74. なぜかそうなりました(本編)
翌朝は、からりと晴れることもなく、重たい曇天にしっとりした霧が立ち込めていた。
濃い霧の向こうから何かが現れそうで、物語が終わる日というよりは、これからとんでもない事件が起きそうな情景に思えてしまう。
しかし、朝食に念願の黒パンのサンドイッチをいただき、こちらの方が好きだと知ったネアは朝からご機嫌だった。
より良いものを知らずに生きてゆくよりも、美味しいものは一つでも多くお口に入れてゆくべきなのだ。
「いいか、この手を離すなよ」
「……………むぐる。私が寝台を移動したのは、寝台と寝台の継ぎ目にはまるのが嫌だったからで、脱走しようとしたのではありません…………」
アルテアが朝からとても神経質になっているのは、昨晩は二つの寝台をくっつけた間に寝かされていたネアが、僅かな窪みを嫌がって寝る位置を変えたからである。
ジルクを除いてきちんと一人一つの寝台があった筈なのに、過保護な魔物達はネアをアルテアとウィリアムで囲んで寝る作戦に出たのだ。
勿論、このような状況であるし外は怪物まみれの夜だったのでネア自身も吝かではなかったのだが、寝台を二つ並べると、当然だがどれだけぴったりくっつけても中央にはその境界線がある。
ウィリアムがザハのようなホテルの大きな寝台を簡単に移動させてしまった事にも驚いたが、いざ寝るとなってからのネアは、背中の下の継ぎ目が気になってむしゃくしゃしてしまい、真夜中に比較的中央寄りで寝ていたアルテアを跨いで、その向こう側の平面を侵略しようと試みた。
しかし、アルテアはなぜかネアが脱走しようとしていたと勘違いしてしまい、左側の寝台の外側区画でしめしめと落ち着いたところで、憮然とした使い魔から背後から捕獲されたまま眠る羽目になってしまったのだ。
個包装信者であるネアにとって、それはたいへん屈辱的な夜であったと言わざるを得ない。
「はは、アルテアの事は後で叱っておこう。俺の側に来れば良かったんじゃないか?」
「……………ウィリアムさんは、少し肌色が多めでしたのでご遠慮しました」
優しく頭を撫でてくれたウィリアムだが、寝台を並べてあるとは言え、それぞれの寝台ごとに寝具が分かれていたからか、いつものような格好で寝ることにしたらしい。
さすがに下穿きは身につけていたと信じているが、どう見ても上半身は裸であった。
となると、そちらの領土に迷い込むのは、淑女にはいささか刺激が強過ぎたのだ。
カーンカーンと、葬送の鐘の音が聞こえる。
昨晩の災厄で亡くなった人を弔うものか、それ以前の死者を弔う為に鳴らされているものかは分からなかったが、魔術灯が必要なくらいの霧の日に聞こえてくると何とも陰鬱な響きである。
霧がしっとりと肌に触れれば、そこには夏のかけらもない。
今年は、蝕の翌年のサムフェルが開かれない夏市場の朔の年ではあるものの、まだ避暑地にも行けていないのにこの肌寒さなのだから、何だか季節感が狂ってしまう。
ネアは、果たして海遊びは出来るのだろうかと、こっそり不安に駆られていた。
(あの島のあたりの気候だと、ウィームの九月の後半までは充分に海遊びが出来るのだけれど、…………これだけ色々あったから、みんなでお休み出来る日はもう取れないかしら…………)
ただでさえ、今回、ウィリアムは疫病祭りの日をこちらで過ごしてくれている。
地上での疫病祭りは昨日から今日にかけてがその日にあたるので、今年の疫病祭りは、世界各地で、終焉の魔物の不在のまま執り行われているのだろう。
疫病祭りなのだから、勿論、疫病の魔物がいればいいのだが、それでも終焉の魔物の存在は抑止力として必要なものなのだ。
(それで何かが起きたとしても、帰ってから対処出来るとウィリアムさんは言ってくれたけれど、………………)
働き過ぎで体を壊してもいけないので、誕生日の贈り物なランチョンマットのメニューを、こっそり増やしておこう。
スープ専門店の疲労回復スープを入荷せねばと、ネアは帰ってからの任務を一つ増やしておいた。
真っ直ぐな並木道を抜けて、ネア達が向かうのはリーエンベルクだ。
針葉樹の硬質な青緑色と、色づき外周の森へと繋がる紅葉した木々とのコントラストは、少しだけ花壇の薔薇のくどさに損なわれてはいたものの、道の向こうに佇むリーエンベルクの美しさは例えようもない。
リーエンベルクと言えばやはり雪景色なのだが、こうして霧の中から現れる壮麗な王宮は心を震わせた。
「誰もいませんね……………」
「ああ。騎士達がいる気配もない。この物語では継承者が失われている設定だったか、………」
そして、そんなリーエンベルクはこの物語の中では無人になっているようだ。
「この石像は、門番代わりか。雪食い鳥だろうな」
なぜここで雪食い鳥なのだろうという疑問は残るものの、大きな翼を持つ乙女の石像が正門の左右を騎士のように固め、資格を持つ者しか門を通れないような魔術結界で覆われているらしい。
霧を這わせた様相には不穏さも滲むが、無人ではあるものの、門扉の隙間から覗くとついさっきまで人々がいたかのような美しさで、ネアは、雪食い鳥の石像をそっと覗き込む。
長い髪の美しい乙女姿の雪食い鳥は、今にも動き出しそうな精緻さで、髪の毛が風に膨らむ様子や大きく羽ばたこうとしている翼の風合いなども素晴らしい。
まるで、今にも動き出しそうだ。
「…………そして、この石像さんはとても動く気がしてなりません」
「わーお。雪食い鳥だと試練があったよね。喋る前にどうにかしなきゃかな」
「ノアベルト、左側を頼んだぞ」
「…………ほわ、ウィリアムさんが既に剣を抜いています」
このような入門手続きにおいての定番として、エーダリアはまず、湖の神殿で手に入れた白銀の王冠を魔術金庫から取り出した。
霧の中でも白い輝きを湛えた王冠は鈍く光り、エーダリアがそれを手にしてこの場に立っている事の意味深さに、ネアは胸が熱くなってしまう。
(でも、この王冠は持って帰れないのだわ…………)
ネアはそれが残念でならないが、この王冠はあくまでも、物語の中で主人公を王宮に招き入れる為の鍵のようなものに過ぎない。
ノアの予想では、リーエンベルクがその目的地であれば、この扉を開く際に消えてしまうだろうという事だったし、もし形が残るのだとしても持ち帰れない理由がある。
何しろこの王冠は、物語の中とは言え、主人公をこのリーエンベルクに失われていた王族として迎え入れ、物語の身勝手さで、最後は周辺の国々までを統治下に収める為に用意された物語の道具だ。
王冠を象る魔術を読み解けば、そのような意味を持たされた品物をエーダリアが手にしている危うさはネアにも分かる。
万が一にでも、そんな魔術履歴を持つ王冠を所有していると露見してしまえば、エーダリアは、現王への叛意ありと中央から目をつけられる可能性があった。
持ち帰れないと知ったネアは強欲な人間の常でしょんぼりしてしてしまったが、エーダリアは、本来のウィーム王家に纏わる品物ではないからと苦笑していた。
それに、エーダリアにはカインの書庫から回収された王家の指輪があるので、ウィーム王家の品物を既に所有はしている。
(でも、せっかく手に入れたのに………)
ノアの言うようになくなってしまうのかなと、王冠を手に前に進み出たエーダリアを見ながらはらはらしていると、ぎしりと不吉な音がした。
「みぎゃ?!」
次の瞬間、石化していた翼をばさりと大きく動かした石像から、ばらばらと細かな石が飛び散った。
石像が生身の体に戻るというよりも、石の中に閉じ込められていた雪食い鳥が目を覚ましたような感じであるらしい。
勿論、隣にいるアルテアが防いでくれたものかその石片が当たる事はなかったが、思わず目をぎゅっと瞑ってしまったネアの耳に、低く涼やかな女性の声が聞こえた。
「ああ、やっとこの国の王が戻った。王宮よ、扉を開くのだ」
その声に重なるように、ぎぎっと音が聞こえたので正門が開いたのだろう。
そして、ネアがそっと目を開こうとしたところで、誰かが手のひらで目を覆ってしまった。
「…………むぐ」
「中に入るぞ」
「視界を塞ぐのをやめるのだ」
ざんと鈍い音が聞こえたのは、きっと聞き違いではない筈だ。
ネアにはその不穏さは伝わらなかったが、恐らくウィリアムとノアが門番の雪食い鳥の首を落としたのだろう。
アルテアはそれを見せないようにしてくれたのだろうが、ネアは気付かなかったふりでじたばたしてみる。
手のひらが外されると、鋭い赤紫色の瞳がネアの表情を確認するように覗き込み、ふっと外された。
昨日からとても過保護なのだが、ネアは、まだ何の食べ物も貰えていないので、そろそろおやつをくれるかなとそわそわしていたりする。
門の内側に入ると、リーエンベルクの美しい庭園が見えてきた。
周囲を取り囲む森は霧に沈んでいるが、庭園の真紅の薔薇は霧の中でも鮮やかに浮かび上がって見える。
(……………外客棟の前の花壇も、全部、赤い薔薇になっているみたい…………)
そう言えばと思い出して覗いてみれば、前を歩くエーダリアの手には、既に白銀の王冠はないようだ。
「エーダリア様、あの王冠はなくなってしまったのです?」
「ああ。門の前で掲げたら、リーエンベルクの封印結界に溶け込むようにして消えてしまった。やはり、鍵として使う物だったのだろうな」
「苦労して手に入れたのにと考えてしまいますが、手の中にあるのに置いて行くよりはいいのかもしれません…………」
ネアがそう呟くと、やはり今日も付いて来てしまったジルクが振り返る。
昨日まではシャツにジレ姿だったが、アルテアと服装がかぶることに気付いて今日は上着を着たようだが、残念ながらアルテアもスリーピース姿であった。
同じような服装でも身に纏う雰囲気がまるで違うのに、本人達は漆黒のジャケットがお揃いになってしまったことがとても気にかかるらしい。
「あの王冠が欲しかったのかい?」
「強欲な人間は、一度手にしたものを手放すとなると、少しだけがっかりしてしまうのです。それに今回は、物語の中とは言え、リーエンベルクの雰囲気のある品物でしたから」
「そうかな。あの紋章はウィームのものではなかったよね?」
「…………そう言えば、あの紋章はまだ謎のままなのですよね…………」
湖の神殿で手に入れた王冠には、見たことのない紋章があった。
魔物達が調べていたが、どうも、既存のものとは一致しないようなのだ。
「物語の中の創作という線が濃厚だな。紋章に見せかけた術式のつもりだとしても、あれでは欲張り過ぎだ。薔薇と剣、星と月と太陽では術式としては成り立たない」
「…………小さい頃に、弟と、自分で考える最強の紋章を作ったことを思い出しました。そんな感じなのかもしれませんね」
「ありゃ、危ない遊びだなぁ。こっちだと、新しい術式が生まれると事故になりかねないから気を付けるようにね」
「何と物騒な世界なのだ…………」
王冠を携えてリーエンベルクを訪れたのであれば、向かうべきは玉座の間だろう。
ウィーム王家に集められた希少な品々は、それぞれの品物に見合った部屋を与えて飾られたり、シカトラームに預けられていたりしており、実はリーエンベルクには、宝物庫らしい宝物庫がないのだ。
であれば、リーエンベルクの中で最も価値のある部屋として認識されそうな玉座の間を調べてみようと考えたネア達は、まずは外客棟から屋内に入ることにした。
リーエンベルクの構成上、本棟から屋内に入れるのは特殊な承認魔術を持つ者だけである。
いちおう、ここにいるのは本物のリーエンベルクの正統な主人なのだが、今立っているのは継承者を失い封じられていた物語のリーエンベルクなのだ。
外から直接本棟に入った方が近道だが、外客棟からそちらに向かう事になる。
「よし、僕がまず扉に触れるけれど、ここは夏夜の宴の作法に準じよう。エーダリア、僕に扉を開けるよう命じてくれるかい?」
「……………命じればいいのだな」
「ありゃ、そんな顔しなくても、物語の作法に従うだけだからね」
「…………ああ。この扉を開けてくれ」
顔を強張らせてエーダリアがそう命じれば、くすりと笑ったノアがまず扉に触れてみる。
触れてみてからおやっと眉を持ち上げ、そのままぎいっと扉を押し開けたノアに促され、ネア達はそろりとリーエンベルクの中に入った。
「施錠されてなかったみたいだ。………わーお、凄い事になってるぞ」
「………………むぐ。目が………」
「うん、眩しいよね。僕のリーエンベルクが、酷い事になってるんだけど……………」
「……………物語を書いた者が、中の様子を知らなかったのだろう。だが、……………これは、」
「最悪だな…………」
「おお、堪らなく趣味が悪い…………」
「…………そう言えば、初期のラエタには、黄金宮殿があったな」
そんな人外者達の酷評を受けた物語のリーエンベルクは、目がちかちかしそうなくらいに、豪奢な黄金仕様になっていた。
よく見れば、そこかしこに黄金を使われてしまっているものの、柱や壁に施された装飾は精緻で美しい細工も多い。
なので、もしここが砂漠の国にある宮殿や、熱帯雨林の中にある神殿であれば、このような内装も独特で美しいものだと思えたかもしれなかった。
(でも、……………)
「…………リーエンベルクの外観と、ウィームという土地にこの金ぴかはとても合いません。そして、床の謎のモザイク画の絵柄にむしゃくしゃします」
「…………この絵柄は、どこかの土地の信仰の意匠だろうか。人外者の姿を図案化するとは豪胆なのだな…………」
「やれやれ、このモザイク画を、初期のラエタの王宮以外の土地で見る羽目になるとはな…………」
廊下の向こうまでの足元に続くのは、目を見開き歯を剥き出しにした人型のものが、こちらを威嚇するようなモザイク画だった。
壮麗で清廉な雰囲気こそが特徴のリーエンベルクの床になんて事をするのだとネアは顔を顰めたが、なぜかウィリアムが身に纏う気配の温度を下げる。
「……………わーお。僕がこれを目にしたのは二度目だなぁ。ウィリアムを表したものらしいよ、これ」
「……………なぬ。少しも似ていません」
「復活薬の確立に成功したばかりのラエタが、好んで使っていた象徴図形だな。牙を剥いた終焉の似姿を踏みつけ、死を克服した事を誇る為のものだ。あまりの趣味の悪さに、ラエタを守護した者達も眉を顰めていたがな…………」
「…………アルテアさんのお顔がこうなるのは、隠し部屋にヨシュアさんと一緒に閉じ込められて以来の事ですね」
「やめろ。思い出させるな」
悲しい記憶が蘇ってしまい、死んだ魚の眼になってしまったアルテアを何とか元気付けながら、ネア達は勇気を振り絞って前に進んだ。
この意匠に不快感を覚えるウィリアムと、内装の悪趣味さに頭痛がしていそうなアルテアに加え、自分の家をこんな風にアレンジされてしまったノアも勿論顔色が悪い。
ジルクは気にした様子もなくすたすた歩いているが、ネアとエーダリアは、何となくウィリアムだと言われた絵の部分は踏めずに廊下の端を歩いた。
モザイク床になってしまっているので、六人分の靴音がコツコツと響く。
窓の外は相変わらず濃い霧に包まれており、やはり庭園に咲いているのは、全てが赤い薔薇であった。
「外はどうだ…………?」
「うん。多分、誰もここには近付いてなさそうだね。これ以上魔術師はいないと見るか、ただここ迄辿り着いていないだけと見るかは、悩ましいかな」
アルテアとノアが外の様子について話し合っていると、ふと、ウィリアムが足を止める。
おやっと思ってネアも立ち止まれば、手を繋いでいるアルテアも止まることとなった。
「……………ウィリアム?」
「ここを見て下さい。あなたは嫌ってあまり近付きませんでしたが、俺は復活薬について調べる為に何度かあの王宮を訪れている。…………この扉の塔と薬瓶の装飾は、かつてラエタの宮殿の中でも、王族しか入れない部屋にだけ施されていたものですね」
「……………成る程な。あの魔術師は、元ラエタの王族か。女ながらに魔術師として育てられたのなら、王族の中でもかなり地位は低かった筈だ。だからこその、権力への執着なんだろう」
「まぁ。…………王族の方だったのですね」
思いがけない事実が浮上し、ネアは目を丸くした。
ガーウィンで、ネアとシャーロットは顔を合わせている。
貴族のご令嬢のような、優雅で繊細な所作の美しい少女に思えたが、王族だと言われると何となく腑に落ちた。
ネアが見た少女には、どこかアンバランスな無垢さと高慢さがあり、実は魔術師だったと言われてその肩書きの印象との不一致に困惑していたのだ。
(下位の王族とは言え王女様だったのなら、どうして自分の願いが叶わないのだろうと困惑するような表情は、本来の彼女が享受していた地位からのものだったのだろう……………)
あの少女は、そこでどんな人生を送っていたのだろう。
作家の魔術を使った本などという厄介なものを残してくれたと思うばかりのネアが、そうしてシャーロットについて考えるのは、きっとその国にはウェルバがいて、ネアの頭をふわりと撫でてくれたグレーティアもいたからだ。
「や、やっと終わったな」
「………ふぁい。ウィリアムさんを踏まずに歩くのは、なかなか大変でした」
「ネア、エーダリア、踏んでも構わなかったんだぞ?」
その廊下を抜けたネアとエーダリアがぜいぜいしていると、ウィリアムは不思議そうにしている。
「ウィリアムさんを踏みつける為に作られたものなら尚更、とても腹立たしいので踏みません!」
「ありゃ、高位の魔物を絵に起こす無謀さは珍しいにしても、ウィリアム自体はそういうの珍しくないよね?」
「ああ。生き物は、死を倦厭するものだからな」
「むぐる。だとしても、私やエーダリア様は、ウィリアムさんがそんな風にされたら嫌なのです」
そう主張したネアに、ウィリアムは僅かに瞳を瞠り、淡く微笑んだ。
手を伸ばしてネアの頭を撫でる終焉の魔物の眼差しに、ネアは、これは大事にする人なのだときりりとしてみせた。
「……………そう言われると、嬉しいものだな。……………それと、ネア、それは持ち帰れないからな」
「…………む。溶かして売れないかなと思ったのですが、まずいものでしょうか?」
「おい、妙なものを持ってくるな…………戻してこい」
「ま、またウィリアムさんを踏まないようにあそこまで往復するのですか…………?」
「ったく。それなら、足元にでも置いておけ」
残念ながら、ネアが通りすがりに手にした飾り棚の黄金の花瓶は、ラエタの特徴的な装飾があった為、置いてゆかねばならないようだ。
(……………それにしても、装飾だけでこんなに雰囲気が変わるのだわ…………)
角を曲がれば、終焉の魔物を踏ませようとする廊下が終わり、瑠璃色とターコイズブルーを基調とした花籠と林檎の図案のモザイクとなる。
基本的な建物の造形は同じなのだが、装飾と配色だけで見知らぬ場所のように思えてしまい、ネアはくらりと目眩がした。
いつかに見た事のある悪夢のような歪さに、ネアはしっかりと繋いでくれているアルテアの手をきゅっと握ってしまう。
「…………どうした?」
「見慣れた筈の場所が見慣れない風景になり過ぎていて、くらくらします………。でもここにこそ、物語の財宝があるのですよね?」
「…………恐らくはな。だが、王冠を鍵とするのであれば、間違いはないだろう」
「……………お昼までに帰れるといいのですが。林檎的な何かがとても食べたくてなりません」
「床から顔を上げろ」
「むぐぅ」
ネアは床一面に林檎の絵柄が出てくるのだから林檎を食べたくなるのは当然ではないかと眉を下げたが、アルテアがどこからか取り出したおやつゼリーを口に入れてくれると、幸せな甘さにびょいんと弾んだ。
「…………へぇ。アルテアは、随分と気に入っているんだなぁ。でもまぁ、お嬢さんのお気に入りの獣になれるのは、俺だけだからね」
「あら、アルテアさんも…むぐ?!」
「よし、お前は黙れ」
「……………アルテアも?」
瞳を細めたジルクが不審そうに見ていたが、アルテアは断固としてそちらを見ないようにして、やり過ごしたようだ。
答えを得られず首を傾げているジルクに声をかけたのは、振り返ったノアだ。
「愛玩動物になりたい程、僕の妹を気に入ってるのかい?」
「…………妹?」
「正式な魔術契約の下にね」
「…………ますます、興味深いね」
そう微笑んだジルクによると、山猫姿で沢山撫でて貰うのは悪くなかったようだ。
そして、ちょっとぞんざいに扱われるのは、嬉しいというよりは面白いらしい。
「これでも俺は、それなりに高位の精霊だからね。それと、俺をこんな風に扱う女はあまりいない。………ああ、そんなに警戒せずとも、万象の伴侶を抱きたいとは思わないよ。そうだな、珍獣みたいなものかな」
「ぐるるる!」
「ありゃ、怒らせた」
「…………ん?女として扱って欲しいのかな?」
「うーん、珍獣ってところじゃないかな…………」
「私を怒らせると、にゃんこ姿にした挙句、質の悪い石鹸で丸洗いしてこわこわ毛皮にしますよ」
「…………言い間違えた。希少で美しい花のようだ」
「ふむ。先程聞こえた言葉は、空耳だったようです」
「わーお、どんどん躾けるなぁ……………」
また廊下を抜け、幾つかの広間の横を通り過ぎると、ネアは、序章のあわいでは本物と変わらない美しさのリーエンベルクだった場所が、赤と黒の強烈な配色の大広間を有している事実からさっと目を逸らした。
美しいステンドグラスの窓があった筈の部屋を抜けて、白灰色の霧の日らしい光が差し込む窓の横を通り過ぎると、エーダリアと共に先頭を歩いていたノアがぴたりと立ち止まる。
「…………ああ、ここみたいだね」
「……………王座の間か。統一戦争の時に、魔術で守られたリーエンベルクで、唯一全焼した部屋だ…………」
そう呟いたエーダリアに、ノアが心配そうに青紫色の瞳を向けた。
ヴェルリア側の兵士たちがウィーム王家の痕跡を消す為に焼いたのかもしれないが、かつて落ちた影絵の中のウィームで、ネアは、火竜の王がその部屋だけは誰にも触れさせずに焼いたと聞いたような気もする。
「僕が扉を開けようか?」
「いや、ここまで来たのだ。私が扉を開くべきだろう。…………それに、この中も恐らく、ウィームらしいものではないだろう」
まずはノアが扉に触れて魔術的な仕掛けがないかを調べ、その間にアルテアが壁や天井などの魔術の仕掛けを調べる。
高位の魔物の二柱による安全確認の後、エーダリアは深く息を吸うと、扉を両手でぐぐっと押し開けた。
「うわぁ…………」
そう声を上げたのは、ノアだ。
当然と言えば当然なのだが、壮麗な玉座の間も見渡す限り金色で、極彩色の宝石を埋め込んだ玉座が一際高い位置に置かれている。
ネアは、これならなぜウィームを舞台にしたのだという気分で半眼になってしまったが、エーダリアはリーエンベルク本来の玉座の間を見ずに済んで、ほっとしたようながっかりしたような、複雑な顔をしていた。
中央を膨らませた円柱が立ち並び、天井画は、人外者達からも祝福される王族の戴冠式を描いたもののようだ。
黄金の服を身に纏う王らしき人物に王冠を授けるのは、錫杖を持つ魔術師のような人物で、足で黒い竜を踏み潰している。
どれだけの時間をかけて描かれたのだろうという大天井のこの絵は、もしかするとラエタの王宮にかつてあったものなのかもしれない。
そして、玉座の真正面にある黄金の台の上に、一冊の藍色の装丁の本が置かれていた。
「……………あれだな。最後は分かりやすかったか」
「…………あれが、この物語での財宝にあたるのだな。魔術書のようだが…………」
「物語の序章で、俺がシルハーンに渡しておいたものだ。物語の枠組みを外れず、ここでどんな魔術師が手に入れたとしても、さしたる影響はないようなものにしておいた」
「だが、財宝として扱われるものなのだ。こちらは持ち帰れるもので良かった………」
財宝にあたる品物が魔術書だった事が嬉しいのか、安堵の滲む声でそう呟き、エーダリアは慎重な足取りで黄金の台座に歩み寄る。
緑柱石と青玉をふんだんに使った台座は、青い小鳥と緑の葡萄の葉をモチーフにしてあるようだ。
ラエタは魔術師達が権力の上位とされた国だったが、その恩恵を受けた王家もかなり裕福だったのだろう。
ネアが影絵で見たラエタの街並みとは美術的な傾向が違うように思えるが、この黄金の装飾は復活薬で国を大きくする前の初期の頃の様式であるらしい。
「………特に、魔術的な覆いはかけられていないようだ。これを手に取れば夏夜の宴が終わるのか…………」
「エーダリア、念の為に僕が君を捕まえておこう。ネア、アルテアとウィリアムから手を離さないようにね」
「はい!…………むむ、ジルクさんもアルテアさんの袖に掴まっています」
「……………おい、やめろ」
「はぐれたら困るからね。お嬢さんに掴まってもいいが、叱られそうだ」
伸ばされた手が、ゆっくりと古びた本を取り上げる。
ネアは、その瞬間を思わず息を止めて見守ってしまったが、強い光が溢れたり天井が崩れてきたりするような特別な何かが起きる事はなかった。
「…………こ、これは」
しかし、手に取った魔術書を我慢出来ずに開いてしまったらしいエーダリアは、目を瞠ってふるふるしているではないか。
呆然とアルテアの方を見ているので、とんでもない魔術書なのかもしれない。
「アルテアさん、あれば何の魔術書なのですか?」
「魔術的な調合で作られる、酒造りのレシピ集だ。レシピを持っていても材料がなければ何の役にも立たないが、その全てを手に入れた者が書いたものという意味から、魔術書としての価値は計り知れず財宝に相当する」
「森と夜の泉の書か。惜しいなぁ。俺が手に入れたら、砂猫の隊列に加えられ、魔術師達を誘き寄せる叡智の一つとなっただろうに」
山猫商会の代表であるジルクも緑の瞳を細めて羨ましそうに見ているので、確かに魔術書としての価値はかなりのもののようだ。
魔術書を手にしたエーダリアは、興奮したように瞳を輝かせて何枚かの頁を捲り、はっと我に返ると慌てて本を閉じ、魔術金庫に大事そうにしまった。
その魔術書には、酩酊の中で行方のわからない者の居場所を見る事が出来る酒と、就寝前に毎晩飲むことで体を奪われる事を防ぐ酒のレシピもあると教えて貰えば、なぜそれが物語の序章で財宝として指定出来たのかも納得の一品である。
序章の物語では、仮面の魔物の災いが乗り越えるべき試練として設定されていたので、かつてのグリムドールの鎖のような効果を持つ物でなければいけなかったのだ。
「……………ノアベルト」
ここで、財宝までを手に入れたのでもう終わりだろうかと周囲を見回していたエーダリアが、魔術書の置かれていた台座を指し示した。
そこには銀色の魔術文字が浮かび上がっており、白い炎が揺らめくように複雑に光の色を変えている。
「どれどれ、最後の試練を乗り越えれば、物語の扉は閉じられる。…………最も困難な波間を超え、この王宮から脱出する事?…………え、こんな展開あったっけ?」
「こっちは、夏夜の宴そのものからの試練だね。必ず最後のお題があるんだよ」
肩を竦めてそう教えてくれたジルクに、魔物達はまだ何かをやらせるのかとうんざりしたような顔になったが、ネアは、ぎりぎりと眉を寄せアルテアの腕にしっかりと掴まり直した。
「最も困難な波間とは、何を示すものなのだろうか…………」
「うーん、あまりいい響きじゃないね。この中から脱出するって事は間違いないみたいだから、ひとまず外に向かおうか」
「ああ。急ぐこととしよう。…………ネア?」
「……………最も困難な波間と言われてこの台座を見ていたら、茶葉ひよこさんの大惨事を思い出してしまいました」
「え、……………もしかして思い浮かべちゃった?」
「む?思い浮かべると、まずいのです?むぐ?!」
「外に出るぞ!」
突然アルテアに抱え上げられたネアは驚いたが、真っ青になった魔物達の表情を見てしまったジルクも目を瞠っている。
そして、すぐさま部屋を飛び出したネア達の背後に響いたのは、不吉な轟きであった。
「…………背後から、何かが押し寄せてくるような轟きが聞こえてきました」
「くそ、追い付かれるぞ…………!転移も使えないのか」
「僕、あれに飲み込まれて死んだ記憶しかないんだけど!!」
「な、何が来るんだ?俺にも教えてくれないかな?!」
「すぐに、嫌でも分かるようになる」
その直後、どおんと凄まじい音がして、背後の扉が吹き飛んだ。
雪崩のようにして溢れ出してきたのは、いつかの大惨事でも見た緑色の茶葉のひよこ達だ。
ぴよぴよふわふわした大群が押し寄せてくる光景はちょっぴり可愛かったが、とんでもない質量になっているし飲み込まれたらと思うと少し怖い。
(……………凄い勢いだわ。逃げ切れない!!)
ノアがエーダリアを抱え上げ、振り返ったまま呆然としてしまっていたジルクが真っ先にひよこの波に飲み込まれるのを見たところで、ネアの意識は途切れた。
あのような試練の場では、不用意なものを想像してはいけないのだそうだ。
魔術の理に明るい者達はそれに気付いていたが、エーダリアやネアに指摘する事で水櫃の記憶を刺激しないよう、さり気なく脱出しようとしていたらしい。
今回は最後まで魔物達が頑張り、息も絶え絶えのひよこまみれでリーエンベルクの正門を出たところで、目を覚ましたネアは口に入ったひよこの羽をぺっとしながらそう教えられた。
「…………ジルクさんという仲間を亡くしましたが、あのひよこの中に戻る勇気はどこにもないので、ここは諦めて置いてゆきましょう」
「そうだな。扉からどんどん溢れて来ているみたいだから、さっさと帰ろうか」
「まぁ、ウィリアムさんの服のあちこちにひよこさんが詰まっています。…………むむ、皆さん同じような状態ですね。………私もいつの間にか胸元にひよこ…………ちびねこ!ちびねこが入っていました!」
「………………ネア、それは俺が捨ててこよう。いいですね、アルテア?」
「ああ。あのひよこの中に戻しておいてやれ」
いつの間にかネアの胸元に埋もれて隠れていたちび子猫なジルクは、ウィリアムに摘み上げられてしまい、にゃーと鳴くと慌てて人型に戻った。
ここで、ふっと物語のあわいが立ち消えて夏夜の宴が明けなければ、今度こそ山猫商会の代表は、ひよこの海の藻屑となって果てていたかもしれない。




