75. 災いの木は人見知りです(本編)
ざわざわと強い風に揺れる木々の枝葉がさんざめく音に、ネアはうっとりと耳を澄ました。
風が鳴らすこの音が、ネアは大好きなのだ。
強い強い風の日には、運命の歯車がきりきりと回ると聞いて、何かここにはない特別で素敵なものが運ばれてきてはくれないかと、その音に耳を澄ます度に胸を震わせた。
見上げるほどに大きな木を、その真下から見上げたような気がして目を瞬く。
健やかに伸びた枝には赤い実が揺れていて、その中には幾つか滲むような青から水色の実も混ざっている。
赤い実は健やかなるもの、青い実は魔術の流れが滞り手入れが必要なもの。
滅多にないが黄金の実は、魔術の真理に誰かが触れたもの。
そんな知識がどこからか頭の中に流れ込み、ネアはその大きな木を見上げたまま瞳を揺らす。
丘の上に茂るその木の真下に、銀色の髪を風に揺らして立っているエーダリアの姿が見えた。
(あ、エーダリア様………………)
けれど、知り合いを見付けて駆け寄ろうとしても、ネアはその場に立ち尽くしているばかり。
まるで今はもうない幼い頃の思い出に触れるような、寂寥と懐かしさにも似たものを感じ、肌に触れる風の心地よさに目を閉じる。
「………………魔術の対話と教授が終わったな。着地の衝撃にだけ備えておけよ」
耳元でそう呟いたのは、誰だろう。
振り返ってもネアは一人で丘の下に立っているばかりだったけれど、こちらを振り返ったエーダリアが微笑んでいたから、きっと大丈夫なのだろうと安心して頷いた。
「お帰り、ネア」
けれども、瞬きをした直後にそう囁いた誰かにふわりと抱き締められると、ネアは目を丸くした。
そろりと顔を上げると、真珠色の髪を風に揺らした美しい男性が、安堵に潤ませた水紺色の瞳でこちらを見ている。
「……………ディノ、」
その名前を呼べば、いつの間にかそこはリーエンベルクの敷地の中だった。
中庭には薔薇だけではない様々な季節の花が咲き乱れ、柔らかな緑と細やかで繊細な花々の織りなす色彩が素晴らしい。
木洩れ陽が地面に複雑な模様を描き、見上げた木の上にはむくむくと太った茶色い栗鼠のような妖精が歩いている。
ふさふさとした尻尾を揺らし、背中には夢中で木の実を齧る子供を乗せていた。
ああ、リーエンベルクに戻って来たのだと実感すると、ネアはまず、大好きな魔物の胸元にぼすんと顔を埋め、そして体を離し、深呼吸してウィームと伴侶の素敵な香りのハーモニーを満喫する。
「おかえり。夏夜の宴が、無事に終わったようだね」
「…………どこかで大きな木を見ていたような気がしたのですが、気付いたらリーエンベルクに帰って来ています!」
「うん。それぞれ、夏夜の宴に下りた場所に戻されるからね。皆も帰って来ているようだ」
そう言われて振り返ると、迎えたヒルドに抱き締められ、エーダリアが目を丸くしている光景がある。
二人で立って何かを話しているのが、ウィリアムとアルテアだ。
「という事は、私が見ていた大きな木は災いの木さんだったのでしょうか?」
「そうだと思うよ。災いの木は人見知りで有名だからね。夏夜の宴の優勝者しか、近寄らせないらしい」
「……………人見知りなのですね」
「ネア、ターレンの魔術師に遭遇したと聞いた。よく頑張ったな」
「まぁ、グレアムさんです!ディノの側にいてくれて、有り難うございました」
声をかけられ、グレアムもいたことに気付いたネアは、ぱっと目を輝かせる。
白灰色の髪を揺らし、柔らかく微笑んだグレアムは、ネア達が不在にしていたのは二日間で済んだのだと教えてくれた。
「となると、やはり疫病祭りは終わってしまったのですね…………」
「ああ。だが、明けたばかりだから、ウィリアムの負担も少ないだろう。今年は蝕の翌年ということもあって、皆慎重に行ったようだ。比較的穏やかな祝祭だったように思う。ウィームでも事故なく終わったし、他のどこかで大きな事故や問題が起きたという話も聞こえてきていない」
「ふぁ、良かったです!」
帰宅の挨拶などを終えた全員が集まり、ネア達は、会食堂で報告会をする事になった。
やっとリーエンベルクの主人が戻ったからか、そこに向かうまでの廊下ではカーテンがあちこちで咲いてしまい、途中で広間の扉がぱたんと開いて花吹雪が吹き込むというような事もあった。
無事の帰宅に大喜びのリーエンベルクに、エーダリアはあちこちを見て嬉しそうに唇の端を持ち上げている。
ヒルドから、不在の間は一層色が剥がれたように褪せて見えたくらいだと言われ、ウィーム王家最後の血を引くエーダリアは、どれだけ嬉しかったことだろう。
そんな様子をにこにこと見守りながら歩いていたネアは、ふと、旅の仲間が一人欠けている事に気付いた。
「…………む、ジルクさんがいません」
「あいつなら、夏夜の宴に下りた場所に戻された筈だ。魔術の繋ぎは切っておいてやった。放っておけ」
「………ジルクと、最後の日も一緒にいたのかい?」
カードから、ディノにもジルクと出会った旨は伝えていたのだが、そう言えば、ウィリアムやアルテア達と合流してからも一緒に過ごしていたことは伝えていなかったかもしれない。
ネアは不思議そうな顔をしたディノに、そんなジルクとの事を簡潔に説明しようと頭を捻った。
「はい。夏夜の宴の中で出会いまして、悪さをしないように森のなかまのおやつを与えたところ、ちょっぴり懐いたふかふか猫さんです」
「……………ネアが、浮気する…………」
「あらあら、私の大事な伴侶はディノだけなのですから、浮気ではありませんよ?」
ネアがそう言えば、何日か離れるとすぐに抵抗力が弱まってしまうディノは、目元を染めてもじもじしてしまう。
手を伸ばしてそっと頬を撫でられ、ネアはそんな魔物の手の輪の中でくるりと回ってみせると、ふんすと胸を張った。
「この通り、ディノがウィリアムさんとアルテアさんを届けてくれたお陰で、私はどこも欠けていませんし元気いっぱいですからね。それに、エーダリア様とノアも、悪い魔術師さんと戦って守ってくれたんですよ!」
「…………うん。君が無事で良かった」
しかし、目を細めて嬉しそうに笑ったディノに、悪戯心を起こしたネアがえいっと飛びついてみると、魔物はあえなくくしゃくしゃになってしまった。
「…………これから報告会なのに、うっかり殺してしまいました」
「ありゃ、シルが…………」
「仕方がないので、誰かに手伝って貰って私の隣の椅子に座らせておき、さも元気なように見せかけておきますね」
「ネア、俺がシルハーンを」
「グレアムさん、へなへなのディノをお願いしてもいいですか?」
なぜだか嬉しそうにしているグレアムがディノを座らせるのを手伝ってくれたので、とても儚いネアの伴侶は、テーブルに突っ伏して無事に倒れていられるようになった。
ずるいだとか可愛いと呟いているので、時間が経てば元気に生き返ってくれるだろう。
「やれやれだね、うちの馬鹿王子もとうとう夏夜の宴の勝利者になったか」
その声に会食堂の入り口を見ると、エーダリアが不在の間はリーエンベルクに執務機能を移していたダリルが顔を出してくれた。
今日はふくよかな紫色のドレスで、眼鏡姿の絶世の美女に見えるダリルにはとても良く似合う。
「ダリル!…………不在の間、良くやってくれた。疫病祭りの報告はこれから読む予定だが、特に問題もなく終わったようで何よりだ。一通りの確認が終わったら、夏夜の宴で得られた魔術式について、今後のウィームの防衛なども含め相談させて欲しい」
「へぇ。災いの木から得たのは、どうやらそっちに役立つものみたいだね。夏夜の宴の報告を聞いた後は、祝祭の事後処理が幾つかある。それを済ませたら私は少し休むよ。晩餐の前の時間でどうだい?」
「ああ。ではそうしよう。ダリル、…………面倒をかけたな。今回は厄介な者達が多かったが、皆に助けられて何とか無事に帰る事が出来た。引継ぎが終わったら、休暇を取ってくれ」
エーダリアをまっすぐに見つめ頷いた書架妖精は、ヒルドのように無事を喜ぶことはしないだろう。
それでも、ダリルが無事に帰ったエーダリアを見て安堵している事はネアにも分かったし、きっとエーダリアにも充分に伝わっているに違いない。
時刻は、昼食よりは少し遅い時間。
リーエンベルクの料理人たちも領主の帰還を喜んでくれたのか、一同に振る舞われたのは、小さな、夏薔薇の花びらとサラミハムを使ったマスタードソースの一口サンドイッチと、薄く切った林檎が花びらのようで美しい林檎のタルトだ。
タルトには夜の雫がきらきらと光るホイップクリームが添えられており、口に含むと雪のようにひんやりと冷たい。
帰還のお祝いも兼ねているのか、きりりと冷えたシュプリが用意されており、エーダリアの優勝祝いの料理はあらためて明日の晩餐で出される事となった。
エーダリアはそこまでしなくてもと慌てていたが、お祝いの魔術を結べる機会は限られている。
このような場合は、しっかりお祝いをして貰い祝福をたっぷり取り込んでおく事の方が、正しい対応であるらしい。
出された軽食に手を付け、少しの歓談の後、エーダリアが夏夜の宴で起こったことを話し始めた。
今回は、カルウィの方面で統括を務め、ウィームを損なう事がない人物ということでグレアムも同席している。
「参加者は、私を含めて五人だ。カルウィのアスファ王子とターレンの銀階位の魔術師、ロクマリアの系譜の魔術師は、恐らく顔剥ぎマーカスだろう」
「…………ここで初めてその方の通り名を知りましたが、あまりにも物騒です。なぜ、毎回ちょっと残虐そうな方が選ばれるのでしょう…………」
「そりゃ、魔術師の気質にはそちらの側面もあるからさ。一般的に、残虐さで名の知られた魔術師は、善良さで知られる魔術師よりも腕がいい」
ダリルにそう言われると、確かにそうなのだろうとネアにも納得出来た。
しかし、ネアが水櫃に攫われた後のエーダリアとノアが、そんな厄介な魔術師と戦っていたのだと思えば、今更だが、本当に無事で良かったと心から思う。
「もう一人は、真っ先に山猫商会のジルクが回収していたけれど、あれは辻弾きのマーガレットかな。紫銀の長い髪の女魔術師は珍しいから、間違いないと思うよ」
そう付け加えたのはノアで、ダリルは腕を組んだまま難しい顔で頷く。
「残虐な魔術師として名を馳せた女だが、音楽の魔術の大家でもあった。漸く繋ぎをつけたばかりのザルツにとっては、痛手かもしれないね」
「………成る程。辻弾きなら、召喚したのはあのバイオリンだろう。契約の人外者などがいなかったのは、それでだったのだな」
ほっとしたようにそう言ったエーダリアに、ネアは、となると今回の善良な魔術師役はエーダリアしかいなかったのではと遠い目になる。
それだけの魔術師達に囲まれたエーダリアが、一人で戦う羽目にならなくて本当に良かった。
それは、例え自分が水櫃に飲まれるとしてもだ。
「……………アスファ王子がいたということは、砂陽炎の軍勢と戦ったのですね」
そう低く呟いたヒルドが、額を押さえて深々と溜め息を吐いた。
エーダリアは、そんなヒルドの背中にそっと手を当てているが、やはり、エーダリアが夏夜の宴に呼ばれてしまったことは、ヒルドにとってかなりの心労だったに違いない。
幸いにも、イーザ達がリーエンベルクを訪ねてくれたと聞いているが、今回は雲の魔物の統括地の方でも疫病祭りがあったので、ずっとの滞在は難しかったのだ。
「ネアが、素晴らしい剣を貸してくれたのだ。あの剣があったお陰で、一度に大勢の敵兵を浄化出来た」
「…………それは、ネア様には感謝しなければいけませんね。あなたの持つ魔術では、代償の大きなものを切り出すしかなかったでしょうから」
ヒルドのその言葉にエーダリアがぎくりとした様子を見せたので、一度は取り出していたあの小瓶は、それなりに代償を取られるものだったようだ。
「むぅ。そのようなものを、エーダリア様が使わずに済んで良かったです。因みに、貸し出し中の剣さんは、すっかりエーダリア様に懐いてしまいましたので、お試し滞在をした後、問題がなければエーダリア様に使い続けていただこうと思っているんですよ」
ネアがそう切り出すと、ヒルドとダリルが、はっとしたようにこちらを見た。
隣の席で漸く生き返ってくれたディノにもカードで相談しているので、ディノも短く頷いている。
これは、昨晩にみんなで話し合って決めた事だったのだが、魔術稼働域の低いネアが少しでも多くの武器を持っているべきであるものの、現状、エーダリアには攻撃に転じられるような高階位の武器がない。
勿論、普段はノアもヒルドもいるのだが、同じような状況が二度とないとは言い切れないではないか。
また、ガレンエンガディンであるエーダリアには幾らでも稀有な術式の備えがあるとは言え、あの時のように軍勢の襲撃を受けるという場面で、より効果的な反撃が出来る武器はかなり貴重なのだ。
せっかく剣本人とも相性がいいのだし、であればという話をしていた。
「…………あれは、かなり重要な局面を左右しかねないものだ。ネアちゃん、エーダリアに譲ってしまってもいいのかい?」
「はい。私にはまだまだ備えがありますし、特にきりんさんについては、やはり何の影響も受けない私が一番使いやすいのです。であれば、エーダリア様の手に馴染むような武器もまた、必要なのではないでしょうか?あの剣さんには、主人となるのに必要な資格が沢山ありますので、引き続き私が持ち主で、エーダリア様が使い手という形にはなってしまいますが……………」
これからもきっと、より込み入った危険に遭遇し易いのは、エーダリアよりもネアなのだろう。
寧ろ、エーダリアは本来、外で危険に巻き込まれていたりしてはいけない一人である。
それを踏まえて問いかけたダリルに、ネアは微笑んで頷いた。
「ディノも、構わないのかい?」
「ネアがいいのであれば、私は構わないよ。何か、それでなければという事で借りることもあるだろうけれど、常に手元に置いておかなければいけないものでもないからね」
「それなら、うちの馬鹿王子に預けて貰えると助かるよ。主人を選ぶ高位の魔術道具は、例え敵に奪われても最後まで主人を守るものだ。その代わり、持ち手の資格を得る為には、厄介な称号が幾つも必要になるからね」
「ふふ。たまたまですが、全ての資格を持っていて良かったです」
「……………たまたまで人間が持つようなものじゃないがな」
「むぅ……………」
窓の外には、清廉なウィームの美しい晩夏の庭と森が広がっていた。
僅かな黄みを帯び始めた森の木々に、花壇の花々も少しずつ秋に近づいてゆく。
まだ今年の秋告げの舞踏会には時間があるが、それを過ぎると一気に秋らしくなってくるのだろう。
報告会はその後も続いたが、水櫃の話が出ると、ヒルドは激しい反応を示した。
ネアは、後遺症や体に残る毒がないのかを尋ねられたが、今はもう、しっかり復調しているので安心して大丈夫だと言える。
(もし、昨日の状態だったら、まだ疲労感は残っていたし、ヒルドさんを心配させてしまったかもしれない。一日明けてからの帰りで良かったのだわ……………)
勿論、最終日もなかなか大変だったのだが、治癒などの回復から明けたばかりのずしりと体が沈むような疲労感は抜け落ちていた。
昨晩、何度かアルテアが額に手を当ててくれていたので、治癒などを重ねてくれていたのかもしれない。
「ターレンの魔術師が、ヴェルクレアの入国審査を通らなかったっていうのは、朗報だね。実際に入国に仕損じた高位の魔術師の情報ってのは、なかなか入って来ないんだ。不法入国の道は幾らでもあるけれど、正式な境界については銀階位でも入り込めないと証明されたってのは大きいよ」
ダリルが喜んだのはその情報で、そんなターレンの魔術師がウィリアムに細切れにされてしまった事も良い報せだったようだ。
ウィームやこの国に入り込まないにしても、他国の為政者達がその力を手に入れると厄介な事になる。
使い道もあったらしい辻弾きの魔術師とは違い、こちらは、国としても排除しておくのが正解であったようだ。
「となると、中央に持ち帰れるのは、マーカスと、ターレンの魔術師の事くらいでしょうね」
そう呟いたヒルドに、グレアムがふわりと微笑む。
「いや、アスファ王子が参加していた事も公にして構わないだろう。彼は急速に力をつけ過ぎ、第一王子の不興を買っていた。山猫商会に回収されたようだと合わせて報告すれば、その情報がどこかに漏れてもカルウィが動く事はない」
「だが、仮にも第三王子だ。影響が大きいのではないだろうか?」
そう尋ねたエーダリアに、グレアムは柔らかく、しかしきっぱりと首を横に振る。
「彼を第三王子たらしめた最大の魔術は、全容が掴み難いものであったが故に、長らく多くの者達を悩ませてきた。誰も、死者の国にも行けない砂陽炎の奴隷にはなりたくないだろう。第三王子の退場を歓迎するのは、対抗派閥ばかりではない。…………私の所にも、どれだけの者達があの王子を殺して欲しいと言いに来たか」
その言葉は酷薄で、人間の営みを睥睨するような魔物らしい冷たさであったが、そんなグレアムも、ウィームを統括の地としていた頃は、人間のふりをして王宮魔術師をしていたのだと言う。
時折、カルウィの一帯を統括する今代の犠牲の魔物は、冷酷で残忍だとネアも耳にして来たが、そこがカルウィだからこそ、犠牲の魔物は容赦なく対価を取る残忍な魔物として統括する事にしたのかもしれない。
「グレアムが、カルウィの状況を把握してくれていて助かったな。そのカルウィの王子については、山猫商会との契約において不履行があり、魔術契約に食われたらしい。それも含めて報告をしておけばいいだろう」
そう纏めてみせたウィリアムは、山猫商会もその母体となる砂猫商会も、約定を破り商会を騙そうとした魔術師については、永劫に自由を与えないのだと加えて教えてくれた。
「それは、例え自分達よりも高位の相手で、捕縛が難しく商会の人員がどれだけ死ぬのだとしても、それでも変えることのない約定だ。だからこそ、商売相手には、彼等を騙そうとする商人はまずいない。どんな手を使っても成される報復に遭うとなれば、さすがに割に合わないからな」
「…………まぁ。苛烈な感じですが、それくらいの事を徹底しないと、魔術師さんを主力商品にするようなお仕事は続けられないのでしょうね」
「ジルクは比較的若い山猫だが、頭の良さも能力もずば抜けている。魔術の繋ぎは切ってはあるが、……………確かに、押さえておいて損はないだろう」
どこか苦々しくではあるが、そう付け加えたアルテアに、ネアは瞳を輝かせた。
「うむ。では、私は、思う存分にゃんこをごろごろさせますね!」
「ただし、お前がある程度の距離を保つならばだ。忘れているかもしれないが、あれは精霊だぞ。ジーンの件を忘れたのか?」
「……………無念ですが、にゃんこを愛でるのは一年に一回くらいにしておきます」
アルテアにしっかりと釘を刺されてしまったものの、ダリルは、ネアが山猫商会との縁を得た事についてはとても褒めてくれた。
「ただし、アイザックとの相性がとにかく悪い。そこは商売人同士の因縁もあるだろうから、上手くやんな」
「むむ、ダリルさんもご存知なくらいなのですね。お二人の間に何かがあったのでしょうか?」
「感情の縺れに近いジョーイとは違って、完全に商売上の問題だ。情報から仕事を動かすアイザックと違い、山猫商会は感情的な側面もある。互いにやり方が気に食わないんだろ」
「…………こうして考えてみると、アイザックさんは、意外に相性の悪い方が多いようです…………」
「アイザックは、淡白に見えて欲望の質だからな。考えてもみろ、お前を上得意に格上げするまでは、あのレーヌを気に入りの顧客にしていた男だぞ」
「…………むぐ」
言われてみれば確かにそうだぞと低く唸ったところで、ネアは、空っぽになってしまった筈のお皿に、一口サンドイッチが増えている事に気付いた。
はっとして隣の魔物を見ると、瞳をきらきらさせてネアの膝の上に三つ編みを設置し終えたところのようだ。
「まぁ、ディノ、分けてくれるのですか?」
「うん。向こうでは、お腹が空いていたりはしなかったかい?」
「むぐふ。やはりリーエンベルクのサンドイッチは世界一です。…………むぐ。向こうでは、ノアのお陰で物語の中のザハに泊まれたので、襲撃でお昼を抜かした日はありましたが、他に困るような事もなく、美味しいものをいただきました。ディノは、きちんと食べてくれていましたか?」
「……………うん。グレアムが一緒だったし、アレクシスが、スープを届けにきたからね」
「まぁ、アレクシスさんが、来てくれたのですか?」
思いがけない人物の訪問にネアが目を丸くすると、グレアムがどこか不思議な微笑みを浮かべる。
そうして、ディノを案じてくれる人をまた一人知り、この犠牲の魔物は嬉しかったのかもしれない。
「君が悲しむといけないから、しっかりと食べておくようにと言って、スープを置いていってくれたんだ。君が帰ってきたら飲ませるようにと、呪いや毒抜きのものも預かっているよ。雪牛と白い夜羽茸に牛蒡の入った辛いスープらしい」
「ふふ、アレクシスさんはディノの事がお気に入りですものね。後でお店に魔術通信をかけてみて、まだウィームにいらっしゃるようであれば、お礼を言いますね」
「おい、…………白い夜羽茸は、五百年に一度だけしか収穫出来ないものだぞ…………」
「なぬ。伝説のキノコでした…………」
水櫃に入れられた事もあって、ネアは、そんなスープも晩餐の前に美味しくいただく事にした。
もう充分だと思っても、重ねて体を労わっておくことで、思わぬ部分の可能性も潰しておけるからだ。
それに、聞くだけでも美味しそうなスープではないか。
「グレアムさんは、もう少し滞在出来るのですね。良かったです」
「この時期はカルウィの方も落ち着いているからな。夜には、ウィームで知人との会食があるが、夕刻まではのんびりと滞在させて貰うよ」
アルテアはどこかの国で一仕事してから、今夜はリーエンベルクに泊まるのだそうだ。
ウィリアムも、系譜の者達と話をして疫病祭りの影響が特に出ていないようなら、今夜はリーエンベルクに泊まってゆくらしい。
なぜ二人が宿泊に前のめりかというと、ヒルドがリーエンベルクがかなり喜んでいる気配があるので、今夜は大浴場に湯が入るのではないかと言ったからだろう。
どうやら魔物の第二席と三席は、すっかり、リーエンベルクの大浴場の虜らしい。
エーダリアは夜のダリルとの打ち合わせ迄、滞っていた仕事を済ませてしまい、その後、明日は丸一日のお休みとなる。
きっと、あの物語のリーエンベルクで採取してきた苔を調べたり、手に入れた財宝相当の魔術書を読み耽ったりするのだろう。
「そう言えば、ジルクはこいつの会に興味があるらしいぞ」
「かいなどありません……………」
「ジルクなんて……………」
「ディノ、ジルクさんが懐いたのは、交渉の為に獲物を売ったからですからね?」
「ネア、ジルクの話を少し聞いてもいいか?」
「む、グレアムさんにも疑われていますが、にゃんこはにゃんこなので……………」
「はは、いやそれでではないよ。俺が聞くと、また違う側面から、気になることが出てくるかもしれないだろう?」
「ふぁい。でも、かいはないのです……………」
ネアは、ジルクの件について、グレアムも交えてディノと話をする事になった。
その前にと、一度別れるウィリアムとアルテアには、夏夜の宴の中で色々助けてくれたことへのお礼をしっかりと伝えておいた。
(……………それと、ヒルドさんは大丈夫かしら?)
報告会が解散となると、会食堂の中を見回したネアは、エーダリアがダリルと話している隙に、一人になったヒルドを発見する。
ネアは、エーダリアもノアも不在の中で頑張っていたに違いないヒルドの元にててっと駆け寄ってみた。
「ヒルドさんは、お疲れではないですか?何かお手伝いします?」
名前を呼ばれ、こちらを見て瑠璃色の瞳を揺らしたヒルドは、優しく微笑んで声を潜める。
伸ばされた手が頬に触れ、ネアは優しい家族の温度にほにゃりと頬を緩めた。
「では、後ほど、本日の仕事終わりに、ネア様を抱き締めさせていただいても?」
「むむ、勿論です!ぎゅっとするだけで足りますか?疲労回復のディノのお薬もありますよ?」
「いえ。ネア様とエーダリア様が無事に帰ってきたと実感出来るのが、一番の薬になりますので」
そう微笑んだヒルドに、ネアは伸び上がって大事な秘密を耳打ちした。
「実は、ノアがエーダリア様の素敵なちび狐ぶりを発掘してくれたので、後でヒルドさんも、ちび狐なエーダリア様をもふもふすると良いのではないでしょうか?とっても癒されますよ!」
「……………おや、」
そんな報告にくすりと笑い、ヒルドは、それではいつか是非と言っていたので、ネアは勿論、その言葉をしっかりとノアにも伝えておいたのだった。




