夏休みとしつけ絵本の逆襲 1
夏夜の宴から明けて三日後のその日、いつもの日程より少し遅れて、リーエンベルクは夏休みに入った。
エーダリアが不在の間リーエンベルクを守っていた騎士達も、今年は遅めの夏休みになる。
ウィームの領民達は通常通りの日程で夏休みを取った者も多いが、今夜は、無事にウィームにエーダリアが戻った事へのお祝いも兼ねて、明日を休日にしてしまい、のんびり祝杯を上げる者達も多いのだそうだ。
ネア達が訪れるのは、勿論、シュタルトの西側にある山岳地帯に隠されたウィーム王家の指輪の中の避暑地である。
影絵を贅沢に使ったこの場所に、今年も無事にみんなでここに来られることになり、ネアは昨晩から大興奮であった。
「今年こそ、月光鱒を見事に釣り上げてみせます!」
「うん。また君の好きなあの船に乗ろうか」
「そして、……………ディノ、エーダリア様が消えました」
「おや、いなくなってしまったのかい?」
「さっきまで、そこにいたのですよ……………。攫われてしまったりしていないといいのですが……………ぎゅわ…………」
ネアは、一緒に来たはずのエーダリアが消えたことに慌ててしまったが、攫われたのではないでしょうねと微笑んだヒルドがどこかに姿を消すと、手に夏夜の宴で手に入れた魔術書をしっかりと持ったままのエーダリアを小脇に抱えて戻って来た。
「エーダリア様が捕獲されてきました…………」
「ありゃ、すぐにそれを読みに行っちゃったのかぁ……………」
「まったく、あなたという人は……………」
「す、すまない。部屋に居ると伝えたつもりだったのだが……………」
エーダリアは少し反省していたが、ヒルドに抱えられたままでも魔術書に栞を挟む作業に余念がないので、稀少な魔術書を読むという誘惑はそれほどのものなのだろう。
ここでネア達は、とにもかくにも魔術書という感じのエーダリアを尊重してひとまずは解散してしまい、夕方までは各自ゆっくりと過ごすことにした。
いつもの夏休みとは違う日程で来ているので、今年の訪問は午後からになる。
エーダリアは自室で読書にかかるようだし、ヒルドはゆっくり森を散策するらしい。
ノアはと言えば、銀狐姿でエーダリアの部屋でお昼寝だ。
「ネア様達は、どうなされますか?」
「あの湖の木陰のところで、ディノと一緒に水遊びをしながらのんびりし、森の方も少し歩いてみるかもしれません」
「森の散策であれば、こちら側が宜しいと思いますよ。夏雨の花の香りがしますので、ちょうど満開になっているのでしょう」
「……………夏雨の花が咲いているのか?」
ここで、いそいそと部屋に籠ろうとしていたエーダリアがさっと振り向き、自室で魔術書を読む予定であったウィーム領主は、予定を変更してヒルドの森の散策に付き合うことにしたようだ。
夏雨の花の収穫用の籠を取り出しているエーダリアの足元では、さっそく銀狐姿になってしまった塩の魔物が、であればと、青いボールを咥えてふかふか尻尾をぶんぶん振っている。
ネアは、そんな森の散策隊と別れ、薄紫色の美しい花を満開にしたライラックの木の下に、ディノに長椅子を出して貰う。
そこにふかりと座ってしまえば、この贅沢な景色を堪能するだけの素晴らしい午後の出来上がりだった。
「…………贅沢な時間ですねぇ」
「君がいるからかな」
そう微笑んだディノの唇の端がきゅっと持ち上がっているのが堪らなく嬉しくて、ネアは胸がいっぱいになってしまう。
一般的な伴侶に向ける思いとは少し違うかもしれないが、ネアは、この魔物に幸せでいて欲しいのだ。
それは、同族の人間や人間に近しい誰かに向ける思いとはまた違う、共に生きてくれる人間とは違う生き物である伴侶を、大事に守りたいという感覚なのかもしれなかった。
「ディノ、もう少しくっついてもいいですか?」
「……………可愛い。…………水辺だからね、もう少し側にいようか」
この時のネアはまだ、ディノが儚くならずにそっと抱き寄せてくれた理由が分からずに、伴侶らしい寄り添い方に少しだけあわあわしていた。
さあっと、温度のない風が肌を撫でてゆく。
午後の光に木漏れ日が煌めき、湖の水面にはゆったりと流れてゆく雲が映っていた。
湖畔には、菫やアイリスに加えて鈴蘭のような可憐な花も咲いていて、風に散らされたのか、ライラックの細かな花が水面に浮いている様は星空のようだ。
「……………ふぁ。のどかで、優しい午後ですね。心がふにゃふにゃになってしまいます」
「もたれかかってくる……………」
「とても幸せなくしゃくしゃ感なので、ここはもうディノにたっぷり寄りかかりますね!」
ネア達はまず、そんな素晴らしい景観の中で、冷たい果実水をいただきながらのんびりとお喋りをした。
木陰になっている部分の湖は、はっとする程に深い青色で、澄んだ水の奥には、湖底で満開になった小さな薔薇のような形の花がさわさわと揺れている。
時折きらりと光るのは、泳いでゆく魚たちだろうか。
しゅわしゅわとした強い光が煌めくのは、湖に落ちたままの流星であるらしい。
(湖底で咲いている白い花は、やっぱりとても珍しいものなのかしら…………)
綺麗で不思議な花が沢山咲いているとエーダリアに教えてあげようと思いながら、ネアは、湖の底の庭園を優雅な気持ちで鑑賞していた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、ディノが静かな瞳でこちらを見ている。
その瞳の透明さが、ネアに夏夜の宴で開いたカードに揺れていた悲痛で短いメッセージを思い出させて、この魔物をもっと大事にせねばと意気込んでしまう。
「……………ディノ、膝枕でもしますか?」
「……………ずるい」
「相変わらずの、ずるいの用法が行方不明ですが、物語のあわい続きでディノに寂しい思いをさせてしまっていたので、このお休みの間はどどんと甘やかしますね」
「……………どどん?」
ネアがそう言えば、水紺色の瞳を瞠り、ディノは途方に暮れたようにこちらを見る。
さわさわと柔らかな風に揺れたのは、宝石を紡いだような真珠色の髪だ。
思わず、手を伸ばしてその髪にそっと触れてしまえば、ディノはふっと瞳を細めて嬉しそうに微笑む。
そうして、こんな時にやはり思うのだ。
自分が伴侶に選んだのは、人ならざるもので、だからこそネアを赦した唯一つのものだったのだと。
「はい!どどんと!」
「……………けれど、怖い思いも、寂しい思いも、君の方が沢山しただろうに」
「あら、悲しみの用法や容量は人それぞれ効果が違うので、ずっと待っていてくれたディノもとても悲しかったでしょう?」
そう尋ねると、魔物は、時折見せる淡く儚げで、けれどもどきりとする程に色めいた酷薄な魔物らしい微笑みを浮かべる。
最初の頃は心内の読めない不可思議な美しさに困惑するばかりだったが、今はもう、これはネアの伴侶なりの執着の表れなのだと分かるようになった。
こんな表情を浮かべるディノは、物語の中でネアを危険に晒さなければいけなかったことを、そしてそれを譲らなかったことを、やはりどこかで棘のように思っているのだろうか。
(…………まったくもう。物語の中の私は知らなくても、本当の私は納得済みだったのだから、素直に寂しかったと言っていいのに…………)
困った魔物であると眉を寄せたネアに、けれどもディノはこう言うのだ。
「…………何かして欲しい事はあるかい?」
「私はとても狡い人間なので、大事な魔物を大事にしたいので、膝枕を…」
「では、私が君を膝枕してあげればいいのかな?」
「なぬ。だ、段差があるので…………」
「おいで、ネア」
思わぬ展開に困惑したネアは、出来ればご遠慮したいという気持ちであったのだが、ディノがせっかくご主人様を大事にするのだと張り切ってくれたので、少しだけ、魔物な膝枕を堪能させて貰うことにした。
ディノの足の上に頭を乗せるのには少々段差があるので、金庫から引っ張り出したふわふわバスタオルを首から背中の下に敷き、段差を軽減してから頭を乗せさせて貰う。
おずおずと、けれども誇らしげにそんなネアを預かったディノは、同じ魔物でもアルテアとは違い、やはり人間とのやり取りに慣れないところがあって、ネアは、その無防備な優しさを大事にしたかったのだ。
(うん。…………こんなにも違う)
考えたのは、魔物達のその人ならざるものらしい異端さで、例えばウィリアムにも、時折窺い見える魔物らしい極端さがある。
また、ノアがそれを顕著にするのは、実は銀狐になる時かもしれない。
そう考えると、人間を多く損ない破滅させて来た魔物であるアルテアの方が、他の魔物達に比べるとその異質さが際立たないのは、彼の持つ魔物らしい残忍さが人間が思う人外者らしさに近いからだろう。
(そんな魔物さん達の中でも、やっぱりディノが一番魔物らしくて人間からは離れていて、けれども誰よりも優しくて無防備で、私の一番大切な魔物なのだわ………)
物語の序章で、ネアに、選ぶのは自分で良かったのだろうかと問いかけたディノの声は、とても悲しそうだった。
だからネアは、そんなこの魔物が、大事で大事で堪らなくなるのだ。
計画にない展開で膝枕をされてしまう事になったが、二人でゆっくりしようとしたのは、ディノをたくさん大事にしたかったからである。
(…………そして、問題は、段差だけではなかった………!!)
しかし、これだけ魔物を甘やかそうと意気込んでいたネアは、残念ながら早々に心を挫いてしまった。
暫くは頑張って横になっていたが、両手で顔を覆い、無念の降伏の宣言をする。
「……………は、恥ずかしいです!具合が悪くもないのにこうしていると、猛烈な恥ずかしさに襲われるのはなぜなのだ……………」
「可愛い、ネアが懐いてくる……………」
思っていた以上の恥ずかしさにじたばたしてしまうネアに対し、魔物はご主人様が沢山動いて可愛いと、すっかりご機嫌である。
図らずも、当初の目的であるディノを大事にしようの会としては成功したようだが、ネアは思っていた以上に精神を削り、体力を奪われてしまった。
せっかくの避暑地なのだ。
力尽きて長椅子の前で儚くなってしまう前にと起き上がらせていただき、ネアは、慌てて次の目的である湖遊びに移行させて貰うこととした。
「ディノ、湖に入って……………む」
ふっと視界が翳り、淡い口付けが落とされる。
不意打ちで目を丸くしてしまったネアに、ディノの澄明な水紺色の瞳が微笑むのが見えた。
その男性的で満足気な微笑みの艶やかさに、ネアはもう慣れた筈の口付けでぼぼぼっと真っ赤になってしまう。
「……………可愛い」
「ず、ずるいです!不意打ちではないですか。こ、今度、………今度仕返しをしますので覚悟しておいて下さいね!」
「おや、君からもしてくれるのかい?」
「むぐ?!……………む、むむぅ。仕返しですので、致し方ありません。いつか、不意打ちで成功させてみます!」
慌てるあまり墓穴を掘ってしまった感もあるが、ネアは、仕返しの為には手段を選ばない人間なのである。
とは言えまずは湖遊びに出かけようぞと、ディノの手を掴んでぐいぐい引っ張れば、恥じらいの線引きが謎めいている魔物は、きゃっとなってしまったようだ。
(どうして、こちらの方が恥ずかしいのかしら…………?)
やはり謎めいた生き物だなと、邪悪な人間は試しにすいっと体を寄せてみたが、そうするとディノは、さっきの続きをするかい?というようにどこか男性的な眼差しを見せる。
しかし、そう見せかけてこちらが本命なのだと、さっともう片方の手も掴んでしまうと、途端にへなへなになってしまった。
「………大変謎めいていますが、ここはもう種族の違いなのでしょう。反応として学習しましたので、これ以上は追求しないようにします」
「………………ネアが、両手を掴んでくる…………」
「恐らくですが、情操教育に大きな分岐点があったに違いありません………」
そんなディノの手を引いて、水遊び用の靴でざぶんと湖の中に足を浸けると、ひんやりとした気持ち良さのあまり、ネアはうっとりとしてしまった。
不埒な侵入者にさっと泳いで逃げてゆく魚達が見え、もさもさした毛皮の不思議な生き物がばしゃんと水に飛び込んでどこかに泳いでゆく。
水遊びの為に、少しだけスカートの裾を持ち上げているのだが、ディノはスカートの裾を持ち上げることの出来る紐をネアがきゅっと引っ張ると、完全に体が傾いてしまった。
裾を濡らさないように、絞り上げてスカート丈を調整出来るドレスなのだと説明したのだが、丈の長いスカートを短くするという行為はなかなか刺激が強いらしい。
「…………む!何かが光りました!」
弱り気味な伴侶と何歩か歩くと、ぺかりと光った小さな石を見付けて拾い上げれば、指の間で半透明の銀色のものが明るく光る。
内側から光を放つような不思議な輝きに、ネアは、珍しいものに違いないと唇の端を持ち上げた。
「ディノ、これは何でしょう?初めて見たものなのですが、珍しいものなのですか?」
「流星の祝福石だね。銀白のものは、最上位の祝福を宿す珍しいものだよ。願い事を込めておけば、その性質の祝福を宿すとも言われている」
「まぁ、祝福を決められるだなんて、何て素敵なんでしょう。これはもう、今夜行われるヒルドさんの誕生日会で活用するしかありません!」
「君は、………いいのかい?」
不思議そうにそう尋ねた魔物に、ネアは微笑んで頷いた。
「ええ。私は、物語のあわいの中でディノに宝物を増やして貰ったばかりですから。一度に増えてしまうと全部を大事に出来なくなるので、今はディノに貰ったものを大事にする期間なのです」
そんな事を言われてしまった魔物は目を瞠って少しだけおろおろすると、小さく頷き、ぴゃっとなっている。
とても儚い様子だが、物語のあわい続きで抵抗力が落ちているのだ。
このままだと水辺で蹲ってしまいそうなので、ネアは話題を変えてみる事にした。
さて何を話そうかなと思って視線を下に向けると、やっと履く機会に恵まれたお気に入りのサンダルが目に留まる。
「この水辺用のサンダルは、こうして実際に水の中を歩いてみても、とっても快適でした!これはもう、アルテアさんの器用さに感謝しかありません。海遊びでもこのサンダルが活躍しそうですね」
「これで、水の中を裸足で歩いているような感じがするかい?」
「ええ。指先にまでひんやり気持ちよくて、何て素敵な気分なんでしょう」
ネアが、水の中でざぶざぶさせてみたサンダルは、水辺で遊ぶ時に裸足でざぶざぶしたい人間の為に、選択の魔物が手作りしてくれた新しい水辺特製サンダルであった。
ウィリアムに貰った終焉の守護付き紐を活用したもので、爽やかな水色の紐サンダルのように仕上げられている。
以前にも水遊び用の履き物はあったのだが、今回はより軽やかな仕上がりとなった。
今回、アルテアがサンダル職人になってくれたのは、紐の取り付け、足裏を傷付けずしっかり悪いものは踏み滅ぼせるようにした仕様と、裸足で歩くような軽やかさの両立が難しかったからであるらしい。
ネアとしては、そんな都合のいい靴があるとは思っていなかったので、裸足でざぶんとやるのも素敵だと考えていたのだが、ネアの使い魔は森に帰ることもある魔物の割には心配性なのだ。
さらさらと風が鳴り、水面に触れている木々を揺らしていった。
風に薫るのは、清廉な森と花々の香り、そしてネアの大切な魔物の香りだろうか。
肌に触れる水の冷たさと、えもいわれぬ湖の色彩に口元をむずむずさせていると、心の内側にまた少しだけ蓄積された、凝りのようなものが綺麗に洗われてゆく。
ネアが深く深く息を吐くと、そっとディノがネアの頬を指先でなぞった。
「ディノ……………?」
「水辺は、怖くないかい?」
(あ、………………!)
「はい。自分でも少し心配していましたが、こうして遊んだりするのも大丈夫そうです。その日の内にはもう、洗顔で水に顔をつけるのも怖くなかったので、同じような状況にならなければ大丈夫かもしれません」
ディノが心配してくれているのは、水櫃がネアに残す影響だろう。
ここでネアは、漸くディノがずっと水辺で過ごす事を案じてくれていたのだと気付いた。
だからこの魔物は、ネアが湖の畔りに来てから魔物らしい静かな眼差しで、度々こちらを見ていたのだ。
ネア自身も、あのトラウマで顔を洗えなくなったら嫌だなと思っていたのだが、水櫃に飲み込まれた当日の夜も、水浸しになった以上は絶対にお風呂に入るのだと奮起した事で、その欲求に流されあっさり乗り越えられてしまったようだ。
(それに、水の要素を認識する以前に、激しくぐるぐる回されてしまったから、水難事故のような記憶の残り方をしなかったのかもしれない……………)
湖も海も、この世界に来てから楽しく遊べるようになったお気に入りの場所なので、苦手にならずに良かったと一番ほっとしているのはネア自身かもしれない。
まずはと拾った流星の祝福石を金庫にしまい、水辺は問題ないのであると示す為に脹脛の真ん中まで水が届くところまで歩いてゆくと、ネアは慌てて追いかけてきたディノにびっくりしてしまった。
「ディノ、びしゃびしゃになってしまいますよ?!」
「ネア、逃げると危ないよ」
「むぅ。逃げていませんし、この距離ならほら、手が届きますよ。………けれど、ディノも湖に足を浸けることを想定して、裾を捲ってあげれば良かったですね」
「裾を、捲るのかい?」
「はい。服が濡れてしまうと、後で気持ち悪いでしょう?」
そう問いかけたネアに、なぜかディノは首を傾げたので、不穏な予感を覚えたネアは、確認の為に一度水から上がってみた。
すると案の定、ディノの服はまったく濡れていないではないか。
(靴は濡れないよと聞いていたけれど、服裾も何ともないなんて…………)
あんまりな魔物仕様に、ネアはそう言えば雨も弾くのだったと眉を下げる。
「…………魔術がさっぱりな私には、謎の仕組みですが、濡れないのであれば隣を歩いてくれますか?」
「うん。転んでしまわないようにね」
「ふふ。確かに足元に大きな石もありますものね。では、ディノの手をぎゅっと握っておきますね」
「…………三つ編みにするかい?」
「……………手にしましょうか」
魔物は大胆過ぎる人間の振る舞いにまた恥じらってしまっていたが、ネアはここは伴侶な気分で手を繋ぐようにした。
折角の夏季休暇で、ここは避暑地なのだ。
若干着衣のまま入水している魔物がいるが、この方が絵面としても素敵ではないか。
これだけ水が透明でも、ネア達が遊ぶ浅瀬から少し進んだ深い位置になると、ここからは底が見通せない程に深くなる。
済んだ青色が重なり合い深みを増した美しい色を湛える湖に、ネアはその冷たさと心地良さに幸せな気持ちで深呼吸をした。
「そう言えば、アルテアさんは、今年は来ないのですね。残念ですが、思えば、最近はかなりこちらに来ていたので、じっくり自分の時間を過ごして欲しいです」
そう言えばと思ってアルテアの話をすると、ディノが驚いたようにこちらを見た。
そして、首を傾げたネアにとっては初耳な使い魔情報を教えてくれる。
「おや、後から合流するようだよ。聞いていなかったのかい?」
「むむ、聞いていませんでした。エーダリア様達もご存知なのですか?」
「エーダリアが、こちらで合流したら、魔術書の分からない箇所について、相談してみてもいいだろうかと話していたから、知っているのだと思うよ」
「…………まぁ。では、当初から予定していての事だったのですね。………実は最近、少し心配しているのですが、アルテアさんの私生活は大丈夫でしょうか?」
「私生活、かい?」
「はい。物語の序章でも一緒でしたし、夏夜の宴でもあちらに来てくれていました。それに、私が呼ぶまでの間にも待機していてくれていたのですよね。これで夏休みも一緒だとなると、恋人さんを作ったりする時間がなくなってしまうかもしれません……………」
「今は、いいのではないかな。……………彼も、こうして皆で過ごすのが楽しいのだと思うよ」
そう言われ、ネアは目を瞬いた。
何となく、その魔物としての印象から家族のような輪よりも、自分個人の時間を大事にしそうなイメージがあったのだが、考えてみれば確かに、アルテアの家族作りの才能はかなりのものだろう。
思っていた以上に、家族のように皆で過ごす時間を楽しんでくれているのかもしれない。
「その場合、アルテアさんはお父さんというよりは、お母さんのようですね。……………むむ、その場合、お母さん役がヒルドさんと二人になってしまいます……………」
「アルテアが…………」
そんな話をしていると、森の方が俄かに騒がしくなった。
おやっと思いそちらを見ると、何やらエーダリアとヒルドが銀狐を抱えて戻ってくる。
「な、何かあったのでしょうか?」
「何かあったのかな……………」
ネア達が慌ててそちらに向かえば、青い顔をしたエーダリアが、こちらを見てほっとしたような目をするではないか。
そして、見間違いでなければ、銀狐のふかふか尻尾がぽわんと可憐な蒲公英のようなものになってしまっている。
「狐さんが、……………可愛い路線への変更を図ったのでしょうか?」
「ノアベルトが……………」
「ネア、入れ違いにならなくて良かった。これを見てやってくれ。どうも、真実の花に触れてしまったようなのだが、元に戻らないのだ……」
それはどんな花なのだろうとネアが首を傾げると、ディノがすぐに説明してくれた。
「花の種類にかかわらず、出会った者の誠実さを試すものが時々あるんだ。ノアベルトが何か嘘を吐いていて、その罰を受けて尻尾がその花になってしまったようだね……………」
「尻尾がお花になるなど、疑惑の冬毛尻尾くらいしか、思いあたる節がありません………」
「……………ああ。ヒルドとも、恐らくそれだろうと話していたのだが、目を覚まさなくなってしまったのだ。何か、障りなどがあったのだろうか?」
「そのようなものはないと思うよ。与えられる罰も、一刻程で元に戻ると聞いているから、心配ないのではないかな……………」
そう言いながらも、ディノも目を覚まさない銀狐が心配でならないのか、エーダリアがしっかりと抱き締めている可愛い蒲公英尻尾な銀狐を不安そうに覗き込んでいる。
「障りがあったと言うよりも、尻尾が花にされたことに衝撃を受けて意識を失った感じでしたから、そろそろ目を覚ますと思いますよ」
そう苦笑したのはヒルドで、銀狐は何やら森で見付けた花の前でムギムギ鳴いていた後、突然尻尾が花になってしまい、その尻尾を見てきゅっと倒れてしまったのだそうだ。
ヒルドは、森で暮らすような生き物達だと、真実の花を見付け嘘を吐いた罰を与えられてしまう事は、決して珍しくはないのだと教えてくれる。
森の外で暮らす者達がたまたま森に入ってこうなってしまうと大騒ぎになるが、この程度であれば決して珍しくはないらしい。
「さすがに足などが花になってしまうと危ういですが、大抵の場合は、口から花が零れたり、胸に花が咲いてしまったりするくらいですから」
「口から花がこぼれるとなると、呼吸が出来ているのかどうかが不安ですね…………」
「おや、確かにそうですね。ですが、死んでしまったりはしないようですので、恐らくはどうにかなるのではないでしょうか」
ディノにそっと揺すられて目を覚ました銀狐は、ムギーと声を上げて前足でたしたしとディノの腕を叩いている。
耳もぺしゃりと寝てしまっているので、さすがにこの動揺ぶりを見ていると可哀そうになってしまうが、冷静に考えてみるとこれは魔術を司る塩の魔物だった筈なのだ。
真実の花について知らなかったのだろうかと思わないでもなかったが、やはり狐姿の時には狐の心になってしまうのだろう。
「やれやれ、氷の祝福石の魔術を借りて、冬毛のまま過ごそうとするからですよ」
ヒルドにもそう窘められてしまい、銀狐はけばけばになってしまう。
だが、尻尾がないのでいまいちその悲しみも伝わり難く、正面から見ているとつるんとしてしまっているお尻が何とも悲しい。
尻尾がないことが悲しいのか、抱き上げてくれているエーダリアの腕にお尻を押し付けて隠そうとするので、お尻に咲いた花が散ってしまいそうで、エーダリアは気が気ではないらしい。
それには、ネアも焦ってしまった。
「い、いけませんよ!お尻の花が散ってしまうと、尻尾はどうなってしまうか分からないので、そのお花を大事にして下さいね」
「やはり、散ってしまうのだろうか…………」
「むむ、エーダリア様がまたしても真っ青に…………」
「散ってしまうのかい……………?」
「なぜか、ディノまで落ち込んでしまいました………」
そこで、涙目で震えている銀狐については、最も落ち着いているヒルドが抱いていることになった。
時間が経てば元に戻るとディノも話していた事で、エーダリアも少し落ち着いたようだ。
本人がすっかり怯えてしまっているので、本当なら一度魔物の姿に戻って欲しいが、その場合、蒲公英がどこに適応されるのかが大いなる謎なので、やはりこのままでいた方が良いだろう。
さわさわと、涼しい風が湖の方から吹いてきて、そちらを振り返ったヒルドが、気持ち良さそうに目を細める。
青緑色の髪が風に揺れ、僅かに開いた羽に木漏れ日が煌めくと、まるでこの森を治める妖精のような美しさだ。
「おや、星のさざめきですね。流星雨が湖に落ちたのでしょう」
「まぁ、これは星のさざめきなのですか?」
「ええ。湖に落ちた星が、その輝きで水面を揺らして起こす風のことを、そう言うようですよ」
柔らかな風に撫でられると、ネアは気持ちのよさにうっとりしてしまい、先程迄は涙目で震えていた銀狐も、とろんとした目で風を受けている。
この星のさざめきは、一度吹き始めると半刻くらいは水面を揺らすのだとか。
それならばと、幸いにも、夏雨の花はもう見終えたらしいヒルド達は、ネア達が木陰に置いた長椅子で少し休むことにしたようだ。
ネアは、たっぷり果実水が入った水差しを横に置いた丸テーブルの上に出しておき、勿論、人数分のグラスと、銀狐も飲めるように浅い硝子のボウルも置いてゆく。
最近買い足しておいたものも多いが、ネアの首飾りの金庫には色々な物が入っているのだ。
夏雨の花とはどんなものだろうとわくわくしながら森に向かう途中で振り返ると、仲良く話をしているエーダリア達の後ろ姿が、木々の隙間からちらりと見えた。
ヒルドの美しい妖精の羽を視界に留め、ネアは気になっていたことを魔物に伝えてみる。
「…………ヒルドさんのお誕生日会は、ここで良かったのでしょうか?リーエンベルクで、イーザさん達も呼んで賑やかにもやれたのですが……………」
「本人とエーダリアがそれでと思うのなら、それがいいのかもしれないね。ヒルドは、この隔離地が気に入っているんじゃないかな」
「……………だからこそ、なのかもしれませんね。私にも排他的な気質があるので何となく分かるのですが、……………ここは、大事なものを収めて絶対に失われないように出来る宝物箱なのだと思います。ここなら、どれだけくしゃくしゃになってものんびり出来ますし、ヒルドさんも安心して肩の力を抜けるのかもしれません」
夏夜の宴で留守を守っていてくれたからこそ、ヒルドには並々ならぬ心労があったのだと思う。
エーダリア不在で行われた疫病祭りは無事に終わったが、エーダリアを案じながらもそのような祝祭を管理しなければならないということは、大変な事だった筈だ。
少しでも大事にしたい大切な家族なのだが、ヒルドはあまり多くを望まないように思う。
ネアは欲張りな人間なので、もっともっとお祝いされてしまえばいいと思うこともあるのだが、ヒルドにとってはこの形が一番望ましいことなのかもしれなかった。
(ヒルドさんがご家族を失ったのは、自分の誕生日の日だったと聞いているから……………)
その記憶は、どれだけ月日が経っても、ヒルドが今は幸せだとしても、決して忘れられるものではないに違いない。
そこで失われたものを、やっと育みなおしたのだという思いがあればこそ、いっそうに夏夜の宴はヒルドを苦しめもしただろう。
だからこそ、誕生日を祝う日は、このくらいの場所がいいのかもしれなかった。
「大事な家族がどこにもいかない、秘密の場所で家族だけで過ごすお誕生日もいいのかもしれません。……………ディノ、先程拾った流星の祝福石には、ヒルドさんの大切なものが一つも失われませんようにという願い事をみんなでかけて渡そうと思うのですが、祝福石さんは砕けてしまったりはしませんか?」
「そのような願いであれば問題ないよ。君は、自分達から彼が失われないようにするのではなく、彼が失わないようにしたのだね」
「ええ。ヒルドさんにずっと元気でいて欲しいと願うのは、やはり、私達の願いなのです。ヒルドさん本人の願いはきっと、エーダリア様やノアや、こうして共に暮らす私達が失われない事でしょうから」
それは、遠い遠いいつかのネアの願いで、その時は一つも叶う事はなかった。
僅かに過ったのは、物語のあわいでもう一度触れた、誰もいない家に帰る苦しさのようなもの。
そうして隣のディノを見上げると、あんなに何もない場所からよくここまで辿り着いたなと驚いてしまうが、今のこの場所でネアに一番叶えて欲しい願いがあるとすれば、この宝物を二度と自分の手から奪わないで欲しいという事だろう。
こちらを見ている魔物に微笑みかけたネアは、風にはらはらと散る鮮やかな赤紫色の花びらに目を瞠った。
その花びらが舞い込んできた方向を見れば、大きな木の向こう側に、見事な夏雨の花が満開になっている。
木々の間を埋めるように、満開に咲いている赤紫色の花に、ネアは目を輝かせ小さく弾んでしまう。
こんなに美しいものがたった一日で枯れてしまうのだと思うと勿体なかったが、儚いものだからこそ、より強く心を震わせるのかもしれない。
「ほわ、……………お花畑になっています!こんな風に満開になるのですね!」
「魔術の豊かな古い土地で、誰もいない夜にしか咲かない花だ。リーエンベルクの周囲の森も豊かだけれど、やはりリーエンベルクが近い事もあって、騎士達が見回るからね。これだけの夏雨の花が咲くのは珍しいと思うよ」
「お花の形としては、アネモネに似ていますね。夏雨の花というお名前ですが、雨を思わせるような青系統の花ではないのがずっと不思議だったんですが、何か理由があるのですか?」
「雨の系譜のものではなく、夏の系譜のものだからね。妖精の派生するような花ではなく、どちらかと言えば、魔術の潤沢な土地に育つ鉱石の花の括りのものなんだ」
「だからエーダリア様も、特別なインクにするのだと張り切って摘んでいたのですね」
この夏雨の花は、インクにするか、結晶化させて薄く削ぎ、ナイフの刃にするのが良いのだそうだ。
せっかくなのでとネアも少し摘ませて貰い、エーダリアに教わってインクにしてみることにした。
ナイフはウィリアムに貰ったものがあるので、せっかく作っても使い道がないかもしれないと思ったのだ。
二人は、夏雨の花の甘い香りを楽しみながら一日限りの花畑を散策し、またゆっくりと森を歩いて湖畔でのんびりとしている家族の下に帰った。
銀狐の尻尾は、幸いにもアルテアが合流する前にぽふんと元の狐尻尾に戻ったので、色々と悲しい事件に発展する危険は回避出来たようだ。
しかし、ネア達はすっかり忘れていたのである。
この避暑地には、恐ろしい躾け絵本が封印されていたということを。
そして、あの書庫の中には、封印を免れた最後の一冊が眠っていたのだ。




