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72. 水没は回避したいです(本編)




午後の光が、ゆっくりと夕闇の気配を帯びる。



競合の魔術師達に襲われながらも、無事に合流したネア達は、漸く目的の湖に向かうことになった。


相変わらず、街は色々な要素がぎゅうぎゅうに詰め込まれており、井戸が店と店の間にみっちり詰まっている様子を見てしまったネアは、湿気問題など色々大丈夫なのだろうかと物語なのに心配になってしまった。


だが、常設の物語のあわいと違い、このあわいは夏夜の宴が終われば消えるものなので、あまり深く考えるのはやめておこう。


道中、ひと区画更地になってしまっている恐ろしい破壊の光景を見てしまい、ネアは呆然とする。



勿論、そんな大惨事に街も騒然としていたが、慌ただしく行き交う人々の会話をそれとなく聞いてみると、災厄クラスの巨大な祟りものの襲来だと思われているようだ。


家々が崩れて人々が埋まっているというよりも、そこだけ消滅したように更地になっているのだから、地面の大きなひび割れといい、確かに巨大な祟りものが暴れたように見えなくもない。


ネアは、そろりとウィリアムの方を見たが、ウィリアムはバンラードはしつこかったなといい笑顔なので、それ以上は触れないことにした。



真っさらになってしまった土地を見ると微かに胸が痛んだが、そこに見知らぬ誰かの生活があったとしても、ネアは所詮、自分の大切な人が大切なのだ。


何しろ、ノアやウィリアムを苦しめた魔物など、ネアとて見つけるなり滅ぼす自信がある。



とは言え身勝手な人間らしくあまりそちらは見ないようにして通り過ぎると、またしても立ち塞がった建物のぎゅう詰め区画にうっとなる。



(………………本物のヴェルリアの街並みは、その色にも魔術的な意味合いを持たせていたし、雑然としている通りもとても魅力的なのに………………)



ネアが楽しみにしてた、お魚料理系の食堂などもあるにはあるが、どう見ても店内が狭く、落ち着いて食事も出来ないのではと、ネアはあまり心惹かれなかった。




「……………ネア、お前のお陰で助かった。その者に私を狙う意図はなかったとは言え、万が一にも水櫃に触れていれば、無事では済まなかっただろう」


どこかしょんぼりとそう言ったのは、目を覚まして自分の足で歩けるようになったエーダリアだ。


正直に言っておけとアルテアから小突かれたノアから、統一戦争の最も悲惨なその瞬間を見せたくなくて眠らせたのだと言われたエーダリアは、眠っている自分を背負い、一人で戦っていたノアの肩に手を当てしばらく黙っていた。


そのようなところにお前が一人でいたのも辛いのだと言われたノアはくしゃくしゃになってしまい、ネアは、頑張ったノアは大事にされてしまうが良いと思う次第である。



(でも、今回のことは、結果としては私がノアとエーダリア様を心配させてしまったし、…………しっかり反省しなければだわ)



「………だとしても、一人で張り切って自ら危ない目に遭ったことは、後悔しているのです。そんな私にとって、エーダリア様とノアが無事だった事が救いですので、ちょっぴりしょんぼりなエーダリア様はもっと元気でいて下さいね」

「…………ネア」

「ここで我々が落ち込めばあやつらの思う壺ですから、王冠を見付けて財宝を手に入れた暁には、エーダリア様はとっておきの魔術を手に入れて下さいね」


ネアが拳を握ってそう言えば、エーダリアは瞳を揺らして口元をぎゅっとさせると、ややあって深く頷いてくれた。


「……………そうだな。だからこそ、お前も覚えておいてくれ。ネア、お前のお陰で助かったのだ。…………有り難う」

「………………むぐ。ノア、エーダリア様が泣かせてきます」

「僕なんか、エーダリアだけじゃなくて君にもやられたから、我慢しようか!」

「むぐ」



やがて、細い道を抜けて漸く湖近くまでやってくると、湖の畔に下りる道は、石畳の色が僅かに青みがかっていた。

見る角度によってきらきら光るので、祝福石が入り込んでいるのか砂金かのどちらかだろう。


湖沿いの家々は貴族の館のような豪奢な作りの建物だが、やはり庭などはなく、隣の建物との距離は手を伸ばせば届いてしまいそうなくらいしかない。


湖の中の神殿にはどうやって向かうのだろうと眉を寄せていれば、どう見ても後ろの屋敷の私有地ではないだろうかという場所に、神殿入り口と書かれた湖水結晶の看板があった。


その看板の奥にもしやそこから地下に下りて湖の底に入るのなら、是非にご辞退させていただきたいという穴が見え、ネア達は顔を見合わせてしまう。


特に、なぜ付いてきてしまったものか、ジルクは真っ青になっているので、ネアは、支配魔術を無効化するのでそろそろお帰りになっていただいても構いませんと伝えてみる。



「何て薄情なご主人様なんだろう。夏夜の宴が終わらないことには俺は出られないし、あの地割れから怪物が出てくるのは時間の問題なんだよね?絶対に離れたくないな!」

「……………多分、夜くらいまでは猶予があると思うので、湖畔で座って待っていてもいいような気がしますよ?」

「それが一番恐ろしい待ち方じゃないか。断固拒否する!」

「むぐぅ……………」

「邪魔なようなら、暫く動けなくして置いていくか?」

「これだから、終焉の魔物は嫌いなんだ……………」



げっそりとしてそう呟いたジルクは、ウィリアムを苦手としてはいるものの、言うべきことは言えるタイプであるらしい。

とは言えヨシュアのように斬られてしまったりもしないようなので、なかなか立ち回りは上手いようだ。



「ウィリアム、ここから先は俺が先頭の方がいいだろう」


ここまで、ずっとネアを持ち上げていてくれたり、手を繋いでいてくれたアルテアがそう言えば、ウィリアムが頷き、手を差し出してくれる。


水櫃の影響はもうないそうだが、その毒に対抗した体には疲労が溜め込まれている。

どれだけ魔術や魔物の薬で回復させてもそれが心配だと、二人はとても過保護だ。



「ネア、俺と一緒に行こうか」

「ふふ。では、ウィリアムさんと一緒に行きますね。後ろにジルクさんも付いてきてしまいますが、勝手にうろちょろとするだけなので、気にしなくて結構ですよ」

「この仕打ちだ!でも嫌じゃないのはなぜなんだ……………」

「わーお。いよいよ危なくなってきたぞ。王冠を見付けたら、早々に解放しようか」

「ええ。やはり野生の獣さんは野生で暮らすべきですからね。アルテアさんなども時々森に帰るのですよ」

「おい、いい加減その森前提をやめろ」



地下へと向かう入り口からは、ひんやりとした風が流れてきていた。

手掘りだろうかという暗いトンネルをみんなで覗いてみれば、そこには確かに原始的な階段が続いている。


魔術の火を灯した松明が等間隔で並んでおり、じっとりと濡れた土の感触はあまりいい予感がしない。


ネアは、ささっとウィリアムのケープの内側に隠れると、首飾りの金庫の中から素敵なレインコートを取り出す。

素早くそれを羽織ってしまい、ネアはきりりとフードを下ろした。


ふんすと胸を張って見上げると、ウィリアムは突然ケープの内側に入った人間が気に入ったのか、今のは可愛いなと微笑んでくれる。



「これで、ぴしゃんと雫が落ちて来ても大丈夫です!」

「一通りのものは、俺が当たらないようにしておこう。だが、もしものことがあるといけないからな。備えておけば安全だ」

「はい!長靴も履きましょうか?それとも、こちらのブーツの方が安全ですか?」

「この場合は、ブーツを履いておいた方が良さそうだな。それと、背中に山猫がついているみたいだが、捨ててくるか?」

「………悲し気に首を横に振っていますので、今回ばかりは一定の距離への侵入を許可します」

「はは、ネアは優しいな」

「…………水が垂れてくるだなんて、どれだけ野蛮な通路なんだ。とは言え、上で待っているのも耐え難い…………」

「はいはい。ジルクさんは、転ばないようにして下さいね」



ネアはすっかり弱ってしまったジルクの方も振り返ってやりながら、先頭を歩くアルテアが階段を下り始め、続いたノアとエーダリアが慎重に続くのをごくりと息を飲んで見守った。


そうなるとネア達が最後尾なのだが、幸い、本当の最後尾はへなへなでついてくるジルクになる。


物語の定番としては、やはり最後尾が危険なのでとても良い期間限定の使い魔ではないか。



「…………まぁ、中は広いのですね!それに、石畳に変わってくれて一安心です………」

「満たされた魔術の質からすれば、もう少し整えられていても良さそうなものだが、…………そこはやはり物語だからなんだろうな」

「……………確かに、こちらにある神殿や教会などは、周囲もとても美しく整えられている事が多いですね」

「ああ。外周の領域や繋がる経路も含めてが、その基盤の一つとして認識されるからだろう。…………だから、隠されているのではない信仰の土地で、このような状態は本来はあり得ない筈なんだ」



ネアが地上のぎゅう詰めの街並みに慄いたように、魔物達はそんなところに強烈な違和感を覚えるらしい。

皆が一様に顔色を悪くしているので、合成獣といい、アンバランスさというものを嫌う種族なのかもしれない。


階段を下りきった場所からは、がらんとした石畳の通路がどこまでも続いていた。

敷き詰められた石は黒曜石めいたものなので、目視では足元が濡れているかどうかの判断がつけにくく、大変歩き難い。


壁際に掛けられていた松明の火は、天上から吊された丸い謎の照明に代わり、ネアがその球体を見上げると、どうやら不透明な硝子のような円形のものの中に、光る鉱石が沢山詰め込まれているらしい。


綺麗なのかもしれないが、どこか美しいと思うには欠ける要素があり、落ちてきたら大惨事だろうなと考えるばかりだ。



「……………この魔術は、完全にラエタのものだな」

「わーお。ってことはやっぱり、あちこちの仕様は書き手のものかぁ……………」

「お前達が捕縛した魔術師にも、その系譜はなかったんだな?」

「うん。エーダリアがパンの魔物にした魔術師は、どちらかと言えばロクマリアの系譜かな。……………あ、持ってても邪魔だから、君にあげるよ」



そう言うとノアは、どこからか大きく欠けた一斤食パンのようなパンの塊を取り出し、目を丸くして呆然としているジルクの手に押し付ける。


戦いで圧倒された上にパンの魔物にされてしまったのでごっそり欠けているが、牛乳に漬けておけば元通りになる筈なので、その後に人間に戻せばいいだろうと教えられ、ジルクはとても複雑そうな顔でそのパンをどこかにしまう。


いつの間にかアスファ王子もしまわれていたなと首を傾げたネアに、ウィリアムが、山猫商会の者達は、奴隷達を収容する特殊な魔術牢獄を持っているのだと教えてくれる。


金庫はあくまでも品物用だが、以前に、タジクーシャにスフェンを連れて行ったときのような、囚人を護送する為の魔術道具があるようだ。




(薄暗くて、…………ひんやりしている空間だわ…………)



こつこつと足音が響く。



天井はさほど高くはなく、ネアのよく知る元の世界の一般的な家の天井よりは少し高い程度だろうか。


エーダリアが、壁をぼうっと照らしている光る苔のようなものをちらりと見て、はっとしたように凝視したものの諦めようとしたのが分かったネアは、むむっと眉を寄せると、ウィリアムの袖をくいくいっと引っ張った。



「……………ネア?」

「ウィリアムさん、しゃっとあの壁沿いに行って、あの光る苔をささっと回収してもいいですか?珍しいもののようなのです」

「ああ。特に害もなさそうなので構わないが、焦って転ぶと危ないから、俺の手を離さないようにな」

「はい。では、……………エーダリア様、あの苔を採取出来るようなものはお持ちでしょうか?」



ネアにそう言われ、エーダリアは僅かに目元を染めている。



「……………すまない。お前は気付いてしまったのだな?」

「何のことだか分かりませんが、ここには頼もしい魔物さんばかりがいますので、エーダリア様はいつものエーダリア様でいいのだと思います」

「……………ネア」

「よーし、じゃあ僕とエーダリアで、あの苔を少し採取しようかな!」



にっこり笑ったノアがそう言い、エーダリアは小さく頷くと、さっと水晶の小箱と、緑色の結晶石で出来たピンセットのようなものを取り出した。


手早くではあるが慎重に光る苔を採取して小箱に入れると、嬉しそうに目を輝かせているエーダリアに、ネアは嬉しくなって唇の端を持ち上げる。



「ふふ。エーダリア様がようやく元気になってくれて、とっても嬉しいです」

「ネアも、顔色がだいぶ良くなってきたな。喉は乾いていないか?」

「……………ウィリアムさん?」

「水櫃の魔術からの生還者は、助かった後に水分補給を忌避する傾向がある。無意識に避けていると危ういからな。意識して飲み物を飲むようにしてくれ」

「……………まぁ。……………そう言えば、アルテアさんにも冷たい香草茶を飲ませて貰ったのですが、気付けばまた少し喉の奥がかさかさしています……………」



ここでネアは、こちらは腕輪の金庫に移動してあった水筒を取り出すと、ザハの部屋にあった水差しから貰ってきた冷たい水をごくりと飲んだ。


口に含んでみれば、自分がどれだけ喉が渇いているのか分かり、気付いてくれたウィリアムに感謝する。



「すまない、足止めしてしまったな」

「いえ、お陰で私は水分補給出来てしまいました。あの苔さんは、良いものだったのですか?」

「恐らく、絶滅したと言われている金貨苔の一種だろう。実の代わりに金貨をつけるので、乱獲されてしまったからな……………」

「き、金貨!あの苔を全部引き剥がして持ち帰ればいいのですか?!」

「ネア?!お、落ち着いてくれ!簡単に増えるものだから、帰ったら増やしたものをお前にも分けよう」

「ぜ、絶対ですよ、エーダリア様。……………むふぅ。金貨を実らせるなど、小粋な奴ではないですか」

「……………お嬢さんは、商人向きだね」



ジルクにそう言われ、再び歩き出しながらネアは首を傾げた。

こちらは狩りの女王なので、商人に向いていると言われたのは、初めてかもしれない。



「……………どちらかと言えば、良いものは誰にも渡したくない私は、商人には向かないのではないでしょうか?やはり私には、獲物を狩って売り捌くことが性に合っているようです」

「そう言えば、ずっと不思議に思っていたんだけれど、どうして俺を縛り上げた時に、売り払った獲物を取り戻さなかったんだい?その強欲さと、あのクッキーがあれば出来ただろう」

「あの品物は、正当な取り引きで売買されたものです。ジルクさんは商人さんですし、その品物を売り払うことが私に与える不利益もありません。そもそも、きちんとお金をいただいているのですから、そんなことはしませんよ?」



ネアの返答に、ジルクは鮮やかな燐光の緑の瞳を瞠り、小さく微笑んだ。

その微笑みは、彼の商人らしい艶やかだが油断のならない微笑みとは違い、どこか満足気なものにも見える。



「……………はは。これはいい。俺も気に入りそうだ」

「おい、余分を増やすなと言っただろうが!」

「なぜ叱られるのだ。解せぬ……………」

「ネア、山猫は執念深いんだ。あまり甘やかさないようにな」



なぜか微笑んでいるけれど、どこか冷気を纏うようなウィリアムにもそう言われてしまい、ネアは慌ててがくがくと頷いた。


そして、この先は足場が悪いかもしれないという謎の仮定において、ネアはそんなウィリアムにさっと持ち上げられてしまう。


もしかすると略奪出来るかもしれないお宝がざくざく眠っているかもしれないと思っていたネアは、この捕獲はたいへん遺憾であると言わざるを得なかったが、すぐにそんな幸運に感謝することになった。




「……………ふぇっく。苦手でふ」



そこから少し先に進めば、大きな円形の広場が現れ、中央には湖水結晶の噴水のようなものがある。


そして、ぼうっと青白い光を放つその水の上に浮かぶようにして、不思議な石板があった。



「……………承認型の魔術だな。月光石の照明を連ね、この空間の形と噴水の仕切りで、何重にも魔術を重ねてある。設備としては如何にも稚拙だが、これを構築した魔術師は魔術の理をよく知っている」

「……………そうか、円形のものを重ね、術式陣に見立てていたのか……………」



エーダリアがはっとしたようにそう呟き、アルテアは石板に近付き何かを調べているが、たいへん苦手なものを見付けてしまったネアはぎりぎりと眉を寄せると、ウィリアムの肩にしっかりと掴まり直した。



「……………もしかして、石板台が苦手なのか?」

「ふぁい。四つ足であれば可愛かったかもしれないものを、なぜあんなに足だらけにしたのでしょう。あ、あれでは、虫めです!動いたりはしませんよね……………?」

「残念だが、動くだろうな。この解術の魔術基盤だ。王冠かどうかは分からないが、隠された物の番人代わりだからな」



アルテアにそう言われてしまい、ネアはウィリアムな乗り物から落ちないよう、しっかりと首に手を回しておくことにした。


既に色々あって、傷付きやすくなっている心なのだ。

足の沢山ある昆虫的な石板台に傷付けられたくはない。



(………………それにしても、ここが、…………神殿、なのだろうか?)



ウィームには人外者を神と呼ぶ文化はあまりないが、こちらの世界にもその文化における神を祀った神殿はある。


だが、長い通路とその奥の円形広場の噴水しかないこの場所は、神殿と言うにはあまりにも寂しい場所であった。



最初に噴水の石板に触れたのはアルテアだ。

だが、白い手袋に包まれた指先で石板の文字を撫でると、静かに首を横に振る。



「……………俺では無理だな。ノアベルト、」

「うん。エーダリア、これも君がやらないと動かないものなんだろう。危険はないように見ているから、任せてもいいかい?」

「ああ。………円術の数式魔術と、月の魔術、この石板台からするとそこに砂の魔術も重ねられているのだろうか」

「うん。それと、噴水の中のモザイクが見えるかい?恐らくこれは、流星雨を示したものだね。月の魔術だけではなくて、星月夜の魔術になるんじゃないかな」

「星月夜の魔術となると、……………そうか。円環の魔術を結ぶ祈りの言葉として、捧げるのは夜の詠唱で良いのか」

「うんうん、そういうこと。やっぱりエーダリアは、すぐに解けるんだなぁ」



どこか誇らしげにそう言ったノアは、いつの間にか手のひらの上に小さな結晶石を載せている。


助かると呟いてその結晶石を受け取ったエーダリアが、何かの詠唱を短く呟くと、きらきら光っている結晶石は、ぱきんと音を立てて粉々になってしまう。



(……………あ!)



エーダリアの手でさあっと振り撒かれたその欠片が、まるで星屑のように光った。


目を瞠ってその光景を見ているネアの前で、エーダリアは石板に手を当てて、儀式などで聞くような、旋律のある詠唱を始める。


振り撒かれた結晶石の欠片はそのまま空中に留まり、星雲めいた煌めきを漂わせている光景の美しさに、ネアはうっとりと見惚れてしまった。


朗々と響くのは、心を解くような美しい詠唱だ。


その音階の強弱に合わせて星雲が鼓動を刻むように輝き、石板に刻まれた文字が滲むような光を湛え始める。



どこかで、ざぶんと音がした。


はっとしたネアが足元を見れば、いつの間にか皆の足首くらいのところまでひたひたと水が押し寄せてきているではないか。


不安になって後ろを振り返れば、ジルクは心を無にしたような遠い目をしているが、幸い意識は保っているようだ。

魔物達が落ち着いているので失敗ではなさそうだが、地下空間での水攻めとなると、水櫃に飲み込まれたばかりのネアには少し負担が大きい。



(何事もありませんように……………)



そう祈りながら続いている詠唱の様子を見守っていると、それがふつりと途切れたところで、石板からとろりと光る水が溢れた。



「……………ほわ」

「術式の解読、承認が終わったんだろう。最後に試練に見立てた問答があるが、大したものじゃない」



そう教えてくれたのは、エーダリアの後ろに立ったノアよりも、一歩下がった位置に立つアルテアで、薄暗い地下空間の中では赤紫色の瞳が光るようだ。


ネアはふと、石板から溢れる光る水よりも、魔物達やジルクの瞳の色の方が鮮やかだなと考え、それが魔術階位というものなのだろうかと密かに得心する。




(…………さっきまで、あんなに簡素な場所だったのに、こんなに美しく見えるだなんて……………)




石板からの光る水の湧き出しが止まる頃には、ネア達は、光る水を表層に乗せた浅い湖の中に立っているかのようになった。


床の黒石は水の中でも光をよく映し、ゆらゆらと光る水がどこまでも深くまで続いているような不思議な光景は、ほうっと息を吐いてしまいたいくらいに静謐だ。



ぴちゃんと垂れた石板からの最後の一雫が波紋を広げると、さあっと水面を走った光が、複雑な魔術陣を描く。

あっと思った時にはもう消えてしまったが、精緻なペイズリー柄にも見えるその軌跡が消えると、水はふっと光を消してしまう。



先程の明度に戻っただけなのだが、ぐっと暗くなったように感じる地下空間の中に、みしみしという不吉な音が響いた。




「……………おい、そいつが暴れないようにしておけよ」

「ネア、見たくなければ、顔を埋めているといい」

「は、はい……………ぎゃ!」



ネアは、奇妙な音がどこから聞こえてくるかを認識した途端、慌ててウィリアムの首筋に顔を埋めようとしたが、残念ながら間に合わず、石板を支える台の足がわきわきと動くのを見てしまった。



人間は、恐怖にかられると動けなくなるものらしい。



視線が引き剥がせずに見つめるばかりになったその先では、石板の形が変化し、昆虫的な足の沢山ある平べったい亀にも似た生き物が現れる。


ぎょろりとした目が開いた瞬間ネアは震え上がったが、震え上がったのは、ネアだけではなかったらしい。


よく考えれば、こちらに来てから隔離結界と魔術の道の中しか歩いていないからか、擬態もせずに白い髪のままのウィリアムとアルテアを見た石板亀は、モーと謎の雄叫びを上げて震え上がってしまう。



慌てた石板生物が動くと、足がわしゃわしゃしてとても怖いのだが、この神殿の番人は、震え上がりながらも自分の役目を思い出したらしく、きりりと顔を上げた。


しかし、嗄れた声が発した問いかけは、ディノに準拠するので殆どの言語を聞き取れる筈のネアの耳にも、意味を成さない音の羅列に聞こえた。


僅かな音の強弱で問いかけだということは分かったが、それ以上のことは分からないまま首を傾げていると、ウィリアムが小さく苦笑する。


「ネア、あれは魔術数式だ。その術式算術に明るくないと、意味のない音に聞こえるだろう。俺もあまり詳しくない」

「まぁ、そのようなものだったのですね……………」



一部の魔術数式は、書いて記す場合は数字と特殊記号でなされるものだが、言葉で伝えようとするとこのようになってしまうらしい。

一種の魔術信号のようなものだと聞き、ネアは、言葉として分からなくても当然だったのだとほっとする。



エーダリアはなかなかに熟考した後、月より星だろうと短く答えた。


ハラハラしながら見守っていたネアだったが、アルテアもノアも満足気に微笑んだので、恐らくこれで正解なのではないだろうか。



その答えを聞いた石板亀は、直後、がしゃんと崩れて粉々になってしまう。



「……………滅びました」

「術式施錠の番人だからな。役目を終えればこうなるだろう」

「そして、よく考えると誰でも入れるところに、このような施設があるのも不思議ですね。下りてきた階段を見下ろすように建っているお屋敷からすれば、お庭に入り口があるようなものではありませんか。おまけに雨で湖が増水したら、間違いなく水没する入り口です…………」

「ありゃ、言われてみれば確かにそうだね。……………あ、エーダリア、もう大丈夫だよ。後は開錠と顕現の魔術が動くくらいかな。待つだけでいいと思うよ」

「……………無事に答えられてほっとした。最初に、正解の詠唱を教えて貰わなければ、最後の問答で躓いていたのだろう……………」

「その時は、…………今回みたいな場合は、正解が星だと分かっていても帳尻を合わせる為に月も星もと答えればいいのさ」



ちょっとした抜け道だけれどねと、ノアに教えられ、エーダリアは目を輝かせて頷いている。


今回の夏夜の宴は散々なこともあったが、こうして得られる知識はきっと、現場でなければ得られない経験になるのだろう。



「それが可能なのは、月と星がどちらも同じ資質を一つ持つものだからだ。何の関連性もない選択肢だった場合は、前述の術式に破綻があり、もう一度再試行すると答えるのが正解だな。回答を変更する事は不可能な事が多いが、呼びかけの詠唱の段階だと、多くの番人達は再試行を禁じていない事が多い」

「そうだね。試練の問いかけは、議論を許される魔術だ。アルテアのやり方を使えば、番人達は、それを許すしかなくなるんだよ。ただし、何度もやり直されることを拒否してくると思うから、その次はないと思った方がいい」



エーダリアがそんな講義を夢中で聞いている間に、崩れた石板の中から不思議な白銀色の植物が芽吹いた。


するすると伸びてゆくと沢山の葉を茂らせ、艶々とした大きな林檎のような実をつけ、その実が鉱石をハンマーで割るようなキィンという音を立ててぱかりと割れる。



「……………王冠が」



そう呟いたのはエーダリアだろうか。

見たこともない紋章の刻まれた雪結晶を飾った王冠は、どこか雪の中のお城を思わせる繊細で美しいものであった。


「……………何て綺麗な王冠なのでしょう!正直なところ、あの石板生物を見た段階では、全く期待していませんでした……………」

「これは、美しい。宿している魔術からすると、ウィームの王宮を示唆しているのではないか?」

「…………そうだろうね。ああ、物語にリーエンベルクをいじられるの嫌だったんだけどなぁ……………」



ジルクの言葉にそう肩を竦め、ノアはエーダリアを促してその王冠を取り上げさせた。



鳶色の瞳にも白銀色の光を映し、エーダリアは丁重な手つきでそっと王冠を持ち上げ、深い深い息を吐く。


ウィーム王家の最後の一人でありエーダリアの手に、こうして冬や雪を思わせる王冠があるのはどこか不思議な光景だ。

白銀の王冠は、華奢な造形だが女性的ではなく、例えばドリーよりはディートリンデに似合うというような雰囲気である。



(……………王冠を手に入れてしまったのだから、エーダリア様の優勝は決まったようなものなのではないだろうか!)



ネアは、誇らしい思いでそんな上司の姿を見つめ、じりりっと揺れた灯りにおやっと顔を上げる。



「……………やれやれだな。この手の宝物庫型の施設の典型的な仕様だが、それをこの場所で適用する神経にはうんざりだ」

「……………アルテアさん?」

「ネア、帰りはかなり荒っぽくなる。しっかり掴まっていてくれ」

「嫌な予感しかしません……………」


へにゃりと眉を下げたネアを、ウィリアムがしっかりと抱き直す。

その奥では、えっと声を上げたエーダリアを、ノアが軽々と抱え上げていた。


「よし、アルテア。俺を抱えてくれ。正直なところ、この足元の水でもう限界だ」

「……………するか。生き埋めになりたくなければ自分で走れ」

「かつて、共にシダラムの王宮で文官仕えをしたこともあるのに、薄情だな。……………ご主人様、この姿なら俺の事を捨てたりはしないよね?」

「にゃんこ!!」


なんとジルクは、ぴょんと飛び上がり空中でくるりと回転すると、ふかふか毛皮の金色の優美な山猫の姿になるではないか。

そのままネアの腕の中にしゅたりと飛び下りたので、ネアは大喜びでぎゅっと抱き締める。


ウィリアムとアルテアの表情はとんでもなく冷ややかになったが、その直後、鈍い音がして噴水が十字に割れた。



「崩れるぞ!」



アルテアの声を合図に、魔物達はいっせいに走り出した。


目元を染めたエーダリアが自分で走れると抵抗しているが、どうも魔術的な階位の関係で、崩落を押し上げながら脱出しているようだ。


却下されてしまったエーダリアは恥ずかしいのか両手で顔を覆ってしまったが、ネアは頼もしいウィリアムの腕の中で、安心してふかふかの猫を抱き締めていたのだった。








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