ジルク
まだ若い山猫じゃないかと嘲笑った魔物を引き裂き、谷底に捨てたところだった。
伯爵位だか何だか知らないが、精霊の階位は年数で育まれるものではない。
ましてや、魔物もその筈なのだからどうしてこうも浅慮なものか。
「さて、積み荷の確認を済ませてしまおうか。こんなことで手間取るのはうんざりだ。悪いが、夜は約束があるからね」
「やれやれ、女遊びも大概にして下さいよ……………」
陽の傾きを確認してそう言えば、付き合いも随分長くなった部下にそう苦言を呈され、おやっと眉を持ち上げた。
女遊びでもその他のことでも仕事を蔑ろにしたことはなかったが、その分、時間きっちりで仕事を上げさせるので、確かに山猫商会の働き方を理解せずに文句を言う者も多い。
しかし、ジルクから言わせて貰えれば、予定された枠組みの中で仕事を切り上げられないのであれば、それは仕事が出来ている、もしくは仕事の出来る枠組みとは言わないのだ。
顧客の要望に応えるのも大事ではあるが、効率が悪く気紛れな仕事で自分を削るのは性に合わない。
仕事がどれだけ愉快だったとしても、その為に生活を削れと言われたならそれはもう、ジルクにとっては愉快ではないことに格下げされてしまう。
(勿論、俺はこの仕事に誇りを持っているし、数ある仕事の中から気に入ったものを選びはしているけれど、…………)
然し乍ら、ジルクという山猫の生涯においての仕事とは何かと問われたなら、旅先に向かう為の馬車のようなものだと答えるだろう。
つまりのところ、そんな仕事如きに自分を削られるのはうんざりなのである。
どこか含みを持たせた冷静さでこちらを見ている部下は、ジルクと同じ山猫だった。
夜陰に紛れて荷運びをすることを好む山猫だが、身に持つ色彩が鮮やかなので男たちは黒を好むことが多く、このリャザもやはり漆黒の装いである。
上着を羽織らず鮮やかな織り布の腰帯を巻くのは、その商隊での責任者である証。
しかし、多くの山猫達の髪色は鈍い赤銅色なので、鮮やかな金貨色の髪を持つのはジルクだけだった。
「ふぅん。何か不満が上がっているのかな?」
「時々は上がりますよ。あなたは、時間ぴったりで姿を消してしまうが、それ以外の時だって商会は動いているんですからね」
「はは、それは俺の責任管轄外だ。俺の不在の時間を任された者達には、それなりの権限と報酬を与えているし、俺は予め定められた範囲内での仕事はしっかりこなしている。リャザ、俺の人生は、残念ながら仕事で満たされる訳ではないんだよ」
腹心の部下が皆の前でそう言ったのは、実のところ、彼自身がジルクの働き方に不満を溜めているからではない。
寧ろ、リャザは本来ジルクと同じ嗜好の男である。
現在ジルクが荷運びに同行しているのは、最近雇い入れた者達も多い商隊である。
恐らく、どこかにジルクの勤務時間について不満を零す者達が出始めており、リャザは、彼等にこの会話を聞かせる為に一芝居打ったのだろう。
なお、気紛れに現場にも出ている事にしてあるが、実際には新しく雇い入れた者達が使えているかどうかを調べる為に同行しているのだった。
山猫商会の中では、仕事の時間と自分の時間をきっちりと切り分けることこそが評価される。
どのような職種でもそうだろうが、手間をかければ際限なく自分の時間を仕事に分け与えることが出来てしまうし、求められる成果に対して過分な仕上がりがどこでも望ましい訳ではない。
何よりも、それは商会を管理する山猫達の気性にはそぐわない。
(だから、こうして削ぎ落してゆく必要があるのだが……………)
毎度のこのやり取りを承知している古参の仲間たちがにやりと笑い、このやり取りを初めて聞く新参者達はざわざわしたり、顔を顰めたり、見込みのある者達はその通りだと頷いている。
(仕事は定時で片付けて、残りの時間は有意義に過ごすのが一番幸せじゃないか)
山猫の流儀はそうなのだ。
その為に山猫商会は良い仕事をし、きっかり定時迄の仕事で充分に仲間達を養えるように育ててある。
決められた時間内の仕事は厄介なものも多いし、時には出張業務もあるが、手当と休暇の制度は最大手であるアクス商会よりも遥かに充実させてきた。
それでもここが合わないというのなら、もはや気質の問題だ。
不満をこぼすくらいなら、速やかに山猫商会を去るべきだとジルクは思う。
勿論、どの価値観が正しいということもないが、不真面目だと反発する者は、主にアクス商会などから山猫商会に入って来た者達が多く、或いは、アクス商会に転職した方がいい者達が多い。
それがなぜなのかと言えば、アクス商会の代表であるアイザックと、山猫商会の代表であるジルクの気質の違いと言えばいいのだろうか。
(アクスにいる商人達は、商いを喜びとする者達だ。それを愉快だと己の人生の満足度に結び据え、仕事の為に喜んで人生をくれてやる変わり者ばかり……………)
だからこそ、大きな災厄の後始末や、大規模な戦乱などを回避する為など、必要に駆られてアクス商会と協定を結ぶと、ジルクとアイザックはほぼ毎回徹底的にぶつかる。
それなら関わらなければいいのだが、残念ながらアクスに次ぐだけの規模を持つ商会は、あまり多くない。
必然的に、山猫商会とアクスの組み合わせになるのだ。
(だが、休日は遊んで暮らせるだけの給金を仲間達には与えたい。そうなると、アクスとの提携を回避する為だけに、商会の階位を落とすのも癪だしなぁ…………)
砂漠や深い森、あわいや影絵などでの商売を得意とする砂猫と山猫の商会に対し、アクス商会は、都市部や貴族達との商いに長けている。
普段はあまり行き合わないで済んでいるが、それでも二度と共に仕事をせずに済む可能性は皆無と言っても良く、少なくとも年に一度は共に仕事をしなければならない。
(どれだけ耐え難くとも、年末の仕事では、毎年アクスとの連携を図る必要がある。…………俺達は特別許可証の必要な王都などの通行許可が欲しいし、あわいを踏み越える為の荷馬車は山猫商会の専売品だからな…………)
年末のことを考えると深い溜め息を吐いてしまい、ジルクはとびきり強い酒を凍えるような冷たさでぐいっと飲みたくなった。
そして、まさにそんな時に、件のアクス商会からこちらに移ってきたばかりの男と目が合った。
「勿体無いですね。もう少し効率を上げれば、この辺りは良い狩り場になりますよ。例えば、二時間程商隊の運行を延してみては?」
そんな馬鹿げた提案を、有能な素振りで押し付けてきたのは、砂色の髪をした壮年の男だ。
竜革の装いは魔術に長けた旅人達や、竜の貴族や騎士達を真似たのかもしれないが、線の細い美貌には少しも似合わない。
却って、陰気で執念深そうな印象を強く与えてしまうあたりも、商人としては失敗である。
「その為に、俺に俺を削れというのかい?」
「…………いえ。ですが、商会の流通路や狩り場の拡大についての見込みがあるのですから、どのようなやり方をするにせよ、議論の余地はあるでしょう。山猫商会は、まだまだ大きくなりますよ」
「さて、それはどうだろうね」
こうして、下らない事で議論を持ちかけられるのには、常々、辟易としていた。
決して親しみやすい男ではない普段のジルクを恐れずに話しかけてくるのは、親しい仲間達と寝台に忍び込もうとする女達ばかりだが、なぜかこうして、雇ったばかりの者達の中にもこの手合いがよく現れる。
目の前の男は、なぜこの提案が響かないのだと訝しげにしているが、ここで交わされるやり取りから自分で答えを拾い、早々にこちらに見切りをつけて立ち去ってくれる方が、ジルクやそのほかの山猫たちにとっては有難いのだった。
優秀だと聞いて雇い入れた一人だったが、ジルクが雑に流してしまった提案が余程に大事なのか、男は、失望の眼差しをこちらに向けている。
この男が、決められた仕事を終えるとさっさと姿を消すジルクのことを、軽視するような言動を見せ始めていた事は知っていたが、この様子では、現場の責任者達はあまり愉快ではなかっただろう。
(つまらない新人を任せてしまったみたいだな。後で、いい酒を差し入れておこう)
男は、ジルクでは埒があかないと思ったものか、今度はリャザを捕まえてあれこれ話しかけている。
本人は、まだ己の野心や高慢さに気付かれないようにしているつもりなのだろうが、そのあからさまな心の動きに、愚かな男だとひっそり笑い、ジルクと同じように呆れていた一人の青年をなかなか使えそうだと気に留めておく。
(………生真面目な男なんだろう。俺とて、勤勉であることが悪いとは言わないけれど、山猫商会には向かないだろうな…………)
勤勉さで刈り取れることなどたかが知れていて、少なくとも現場の仕事を任せる者にこの気質は足枷になるばかりだろう。
素早く終える為に、決められた時間までの万全の計画を立てる。
不測の事態が起きるとしても、それを補って余るだけの行程を組むのが、あわいや夜の森を素早く走れる山猫なのだ。
仕事というものは、あくまでも糧を得る為に必要な手段の、その中で最も愉快なものだ。
そうして手に入れたものを心ゆくまで楽しんでこそ豊かな暮らしではないだろうか。
ああ、だからこそジルクは、一刻も早くウィームのとある会合に出向かなければならない。
その事を思うといい気分になったので、ジルクは、不愉快な新人を嬲り殺しにして遊ぶのはやめておく事にした。
今夜の愉快な遊びは、もう決めてあるのだ。
その場はさらりと流してしまい、夜の仕事の引き継ぎをする体で、リジェと試用期間の者達を今後どのように扱うか話をしていると、苦笑した副官から、先程の男をどうするか尋ねられた。
「……………あの精霊は使えないだろうね」
「あなたなら、そう言うと思っていました。優秀ではあるのですが、自分の価値観に偏り過ぎていますね。個人の能力を生かすという問題以前に、この職場で求められているものを理解出来ないのであれば、それを明確に示している山猫商会で働くのは難しいでしょう」
「でも、お前も意地悪だなぁ。毎回、あの茶番を見せて篩い落とすだろう?」
「上の者が一度あのように言うことで、合わない価値観を持つ者が安心して表面に顔を出しますからね。主張も出来ずに下の者同士で徒党を組まれて反抗でもされると、テイダー商会の二の舞になりかねません」
テイダー商会は、五年前に潰れた老舗商会である。
商会を育てて膨れ上がった体を御しきれず、従業員たちの不満が効率を下げるという形でじわじわと商会を食い荒らしてしまい、テイダー商会は特に大きな損失を出してもいなかったのに、あっさり瓦解してしまった。
(あの商会は、古くからある仕事を丁寧にやってゆくべきだった。効率化を図った経営層と、その為に雇い入れた新しい従業員達が、商会の良い仕組みや貴重な技術を全て駄目にしてしまったのは残念な事だ…………)
その時も、愚かな新参者がジルクを咎めた。
せっかくテイダー商会が店仕舞いするのだから、出来る限りの良い人財を引き抜くべきだと言うのだ。
テイダーと山猫ではパンの魔物とレインカルくらいに違うのに、その男は、首を横に振ったジルクのことを、革新を恐れる臆病者の山猫だと糾弾までする始末。
ジルクが適当に遊ぶ前に、業を煮やした部下達がばらばらに引き裂いてしまった。
「今夜は、またアルビクロムですか?」
「従順な美しい妖精達を縛り上げるのも悪くないが、今夜は、下僕達がご主人様の偉大さを語る定例会があるらしいんだ。俺は初めて参加するからね、粗相がないように早めに会場に着いていないといけないだろう?」
「…………ジルク様?失礼ですが、どのような会合に出られるのか、もう一度教えていただいても?」
「ご主人様の偉大さを語る会だね。因みに、俺はそのご主人様を見守る会の、三百六番目の会員だ」
「…………………ちょっと待って下さい。…………あなたが、ご主人様なのではなく、ご主人様を見守る側なんですか?」
リャザにそう尋ねられ、ジルクは、唇の端を持ち上げて微笑んだ。
(そうだな。こうして、驚きに無防備になるリャザの顔を見られただけでも、あの会の会員になったのも悪くない……………)
夏夜の宴の後、ジルクは自らウィームに赴き、アルテアに教えられていたウィームの歌乞いを信仰する会を探し出し、その場で入会希望の申し込みを済ませてきた。
そんなジルクを見守ったのは、雪の魔物一人どころでは済まないくらいの高位の者達だ。
聞けば、本人も所属していたらしいアルテアは後援者としての役どころの強い立場におり、何とあのアイザックが会計だというではないか。
それについては、彼女が、自分よりアイザックと相性がいいとも思わないので、近い内に絶対に何らかの役職を得たいと思っている。
「アイザックが会計をしているんだ」
「…………何ですかね、その恐ろしい会は」
「ご主人様を見守る会らしい。あれだけの高位の者達と定期的に会合を持てるというだけでも、なかなか愉快だと思うよ」
「………………他には誰がいるんです?」
「真夜中の座の精霊王に…」
「いえ、やはり聞きたくないです!」
最初の一人でもう駄目だったのか、リャザは慌ててこちらの言葉を遮ると、見事な赤金の髪を揺らして少し項垂れている。
「お前は繊細だなぁ………」
「まさかとは思いますが、そのご主人様に仕えるのが楽しくなったんですか?…………あなたが?」
「撫でられるのは悪くはなかったけれど、思わぬものを見られるという意味では、愉快な娯楽本のようなものだろうね。あの子に縛られたいとは思わないよ。会員の中には、彼女に貰った縄を祭壇に上げている者達もいるみたいだけれど………」
「……………祭壇?」
「そう。可動域が飛蝗と同じくらいしかないけれど、竜の王族も簡単に殺してしまうらしいご主人様のね」
「…………竜王とは言え、階位によっては罠などをしかけられますが、」
「殺しかけた事があるのは、風竜と雪竜、咎竜の王も殺したらしくて、水竜の王からは貢物が届くらしい」
「……………くれぐれも、殺されないようにして下さい」
「そうだね、気を付けよう。何しろ、万象の魔物の伴侶で、選択の魔物を使い魔にしている、危険な女の子だからね」
そう付け加えれば、リャザは絶句してしまった。
そんな部下で友人でもある男に微笑みかけ、一通りの引き継ぎを終えてしまうと、転移を踏んで幾つかの現場の確認と、それぞれの責任者達の様子を見に行く。
夜明けから夕刻までの仕事を終える者達から飲みに行かないかと誘われたが、これから大事な用があるのだと笑って断った。
「ジルク様、今夜は遊んでくれませんの?」
赤く塗られた爪を煌めかせ、そう手を引いたのは一つの商隊を任せている魔物の女だ。
男爵位の魔物であるが、山猫商会のやり方を気に入ってこちらで働くようになってから、そろそろ百年が経とうとしている。
互いの気が乗れば夜を共に過ごす事もあるが、それを仕事に持ち込まず、仕事の面においてはかなり優秀だ。
一つ欠点があるとすれば、気に入った魔術師がいると、商品だというのに手を出してしまう事だろうか。
山猫商会の扱う魔術師達は、そのように弄ばれても品物としての質を落とす事はないが、そのような割り切りが出来ない未熟な働き手達を煽る可能性もある。
砂猫商会の方で一度、雇い入れた魔物が商品である魔術師を連れて逃げた事があったので、そのような騒ぎだけは起こしてくれるなと何度か言い聞かせてはあるのだが。
「今夜は、大事な予定があるんだ」
「あら、聞き捨てならない言い方をされますのね」
「それはもう、大事な女の子について仲間達と語らう会合だからね」
「…………まったくもう、あなたは。また妙な所に首を突っ込んで、リャザを困らせないで下さいまし」
「だとしても、これは今の俺の一番の楽しみだからなぁ。…………ああ、こればかりは譲れない。ところで、あの魔術師はどうだい?」
「うふふ、今日も元気にしていますわよ。焼きたてのパンのいい匂いがして、喚きもしないし逃げられもしない、可愛い可愛い、パンの魔術師ですわ」
夏夜の宴から持ち帰った、パンの魔物にされた魔術師がいる。
ひとまず欠けた部分を元に戻そうかと、彼女に託したのだが、いい匂いがして気に入ったとそれからどこに行くのにも連れて歩き、手入れ中の商品というよりは、すっかりお気に入りの愛玩動物のようだ。
「……………とうとうあの顔剥ぎも、パンの魔術師にされたか」
「あら、それ以外の何にも見えませんでしょ?この前、リャザに踏まれてぺたんこになってましたけれど、牛乳を与えるとすぐに元通りになる、可愛い魔術師ですもの」
「…………ああ、そう言えばリャザから、商品を殺してしまったかもしれないと言われた事があったね……………」
そんなパンの魔術師については、献身的に面倒を見られ、今は、どこが欠けていたのか分からなくなっているが、どう売り物にしたものか悩んでいる。
案外、パンの魔物のままの方が需要があるのかもしれない。
「おっと、時間だね。俺は上がるよ」
胸元のポケットから取り出した金時計が、しゃりんと夕闇の祝福の音を立てた。
楽しみにしていた会合に、遅れる訳にはいかないではないか。
後日、リャザにその会合で貰った、ご主人様の先日の狩りの獲物一覧を見せたところ、リャザは大真面目で、かの有名な肉屋の狩人の親族に違いないと主張した。
確かに名前の響きが似てはいるので、あながち外れでもないかもしれない。




