妖精の休息と尻尾の労り
「おや、困りましたね。…………このような時には、あなたと会話が出来ればと思うのですが、今は擬態を解けませんからね」
ヒルドがそう話しかけると、床に仰向けになり、涙目で暴れていた銀狐がこちらを見た。
諸事情から夏夜の宴に備えて銀狐姿になっているのだが、一向に呼び出されない事に焦れたらしい。
先程からこの体勢になり、ムギャワーとしか思えない声を上げて大騒ぎしていたのだ。
ヒルドを認識して尻尾はけばけばになったが、まだ暴れ足りないのか、先程までの勢いはないものの四肢をばたばたさせている。
その動きの中で体が傾いてしまい、ばたりと横倒しに倒れると虚ろな目で暫く固まっていた。
ヒルドが羽の庇護を与えた少女曰く、これは銀狐としての欲求と魔物としての感情がぶつかっている時に見られる、虚無の眼差しなのだそうだ。
「………やれやれ、どうして廊下でこうなってしまうものか。先日も、廊下で寝ていて、ネア様に尻尾の先を踏まれたばかりでしょうに」
そう呟き周囲を見回したヒルドは、まだ尻尾をけばだたせている銀狐を片手で持ち上げ、そのまま抱いていることにした。
廊下の真ん中で大騒ぎしているがどうしたら良いかと、途方に暮れた家事妖精がヒルドを呼びに来たのはほんの少し前の事だ。
ダリルも勿論だが、ヒルドは今朝から目が回るような忙しさであった。
何しろ、殆ど準備もなくウィームの領主が姿を消したのだ。
行き先は夏夜の宴の物語のあわいだと分かってはいるものの、可能性はないとも言えないと話されていたよりも早く、その姿は忽然と執務室から消えた。
たまたまその時に打ち合わせをしていたのが、前回にエーダリアが夏夜の宴に呼び落とされた時に対応したダリルであったことは、不幸中の幸いだろう。
有能な代理妖精は、エーダリアが姿を消してしまう事で起こる魔術的な不具合にすぐさま手を打ち、必要な各所への連絡を済ませてくれた。
(だが、本当に大変なのはこれからなのだ……………)
普段はエーダリアが魔術式の手入れをしているリーエンベルク周辺の警備の再確認を行い、あらためてそれを痛感した。
土地の魔術そのものに愛されたエーダリアの存在は、ウィームの防衛と管理に大きく関わっている。
ましてや今回は外出ではなく失踪という形に近い不在であるので、人々がどれだけ冷静であろうとしても、土地の魔術そのものが揺らぐのだ。
おまけに、今回は時期があまり良くなかった。
ウィーム領主不在のまま開催される事になりそうな疫病祭りの開催にあたり想定される様々な問題に頭を痛めていたヒルドが、こうして銀狐を引き取りに来たのは、これ幸いとダリルに会議室を追い出されたからだ。
深く溜め息を吐くと、銀狐が鼻先で腕をぐいぐいと押しているので、ヒルドは微笑んで首を降った。
「……………先程、ダリルにちくりと言われましてね。どうやら私は、あの方やネア様を案じる余裕もない事に、………苛立っていたのかもしれません」
こうして弱音を吐けるのは、銀狐の前くらいのものだった。
だからヒルドは、そのもどかしさを宥めすかし、また少しだけ、今後の対策について考える。
(土地の揺らぎがある時期に、疫病祭りを行うのは是非とも避けたかったが、…………こればかりは相応しい時期を逃す訳にはいかない……………)
領主不在の祝祭儀式となれば、領民達だけでなく騎士達の士気も下がるし、何しろ疫病祭りを主導する組織には、エーダリアの支持者達がとても多いのだ。
あからさまに落胆する役員達と丁寧に話し合い、エーダリアの不在の間に事故など起こさぬよう徹底はさせるものの、彼等が、鎮めの祭りよりも領主の身を案じて心ここ在らずになっている様子は、密かにヒルドを喜ばせてくれた。
だが、やるべき事はやらなければいけないのだ。
(とは言え、今回は引退していたハーツ氏が指揮を取ってくれるというのが救いだろうか………………)
ウィームではハツ爺さんと呼ばれているかの魔術師は、夏至祭の踊り狂いの精霊とのダンスが有名だが、鎮めの儀式魔術においては今でも並ぶ者のいない才を誇る御仁であるらしい。
また、白百合の魔物と懇意にしているようで、もしもの事があればかの魔物の力も借りようとも話してくれた。
白百合の魔物は、このリーエンベルクで生まれた星鳥のほこりを大切にしているので、そのような意味でも安心して頼れる存在なので、その申し出はとても心強い。
「それにしても、エーダリア様のいないリーエンベルクはこうも変わりますか……………」
銀狐を抱いたまま、騎士棟に向かう道中、ヒルドは思わずそう呟いていた。
腕の中の銀狐も、こくりと頷く。
廊下のシャンデリアからカーテンの織り柄まで、主人であるウィーム王家の血を引く者が不在にした途端、リーエンベルクの内部は一枚表層の色を剥いだように色褪せてしまったのだ。
それはさながら、水を奪われた花が萎れるようにも見えてしまい、そっと指先を滑らせたカーテンにも、いつものような糸と絵柄が織り上げる祝福の煌めきはない。
「……………ダリルから、動揺し過ぎだと言われました。私としては、エーダリア様が不在の間、あの方が戻った時に心を痛めるような事がないようにと注意をしたつもりだったのですが………………」
それでもどこかに募り溢れた苛立ちや焦りは、仕損じた時にヒルドだけの問題では済まなくなる。
だからこそダリルは、頭を冷やして来いとあの部屋からヒルドを追い出したのだろう。
「……………情けないですね」
魔物としての姿のノアベルトとも様々な話をするが、そんな塩の魔物曰く、ヒルドは友人が銀狐の姿をしている時の方が本音を口にするらしい。
(……………これまで自覚はしていなかったが、こういう事なのだろう…………)
ふかふかとした毛皮を撫で、前足で腕を叩いて涙目で同じ悲しみだと訴えてくる銀狐は、疲弊し強張った心を柔らかくした。
ムギムギと鳴きながら尻尾を振り回すので、ふさふさとした冬毛のままの尻尾が腕に当たるのだが、そんな仕草を見ているとふわりと息を吐ける。
そうして初めて、今朝からずっと短く浅い呼吸を続けていたのだと気付き、ダリルからも少し席を外すよう言われたのは尤もだと苦笑した。
「…………あなたがいなければ、私はとうに駄目になっていたでしょう。漸く家を取り戻したのに、時折こうして気を詰めてしまう」
この魔物に言われた言葉を思い出し自身の浅慮さを恥じた夜が、その後何度あっただろう。
ヒルドなどより余程長く生きているこの魔物は、隣を見ることの重要さと、緩めるべきところを緩める大切さをよく知っている。
「得るだけでは駄目なのだと、今はもう私にも分かります。これからも続く同じような安らかな日々の為に、この家と家族を守りながら、私もここに残らねばならないのだと………」
そう考え直したヒルドは、特殊な会に所属する友人や、仕入れた食材の整理でウィームに戻っていたアレクシスなど、助力を求められる者達には頭を下げて声をかけた。
そうして壁を重ね、頑強になるからこそ今のウィームは強い。
それを今更ながらに実感し、きちんと扱えるようになったのはこの友人のお陰だ。
こんな時には銀狐姿ではなく人の姿の友人と話をしたかったが、この姿もエーダリアの為であるので仕方あるまい。
そう考えて唇の端を持ち上げたヒルドが、片手でふかふかとした手触りの銀狐のお腹を撫でると、なぜか凛々しい顔をした銀狐が、そんなヒルドの手のひらにそっと尻尾を預けてくる。
どうやら、このふさふさとした尻尾を褒める者達も多いので、尻尾を預ける事で労っているつもりのようだが、こうされても困惑するばかりだ。
それでも、こうして寄り添える仲間がいる事は、胸に沁みた。
ただ、対策本部のある会議室にそのまま銀狐を持ち込んだところ、ダリルからはウォルターの集中力が切れると叱られる羽目になった。
すっかり心も銀狐になっている友人は、そんな宰相の息子からボールを投げて貰ってご機嫌のようだ。
本日の通常更新はお休み、短めの幕間のお話となります。




