77. クッキーの怒りは甚大です(本編)
キャラメルクッキーを何とか倒したネアには、奮戦の反動が来ていた。
フライパンを振り回して戦ったのだ。
あの行いは、もはや淑女のものではなく、戦慣れした男性か、打撃系の競技を極めた誰かに任せるべきであった。
(でも、ディノの髪の毛にあのべたべたがくっついたらと思ったら、許せなかった…………)
恐らく人間は、怒り狂うと普段は発揮出来ない力まで使ってしまうのだろう。
絞り出した力のせいでへなへなのネアは、伴侶な魔物に持ち上げて貰って、体力回復の魔物の薬を取り出し、きゅぽんと栓を開けてぐびくびと飲んだ。
「ぷは!………これでまだ、三分の二だなんて…………。しかし、水路の仲間達はまだまだぐーぺこですので、引き続きクッキーどもを殲滅し続けます…………」
「ご主人様……………」
「ネア様、少し休まれては………っ?!」
「ワイアート!」
気遣わしげにこちらを見た雪竜の祝い子は、どこからともなく飛来した、メッセージクッキーに激突され、靴底でずざざっと石畳を滑りながら受け止める。
おおっとその様子に息を飲んだネアは、ワイアートが抱き込むようにして胸元に押さえ込んだクッキーが、結婚式などに用意されるお祝いクッキーである事に気付いた。
アイシングでデコレーションし、お祝い文字を入れて飾るものだが、その後は貰った人が何日かかけてゆっくり食べるといいらしく、ウィームのお祝いクッキーはとても美味しい。
しかし、このお祝いクッキーについては、部外者のネアから見ても大変な事になっており、これは確かに食べられなかっただろうなと思う。
「……………まぁ、恐ろしいメッセージが書かれています」
「……………これも、クッキーなのだね」
「…………これは、…………」
対峙しているワイアートも大変だが、彼の角度からではクッキーに書かれているメッセージは読めないだろう。
胸元に抱え込まれてこちらを向いたクッキーには、楽しげなお祝い文字が踊っていた。
「結婚のお祝いのクッキー板に、浮気相手との結婚おめでとうと書かれているのですから、きっと受け取った方は食べられなかったのでしょう。これは、まさに呪いのクッキーであると言わざるを得ません………」
そう呟いたネアに、すっかり怯えてしまった魔物がこくりと頷く。
穏やかで落ち着いた雰囲気のミカが顔色を悪くしているのは、その下に一生許さないと書かれているからだろう。
竜らしい力強さで、ワイアートが漆黒の装いも艶やかにそんなお祝いクッキーを半分に割ると、ネアは、なぜかとても穏やかな気持ちになった。
(何だろう。あの呪いが浄化されてゆくような気持ちになる…………)
割ったクッキーを水路に放り込もうとしたワイアートも、書かれていた文字を見てしまい青ざめている。
持っているのが嫌になったのか、慌てて水路に放り込むと、一際大きなパオーンという鳴き声が聞こえてばりばりむしゃむしゃと続いたので、無事に呪いのクッキーは何某かの生き物のお腹に入ったようだ。
これでもう、浮気を呪うクッキーが飛び回り、目にしてしまった人々の心を波立たせる事はないだろう。
とは言え、送りつけられたクッキーが一枚であればの話だが。
「ほわ。呪いが滅ぼされました…………」
「あのようなものも飛んでくるのだね。………浮気をされてしまったのかな………」
「あら、そんな風に悲しげにしなくても、ディノの伴侶はもう私なので、ディノが、あのクッキーを作った方と同じような目に遭うことはありませんからね?」
「…………そうだね」
水紺の瞳を僅かに揺らし、少しだけ袖口にクッキーの粉をつけた魔物がこちらを見る。
まるで、言われて初めてその事に気付いたかのようで、ほっとしたような目をしている。
こんな時にネアはふと、自分の大事な魔物は、ウィリアムのような生来の人間贔屓ではなく、人間の中であれば誰かの心に触れられるだろうかと、偶々視線を巡らせた先でネアを見付けただけなのだと思い出した。
(もし、人間という生き物の方が多くの珍しいものをディノに与えられるのだとしても、ディノにとって、人間程よくわからないものもいないのだわ…………)
今では大事な友達である、ウィリアムやグレアム達が友達であることすら分からなかった魔物なのである。
最も寄り添った同族に対してもそうなのだから、最も縁遠かったかもしれない脆弱な種族についての学びなど、つい最近始めたばかりのようなものではないか。
「とは言え人間はとても強欲なので、ディノは心配になってしまうのでしょうが、私はそのような事はしないので、安心していいんですよ」
「…………ネア、」
「ふふ、おろおろしてしまわなくても、そう考えたディノが不安に思ってしまっても、こうして私に問いかけてくれれば、困ったりはしません。怖いことがあれば、私に言って下さいね?」
「…………私の方が年上なのに、君は嫌じゃないのかい?」
「ええ。ディノは色々な事が出来て、色々な事を知っている頼もしい魔物ですが、人間の事についてというより、私自身の事についてはやはり、私が一番の専門家ですから。………先程のクッキーに込められた怨念は凄まじかったので、ディノも不安になってしまいますよね」
優しくそう言えば、目元を染めた魔物はぴゃっとネアにへばりついた。
よしよしと撫でてやっていると、なぜか、ミカとワイアートがじーっとこちらを見ている。
二人の問題で協力者を待たせてしまっていた事に恐縮し、ネアはぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありません、お待たせしてしまいました」
「いや、いつまででも見ていられるから気にしなくていい」
「…………いつまででも?」
「…………っ、」
ミカからの不思議な返答にネアは首を傾げたが、気を遣った訳ではなく本気でそう思ってくれているようなので、新婚さんのやり取りを微笑ましく見守る年嵩のご近所さんのような心境なのだろうか。
待っていてあげるので、しっかり話し合いなさいというような意味に違いないので、ネアは懐深い真夜中の座の精霊に感謝した。
ワイアートについては、まだ若い竜だと聞いているので、高位の魔物と人間のやり取りが珍しかったのかもしれない。
意識を周囲に向ければ、あちこちから戦いの様子が大きな音になって聞こえてくる。
どおんという爆発のような音や、ぎゃーという誰かの悲鳴。
川沿いにある作業小屋に貼られているのは、クッキー祭りへの注意喚起のポスターだ。
ここまでクッキー達が荒ぶれば言うまでもないが、観光客など、ウィームでのクッキー祭りの恐ろしさを知らずに軽い気持ちでやって来てしまう者達も少なくはない。
勿論、入領の際にはしっかり忠告し、尚且つそこかしこにポスターを貼ることで、じわじわと不安にしてゆく方式なのだが、それでも毎年犠牲者が出る。
ネア達ですらこれだけの思いをしているのだから、観光客が外に出ていたらどんな目に遭うのかは推して知るべしだ。
それ以降もクッキー達による襲撃は度々あったが、徐々にその数は減り始めていた。
これはまさかと、次の交差路のところで街の方を覗けば、案の定、クッキー達が集まって巨大化した祟りクッキーが立ち上がるところだった。
随分離れてはいるが、大きな広場に繋がる直線路だった為に、その向こうに歓喜に飛び跳ねるピンク色の雛玉が見えた。
ここからは、あの祟りクッキーを美味しくいただく、ほこりの時間になるのだろう。
「祟りクッキーが現れてしまうと、はぐれクッキーは少なくなりますから………ほわ、二体目が現れました!」
「…………何の形だろう」
「あれはもしかして、…………もちうさでしょうか…………」
集合し祟りクッキーと化したクッキー達は、何らかの生き物の形を取るようになる。
最初の一体は人型を取っていたが、二体目はなぜかまん丸輪郭を描く、愛くるしい餅兎を模したようだ。
何とも言えない戦いの光景に、ネア達は暫し呆然としてその姿を見つめてしまった。
祟りクッキーが二体も現れるという事から、今年の呪いのクッキー達の憎しみの強さが伝わってくる。
「……………む、むぅ。ほこりの健闘を祈り、アルテアさんがまたしてもさくさくバタークッキーの餌食にならない事を祈るのです……………」
「アルテアなら、近くにいるようだよ」
「なぬ。またしても、服の中にさくさくバタークッキーが入り込み、戦線離脱しているのでは…………」
ディノからなぜかアルテアが水路側に来ていると聞いたネアは、慌てて水路沿いの道を進んだ。
するとなぜか、先程まであんなにいたはぐれクッキー達の姿が一つもない。
二体の祟りクッキーに合流したのだろうが、それでも一つか二つはいてもおかしくないのだ。
これは妙だぞと首を傾げたネアは、大きな百日紅の木の下に、その理由を見付けた。
「アルテアさんです……………」
それは、凄艶な姿だった。
クッキー祭り用のぶ厚い手袋をはめ、ゴーグルをかけていても、選択の魔物であるとネアには分かる美しい男性が、積み重なった竜用クッキーの山の上に立っている。
くまさんやうさぎさんのクッキーはその靴底に積み上げられてじたばたしており、アルテアは敵を殲滅して荒い息を吐いたところだったらしい。
手袋の片方を外すと、指先で少しだけ襟元を緩めている。
そんな姿を見ただけで、ネアは、この戦場がどれだけ過酷なものだったのかが理解出来てしまった。
(でも、去年から竜用クッキーは、購入の際には自治体への申請が必要になった筈なのに、こんなに沢山どこから…………?)
そう首を傾げたネアは、忍び寄る敵への対応が一瞬遅れた。
「………っ、ディノ?!」
突然体がぐいんとなって目を丸くしたネアは、自分を守ってくれた魔物が竜用クッキーの二枚と対峙していることにぞっとする。
まだ生き残っていた竜用クッキーがネアに襲いかかってきたのを防ごうとして、躱すのではなく受け止める羽目になってしまったらしい。
ネアの声に気付いたのか、ぎょっとしたようにアルテアがこちらを振り返る。
「ネア!」
アルテアのその声の鋭さに、ネアが咄嗟に後ろを見たのは、長年の事故での共闘経験のなせる技だろう。
そこにいたのは、ゆらりと浮かび上がった抱き枕サイズのお祝いクッキーである。
おまけに、親しい仲間達からの笑いを込めたメッセージなのかもしれないが、早くも新婚太りおめでとうという文字が書かれていた。
その文字を見つめていると、ネアは、すとんと心の温度が下がっていった。
「……………なぜでしょう。こやつを見ていると、むしゃくしゃします」
「……………ネア?」
「おのれ、私の腰はちゃんと括れています!!意地悪な感じで私に近寄るのをやめるのだ!!」
決してネア宛のメッセージではないのだが、奇しくも新婚であり、先日からアルテアに食べ過ぎを指摘されていたネアは、身勝手な理由からこのクッキーを許さなかった。
秋から冬にかけてこそ、ネアの好きな食べ物が沢山出てくるのだ。
美味しくいただく幸せにかかる憂いを、心の狭い人間であるネアが許せる筈もない。
結果として、突然怒り狂い始めた人間の手によって、お祝いクッキーは鷲掴みにされ、水路に投げ飛ばされた。
大きなサイズのものを食べられるよう、お祝いクッキーはとても美味しい。
先程ワイアートが投げ入れたお祝いクッキーを食べてそれを知っている水路の生き物達は、喜びにばしゃんと跳ね上がり、ネアが投げ込んだクッキーにしがみつく。
もさもさのカワウソのような生き物と、昨年も見た蜥蜴尻尾な毛玉、そして最初にも見た狼のような者達が、お祝いクッキーをあぐあぐしながら、ばしゃんと水路に落ちてゆく。
直後、聞きようによっては、凄惨なばりばりむしゃむしゃの音が響き、美味しいお祝いクッキーは成敗されたようだ。
ネアは、ついでにディノを押し潰そうとしていた竜用クッキーの一枚も、わしっと掴むと、そのまま水路に投げ飛ばした。
きゃあっと歓声が上がり、嬉しそうにばしゃばしゃとクッキーに群がる水路の生き物達が、そんなネアの奮闘を助けてくれる。
残った一体はディノが水路に放り込み、続けて投下された大きなクッキーに、水路は大賑わいだ。
「竜さん用のクッキーは美味しくないということでしたが、水路の皆さんには好評のようですね……………」
「悪食のものも多いからかな……………」
「そして、ミカさんとワイアートさんが、さくさくバタークッキーに襲われています……………」
「……………うん」
ネア達が目を離した隙に、二人の協力者は、昨年には選択の魔物の心を殺してしまった恐ろしいさくさくバタークッキーと、懸命に戦っていた。
二人の人外者が、四枚のバタークッキーに翻弄される姿は悲しいばかりなのだが、割れやすく油分の多いこのクッキーは、たいそう厄介なのだ。
うっかり服の中に入り込まれると、昨年の惨事の再現になるので、ネアは低く唸って距離を置いた。
仲間を助けたくても、迂闊に手を出して潰してしまったら元も子もない。
ばしゃんと大きな音がして今度は何事だろうとそちらを見ると、竜用クッキーの大軍を滅ぼしたアルテアは、山になっている竜用クッキーは魔術の火で燃やしてしまうようだが、まだ動き、そこから逃げ出した者達を水路に蹴落としていた。
昨年の噂を聞きつけたらしく、水路の生き物達の数が増えたからか、そこで大量投下された竜用クッキーもあっという間に食べ尽くされてしまう。
「アルテアさんの方は問題ないようですので、ミカさんとワイアートさんを………」
ネアは何とかして二人を救出しようとしたのだが、当人達も、手が増やされたからと言って、バタークッキーを捕まえられる訳ではない事は承知していた。
悲壮な面持ちの精霊と竜から、ここは自分達で何とかすると言われ、ネアは不安に胸を締め付けられながらも、頷くしかない。
(でも、…………だいぶ落ち着いてはきているみたい。水路沿いの道も、あのバタークッキーで、そろそろ終わりかな…………)
時折、水路の方がきらきらと眩く輝き始めるのは、沢山のクッキーを食べて浄化されてゆく祟りもの達だ。
この水路の水が生活用水になることはないが、以前ネアが、祟りものや悪食達を水路に集めてしまうことが気になるとエーダリアに相談したことで、ウィームの魔術大学で水質調査が行われたことがある。
調査結果は予想外のもので、寧ろ水に祝福が増えているという報告が上がって来たそうだ。
もしかすると、こうして満腹で浄化されてゆく祟りもの達が、祝福などを落としているのかもしれない。
とは言え今年は落とすクッキーの量が増えたのでと、何度か水路を覗き込んだが、進んだ後にはクッキーの欠片一つ残さず平らげているようだ。
また、クッキー祭りの前後では、水路沿いの花壇の獣害が減っているという報告もあり、もしかすると何かの因果関係があるのかもしれない。
「それにしても、今年のクッキーの数は凄かったですね……………」
「昨年には、蝕などがあったからね。その時の為に日持ちするクッキーが蓄えられ、そのまま忘却されてどこかにしまい込まれている可能性が高いと、ヒルドが話していたよ」
「なぜか昨年のクッキー祭りの後に、さくさくバタークッキーも二回目の大流行が来ましたし、今年の春には葡萄クッキーのちび流行もありました。……………むぐ、葡萄パイ……………」
ふと、ここで参加出来なかった野外演奏会の葡萄パイへの憧れが溢れてしまい、ネアは悲しい目で遠くを見た。
ウィームの夏の野外演奏会は、美味しい葡萄パイをいただき美しい演奏を聴けるお気に入りの催しだが、残念ながらネアは、何かと巡り合わせが悪い傾向にある。
それについては忘れなければと、ネアはぶんぶんと首を横に振った。
ギャオオオオと、街の方から祟りクッキーの絶叫が聞こえてきた。
ぎくりとしてそちらを見れば、ゆっくりと崩れてゆくもちうさ型の祟りクッキーが見える。
人型のものは既に見当たらないようなので、もう、ほこりのお腹の中に入ってしまったのかもしれない。
びりびりと肌を震わせるような鳴き声は、祟りクッキーの断末魔のようなものなのだろうか。
最後に現れるという祟りクッキーが滅ぼされると、収束に向かうのがクッキー祭りだ。
であればそれだけを鎮めればいいという風にはならないのがこのお祭りの難しいところで、クッキー達は本気で憎い人間を滅ぼしにかかるので、人的な被害を抑える為にも少しでも数を減らしておかなければならない。
そんな難しさに思いを馳せていると、やっと竜用クッキーとの戦いが終わったらしいアルテアが、こちらにやって来た。
「おい、水路に術足の祟りものまでいるのはどういうことだ」
「むぅ。水路の仲間たちは、どこからともなく集まって来ているので、私もその履歴までは知らないのです…………」
打ち倒した竜用クッキーを片付けてしまったアルテアは、水路の中の構成員が気になるようだ。
顔を顰めてそう言うのだが、ネアとしても有志の仲間たちの履歴までを問うつもりはない。
やはり、祟りクッキーが倒されるとぐっと荒ぶるクッキー達が減るようで、水路周りはいつの間にか静かになっていた。
アルテアがなぜこちらにいたのかと思えば、一緒にいたゼノーシュから、水路沿いの道に竜用クッキーの大群が集まっていると聞かされてしまい、慌てて単身討伐に出たのだそうだ。
ネアは、事前に危険を排除してくれていたアルテアにお礼を言い、道中にどんな危険があったものか、髪の毛についたバタークッキーの粉を払ってやった。
(あ、良かった………。あちらの二人も、無事に終わったみたい………)
ネアは、ぴったりとくっついて辺りを警戒しているディノを連れ、最後のさくさくバタークッキーを何とか捕獲し、水路に放り込んだワイアート達の方に歩いて行った。
勿論、相手はあのさくさくバタークッキーなのだ。
二人の息は上がり、ミカの顔色は悪く、ワイアートはまたしても涙目になってしまっている。
苦し気に息を吐く二人は、バタークッキーの粉まみれになっているので、やはり、割れやすく崩れやすいバタークッキーに悩まされたのだろう。
「……………ご心配をおかけしました。砕かないようにしたのですが、やはり手が触れると崩れてしまい、…………っ、」
「まぁ、ワイアートさんは、服の中に入られてしまったのですね…………?」
「ミカが、かなり防いでくれたのですが、少し入り込まれましたね……………っ、」
「だ、駄目ですよ!本体が滅びれば鎮まるので、もう少しだけ辛抱して下さい!!」
涙目で眉を寄せ、粉だらけの手袋のまま服の中に手を突っ込もうとする雪竜に、ネアは慌ててもうすぐ終わると教えてやった。
本体というか、そのクッキーの大部分が排除されてしまうと、残された粉の部分もただのクッキーの粉に戻るのだ。
よほど辛かったのか、なりふり構わずに取り払いたくなったのだろうが、手袋についた粉と油分で服の内側がべたべたになるし、場合によっては新たな敵に服の中に侵入されてしまうかもしれないので、戦場では危険な振る舞いに当たる。
ネアにさっと両手を掴まれて拘束されてしまったワイアートは、鮮やかな水色の瞳を瞠って何やら目元を染めるので、取り乱した自分の振る舞いが恥ずかしかったようだ。
昨年、バタークッキーの服内への侵入を許すという悲劇に見舞われたネアは、経験者の厳かさで優しく頷きかけてやった。
砕かず捕まえようとしたものか、袋のようなものに捕獲したバタークッキーを水路に落としているミカがこちらを振り向き頷くと、何とか服の中に入ったクッキーの粉の蹂躙を耐えていたワイアートが、ほっとしたように体の力を抜く。
ようやく悪夢が明けたとでも言わんばかりに、安堵と充足感に満ちた目をしたミカが、こちらに戻ろうとした時のことだった。
ネアは、そのミカに向かってぎゅんとこちらに飛んできたクッキーを目敏く見付け、さっと片手で掴み取り、クッキーが飛んできた勢いをそのまま生かし、体を捻って水路に放り込む。
直後にしゃっとその場から飛び退ったのは、掴んだ感触的に、敵がさくさくバタークッキーだと判明したからだ。
投げた際に剥離した、手袋についた粉に近付かれないように、水路で本体が滅ぼされるまでの時間さえ稼げばいいと思いそうしたのだが、幸いにも、おまけでやってきた最後のおやつに歓喜した水路の生き物達によって、バタークッキーはあっという間に食べられてしまったらしい。
手袋についたままの粉に襲われることもなく、ネアはふうっと男前に息を吐く。
「ふぅ。これで終わりだといいのですが…………」
「すまない。助けられてしまった」
「いえ、今回は私が素早く対応出来る場所にたまたまいたのです。どうやらこのクッキーは、近付かせずに初動で滅ぼした方がいいようですね………」
こちらに戻って来たミカは、頬にクッキーの粉がついている。
頬っぺたにばちんと当たられてしまったのだなと思い、ネアは、こちらに来たミカに手を伸ばし、そんなクッキーの粉を払い落としてやった。
目元を染めてお礼を言われたのだが、ミカがいなければ、ネア達はお好みクッキーのところで命を落としていたかもしれない。
仲間達がいたからこそ、こうして戦いが終わるまで生きていられたのだ。
「おい…………」
「なぬ、アルテアさんも、クッキーの粉を払って欲しいのですか?」
「そのくらい自分達で出来るだろうが。放っておけ」
「仕方がありませんねぇ、ささ、屈んで下さい。前髪に粉がついていますよ」
ぶつぶつ言いながらもアルテアは屈んでくれたので、ネアは手袋を外して髪の毛についたクッキー粉をはらってやった。
「もう、残ったものはいないようだね」
「はい。厳しい戦いでしたね。キャラメルクッキーが食べたいです」
「ご主人様………………」
さっきまで戦っていた相手を食べたいと言ったネアに、ディノはすっかり怯えてしまい、慌てたように羽織りものを再開する。
アルテアも呆然としているし、ミカとワイアートは青い顔でふるふるとしていた。
しかしながら、人間とは現金な生き物なのだ。
もうクッキーが荒ぶらないのであれば、この街中にクッキーが溢れ、クッキーの甘い匂いに晒されていただけ、美味しいクッキーが食べたくなるのは、当然の理であった。
今年のクッキー祭りでは、エーダリア達もかなりの苦戦を強いられたらしい。
四箱相当のさくさくバタークッキーに囲まれて死をも覚悟したが、とっさにノアがエーダリアとヒルドを抱えて離れた場所に転移し、包囲網を切り抜けたのだとか。
後はもう、麗しいウィーム領主を狙ったクッキー達を、バンルの指揮の下で庇護欲に燃える領民達が撃破してゆき、事なきを得たらしい。
今年のクッキー祭りでは、ウィーム全土の被害者の総計はかなりのものになった。
重軽傷者は数知れず、死者は四十三名にもなってしまい、行方不明者も十一名出ている。
今後は、有事の際の備蓄用のクッキーの管理も問題になってくるようだ。
ダリルの号令から、ウィーム領では備蓄食料管理リストが配布されることになり、備蓄した品々の把握が徹底される事になる。
なお、祟りクッキーを二体も食べてしまったほこりは、幸せいっぱいでずどんばすんと少し重くなった弾みを披露してくれた。
きらきらと輝く大きな琥珀色の宝石を吐くとネアにくれたので、この宝石はクッキー祭りの被害補填に充てさせていただく事となった。
満腹なので、帰る前にネアともたっぷり触れ合えたほこりは、幸せでとろとろになって帰宅し、ジョーイやルドルフにとても楽しかったと報告したようだ。
後日、ご機嫌のほこりはたいそう可愛かったと、二人の魔物からウィームに感謝の手紙が届いたのだという。




