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71. 割ってはいけません(本編)




ぐらぐらと体が揺れた。

居心地の悪い暗闇から抜け出したくてもがくと、誰かにしっかりと抱き締められて体を起こされた。

後頭部に手を当てて頭を支えて貰うと、やっとぐらぐらと揺らされる気持ち悪さが軽減される。



どこか暗闇の向こうから悍ましい悲鳴が聞こえ、ぴしゃんと粘度の高い液体が滴る音。



そんなものが聞こえていた後、詰めていた耳栓を抜いたように、わっと音が戻ってくる。

それはもう、不思議なほどに全ての感覚が元通りになった。




「ネア!」

「…………………アル、テアさん?」

「……………っ、まだ残ってるのか。…………こっちは遅効性の毒物だな。ウィリアム、その残骸の中に水櫃の解毒剤は残っているんだろうな?」

「ああ。恐らくこれだろう。…………まさか、そのまま与えるつもりですか?」

「いや、この場で同じものを複製する。ターレンの魔術師は、魔術返しを受けた時の為に必ず解毒剤を持っているからな。…………ああ、解毒剤で間違いない」



ネアが薄っすら目を開けると、黒い小瓶に指先をつけ、垂らした液体を舐め取ったアルテアが見えた。


ネアがもう一度瞬きをすると、鮮やかな赤紫色の瞳がこちらを見る。

どきりとする程に鋭く鮮やかなその色を見ていると、頬に触れた指先の温度に体が震えてしまう。



触れた指先の、肌に染み入るような温もりからすると、今のネアはかなり体が冷えているらしい。



「もう少し辛抱しろよ。………ウィリアム、疫病の術式も添付されている。恐らく、水櫃に損なえなかった守護の硬さを崩そうとして、ありったけの術式で押さえ込んだな…………」

「…………ネア、聞こえるか?少し顔を動かすぞ」

「………………ウィリさん、?」



このウィリアムはどちらだろうとまだぼんやりしている頭で考えていると、ネアを抱えたアルテアに体の向きを変えられ、こちらに来て跪いてくれたウィリアムが、ネアの頬に手を当てて唇の端に口づけてくれる。



その途端、清涼な水を一雫飲み干したように、体の内側に残ったべたべたとした気持ち悪さが綺麗に消え失せた。



「…………よし。これで大丈夫だ」

「ウィリアムさんです…………」

「うん。アルテアもいるからな。…………ノアベルトと、エーダリアもどこかにいる筈だが、はぐれたのか?」

「……………ふたり、は、………カルウィの王子と…………」




そこで一度言葉を切り、ネアは、げふんと咳をした。


かっと体が熱くなり、頬に触れている誰かの手が温かくて気持ちよかったのが、今度はひんやり冷たくて気持ちよくなる。



「…………湖の方だろうが、一緒にいて攫われたなら、ノアベルトが回収に手こずるのは妙だな」

「確かに。…………ん?もしかして、…………アルテア、ここを任せてもいいですか?」

「ああ。……………っ、まさかこの魔術の気配は、バンラードか?」

「そのまさかでしょう。俺は、そちらの援護に行って来ます」



その短い言葉を残し、ウィリアムはその場からふっと姿を消してしまう。


翻ったケープの白い色が視界に残り、ネアはもう一度瞬きをすると深く息を吐いた。

今度はアルテア達が隔離魔術のようなものを展開しているのか、魔術の道に入ったものか、祝祭の花びらの撒かれた通りには、相変わらず民衆の気配はない。



「…………ったく。何の為に最低限まで魔術供給を落として待っていたと思っているんだ。さっさと呼べ」



また体が揺れ、アルテアにしっかりと抱え直される。


ネアはその安堵の深さにむにゅりと口元を緩め、涙が滲みそうになるのをぐぐっと堪えたまま、アルテアを見上げた。



「アルテアさんなら、………げふん。……きっと、事故で本編にも落とされているのではと思っていました」

「…………俺があわいに取り込まれていたのは、序章までの事だ。言っておくが、あれは、お前かシルハーンのどちらかの記憶に引き落とされたんだからな」

「…………むぐ。足を滑らせてとかではないのです?」

「何でだよ」

「…………カードに、ずっとお返事がありませんでした」

「お前が夏夜の宴に落とされたと聞いてすぐに、ウィリアムと待機に入ったからな。……………返事を待っていたのか」

「……………はい。アルテアさんが野生に戻ってしまったら、ちびふわにして捕まえるしかないと思っていたのです………」

「やめろ」



体を寄せるといい匂いがして、ほっとしたネアは無意識に体をすりすりしてしまう。


ウィリアムと共に待機していたと言うが、その準備をしていた経緯をネアは知らない。

詳しく聞かなければと思うのだが、すっかり体を預けてしまい首元に頬を寄せると、安堵のあまりに体から力が抜けてしまう。


そうしてへなへなになっていると、額にこつんとアルテアの額が当てられた。



「頭突き…………」

「何でだよ。…………よりにもよって、ターレンの魔術師の中でも、水櫃を使う銀階位の大物に当たるとはな。…………シルハーンの守護がなければ、もっと悲惨な事になっていたんだぞ。何度も言うが、助けは早く呼べ」

「……………か、体が少しも動かせないくらいだったのですが、あれでも良い方だったのです?」

「…………水櫃は、何種類もの毒を溶かした水の箱に閉じ込め、獲物が体の内側からも外側からも限界まで毒を取り込むようにする固有魔術だ。…………その守護がなければ、肉体的にも溶かし崩されていたところだ」



(溶かし崩されて……………?)



「……………ふぇっく」



その有様を想像してしまい、ネアは思わず小さく嗚咽を漏らしてしまった。


春告げの舞踏会の祝福を使えるのでと、ある程度の覚悟はしていたが、肌が溶かされるような怖さは、ただ殺されるのとはまた別のものだ。



「…………っ、」


思いがけずネアが泣きそうになったからか、アルテアは少し驚いたらしい。

そっと頭を撫でられ、目元に落とされた口づけは祝福の強化をしてくれたのだろうか。


「…………こ、殺される時は、一撃必殺がいいです。溶けるのは嫌でふ…………」

「当たり前だ。その守護がある限り、水櫃だろうとお前を損なう事は出来ないだろうが、それだけの侵食を全方向からかけられれば、疲労で体も動かなくなるだろう」

「…………ディノにも、伝わってしまいます?」

「俺とウィリアムをここに送り込んだのは、シルハーンだからな。間に合った事は知ってるだろう。…………何だ?」

「カード…………。ふぇっく………私の宝物の、首飾りの金庫は無事でしょうか?………ポケットに、きりんさんカードと、ウィリアムさんのナイフも入れてあったのです…………」



ネアは、あの水が体を溶かしてしまうようなものだと知ると、悲しくて怖くて、首元に触れられずにいた。



何よりも怖いのはディノの指輪だ。

なくなってしまっていたらと思えば、怖くて怖くて手を見る事も出来ない。



ネアの肉体には守護がかけられていたとしても、装飾品は違うかもしれないではないか。

溶かされて、なくなってしまっていたとしたら。


それが怖くて堪らず、ぐずぐずしながら手を伸ばせずにいると、なぜかアルテアはぎゅっとネアを抱き締めてくれた。



「…………服は無残な状態だったが、首飾りと腕輪、勿論だが指輪についても、どこも損なわれていないから安心しろ。毒の階位が及ぶものじゃないからな」

「……………ほ、ほんとうです?」

「ったく、触ってみろ」



手を掴んで首元に触れさせられ、ネアは、指先に触れた感触にぱっと目を輝かせた。

後で鏡でじっくり見てみないと何とも言えないが、触れた感じではどこも損傷がなさそうだ。


更には、手を見てみれば、大事なディノの指輪も変わらずにきらきらと光っている。



「………………ふぎゅ。ぶ、無事です!」

「指輪は、シルハーンと同階位のものだ。加えて、首飾りも腕輪も、お前を守る為に与えられたものだからな。相応の階位の者が壊す気でかからない限りは心配ない」

「で、でも、以前にジュリアン王子に、腕輪はぶちっとやられたのです」

「鎖については、どこかに引っ掛けたり奪われそうになった場合は、その事でお前の体を損なわない作りになっている。お前の場合、やりかねないだろ」

「…………その腕輪も、無事でした!」



しかし、そうして全ての宝物の無事を確認してしまうと、ネアは、アルテアが服は悲惨な状態だったと話していた事を思い出して、さあっと青ざめた。


そろりと下を見てみると、確かに先ほどまで着ていた服ではなく、見たことのない淡い薔薇色のドレスを着ている。


と言う事は、助け出された時にはどんな状態だったものか。



(…………も、もしや、はだか…………)



そう考えたネアは憤死しそうになったが、表面が薄く溶かされたことで、襟元や袖口、裾の部分などがずたずたになっていた事と、先程の少年に踏まれた部分に靴跡がついていたことくらいで済んだようだ。



「元々、お前の衣服については、シルハーンがある程度の守護をかけている。さすがに体程の頑強さではないが、形はしっかり残っていたぞ」

「…………ぞっとするあまり失念していましたが、そう言えば、濡れた服が重いと感じた事を思い出しました」



(そうだ、カード!ディノに連絡をしないと…………!)



水櫃の中に混ぜられていた毒の中には、思考力を奪うようなものも混ぜられていたのだそうだ。


獲物が策を弄して逃げないように一番多く混ぜられる毒で、ネアは、自分がなかなか助けを呼べなかったのは、その毒の影響でもあったのだとひやりとする。


論理的に考えて呼んでも無駄だろうと考えていた時の自分は冷静だと考えていたが、本来のネアであれば、自分で対処出来ない事態で状況を悪化させる前に、やれるだけの事をとみんなの名前を片っ端から呼んだだろう。


それが出来なかった事がもう、毒が回り始めていた証拠だったのだ。



「…………むぐ、上手く掴めません………」

「…………泣くな。体が治癒された事に順応していないだけだ。すぐに落ち着く」



アルテアとウィリアムが一通り治してくれた筈なのに、まだ指先が震える。

ネアは上手く掴めずに何度か失敗しながら、首飾りの金庫からカードを取り出すと、それを開いて息が止まりそうになった。



“ネア”



揺れているのは、ただそれだけの文字で。

けれどもそこに、どれだけのディノの苦しみと恐怖が揺れているのだろう。



(ああ、……………ああ!)



だからネアは、涙を堪えてふすんと大きく息を吸い込み、まだアルテアの胸にもたれかかりながら、大事な魔物のカードにすぐさま返事を書いた。



“ディノ!アルテアさんとウィリアムさんが、助けに来てくれました!”


案の定、すぐさま返事が来る。


“…………良かった。君の守護が大きく揺れたんだ。…………怖い思いをしただろう?”

“ちょうど怖い思いをしたところで、助けて貰えたのですよ。ディノが道を作ってくれたお陰です。…………でも今は、ディノが怖がっていないかがとても怖いんです。私はまだあわいの中にいて、ディノを撫でてあげられません……………”

“ネア…………”



水紺色の瞳を瞠って、真珠色の睫毛を震わせるディノが見えるようだ。


ネアは、胸がぎゅっとなってしまい、寄りかかったアルテアが体を支えてくれている腕を強く掴んでしまった。


すると、髪の毛を耳にかけられ、剥き出しになったこめかみに宥めるように落とされた口づけに、その怖さがほろりと解ける。


こうして祝福を増やしてくれるのだから、きっと、間違いなく元気にリーエンベルクに帰れる筈なのだ。



“ウィリアムさんとアルテアさんをこちらに入れてくれたのは、ディノなのですよね?………そうなると、ディノは一人ぼっちではありませんか?怖かったら、私が戻るまではヒルドさんと一緒にいて下さいね”

“…………大丈夫だよ。グレアムが来ているんだ。ウィリアムが、…………絶対に一人でいてはいけないと、グレアムを連れて来てくれた”



(グレアムさんが!)



それを聞けばもう安心してしまい、ネアはふしゅると息を吐き出し、安堵に緩んだ目に涙が滲んでしまう。



(後で、ウィリアムさんにお礼を言おう。助けに来てくれたことと、ディノの為にグレアムさんを呼んでくれたことも…………)



あの眼の痛みを思い出せば、水櫃の中でかなり目を痛めたに違いない。


治癒をして貰ったとは言え、毒の水の中で眼球にどれだけの負荷がかかったかを思えば、涙で酷使しないように我慢しなければ。



“物語の序章に下りた時に、そこにつけられた縁で、もしまた君が呼び落とされたらと考えた。その時の為に、道を作れるように、私の魔術証跡を残しておいたんだよ”



シャーロットという迷い子の残した本の作家の魔術に足を掬われないようにこの物語の序章のあわいに下りた時、ディノはそこまで考えてくれていたのだ。


その道は、アルテアやウィリアムが極限まで魔術を閉じて息を潜めるようにしなければ通れないくらいに細い道だったらしい。

結果としてはそれが、あわいの魔術基盤を豊かにしてしまったが、そのお陰でネアは助かった。



“では、ディノが私を助けてくれたのですね。ここに来てくれたアルテアさんやウィリアムさんと一緒に、私を守ってくれました………”

“そう、………なのかな?”

“間違いありません!やはり、私の魔物は頼もしいですね!”

“……………ずるい”



せっかく道をつけても、ディノ本人はこちらに来られなかったのだそうだ。



(物語の序章に名前を記されたディノは、あまりにもその役割が大き過ぎてしまって、もう一度あわいに下りる事は出来なかった…………)



夏夜の宴に呼び込まれてしまった以上、ネアには何らかの役名がつく。


そうなると、続けてディノがあわいに下りてしまうと、この物語の中のあるべき歌乞い役として、他の誰かがその場所に当て嵌められてしまうかもしれなかったのだ。


そこでディノは、序章の物語に呼ばれていたアルテアと、この物語の表記の中で、終焉の魔物の顕現にも取れる表現の文章がある事を利用して、ウィリアムを、条件が整えば飛び込めるようにして待機させてくれていたらしい。



「序章の物語が解けて記憶が戻った時に、念の為にこの物語の中に残るかどうか思案したが、その間に地上で事故られても癪だからな。…………だが、残っているべきだったか」

「…………ふぇぐ。そんな風に、アルテアさんもウィリアムさんも待っていてくれたのに、私は、最後の最後まで、名前を呼ぶ事が出来ませんでした…………」

「…………今回は、毒の影響もあるだろう。だが、同じような事がないとも言えないからな。反射的に呼べるように認識を深めておけ」

「……………ふぁい。パイを食べたい時にはすぐさま呼べるのですが…………」

「おい、普通は逆だろ…………」




ここで、ネアに一つ悲しい知らせがなされた。


アルテアがネアを着替えさせた際、ポケットは空っぽだったと言うのだ。

どうやら、あの水の渦の中で振り回されている間に、ポケットに入れたものは失われてしまったらしい。


しかし、へにゃりとネアが眉を下げたところで、溶けてしまったに違いないきりんのカードは諦めるしかないが、ウィリアムのナイフは失われてはいない筈なので、きっとどこかに落ちているだけだろうとアルテアが教えてくれた。


慌てて失せ物探しの結晶石をムグリスディノポーチから一粒取り出し、握りしめて取り戻しを願えば、どこからか大切なナイフが膝の上にぽとりと落ちる。


濡れたまま戻ってくるかもしれないからと、予めネアの膝の上にタオルを置いてくれたアルテアに感謝しながら、ネアは大事なナイフを取り戻した。




「…………そして、ウィリアムさんが駆けつけてくれたのならもう一安心なのでしょうが、…………ノアとエーダリア様は無事ですよね?」

「…………ノアベルト達が相手をしているのは、カルウィの第三王子だな?」

「は、はい!」

「あれの契約相手は、バンラード。悔恨の魔物だ。伯爵だが、白持ちでもある」

「…………白持ちなのに、でしょうか?」

「特定の条件下で特定の相手にしか、魔術を振るえない魔物だからな。送り火がイブメリアだけ階位を上げるのと同じだ。…………そしてノアベルトは、……………恐らくかなり分が悪い」



そう聞いてしまい、ネアはぎくりとした。

自分のことばかり考えていたが、名前を呼んだのに、ノアがまだ来ていないのはおかしいではないか。



胸が締め付けられ、はくはくと短い息をしたネアに、アルテアが呆れたような顔をする。



「分が悪いとは言ったが、損なわれる程に脆弱でもないだろう。ただ、時間稼ぎをされるという意味では、厄介な相手だ。その代わり、終焉を司るウィリアムとの相性となると圧倒的にウィリアムに分がある。あいつは、実際にその場で起きていない事については、自分の心を切り捨てるのが上手いからな」



それを聞いたネアは複雑ながらもほっとしたが、その直後、耳を覆いたくなるような轟音が響き渡った。


アルテアの腕の中でびゃっと飛び上がってしまったネアは、その音が湖の方から聞こえて来たことに蒼白になる。



「な、何が………?!」

「……………ウィリアムだな。…………やれやれだな。魔術基盤そのものにひびまで入れやがって。下手をすれば、地面が割れるぞ。…………いや、少し地割れはしているな………」

「………………よ、予言の通りになりました」

「は?」

「暫定使い魔なジルクさんの予言の通り、ウィリアムさんが、ぱかっと担当だなんて……………」



展開は少し違うが、となると割れ目から怪物が出て来てしまうかもしれない。

慌てたネアは、アルテアに、みんなと合流したいと伝えてみる。


しかし、アルテアはなぜか、先程までの気遣わしげな眼差しから一転、とても冷ややかな目でこちらを見ているではないか。



「……………アルテアさん?」

「…………ジルクを、使い魔にしただと?」

「……………し、しかたのないそちでした」

「ほお、どの辺りがだ。余分を増やすなと、どれだけ言えば分かるんだ、お前は。本気で、隙間の全てまで埋められたいのか?」

「このあわいを見て、すっかり余白が恋しくてならないので、ぎゅうぎゅうの仕打ちには耐えられません………」

「…………は?」

「アルテアさんもきっと、湖沿いの区画に行くと、詰め込み恐怖症になりますよ…………」



そんなネアの予言にアルテアは怪訝そうにしていたが、いざヴェルリア風の街に入れば、不快感を示す眉間の皺がとんでもない事になっている。



やはり、アルテアの美的感覚において、この街並みはなしのようだ。



「……………気分が悪くなる配置だな」

「これを見ると、ぎゅう詰めにしてもいいのはもふもふばかりだという気持になりませんか?」

「ならないな」

「むぐぅ……………」




(あ、……………)



どこかで、ちろりと赤い炎が揺らめいた気がした。


そしてその色を追いかけて視線を巡らせれば、決して記憶から消える事のない、緑の塔が遠くに見えたような気がする。

ざあっと風に揺れたのは、どこにもない筈の林檎の木々だろうか。



背筋を伝うのは、冷たい汗だ。

ネアは、抱えてくれているアルテアにしっかりしがみつき、息を潜める。



「もしかして、…………悔恨の魔物さんというのは、………………」



ネアの声が震えた事に気付いたのだろう。

アルテアが、バンラードという魔物の魔術の成すものについて教えてくれる。



「バンラードは、強い悔恨を呼び起こしその瞬間を周囲に再現する。それ以上には特筆するべき能力もないし、そのような経験がない者には何の効果も及ぼさないが、特定の者には強い影響を与える魔術だ」

「…………だから、ノアは分が悪いのですね?」

「統一戦争の際の事は、かなりの痛手だったらしいからな。……………ここでも届くか、……………」



ふと、そう呟いて立ち止まったアルテアが、砂色の石畳の上をじっと見ている。

そこには、一房の青灰色の髪の毛が無残に切り落とされて落ちていて、ネアは、その髪の毛をどこかで見た事があるような気がして首を傾げる。



しかしその髪の毛は、ネアが瞬きをする間にふわりと消えてしまった。




「あの塔が見えたとなると、ウィリアムには蝕の時の情景を見せたな。その結果叩き切られるのは、浅慮としか言えないが」

「……………っ、ゆるすまじ…………」

「お前は俺から体を離すなよ。今触れたものから指定して、バンラードの魔術の影響は払ってある。…………大丈夫だ」



じっと見上げたネアが口をむぐむぐさせると、なぜかアルテアは僅かに瞳を揺らした。

ふつりと触れたのは、あえかな口づけで、ネアが不安がるので更に守護を重ねてくれたのだろう。



「……………はい。アルテアさんもいますし、ウィリアムさんもいます。ノアは、きっとエーダリア様を守ってくれている筈ですから、我が儘のように怖がらないで挑みますね」

「恐怖が残るなら、吐き出しておけ。それと、ジルクは見付け次第に契約を切るぞ」

「む。それについては私も急いではいたのですよ。私に命令をされるのは嫌ではないそうですので、危険な兆候が現れ始めていましたし、アルビクロムのあの劇場の常連さんです!」

「……………ジルクは、加虐側だ」

「なぬ。ディノを取られたら嫌なので、ぽいです」

「ははは、せっかくご主人様の命令に応えたのに、捨てられては堪らないな。せめて、ご褒美は貰わない事には」




ふいにそんな声が割り込み、ネアは、はっとして声の聞こえた方を見る。


すると、今立っている道から湖畔に下りる幾つかの分岐の小道の一本から、意識のない誰かを肩に担いだジルクが姿を現した。

一瞬、担がれているのがエーダリアやノアだったらと不安になってしまったが、幸い、回収されてしまったアスファ王子であるらしい。



「まぁ、そやつを捕まえてくれたのですね?」

「幸い。俺にはさしたる後悔はないから、隙さえあればこの通り。お嬢さんの連れは、かなりのものを抱えていたみたいだが、その情景を見せる訳にはいかないと言って、ウィーム領主の意識を奪っていたみたいだ」

「……………あ、」



そこで漸く、ネアは得心した。

ノアを苛むのが、あの統一戦争の情景だとしたら、それは決してエーダリアには見せたくない凄惨なものだろう。


エーダリアの目に触れさせないようにその意識を奪えば、今度は、ノアの立場からでは、アスファ王子に手が出せなくなる。


きっと、その結果、ノア達は足止めされていたのだろう。




「ま、さっき物凄い音がしてたからね。術式も晴れて来たし、決着がついたんじゃないかな」

「…………そう言えば、ジルクさんはウィリアムさんをご存知なのですか?」



その音は多分ウィリアムなので、ネアは気になっていた事を尋ねてみた。

こうして、ネアがその腕の中にいても気にせず話しているのだから、アルテアとも顔見知りのようだ。



「……………なぜそれを訊く。まさか、現れたんじゃないよな?それと、どうしてアルテアがここにいるんだい?」

「さあな。お前との暫定契約はここで解除だ。さっさとその獲物を持って帰れ。カルウィの王子なら一人で充分だろ」

「正確には、これで二人目だけれどね。まだ、ターレンの魔術師がいただろう。あれも持って帰ろうかな」

「残念だが、そいつについてはウィリアムが細切れにした後だ。諦めるんだな」

「……………現れたのか。よし、俺は撤退することにしよう」



余程ウィリアムに苦手意識があるのか、さっと顔色を悪くしてどこかに消えようとしていたジルクは、本人が既に背後に立っていることには気付いていなかったらしい。



やはり、終焉というものは雑踏に紛れ、静かに忍び寄る存在なのだ。




「……………まさか、ここで君に会うとはな」


静かな声に、ジルクはゆっくりと振り返り、びゃっとなっている。

猫であれば尻尾までけばけばにして飛び上がっている感じだろうか。

ネアは、不本意ながら可愛いかもしれないと思ってしまった。


「……………これはこれは、終焉の」

「俺の聞き違いでなければ、不適切な言葉が聞こえてきた気がするんだが、……………ネア、彼と何か契約を結んだのか?」

「……………しかたのないそちだったのです」

「……………思っていたよりも関係が深いぞ。聞いていない」



ジルクは、ネアに説明をして欲しかったのだろうが、ここでネアは、ウィリアムの後ろからエーダリアをおぶって歩いて来たノアの姿を見て、安堵に瞳を輝かせたところだった。



「ノア!」



ついついその名前で呼んでしまったが、ウィリアムももうネアの名前を呼んでいるので、あとでまとめて魔術の繋ぎを切ったりすればいいのではなかろうか。

よく考えれば、ネアの金庫には縁切りの鋏がある。




ネアの声を聞いたノアの、青紫色の瞳が揺れるのが見えた。

瞠られた瞳は泉のようで、そこに滲んだのは安堵と後悔だろうか。




「……………ごめん。君の声が聞こえたのに、僕は………」

「いいえ!私の周りには魔術師さんの排他魔術があったので、ノアを呼んでも外側で困らせるだけだったんです。それなのに、名前を呼んで不安にしてしまいました…………」

「どんな障害があっても、行くべきだったし、そもそも君を奪われたのが僕の失態だ。毒の気配に少しも気付いていなかった………」

「………ノア。あの時の私は、ターレンの魔術師めにエーダリア様を傷付ける意思がなかったことに気付けずに、エーダリア様を逃がしたつもりで満足していました。あれだけ二人から離れないようにと言われていたのに、意気込んで仕損じてしまったのです……………」



こちらまで歩いてきたノアが、そう話し終えてくしゅんと項垂れたネアの頬に手を伸ばす。


触れた肌の温度に顔を上げれば、また小さな声でごめんと呟かれた。


そんな風に悲しませるつもりはなかったのだと言おうとして、ネアは、ノアのコートに酷い裂傷が幾つもあることに気付き、ぞっとした。



「…………ノア!」



慌てて手を伸ばしてその傷跡に触れると、ノアは口元を歪めて薄く苦笑する。



「他にもう一人魔術師がいたんだ。アスファ王子があの術式を展開していたのは、どうも僕達を待ち構えていた訳じゃなくて、最初はそちらの相手をしていたからだったみたいだね。………………あの後、まずは襲い掛かってきたそちらの魔術師にエーダリアと一緒に対処していたんだけど、……………僕達も、焦っていたんだろう。その魔術師をエーダリアがパンの魔物にして封じた時にはもう、悔恨に忍び寄られていた…………」

「た、多勢に無勢ではないですか!…………パンの魔物符が大活躍で嬉しいですし、ノアとエーダリア様が無事で良かったです……………!!」



そのもう一人の魔術師が、一人だったとは限らない。

ノアの傷付き方を見ていると、きっとエーダリアを守って頑張ってくれたのだろう。


聞けば案の定、その魔術師は処刑場の精霊というかなり厄介なものを連れていたと聞き、またじわっと涙ぐんでしまい、ネアはくすんと鼻を鳴らした。



(この服の感じだと、ノアはかなり深い傷を負ったのだと思うし、それをまだ治せていないのだから、心がくしゃくしゃになるような恐ろしいものを見せられたのだわ…………)



あれだけ火を恐れていたノアが、またあの日を見せられたのだとしたら、それはネアにとっても耐え難い仕打ちであった。




「ちょっと、こっちに来て誤解を解いてくれないかな?!」




ジルクから悲しく助けを求める声が聞こえてきたが、今はどうか仲間の無事を喜ばせて欲しい。


ネアは、アルテアに一度地面に下ろして貰ってノアをぎゅっと抱き締めると、ノアに背負われてすやすや寝ているエーダリアの髪の毛を、丁寧に指先で撫でておいたのだった。












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