70. 魔術師ではありません(本編)
エーダリアの持つ剣が振るわれた瞬間、ネアは見えない大きな奔流のようなものがざざんと砂陽炎の奴隷達にぶつかってゆくのを見た。
(あ、………………!)
強い強い風に薙ぎ払われるようにして、その奔流が触れたところから砂陽炎の奴隷達がさらさらと崩れてゆく。
エーダリアは、剣戟に葬送の魔術を乗せたようで、風に崩れた奴隷達は一斉に青白い炎に包まれた。
振り下ろした剣をくるりと優雅に返す仕草は、どこか儀式舞いを彷彿とさせるが、舞いと言うよりは剣技としての鋭さが強い。
エーダリアが剣を下ろしても、奥まで広がってゆく風が乾いた街並みをひたひたと満たしてゆくと、その最後の波がたぷんと落ちた途端に、キィンと氷が張る音が聞こえるように風の表面が凪いだ。
その表面を渡る青白い炎に、ネア達からは見えない位置に潜んでいた砂陽炎の奴隷達までもが崩れて燃え上がってゆく。
それは、衝撃波が波紋を広げてゆくような鮮やかさであった。
「…………………ここまでの力が………」
ぽつりとそう呟いたのは、剣を振るったエーダリア自身だ。
目を丸くしているので、展開した魔術がここまでの威力を持つとは思わなかったのだろう。
そろりと振り返ってノアの方を見たが、満足げに頷いた塩の魔物は、僕は調整しただけだよと笑っている。
「剣さん、この調子で、敵をくしゃくしゃにするまでの間はリア様を宜しくお願いしますね」
ネアはこれだけの成果を上げてくれた剣にそう伝えると、ノアにさっと激辛香辛料油ボールを渡す。
ノアが勢いをつけてそれをどこかに投げれば、ぎゃーっと悲鳴が聞こえてきた。
「………砂陽炎ではない奴隷達か」
「まだ、かなりいるみたいだね。でも、砂陽炎でさえなければ、山猫が頑張るんじゃないかな」
「ふむ。ジルクさん、アスファ王子をずたぼろにして滅ぼして来て下さい。どのような形で契約の不履行を取り締まるのであれ、あやつを永久消滅、もしくは戦力外にしてくるのですよ」
「…………っ、容赦のない命令だな。だが、ぞんざいに命じられるのも悪くない!くそっ、なぜなんだ?!」
「むぐぐ、この患者が悪化する前に、戦いが終わる事を祈るばかりです……………」
残虐なご主人様にそう命じられてしまったジルクは、早速命令に従おうとしたところで、そんなご主人様にくいっと袖を引っ張られた。
「…………何だい?」
「はい、効果が切れるといけないので、あーんです」
「……………っ?!」
途中での効果切れの離反を警戒したネアは、あんまりな強制にぴしりと固まったジルクが目元を染めて開いた口に、くまさんの形をした森のなかまのおやつを押し込んでしまう。
ばりばりんもぐもぐとそれを噛み砕き、なぜか少しだけへろへろになった後、山猫の精霊はネア達から離れて、近くの路地からどこかに駆けてゆく。
「頑張って働くと良いのですが…………」
「レイ……………」
「わーお。容赦なく躾けてゆくけど、さっきのは羨ましいんだけど!帰ったら僕にもやって」
「…………森のなかまのおやつを?」
「それはやめて……………」
悲しげにそう言ったノアが、直後、エーダリアとネアを小脇に抱え、浅く転移を踏んでその場を離れる。
あっと息を飲んだネアは、足元が翳った瞬間を見たが、その場から離脱されてしまったので何が起きたのかは分からなかった。
「すまない、すぐに反応出来なかった………」
「妖精との混ざり物だね。またえげつないことをしてるなぁ。リアが反応出来なくても当然だよ。無理矢理妖精を食べて手に入れた力の代償に、数ヶ月から数年で狂い死ぬ使い捨ての兵士だ」
「…………カルウィは、まだそんな事をしているのか……………」
カルウィには、捕らえた妖精達の羽を切り落としそれを兵士に食べさせる事で、一時的にその兵士を強化する禁術もあるらしい。
羽を落とされた妖精達は、術式の強化の為に惨たらしく殺されてしまい、その呪いがやがては兵士をも殺すのだが、繋がった呪いすらをも力としてしまう悍ましい魔術だ。
それを聞いたネアは、かつて、カルウィの王子がヒルドの羽を狙った事件を思い出し、ぞっとしてしまう。
「…………っと、レイはそこから動かないで!」
「は、はい!!」
その直後の襲撃は、左右から同時に成された。
ネアが呼び落とされた部屋にいたチャグトという名前の大男と、細身の青年の二人が同時に襲いかかってきたのだ。
チャグトが振るう半月刀の最初の一撃はエーダリアが躱し、ノアは青年を容赦なく蹴り上げている。
そして、どうっと地面に崩れ落ちた青年の眼前にノアが手を翳した途端、声にならない絶叫が辺りに響いた。
(凍りついて、……………ううん、)
体を捩ってもがき苦しむ青年が、その足先から白く結晶化してゆく。
ネアは、凍らせられているのかと目を瞠ったが、ぴしぴしと表面を固めてゆく白さは、氷というよりも塩の結晶だ。
「……………馬鹿な!」
そう叫んだのは、あの大男だった。
青年が人の形をした結晶にされるまでにかかった時間は、数十秒にも満たなかったかもしれない。
そして、完全に固まってしまうと、ぴしりとヒビが入り、そのままばらばらに砕けて塩の山になってしまう。
「…………うん。やっぱり、魔術師じゃないこちらには使えるみたいだね。…………君達が呪いを盾にするように、僕にも呪いが使えるんだよ。ただし、魔術階位は君達のそれとは随分と差があるようだ。正攻法では厄介だとしても、こうやって呪いで打ち砕けてしまう」
「……………ぐっ、…………俺の引き受けた呪いの階位は、シーだぞ?!十八人ものシーを殺して羽を食らったのに……………っ、」
大男は、ネアがエーダリアに渡した風の剣を受け止め切れなかったらしい。
折れた半月刀を捨てると、今度は重たい漆黒の鎖のようなものを取り出す。
だが、彼がその鎖をどうにかする前に、塩の魔物は優雅で冷酷にひらりと手を向ける。
ただそれだけで、もう勝敗は付いていた。
先程の青年と同じような末路を辿ったアスファ王子の護衛を、エーダリアが呆然と見守っている。
「まぁ、最初の奴の方が食べた妖精は多かったみたいだけれどね。…………リア、妖精食いの魔術師や兵士は、その妖精の呪いより階位の高い呪いであれば、呪いに触れずに壊せる。ただし、死に至る呪いじゃないと難しいからね」
「……………ああ。やはり、ノアベ………は、凄いのだな…………」
「僕はこれでも、魔術の理や相性にはかなり詳しいんだよ。あの王を苦しめて苦しめて殺す為に、呪いもかなり研究していたしね」
そう微笑んだノアに、エーダリアは苦笑する。
その王はエーダリアにとっては祖父にあたる人物だが、エーダリアのウィーム側の親族達を虐殺した相手でもあるのだ。
ウィームであることを取ったエーダリアにとって、どちらに天秤が傾くかと言えば、言うまでもなく契約の魔物の方だろう。
「………レイが見た護衛は、この二人までだよね?」
「はい!もしかして、まだ残っているのですか?」
「うん。まだ少しね。でも、その王子が護衛として影から出していたくらいだから、この二人が一番厄介な相手だったのは確かだよ。…………さっきの妖精の数。信憑性はさておき、あれだけのシーを与えられる者は、やっぱり少ない。供給する側にも、シーを狩るだけの危険が伴うからね」
「………………酷い事をする。妖精達に対しては勿論だが、与えられた兵士達もあの呪いの深さでは半年と保たないだろう。最近、カルウィの王子には順位の変動があったようだが、その為に作られたものだったのかもしれないな……………」
実のところ、ネアはもうカルウィの王子の順列をさっぱり覚えていない。
唯一名前と顔の一致しているニケ王子にしても、最近また順位を変えたということくらいしか知らなかった。
王族の数が多過ぎるのと、敢えて競わせる事で広大な国土を治めているので、頻繁に順列が変わるのだ。
その代わり、カルウィでは王族にさえ生まれていれば、王になれるかどうかは本人の実力次第らしい。
「確か、カルウィの王子様は、継承権の順番で数字を決めるのですよね?」
「ああ。生まれた時にはその順番で与えられる数字だが、上の者の力を著しく削いだり
殺した場合は順番が入れ替わる。このような魔術を育てる国で、第一王子ともなればどれだけの力を持つかが分かるだろう」
エーダリアは、何気なく会話の流れでその話題に触れたのだろう。
しかし、ネアは話題に出された第一王子について深い恨みを抱えていた。
「黒髪美女な竜さんを独占した方でしょうか。結果として蝕の一件はそやつにも責任の一端があるとしますので、出逢ったらきりんさんなどをお見せしてしまうかもしれません………」
「レイ……………」
「わーお、相当恨んでるぞ……………」
ネアは、カルウィの第一王子に、合法的に同性の友達を作れる機会を奪われた事を許してはいなかった。
だが今は、厄介な禁術まみれの第三王子を警戒しなければならない。
ジルクが無事にくしゃりとやってくれればいいのにと思うのだが、ここでネアは少しだけ心配になる。
「…………カルウィの王子様達は、皆それなりの方々の守護を得ていたような気がするのですが、アスファ王子にはそのような方はいないのですか?」
「…………そう言えば、アスファ王子の契約の人外者の話は聞いた事がなかったな。妖精食いを仕えさせている以上、代理妖精や妖精の守護は望めないだろう。そうなると、絶対的に人外者との契約は必要になるが………」
アスファ王子の場合、とても不公平に感じてしまうが、あの奴隷達は自身の影に潜ませたままこちらに連れ込めてしまう。
となると、それとは別に契約相手、或いは守護を与えてくれている人外者を召喚する事が可能なのだが、ネアはそれらしき姿は見ていなかった。
「僕も知らないなぁ。………でも、必ず誰かはいるだろうね。さっきの禁術はとても有用なものだけれど、高位の人外者の守護を得た者達と競うには、それ相応のものは必ず必要になる。…………おっと、残りものが来たかな」
顔を上げて溜め息を吐くと、ノアはエーダリアに何か指示を出している。
エーダリアは厳しい顔をしていたが、ゆっくりと頷いた。
「レイ。ネイは、相手が参加者の魔術師だと、私の魔術の補助は出来てもそれ以上の事は出来ないようだ。つまり、ここに敷かれている守護は、参加者の襲撃に於いては機能しない可能性もある。くれぐれも、私から離れないようにしていてくれ」
「……………はい。では、リア様に、予備の激辛香辛料油水鉄砲と、きりんさんカード集を渡しておきますね。なおこれは、内包された魔術量がとても少ないので、敵に気付かれ難く使い勝手のいい、パンの魔物符です」
「………………パンの魔物符」
「相手をパンの魔物にしてしまえば、こちらはやりたい放題ですよ!ただし、増えるので牛乳に浸してはいけません………」
「わ、わかった」
ネア達が現在いるのは、ヴェルリア風の街並みの裏通りだ。
先程の主要道路ですらかなり狭かったのだから、この通りは更に細くなる。
両脇を家々に囲まれているが、可愛らしい花を咲かせた鉢植えが飾られた水色の壁の家も、砂色の壁に金属製の美しい格子窓のある商店らしい建物も、相変わらず人の姿は見えない。
(まだ、アスファ王子は排他術式を閉じていないのだわ……………)
あまりにも街が静かだったからだろうか。
その時のネアは、舞台装置のような余所余所しさのある街並みには、ちっとも注意を払っていなかった。
心のどこかで、排他術式が開かれるまでは、無人のものだと考えてしまっていたのだろう。
「………来たね」
ノアがそう言った直後、少し先の曲がり角から、わっと飛び出して来たのは複数の兵士達だ。
手には槍や盾などを持っているが、その肌は奇妙な黒ずみ方をしており、指先などが鈍く光る砂になってもろもろと崩れている。
妖精魔術の代償かとエーダリアが呟いたので、残された時間が短い者達はそうなるのかもしれない。
「うわ、リアっ!レイ!この兵士達から離れて!!崩れ始めている体の欠片を吸い込むと、妖精の呪いに汚染されるかもしれない」
襲いかかってきた兵士達を塩の結晶にしてしまっているノアが、はっとしたようにそう声を上げ、ネア達は慌て後退した。
すると今度は、体を寄せた壁面にあった小窓から、ギャアと鋭い声を上げた大きな蝙蝠のようなもの達が飛び出し、こちらに飛びかかって来たのだ。
「っ、…………使役獣か!」
「リア様!」
「魔術排除が間に合わない!剣を使うので、体を低くしていてくれ」
エーダリアが素早く剣を振るって斬り捨てたものの、排他術式の中にいる間は動かないと思っていた場所が開いた事に動揺してしまい、ネア達の反応は遅れた。
蝙蝠達の翼が触れるほどの、魔術で弾けない距離まで詰められてしまい、剣を使うしかなかったのだ。
あっという間に囲まれてしまい、エーダリアが全ての蝙蝠を斬り捨てるまでには少しだけ時間がかかってしまった。
そんなエーダリアの邪魔にならないよう、体勢を低くしていたネアは、最後の蝙蝠を切り捨てたエーダリアが、はっと息を飲み振り返るところまでは見ていた。
「災いの水櫃」
「……………っ?!」
低く涼やかな声が響き、すいひつとは何だろうとネアがその言葉を飲み込むより早く、どおんと音を立てて降り注いだのは莫大な水量を持つ水の壁だ。
飲み込まれ揉みくちゃにされる直前、ネアは、咄嗟にエーダリアを、全ての兵士を沈黙させたらしいノアの方に、力一杯突き飛ばした。
(エーダリア様は駄目!!)
勿論、事前に注意されていた事は覚えている。
夏夜の宴の中では道具に過ぎないネアには、参加者である魔術師達を損なう事は出来ない。
エーダリアから離れる事がどれだけ危険かは充分に認識していたし、自らそれを選ぶ愚かさも理解出来る。
(けれど、この攻撃に致死的な要素がないとは、言い切れなかった…………)
振り返ったエーダリアの瞳に見たのは、ぞっとするような冷たい絶望だった。
あの瞬間、エーダリアはネアよりも早くその襲撃に気付いたが、それを防ぐ手立ては間に合わなかったのだ。
エーダリアは、ネアとは違い命を取り戻すような祝福は持っていない。
ネアに咄嗟に考えられたのは、それだけであった。
(………………息が、)
凄まじい水の勢いに飲み込まれて押し潰され、水の中でぐるぐると回されたネアは、水の流れに手足が引き千切られそうになってしまう。
ポケットに入れた道具を取り出すだけの余裕など勿論なく、揉みくちゃにされた水の中で、何とか大切な武器を落としてしまわないように、両手を体に巻きつけようとしたが、それすら上手くいったかどうか分からない。
息の苦しさが先に立ったが、何とか閉じていようとした唇も渦巻く水に開いてしまい、胸の中を息を全て吐き出させられた。
苦労してポケットから掴み出した硝子玉のような転移門が、手のひらから捥ぎ取られてどこかに流されてゆく。
「…………っあ、」
ばしゃんと、ネアは唐突に水の中から吐き出され、硬い石畳の地面に投げ出された。
したたかに体を打ちくらくらした頭に、たっぷり水を吸った服は耐え難い程に重かった。
(体が、……………全然動かない…………)
体を起こして、すぐにでも武器を取り出したいのに、手足が泥のように重い。
目が破裂しそうに痛んで、上手く嚥下の出来ない喉をごぼごぼさせると、何度目かで上手くいき、ごほりと水を吐いて咳をした。
「………っう、…けほっ、……………っく」
息を吸うという事は、こんなにも辛い事だっただろうか。
散々水を飲んでしまった体は、辛うじて吸い込んだものを受け付けられずに、また咳き込んでしまう。
すると、耐え難い程に喉が痛み、ネアは喘ぎ、咳き込みながら生理的な涙をどうにか堪えた。
「………………汚い女。ちっとも綺麗じゃないし、擬態しても分かるくらいに魔術稼働域も低い。どうして僕の王子様は、こんな女がいいのかな」
顔を上げられないネアの頭上で、誰かがそんなことを呟いている。
痛みと苦しさを堪えて何とか目を開くと、顔や髪を濡らす水が目に入って霞んだ視界の中に、美しい銀髪の少女がいた。
(………………あの時の、…………ターレンの魔術師………………?)
瞳を瞬き何とか視界を鮮明にしようとするが、濡れた髪の毛を顔から引き剥がすだけの力がやはり沸いてこない。
手を持ち上げられなければ何も出来ないのに、辛うじて動かせたのは指先だけだった。
「この顔!どれだけ見ても醜くくて、吐き気がしそう!それなのに、僕の王子様を取るだなんて!!擬態して魔術師じゃないふりをしていても、僕が気付かないとでも思ったの?」
(…………この人は、何を言っているのだろう…………………)
一刻も早く手足を動かしたいと思う焦りから、少年が話している言葉が上手く飲み込めない。
途方に暮れて何度も頭の中で反芻すると漸く、ネアは、擬態して正体を隠した魔術師だと誤解されている事に気付いた。
「ち、……………違」
「何が違うのさ。お前からは、一介の人間が持つには過ぎた守護の匂いがぷんぷんするし、山猫が持ち帰ろうとしたのがその証拠でしょう。愚かで高慢なアスファは気付いていなかったみたいだけれど、あの男は山猫商会の幹部に違いないんだ。そんな男が、何の価値もない名無しの道具なんて持ち帰るもんか」
「…………のあ、」
その名前を呼ぼうとした途端、がつっと衝撃があって、ネアは腹部を踏みつけられた痛みに顔を歪めた。
だが、不幸中の幸いとも言うべきか、重たく痺れたようになっている体のお陰か、本来感じる程の痛みではない気がする。
「馬鹿な女。それで、王子の従者を呼んだつもり?ここはもう、隔離結界の中。どれだけ呼んでも名無しの役の奴には届かないし、届いたところでこの結界は破れないからね」
「……………ぐ、………げほっ」
「…………それと、さっきのお前のあれ、王子を突き飛ばして庇ったつもり?馬鹿だなぁ。僕がエーダリア様を傷付ける訳がないでしょ!」
「……………っ、……げほっ、…………リア様を、……………知って…………?」
「知ってるに決まってる。ターレンの魔術師はね、こんな風に美しく育つと、仕えるべき主人を探すんだ。僕はずっと、あんな野蛮で砂だらけのカルウィなんかじゃなくて、美しくて豊かなヴェルクレアに行くつもりだったんだよ。だから、ヴェルクレアの王族は全員調べたんだ」
「…………それで、リア様を?」
「第一王子は、契約の竜がいるから却下だよ。それにあんな怖い王妃に近付きたくないしね。それなら第二王子か第三王子だけれど、やっぱり第二継承者のエーダリアだよね。ヴェルクレアは入国審査が厳しくて、ターレン人の僕はなかなか近付けなかったけれど、やっとここで会えたんだもの。…………お前みたいな、大した力もない女魔術師には渡さない」
(……………どうして、………?可動域が低いと思うのなら、私が魔術師ではないと分かるんじゃ……………)
少しずつ呼吸が馴染むと、耐え難い喉の痛みは治まってきた。
だがなぜか、頭がぼうっとして思考がまとまらない。
組み立てても組み立てても、端から崩れていってしまうのだ。
指先がもっと動けば、ポケットの中から武器を取り出せるかもしれないが、ネアを踏みつけて立っているこの魔術師に気付かれないよう、素早くそれを取り出すだけの力が残っているとは思えない。
(ノア……………!)
これは、かなり危うい状況だ。
堪らず、もう一度その名前を心の中で呼んでしまったけれど、さっきの呼びかけだって音になっていたのだから、直ぐに駆け付けられないノア達にも何かが起きているのかもしれない。
それとも、この少年が言うように、相手が正規の参加者だから、隔離結界を破れずに近付けずにいるのだろうか。
「…………っ!」
ぐりっと強く踏み込まれ、ネアは圧迫感に喘いだ。
やはりまだ、痛いというよりも圧迫感の方が強いようで、そうなると、ここまで麻痺している体が心配になる。
確か、目の前の魔術師は毒を扱うのではなかっただろうか。
あの水に、何らかの毒物が混ざっていても不思議ではない。
「僕の王子様に色目を使った雌猫なんて、楽には死なせないよ。その目を抉り出して、手足を少しずつ切り落としていってあげる。大丈夫だよ。僕の王子様とあの従者なら、アスファなんかには負けないでしょう。あの愚かなアスファは、山猫も怒らせていたみたいだったし、実質二対三だ。山猫は魔術師狩りが得意だから、きっと上手くやってくれるよ」
「………………あなたは、アスファ王子と…………ごほっ、……契約を結んだのではなかったのですか?」
ネアが息も切れ切れにそう尋ねると、少年はにっこり微笑んだ。
「まさか。そう思わせただけだよ。僕達は美しくて多くの者達から欲しがられるからね。より良い主人を得る為に、後で簡単に契約を破棄出来る仮契約があるんだ。ターレンの魔術師しか知らないけれど、特別に教えてあげる」
こうして踏みつけられていても、見惚れる程に美しい美少女ぶりなのだから、為政者達がこぞってターレンの魔術師を求めるというのも致し方ないかもしれない。
ネアの知る魔物達は飛び抜けた美貌だが、この少年の折れそうな手足の細さと繊細な美貌は、美しい冬の妖精のようだ。
はらりと、視界の端を花びらが舞う。
(ここ、…………ヴェルリアの区画じゃない…………?)
そんな事に、やっと気付いた。
通りに敷き詰められた花びらは、疫病祭りの名残だろうか。
この開けた視界と薔薇の香りからすると、ネアは、ウィーム側の区画まであの水で押し出されたらしい。
だが、隔離魔術の中だからか、周囲には人影はなかった。
(苦しい………………痛くて、悲しい…………)
ふと、ネアの心の中に小さな刺々した塊が生まれた。
(私が本当に魔術師なら、魔術でこの体を治してしまうか、ここに助けになる人たちを呼べるのに……………)
この少年にエーダリアを傷付ける意思がなかったのなら、あの時のネアは、エーダリアを逃がそうとするのではなく、エーダリアの手をしっかりと掴むべきだった。
良かれと思って動いてそれを成し遂げた事を誇りに思っていたのに、自分の行動がまるで間違っていたのだと知るのは堪らなく悔しく悲しい。
(ジルクさんを…………、いいえ。そちらも危ういかもしれない…………)
一瞬、喋れるようになったのならジルクを呼べるのではと思ったが、あの山猫が転移で駆け付けられるかどうかも分からないし、そもそもネアは、森のなかまのおやつで彼を無理やり従わせている状態だ。
ジルクからしてみれば、この少年がネアを殺した方が、自身の解放に繋がるので有り難いだろう。
(そう言えば、二対三だと話していた……………。つまり、アスファ王子には、まだ誰かがいたのだろうか。ノア達が危ない目に遭ってなければいいのだけれど、………………)
そんな事を考えながら、ネアは自分にかけられたディノの守護を思う。
この夏夜の宴の中で守護がどんな扱いになるのかは知らないが、出来ればこの少年の蛮行を防ぐだけは働いてくれると嬉しい。
それと、ここで行われている事がディノに伝わらず、ネアの大事な魔物が怖い思いをしなければいい。
鋭いナイフのようなものを取り出したターレンの魔術師を見上げながら、ネアは、今度は肉体に受けた損傷からじわじわと疲弊に削り取られてゆく意識の合間に、そんな事を考える。
少年はまだ何かを話しているが、その声も少しずつ遠くなってきていた。
(…………………ああ、そうだ。アルテアさんも連れて帰らないと。夏夜の宴に入ってからはまだ一度も見かけていないけれど、どこにいるのだろう…………。それとも、ここにはいないのかしら?)
滲む視界の中で、こちらを見下ろした淡い水色か灰色の瞳が悪意に歪む。
ぎらりと光ったナイフに、ネアは無駄だと分かってはいても誰かの名前を呼びたくなった。
この世界に来る前のネアなら投げ出してしまいそうだが、今のネアには大切なものが沢山あって、死にはするまいと考えてはいても、ここで自分が傷付けば、エーダリアやノアがどれだけ心に傷を負うかも分かっている。
(………………でも、エーダリア様とノアは駄目だわ……………)
隔離結界に入れられてしまっているし、それがあってもネアの声を聞き取れるかもしれない契約を持つノアは、この隔離結界を破れない。
ではエーダリアならばと考えても、場所を知らせる程の呼びかけともなると真名を呼ばねばならず、エーダリアに執着している目の前の少年にその名前を与えるなど言語道断である。
ディノの事を呼んだとしても、このあわいに入れない伴侶を苦しませるだけだろう。
であれば、呼べるような名前なんてもうないのかもしれない。
(でも、諦めたくない………………!)
「…………っ、アルテアさ、……」
名前が届くかもしれない契約があって、夏夜の宴の作法にその力を制限されないかもしれない誰か。
そう思ってアルテアの名前を呼ぼうとした途端、こめかみのあたりを力一杯蹴り飛ばされた。
照明を落とすようにぷつりと暗闇に沈み、どろりとした無意識の気持ち悪さの中でくらりと揺れたネアは、遠くで誰かが自分を呼ぶ名前を聞いたような気がした。




