67. ブーツが活躍します(本編)
ザハの一室で始まった夏夜の宴対策会議には、人間からはネアとエーダリア、そして塩の魔物であるノアが参加した。
目の前のテーブルにはザハの美味しそうな食事が並び、ネアは美味しい鴨ローストをもぎゅもぎゅしながら、きりりと前を向く。
「まずは、参加者だよね。………街を歩きながら周囲を探ったけれど、少し気になるのがカルウィの魔術証跡だね。砂の魔術は流石に目につくから、魔術隔離をずっと敷いてたんだけど…………」
「…………私には全く感知出来なかった。ノアベルトがいてくれなければ、危うかったかもしれないな…………」
「…………むぐぐ、カルウィの魔術師めは、出会い次第打ち滅ぼします…………」
「わーお、僕の妹が過激だぞ…………」
ネアは、カルウィと聞けばと荒ぶったが、エーダリアの知るニケ王子の魔術証跡とは違うようなので、あながち過剰防衛とも言えなくなってきた。
カルウィの国民性は、邪魔者は排除せよという苛烈なものなのだ。
「他の魔術師はまだ未知数だけど、敵役は山猫商会の可能性が高いかな」
「……………あまり良い情報ではないかもですが、私の下りた方のあわいには、正規のアルテアさんがいたようです。記憶はなさそうでしたので事故でしょうか……………」
「…………え、アルテアが敵役だと堪らなく厄介なんだけど…………」
実はネアは、それを警戒してアルテアのカードにもメッセージを送ったのだが、そこには、ネア達があわいに下りる前の、くれぐれも事故るなよという一文が揺れていたばかりで、ネアが送ったメッセージに返事はまだない。
このあわいの中にまだアルテアが残っているとして、その場合はどのような役どころなのだろうか。
そう考えると、不安になってしまい、ネアは慌ててまた美味しい鴨を頬張った。
「………山猫商会は、魔術師狩りをするからな。そちらも警戒を怠らぬようにしなければだな…………。一人、会った事のある者は感じの良い男だったのだが、その者が来るとは限らないだろうしな……」
ネアは、エーダリアが山猫商会の者を知っている事に驚いたが、ウィーム内では一定の規約を守るような取り決めが、ウィームが国だった時代からあるらしい。
一度だけ、その引き継ぎで会った事があるのだそうだ。
「魔術師さんを狙うということは、前にお話に聞いていた、砂漠に現れる砂猫商会さんと似ていますね。猫さんはそのような嗜好があるのでしょうか?」
「ありゃ、聞いてなかったのかい?砂猫商会が親で、山猫商会はそこから分岐した子みたいなものなんだ。砂猫商会の代わりに、砂漠以外の土地で仕入れをしている商会だよ」
「なぬ。…………だから魔術師さんを狙うのですね」
砂猫商会は、ウィリアムからも注意を促された事があるだけでなく、ゼノーシュから実際に遭遇した際の話も聞いている。
その二つの商会の関係を知らず、ネアは、山猫商会というものも魔術師を狙うのだなと思っていたのだ。
「因みに、海には海猫商会があるからね」
「………海猫ということは、鳥さんですか?」
「ネア?海猫だから、人魚の系譜だろう」
「解せぬ…………」
ここでネアは、付け合せのジャガイモのチーズミルフィーユと、胡瓜とフェンネルのマリネが失われた事に気付き、悲しく眉を下げた。
美味しい食事とは、かくも儚いものなのである。
「…………こちらの物語としては、市井育ちの主人公が身分を隠した王子様に出会い、なぜそうなったという謎の御都合主義で、失われた王家の王位継承者に選ばれ、王家の者にしか開けられない封印の魔術を解いて財宝を手に入れるのですよね…………」
食事が少し落ち着いてネアが物語の粗筋に触れれば、ノアとエーダリアは少しだけ遠い目をした。
王家というものの在り方を知る者からすれば、清く正しい心根と王子の心を動かした美少女であるというだけで、主人公が伝説の王冠に選ばれ王位を得る謎展開はとてもついてゆけないのだろう。
(ヴェルリアの冒険物語は恋愛で時間を解決はしないし、ウィームは、人外者が沢山いて魔術が潤沢なだけ、物語本の質が高いからな……………)
ダリルから、品行方正な登場人物の綺麗事並びが気分が悪くなると言われたガーウィンの物語本は読んだ事はないが、ヴェルリアとウィームで出版される物語本は、設定に破綻がない良質な作品が多い。
今回のあわいに使われた本は、物語としては少々残念な部類のものなのだ。
「………まぁ、その物語に放り込まれたと思うとうんざりするけれどさ、魔術書としてはかなりの技量だから、他に仕掛けがないか注意はしておこう。…………あの人間が自分の欲しい役割を物語の前提に押し固めたからこそ、ネアとシルはあわいに入る必要があった訳だからね」
「ああ。………本編の物語に対し、その魔術理論はかなり精密だった。私も思いつかないような手法だ」
(多くの場合、物語の序章で語られた過去の出来事は、疑う事なくそのようなものなのだと読み続けられてしまう…………)
なぜならば、読者はだからこそ始まる物語なのだと当然のように考えるからで、その前提を受け入れなければそもそも本編が成り立たないのだ。
そうして記された序章を確認と認識の魔術で結び続ける手法は、薔薇の祝祭や夏至祭で、花びらを地面に撒き踏みしめるのと同じ効果がある。
物語本編は体裁を整えるのに必要だっただけで、その内側に敷かれた作家の魔術を繰り返し踏み込ませる為の仕掛けなのだろう。
「…………つまり、主人公は女の方なのでしょうか?」
「いや、そうとも限らない筈だ。私が初回に呼ばれた時の物語も主人公は女性だったが、参加者は男性だけだったと聞いている」
「ふむ。優勝者もアレクシスさんだったようですしね…………」
「……………ああ。アレクシスだったようだな。あの終了の早さも納得だ」
そう苦笑したエーダリアに対し、ネアはたった今確認した事を頭の中で再編し、ごくりと息を飲んだ。
「つ、つまり、……………主人公になってしまう方は、男性だとしても王子様と恋に落ちるのですね?」
「…………わーお。絶対に御免だね」
「…………そうなってしまうのだろうか」
参加者であるエーダリアは顔色も悪くおろおろしていたが、幸いにもここにいると言う事は、その主役の配役は免れた可能性が高いらしい。
何しろ主役の少女は、物語の開始と同時に王子に出会う筈なのである。
「今回の物語は、王冠を得て財宝を手に入れるまでの物語な訳だから、その両方を手に入れたら終わりだよ。本当なら優勝は目指さなくてもいいんだけど、二度目の参加があると判明したからには、可能であれば、エーダリアの参加はこれで最後にしておきたいよね…………」
「カルウィの魔術師の階位次第なのだろうな………。ガルディアナ………ニケ王子もそうだが、カルウィでは王族にも優秀な魔術師が多いのだ」
「王族の方だと、厄介な相手になるのですか?」
「……………ああ。呪いや障りに触れるものを、敢えて守護として纏う者も多い。あちらの呪いはかなり手強いので触れない方がいいだろう」
「きりんさんでも…………?」
「あ、ああ。…………危害を加えた者に対しての策だからな。呪い避けの準備をした上で、即死的な効果を与えなければならないが、それには時間がかかる」
そう言ったエーダリアが、窓の向こうを見た。
夜の光を生かす事を好むウィームの夜とは違い、湖畔沿いに広がるヴェルリア風の街並みは、煌々と魔術の火を灯している。
ガーウィンについては、教会のような内部の灯りを漏らさない石造りの建物が多いので、夜はかなり暗いらしい。
こうしている今も誰かが王冠を手に入れてしまっている可能性も高いのだが、ネア達は安全に帰る事を最優先とし、決して無理はしない方針を定めた。
「それと、僕が一緒にいる間は心配ないけれど、ネアとエーダリアは念の為に偽名を考えておこうか」
「む、ノアとはぐれてしまう可能性もあるのですか?」
「うーん、それは出来れば避けたいんだけど、商会やアルテアに、ネア達が認識されると困るからさ」
「…………ネア、アルテアからの返事はないのか?」
「…………ええ。もう一度狩らなければいけなくなりますので、記憶を無くしていないといいのですが…………」
「わーお、狩るんだ………」
「返事が来ないというのは、いささか不安だな…………」
「………ともかく、目眩しをする為に僕が離れる事はあるかもしれないね。その場合、身に危険を感じるような事があったら絶対に僕を呼び戻すこと」
ノアはそう言ったし、ネアも勿論そのつもりであった。
然し乍ら、事件や事故が起こらないと回らない冒険物語なのだから、起こるべくして事故は起こるのである。
だからこれは、決してアルテアによく言われるように、事故率などではないと断言しよう。
「…………ぎゅわ」
ネアは、翌日早々によりにもよって一人はぐれた。
しかしそこには、深い深い事情があったのだ。
あの後、ネア達はザハで優雅な夜を過ごした。
エーダリアもそうだが、ネアも雪陶器の浴槽を堪能させていただき、ディノとはたっぷりとカードで話をしてやり、寝心地のいい寝台ではすやすやと眠れた。
中央に堤防を設けての就寝だったものの、ノアがいる事でネアはとても安心していたし、いっそ旅行かなという穏やかな夜だったと思う。
しかし、翌朝の早朝、ザハの前の通りに山猫商会の代表らしき人物が現れたのだ。
ノアが窓から見ていてくれたところ、幸いにも標的はネア達ではなかったが、魔術師狩りをしていたというのだからひやりとする。
そちらの騒ぎが落ち着いた後、ノアは少しだけ周囲の様子を見に行ってくると部屋を出て行き、ネアとエーダリアがお留守番になった。
ネアは、エーダリアも一緒であるし、ノアの守護のある室内なので特に怖いと思う事もなく、顔を洗おうとしていた。
そして、浴室の扉を開けたネアが、ふとどこからか聞こえてきた美しい歌声に顔を上げると、そこはもう部屋の中ではなかったのだ。
(……………私は顔を洗おうとしただけなので、断じて事故ではない………)
そう自分に言い聞かせながらネアが佇んでいるのは、ザハ近くの有名なレストランの、貴賓室だと思われる個室の中である。
幸運なことに着替えは済んでいたが、洗顔はまだであるし、何よりも当然ネアがいなくなったら、エーダリアが心配するに違いない。
そろりと周囲を見回し、ネアは、ここが目星をつけたレストランかどうかを再確認する。
この部屋は使った事はないが、別の個室を借りた事があるので、青い布ナプキンに刺繍された店名なども含め、とても既視感がある。
やはり、ザハの通りにある、チーズを使った料理と、カフェタイムの杏のリキュールの入ったクリーム乗せ珈琲が有名なお店で間違いない。
(…………窓がザハの側を向いている事からして、一番大きな貴賓室だろうか………)
まだ夏夜の宴のあわいを出たような気はしないし、そこまで遠くに飛ばされてはいないようだが、ノアが守護をかけていた部屋から攫われ、仲間から引き離された事にぞくりとする。
「……………誰だこの女は。あわいに迷い込んだだけの、はずれ役ではないか」
突然呼びつけられ呆然と立ち尽くすネアを一瞥し、冷ややかにそう言ったのは、一人の男性であった。
部屋の中には五人の、人間や、人間ではなさそうな者達が集まっており、その中でもこの男性が場の中心的な人物のようだ。
「ははは、俺にもその選別は出来ないと予め話しておいただろう?この子で我慢して、仲間に加えるかい?」
そう答えたのは、白いシャツにジレ姿だが、色鮮やかな腰帯が砂漠の国の装いを思わせる美しい男性であった。
先に発言した、黒髪に褐色の肌の男性も美しい男性だが、それは人間の領域のものである。
こちらの、ふくよかな金色の髪にはっとする程に鮮やかな燐光の緑の瞳を持つ男性は、明らかに人間の美貌ではない。
他には、黒髪の男性の隣に腰までの銀髪のゼノーシュくらいの年頃の少女が座っており、壁際には屈強そうな体格のいい男性と、細身だがどろりと濁ったような目をした青年が立っている。
周囲への視線の配り方を見ていると、壁際の二人は、護衛なのか取り巻きなのか、黒髪の男性の連れであるらしい。
「…………醜い小娘だな。おまけに、放逐しただけで簡単に野垂れ死にそうな可動域か。…………おい、いつまでここにいるつもりだ。首を落とされたくなければ、さっさと立ち去れ」
(…………そして、何という理不尽な仕打ちなのだ……………)
会話からすると、呼び出したのはそちらのようではないかとぎりぎりと眉を寄せたネアの事を、黒髪の男性は、出で行けと吐き捨てるように言うばかりではなく害虫でも見るような嫌悪の目で見ている。
ネアはとてもむしゃくしゃしたが、ここで抗ってみせて下手に身を危うくしても無駄な労力を割くだけだ。
何か固くて重たいものをその顔面に投げつけてやりたかったが、ぐっと堪えて退出しようと扉に手をかける。
しかし、ドアノブががちゃんと音を立てるだけで、扉は少しも動かなかった。
耳障りな笑い声が背後から聞こえたので、意地悪をされているのかもしれない。
こうなるともう、ネアはゆっくり振り返るしかなかった。
「…………そちらのご都合で呼び出したのですから、元の場所に返していただけますか?せめて、扉は開けていただきたい」
「無礼な女だ。我らが王の御前で、よくも汚い声を発せたものだ」
そう呟いたのは体格のいい男性で、隣の細身の青年がそれに答える。
「……………チャグト、この女は教育もろくに受けていない野蛮な土地の民なのだろう。だが、そのような下賎な民が王と同じ髪色で息をしている事が悍ましい。やはり首を落とそう」
これだけ理不尽だと、怖いと感じるよりも先に呆れてしまうのだろうか。
ネアがポケットの中のきりん札を握り締めたのは、当然とも言えよう。
「野蛮にも、部屋にいた乙女を攫ったのはあなた方ではありませんか。立ち去れと言われれば喜んで立ち去りましょう。この扉を開けて下さい」
ネアがそう言えば、なぜか銀髪の少女がぴゃっと飛び上がり、怯えるように黒髪の男性に体を寄せる。
ネアは胡乱げな顔でそちらを見てしまったが、それが癇に障ったものか、こちらを見ていた黒髪の男性が忌々しげに顔を歪めた。
「…………チャグト、その女を黙らせろ。不愉快だ」
「申し訳ありません。すぐに喉を潰し首を落としましょう」
ぎゃりんと音を立てて、チャグトと呼ばれた大男が抜いたのは鈍く光を放つ半月刀ではないか。
何となくどのあたりの地域の出身者達なのか察してきたネアは、ますますげんなりしてしまう。
しかし、ここで風向きが変わった。
「使わないのなら、俺が貰おうかな」
「……………ジルク?この女の可動域くらい、下賎な商人とて見ただけで測れるだろう。その上で欲するのなら、趣味が悪いと言わざるを得ないな」
「はは、そうかもしれないけれど、珍しいものも品揃えの内。山猫商会は悪食なものでね」
(……………っ、山猫商会だ!)
ここでネアは、この店を出てもザハの部屋に逃げ込むという選択肢を奪われてしまった。
それどころか、魔術師であるエーダリアがいた部屋から呼び落とされた際に、エーダリアの存在に気付かれてはいまいかと心配で堪らなくなる。
「……………好きにしろ。その代わり、支払いはせんぞ。お前が連れ帰る獲物の為に、俺が支払う道理はない」
「……………ああ、君は王子様だったねぇ」
ふっと、部屋の空気が軋んだような気がした。
ネアは燐光を宿したような緑の瞳の人外者が、はっとする程に冷ややかに黒髪の男性を見つめたように思えたのだが、それはほんの一瞬のことだったらしい。
瞬きをするともう、山猫商会の者らしい金髪の男性は、やれやれと柔らかな苦笑を浮かべていた。
「……………まぁ、構わないよ。では、この子は俺が貰って行こう。長居しても煩わしいだろうから、失礼させていただくよ」
「……………っ?!は、離して下さい!!」
「はいはい。荷物は大人しくしていてくれるかな」
いつの間にか近付かれていたらしく、ひょいと小脇に抱えられたネアは、怒り狂ってじたばたした後、ポケットから取り出したダリルの術符を握り締めたが、ぐるると唸ってそれを投げつけたいという欲求を堪えた。
恐らく、黒髪の男性はカルウィの方面の人間だ。
もし、カルウィの王族だった場合、余計な呪いを背負うことになる。
(今度会った時は、きりん箱で滅ぼしてくれる………………)
即死効果のない術符では戦力不足だが、ここでは金庫の存在を知られたくはない。
次回の反撃を誓い無念さを噛み締めたネアは、扉を簡単に開けた銀髪の男性に抱えられたまま、その部屋を出た。
「……………さてと」
立ち止まる動きに合わせ、がくんと体が揺れる。
不思議と腕を回された腹部は痛くないが、じたばたしても拘束が緩む気配はない。
周囲の様子を見たくても、この体勢からだとジルクと呼ばれた男性の靴先と、床の模様くらいしか満足に観察出来なかった。
(……………この山猫商会の人に呼び落とされたのだと仮定して、部屋にいたエーダリア様にも危険が迫っているのなら、ノアを呼ぶのはぎりぎりまで我慢しなきゃ。エーダリア様には、私のように春告げの舞踏会の祝福はないのだから………)
召喚には二種類の方法がある。
条件に合致する者を世界のどこからか呼び落とす方法と、指定した人物を呼び落とす方法だ。
やり取りを聞けば前者の召喚だとは思うものの、後者だった場合は、エーダリアが危ない。
なのでネアは、ノアをこちらに呼んでしまわないよう、暫くは一人で我慢する事にした。
このままどこに連れて行かれるのだろうと考えていたネアは、男性が入ったのが隣の個室であることに驚いた。
少なくともこの店は出ると考えていたのだが、それどころか壁一枚を隔てただけの場所ではないか。
おまけに、部屋に入るとネアをあっさり解放するのだ。
慌てて距離を保ち扉の方に避難したネアを、鮮やかな緑色の瞳がおかしそうに見ている。
「はは、籠に入れたココグリスみたいだね。…………ああ、そんなに警戒しなくても悪さはしないよ。実はね、ずっと君に会ってみたかったんだ」
「………………私に、でしょうか?」
こちらを見る男性の美貌は清廉なものではなく、山猫商会の者だと聞くまでもなく、どこかしたたかな鋭利さがある。
口元を歪めて薄く微笑む姿には、男性としての自身の魅力を充分に理解している淫靡さもあり、頭のキレる放蕩者といった雰囲気だ。
「そう。あ、音の壁があるから隣の部屋は気にしなくていい。それと、この部屋からは出られないから無駄な努力もしない方がいいかな。……………ここで、俺とゆっくり話をしようか。アクスのお気に入りのウィームの歌乞い君」
先に座り、にんまりとそう笑った男に、ネアは、今更自分の肩書きを知っているのかと驚くのはやめておいた。
ネアの事を知った上で会いたかったと言うのならば、当然、それくらいのことは承知の上だろう。
(…………アクス関連のようだとしても、この人が、私に興味を持った理由は何なのだろう……………?)
「…………確かにアクス商会に品物は卸していますが、私は特別に贔屓をされている訳ではありませんよ?」
「それはどうかな。最近のウィーム界隈では、籠絡される筈のない魔物が籠絡されたと有名だそうだね。俺はあまりウィームには行かないから、すっかり挨拶が遅れてしまった」
(……………ディノのこと、だろうか?)
含みを持たせた会話に首を傾げ、ネアはずばっと聞いてしまうことにする。
何しろ、急いで戻らねばエーダリアが心配だし、ザハの朝食を逃すつもりはないのだ。
「私の、契約の魔物の事ですか?」
「まさか。君の魔物は関係ないよ。それとも、君は実はアイザックの歌乞いだったりするのかな?」
「いいえ。アイザックさんとは、お店で会うばかりですし、そもそも、あの方は私の持ち込む獲物に興味があったとしても、私自身に対してはかなり冷淡だと認識していますが…………。どなたかと間違えられているのでは?」
ネアがそう言えば、ジルクは小さく笑った。
「まぁ、そんな理由を告げられれば、賢い人間ならそう答えるよね」
「…………百歩譲ってアイザックさんが私を気に入っているとしても、やはり、品物を卸すことと、そのお金で品物を買うばかりの関係です。そこに興味を持たれたのであれば、あなたは、私の持ち込む獲物にこそ興味があるのですか?」
「……………ふぅん。あくまでそちらで通すつもりなのかな。因みに、どんな品物を持ち込むのかい?もしこちらでも目を引くようなものがあれば、買い取ってあげるよ。例えば、その腕輪の金庫に入っているのではないかな?」
(…………観察力のある人だわ。油断をしていると、あっという間に主導権を取られてしまう………)
ジルクの指摘に、ネアはぎくりとした。
昨晩の内に、ノアから見えないように魔術を施して貰った首飾りの金庫とは違い、狩りの獲物用の腕輪はあえて表に出してある。
とは言えそれなら手放してもいいという訳ではないので、今日は長袖にした服の袖口に隠していたが、ジルクは目敏く見付けていたようだ。
「…………では、ここに出しても良いでしょうか?」
「そうだね。…………ん?大きいのかい?」
「……………例えば、この黒い鳥さんは、そろそろ保存魔術をかけていても心配なので、アクス商会に持ち込まなければと思っていました」
「………………と、時縫いの黒鳥?!買おう!幾らでも払うぞ!!」
「凄い食いついてきます…………」
なぜかジルクがとても興奮してしまったので、ネアはここから卸売りを始める事になってしまった。
ジルクは商人らしくかなりの大金を常に持ち歩いているらしく、魔術承認のある手帳型の金庫からウィームの金貨で気前良く払ってくれる。
結果として、獲物の黒い鳥とカワセミを三匹、どこで狩ったのか忘れてしまったものの金庫の隅っこに入っていた謎の松ぼっくり状の木の実の魔物を売る事が出来てしまったが、果たしてこれで解放してくれるのだろうか。
最後に買い上げた松ぼっくり状のものを手袋をつけた両手で持ち上げ、ジルクはどこかうっとりとした目で見つめている。
その様子を見ると、少し様子がおかしいかもしれないが商人らしい表情で、交渉さえ上手くいけば解放してくれそうな気がした。
「…………はぁ。いいね、これ。男爵位の森籠りの魔物を君の可動域でどうやって狩ったのかは謎だけれど、これは売らずに俺の屋敷に飾りたいね」
「……………松ぼっくりではなく、魔物さんだったのですね」
「……………ん?どうやって狩ったのかすら、覚えてないのかな?」
「狩ったというよりは、どこかでむんずと掴んで採取した記憶ですが、確かに拾った直後は少し暴れたので、ぶんぶん振ったところ二度と動かなくなりました」
ネアが採取の状況を説明すれば、ジルクは声を上げて笑った。
「……………いやはや、悍ましいな。それだけで爵位持ちの魔物を殺せるのか。アイザックが執着するだけはある」
「会話が振り出しに戻ったようです…………。そして、今回のようにお買い上げいただけるのなら、今後のお付き合いも考えますので、ひとまず解放して貰えませんか?」
ネアは、ジルクが松ぼっくりに夢中になっている内にとそう付け加えてみた。
しかし、ふっと鮮やかな色の瞳を眇めてこちらを見たジルクの表情は、ぞくりとする程に人外者らしい残忍さを湛えている。
「残念だが、物語のあわいの理において、この物語の権限を使い召喚された君は、あの愚かな王子が譲り渡した俺のものだ。…………例えば、」
「……………っ、」
視界からジルクが消えたと思った直後、ネアの喉元にひやりとした手が当てられる。
吐息が触れそうな距離で覗き込む瞳は、微笑むと瞳孔が縦長になり、まるで猫の瞳のようだ。
部屋に大柄な男性がいたのでそこまでではないように感じていたが、ジルクの体格は、ウィリアムや竜種のそれに近い。
掴み所がない軽薄な物言いから、もう少し細身の男性だと思っていたネアは、ぐっと押し付けられた体の硬さに、上手く息を吸い込めなくなる。
「このまま、俺が君を思うがままにしても、手足を引き千切って獣の餌にしても、君が俺を屈服でもさせない限りはそれを拒絶する事は出来ない」
甘い声でそう囁き、ジルクは、嬲るような艶やかさで微笑みを浮かべた。
こうして微笑むとその美貌が際立ち、先程の部屋で見ていたよりもずっと階位の高い人外者なのだと、思い知らされた。
しかし、この体の寄せ方はたいへんいかがわしいので、ネアは堪らず辛うじて動く足をじたばたさせる。
膝を割り込ませて体を持ち上げられてしまったからか、足は自由に動かせたのだ。
「へぇ、この精神圧でも、まだ動けるんだ。俺はこれでも悪食でね。良いお客や良い獲物には食指をそそられる。このままここでというのも………………っ、」
何度目かの挑戦で、ネアは淑女にはあるまじき体勢にならなくてはいけなかったものの、靴裏でジルクの腰を蹴り飛ばす事に成功した。
声を詰まらせてどうっと床に崩れ落ちたジルクに、やっと解放されて呼吸が楽になり、げふげふと咳き込みながらも、ネアはこの獲物が逃げないように両足で飛び乗って踏みつけておく。
がすっと踏みつけるとぎゃっと声がしたが、まだ死んではいないようだ。
部屋が静かになると、ネアはふうっと息を吐いてスカートの裾を払った。
「……………山猫商会の方は、滅ぼしてはいけないとは言われていませんでしたが、先程話していた魔術の繋ぎが気になるので、取り敢えず持ち帰るべきでしょうか…………」
ぐぬぬっと首を傾げて考えたが、魔術師を狩る山猫商会にエーダリアの存在を知られたくはない。
ネアは仕方なく、腕輪の金庫から取り出した細めの縄でジルクを手早く縛り上げてしまうと、よいしょと金庫の中に押し込んでみる。
リズモやちびふわを入れた事もあるので、中に入れても窒息してしまう事はない筈だ。
さて、獲物も捕まえたし、歩いて帰れる距離なのでザハに帰ろうかなと思ったネアは、次の瞬間、部屋の中に飛び込んできた誰かに揉みくちゃにされた。
「みぎゃ?!」
「ネア!…………あー、もう!どうしてすぐに僕を呼ばないかな?!」
「……………む、ノアです!助けに来てくれたのですか?」
飛び込んで来たのがノアだと分かると、ネアは嬉しくなって義兄の魔物にしがみついた。
ぎゅっと抱き締めてもらい、ふぁっと安堵の息がこぼれる。
「そりゃ来るよね?!エーダリアがすぐに僕を呼んでくれたから良かったものの………」
「…………ノア、私の知らないもふもふがいます………。砂色のふわふわ尻尾が堪らなく愛くるしい、肩乗りちび狐さんが!!」
途中で、ネアの視線がそちらに固定されてしまった事に気付いたのだろう。
ノアは、エーダリアを一人にはしておけないものの、山猫商会の目を警戒して擬態させて一緒に来たのだと教えてくれる。
「つ、つまり、これはエーダリア様なのですね……………?」
「キュウ………」
「き、きゃわわです!!抱っこしてもいいですか?!」
「キュム?!」
「ネア!落ち着いて。後でならしてもいいから、取り敢えず安全なところに移動しよう。君をここに拉致した奴は、どこに行ったのかな?」
「……………む。縛り上げて金庫の中に入れてあります」
そう答えたネアに、ノアが綺麗な青紫色の瞳を丸くした。
肩の上のエーダリアな狐も同じ表情をしているのが、何だか面白い。
「………………え、金庫?」
「はい。実は、気になる魔術の繋ぎについて言及していたので、ここで滅ぼさずにノアに調べて貰おうと思いまして、…………ノア?」
ネアとしてみれば、まだ隣の部屋にまず間違いなくカルウィの魔術師に違いなく、その上で王子であるらしい人物がいるかもしれないと言うところまで伝えたかったのだが、ノアは呆然と立ち尽くしている。
その肩に乗った砂色のちび狐も、どことなく項垂れてしまっているようだ。
「…………そうだね。まずは部屋に帰ろうか」
少しだけしょんぼりしたノアにそう言われ、ネアはほっとして頷いたのであった。




