墓守の魔物と固形燃料の逃走
「アルテアさん、牛さんがいますよ!」
「…………だから何だ」
「乳搾りがあると思うので、卵は私が集めておきましょうか?」
「ほお、可動域で雛にも劣るお前がか?」
「むぐるる…………」
「それと、何で俺が毎年乳搾りなんだ。お前が…………そうか、可動域だな」
「……………ディノ、アルテアさんが虐めます…………」
「可哀想に。後で叱っておくよ」
そんなやり取りに呆れ顔でこちらを見たのは、昨晩は子供用の躾け絵本にちびふわにされてしまった選択の魔物だ。
躾け絵本事件が解決し、恐るべき事に選択の魔物をちびふわにしてしまった躾け絵本が封印されて暫くすると、無事に人型の魔物の姿に戻れたので、朝まで自分の部屋でゆっくり眠れたようだ。
今日はこれからの遅めの朝食兼昼食の為に、お城の温室で食材集めなのだが、アルテアはお気に入りの茶畑もあるのでこの温室任務についてはかなり積極的になる。
「フリーコも作るのか?」
「はい。ヒルドさんからご注文をいただいたので、今年も作ろうと思います。こうして、毎年の夏のメニューとして決まってくるお料理があるのも、何だか楽しいですよね」
「…………それなら、俺の方では二品程度だな」
そう呟いたアルテアは、休暇らしく麻素材のパンツに白いシャツを羽織っただけの装いは、この長閑な牧場の光景にも不思議と馴染んでしまう。
残念ながら全く馴染まないディノは、可哀想にも牧場に放り込まれた魔物という感じがしてしまい、ネアは迷子にならないようにしっかりと三つ編みを握ってやっていた。
搾乳にかかった選択の魔物と別れ、鶏小屋に来たネアは、無事に産みたて卵を入手する。
鶏小屋を出たところで、コッコッと鳴きながらつつこうとしてきた鶏には、ぐるると唸って追い払っておく。
もしここで卵を守られると取り上げるのが申し訳なくなってしまうが、卵を籠に入れる際には無関心だったので、ネアが餌場の横を通ったのが気に障ったのだろう。
「…………ぐるる、テリトリーに入った可動域の低い人間を苛めてやろうとするからなのです」
「ネア、こちらにも鶏がいるよ。危ないから私から離れないようにね」
「鶏には負けません…………」
ネアは悲しくそう訴えたものの、ディノは健気にも鶏との間に入ってくれてしまい、見たこともない白い魔物に怯えた鶏達は慌てて逃げていった。
見上げた空には白い雲がぷかりと浮かんでいて、麦わら帽子でもかぶってのんびりお散歩をしたい陽気だ。
この角度からだと、オリーブ畑や葡萄畑が見え、ゆったりと歩いている羊達が遠くに見える。
どこか胸の奥の柔らかなところに響く優しい景色を眺めながら、籠に入れた人数分のオムレツ素材な卵を持って戻ってくると、アルテアも搾乳を終えて牛乳瓶の蓋を閉めたところだった。
「これを籠に入れておけ」
「むむ、香草と一緒にして卵に呼吸させるのですね!」
「いつものメニューなら、オムレツの卵にも香草の香りをつけておいた方が、料理ごとの味が立つからな」
いつの間に用意しておいてくれたのか、香草をブーケにしたものを手にしていたアルテアが、卵の籠にそれを乗せると、上から白い布ナプキンをかけてくれる。
アルテアにこのやり方を教えて貰って以来、ネアはローズマリーの香りな卵などを楽しんできたのだが、アルテアのように何種類もの香草を束ねて絶妙な香りを演出するには至っていなかった。
さあっと、ラベンダー畑を揺らして涼やかな早朝の風が吹く。
畑を繋ぐ道沿いには小さな野の花が咲いていて、そんな花々から蜜を集める蜂達の養蜂施設もどこかにあるらしい。
昨年と変わらず美しい畑や森が広がっている魔術仕掛けの温室の中には、まだまだネア達の知らない素敵なものが隠れているのだろう。
滞在する人数的にそこまでの収穫を必要とはしないのだが、熟れた果実の甘い匂いを胸いっぱいに吸い込めば、ぐーっとお腹が鳴りそうになる。
あれもこれもと欲しくなるのが、強欲な人間なのだ。
アルテアは梨を収穫にゆき、そのままお気に入りのコヤシシの茶葉の様子を見てくるようだ。
今日の午後はその畑の手入れと、茶葉の加工に費やすようなのだから、魔物という生き物の奥深さを教えてくれる。
ネアは、美味しそうなトマトと茄子、更に幾つかの野菜を籠に入れると、ジュースにするために柑橘系の果物を何種類も捥いできた。
ノアに持っていってあげようと、ラベンダーの花を手折り籠に乗せれば、俄かに農場の女王になったかのような誇らしさに満ち溢れるのはなぜだろう。
すっかり機嫌の良くなったネアは、茂みから美味しそうなブルーベリーをぷちりと取って口に入れてしまい、美味しい甘さにむふんと頬を緩めると、もう一粒取ってディノの口にも入れてやる。
魔物は少しだけ儚くなりかけたが、少し重ためな果実の籠を運ぶという使命があるので頑張って耐えてくれたようだ。
「卵とお野菜をいただいてきましたよ!」
元気よく厨房に戻れば、昨日の内に準備済だったジャガイモで、既にスープを作り終えたヒルドが微笑んで振り返る。
新しく自前のエプロンを手に入れたらしいエーダリアは、今年もオムレツ担当なので、準備万端で待っていてくれた。
卵に香草の香りを付けたことを説明すると、エーダリアは夜鳥の卵に術式の香炉の煙を浸透させられるかどうかを真剣に悩み始めたようだ。
既にちょっぴりほろ酔いのノアは、厨房に椅子を持ち込んでみんなの作業を見守る係であるらしい。
ネアはあつあつのフリーコは最後に作る事にし、まずは、たっぷりのトマトと茄子、パプリカによく似た野菜の夏囲いの実でペペロナータを作ってしまう。
冷やして食べても美味しいので、こちらは冷製にしてしまう予定なのだ。
お気に入りの茶畑の様子を見てからこちらに戻ったアルテアは、チーズたっぷりの梨とサルシッチャのリゾットを作ってくれるらしい。
もう一品は何だろうと思っていると、鶏肉の香辛料煮込みを入れた長方形のパイを焼いてくれると知り、ネアは素晴らしい予感にそわそわしてしまう。
パイの上には丁寧に葉っぱの模様をつけてくれるのだから、この使い魔の厨房における有能さはそろそろ料理の魔物を名乗ってもいい頃ではないだろうか。
「よーし、僕も一仕事を終えたぞ」
「なぬ。一足先に飲んでいた以外に私の義兄は何かしたのですか?」
「ありゃ、エーダリアのオムレツのお皿を並べるのが、僕の仕事なんだよ。でもその任務は終わったから、本格的な調理以外なら何か手伝うよ?」
「サラダとドレッシングはディノが和えてくれたので、ペペロナータを味見して、場合によってはもう少し冷やして貰ってもいいでしょうか?」
「うん。僕に任せて」
わいわいと食事を作り、大きな窓のある気持ちのいい食堂で、ネア達はテーブルに並んだ料理を食べた。
ディノには、果物をジュースにする作業も手伝って貰い、みんなで作った料理が並んだ朝食兼昼食が始まれば、エーダリアは一晩かけて読破した魔術書について、アルテアとあれこれ議論している。
窓からは木漏れ日が落ち、飾られた花に美しい額縁をつけていて、枝にとまった小鳥が可愛らしく羽の手入れをしていた。
ネアは、いつものメンバーでもあるけれど、いつもとは違う感覚のこの時間がお気に入り過ぎて椅子の上で小さく弾むと、スプーンの上で湯気を立てているリゾットをぱくりと頬張った。
隣の席の魔物は、お皿に乗せてやったネアの料理を美味しそうに食べてくれている。
ディノは、フリーコもペペロナータも好物なのだ。
(ウィリアムさんも、来られたら良かったのにな……………)
少しだけ寂しくそう思うが、ウィリアムは現在は鳥籠の中にいる。
だが、今夜はランチョンマットの晩餐をいただくそうで、楽しみだとカードにメッセージをくれていた。
「ネア達は、午後は何をするんだい?」
「ヒルドさんに、秋冬の編み物用の毛糸を紡いで貰い、ディノと森の散策にも行く予定です。その後は、昨年も使わせて貰った広間でダンスをしたり、夕方の釣り大会までのんびり過ごす予定なんですよ。ノア達はどうするのですか?」
「僕とヒルドは、部屋でのんびりかなぁ。エーダリアはもう少し寝ないとだね」
「……………ああ。アルテアに教えて貰った魔術再編を試してから、出来れば一瓶、夏霞と夕影の酒を仕込んでおき、その後は少し眠るつもりだ」
「体を休める時間を忘れないよう、途中で声をかけにゆきますよ」
「ヒルド……………」
エーダリアはそこ迄しなくてもと苦笑しているが、この場にいる者達の中で、エーダリアが読んだばかりの魔術レシピに夢中にならず、早々に昼寝に入ると思っている者は誰もいないだろう。
「アルテアさんは、温室にかかりきりですか?」
「その後は書庫だろうな。ウィーム王朝時代に編纂された暗号本がある。その構築における術式を幾つか調べておきたい」
「術式……………」
「エーダリア様?」
ついついそちらにも興味を示してしまい、エーダリアはにっこり微笑んで名前を呼んだヒルドの静かな声に、ぎくりとしていた。
新しい魔術レシピを試した後で書庫に行ったら、一睡もせずに夕方を迎える事は間違いない。
「ぷは!ヒルドさんのスープもエーダリア様のオムレツも美味しくて、リゾットははふはふで、パイがさくじゅわなのです……………」
「おい、何でまたそっちに戻っているんだ」
「……………む?美味しいタルトを食べ終えた後、なぜだかもう少しだけパイをつまみたくなったのですが、この甘いと塩っぱいの循環は、世界の摂理と言っても過言ではなく……………」
「秋告げに出ないからと言って、油断し過ぎだ。腰は残しておけ」
秋告げの舞踏会の話題が出たので、おやっと眉を持ち上げたネアは、使い魔な魔物のパートナー問題に触れてみる事にした。
「ウィリアムさんの予想だと、アルテアさんのパートナーは元恋人さんなのだとか。もしかして、あのお綺麗な月の魔物さんでしょうか?」
「…………お前には関係ないことだ。放っておけ」
「むぐぅ…………」
かつての恋人との参加で緊張しているのか、アルテアはすげなく質問を躱してしまう。
しかしネアは、僅かにであれ意識しているのなら、些細なきっかけで昔の恋が燃え上がり、ネアに素敵な女性友達を作ってくれる可能性もあるのではと考え直してほくそ笑むと、秋告げの舞踏会でのアルテアの収穫を祈っておく。
「むが!なぜに鼻を摘んだのだ!許すまじ…………」
「お前は、考えている事が顔に出過ぎだ」
「ぐるるる!」
「あ、そっか。今年の秋告げは、墓守が来るのか」
「もしや、墓守の魔物だろうか……………?」
そう声を上げたノアに、エーダリアが目を瞬く。
徹夜で少しだけ眠くなってきたのかなという様子だったが、鳶色の瞳が興味深そうに輝いているのを見ると、かなり珍しい魔物なのだろう。
「そうそう、墓守の魔物だよ。終焉の系譜の魔物だけれど、秋告げの系譜でもあるからね」
ネアが今年の秋告げの舞踏会の参加を辞退するに至った理由には、その墓守の魔物の参加がある。
墓守の魔物は、派生する年によって性別が変わる魔物で、今代の魔物は男性であるらしい。
世界的な蝕が明けると派生し、翌年の、その蝕が始まった季節の舞踏会に参加するのが習わしだ。
寿命は短く人間ほどしか生きず、大規模な蝕が立て続けに起きると、新旧の墓守の魔物が揃う事もある。
主に蝕の犠牲となった死者の墓守を司り、蝕による歪みや穢れなどを背負う異形の魔物だ。
異形だが目を離せなくなるような美貌でもあると言い伝えられ、男性の墓守の魔物の場合は、新婚の女性や妊婦は決して出会ってはいけないと言われている。
よって、ネアは出会う訳にはいかない魔物であった。
「そう言えば、ディノからは会わない方がいいとだけ聞いて納得してしまっていましたが、具体的に、何かまずい事が起こるのですか?」
「心を奪われた後、死ぬのが定説だな。本人も相手の女に心を寄せるのかも含め、理の領域の魔術でどのような反応が起きるかまでは知らん。さして興味もなかったからな」
「まぁ、アルテアさんにも分からないのですね……………」
何でも知っていそうな魔物ですら知らないのだと驚けば、気質的な相性が悪いのだそうだ。
「僕が見た例だと、新婚の花嫁がサルガリスに恋をするあまりに自死してたね。その時のサルガリスは、相手の女の子には興味はなさそうだったよ。まぁ、墓守の魔物を見ると不幸を呼び込むっていう、噂から育って生まれた理だからね」
「……………つまり、伝承が魔術を育み、理にまで育ったのだな……………」
エーダリアは難しい顔でそう呟き、ヒルドも険しい顔をしている。
派生したばかりの墓守の魔物は、自身の派生した蝕が起きた季節の舞踏会に参加することで、魔物として固定されるのだそうだ。
つまり、墓守の魔物の被害が出るのだとすれば、今年の秋告げの舞踏会以降からで、それはウィームも例外ではないかもしれない。
オムレツを食べ終えたヒルドが目を細め、表情を曇らせる。
「前の墓守の魔物が存命だった時に、ヴェルリアでは家の扉や窓の全てに網を吊るしたと聞いています。王宮までそうだったと聞けば、余程恐れられていたのでしょう」
「…………ガレンに、その時の被害記録が残っている。犠牲者の数は、百では済まなかったそうだ」
墓守の魔物を退けるには、結び目を作った紐を持っているといいそうで、籠や麦わら帽子も有用なのだと聞けば、ネアは、あわいの列車で行ったモナで、海から上がってきた怪物の事を思い出した。
「モナの海の怪物さんと、同じようなものが苦手なのですね」
「前世界の気質が強い魔物なんだ。普通に会話も出来るけれど、私もあまり好ましくはないかな…………」
「まぁ、ディノもなのですか?…………そして、前の世界のものといえば、私が以前お会いした、サリガルスさんにお名前が似ているのですね」
「今代の世界での同じものだよ。司るものを変える魔物は珍しいのだけれどね」
「なぬ」
そう教えてくれたディノに、ネアは目を瞠った。
魂が持つ資質は同じでも、世界が変わることでその役割がずれ込む場合があるそうで、墓守の魔物の場合はそれなのだそうだ。
「だからこそ、彼に纏わる伝承は予言の質を帯びてしまい理に育ったんだ。古い災い除けの道具が効くのも、彼が、前世界からの名前をあまり変わらずに受け継いだ魔物だからだろう」
「…………少し、ぞくりとしました。上手く言えないのですが、こちら側のものではないような気がしてしまいます」
「あながち間違いでもないだろうな。影の国もそうだが、前世界の資質を強く受け継いだ者達はそんなものだ」
人型をしていて秋告げの舞踏会にも来るような魔物なのだが、得体の知れない人ならざるものの気配を強く感じ、ネアはぞわぞわした心を宥める為に、お皿の上のお代わりパイを頬張った。
エーダリア達も不安そうにしていたが、ここでディノが、良い情報も齎してくれる。
「…………ただ、女性の墓守の魔物の方が獰猛だから、以前の墓守よりは穏やかな気質かもしれないね。先代の墓守の魔物は、エーダリアの言うように人間の国にもかなりの被害を出したと聞いている」
「むむ、女性の墓守の魔物さんは獰猛なのですね……………」
「そうか!あの墓守の魔物とは違うのだな…………」
ほっとしたように表情を緩めたエーダリアを見て、ネアは、残忍な人外者に免疫がない訳でもないガレンの長がここまでの反応を示すのだから、どのような獰猛さなのだろうと首を傾げる。
「終焉の系譜の魔物さんであれば、亡くなる方を増やしたりするのですか?」
「子供を攫い貪り喰らう魔物だな。悪評高いのはそちらだが、吟遊詩人達が歌い広め、歌劇にもなっているのは男の方だ。どちらにせよ、人間と階位の低い妖精にとっては、歓迎し難い存在だろう」
「…………思っていた以上に獰猛でした。今代の方が男性で良かったです………」
「ただし、ネアは気を付けようか!」
「……………そういう事だ。今年の秋告げの舞踏会が終わるまでは、絶対に近付くなよ?」
墓守の魔物が最も異質な状態なのは派生してから一年の間で、きちんと魔物として固定されれば、系譜の王であるウィリアムから、ネアには危害を加えないようにと命じる事が出来るらしい。
それまでの危険な時間がちょうど、公の場に現れ、尚且つ存在が固定されていない秋告げの舞踏会の最中に当たるのだった。
「勿論お会いするつもりはありませんが、サリガルスさんの印象で想像してしまうと、墓守の魔物さんは長い髪の方なのでしょうか」
「そう言えば、髪は長かったかもね。と言っても腰くらいまでかな」
「むむむ、それで黒衣の装いだったりするのなら、私の育った土地には、髪の長い素敵な墓守の魔物さんの童話があったのですが……………」
「…………ネアが浮気する」
「解せぬ」
ネアは幼い頃に読んだ童話の、所謂ダークヒーロー的な登場人物を思い出してほんの少しわくわくしただけなのだが、なぜか魔物達は顔を見合わせて厳しい眼差しを向けてくる。
(懐かしいな、…………子供の頃によく読んだわ…………)
その童話に出てくる墓守の魔物は、不愛想で冷酷な美しい男性だ。
しかし、実際は子供たちに優しく人間のふりをしてお年寄りの農作業を手伝ってくれたりもする魔物だった。
特に、気に入った人間には、こっそり美味しい蜂蜜飴をくれるので、ネアはそんな墓守の魔物に憧れた時期もある。
憧れが続かなかったのは、白い騎士服の騎士には敵わなかったのと、弟が死んでからの暫くの間は、死や墓地を連想させるものが少しだけ苦手になったからだ。
しかし、興味本位だったということを示そうとしてそんな話をしたところ、魔物達はいっそうに警戒して、ひそひそ話し始めるではないか。
蜂蜜飴を持っているかもしれないからといって会いに行ったりはしないのだが、魔物達にはたいそう警戒されてしまったようだ。
昼過ぎに終わった遅い朝食のテーブルを皆で片付けると、それぞれの目的地に向かう事になる。
ネアとディノは、エーダリアのお昼寝を見届けなければいけないヒルドとの毛糸紡ぎを後回しにし、食後のダンスに出かけることにした。
「まぁ!」
そうして辿り着いた大広間は、昨年は見事な秋の風景を見せてくれたのだが、今年は初夏の景色に霧雨の降る、これまたえもいわれぬ美しい内装になっているではないか。
色鮮やかに咲き乱れる庭園に霧がかかり、薄く薄くヴェールのように降り続ける霧雨は繊細な美しさだ。
足元の水溜りには森の色が滲み、僅かに雲間から差す陽光が小さな虹を作っている。
そうっと手を伸ばせば、霧雨が肌を濡らすことはない。
水溜りの床を踏んでも、一層薄く硝子がかかっているように、水を踏んでいる感覚はなかった。
「……………ほわ、なんて美しいんでしょう。ディノ、濡れてしまわない霧雨の中で踊るのは初めてですね」
「景色の再現だけではなく、様々な要素を随分と複雑に映しているのだね。部屋に組み込まれた魔術階位が精密で高位でなければ、出来ないことだよ。…………ネア」
手を差し出してくれたディノに微笑みかけ、ネアは手を預けた。
しかし、一歩踏み出し広間に入る段階で、ネアは少しだけ躊躇ってしまった。
(濡れないと分かってはいるのに、視覚的には、いきなり深めの水溜りだから………!)
おっかなびっくり足を踏み出したネアが怖がっているのかと思ったようで、ディノは、ネアの腰に手を当てると、ひょいっと持ち上げて広間に入れてくれる。
「……………ふわっとなりました。一瞬だったからでしょうか。まるで空を飛んだようなふわっとで、とても素敵でした………」
「…………可愛い、弾んでる」
思わぬ持ち上げにすっかりはしゃいでしまい、ネアはそのまま踊り始めて貰う事にした。
二人で極めたターンでくるりと回ると、ネアのスカートがふわっと広がり、ディノの三つ編みが揺れる。
今日の装いは、華やかなドレス姿ではないが、こうして普段着で踊っていると、いっそうに家族と幸福な時間を過ごしているという喜びでいっぱいになるのだ。
ネアが唇の端を持ち上げると、こちらを見ている魔物の幸せそうな眼差しに柔らかな霧雨の青い影が落ち、二人は小さな虹の下をくぐった。
二人が、三曲分も踊ったところだったろうか。
どこからかゴロゴロという大きな鉄球が転がるような不穏な音が聞こえてきたかと思うと、ネア達のいる広間の開け放たれたままの扉から、奇妙な黒いものが転がり込んでくる。
「…………ぎゅ?!」
「ネア、こっちにおいで」
「な、なにやつ!」
しかし、ダンスの足を止めて何者の襲来だろうと息を詰めたネア達の前で、その黒い物体は思わぬ末路を遂げた。
気持ちよく踊っている滞在客を守ろうとしてくれたのか、広間は足元が濡れない仕様を、その物体についてのみ解除したらしい。
転がってきた勢いのまま、黒い球体はぼしゃんと音を立てて床の下にある水溜りに落下し、みぎゃーと鳴き声を上げる。
何やら熱や火を帯びたものだったのか、じゅわっと黒い煙が上がり、そのまま水溜りは沈黙したようだ。
「滅びました………」
「何だったのかな………」
呆然としたまま立ち尽くしていたネア達の元に、焦った様子でエーダリアが駆け込んで来たのはその後のことだ。
うっかり居眠りをしかけてしまい、固形燃料の精霊に逃げられてしまったらしい。
広間の水溜りに落ちて滅びた旨を告げると、エーダリアは少しだけしょんぼりしていたが、幸いにも乾かせばまた使えるのだそうだ。
エーダリアを追いかけてきたヒルドに、棒先に引っ掛けて釣り上げて貰い、黒い球体だと思ったものは黒いドーナツ状だった事が判明した。
逃げないように、地面に刺した鉄杭に輪を通されてしまい干されると聞き、ネアはぱたりと記憶の蓋を閉じて、固形燃料の精霊の記憶を封じてしまう。
だから勿論、物陰からネア達をじーっと見ていた影には、気付かずにいたのである。




