69. 大変な事が発覚しました(本編)
外に出れば、やはり季節は晩秋の気温のままであった。
歩道の花壇にはふくよかな赤い薔薇が咲き誇り、ガーウィンの教会群があるからか、この時間ではまだ陽光が差し込まず、夜にしか見られない祝福の光を薄暗い影の中にきらきらと落としている。
通りの幅が広く取られ街路樹から木漏れ日の差し込む本物のウィームの街並みとは違い、この物語のあわいでは、採光不足や、積雪による道の歩行不能などまでは考えられていないらしい。
そんな事を考えていると、しゃりんと、どこからか鈴の音が聞こえ、ネアはいつかのあわいを思ってぎくりとしてしまった。
ネアが怯えた事に気付いたのか、そっと体をぶつけてくれたノアの優しさに落ち着きを取り戻せば、聞こえてきた音はどうやら、よく儀式などで使われる一般的な術具のもののようだ。
(どこかで、魔術儀式を執り行っていたのかしら…………?)
しゃりん、しゃりん。
次に響いたのは、規則的に重なり合った複雑な鈴の音のようで、その音を探すようにジルクがこちらを振り返る。
世慣れた男性めいた美貌だが、無理やりお風呂に入らされた時にちょっぴり泣いてしまい、まだ目元が僅かに赤くなっていた。
(………………あ、また鈴の音が聞こえてきた。こちらに近付いて来ているみたい…………)
ザハを出たばかりのネア達を迎えたのは、ウィームの街にさざめく不思議な賑わいで、ネアが何が起きているのだろうと首を傾げていると、はっとしたように息を飲んだエーダリアが、ぽつりと呟いた。
「…………もしや、今日は祝祭の日だったのだろうか」
「うーん、鎮め系譜の魔術だから、…………ありゃ、もしかして病払いの儀式かな…………?」
ざわりと、周囲の空気が揺れた。
ザハの前の通りもそれなりの人通りであったが、大通りに出るとあっという間に人並みに飲まれそうになり、明らかに普通の日ではないぞと、ネア達は目を丸くする。
「………まぁ。そうすると、これは疫病祭りなのでしょうか?」
「…………趣は違うが、そのようなもののようだ。だが、………見た事のない祝祭魔術だ」
「……………わーお。俄か展開のあわいにも祝祭があるとはね…………」
「…………お嬢さん、そろそろ俺は解放してもいいんじゃないかな。もう充分遊んだだろう?」
「………………まだ、回収していただく魔術師さんを捕まえていないので、そちらの準備が出来てからにしましょうね」
「山猫の商売にまで介入するつもりなら、それ相当の覚悟はしてあるのだろうね?」
「ジルクさん、お手です」
「……………っ!くそ、なぜ俺は嫌じゃないんだ!そのクッキーの成分表を見せろ!!」
歩道には人が集まり、そこかしこに屋台のようなものが出ているが、どうやらこれは物語のあわいなりの疫病祭りらしい。
すぐに鈴の音がどこから聞こえてきたのかも判明し、ネアは、通りの向こうから歩いて来る人影を伸び上がって眺める。
沢山の鈴をつけた錫杖を持ち練り歩くのは、黒いローブ姿の魔術師達だ。
歩道の人々は、目の前にその行列が来ると深々と頭を下げ、また鈴がしゃりんと鳴る。
通りには花びらが振りまかれ、甘い百合の香りが立ち込めていた。
混み合った歩道を歩きながら、ノアは敷き詰められた花びらから魔術の形を解析していたようだ。
ややあって顔を上げると、ひらりとどこからともなく舞い落ちてきた花びらを、ひょいっと避ける。
「……………この魔術の重ね方は、ラエタの祝祭に近しいものだろうね。どう考えてもウィーム風じゃない。物語の作者が自分の記憶から引っ張り出してきたのかもしれないけれど、僕も見るのは久し振りだ」
「いやいや、ウィームとヴェルリアの街並みは近年のものだ。ラエタの祝祭なんぞどれ程前に失われたと思って……………、」
ラエタという名前に目を丸くした後、呆れたように笑い、そう首を振ろうとしてネア達の表情を見てしまったのだろう。
ジルクは、困惑したように周囲を見回した。
「…………ラエタ?…………まさか、本当にラエタの魔術なのか?」
「別に不思議はないんじゃないかな。この本を書いたのは、ラエタからの迷い子だったからね」
「…………成る程。夏夜の宴を狩り場としている俺達より、今回の物語を知っているようだ」
「ウィームの事が記されていたから、回収対象だったんだよ。まさか、そんな本の中に落とされるとは、僕たちも想定外だ」
しれっとそう言ってみせたノアに対し、ジルクはふんと鼻を鳴らしてみせた。
言葉通りの事を信じてはいないが受け止めたふりはしてみせると表情で示すのが、如何にも老獪な商人らしい。
ノアがジルクから引き出した情報によると、方法ばかりは極秘だと明かさなかったものの、山猫商会は、なんと夏夜の宴には毎回参加しているらしい。
今回は悪役として招聘されたものの、役柄のない道具として、或いは特殊な方法で物語のあわいをこじ開けてその内側に入り、敗退してゆく魔術師の中から目ぼしい者達を攫って帰る。
それなりの階位の魔術師が呼び落とされるだけでなく、他の魔術師との戦いで疲弊する事が多い夏夜の宴は、目当ての魔術師を捕縛し易い状況が整っているのだそうだ。
(良い仕入れの場だよと言うけれど、と言うことはやはり、エーダリア様も狙われていたかもしれないのだ…………)
であれば、野放しにしておかず良かったと、ネアは凛々しく頷いた。
しゃりん、しゃりんと、鈴が鳴る。
ネア達は交通規制のある大通りを避けて路地裏に向うことにしたが、ちらりと振り返ると大通りをゆっくりと歩いてゆく魔術師達の姿が見えた。
ふと、彼らもまた魔術師なのではと、ネアは首を傾げる。
「…………あのような方々は、山猫さんの仕入れ対象にならないのですか?」
「あわいの中の魔術師が?はは、まさか。魔術師のなりをしていても、中身はすかすかだ。あわいにはそのあわいの魔術備蓄量がある。誰もが知るような物語でない場所に、そこまでの魔術は蓄えられないのさ」
「むむ、…………しかし、私はこのあわいの中でウィ…………終焉の魔物さんに会いましたが、ずしりと重い空気はかなりご本人寄りでしたよ。その上限は随分なものなのでは?」
ひゅっと息を飲む音がして、ネアは目を瞠る。
ネアが何気なく口にしたその一言に反応したのは、ノアとジルクだ。
すっと瞳を細め、思わず仲良く顔を見合わせてしまっているが、その事に気付くと双方顔を顰めている。
「…………レイ。ウィリアムに直接会って、そう思ったって事だよね?」
「むぐ?!…………は、はい!私の魔物もしっかりとしたあわいの形だねと言っていましたし、使い魔さんをさっくり出来ていたくらいなので、かなりの仕上がりかと…………」
「…………終焉の魔物の似姿だぞ?!」
「ぎゃ!なぜに揺さぶるのだ、ゆるすまじ!!」
ジルクにがくがくと揺さぶられたネアは、か弱い乙女の首をぐきっとしかねない悪い精霊から逃げ出すと慌ててノアの影に隠れる。
魔物と精霊な二人はかなり動揺しているが、それは困った事なのだろうか。
「ネイ、………あまり良くない情報でした?」
「うん。…………聞いておいて良かったけれど、あまり知りたくはなかったかな。終焉の魔物を顕現させられるってことは、このあわいに、かなり潤沢な魔術基盤がある証明になるんだ。…………山猫商会がこれまでに入り込んだ夏夜の宴でも、そういう事はあったかい?」
「俺は、見た事も聞いた事もないね。終焉の魔物を動かすだなんて、成り立っている事が異常な密度だ。…………ラエタと名の付くものだけはある。呪いに近しい物語だ」
(呪い……………?)
不穏な言葉にひやりとし、難事件を前に若干の意気投合を見せている二人から視線を外したネアは、そろりとエーダリアの方を見てみた。
すると、こちらも若干青ざめている。
「…………もう少し早く、序章でのお前の話を聞いておくべきだった…………」
「むむぅ、以前のラエタでもウィリさんに会いましたが、それとは違うのですか?」
「そちらは影絵だからな。写し絵だからこそ在るものと、物語の中に作り付けられたものでは成り立ちが違う」
「…………もしかして、序章のあわいに私の魔物がいた事が影響していたりは……………」
そんなエーダリアとネアの会話が聞こえてしまったのか、ノアが愕然とした面持ちでこちらを見るではないか。
ついついネアも目を瞠ってしまい、二人は暫し無言で向かい合った。
「………………それだね」
「……………ほわ、そこでした」
「ええと、………となるとこのあわいは、万象の潤沢な魔術証跡を基盤に、頭のおかしいあの女魔術師の物語を再現して行く訳か…………。わーお。…………もしかして、物語の通りにあの事件も起こるのかな………」
その一言は、ネアとエーダリアを真っ青にするのに充分であった。
物語の筋書きを知らないジルクは、今のこの状況より厄介な事があるのかと、こちらを見てとても慄いている。
だからか、物語を知らないジルクの問いかけは、とても静かなものであった。
「…………万象という言葉が聞こえたがそれは手に負えないので、聞かなかったことにしよう。だが、物語で起こるのがどんな事件なのか、教えてくれるかな?」
「……………ぎゅ。街がぱかっとなります。そして、どこかから、怪物さんがわらわら出てきます…………」
「………………街が、ぱかっ?」
「…………僕も、あまりにも荒唐無稽な展開に読むのが辛くて朧げにしか覚えてないけれど、確か、誰かが王子の寵愛を受ける主人公を貶めた結果、魔術の理の怒りに触れて街が割れるんじゃなかったっけ?」
そこでもう、ジルクは何だその展開はと頭を抱えてしまった。
エーダリアも片手で顔を覆っているし、ネアもすっかり落ち込んでしまった。
あまりにも唐突で無茶な設定だが、そもそも、あわいを割るだけの災厄を起こす魔術貯蓄がないだろうと、この場面は起こらないものとして作戦会議からも割愛されていたのだ。
「な、なぜ、主人公がむしゃくしゃしただけで、世界が危険に晒されなければならないのです!そもそも、王子様には大事にされているのですから、加えて周囲からの評価も安定させたいなど、俄か出のお嬢さんが我が儘にも程があります!」
「落ち着いてくれ!さすがにまだ街は割れないのではないか?…………あれは確か、………祝祭の夜に、主人公の少女が貴婦人達から辛辣な言葉を浴びせられ、彼女が涙を落とすと…………祝祭?」
この時ほど、本日より森のなかまのおやつで期間限定の使い魔になったジルクも含め、ネア達の心が一つになった瞬間はなかっただろう。
全員が低く呻き、項垂れたり天を仰いだりしたのは、たった今抜けてきた大通りで行われていたのは疫病祭り、即ち鎮めの儀式の要素が強いとは言え祝祭であるからだ。
「よし、まずは王冠探しを急ごうか。……………あああ、街が割れると分かっていたら、午後まで待ったりしないで、先行して王冠探しをしたよね?!」
「ま、街が割れる程の魔術異変や災厄となると、大変なことになるのだろうな……………」
「……………俺には、想像もつかない。何しろ、災厄の類でそのような異変が起こるのは、大概の場合は高位の魔物達の怒りに触れた場合だ。……………ん?もしかして、終焉の魔物は来ないだろうね?」
ジルクのその言葉に、ネア達の間に何度目かの重たい沈黙が落ちる。
その沈黙を確率に換算したものか、ジルクは、ここを出る迄は使い魔でいいとぽつりと呟いた。
「聞いている限り、君達は終焉の魔物とは面識があるようだからね。何の予備知識もない俺一人でいるより、同行していた方が安全だ」
「もし、ウィリさんが現れたら、ちびふわ符を何としても貼り付け、ちびふわ化するしかありません……………」
「わーお。貼り付ける過程で、誰か死ぬとしたらいい具合に使い魔が増えて良かったね、レイ」
「やめてくれ。俺は逃げ足の早さには自信があるが、幾ら何でも終焉の魔物は無理だ!」
もし、今夜の内に街が割れるような災厄があるのだとしたら、それを避けてあわいを出る為には、残された時間はあまりない。
ネア達は、大急ぎで、けれども他の参加者達の魔術証跡を逃さぬよう、転移は使わずに湖畔に向かった。
途中には見たこともない謎の時計塔があり、ノアはなぜか、その時計塔を回避する為に大きく迂回路を取った。
更には、ウィームにはない筈の歓楽街を抜けなければならなかったりと、なかなかに時間を取られてしまう。
エーダリアが離れないようにしつつ、ネアを抱えて走るノアは、さぞかし大変だっただろう。
ネアは勿論自分の足で走るつもりだったが、元々の足の長さが違うからか、どうしても遅れがちなネアをジルクが持ち上げようとしたところ、低く唸ったノアがすかさず抱えてしまったのだ。
「……………今の歓楽街は、アルビクロムかな」
「呆れたものだ。アルビクロムの歓楽街の中でも、指折りのいかがわしさの界隈じゃないか。俺のお気に入りの劇場もある」
「……………レイ?どうしたのだ?」
「にゃわわは、にゃわわしません……………」
「わーお。もしかして、勉強会の時の劇場かな……………」
「何だ。やっぱり、そちらの経験者か。だが、あの劇場を選ぶとは趣味がいいね」
「にゃ、にゃわしではありません!!」
ネアは一生懸命否定したが、ジルクは、まぁ言いたくない事もあるだろうと涼しい顔だ。
悲しみのあまりぐるると唸っていたネアは、そんな山猫商会の会長が口にした、お気に入りの劇場という一言にはっと息を飲む。
(……………師匠が戻ってくる前に何かがあったら、この人に相談すればいいのでは……………!)
幸いにもジルクは商人だ。
であれば、狩りの獲物でも卸しながらお金を貰う代わりにその種の作法について教授して貰えばいい。
なお、その際には、悪さをされないように、アルテアかウィリアムに同席して貰えばいいだろう。
ちらりとジルクの方を見て、にやりと微笑んだネアに、ジルクが不審そうにこちらを見る。
だがネアは何も言わずにつんと澄ましてみせ、にゃわなるものとは一切関係がございませんという顔をしてみせた。
どれだけ走っただろう。
「……………さて、やっとこっちの区画に入ったね。まずは湖に出る手段だけれど、船は避けようかな」
「ほわ、……………ぎゅうぎゅうしていますね」
不可思議なあわい風ウィームを抜けて辿り着いたのは、奇妙な街並みであった。
湖畔を囲むようにして連なるヴェルリア風の街並みには、ゆっくりと傾斜する土地に張り付くように色鮮やかな家々が並んでいる。
海沿いの街では違和感のないその家々の壁色の鮮やかさは、閑静な湖畔の街並みに置き換えられてしまうと、どこかけばけばしく落ち着かない。
シュタルトの美しい街並みを思い出してしまい、ネアは闇鍋のような不思議な雑多さに目を瞠った。
中には壮麗な貴族の館のようなものも混ざってはいるが、やはりウィームとガーウィンの境界でも感じたように、その他の家並みとの間に余白がなさ過ぎる。
オリーブの木に囲まれた広い荘園に建てられているような美しい建築が、ひどく息苦しそうに詰め込まれているのを見ると、ネアは胸がざわざわしてしまう。
周囲を見回したエーダリアも、鳶色の瞳を僅かに翳らせていた。
「道が随分と細いのだな……………」
「うん。こりゃ、敵襲がある場合を想定して用心しないといけなさそうだね。ヴェルリアの魔術師街を切り貼りしてあるせいか、あちこちの土地や国の雑多な魔術証跡が絡み合って、……………余分な魔術の動きを感知し難いなぁ……………」
エーダリアの言うように、湖沿いの街並みは随分と道幅が狭かった。
馬車が一台でも通れば、道幅いっぱいで歩行者は歩けなくなってしまうだろう。
ノアですら魔術の動きを感知し難いのであれば、魔術の道を歩くにせよ、ある程度の危険を覚悟しなければいけなさそうだ。
「この道は、魔術道具の店が多いみたいだね。俺が知るヴェルリアの面影もあるが、まるで別の街だ」
「……………ジルクさんは、こちらには足を踏み入れていないのですか?」
「…………俺は、君達よりは遅い入りだった。真夜中にガーウィン側から入ったから、敢えてこちらの区画は避けていたんだ。あわいの特性を掴む迄は、あまり踏み込みたい場所じゃないね」
「……………レイ、僕の手を絶対に離さないようにね」
「……………はい。ここで離れたら、悪い奴らに出会うよりも前に、後ろから来た馬車に轢かれそうで怖いです……………」
「……………え、この道で馬車なんて通るの?……………わーお。轍があるってことは来るのかぁ……………」
抱えて歩くには道幅が狭いからか、ネアをそっと下ろしてくれながら、ノアは呆れたような表情で細い路地を観察している。
ウィーム側の歩道にはあった花壇がなくなり、石畳の色も青みがかった濃灰色から砂色に変化するのだが、どこか乾いた印象の向こう側との境界線を見ると遠景で見た切り貼りの風景よりも更に異様で、ノアが呆れているのも納得の違和感だ。
ざりりとヴェルリアの石畳を踏めば、そこからは湖畔に向けて道なりにゆっくりと下ってゆくことになる。
傾斜角のせいで下の方にいくにつれ見えなくなってしまい、視界の確保にも苦労しそうではないか。
暫し戸惑ってしまったものの、ネア達は覚悟を決めてヴェルリアの街並みに足を踏み入れた。
(……………あ、)
そこでまず感じたのは、空気に滲むような水の香りだった。
海沿いの街であればここにからりとした海風も吹くのだが、すり鉢状に下がる立地の湖を囲む土地なので、風の通り抜けは悪いのだろう。
街の造りが変わるというよりも、まるで違う国に来たようでくらりとする。
「……………そして、とても賑やかな感じがするのに、人の姿がありませんね」
少し歩くと、ネアは、この区画の強烈な違和感の正体に気付いた。
「…………これは、誰かの非友好的な魔術に入り込んだかもしれないね。僕の展開している守護をすり抜けるってことは、やっぱり、参加者の魔術には直接触れられないのか…………」
低く呟いたノアが、繋いだ手にぎゅっと力を込める。
(空気が重い……………乾いていて、凄く動き辛い………………)
気付いてしまえば、それは息苦しい程の異質さだった。
ざわざわとした人波の喧噪がどこかで鳴っているのに、すれ違う人影は一つもない。
それどころか、ふっと意識を研ぎ澄ませば、辺りはどんな音も聞こえない耳が痛いくらいの静寂に包まれていた。
少しだけ歩くと、ノアはぴたりと足を止める。
「……………リア、レイ、これは砂の排他魔術だ。おまけに、相手があの魔術師なのか、夏夜の宴の作法上、完全に僕の手が及ばないみたいだ。幾つか試してみたけれど、ここまで何も出来ないとは思わなかったな…………」
(え、……………)
その衝撃的な報告に、ネアはぞっとした。
ノアが手を出せないとなると、それはかなり危うい事ではないか。
エーダリアは有能な魔術師だが、その魔術が攻撃に向いていない事はネアでも知っている。
「分かった。では、ここからは私が前に出よう。…………展開されているのは、砂の魔術のようだな。何か武器になるものがあれば良かったのだが、可能な限り魔術で退けるようにする。ネイ、手を貸してくれるか?」
「うん。直接的な排除が出来ないだけで、補助は出来るからね。リアを主力にしての対応に切り替えよう」
「つまり、ここで漸くジルクさんの活躍の場面が来たのですね?」
「……………ま、捕獲魔術に踊らされるのは不本意だが、山猫商会として、契約の不履行は看過出来ない。相手があの王子であれば、手を打とうか」
抜け目なく、王子が相手ならば手を貸すと言ってのけたジルクだったが、道の先にゆらりと立ち上がったものを見た瞬間、うっと低い呻き声を上げて鼻を押さえた。
細い道の遠くに揺れるのは、砂陽炎のような不思議な影だ。
輪郭を曖昧にしたぼんやりした人影が、幾つも幾つも重なっているように見える。
それはまるで、この細い路地の向こうに軍隊が押し寄せてきているような。
ざっ、ざっと、揃えられた足並みが靴音を立て、けれどもどこか不揃いで歪な音が背筋を冷たくする。
「…………っぷ。悪いがあれは俺には無理だ。扱う魔術との相性が飛び切り悪い。寧ろ、不利だと言ってもいい」
「なぬ…………役立たずめです」
「そう言わないで欲しいな。山猫は、終焉の魔物とは因縁があってね。終焉の障りに触れるものだけは手を出せないんだ」
「……………砂陽炎の奴隷達だ。体の一部を切り落とすだけでは、すぐに再生してしまうと聞く。アスファ王子は、カルウィの禁術まで躊躇いもなく使ってくるのか……………」
砂陽炎の奴隷は、流砂や砂嵐で死んだ者達が死者の国に迎え入れられる前に隷属させてしまう魔術であるらしく、カルウィの方面では珍しいものではないが、終焉の取り決めに反する禁術である為、奴隷達は働かされながら終焉の障りに触れて壊れてゆき、世界規模で規制の対象魔術になっていた。
だからこそ、術者はその魔術を秘匿する事が多い。
しかし今回、アスファ王子は最初からその禁術を使ってきたのだ。
「ふぅん、確かに優秀な王子みたいだね。禁術の使いどころは、どの魔術師にとっても難しい問題だ。誰だって苦労して会得した禁術を奪われたくはないからね……………」
そう呟いたノアの隣で、エーダリアは、羽織っているケープの内側から、小さな小瓶を取り出した。
水晶や泉結晶にしては銀色がかったその小瓶の中には、きらきらと光る水のようなものが入っている。
ここには、こんなに味方がいる筈なのにと、その張り詰めた表情をネアは痛ましく思った。
「こちらも、禁術を切るしかなさそうだな。アスファ王子の魔術の一部だからこそ、ネイ…………の魔術では攻撃には至らないだろう」
「……………ネイに手伝って貰って、防ぐだけでは、難しいものなのですか?」
「この細い路地で、軍隊規模の奴隷達を扱える相手なのだ。アスファ王子が最初から禁術を使い仕掛けてきた以上は、排除してゆかねば、どこかで追い詰められてしまうのは間違いない」
そう教えてくれたエーダリアの表情は、見たことのない程の厳しさであった。
その手にある小瓶は、形状を考えれば、一度使えば失われてしまうものなのだろう。
「…………リア様、剣と箒とどちらがいいですか?」
「……………レイ?」
「箒は少し勿体ないので、やはり剣でしょうか。それとも、きりんボールを投げ込み、一網打尽にしますか?」
ネアの問いかけに、目を丸くしたエーダリアは、ふぅっと大きな息を吐き淡く微笑んだ。
「……………不思議なものだな。いつの間にか、私の周りにはとんでもないものが集まっていたらしい」
「剣さんはとてもお利口なので、リア様が使う事も出来ますからね。ただこの場合、砂陽炎のようなものを、形のないものとするのか、あるものとするのかという謎が残るのですが……………」
「わーお。それがあったね!しかも道具だからこそ、リアにも使えるときた」
ネアは、一度ノアのコートの内側に隠して貰うと、いつかの割れ嵐の後の森で拾った、風の系譜の魔術を宿す剣をじゃじゃんと金庫から取り出した。
相変わらずネアの手には鉛筆のような軽さだが、そのまま持たせると、魔物ですら少し重いと感じるようなので、まずは剣に向かって使用者の交代を申請しておく。
「剣さん、今からこちらの、不安定な状況により偽名でお呼びしなければなリア様に預けますので、力を貸してあげて下さいね。通りの奥からこちらに向かって来ている、悪い砂陽炎の奴隷達めをずばんと滅ぼす予定なのです」
ネアがそう言えば、手にした剣は内側から緑色の炎が揺らめくように鈍く光った。
了承の証でもあるその輝きに微笑み、ネアは立派な剣をエーダリアに差し出す。
エーダリアは、少しだけ躊躇ってから両手で剣を受け取った。
「軽い、な………………」
手が触れた瞬間、鳶色の瞳が見開かれ銀色の虹彩模様がくっきりと浮かび上がる様は、魔術の叡智と神秘に触れるようで、ネアの胸を熱くする。
「ふふ。とてもお利口で素敵な剣さんでしょう?」
「このようなものを、手にする機会があるとは思わなかった……………。文献の中に記録が残るばかりの、伝説の領域の品物だ」
万感の思いを込めてそう呟いたエーダリアに対し、ジルクがさっとこちらを向いたので、ネアは、きっぱりと売り物ではありませんと言わねばならなかった。
(………わ、ウィリアムさんとはまた違う雰囲気だけれど、エーダリア様もこの美しい剣がよく似合うのだわ……………)
以前に使ったことのあるディノも素敵だったが、やはり剣と言えばウィリアムのイメージである。
しかし、いざエーダリアが剣を手にする姿を見ると、それこそ物語の中に出てくる王子様のような凛々しさで、ネアは思わず見惚れてしまった。
ふっと落ちた沈黙から、低く伸びやかな詠唱が生まれる。
こうして、エーダリアが儀式以外の場面で魔術を使うのを見るのは稀なので、ネアは、興奮に拳を握り締めて美しい魔術詠唱に耳を澄ました。
「……………其は、銀盤の祝福の煌めき。馥郁たる夜に歌い、絶望たる黎明に歪むもの」
いつ聞いても、この世界の魔術詠唱は美しかった。
ネアは、その不思議で繊細な音階と、組み立てられてゆく魔術の力強さにうっとりとし、エーダリアが両手で掲げた剣の切っ先に、ぼうっと青白い炎のようなものが灯ると、おおっと目を丸くする。
ふわりとスカートを揺らすのは、温度のない魔術の風で、どこか、あの美しい本物のウィームの豊かな森と雪の香りがしたような気がした。
「ああ、いいね……………。葬送の魔術を重ねて、そのまま鎮魂の儀式舞いにするのかな。あの獣医の魔術はもう少し柔らかいけれど、剣を軸に魔術を組み立てているから、鋭さの方が際立っている。僕が好きな系統の魔術だ。………安心してそれを振るっていいよ。周囲の魔術の調整と、魔術補填、角度の調整は僕がしよう」
「ああ。……………お前がいてくれるから、安心してこれだけのものを使える」
そうして、エーダリアは力強く優美な仕草で、その剣を振るった。




