそれは、ディノがディノだからなのですよ?」
ぎゅっと手を握ったままそう伝えると、やっとディノは瞳をきらきらさせてくれた。
嬉しそうにこくりと頷いた魔物に、ネアは胸がほかほかしてくる。
そうだ。
今日はディノに、ずっとこんな顔をしていて欲しかったのだ。
でも、そんな大事な魔物の胸に棘が残っているのなら、すぐにでも引き抜いてしまいたい。
ここにいるのは、大事な伴侶を大事にする、強欲な人間なのだ。
そう思ってふんすと胸を張ったネアに、ディノがふっと優しい目を向けた。
これは、寄る辺なく無垢な魔物ではなく、長命な魔物らしい、そして男性的な眼差しだ。
「…………包丁の魔物について、ノアベルトと話をしたのかい?」
「いいえ、話したいと思っていましたが、それよりも先にディノに話を聞いてしまいました。むぐる………これまでの私の包丁の魔物さんへの感謝を、慰謝料をつけて返して欲しいくらいです!」
低く唸ったネアの頭をそっと撫でると、ディノは淡い微笑みに魔物らしい思案を浮かべた。
今ではもう、包丁の魔物など見つけ次第に激辛香辛料油の餌食にすると決めている人間は、ぐるると低く唸った。
「……………湖での話で、君を困らせてしまったかな。ノアベルトは、トムファリドが嫌いだったようだ。…………ギードもかな」
「嫌われて当然ではないですか。よくも私の大切な魔物を…………」
「ネア、………私は彼がそのようなものだと、知ってはいたんだよ。それに、彼がそうして触れたその一端は、……………愉快ではないにせよ、私自身でもある。前に話しただろう?私の姿を見るだけで、狂死してしまう者も多かったくらいだ」
「ディノ!」
「………………今ではもう、君が変えてくれた部分もあるけれどね。………トムファリドにそれを知らされたからこそ、私は、…………普通の生き物なら、伴侶というものが得られるのだと知り、それがどのようなものかを考えたのだろう。私には得られる見込みがないものだとしても、それでも私もそのようなものが欲しいのだと、そう考えたのは彼に出会ったからだ」
でもそれは、他にもやりようがあった筈だ。
きっとあなたにもと話してくれたと言うグレアムのように、側にいてその心を案じてくれたウィリアムやギードのように。
ネアは、そう考えかけてから、件の包丁の魔物が、ディノの友人ではなかった事を漸く思い出した。
だからこそ、そんな仕打ちなのかと考え、また胸が苦しくなる。
「…………むぅ。であれば、その方との会話は、私をディノに会わせてくれた要因の一つでもあるのでしょう。だとしても、人間はとても身勝手なので、その方にはそれ以外の価値を見出せません。今はもうディノと出会えてしまっているので用済みですから、そやつを見付けたら、まずはずたぼろにします」
地を這うような声でそう告げたネアに、ディノは、もう包丁の魔物は代替わりしているよと教えてくれた。
言われてみれば、そんな事を誰かから聞いたかもしれない。
魔物という生き物は伴侶を喪いやすく、人間の伴侶を得ていた包丁の魔物は、伴侶を喪って崩壊したのではなかっただろうか。
「君の好むものが、私には与えられないものではなくて良かった。…………だから、そんなに悲しい顔をしないでおくれ」
「……………ぐぬぬ。ディノは、私に出会った事で変えられた部分があるのだと知りながらも、そんな意地悪魔物めが残した言葉を、まだ拾ってしまうのですか?その方の言葉が、自分の心を傷付けた事はもう分かっているのでしょう?」
目の奥が熱くなり、荒ぶる感情のままにそう尋ねたネアに、どこか悲しい目をした魔物は、そっと頬に口付けてくれる。
「皆と同じである事が、トムファリドの価値観の主軸であったし、彼は、あまりにも異質な私を、………憐れだと思っていたのだろう。………その示し方に、彼の資質の悪意が反映されたとしても、私はその事を知っていたのだから構わないんだよ」
「その魔物めの居場所はどこですか。代替わりしていても構いません、私が直接出向いて叩きのめし、ともかく包丁の魔物をやっつけたのだという事実を作ります」
「ネア……………」
困惑しているディノの胸を、ネアは、ばしんと叩いた。
はっと目を瞠り少しだけもじもじした魔物は、そうして叩かれる事が嬉しいのだ。
最初はとても慄いたばかりのネアも、今はもうこの行為が、親しい者達が笑い合いながら相手の背中や腕をばしんと叩く行為への憧れなのだと知っている。
それをディノは、親しいと認めて貰えたからこそ叩いて貰えると思っているのだ。
そうして、どこかで拗れておかしな願いに変わったディノの切望は、ひとりきりで生きてきた魔物の悲しい願いの声でもある。
(真っ白なテーブルクロスのように、無防備に見知った事を吸い込んでしまうディノにとって、私は、その魔物が良い話し相手だったとは思わない…………)
けれど、ディノが何とか説明しようとしているように、ディノは自分が彼と会話をする事で傷付く事を知りながら、それでもと対話を求めたのだろう。
愛する事に長け、愛される事に慣れていたその魔物と言葉を交わし、普通の生き物達の在り方や自分にはないものを見極めようとしたのかもしれない。
それは、わかる。
わかるのだが、どうしても我慢ならない。
「ディノはもう私の魔物なので、そんな魔物めより、私を取って下さい」
「ネア…………」
「いいですか、私にはディノです。どれだけ普通の事に長けた方がいたとしても、私はその方が差し出すものでは幸せになれませんし、その方を心の内側に入れる事もないでしょう。なので、私がディノの伴侶である限りは、自分には出来ない事があるのだと悲しい思いをしないで下さい」
「君以外の伴侶なんていらない………」
「………勿論、その方の残した言葉には、ディノに役立つものもあるのかもしれません。ですが、参照したものに対して怖さや悲しさを感じたら、都度私に確認して下さい。それは多分、ディノには不要な部分なのです」
「………………うん」
この美しい夜の始まりと同じ色の瞳を揺らめかせ、ぜいぜいと荒ぶるネアに、ディノは頷いてくれた。
伸ばされた指先がネアの頬に触れ、僅かな戸惑いを滲ませると、小さく首を傾げる。
「…………君を大切に思う時に触れるのは、それでいいのかい?」
「なぬ。質問系だということは、ディノは、それを考えると怖いと思ってしまうのですか?」
「……………君が嫌だったら、怖いかな」
そんな事を言う魔物に、ネアは前述の問いかけは正解なので、好きなように触れ給えと厳かに告げた。
漸く落ち着いた二人の関係だが、基盤になっていた包丁の魔物の教えを引っこ抜くとなると、また少しだけ揺らぐ事もあるかもしれない。
だが、そんな居心地の悪いマットレスは引き抜いて捨てるべきである。
ネアは、ちくちくしたりごつごつするものが大嫌いなのだ。
「手を繋ぐのも、包丁の魔物めのせいで、躊躇ってしまうのでしょうか?」
「…………手を繋ぐのは、愛情を示す行為なのだろう?」
「お、おのれ。それは正解なのです。…………でも、どこにも行かないようにの印や、一緒にいると安心するの印でもあるので、これからは沢山手を繋いで下さいね」
「…………ネアが大胆過ぎる…………」
「たいへん遺憾ながら、これ迄と変わらないやり取りになりました。三つ編みを引っ張って欲しいのは、包丁の魔物さん経由ですか?」
「グレアムだよ。彼の伴侶は、彼が抱き上げると、よくグレアムの髪を掴んでいたんだ。エヴァレインの暮らしていた土地の方では、愛情表現なのだそうだ。その土地に滞在していた時には、よく見かけたしね」
「…………むぐ。そ、それなら仕方ありません。爪先は包丁さん経由でしょうか?」
「ウィームの人間達は、よく家族の足を踏むだろう?」
「……………ウィームですか?」
またしても訂正対象ではないところからの引用のようで、ネアはぎりりと眉を寄せた。
少し深めに掘り下げてみると、どうやら包丁の魔物が残した言葉は、このようにしないと愛する者に見捨てられるだとか、普通はこうするべきで、それを為損じると嫌われてしまうと言うようなものが多かった。
幾つかむしゃくしゃするものがあったので、その格言は無効であると告げ、ネアは、三つ編みだけではなく、椅子までもがグレアム産だったことに打ちのめされていた。
(グレアムさんの奥様が、疲れたのであなたを椅子にするわと言って、度々お膝に座っていただなんて…………)
その仲睦まじい様子が羨ましかったディノは、ネアに椅子にされる事が嬉しいようだ。
グレアムについては若干の贔屓が発生してしまうネアは、グレアムを参考にしたご褒美の数々については、これを機に撤廃するという事が出来なかった。
(あ、……………)
そこで、ネアは漸く気付いた。
「…………ディノはきっと、包丁の魔物さんが好きだったのですね」
「……………え、………好きじゃない」
思いがけない疑いに、ディノは悲しげに眉を下げると首を横に振った。
なのでネアは、そのような意味ではないのだと慌てて言葉を重ねる。
「私も、憧れのあるグレアムさんやグラストさん、ドリーさんなどに、その方のように振る舞われたら、影響を受けてしまうのかもしれませんし、その人達のように振る舞えない自分に落胆してしまうかもしれません。ディノの心にその方の言葉が強く残ったのは、だからなのかもしれませんよ」
「……………それは、………君が、グレアムやグラストが…………好きだからなのかい?」
「ふふ、そんなに悲しげにしなくても、その好きは憧れのようなもので、伴侶や恋人に向ける好意とは違いますからね。…………例えるなら、明るい陽射しに焦がれて、光を受けようと手を伸ばしてみるようなものです。でも、私のディノが、そんな風に包丁の魔物さんに惹かれてしまうのはとても悔しいので、浮気をしないで欲しいです」
「……………ずるい」
「なぬ。なぜにくしゃくしゃになってしまったのだ。解せぬ……………」
二人は、その公園で暫くお喋りをした。
猫の目の月の隣の星は、恋人星と呼ばれているらしい。
三日月の近くできらきらと煌めく星が、月とお喋りをしているように見えるからだという。
それを知ったネアは少しだけ嬉しくなり、きらきら星が瞬く夜に、こんな風に過ごせた事を忘れずにいようと思った。
「ディノ、包丁の魔物さんの話をしてくれて有難うございました。…………きっと、話すのに勇気のいることでしたよね?」
「……………隔離地の船の上で、ノアベルトが君と話すようにと言っただろう?…………だから、………彼とのことも、君に話さなければと思ってはいたんだ」
微笑んで、甘えるようにネアに頬を寄せた魔物は、もうここ迄来てしまうと撤廃するのも不憫だと考えてしまった人間の弱さを知っているかのように、ネアの手のひらに三つ編みを置いてゆく。
(でも、…………この魔物が幸せなら、私はそれでいいのだわ………)
それこそ、こんな寄り添い方は、包丁の魔物の示す普通の規格には収まらないだろう。
そう思うととてもすっとしたので、ネア達はこれでいいのだろう。
(最初に、普通の在り方ではない私を、当たり前のように受け止めてくれたのはディノなのだから…………)
ネアが大事にしてくれると嬉しそうにしてくれる魔物だが、最初にその安らぎをくれたのはディノの方なのだ。
我が儘で強欲な人間に寄り添い、そんなネアがいいのだと全身全霊で愛情を示してくれた魔物だからこそ、ネアは安心して特等の魔物を私のものだと言えるようになった。
「ディノ、手を繋いで下さいね。お散歩しながらお家に戻りましょう?」
「…………可愛い」
「むむ、恥じらってしまわずに、その手を出すのだ!」
「……………ネアが可愛い。ずるい」
「ふむ。ディノの手を捕まえました。これで、また一緒に楽しく歩けますね」
手を繋いで夜のウィームを歩いてリーエンベルクに帰ると、ちょうど、晩餐の時間に間に合った。
ネアは、ディノがエーダリアと話している隙に、ノアの背中をつついて、包丁の魔物の話をした事と、そんな魔物の残した言葉は八割方ぽいっとしてしまうように話したのだと伝えると、ネアの義兄は、青紫色の瞳を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「さすが僕の妹だね。僕はさ、あいつが大嫌いだったんだ」
「私もです。今もその方が包丁の魔物さんであれば、箱いっぱいの豆の精を送りつけてやったのに、とても残念です………」
そう呟いたネアに、ノアは小さな秘密を教えてくれた。
「トムファリドを崩壊に追い込んだのは、ヨシュアなんだよ。まぁ、伴侶を亡くして崩壊を選んだのは本人だし、ウィリアムやグレアムもそれを止めなかったから、彼等も思うところがあったんじゃないかな」
それは、混じり気のない悲劇だ。
正しく優しい人間であれば、そんな事は喜ばないときっぱりと言うのだろう。
しかしネアはとても残忍な人間なので、知らない誰かの悲劇よりも、知り合いの魔物達の判断を取るのだ。
「きっと、ヨシュアさんを怒らせるような事をしたのでしょう」
「はは、だから僕は君が大好きだよ。なんてたって、僕もあいつを破滅させるつもりだったからね」
「…………もしかして、ノアもそやつに虐められたのですか?」
「そうかもしれないから、その胸にしっかりと抱き締めてくれるかい?」
「ネイ?」
「えっ、ヒルド、いつから後ろにいたの?!………わ、ごめん!ごめんって!」
叱られて連れ去られてゆくノアを見ながら、ネアはくすりと微笑んだ。
明日は、いよいよディノの誕生日だ。
かつて、あなたにはそれは得られないだろうと告げた包丁の魔物が大切なディノの心の内に残したものを取り払い、また一つ、新しいその日がやってくる。




