夏休みとしつけ絵本の逆襲 3
ぎいっと音を立てて扉を開けると、城内はひんやりとした空気に包まれていた。
しかし、特別な異変がある訳でもなくしんと静まり返っている。
ネアは、相手は躾け絵本とは言えホラーな展開だと困るのでと、しっかりと三つ編みを握り締めて伴侶な魔物の背中に隠れていた。
(でも、…………誰もいないみたい?)
恐れていたような事は起こらず、扉を開けた途端に躾け絵本が襲ってくるという事態にも見舞われずに済んだものの、そうなると今度は拍子抜けしてしまう。
ヒルドの背中に庇われて扉を抜けたエーダリアも、ほっとしたように息を吐いている。
「特に何にもいないようだな………。やはり気のせいだったようだ」
「………え、…………本だったよね?」
「ノアベルト?…………その、私は本当に影のようなものしか見ていないのだ。躾け絵本だったなら、…………その躾に該当する者にしか見えない可能性もあるのではないだろうか」
「……………エーダリアは見てないの?」
「あ、ああ…………」
生真面目にそう返したエーダリアに、ノアは見る間に青ざめてゆく。
隣に立っているヒルドの手をさっと掴んだ塩の魔物の無防備さに、ネアは、銀狐が尻尾を蒲公英にされてからまだあまり時間が経っていないことを思い出した。
「ノア、…………もし怖い本さんが心配なら、きりんさんを持ってゆきます?」
「ネア、だからそれだと、僕も死んじゃうから……………」
「困ったノアですねぇ。では、せっかくなので、ちびふわにした使い魔さんと一緒に寝てみますか?」
「何でだよ、やめろ」
ここでより強い絆で結ばれれば、銀狐の告白もし易くなるかなと企んだ人間だったが、これについては双方から拒否されてしまった。
「では、…………その、頑張って下さいね」
「ありゃ、……………飽きた」
「しかし、…………よく考えると、親御さんがお子さんに対しても危険はないと判断するくらいの躾け絵本なのでは…………」
「…………そうか。躾け絵本ではあるからな。言われてみれば、子供達を損なうような事もしないだろう」
「エーダリアまで!去年の僕がどうなったのか覚えてる?あれって、問題ない範囲じゃなかったよね?!」
悲しげにそう訴える塩の魔物を見つめ、ネアは静かに首を傾ける。
だがやはり、それは躾け絵本であり、ここにいるのは魔術を司る塩の魔物である筈なのだ。
「…………寧ろ、その本さんが現れたとしても、最前線に送られる一人でもあるのでは…………」
「僕の妹が容赦ないけれど、それはそれでいいんだよ?!一人しか見ていないのが嫌なんだ…………。ヒルド、今日はずっと一緒にいよう」
「…………ネイ。隣の部屋なのですから、一度落ち着きましょうか。それとも、書庫に行って魔術異変がないかどうか調べてみますか?」
呆れた様子のヒルドにそう提案されたノアは、ふるふると首を横に振っている。
自滅するかもしれないのでやめておくとのことだったが、アルテアはそんな書庫に興味を惹かれたようだ。
お気に入りの畑に直行するのかと思いきや、もう真夜中過ぎなので部屋に帰るネア達に対し、夜の領域の魔術を見るのだと一人で書庫に向かってしまう。
「わーお、一人で行ったぞ…………」
「少し心配ですが、対象年齢が子供さんの幼児用躾け絵本と、選択の魔物さんになりますので、ここは自由に過ごして貰いましょう」
「…………それと、僕にだけ見えてないのかな。エーダリアがどこにもいないんだけど……………」
「ノア?エーダリア様なら、部屋に読書に行かれましたよ?」
「………え、僕を置いて?」
「考えてもみて下さい。エーダリア様は、これからやっと魔術書を読むので、もはや脳内の八割くらいは魔術書の事で一杯だと思います…………」
「おや、八割程度で済めば良いのですけれどね…………」
そう苦笑したヒルドも、夏休み中だからか特に気にした様子はない。
アルテアが姿を消したからか、ノアは少し考えてから、最初はヒルドの部屋でもう少し一緒に飲んだ後、その後はエーダリアの部屋で銀狐になって寝る事にしたと教えてくれた。
躾け絵本への警戒は引き続き怠らぬようにしつつ、皆の様子を見て少しだけ緊張を解いたらしい。
しかし、やはり悲劇は起きたのだ。
そしてそれは、何の警戒もしておらず、躾け絵本が荒ぶるとしてもそれは自分ではないだろうとたかを括っていた愚かな人間を襲ったのだった。
部屋での夜更かしなお喋りなども済ませるとすっかり遅くなってしまい、先に入浴したネアは、これから入浴する伴侶よりも先に寝台に入っていた。
(こうしている間も、私がとある作戦を遂行中だとは誰も思っていない筈…………)
寝台のなかでそうほくそ笑むネアは、晩餐の後、さも晩餐のお食事で満足しましたよ的な様子を演じ、アルテアの持ってきたタルトについては触れずにいた。
アルテアもあの素敵な白い箱をどこかにしまってしまい、出してくれなかったのだから、か弱い人間が悪巧みをするしかなかったのも当然ではないか。
つまりこれは、最近は何かと献上品を差し出すのに焦らし技をしかけてくる使い魔に対し、より多くのパイやタルトを搾取しようという狡猾な作戦であり、明日の朝に戦果が分かる仕組みなのである。
(アルテアさんのタルトに対しては、その場に並んでいないとお腹が満腹で閉まってしまうので、また明日の朝食でいただきますと伝えてあるけれど…………、)
それは作戦を決行する為の演技に過ぎず、渾身のタルトをすぐに食べて貰えなかった使い魔が、焦って、今度からはありったけのパイやタルトをその場で与えてくれるという心理効果を狙った罠なのだ。
これはもう天才の作戦であると頷いていたネアは、朝食のテーブルに並ぶに違いないタルトを思って幸せな気持ちでごろんと寝返りを打ち、呆然と目を瞠る。
「………………むぐ?」
先程まで、ネアがいた部屋はまだ室内灯を点けてあった筈だ。
だが、いつの間にか部屋は真っ暗になっていて、けれどもどこか馴染みのあるいい匂いに包まれて、ネアは少しだけ眠っていたらしい。
抱き寄せられた腕の中で、個別包装が解除されたのかなと内心首を傾げ、肌に触れる長い髪の感触にまた首を傾げる。
(ディノの髪は、こんな感触だったかしら……………?)
ディノの宝石を紡いだような髪は素晴らしい手触りだが、ゆったりとしたウェーブがかかっているので、こうして肌に触れるとふんわりとした触り心地である。
だが、今、ネアの剥き出しの肩に触れている長い髪は、さらさらとした真っ直ぐな髪のような気がしたのだ。
(そして、…………もしかしなくても、ディノより少し細身な………………)
ここでネアがぎょっとして飛び起きたのは、また怖い事件が起こってしまい、どこかに一人で落ちてしまったのかもしれないと焦ったからだ。
だが、ぱちりと目を開いて起き上がろうとしたものの、なぜか体が動かない。
ひやりとして血の気が引きかけてから、それは一緒に寝ている誰かにしっかりと抱き締められているので当然なのだと思い至る。
しかし、その誰かがディノではないとなると、大きな問題と言わざるを得ないだろう。
そして、そろりと視線を持ち上げたネアは、ぴょこんと先の尖った耳と睫毛を伏せた清廉な美貌に凍りついた。
「ヒルドさん…………です」
思わずそう呟いてしまったものの、狡猾な人間はすぐに息を潜めた。
なぜヒルドに抱き締められて眠っているのかは分からない。
場合によっては、寝ている間にとんでもない事件に見舞われ、そこから救い出された後のこの状態かもしれない。
だが、ヒルドの誕生日だったこともあり、なかなかにお酒を飲んでいる。
ノアの湖水メゾンのシュプリに始まり、アルテアが出してくれた星の歌という珍しい蒸留酒もとても美味しかった。
こちらの世界では食前酒にあたるものだが、ふわっと鼻に抜ける冬の夜の香りと、瑞々しく美味しい大粒葡萄の甘さが舌に残るので、その後味を求めてぐいぐい飲んでしまった気がする。
(もし、…………酔っ払った私が、妖精の粉を求めて、ヒルドさんのお部屋に忍び込んだのだとしたら…………)
それはもう、完全な痴女ではないか。
ネアは、目を覚ましてしまったヒルドから凍えるような目で見られてしまう事を想像して、あまりの悲しさに息が止まりそうになった。
いくら妖精の粉目当てとは言え、こんなに美しい妖精の寝台に忍び込み、ここまで近くに体を寄せてしまっている。
ノアなら起こして部屋に返して貰うだけで済むし、アルテアなら叱られて部屋に送り届けられるだけで済んだのに、なぜよりにもよってヒルドの寝室なのか。
(そしてなぜ、まだノアと飲んでいてくれなかったのだ!!)
いささか八つ当たりでそんな事にも悲しくなってしまい、ネアはむがーっと大暴れしたくなった。
いっそエーダリアの部屋なら、今夜は徹夜で魔術書を読むつもりのウィーム領主は、しっかり起きていてくれただろう。
そんな事をうじうじ考えていたネアは、低く息を吐いたヒルドに、ぎくりと体を強張らせた。
ふっと震えたこんな暗闇では黒くも見える睫毛を絶望の思いで見ていると、僅かに瞳が開き、今夜の美しい星空が映った湖のような瑠璃色の瞳がこちらを見た。
その瞬間のネアは、死を覚悟したと言っても過言ではない。
因みに、この場合は心の死である。
「…………ネア様?」
「…………っ、…………!」
認識されたと理解しぴっとなったネアに対して、なぜかヒルドは蕩けるような甘い微笑みを浮かべた。
ぐっと深く抱き込まれ、目元に口づけられる。
「……………ぎゅ?」
これはもう優しい微笑みで窘め、その上で冷徹に叱られるのかと思ったのだが、少しだけ体を離してから体勢をずらしネアの首筋にもう一度口づけを落とすと、耳元に唇を寄せられる。
「………もう少し、このままで」
そしてそのまま、ヒルドはまた目を閉じて眠ってしまうではないか。
絶望に固まったネアは、すうすうと眠ってしまったヒルドに呆然としつつも、深く深く安堵の息を吐き、何とか生き長らえたことに感謝する。
恐らくヒルドは、寝惚けていてここにネアがいる事をきちんと理解出来ないままもう一度眠りに落ちたのだろう。
誰だって、避暑地で過ごす客室に、しかもこんな真夜中に痴女が忍び込むとは思わない筈だ。
であればネアは、そんなヒルドの信頼を裏切らず、何とかここから離脱しなければならなかった。
とは言え、先程よりもしっかりと抱き締められ、足もしっかりと絡まった状態では逃げようもない。
(…………でも、起こさないと帰れないし、起こしたら嫌われてしまうかもしれない…………!!)
一時的に発覚を免れたとしても、結局は逃げられないのかと、深い絶望には世界を呪うしかなくなったネアは、それでも諦め悪く、何とか手を引っ張り出して、首飾りの金庫から眠りのベルを取り出せないかと考えた。
その瞬間の事だ。
「……………む?」
ネアは見知らぬ暗い部屋に立っており、なぜだか手には白いお皿を両手で持っている。
そして目の前には、呆れた顔をしたアルテアがいるではないか。
どうやらここは、アルテアの客室らしい。
大きな窓から落ちる夜の光に僅かに逆光になり、赤紫色の瞳が光るようだ。
「おい、何だそれは。あのタルトは、満腹で食べられないんじゃなかったのか?」
「……………むぅ。なぜか手にお皿があります」
困惑のあまりこてんと首を傾げたネアに、アルテアはすっと赤紫色の瞳を細めた。
就寝準備の為か着替え中だったようで、素肌にパジャマの上着を羽織って前も開けたままだ。
どうやらこの魔物は、避暑地のお城でも律儀にパジャマに着替えて眠るらしい。
「ったく。シルハーンはどうしたんだ。まさか一人で来たんじゃないだろうな?」
「…………ひ、一人かもしれません」
「ほお、この時間にその服装でか?」
「……………ぎゅわ、寝巻きのままでした。でもなぜか手にはお皿があります…………」
「しかも裸足だな。…………こっちに来い、足を洗ってやる」
「なぬ。謎めいた状況ではありますが、この流れだと私はタルトを貰えるのではないでしょうか?」
(ヒルドさんのお部屋に引き続き、アルテアさんのお部屋にも来ているのはおかしいわ……………)
ネアはここで、これは夢だと結論を出した。
であれば夢の中でもタルトをいただくべきであるとそう主張したネアに、振り返ったアルテアは顔を顰める。
「……………妙だな」
「むぐ、妙ではありません。タルトを寄越すのだ。そして、今度からは躊躇わずに全てのパイやタルトを差し出して下さいね」
「……………その発言は本物だな」
「まぁ、私は偽物ではありませんよ!しかしこれはきっと夢なので、アルテアさんからタルトを毟り取ればいいのでしょう。……ぎゅむ?!」
一つ溜め息を吐いたアルテアに手からお皿を取り上げられると、さっと持ち上げられたネアはじたばたした。
しかし、容赦なく浴室に連行されてしまい、ネグリジェ的な寝間着の裾を膝上まで持ち上げられてどこからか出した椅子に座らせられると、またどこからか取り出した桶に張ったお湯に足を浸けられる。
タルトが後回しではないかと抗議しようとしたのだが、足元に屈み込んだアルテアがこちらに向けた眼差しにしゅんとし、ネアは大人しく足を洗われてしまう。
別に外を駆けて来た訳ではないのでそんなに上まで汚していない筈なのだが、どうやらあまり自覚なく裸足で彷徨くと魔術証跡を盗まれる可能性があるらしい。
つまり、アルテアは、ネアがここに来た経緯をあまりよく分かっていない事は理解してくれているようだ。
(と言うことは、…………夢じゃない?)
足を綺麗に洗われてしまうと、ネアも少しだけ冷静になってくる。
もしかすると夢ではないのかなと首を傾げ、タオルを取りに行ったアルテアの背中を目で追えば、ボタンを全部とめることは諦め、パジャマの上着は脱いでしまったようだ。
自分の足元を見下ろし、そうかお湯を使うので脱いだ方が効率的だったのかとふすんと頷くと、隣に誰かの気配を感じておやっと顔を上げた。
「ありゃ、…………ここどこだろう」
「……………ノアです」
「ネア?…………え、ここどこ?」
「……………おい、お前はどこから入った」
「わーお、もしかしてアルテアの部屋…………?」
「ふむ。そのようです。私はなぜか、足を洗われており…………」
「ネア!」
その呼び声に、ネアは目を瞬いた。
背後からしっかりと抱き締められ、振り返ればそこには水紺色の瞳を安堵に緩めたディノがいる。
そろりと周囲を見れば、そこはネア達の使っている客間で、眠りについた筈の寝台だ。
部屋の明かりは落とされているが、窓から差し込む夜の光に、決して暗くはない。
「…………アルテアさんに、足を洗われる夢を見ました…………」
「恐らく、…………夢ではないと思うよ。君の体はここにあったけれど、その一部が魔術的にどこかに呼び落とされていたようだ。障りではなく祝福だったようだけれど、…………アルテアの部屋にいたのかい?」
そう尋ねられると、その前の事も話しておかねばならず、ネアはひやりとした。
今夜誕生日を祝ったばかりの大切な家族の部屋に、まさかのおやつ目当てで押しかけたなどと言うことを伴侶に知られたくはなかったのだ。
(でも、正直に話しておかないとだから………)
「……………その前には一度、ヒルドさんのお部屋にいたようです。ヒルドさんは眠っていたので、もしや酔っ払って不法侵入してしまったのかと、気付かれずに脱出する算段を練っていたのですが……………」
「…………どんな魔術の繋ぎだろうね。今ならまだ君を呼んだ魔術を辿れるから、君が嫌でなければ、探してみようか」
「私が嫌でなければ、…………でしょうか?」
「うん。睡眠時間を削るのは嫌なのだろう?」
そう言われて時計を見れば、是非に熟睡させていただきたいという恐ろしい時間である。
しかし、ここは避暑地であり、徹夜で読書をしそうなエーダリアの為に朝食は遅めに設定されていた。
こちらを見ているディノに頷きかけ、ネアは真夜中の探索に出かけることにした。
「…………探してみます」
「うん。では、離れないようにね」
ネアは艶々に洗われた足にブーツを履こうとしたのだが、ディノは首を振り、そっと抱き上げてくれた。
やはり、ディノのお風呂上がりを待てずにネアは眠っていたようだ。
と言うのも、ディノも寝ていたらしくその装いはいつもより寛いだもので、いつもの三つ編みを解いている。
「最初は、ディノと一緒に眠っていたのですよね?」
「うん。君はぐっすり眠っていたから、私も異変に気付くのが遅れてしまった」
「むむ、ディノにも気付かせないだなんて、困ったものではないといいのですが………」
「祝福の魔術から成るもので、この城の中に於いて守護の内側にある魔術の結びのようだ。財産の魔術の影もあるから、君を損なうものではないよ。…………ただ、どのようなものがなぜその魔術を結んだのかは気になるね…………」
「財産の魔術であれば、いただくのも吝かではありません………」
強欲な人間の主張に、魔物は少しだけ困ったように頷いた。
持ち上げているネアの背中をそっと撫で、ネアはそんな手のひらの温度にすっかり安心してしまう。
「また君が呼ばれてしまうと困るから、こうして離さないようにしようね。それと、今夜は個別包装はやめておこうか」
「…………真夜中に梱包を解かねばならない事件に巻き込むなど、私を呼び落としたものは容赦なく滅ぼします」
「ご主人様……………」
かつーんと静かな城内に靴音が響く。
住み慣れ始めたリーエンベルクの部屋から出るのとは違い、避暑地として訪れている城の部屋を真夜中に出れば、どきりとするくらいに見知らぬ場所に立たされている感じがした。
明かりを落とした暗い廊下はひんやりとしていて、窓から差し込む夜の光が、天井の高い廊下に窓の影を連ねている。
僅かな花の香りが芳しく、突き当たりの階段ホールに生けられた花瓶の花を思わせた。
ほぅっと息を吐いたネアに、こちらを見た魔物が怖くないかいと尋ねてくれる。
「ディノが一緒なので怖くはないのですが、秘密めいた感じがして、胸がわくわくに近いどきどきです…………」
「動いた魔術は、悪いものではなかった。これがあの絵本のものであるなら、使われている材料は約束の祝福だろう」
「…………絵本?……………躾け絵本ですか?」
「他に気になるようなものは動いていなかったから、この証跡を辿り切らないと断言は出来ないけれど、君を呼んだのはその本だと思うよ」
「…………躾け絵本に、なぜヒルドさんのお部屋や、アルテアさんのお部屋に送り込まれたのでしょう?しかも、アルテアさんのお部屋にはノアもいたのですよ」
「おや、ノアベルトもかい?」
それがなぜなのかと言うところまではディノにも分からないらしく、首を傾げている。
さらりと揺れてその曲線が弾んだ長い髪は、夜の回廊の中でぼうっと光るよう。
思わず手を伸ばして触れてしまうと、ディノがこちらを見た。
「三つ編みにしていなくて、持ち難かったね」
「リード代わりではなく、あまりにも綺麗で触れてしまいました…………。宝石が波打っているようで、ずっと触れていたくなってしまいます」
「……………ネア」
僅かに咎めるような声におやっとそちらを見れば、ディノは目元を染めているようだ。
こうして髪を下ろしたディノは、その表情に落ちる影がいつもとは違い、見知らぬ魔物を見ているような不思議な感覚がある。
就寝時はいつもそうなのだが、部屋の外を歩いているので、どこか不思議な感じがしてしまうのだろう。
「…………シル!…………良かった、ネアもいるね」
そこに飛び込んで来たのは、焦ったように走って来たノアだ。
一緒にいるアルテアは、パジャマではないシャツを羽織ったようだ。
ネアの姿を認めてほっとしたように肩を揺らしたので、心配してくれたのだろう。
身に起きた事が夢ではないのなら、ネアは、アルテア達の目の前から突然消えてしまったのかもしれない。
「むぐる……。パイを食べ損ねました…………」
「お前は、まずそれからなのか………」
「……………ああ、僕の妹が無事で良かったよ」
「ノア、心配をかけてしまって御免なさい。最後はおかしいなと思いもしたのですが、夢だと思っていたのです」
「うん。僕は起きてたから良かったけれど、そうじゃないと夢だと思うかもね…………」
なお、どこか悲しげな儚さで遠くを見たノアによると、ヒルドと一杯のお酒をいただき別れたノアは、その後、朝まで魔術書コースなエーダリアの部屋でのんびりごろごろしていたらしい。
仮にも高位の魔術書を開いているからこっそり護衛をしていたらしく、アルテアの手前言葉は選んだが、人型でだ。
しかし、塩の魔物がそうまでして寄り添っていた契約の人間は、残念ながらノアが失われた事には気付いていなかったらしい。
何だかよく分からない一部が呼び落とされたネアとは違い、ノアは丸ごとアルテアの部屋に移し入れられたのだそうだ。
「まぁ、私とノアに起こった事も違うのですね?」
「ネアの場合は、シルが隣にいたからだと思うよ。僕を呼び落とす事が出来るくらいの魔術でも、ネアの体を動かす事は出来なかったんだろうね」
ネアが、けれど事故だと持っていかれてしまうではないかと首を傾げると、今回動いた魔術が、祝福の領域のものだからだと教えてくれる。
「つまり、私の体ごと動かしてしまうのは、祝福から外れると判断されたのですね………?」
「だろうな。…………こいつの呼び落とされてからの足跡は消してある。足も洗ったから、証跡を奪われる事もないだろう」
「有り難う、アルテア。部屋の中で眠っていたこの子から招かれてしまった要素が戻った時に、とても滑らかだったんだ。君が魔術洗浄をしてくれたからだろう」
話しながらゆっくりとその足取りを追いかけて行くと、ネア達が辿り着いたのは、案の定と言うべきか書庫であった。
大きな両開きの扉は薄く開いており、中から橙色の明かりが薄くこぼれている。
書庫独特の、香草と蝋燭に似た香りがして、扉に手をかけたアルテアがぎいっと開く。
昨年に来た時のままに壮麗で、躾け絵本が反乱を起こしたとは到底思えないくらいに静まり返っており、けれどもなぜか、閲覧用の大きなテーブルの上には、魔術の火を灯した燭台が置かれていた。
(…………誰もいないのかしら?)
本に対しての言い方ではないかもしれないが、そう思いかけたネアの耳に、ぐるると、どこからか唸り声が聞こえてくる。
その声を追いかけて天井を仰いだネアは、見る間に青ざめると、さっと視線を逸らしディノの肩にしっかりとしがみついた。
「……………わたしはなにもみませんでした」
「ご主人様………………」
「…………素直になれない子供のための躾け絵本……………。ありゃ、十一巻目だ…………」
天井に張り付いて唸る躾け絵本には、素直になれない子供を、言わなければならない事がある者のところに届けてくれる、或いは、素直になれないけれど側にいて欲しい者を呼び寄せてくれると書かれている。
(私はいいのだけれど、………)
ネアの動機は明快だ。
アルテアの部屋にはタルトを貰いに行き、こちらは無自覚であったが、ヒルドには妖精の粉を強請りに行ってしまったのだろう。
しかし、ノアがアルテアの部屋に行ってしまった理由を後付けするのは、かなり難しいと言わざるを得ない。
現にアルテアも、ネアの方を呆れた目で見ると、今度は訝しげにノアの方を見ている。
「…………成る程な。で、お前は何の用だったんだ?」
「……………え、ええと」
「祝福魔術に汲み上げられるだけの、言うべき事があるんだろうが。…………ん?」
しかし、アルテアだけが知らない絶望の嵐がネア達の心の中に吹き荒れたその瞬間、書庫に奇跡が起こった。
まさに祝福に象られたものらしく、天井に張り付いてぐるると唸っていた躾け絵本が、新たな標的を見付けてしまったのである。
じーっと見つめられている事に気付いたのだろう。
アルテアが眉を寄せて天井を見上げたのと、躾け絵本が恐るべき祝福の力を振るったのはほぼ同時の事だった。
「フキュフ?!」
ぽふんと音がしたかと思うと、それまでアルテアが立っていた場所に、ちびちびふわふわしたお馴染みの生き物が落ちているではないか。
目をまん丸にしてけばけばになっていたちびふわは、ふるふるしていたものの、すぐに我に返ったのか、ててっと走ってディノの体をよじ登ると、持ち上げられていたネアの肩に逃げ込んでしまう。
「フキュフ……………」
「…………もしかしてアルテアさんは、ちびふわになってよしよしされたかったのですか?」
「アルテアが……………」
「フキュフ?!」
肩の上で震えているちびふわは、そんな事を問いかけた意地悪な人間にみっとなる。
慌てて声を上げて否定してみせてもそんな姿も可愛いばかりなので、ネアはもふもふと撫でてやってしまう。
「フキュフー!!」
「よしよしですよ、ちびふわ。沢山撫でて欲しかったのですね」
「アルテアが…………」
「わーお。何だか上手く収まったぞ。………って、痛い痛い!!」
思いがけずちびふわを手に入れたネアが破顔している間に、天井から飛び降りてきた躾け絵本は、無防備な塩の魔物を攻撃して逃げようとしたらしい。
本のままの状態でがぶりと頭に噛み付かれ、ノアは慌てて本を引き剥がしている。
すぐさま取り押さえてしまうのかなと思っていたネアだったが、その目算は甘かったようだ。
それなりの死闘の後に捕縛された躾け絵本は、塩の魔物の封印を受けて、ことりと書架に戻された。
くしゃくしゃのぼろぼろで生還した義兄の姿に、ネアは思いがけない強さだった躾け絵本に呆然としてしまう。
ディノとちびふわも驚いたのか、瞳を瞠ってふるふるしている。
「………なぜ躾け絵本と死闘になるのだ」
「思っていたよりも、高位の魔術書だったのだね…………」
「…………はぁ。多分だけど、素直になれない標的を素直にさせるのって、それなりに骨が折れる作業だよね。それを可能にする為に本の中に仕掛けられていた術式と、祝福魔術を動かす核の魔術階位が、想像より高かったんだ。……………多分だけどこれ、元は王族位の精霊じゃないかなぁ…………」
「王族位の精霊さんが、………躾け絵本に…………」
「絵本にされてしまったのだね…………」
「…………フキュフ」
ネアは、相変わらずとんでもない第二の人生を用意してくるこの世界の恐ろしさに震えたが、高位の人外者が書物にされてしまう事自体は珍しくはないらしい。
翌朝、たっぷり魔術書を読んで寝不足だがすっきりとした顔のエーダリアと、誕生日の祝福か昨晩の騒ぎに巻き込まれずに済んだヒルドと相談し、十一巻目の躾け絵本は、この滞在の間は封印したままにしておくことにした。
銀狐問題がある以上、ネア達の滞在の間は、活動を控えていただくしかないのだ。
帰り際に封印を解かれるこの躾け絵本が、来年もノアをアルテアの部屋に呼び寄せないよう、年内の告白が望まれる次第である。




