9. 昼食では波乱が起きます(本編)
ウィームの議事堂には、魔術の森の天蓋がある。
そう言われて久しい壮麗な議事堂は、天井に施された森の木々のような枝葉の装飾から、木漏れ日が差す。
まさしくその言葉の通りの現象が起こるのは、ドーム状の屋根のあるこの建物は、外周を囲む円柱を木の幹に見立てているからで、内天井は葉や枝を模した装飾で木々が茂るような表現がなされている。
そして、その奥に隠された枝葉の記憶の結晶石を薄く削いで作られたステンドグラスから、複雑な色の陽光が天井装飾を透かして床に落ちるのだ。
「……………綺麗ですねぇ」
なので議事堂の中に一歩足を踏み入れれば、そこはもう不思議なウィームの森なのだった。
木漏れ日色の緑のステンドグラスの光の欠片を踏み、深みのある飴色の床石を踏むと胸の中いっぱいに森の香りが満たされるような錯覚に陥る。
零れ落ちた光の筋が入ると、床石は淡い金色に光さざめき、ネアは、しゃがみ込んでそんな光の筋を指先で撫でてみたくなった。
これは珍しい森の記憶の結晶石であるらしく、木の表皮や大地に煌めく陽光の記憶を集めたものなのだとか。
中央に置かれた見事な円卓は、ネアも訪れたことのあるガーウィンの天上湖の結晶で作られており、穏やかな波紋が見えるのがまた美しかった。
(何度見ても、この議事堂は素敵だわ……………)
可能であれば毎日でも通ってお茶をしたい美しい空間であるが、ここはウィームの内政にかかわる大事な建物であり、領主のエーダリアの代理妖精であるダリルが、日々、諸侯達との会合などを重ねる場所なのだ。
魔術の可動域の高い者達は、豊かな森や湖などに寄り添い魔術を動かす感情を整える習慣がある為、白熱しがちな議論の場を、あえてこれだけ美しい場所にしたのだろう。
ここでどれだけの重要な会議が行われ、そこからウィームの歴史が生まれてきたことか。
綺麗な場所で過ごしたいという軽々しい気持ちで、踏み荒らしていい場所ではない。
だからネアは、年に一度ここで昼食の時間を過ごせることを、傘祭りの日の楽しみとしていた。
「そう言えば、その姿のノアと傘祭りのお昼を食べるのは初めてですね」
「ありゃ、言われてみればそうかな…………」
「今年はデートは良かったのですか?」
「うん。ほら、あの傘の問題があったからさ。こっちに集中しようかなと思ってたんだけど、他の傘があっという間に排除しちゃったからなぁ……………」
「ふふ。特に山猫の使い魔さんの傘は、とっても頼もしかったですね!」
「バンルも、その様子を見て誇らしかったようですね。観客席で涙ぐんでおりましたよ」
微笑んでそう教えてくれたヒルドに、ネアは、その御仁はエーダリアの支持者たちが集まる会の方でもあるからなのではと神妙に頷いておく。
すると、三つ編みをリード代わりにしていた伴侶な魔物が、そっとネアの背中にくっついてきた。
「ディノ……………?」
「爪先を踏んでくれるのだろう?」
「………………む。むぐぅ………………………」
「ここがいいかい?それとも、席についてからの方がいいのかな?」
「………………席についてからですと角度が合わなくなってしまうので、ここで踏んでみましょうね」
「ご主人様!」
ネアは、美しい水紺色の瞳をきらきらさせて爪先を差し出してきた魔物に厳めしく頷きかけ、その爪先をぎゅむっと踏んでやった。
やっとご褒美を貰えた魔物は、ぽわりと目元を染めて嬉しそうにしている。
これは擬態で砂色の髪に見えてしまう伴侶の確認作業だった筈なのだが、これが本人確認とされることの恐ろしさに気付いてしまったネアは、さあっと蒼褪めた。
(このご褒美を与えるのが、私の証明だと認識されている?!)
呆然として目を瞠り、ネアは慌てて首を振った。
きっとこれは、本人確認を装った、ただのご褒美が欲しいだけの魔物の我儘だろう。
そう考えると心が穏やかになったので、不思議そうにこちらを見ている魔物には、もう何の問題もないのだと優しく微笑みかけてやった。
「…………………ネア?」
「いえ、自分の持つ印象について考えていただけです。ディノは、……………私と言えばまず、どんなことを思い浮かべますか?」
「生きていて、可愛いかな」
「もう一歩踏み込んでみてはどうでしょう?」
「息をしていると、体が動く………………?」
「………………怖っ」
「…………………ネアは可愛い」
ネアは、こちらの魔物はこれ以上の回答を持たないと判断し、何を始めたのだろうと訝し気にこちらを見ているエーダリアの方を見た。
しかし、目が合った筈の上司はなぜかさりげなく視線を外してしまい、いつの間にか視線が合わなくなってしまっている。
慌てたネアは、心強い友人を頼らんとゼノーシュの方を見たのだが、普段は愛くるしいばかりのクッキーモンスターの凄惨な眼差しにぎくりとした。
(そうだった。今日のゼノは、厳戒態勢なのだ……………)
この議事堂では、ネア達のいる円形の会議室の外周の部分の廊下を利用し、招待客や貴族たち、そして騎士たちの昼食会場にしているのだ。
こちらは、公式の計らいとして、そのスペースを利用できる者達同士の出会いの場としても生かされている。
勿論、貴族の子女たちが憧れる騎士との縁を繋ぐだけではなく、騎士に憧れる子供たちが勇気を出して話しかけてみたり、出身地を同じくする、騎士とその土地の有力貴族達の情報交換の場になったりもする。
例えば、ガーウィンの有力貴族出身のゼベルなどは、このような機会を生かし、枢機卿をしている兄と毎年短い接触を持つ。
ゼベルの兄であるリーベルの傍仕えや、同席するガーウィン貴族達は、成程、噂通りこの二人はあまり仲が良くないようだと得心していたりするようだが、それはあくまでもパフォーマンスであり、実際には、リーベルはダリルの一番弟子の一人なのであった。
ゼベルの一族は、伯父のロスベルがガーウィン領主であり、兄がこちらの世界での教皇に相当する教え子の次期候補者と、衆目を集めやすい一族である為、そのような外部へのアピールもお互いの為に必要な措置であるらしい。
(そしてグラストさんの場合は、グラストさんに憧れる子供たちが握手を求めてきたりはするみたいだけれど、それ以上に、奥様を亡くしたグラストさん狙いのご婦人たちが……………)
このウィームの中で、最高の旦那様候補の一人であるのが、リーエンベルクの騎士筆頭であるグラストだ。
普通に考えればエーダリアもそこに入ってもいいのだが、エーダリアの場合は、血筋を残すことの難しさなども含め、現王の時代の上では色々な問題がある。
内情を知るネア達は、ヴェンツェルが王になればその問題も解決するだろうという考えも持てるのだが、次期国王候補の第一王子と、元第二王子が仲良しなのは秘密なのだ。
そうなってくるとやはり、人格や家柄も含め問題のないグラストの競争率はかなりのものになり、その笑顔や興味を向けられたいと望むご婦人の数たるや凄まじく、再婚断固反対のゼノーシュは、ひと時も心の休まらない一日になるのだろう。
(ゼノが、外では青年姿で擬態しているから、ますますご婦人方は張り切ってしまうのだと思うけれど…………)
擬態しているゼノーシュの姿を見て、その魔物がグラストを父のように慕っているとは誰も思うまい。
一部、二人の仲の良さを見て、同性間の恋愛的な良からぬ妄想を育てているご婦人たちもいるそうだが、それはやはり少数派で、せいぜい年の離れた兄弟くらいにしか見えなかった。
その結果、多くの女性たちは、歌乞いとしての契約があるグラストとは言え、相手の魔物が男性である以上、そこに大きな障害はないと思うのだろう。
とは言え、歌乞いと魔物の契約はかなり制限が多いのが一般的だ。
魔物は狭量で、自分の歌乞いに家族を持つことすら許さない場合が多い。
また、普通であれば高位の魔物と契約を交わした人間程寿命が食われやすく、二年程で命を落としてしまうと言われていた。
なので、グラストに狙いを定めてきている女性陣が、それでも良しとした上で穏やかで優しい人柄のグラストを慕っているのか、或いは秘めやかに多くの情報を共有するこのウィームらしく、領民たちは既にグラストの寿命が減らないことを暗黙の了解として知り得ているものかまでは、ネアには分からない。
理解出来るのは、さすがと言うべきか、グラストに思いを寄せているのは聡明そうで優し気な、実に魅力的な女性が多く、ゼノーシュは、最大限の警戒を必要とされてしまっているということくらいだ。
そんな友人には、ネアの印象について考える余裕などありはしないだろう。
本来なら楽しい筈の昼食の時間も気が抜けないゼノーシュを不憫に思いながら、ネアは、自分の心一つ自分で宥められない己の未熟さを恥じた。
(大丈夫。ゼノを煩わせるまでもないわ。私は多分、爪先を踏むかどうかで区別がつけられるような人間には見えていない筈だもの)
となれば、ネアがこれからするべき事は決まっている。
この素晴らしい会議室で楽しめる傘祭りのお昼を、ゼノーシュの分も美味しくいただくことだ。
「今日のお昼は、何が出てくるのでしょうね」
「弾んでる。可愛い……………」
「そうか、お前はそれを知りたかったのだな」
ほっとしたようにそう言ったエーダリアには、既に自分とは何者なのだろうという偉大な謎については賢くも自分で真理に辿り着いたのだと心の中で呟きつつ、謙虚な人間はそう主張することもなく、柔和に微笑むに留めた。
「本日の昼食は、アスパラと冬鶉の燻製卵を使ったゼリー寄せや、雪羊のチーズとアルバンの青いジャガイモなどを使ったタルト風キッシュの前菜と、スープ、幸福の実を添えたローストビーフなどだと伺っておりますよ」
「ローストビーフ様が!」
「スープはどのようなものだったか忘れてしまいましたが、……………ああ、これですね。モリフェット茸のメランジェ風スープだそうです」
「………………お、美味しいに違いありません!どうしましょう、どきどきしてきました……………」
「ネア、気に入ったものは分けてあげるから、落ち着こうか……………」
「ま、まずは深呼吸をしますね。………………は!」
ヒルドに教えて貰ったメニューに大興奮だったネアは、心を鎮める前に運ばれてきてしまった前菜のお皿に、慌てて背筋を伸ばして椅子に座り直す。
ここから先は、真剣勝負だ。
(盛り付けもとっても綺麗だし、この会議室で食べると特に美味しく感じられるのが素敵だわ……………)
初めてその名称を聞いた時には怪しい食材だと警戒した幸福の実も、今のネアは、お祝いの時に出てくるホースラディッシュのような辛味を足してくれる美味しいものだと知っている。
小さな緑色の葉っぱのついた可愛らしい黄色い実は、今年もきっとローストビーフを美味しく彩ってくれるに違いない。
昼食の時間は和やかに、そして想像した通りの美味しい時間であったと記しておこう。
タルト風キッシュは、タルト生地に入れて焼いたキッシュというだけではなく、その上部に色鮮やかな野菜をタルトに飾る果物のように乗せて焼き上げてあって、目にも楽しい一品であった。
このタルトを焼いて、ケーキ風にお土産に出しても小粋な贈り物になりそうだ。
そんなことを考えながら、心もお腹も幸せにいっぱいになり、しかしながらスープはもう一杯お代わりしても良かったかもしれないと考えていたネアは、ふと、誰かの影が落ちたことに気付いて顔を上げた。
(………………給仕さんでは、……………なさそう?)
そこに立っていたのは、一人の美しい男性であった。
足元までの薄紫色の長い髪は花影のような鮮やかさで、シャンデリアの光に翳したシュプリのような金色の瞳は吸い込まれそうな程に透明である。
ネアと目が合うとにっこり微笑み、ネアはお客様だろうかと首を傾げる。
「可愛いひと、私の妻になってくれないか?」
けれどもその男性は、初対面にも程があるこの状況で、恐ろしい一言を言い放ったのだ。
「…………………既にこちらにおります魔物の伴侶がおりますし、あなたのことは存じ上げておりません。お断りします」
その瞬間まで、隣の席に座っているディノを含め、向かいの席のエーダリアとヒルドや、同じテーブルに着いていた魔物達も、この男性の出現には気付いていなかったようだ。
はっとしたように息を飲んだグラストが扉には一番近い席に座っていたのだが、やはりこの男性がどこから部屋に入ってきたのかは分からないのか、剣に手をかけて慌てたように周囲を見回している。
ネアが一番に気になったのは、防衛上の問題よりも、自分の魔物の反応だった。
ディノは優しい魔物だが、とは言え魔物らしい側面や酷薄さもある。
なんて命知らずなことを言い出し、おまけに、場合によってはこちらにも浮気疑惑がかけられかねない危険なことをなぜするのだと、ネアはぞっとする。
咄嗟に、初対面であることをディノにも伝えられるような断りの言葉を選んだが、やはり、ネアの伴侶はとても不愉快だったようだ。
「彼女は私の伴侶だ。指輪が見えないのかい?」
そう返したディノの声は、精神圧を抑えてくれていても酷く冷たい。
以前であればこの男性を消し去ってしまってもおかしくなかったが、幸いにも、どんな不愉快な相手であれ、安易に排除してはならないとこれまでの日々で学んできてくれた。
「おや、魔物の指輪を嵌めているのか。 でも貴女にはまだ空っぽの指があるし、私も既婚者だからと言って、貴女を諦める程の想いではない。安心して私の求婚を受けてはくれないだろうか」
しかし、自分でも置かれた立場の危うさに気付いて欲しいとあえて魔物が伴侶であることまでを伝えたのに、男性は柔らかく苦笑しただけで、引き下がる様子はなかった。
驚きの返答にネアは目を丸くしてしまったが、侮られないようにとすぐさま眼差しを鋭くする。
「既婚者に気安く求婚するような方には、一欠片も安心出来ません。お断りします」
「つれないひとだ。ますます好きになってしまった」
「………………………ディノ、困った趣味の人がいます。嫌がらせだった場合は、お外の暴れ傘の生贄にしてもいいでしょうか………………」
魔物が荒ぶってもいけないので、あえてそんな過激な提案をしてみれば、なぜか振り返った先のディノは、困惑したような眼差しで、めげる様子もないその男性を見ているではないか。
先ほどの不愉快そうな鋭さは影を潜め、探るような眼差しになったディノの表情に、ネアは首を傾げた。
「もしかして、……………お知り合いですか?」
「…………………知り合いではないけれど、知っているかもしれない」
「むむ。どっちなのだ…………………」
謎めいた発言に眉を寄せたネアに、あっと声を上げたエーダリアがテーブルに手をついて立ち上がる。
その隣では、ヒルドがどこかへ魔術通信をかけているようだ。
聞こえてくる内容的に、この施設の管理者を呼んでいるらしい。
「ネア、それは既婚者の前にしか姿を現さない、柱の妖精の一種だ。気に入った相手に求婚し、それ以外の者達には一切見向きもしないという。………………というよりも、求婚相手のことしか認識出来ないと聞いているが、実在したのだな…………………」
「………………柱の妖精さん……………?」
興奮した様子でそう教えてくれたエーダリアに、ネアはぎりぎりと眉を寄せた。
素敵な議事堂での楽しい昼食中には、全くお呼びでない生き物の気配がする。
「まだ、謎が多い種族なのだ。既婚者にだけ求婚し、相手が受け入れれば恋人にもなる。求婚に飽きれば消えてしまうと言われているが、………………具体的な退け方は、私も知らない」
「……………………エーダリア様?………と言うことはまさか、飽きるまではずっとこの調子なのでは………………」
愕然とした面持ちでそう呟いたネアに、エーダリアはご愁傷様ですとでも表現するしかないような顔でこくりと頷き、食後の紅茶を飲んでいたままの姿勢で固まってしまっていたノアが、かちゃりとカップを受け皿に置く。
「………………ええとね、僕は前に一度見たことがある。………何の祝福も恩恵も受けられない、雪食い鳥の試練みたいなものだよ。取り敢えずこの状況を乗り越えるしかないんだけど、求婚される以外に害はなかった筈だ。ただ、………………」
「ただ…………………」
「ものすごく諦めが悪くて、求婚を受け入れるまでは実体化しない妖精だから、排除も出来ない」
「………………………ちょっとよく分かりません。では、こやつは何の為に現れるのだ………………」
ちらりと視線を向けるとにっこり微笑む妖精は、覗き込まないと見えないくらいに羽が控えめなので、教えて貰うまでは妖精だと判別出来なかった。
ネアが、ノア達と話している内容は気にならないのか、その間は大人しく待っているようだ。
「説明するのも心苦しいんだけどさ、正式には柱の影の妖精って呼ばれている種族で、伴侶を得て恋の喜びが失われたと思う生き物たちの心の隙間から派生した妖精なんだよね。……………有体に言えば、先人達の浮気願望から生まれているから、それを叶えることこそが存在理由と言うか………………」
「…………………私はいらないです」
「…………………うん。そうだよね。でも、この妖精の困ったところは、望んでいない既婚者の前にも現れるところなんだ」
「派生理由が成り立たないではないですか。やり直しを希望します…………………」
ネアは暗い瞳でそう呟いたものの、理由の成り立たないような奇妙な生き物が多く存在するのもこの世界の特徴の一つである。
火の中に差し込まれる火箸に生まれて、かなりの確率で生まれた途端に儚くなってしまう魔物もいるのだから、このくらいでは問題にならないのだろう。
魔物達に助けて貰おうにも、この妖精はネアしか認識していないという。
おまけに、なぜかわくわく顔のエーダリアと簡単な実験をしてみたところ、自分に向かって話しかけられる言葉しか理解しないようで、ネアが誰かと会話していても、その間は表情を無にして大人しく待っている。
「ディノ、助けて下さい…………………」
「………………困ったね。姿や声が認識出来ても、今はまだ幻のようなものなんだ。どうすれば排除出来るかな…………」
「では、実体化させれば、どうにか…」
「それはいけないよ。目的の為とはいえ、心を与える言葉を君が言わなければいけなくなる。…………………アルテアを呼んで対処が可能かどうか聞いてみて、彼が扱える夢の資質でも難しければ、……………シェダーの手を借りる必要がありそうだ」
ここはリーエンベルクを離れた外部施設で、その秘密を認識していない者達もいるからか、ディノは敢えてその名前で呼んだ。
シェダーとは、当代の犠牲の魔物が名乗った通り名で、それがかつて狂乱し崩壊した先代の犠牲の魔物そのひと本人だと知ってからは、ディノは、彼をかつてのように“グレアム”と呼ぶことが多くなった。
生前という表現もおかしなものだが、その頃のようにディノの城にグレアムが傍に控えるということがなくなっても、彼は、ディノにとってのかけがえのない大切な友人の一人だ。
また、かつての自分を取り戻す為の対価の一環として、このウィームにある高級老舗ホテルのザハで、人間に擬態しレストランの給仕をしているグレアムは、ネアの大好きなおじさま給仕としても馴染み深い。
お気に入りの給仕さんがディノの大切な友人だと気付いてからは、ネアにとっても頼もしい知人になった。
(アルテアさんと、シェダー…………グレアムさんなら、安心して任せられそうかな……………)
正直なところ、ネアの現在の気分としては、剣で何でもさっくりやってしまうウィリアムを所望していたが、一応は柱の関係者的妖精であるらしいので、この美しい議事堂の柱に影響があったら大変だ。
「求婚はお断りします………………」
とりあえず、アルテアが来るまでは、こちらでも地道な努力を続けていようということになり、ネアはもう一度お断りを再開した。
話しかけるまでは完全に虚無の表情を保ち、それがとても怖かった柱の影の妖精は、ネアがそう言った途端に柔和な表情を取り戻し、どきりとするような愛おし気な眼差しをこちらに向ける。
これが人々の浮気願望から派生した妖精であるというのなら、世界とはなんと罪深いものなのだろうと、ネアは感じずにはいられない。
「貴女にそんな悲しい顔をさせてしまうだなんて、私はまだまだ未熟だな。あらためて愛を誓うのと共に、どうかお詫びをさせてくれないか。花と宝石、そのどちらが貴女はお気に召すだろうか?」
「見ず知らずの方からそのような贈り物をいただく趣味はありませんので、どうかお引き取り下さい。私は私の伴侶がいいのです。…………きっと、あなたが一緒に楽しく過ごせるような既婚者さんも、世の中にはいらっしゃることでしょうから、そちらにどうぞ」
「そうか、貴女は怒ってみせることにしたのかな。そんな顔も可愛いよ、愛する人。口づけをしても?」
ネアはここでがばっと振り返り、奮闘するご主人様に三つ編みを差し出そうとしていた魔物の手を慌ててどかしてから、自らその膝の上に逃げ込んだ。
ディノは、ずり落ちそうな伴侶をしっかりと座り直させてくれると、抱きしめて腕の中に閉じ込めてくれる。
「む、無理でふ!こやつは話が通じません………………。会話を続けると、背中がぞわぞわします!」
「可哀想に、怖かったのだね…………」
「通常の敵であれば、踏み滅ぼすばかりなのですが、実体化していない妖精さんをどうやって駆逐すればいいのだ…………………。そもそも、私は、この手の会話で戦うのは苦手です………………ぎゅ」
「もう、ここの柱はいらないんじゃないかな……………」
「い、いけません。くっ、…………………こんなことで、私の大好きなこの議事堂を損なわせたりなどするものですか!かくなる上は、この甘さを打ち消すべく、塩などを振りかけてみましょうか?」
「ネアが、議事堂に浮気する…………………?」
「まったくもう、荒ぶりながらも疑問形ではないですか……………」
ディノだって、無差別に現れる妖精とは言え、こんなやり取りを隣で聞かされていたら気分は良くないだろう。
悲し気にしている伴侶をそっと撫でてやり、ネアは、安全なディノの腕の中から柱の影の妖精を唸り声を上げて威嚇した。
がたんと音がして、扉の開く音にはっとすると、アメリアが見慣れた一人の魔物をこちらの部屋に通したところだった。
すぐにこちらの様子に気付いたネアの使い魔は、こつこつと靴音を立てて、近くまで歩いて来てくれる。
「お前な、いい加減にしろよ。観測例の少ないもので事故るな」
「アルテアさん………………」
漸く、ディノが呼びかけてくれたアルテアが到着したのだ。
この議事堂は、中央会議室への転移が許されてないので、まずは玄関ホールに転移をして、そこから騎士の案内でやって来てくれたらしい。
うんざりしたような顔でこちらを見たアルテアだが、ネアが本気で憔悴していることに気付くと微かに眉を持ち上げた。
意外そうにこちらをまじまじと眺めた後に、件の妖精を迂回するように隣に来てくれると、黒革の手袋を外して、ネアの頭にぽすんと手を乗せてくれる。
「………………ったく」
「むぎゅわ…………………」
「シルハーンの伴侶になった後でも、この事故具合とはな。指輪一つでは足りないんじゃないのか?」
「……………指輪は、ディノのもの一つだけがいいのです。無差別な妖精さん対策はしていませんでした…………」
「可動域もあまり伸びないしな。…………………ん?」
意地悪なことを言いながらではあるが、アルテアは、すぐに何某かの魔術を敷こうとしてくれていたようだ。
しかし、そんなアルテアの背後に、突如ネアを悩ませる柱の影の妖精が急接近する。
ネア以外の誰かを認識した様子が初めてだったので、エーダリア達もはっとしたようにこちらを見た。
なお、ゼノーシュはこの妖精が現れてからは大事なグラストを柱にも渡すまいと、いっそうに悲壮な面持ちになってしまい、しっかり自分の歌乞いにくっついていた。
誰がこの部屋を訪れるか分からないので擬態姿のままな為、いささか刺激的な構図にもなるものの、ネアはそんな青年姿のゼノーシュに本来の少年姿を脳内で重ねて見ることが出来る熟練の職人なので、一生懸命柱を警戒する姿は愛くるしいことに変わりはない。
「…………君は、何を持っているのだろうか」
「………………ほお。どうやら、こちらとも意思の疎通が可能になったようだな。それなら話が早い」
「その紙袋の中身は何だろう…………」
(そう言われてみれば、………………)
柱の影の妖精が奇妙な程に気に掛けるのは、アルテアが、珍しく手に持っている大きな紙袋だ。
高位の魔物らしく、大抵の品物は魔術仕掛けの金庫にしまってしまうので、アルテアがこんな風に持つのは、市場で買った食材くらいである。
なのでネアは、食べ物かなと思って気にしていなかったが、確かにこんな状況でも手に持ったままでいるのは不自然かもしれない。
きっと、この柱の妖精除けな特別な道具に違いないとふすんと息を吐いたネアは、何かを考え込むような様子を見せたアルテアが、大きな紙袋をテーブルの上に置き、中身を取り出すのを期待に満ちた眼差しで見守った。
途中で何に気付いたのか、ゼノーシュがあっと声を上げる。
「……………………ほわ?」
そして、この場にいる者たちの視線を集めた、問題の紙袋から取り出されたのは、ふわふわした虹色の可愛い物体であった。
「それでも食って待ってろ」
「わ、綿菓子様…………………?」
唐突にアルテアから手渡されたのは、様々な味の綿菓子を一本の棒に巻き付けた、何ともファンシーな虹色の綿菓子だ。
果物の味のする食べられる花びらや、きらきらと光る星屑めいたものが振りかけられており、ネアは、この綿菓子を持っている人を見かけた昨年から狙っていたのだが、個数限定発売であったらしく、今年もお昼前にはもう売り切れてしまっていた。
「ハッカのお店の綿菓子だ!…………いいなぁ。二十八個限定の、全部の味が食べられるやつだ……………」
「まぁ、ゼノもこの綿菓子を知っていたのですね?……………私は昨年、小さなお子さんが誇らしげに食べていたこの綿菓子に恋をしまして、………………ぎゃ?!妖精さんが消えました!!」
ネアが、綿菓子への熱い思いを語ろうとしたときのことだった。
柱の影の妖精は、綿菓子を見て、何とも苦し気な表情を浮かべると、ぼふんと消えてしまったのだ。
「………………もしや、あの妖精さんは、綿菓子が弱点………………?」
「そんな訳ないだろ。……………推測だが、お前のその綿菓子への執着が、あの妖精の存在理由を脅かしたんだろうな」
「………………む?」
ネアはまだいまいちよく飲みこめずに首を傾げたが、なぜかみんなは、成程という表情で頷いている。
とは言え、無事に鬱陶しい妖精が消えただけではなく、憧れの綿菓子も手の中にある。
ネアは幸せな思いで美味しそうな綿菓子を少しだけ千切り、指先の温度で溶けない内にとぱくりと口の中に入れて、新鮮な果物の風味の極上綿菓子の美味しさにじたばたした。
「ディノもどうぞ。とっても美味しいです!」
椅子になっている魔物にもお口に入れてやれば、ご主人様に求婚する妖精の出現で可哀想なくらいに気を張り詰めさせていた魔物は、きゃっとなって目元を染める。
「ネアが虐待する…………………」
「アルテアさんから素敵なものを貰えたので、解決記念にお裾分けです!………むぐ!………アルテアさん、私が憧れていた綿菓子を買ってきてくれて、有難うございます!……………ゼノも一緒に食べませんか?」
「いいの?わぁ、有難う!」
「……………そいつに関しては、俺は、受け取って魔術の繋ぎを切っただけだ。シェダーに声をかけられて、店に引き取りには行ったが、夜中から並んでお前の分を取り置きしたのは別の奴らだぞ」
「………………シェダーさんが、予約してくれたのです?」
「いや。あいつも、俺との繋ぎを任されただけだろう。購入したのは、お前の支持者の一人だろうな」
「…………………わーお。会の仕事も抜かりないなぁ…………………」
「かいなどありません…………………」
「僕、ネアに一口分けて貰おうと思ってたけど、やめておく。全種類普通のものを買って食べればいんだし、ネアの会の人たちに恨まれたら危ないから…………」
「ゼノまで!………か、かいなどありません!」
ネアの悲しい叫びが議事堂に響き、ちょうど席に戻ってきたヒルドが、不思議そうに瑠璃色の瞳を瞠る。
ヒルドは、場合によってはあの妖精の派生した柱をばりんとやってしまおうかどうしようか、議事堂の管理責任者と話をしてくれていたのだが、無事の解決を知って席に戻ってきたところだったのだ。
ネアは、そんなヒルドにも会などはないということを主張し、悲しい思いで憧れの虹色綿菓子を頬張った。
(おまけに、シェダーさんを巻き込むなんて………)
アルテアと面識があることを誰かが知っていたものか、一般人を間に挟んで足がつかないようにするなど、危険にも程がある。
もし、あの夢見るような美しい灰色の瞳を持つシェダーが、ネアを取り巻くおかしな会の存在に気付いてしまったら、どうしてくれると言うのだろう。
「むぐるるる」
「ご主人様…………………」
「やれやれだな………」
とは言え、お店に取り置きしてくれていただけのようなので、目の前の美味しい綿菓子に罪はない。
ネアはこの世にそんな会などは存在しない筈だと、切なる訴えを込めて唸りながら、美味しい傘祭りの綿菓子をいただいたのだった。




