失われた魔術と物語の本
「ネア。話があるのだが、構わないか?」
からりと晴れた日の事だった。
珍しくネアは、会食堂でエーダリアと二人きりになる。
直前にノアがディノを連れ出したので、これでも空気が読めると自負している人間は不穏な予感というものも感じてはいたところだ。
「はい。エーダリア様。…………あまり、良くないお話なのですね?」
そう尋ねたネアに、正面に座ったエーダリアの鳶色の瞳が僅かに揺れる。
ほんの少しだけ顰められた眉に、言い出せずに躊躇した短い時間に秘められたのが、エーダリアなりの優しさだったのだなとぼんやり思った。
「…………言葉を選んで話したいところだが、それでは、回りくどくなるだろう。ダリルが、あまり良くないものを見付けた。お前も知っている、作家の魔術というものが使われて書かれた物語本だ。大々的な流通は成されていないが、一冊の本から始まった捜索の結果、ウィームでは五冊確認されている」
「…………作家の、魔術」
そう呟く声に、ひたりと背中を冷たい汗が伝う。
それは勿論、忘れる筈もない悍ましい響きで、物語本の大好きなネアにとって、そんな響きを恐れなければならない事はたいへんな痛手であった。
「…………ええ。存じております。蝕の時に、物語のあわいでその魔術に触れました」
「…………ああ。その魔術の特性も知っているとは思うが、………」
「その魔術を成す土台になる、………私が知っているものは一冊の本でしたが………、その土台に、自らの血で記した物語の通りに、現実が書き換えられる魔術ですよね?」
冷静に話しているつもりでも、胃が沈むような怖さに体がふわふわとする。
血の巡りが悪くなって、指先や足先が冷え込んでくるような気がした。
(けれどもそれは、あの魔術師にしか使えなかったものなのではないだろうか……………)
まだ世界が不安定な頃に生まれた事で厄介な力を持っていたという、王座の魔物から受け継いだものだと聞いていた筈だ。
であればこれは、リンジンの手によるものなのか。
或いは、かの魔術師が残した悪意なのだろうか。
「回収された本から、その作家の魔術が検出された。お前から聞いていた古の魔術師のものよりは弱いものだと推察されるが、それでも、作家の魔術を宿しているのは間違いない。どこかで技術として受け継がせ固有魔術として残されたものか、或いは、…………………第二次顕現のようなものかもしれない」
「……………………一度生まれた魔術は、どのようにしてもまたどこかで目を覚ますというものですね?」
「ああ」
深い溜め息が落ち、ネアはさらりと揺れたエーダリアの銀髪を見ながら、ディノはいつ帰ってくるのだろうと考えていた。
ひとまず、リンジンのものという線はなくなったようで、胸の中から最初の恐怖を引き剥がす。
(まだ、要点は語られていない…………)
エーダリアは、回収されたという物語本から作家の魔術が確認された事しか話していないが、それでもこうして説明が成されているのは、それがネアにかかわる事だからなのだろう。
こくりと息を飲んでその続きを待つと、エーダリアは、まず、これが良いことなのか悪い事なのかは、これからの確認次第なのだと教えてくれた。
「……………その前提で伝えると、書かれているのは、創作の物語だ。だが、お前の事でもあるのだ」
「………………私のこと?」
「ああ。創作の物語として書かれているその内容が、偶然かそうではないものか、お前のこれまでの物語にとても近しい」
「……………一つの出来事がそのまま書かれているという感じなのでしょうか?」
「知っていて書かれた場合は、己の魔術を周知の上でお前を狙った攻撃の可能性がある。知らずして書かれた場合は、…………物語としてより劇的な効果を狙った配役なのだろう。とある、歌乞いと魔物の物語なのだ」
「…………もしかして、ノアがディノと話しているのは、ディノも無関係ではないからなのですか?」
その魔物は、ディノを示しているのだろうか。
エーダリアの言葉を聞いた途端、ネアはぐわんと体を揺さぶられたような気がした。
どんな怖いことであれ、この世界では、避けられず知らなければならない事も多いだろう。
だが、かつてウィリアムを失うかもしれなかった事件に現れた悍ましい魔術に、ネアの大切な魔物を触れさせるのは耐えられない。
(……………………作家の魔術は、使う者と同列の存在しか書き換えられない。リンジンでも、その魔術を向ける事が出来たのは人間だけだった。だからディノを直接変えてしまう事は出来ないのだとしても……………)
それでも、そんなものに大事な魔物を触れさせるのはとても嫌だ。
「…………分かりました。その作家の魔術を使う方を、滅ぼします」
「っ、…………、そうだな、お前であればそのような判断も出来るだろう。だが、書き手については既に動いている者達がいる。故意であれ、偶然であれ、……………不公平で残酷な事ではあるが、その魔術は野放しにしておけるものではないのだ」
「…………ええ。守るべきものをとても簡単に危険に晒すものです。私はとても強欲な人間ですので、…………その方の思いや権利などを考えもせず、怖いものなど滅ぼしてしまえと思うでしょう」
ネアのその言葉に、エーダリアは微かに微笑んだようだ。
(ああ、この人はけれども、そう思えない部分もあるのだわ……………)
エーダリアがネアの立場なら、それを望みはしなかっただろう。
けれども、野放しには出来ないと告げたエーダリアは、ウィームを守らねばならない領主であり、その物語がネアとディノに触れるのなら、魔物の狭量さという要素からも決して放置は出来ない問題であると知っている。
「エーダリア様は、それを書いた方をご存知のようですが、ウィームの方だったのですか?その、……………人間ですよね?」
「…………ああ。人間なのは間違いない。古書店に本を持ち込んだのは、行商人の連れていた女魔術師であるらしい。ウィームには四日間滞在していたが、今はここを発っている。どこかで数冊の本を製本し、ウィームに残していった事までは突き止められているが、…………そこから先は、行方を追っているヒルド達が持ち帰る情報を待たねばならないところだ」
「魔術師さん、なのですね……………」
「ああ。実はな、その魔術師が得体の知れない魔術薬を売っていた可能性があるというところから、ダリル達が足取りを調べていて発覚した事なのだ。…………ネア、その本の内容を説明しても構わないか?」
「……………はい」
エーダリアがこうして確認を取るのは、それが改変の証かもしれないからだ。
既に作家の魔術が結ばれてしまっていたとしたら、その部分はもう、取り返しがつかなくなっているのだろうかと息が止まりそうになったネアは、エーダリアの前置きの言葉を思い出して、何とか呼吸を続ける事が出来る。
(でも、まだそれが良くない事かどうかは、定かではないにせよ、…………二人の間のことを誰かに書き換えられるのは凄く嫌だ………)
ディノはとても大切な魔物で、そんな大切な伴侶を誰かに損なわれるのも、その関係に見知らぬ誰かに介入されるのも耐え難い。
むくむくと膨れ上がった憤りになぜだか泣きたくなって、ネアは、自分がどれだけディノに依存しているのかを思い知らされた。
「物語は、ウィームで迷い子の歌乞いと魔物が出会う事から始まる。歌乞いは、ウィームの領主と出会い、契約した魔物と共にとある陰謀に巻き込まれる。だが、魔物は歌乞いに一つの嘘を吐いていた。自分が魔物の王であることを明かさずに契約をしたのだ」
「…………私と、ディノの出会い方にとてもよく似ていますね。ディノは積極的に嘘を吐くような事はしませんでしたが、王様であるとは言いませんでしたから…………」
「ああ。………偶然にしては、という程に酷似した物語だ。だが、それを知っていた者がどれだけいるのかと思えば、恐ろしい程の偶然の一致だと考える事も出来るだろう」
「…………その物語は、どうなるのですか?」
そろりと尋ねたネアに、エーダリアはまた少しだけ眉を顰めただろうか。
その難しい表情に息を詰め、膝の上の手を握り締める。
「陰謀に巻き込まれた歌乞いは、自分の命を狙っていた高位の魔物を下し、一つの大きな財宝を残す。物語は、その財宝を求めて始まるのだ」
「………………なぬ。それは、…………物語によくある、最初の頁でちゃちゃっと語られる部分的な…………」
「だから言っただろう。お前にとって、良い事なのか悪い事なのかは、明らかになっていないと。本を読んだだけではまだ何とも言えないのだ」
「ま、待って下さい。そうなると、………私はどこぞやの悪い魔物に、ディノと共に戦いを挑む事になり、くしゃぼろにすればいいだけなのですね?」
けれど、エーダリアはその言葉に瞳を伏せた。
「…………念の為に聞くが、ディノが魔物の王だと知らない内に、該当するような出来事があっただろうか?」
「……………その頃に命を狙われたとなると、黄菊の魔物さんとアルテアさんくらいでしょうか。何か財宝にあたるものを得られたとすれば、アルテアさんからグリムドールの鎖を奪い取ったことは該当しますか?」
ネアは記憶を辿ってそう伝えてみたが、唯一アルテアの件は該当しそうだが、違うと言われれば違うかもしれない。
グリムドールの鎖を奪い取った日は、アルテアを下した訳ではなく、単に解放されただけなのだ。
そう告げると、エーダリアも同じ意見だったものか暗い顔をした。
「…………となると、作家の魔術が結ばれていた場合は、物語を再現するべく、それに相当する出来事が起こる可能性がある」
「………………ええ」
漸くネアも、なぜエーダリアが二人きりでこの話をしてくれたのか理解した。
魔物の王となれば、それはディノしかいないが、ウィームに現れる迷い子の歌乞いは、他にも条件を満たす者がいるかもしれない。
その歌乞いがネアであるとしても、物語の条件を満たすとなると、ディノが魔物の王である事を知らないという状態になる必要があるのだ。
(そうして、命を狙うような魔物と戦って、……………それを倒す。……ううん、下すという表現がそのままなら、滅ぼしてしまう必要はないのかもしれない…………)
「…………条件を満たすのなら、まずは、私が記憶を失うような事件が起こる可能性があるのですね?」
「その可能性が充分にある。作家の魔術の持ち主が捕縛され、見付けられている限りの本が回収されたとしても、世界のどこかに残された一冊の本に残る魔術が、いつかそれを成すかもしれないからな」
そう告げられた言葉の余韻が消えるまで、ネアは何も言えずに押し黙っていた。
(そして、本当に怖いのはもう一つの可能性なのだ…………)
だから、エーダリアがこれ以上に気を揉んでしまわぬようにと、何か前向きな事を言いたかったが、どうしても上手く言葉に出来ない。
「……………作家の魔術は、一つの物語の中の一か所しか書き換えられないと聞いています」
「……………そうであるらしいな。発見された本に残されたものは、お前たちが遭遇した魔術師のものよりは格段に落ちる階位だと聞いている。リンジンという魔術師を知る者に見せて、判断を仰いだのだそうだ。……………であれば、書き換えが可能になるとしても、影響が出るのはどこか一か所までであろう」
その一か所がどこなのか、ネアは言われなくても分かるような気がした。
後半の物語の本編にあたる部分については、エーダリアは言及していない。
けれどもその物語は、その最初の前提を満たさなければ始まらない物語なのだ。
(私の物語によく似ているけれど、でも、私の物語とはやはり違う……………)
そこは、ネアが通っていない道だ。
であれば、それがこれから起こるのか、或いは、……………誰かがネアの代わりにディノとそう過ごすのか。
(書き換えが一箇所だけなら、………私とディノがもう一度出会い直すような事件が起こるよりも、ディノが私ではない誰かとその物語を辿る方が容易いのだ…………)
「……………きっと、その危険な最も宜しくない顛末を回避する為に、…………私は、管理された状態で、記憶を失う必要があるのでしょう。ガーウィンのお仕事の時のように」
「その状況を作り出す手立てがあるのなら、そうするのが無難だろう。…………だが、それ以前に防げる可能性もあるのだ。まだ思い詰めないでくれ」
「……………はい。でも、こちらで再現出来てしまうのなら、そうしてしまいたいです。…………ディノの部分は変えようがありませんが、私の役柄は私だとは記されていないのでしょう?」
「……………ああ。ダリルも、その事を懸念していた。書き手が、どのような思惑で物語を書いたのかが定かではないからな」
(ディノが、…………誰か他の、歌乞いの人と冒険をするかもしれない…………)
やめておけばいいのに、ネアはその怖い可能性を頭の中で捏ねまわし、身震いする。
ディノの事までをその魔術が書き換えられるとは思いたくないが、リンジンの振るった魔術の悍ましさは記憶に染み付いていた。
あの時のように、失わないようにと必死で足掻いても、もしまた悲しい事が起こってしまったとしたら。
そうしたら、ネアはどうやって大切な魔物を失わないようにしておけばいいのだろう。
歌乞いは魔物の生涯唯一つの恩寵だと聞いているが、信仰の魔物のレイラのように、複数の歌乞いを抱えている魔物もいるのだ。
一人しか得られないというものでもないのだろう。
「……………ふぇぐ」
「………………ネア」
嫌な想像ばかりしてしまい、ネアが思わず震える息を飲み込めば、はっと息を飲んで立ち上がったエーダリアが、慌てたようにノアの名前を呼んだ。
廊下の方でのばたばたとする気配の後、ネアはすぐさま大切な魔物に持ち上げられて抱き締められる。
ディノが戻って来てくれたのだ。
「……………ネア。怖い思いをさせてごめん」
「ふぐ。…………ディノの所為ではないですし、ディノもきっと怖い思いをしています…………。でも、ディノが他の歌乞いさんと冒険をすると考えると、むしゃくしゃします………………」
「安心して欲しいのだけれど、私の歌乞いになれるのは君だけだから、私が他の歌乞いを得る事はないよ」
「で、でも、…………レイラさんのような方がいるのですから、得られないではなく、得たくないという事なのですよね?」
ネアが嫌々な気持ちを押し殺してそう尋ねると、ディノはふわりと微笑んだ。
うっとりするほどに優しい微笑みだが、どこか仄暗い魔物らしい悦びが微かに滲む。
「君は、……………私が他の歌乞いを得るのがとても嫌なのだね」
「勿論です!ディノは私の大事な魔物なので、他の方には譲れないのです。…………その、………ディノがそれを望むのであれば、勿論話し合いには応じますが、私はくしゃくしゃになります…………」
「ネア。私は、そのような事を望んだりはしないよ。君以外はいらないのだと、話しただろう?それにね、魔術の階位と抵抗値の問題もある。君でなければ、私とは契約出来ないから安心しておくれ」
「……………出来ないのですか?」
こちらを見てそう安心させてくれた美しい魔物に、ネアはじっとその瞳を見上げて問いかけた。
すると、隣にいて心配そうに見守ってくれていたノアも微笑んで頷いてくれる。
「そりゃ、勿論そうだよ。第二席までの階位は何とか可能だとして、…………うーん、ウィリアムは終焉だから無理かな。…………まぁ、奇跡の人材が現れればアルテアくらいまでなら可能性はあるかもしれないね。でも、そもそも、白持ちの魔物を純粋に呼び落とすだけの魔術階位を持つ人間は滅多にいないからね」
勿論それは、皆無ではない。
鍛治公爵と呼ばれた男性が、女性の方の白薔薇の魔物と歌乞いの契約を交わしたのは、ネアも知る話だ。
だが、せいぜいその辺りが上限であり、ディノやゼノーシュのように元々特定の人間を気に入って控えていたのでもない限り、十席以内の魔物を呼び落とすには、最低でも、人間の階位において五席以内の魔術師でなければならないし、そもそも万象の魔物を呼び落とすのは誰であれ不可能なのだそうだ。
「……………ぎゅ。つまり、アレクシスさんなら、アルテアさんの歌乞いになれるのですか?」
「わーお。あんまり想像したくないけれど、あの魔術師ならやりかねないなぁ…………」
「そ、そうか。抵抗値上の問題で、そちらの可能性は避けられるのだな……………。良かった」
エーダリアも、それが物理的に難しいとは知らなかったのだろう。
ほっとしたように肩の力を抜いており、ネアは、とても心配してくれていたエーダリアの姿にほろりとする。
(そして、ディノが、他の誰かの契約の魔物にならないと知ったら、少しだけほっとした……………)
「私が隣にいればすぐに安心させてあげたのに、側にいなくてごめんね」
「…………………ぎゅむ。きっとまだ厄介な事件なのでしょうが、ひとまず嫌な事の一つは回避出来てほっとしました」
「もう一つあるのかい?」
「私が、ディノの事を忘れなくてはいけないのなら、ディノはまた怖い思いをしてしまうでしょう?」
「ネア………………」
そう言って大事な魔物の頬に触れると、澄明な水紺色の瞳がふるりと揺れる。
ああ、この魔物もとても怯えているのだなと思ったら、ネアは、その女魔術師とやらを逃げ沼に放り込んでやりたくなった。
(何も知らないのかもしれない。でも、何かを知っていて、どこかを書き換えようとしているのかもしれない…………)
人間はこんな簡単に見知らぬ人を憎めるのだなと考えながら、ネアは、ディノの頭を丁寧に撫でてやった。
「どうやって対処するのかは、ヒルド達が戻ってから考えよう。ただ、………その術者を葬っても記された魔術が失われないのだとしたら、条件を満たすような事をする必要はあるだろうね」
「縁切りの鋏でちょきんとしても、駄目なのですか?」
「いや、今回の魔術は蝕の時のもののような頑強さはない。簡単に切れると思うよ。ただ、この物語の本を全て回収出来るかどうかが分からないんだ…………」
「誰も知らずに残る糸があるといけないので、条件を満たしてしまう必要があるのですね?」
「…………そうだね。今、ノアベルトと一緒に、その場合の受け皿となる基盤を探している。君の記憶に一時的に蓋をする方法は、幸いにもガーウィンの一件で確立されている。後は、他の条件を満たした上で、必要な事を終えたら、全てを元通りに出来るような条件付けが出来る事が重要になってくるんだ」
ディノは、ネアの背中を優しくさすりながら、静かな声でゆっくりと説明してくれた。
ネアはくすんと鼻を鳴らしながら、語られる事を一つずつ理解してゆく。
「グレアムの犠牲の魔術、或いは、ドーミッシュの夢の魔術、……………これは、アルテアのものも借りられるね。若くは、ウィリアムの誕生日に広間から下りた部屋のような仕掛けの魔術などを利用する事も出来るかもしれない。…………一定の、それも長くはない時間で元通りになるという規則を持つ魔術の中から、負荷の少ないものを探してしまうよ」
「……………ふぁい。ディノ、…………また、ガーウィンの時のように夜に会えます?終わるまでずっととなると、私の大事な魔物が、しょんぼりしてしまいます…………」
その言葉に、ディノの落ち着いた眼差しがまた揺らいだ。
持ち上げたままのネアの手にぐりぐりと頭を擦り寄せ、悲しげに睫毛を伏せている。
「夏夜の宴の危険を議論していたところで、まさかこのような問題が起きてしまうとはな……………」
「………………それだ。エーダリア!それだよ!!」
「ノアベルト?」
ふいに、エーダリアの発した言葉を聞いたノアが、嬉しそうに声を上げた。
驚いて目を瞠ったネアに、青紫色の瞳を嬉しそうに細めて、ノアは唇の端を持ち上げる。
「いいかい?夏夜の宴は、物語のあわいを使った理の領域のものだ。物語の主人公達が財宝を得るのが本編なら、夏夜の宴の舞台として充分に成り立つと思わないかい?」
「だ、だが、…………どのような舞台になるのかは、こちらでどうにか出来るような要素ではないと思うのだが…………」
「あ、そこはある程度行けそうなんだよね。ネアが巻き込まれたら嫌だから、あちこちで対策を話し合っていたんだけどさ」
「……………介入出来るのか」
「呼ばれるかどうかは介入出来ない領域だけれど、選ばれる物語くらいは、アルテアが動かせそうだって話していたところなんだ。そのまま、招待者ではないにせよ夏夜の宴の舞台に上がる事にはなるけれど、そこはシルがいれば安心だし…………」
「……………………考えていたのだけれど、その魔術師を見付けたら、私の歌乞いがネアである事を追記させればいいのかな」
(あ、…………)
その指摘には、ネアもはっとした。
リンジンの本を奪った時に、既に書かれてしまった事を無しには出来なかったが、その既存の表記に言葉を付け足す事は出来た。
今回も、結びの文を足して都合よく作り直す事は出来るかもしれない。
「おっと、それだ!書かれた部分は変えられなくても、書き足しは出来るよね。ちょっと、ヒルドに連絡してくるよ」
そう言ってふわりと転移で姿を消したノアに、ネアはぎりぎりと眉を寄せた。
最初よりは随分緩和されたが、とは言えこれは怖い事が起ころうとしているのは間違いない。
「……………………夏夜の宴で、済ませてしまえるのですか?」
「…………まだ話し合う必要はあるけれど、可能ではあるね。夏夜の宴を使うのなら、厳密には三日で必ず終わるものだ。理であれば容れ物としてもしっかりした基盤となるし、物語の中には、君や私が命を落とす描写もない。そのような意味でも安全だろう…………」
「……………ま、待って下さい。となると、三日の間に私とディノは陰謀に立ち向かって財宝を残し、正規の参加者の皆さんがその財宝を手に入れるところまで進めなければならないのですか?」
ふむふむと頷きかけたものの、そこに気付いて青ざめたネアに、ディノも美しい瞳を無防備に瞠った。
エーダリアも呆然としているが、どう考えてもそうなるではないか。
「……………一晩で済ませられるかな」
「むぐぐ、私の性格で、見ず知らずにあたる魔物さんと陰謀に巻き込まれ、すぐさまそれを解決するのは無理なのでは…………」
「であれば、時間の座の要素もある程度は必要かもしれないね…………。一週間くらいでいいかい?」
「むぐぐ、ディノが私を上手く転がしてくれればいけるかもしれません。以前の残響の魔物さんの事件の時も、数日で済みましたものね……………」
「ムグリスになるといいのかな…………」
「むむ、それなら、つるんと籠絡されてしまいそうです!」
「ご主人様………」
(そう言えば…………、)
ここでネアは、夏夜の宴には、ノアやアルテアも参加したがっていた事を思い出した。
使われる物語をこちらの選んだものに誘導出来るのなら、今回の手を使って入り込めるのではないだろうか。
(知り合いだらけにしておけば、安全かもしれない…………)
連絡を終えて帰って来たノアにそう言えば、塩の魔物は苦笑して首を横に振った。
「あ、それだと意味がないんだよね。僕もアルテアも、王冠が欲しい訳だからさ」
「なぬ。そう言えばそうでした…………」
「それと、過剰な追記をして物語が破綻すると怖いからね。あまり欲張らないようにしようか」
「…………ふぁい」
ここで、エーダリアがぽつりと呟いた事がある。
「図らずも、ロズル師に遺された言葉が現実味を帯びてきたな。災いというものまでかどうかは難しいところだが、薬売りの女魔術師と白い魔物のあたりまでは一致してきている……………」
「ありゃ。言われてみればそうだね。となると、……………魔術師でなければ危険は及ばないだろうけれど、商会の方が絡みそうだなぁ」
「…………山猫商会か。今回の参加者たちは苦労しそうだな…………。だが、探すべき王冠を隠す者を知っているのであれば、今回のような回にこそ参加したかったものだ」
「わーお。確かにそうだね……………」
色々と穏便に済ませられそうな方法が見付かり始め、少しほっとしたのだろう。
そんな事を言って苦笑してみせたエーダリアに、ネアは、そう言えばと首を傾げた。
(そう言えば、ロズルさんは、エーダリア様にあの遺言を残したのよね……………?)
王冠を得た者が再び参加する事はないらしいが、エーダリアの場合は王冠は得ていない。
過去の参加者は、敗退者も含め全員が二度と呼ばれないのだろうか。
(でも、エーダリア様は、自分はもう呼ばれない的な感じでいたから、無理なのかな…………)
とは言えまずは、自分たちの問題を解決せねばならない。
気の重い夏の予定に、溜め息を吐きたくなった。
膝の上に抱えたネアをぎゅっと抱き締めているディノが可哀想で、ネアは、大切な伴侶が乗り切らなければならない三日間が少しでも怖くない時間であるようにと強く願った。




