10. 最後まで気を抜いてはいけません(本編)
議事堂を出ると、そこには普段は品行方正なウィームの人々の面影はなく、あちこちで荒ぶる祝祭の賑やかな声が聞こえてきていた。
エーダリアや主だったリーエンベルクの騎士達が会場から離れる昼食の時間で、領民達が羽目を外すのが恒例なのだが、今年はなかなかの大騒ぎだったようだ。
ウィームでは特に政治的な不満などを領民達から耳にすることはないが、それでも、この祭りのような息抜きは必要なのだろう。
この土地では、古くからある祝祭を使うことで、効率的に民衆の心の手入れをしてきたようだ。
エーダリア達が姿を現したことで、どこか夢から覚めたような表情を浮かべる人々があちこちにいる。
紳士達は帽子をかぶり直し、女性達は捲り上げていたドレスの裾を撫で付けては、近くにいた女性達とあらあらうふふと微笑み合う。
傘と荒ぶる饗宴の時間はここで一区切りとし、これからの午後の時間は、こちらも羽目を外してすっきりした傘達が本格的に昇華を始めるのだが、それもまた壮観なのだ。
ネアは、最後の上昇気流で舞い上がる傘達が一斉に光の粒子に変わる瞬間を、今から楽しみにしていた。
「ヒルド、学院の魔術師達の姿がもうあるようだが、休憩時間の徹底は済んでいるだろうか?」
「ええ。アメリアから一斉に通達が成された筈です。騎士達と入れ替えで、昼食休憩を取らせないといけませんからね。………恐らく、彼らは早めに昼食を終えて出てきてしまったのでしょう」
議事堂を出るなり、きりりと仕事モードに戻ったエーダリア達からは、そんなやり取りが聞こえてきた。
エーダリア達だけでなく、リーエンベルクの騎士達も議事堂の中に入ってしまう時間は、街の騎士団に所属する騎士達や魔術師達が、きちんと街の様子に目を光らせてくれており、問題が起こればすぐさま議事堂の騎士達にも連絡が入るようになっている。
彼等は入れ替えで昼食となるのだが、学院の魔術師達の中には、初めての祝祭管理の仕事に休憩を取らずにはしゃいでしまう者達もいるので、休憩時間の最初には点呼のようなものまであるのだそうだ。
「……………そして、あちらのご婦人は、まだ戦っていたのですね」
「うん………………」
「もはや、あの一角だけ試合観戦のような様相です…………」
ネアが、議事堂を出てすぐさま目撃することになったのは、昼食前に夫人傘と取っ組み合いの戦いをしていた黒髪のご婦人だった。
長い戦いを経てとうとう傘に勝利したらしく、くしゃくしゃになった傘を片足で踏みつけ、両手を上げる勝利のポーズをして、周囲の観客達の喝采を浴びていた。
「ローラ、よくやった!傘になって戻って来た愛人なんて引き裂かれて当然よ!!」
「お母さん格好いいわ!!私、お母さんはやる時はやると信じていたの!」
「くっ、正妻が強過ぎる…………!人間のくせに……………」
「ローラ、甲斐性なしの旦那なんて捨ててしまえ!僕と結婚しよう!!」
「っ?!それは、幼馴染だった私の台詞ではないか!そもそもお前は誰だ?!」
ネアはその光景を見守り、愛人とやらがどんな種族の生き物でどのような生き様だったのかが、とても気になるという結論に至る。
野次馬達の言葉から聞けばどうやら人間ではなかったようだし、現在は傘になってしまっているらしい。
(傘になってしまうとなると、竜さんだったのかしら…………)
傘骨になりがちな竜かなと思ったところで、この光景は魔物には刺激が強かっただろうかと、そろりと振り返る。
すると、背後には案の定怯えきってしまっている憐れな魔物がいたので、美しい水紺色の瞳を揺らしてへばりついてきた魔物の腕に、そっと手を当てた。
「ご主人様……………」
「まぁ、すっかり怯えてしまいましたね。けれども、奥様と愛人さんとなると、あのくらい荒ぶることもあるのかもしれません…………」
「そういうものなのだね。…………ネア、私は君以外の者はいらないから、あんな風に戦わなくていいからね」
そんな言葉にふと、ネアは、自分もいつの間にかそちら側の立場になったのだと再認識する。
一般論の議場では得てして、人は手に入れたものから徐々に執着を失うと言われていたし、先程そんな人々の願いから派生してしまった妖精に出会ったばかりだ。
だから多分、少しだけ不安になったのだろう。
「………………ええ。そもそも私は、浮気が発覚した場合は、自分の心がくしゃくしゃになる前に、その元凶をすぐさまぽいします。なお、何らかの弊害的事情により浮気に至った場合のみ、その理由を考慮しますので、忘れずに申請して下さいね?」
「…………………浮気なんてしない」
ふるふるしながらそう宣言したディノに、ネアは少しだけほろ苦く微笑む。
「……………きっと、動きのあるものだからこそ、心が変わるということなどないとは、誰にも言えないものなのでしょう。でも、私はきっとずっとディノが大好きなので、もしディノの気持ちが変わってしまった場合は、浮気をする前に相談して下さいね?」
「ネアが虐待する……………」
「これは、私なりの保身のようなものなのです。本当は、私だってずっとディノと仲良くしていたいのですが…………むぐ?!」
ここでネアは、荒ぶる魔物に持ち上げられてしまい、物理的な捕獲はならぬとじたばたした。
「ネア以外はいらないよ。だから、もしもだなんてことは、もう二度と言わなくていい」
「……………も、毛布の妖精さんとかが現れても、心を動かされません?」
「困ったご主人様だね。毛布よりも君が大切だから、そのようなものが現れても浮気なんてしないよ」
魔物は、荒ぶる素振りを見せながらも、そうやって不安がられたのは嬉しかったようだ。
ひたりと微笑むと、ネアの瞳を覗き込み魔物らしい鋭さで頷いてみせた。
「…………良かったです。白状しますと、私はローストビーフの精が現れたらと思うと、少しだけ不安になってしまうことがありますから…………」
「ローストビーフなんて………………」
ネアは、時々意識がローストビーフやお菓子に吹き飛んでしまう自分の軽薄さを恥じ、伴侶の心の強さに感謝した。
「……………ローストビーフには、その種の生き物はいない。安心しろ」
「む。アルテアさんが言うのなら間違いありません!」
「さっきの柱の影の妖精といい、お前の重心の傾き方は、一片の情緒もないな…………」
「…………あれは、妖精さんが勝手に、私の浮気相手としては綿菓子に及ばないと判断したのです。私とてさすがに、綿菓子と伴侶では伴侶の方が大切ですよ?とは言え、あの妖精さんと比べれば、綿菓子と言わざるを得ませんが……………」
「ご主人様……………」
そんな一言になぜかディノはたいそう怯えてしまい、これからも食べたいものは自由に食べていいし、欲しいものがあれば好きなだけ買ってあげるので、離縁しないで欲しいと涙目で訴えられた。
ネアは、そんなことでは離縁しないと言いかけたものの、ふと考えを改める。
何かと束縛も激しい魔物という生き物なので、何としても食べ物の制限だけは受けないようにしなければならない。
「…………確かに、それをする余裕があるにもかかわらず、健康上の理由などもなく食べたいものも食べさせてくれない伴侶は、ぽいするしかありません…………」
「ネア、君には、食べたいものを食べさせてあげると約束するよ」
「お前な、そこまでのことか…………」
(おや、……………?)
ネアはここで、そんなアルテアの反応に少しだけ意表を突かれた。
どうやら魔物は、生涯一人の伴侶しか選ばないからか、食べ物の好みの不一致での離縁という認識はないらしい。
人間はと言うと、日々の生活の喜びに直結する問題でもあるのだし、なくもない理由だと思うのだが。
なので、人間はそのような理由でも離縁する事があるのだと伝えておけば、なぜか魔物達は呆然とするではないか。
「……………は?」
「え、……………人間ってそんなに残酷なことするんだ…………」
こちらのやり取りを聞いていたらしいノアですら、怯えを含んだ眼差しで振り返り、隣にいたエーダリアが苦笑した。
「魔物には、そのような形での意見の相違はないのか…………。ウィームの商工会議所の役員も、食べ物の好みの違いで離縁した者がいる。食べる事が楽しみでならない夫君と、偏食が激しかった夫人との間では、諍いが絶えなかったそうだ。…………大恋愛の末の結婚だと聞いていたのだが、やはり生活を組み立てる上での大事な要素の一つなのだろう」
「………………わーお。食べ物の問題は蔑ろにはしないし、寧ろ、女の子には好きなものを食べさせてあげる主義だけど、そこまでだとは思ってなかったよ……………」
「おや、魔物の方々はそうなのですね。妖精にも、その種の議論はありますよ。同種族間では同じものを食べますが、異種族間ともなれば好みが変わってきますからね」
妖精の場合は、伴侶は嫁いだ先の妖精の資質を徐々に身に宿してゆくのだが、相手がその変化を受け入れ難い高階位の生き物である場合は、侵食の魔術でどちらかの食の嗜好を変えてしまうこともあるらしい。
そんな会話をしていると、ふわりとこちらに舞い降りてきた傘がある。
くるくると回りながら、何やら贈り物のような袋をエーダリアにばさばさと落としたのは、午前中は大活躍した山猫の傘だ。
「まぁ!傘さんから、エーダリア様へのお土産でしょうか?」
「……………こ、こんなにか?!」
「ふふ、これは、お持ち帰り用の綿菓子のお店の袋ですね。支払済の紙が貼られていますが、…………まぁ、お支払いは歌劇場のご主人だそうですよ。…………むむ!こちらはエイミンハーヌさんからの、お酒の小瓶です!」
昨年にネアが散歩させた紫の傘のように、力比べで負けた相手から綿菓子を巻き上げ、ネアに奉納してくれたという例もある。
この山猫の傘はどのような手段で贈り物を集めたのかは謎だが、ネアはなんとなく、勝負ごとで勝ち得たものではなく、お布施を集めて回ったという形ではないかなと考えた。
(そして、私の呪いの傘さんはどこに行ったのかしら……………)
山猫の傘と一緒にいたものか、ヒルドの傘もこちらにやって来ると、くるりと回ってみせて街の散歩に満足した様子を伝えているし、グラストの傘は、何やら向こうで騎士達と賑やかに盛り上がっていた。
「……………ほわ」
そこにやって来たのは、斑らの墨色が美しい、白い傘骨のノアの傘だ。
ノアの前にではなく、ネアのところに飛んでくると、柄の部分に引っ掛けた小さな小袋を渡してくれる。
「ありゃ、すっかりネアに懐いたなぁ…………」
「まぁ、私にくれるのですか?…………むむ、こちらのお支払いは、ヨシュアさんなのですね?」
どうやらその傘は、ヨシュアと接触の上でこの品物を貰ってきてくれたらしい。
ヨシュアと言えば、白持ちの魔物であるのは勿論のこと、残忍な公爵の魔物として人間達には恐れられている。
そんな魔物がまたしてもウィームのお祭りに参加していることもそうだが、傘に負けてしまったのかなと、ネアは何だか少し心配になった。
(多分、寒いのが苦手なのだから、お祭りはイーザさんに連れて来て貰ったのだと思うけれど…………)
傘に負かされたとしたら、どこかでまた泣いていそうだ。
「傘さん、開けてみてもいいですか?」
「…………何が入っているのかな」
先程の浮気しない問答でネアはまだ魔物に乗車中であったので、その状態のまま袋を受け取ると、ディノも一緒に手元を覗き込む。
ネアは、思っていたよりも重厚で美しい金色の封印シールを剥がして袋を開けてみた。
するとどうだろう。
中から出て来たのは、素晴らしい琥珀色の天鵞絨の小箱で、かぱりと開けてみれば傘祭りの記念金貨が収められているではないか。
「……………とても高価なものですが、良いのでしょうか?」
ぴかぴか光る美しい金貨に驚いたネアがそう呟けば、傘はこくりと頷いてくれる。
(わ、…………凄く綺麗だわ)
小さいながらにずしりとした金の重みのある金貨には、今年の年号と可愛らしい傘の絵があって、見ていると何だか楽しくなった。
琥珀色に橙がかった深みのある天鵞絨の小箱の色合いは、普段ネアが好んで買うような色合いではないのだが、そんな慣れていない色彩の思わぬ美しさにも目を惹かれる。
「…………ディノ」
「繋ぎの魔術は切ってあるようだから、受け取っても問題ないよ。傘からの贈り物となると、この祝祭の魔術においてはその持ち手に魔術が紐付けられる、この傘はノアベルトの管轄になるからそちらも問題ない」
「良かったです!この綺麗な贈り物がすっかり気に入ってしまったので、受け取れなかったら悲しかったですから」
「………………離婚はしない」
「……………むぅ。そんなことでは離縁しません」
一方で贈り物の袋まみれになったエーダリアは、ヒルドと、慌ててこちらに駆けてきたゼベルの助けを借りて贈り物をどこかにしまい一息ついてから、得意げな山猫の傘を撫でてやっていた。
その傘の持ち主であったバンルの使い魔は、もさもさとした赤茶色の毛並みを持つ俵型の山猫であったそうで、リーエンベルクの門の一つには、その山猫に贈られた紫陽花が有名な門がある。
使い魔を得た今のネアであれば、その山猫が亡くなってしまった時に、泣きながら見事な長い髪を切ってしまったバンルの気持ちも分かるかもしれない。
今は恋多きことで名を知られる元カルザーウィルの夏闇の竜の王子にとって、その山猫のドロシーは、大切な家族のようなものだったのだろう。
ふと、隣に立って若干遠い目でウィームの喧騒を眺めている、アルテアの横顔を見た。
目元は帽子の影になっているが、それでも人ならざる者達特有の、光を孕むような鮮やかな赤紫色の瞳は翳らない。
「………………アルテアさんは、私より長生きして下さいね」
「……………は?」
「とても事故が多い使い魔さんですので、元気でいてくれないと寂しいです」
「…………新手のパイの強請り方じゃないだろうな?」
「純粋な気持ちで申し上げたのですが、パイがついてくるのも吝かではありません」
「結局そこかよ」
唐突に案じられたアルテアはとても訝しげであったが、通りの向こうから聞こえてきた騒ぎを聞くと、ぎくりと体を揺らした。
「赤い暴れ傘だ!こいつが一番手強いぞ!!」
「くそっ、またしても逃げるつもりか?!」
「囲め囲め!今度こそ、ゼッヘルの犠牲を無駄にしてなるものか!」
「今年こそ暴れ傘に勝ってみせるぞ!その為に、風の系譜の特等魔術を会得したんだ!」
「…………っ?!イアン、後ろだ!回り込まれたぞ!!」
「ぎゃぁ!!」
「イアンが刺されたぞ!包囲網が崩れる…………っ」
「隊長も刺された!みんな、持ち堪えてくれ!!…………ぐはっ?!」
わぁぁぁと声が響き、その一帯は、赤い傘を取り押さえようとする騎士も加わっての阿鼻叫喚となった。
イアンの今年の傘祭りは、またしても暴れ傘に敗れるという結果になったようだ。
ネアは、三年目にして、イアンが何らかの隊に属していることと、隊長は別の男性であることを知り、彼等の冥福を祈っておく。
「……………あの人間は、毎年刺されてしまうのだね」
「ええ。来年こそは、イアンさんの勝利を祈りましょう」
「いや、おかしいだろうが。風の系譜の特等魔術を会得しておいて、なんで傘に負けるんだよ」
「おや、あの赤い傘は、封印庫近くの通りにあるパン屋の主人の使っていた傘ですね」
そちらを見て、傘の持ち主を教えてくれたヒルドが、くすりと笑う。
聞けばあの赤い傘は、同じ通り沿いにある小さなレストランへのパンの配達用に作られた傘なので、かなり頑強な魔術がかけられているのだとか。
残念ながら、昨年の春に、パンを奪いにきた旋風の竜との戦いで壊れたものの、通り雨の魔物と知恵比べをして勝ったことで、雨除けの祝福を持っていたそうだ。
「通り雨の魔物が祝福を与えていたのだね……………」
「以前お会いした、神父服の方ですよね?強そうな方でしたが、パン屋のご主人に負けてしまうとなると、知恵比べは苦手なのでしょうか?」
「……………いや、どう考えても普通のパン屋の主人じゃないだろ。旋風の竜は、高階位の魔術師も易々と殺すぞ?壊れたのは傘だけなんだろうが」
「むぅ。………となると、アレクシスさんのような方なのかもしれません………」
ネアは、スープ同様にパンもまた、数多の魔術を極めておかねば満足に作れないものなのかもしれないと知り、異世界の奥深さと厳しさに感銘を受ける。
配達中に旋風の竜に襲われるような危険がある以上、安易にパン屋でなら働けるだろうと考えてはいけないのだ。
(こちらの世界に来たばかりの頃は、歌乞いを辞めてもそういうお店でなら働けると思っていたけれど、私の可動域では無理だったのかもしれない…………)
「エーダリア様、パン屋さんになるにはどれくらいの可動域が必要なのでしょう?」
なのでネアは、気になったパン屋事情をエーダリアに尋ねてみた。
「……………必要不可欠な可動域かどうかは私も知らないのだが、小麦の祝福と酵母の祝福、更にはオーブンの魔術を会得している必要があるからな。二百くらいだろうか」
「……………にひゃく」
「ウィームで一般的だとされる道具が異常なだけだ。普通の国なら、五十で充分に店が開けるぞ」
「……………ごじゅう…………」
衝撃の事実が発覚してしまい、ネアはぺそりと項垂れ、パン屋さんになるという夢すら簡単に抱けない世知辛い世の中を少しだけ呪った。
つまりネアは、この先どれだけ努力をしても、パン屋すら開けない見込みが高いのだ。
なんと残酷な世界なのだろう。
「ふぎゅ…………」
「パン屋にならなくても、君には好きなパンを食べさせてあげるよ」
「ふぁい。……………こちらのお仕事は、どれも過酷過ぎるのです……………」
落ち込むネアの周りにも、きらきらっと、風に乗って細やかな光の粒が落ちて来た。
その煌めきを手に受けて、エーダリアが唇の端を持ち上げる。
「さて、そろそろ昇華の波が始まるな。…………ヒルド、西側の新しく増えた商業区画への騎士達の配置は問題なさそうか?」
「ええ。あちらには、傘達が隠れやすい場所が多いですからね。今年は、グラストはそちらに向かわせました」
「……………ああ。昨年最も苦労した区画だからな」
空が溜め息を吐くように風が吹くと、まだ少し猶予はあるが、歩み寄ってくる夕闇を予感させる太陽の角度に空気の色合いが変わり、街のあちこちで傘達の昇華が始まった。
この時間になると、空に舞い上がった傘達がきらきらとした光の粒子になってゆくのだが、温度のない不思議な風にさらさらとその光の粒がほどけ、砂粒のような煌めきがウィームの街中に舞い上がる様は、胸を打つような美しい光景を作り上げる。
舞い散る花びらのように。
或いは、降り注ぐ金色の雨のように。
ざあっと鼓動を思わせるリズムで波打ち、空に上がってゆくその光の波を見上げ、ネアはほうっと息を吐く。
(なんて美しいのだろう……………)
それは、定められたものを全うし、心安らかになってゆく昇華の光だからこそ、不思議なくらいに胸に響くのだろうか。
そんな傘達を見上げる人々は、遠くに旅立った懐かしい人たちの姿を思うのか、共に戦った傘達との別れを惜しむのか、涙ぐんで空を見上げていた。
男達は負傷者を医療魔術師の仮設テントに運び、元気な者達は握手を交わして、これからどんなお店に飲みにいこうかと楽しげに話しながら、捲り上げていた袖を下ろしている。
女性達は、ばきばきになった傘をぽいっと捨てて、嫋やかな微笑みを取り戻すと、きゃあきゃあとお互いのドレスを褒めたり、お茶の約束を取り付けたりと楽しそうだ。
「まぁ、無事に戻られたのですね。ウィームは如何でしたか?」
なんとなくしんみりしていたネアの元に、どこからともなくふわりと舞い戻って来たのは瑠璃紺の婦人傘だ。
傘祭りの開始直後はしゅばっと飛び出して空に消えてしまっていたが、あの震えも収まっているようであるし、艶々と輝く傘地の様子を見る限り、楽しく散歩を終えたようでほっとした。
(どんな経緯があったにせよ、昇華の前の最後の時間なのだから…………)
星闇の竜の賢者だったクラ・ノイは、祟りものになったことで終焉の魔物に討伐され、後に残された遺骨を教会で祀り上げられた。
その骨がアルテアの手で呪物としての傘になったと聞いているが、この傘の持つ記憶の欠片の中で交わした言葉からは、ネアにも、その生涯の持つ重みのようなものが伝わってきている。
「………………もう行かれるのですね?」
ネアの問いかけに、ロクマリアを震撼させたという呪いの傘は、体を傾けて頷いた。
長い封印を経て、やっと空の向こうに旅立つ時が来たようだ。
アルテアのことはつんと無視してのけつつ、ディノにもぺこりとお辞儀をすると、ちょうど吹き込んできた風に乗るように、ぶわりと空高く舞い上がる。
その姿は凛々しくもあるものの、やはり婦人傘の姿なので少しだけ可憐にも見えてしまうのが、少しだけ不憫なのかもしれない。
「…………でも、何だか嬉しそうですね」
「……………ああ。ダリルには様々な思惑があったようだが、………私は、呪物とされた傘が健やかに昇華出来るのが、何よりも嬉しいのだ」
「……………ええ。とても穏やかな雰囲気になられてましたので、傘祭りは楽しかったのかもしれません。…………ウィームは、素敵なところですものね」
感慨深く空を見上げたエーダリアに、ネアもそう微笑む。
やがて、空の高みでぴたりと止まった呪いの傘は、しゅわりと光ると、そのまま金色の雨を降らせるようにざあっと風に崩れた。
それは、ほんの一瞬のこと。
「………………ほわ。とても繊細で、儚い綺麗さの昇華でした。今までの傘さん達は、しゅぱんと弾けるような花火めいた昇華の仕方だったのですが、このような昇華の仕方もあるのですね…………」
「……………竜のまま傘になったものと、祟りものとして傘になったものとの違いもあるのだろう。祟りものや呪物にされた者が、このような形で昇華されるのは稀なことだ。彼は幸運だったのだと思うよ………」
ディノのその言葉に、ネアは、クラ・ノイの記憶の欠片の王宮で見た彼の影の形を思い出した。
悍ましく巨大な影がゆらゆらと揺れており、確かにあの形状には、竜としての面影はなかったように思う。
ディノは一度、大切な友人が狂乱してその姿を変えてゆく様を見たことがあるそうなので、もしかしたら星闇の竜の顛末にも、心を動かされたのかもしれない。
「………………わ!始まりました!!」
華やかさはなかったものの、ひときわ高い空で昇華した傘の姿を見たからか、他の傘達も次々と昇華を始めた。
渦になって空に舞い上がる色とりどりの傘達が、次々と光の粒子になって砕け散る。
手を振る子供達や、送り出すように手を伸ばす大人達。
どこまでも、どこまでも。
空の向こうに吸い込まれるように、光の帯が立ち昇ってゆく。
儚くも美しいその光景を見送り、エーダリアや領民達は華やかな旅立ちに一礼し、観客席に座っていた観光客達は口元に手を当てて涙を浮かべていた。
「…………あなたも行かれるのですね?」
そんな空を見上げていてネアの隣にふわりと浮かび、白い傘骨の傘も旅立ちの挨拶をくれた。
ネアは貰った金貨を大事にすると伝え、手を伸ばして触っても問題のない柄の部分をそっと撫でてやる。
他の傘達のように分かりやすく照れてはいなかったが、墨色の傘は少しだけもじもじしたようだ。
もう一度優雅にお辞儀をし、空を漂う光の波間を切り裂くように高く舞い上がった墨色の傘は、先程の呪いの傘とはまた違う煌めきで、花びらのように空に散った。
「……………まぁ」
「またこちらも、昇華の仕方が違うのだね」
「ええ。…………今の傘さんは、大輪のお花が散るようで、なんて華やかなのでしょう。零れ落ちてくる光も、光の粒が大きくて花びらのようです……………」
今年は、受け持った傘の昇華が早かったことと、取り立てて大きな事件が起きなかったこともあり、ネアは、ゆっくりと傘祭りの最後を楽しめた。
その後は、ディノの腕から下ろして貰い、光の雨の降る中を歩いてあちこちで旅立つ傘を眺めれば、その傘がどのような経緯で保管庫にやって来たのか、傘と人の思い出までもが透かし見えたりもする。
しゃりんと鳴るのはビーズの腕輪で、ネアは、隣を歩くアルテアのコートの袖口から該当すると思われるリボンの端っこが覗いているのを目敏く見付け、にんまりと微笑みを深めた。
渡した時にはそんなものはいらないと話していたが、荒ぶる傘に警戒を強めたのか、ちゃんと身に付けてくれていたようだ。
「…………ディノ、もうお利口な傘さん達は、殆ど昇華してしまいましたね。辺りも薄暗くなってきたので、そろそろお仕事に移行しましょうか」
「おや、エーダリアの傘は残ったようだね」
「ええ。昨年のアルテアさんの傘のように、昇華などするものかと隠れる悪い傘さん達の搜索に、傘目線で参加してくれるようですよ」
「……………やめろ。こっちを見るな」
「むむ。アルテアさんは、傘の見分けがつくのかなと疑問に思ったのです。私とディノは、これから隠れた傘の搜索のお仕事に入りますが、どうされますか?」
「一通り落ち着いたなら、俺はもう帰るぞ。あの赤い傘が昇華したなら問題もないだろ」
「暴れ傘さんも、パン屋のご主人に撫でてもらって綺麗に昇華してゆきましたよね。……………むが?!」
ほんわりした気持ちでそう言った直後、ネアは、足元を転がっていった細長いものに躓いて、ばたりと転んだ。
ちょうどディノからは手を離していたし、魔物達も、まさか段差もない歩道でネアが突然転ぶとは思っていなかったのだろう。
「ネア?!」
慌てたディノがすぐに助け起こしてくれたが、ばたんと雪の歩道に倒れることになったネアの気分は急降下する。
アルテアにコートの雪を払って貰い、じんじんと痛む鼻を片手で押さえたまま涙目で体を起こせば、あちこちで身を畳んで物陰に転がり込む悪い傘の姿が見えた。
「………………おのれ、物陰に隠れんとする、愚かな傘どもめ……………」
勿論であるが、狩りの女王たるもの、自分を辱しめた傘を逃す筈もなく、ネアの手には足元を転がり抜けようとした青い傘がしっかりと握り締められている。
したたかに打ち付けた鼻は、すぐにディノが治癒してくれたし、幸いにも、もう壇上に立つ事はないからと、誕生日に貰った美しいケープではなく普通のコートに着替えてきていた。
とは言え、人間はそう簡単に憎しみを捨て去れる生き物ではない。
自分を捕獲した人間の恐ろしさにぶるぶる震えるその傘は、耐えきれずネアの手の中で儚くなってしまったものか、さらさらと光の粒になって崩れ落ちた。
「おい、落ち着け………。歩道を踏み荒すな」
「私はとても執念深いので、実行犯が消え去ったからと言って、この恨みは消えません!いいですか、ディノ。これから、転倒の恨みを晴らすべく、街中の愚かな傘達を狩り尽くしますよ!」
「ご主人様……………」
怒り狂った伴侶の暗い怨嗟の声に、ディノはびゃっと飛び上がり頷いた。
怯えた魔物からそっと献上された三つ編みを握り締めたネアは、一本たりとて許すべからずと、物陰に鋭い視線を投げる。
すると、あまりにも恐ろしい気配を纏った人間の出現に恐れ慄いてしまったものか、何本かの傘が歩道に転がり出て来た。
「……………やはり隠れていましたね。行きましょう、ディノ。傘どもを一本たりとも逃してはおけません!!」
「ほら、また転ばないように、三つ編みを持っているんだよ?それとも持ち上げるかい?」
「おい、前に進む前に、出て来た傘を回収しろ…………」
こうしてネア達は、東側の区画を練り歩き、またしても怯えた傘達がぞろぞろとネアの後を追いかけて続くこととなった。
広場で再会したエーダリア達からは、クッキー祭りに続くウィームの新しい風物詩になるのかもしれないと言われている。
アルテアからは、来年は絶対に参加しないと言い含められた。




