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薬の配達と議会の食卓




その日のネアは、アルビクロムに来ていた。

エーダリアから直々に命じられた、リーエンベルクのお使いである。


お使いの内容としては、アルビクロムの議会に出席している、ウィームの魔術大学の教授に特製の魔物の薬を届ける仕事であった。



この教授は、とあるリーエンベルクの騎士の叔父にあたり、泉の妖精に恋をしたことがきっかけで、現在はアルビクロムから専門家として招聘される程の水質関連の魔術を極めている。


なお、恋をした妖精とは残念ながら縁がなかったようで、今は青年期の淡い恋の記憶として良い思い出になっているそうだ。

同じ魔術大学の事務員の女性と結婚し、三人のお孫さんまでいる幸せ家族である。



「ですが、研究の経緯で水の精霊に呪われてしまうだなんて、やはり水辺は危険がいっぱいなのですね……………」

「そうだね。水辺には様々な生き物達がいるけれど、穏やかな者達も多い反面、気質の荒い者達も集まりやすいんだ」

「ええ。こちらに来たばかりの頃は、エーダリア様からもよく注意されていました。集まり凝るという意味でも、水辺には怖いものがいることがあるのだとか…………」

「ただ、今回の呪いは十七日間で抜けるものだから、治療さえ怠らなければ、さしたる危険はないだろう」



しかし、それで問題になったのが治療中の投薬についての融通の利かなさであった。

今回のアルビクロムでの議会からの招聘は二領間の関係もあるものなので、投薬の条件が厄介なのでと簡単には辞退出来ない。


教授にとってこの十七日間は、呪いを完治させられるかどうかのとても大切な期間なのだが、治療中の呪いなのだから命を脅かすようなものではないとアルビクロムの議会は思うだろう。



(魔術の弊害は、とても理解され難いものでもあって…………)



それを魔術の弊害が少ないアルビクロムに説いて理解を得るより、本来は長距離運搬の難しい水の系譜の魔物の薬を運べる逸材がいることに感謝しつつ、休憩時間に教授に薬を届ける方が角が立たない。



他領では、やはりウィーム程には目には見えない病や呪いについての理解が進んでいない。

そのようなものがあるとは理解していても、その被害が身近なものではないのだ。

ヴェルリアやガーウィンなどでは魔術弊害も多いものの、簡単な病のように多くの者達がその症状を抱えているという感覚はやはりない。


魔術が潤沢なウィームだからこそ抱える悩ましさであり、今回のように誰かが裏で奔走する事もあるのだった。




「おお、申し訳ない。アルビクロムまでご足労いただき、お手数をおかけしました」



来客受付でウィーム発行の仕事用の身分証と、事前承認書類を見せ受け付けをすると、薬を待っていた教授が、こちらまで来てくれていた。



「いえ。きちんと決められたお時間に薬を飲まないと、膝の痛みが取れなくなってしまいますものね」

「ええ。日を追って治癒を進めないといけない呪いですので、これがなかなかに厄介でして…………。とは言え、自らの体でこの呪いを知る事が出来たのは、今後の研究に活かせそうです」

「……………まぁ。やはりそこは、貪欲に活用されてしまうのですね。さすが、ご高名な研究者です」

「はは、妻などからは叱られますが、魔術師としての資質も高い騎士達がいるリーエンベルクにも、そのような気質の方が多いのでは?」

「ふふ、そうかもしれませんね」


ネアはそう微笑むに留め、それは主にエーダリアで知っている気がするとは口外せずにいた。


ふさふさとした巻き髪をくるんとお団子にした独特な髪型の教授は、まだ青年といってもいいくらいの年齢に見えるが、実際にはエーダリアよりも年上だ。


これは、可動域の高さや扱う魔術の属性によって現れる成長の遅さからで、同じように若く見える人物に、アレクシスやフェルフィーズなどがいる。



(アレクシスさんの場合は、スープの影響もあるかもしれないけれど……………)



そんな、魔術師としての経歴も豊かな教授は歌乞い生物についてもよく知っており、ネアの背後に立ったディノには、深々とお辞儀をしただけで自ら話しかけることはない。


それは高位の魔物に対しての礼儀をよく理解しているからであり、ここでネアも、ディノが優しい魔物だからといってこの二人を無理に会話させようとはしなかった。


人間と魔物はやはり違う生き物で、ディノがどれだけ優しい魔物であったとしても、よく知らない人間に対する認識は同族である人間同士のそれとは全く違うものとなる。

この辺りは、一介の人間のエゴで無理やり改善させるべきものではないのだ。



その時、かこーんと軽めの鐘の音が響いた。

これは昼食休憩が残り少ないという合図の鐘の音なのだそうだ。


ネア達は慌てて魔物の薬を渡してしまい、くりくりの巻き毛な後れ毛がちょっぴり可愛い教授は、綺麗な緑色の瓶を手に受取り証を書いてくれる。


昼食会の合間に出て来てくれているので、部屋に戻る前にあの薬を飲んでしまい、何事もなかったかのように部屋に戻るのだそうだ。



「そうそう、入館証を持たれていますので、本日は議員会館の中の飲食は無料ですよ」

「なぬ」



そう教えてくれた教授が立ち去ると、ネアは、まだ賑やかな議員会館の中を見回した。

周囲がざわざわとしているのは、ここが、アルビクロムの政治の中枢である議員会館だからだ。


とは言えネア達がいるのは、他の領の客人や、アルビクロム住民に限られるが観光客なども入れる区画である。


教授が向かった廊下の向こうからが、建物の壁や床石の色合いが変わり、敷かれた排他魔術で侵入者を退ける、警備の厚いアルビクロムの中枢だ。



ここがウィームなら高位の魔術で意識せずにその場を避けるようになり、ヴェルリアやガーウィンなら不可視の壁で弾かれるところだが、アルビクロムは少し対処方法が違う。


四領の中で最も魔術の薄いアルビクロムでは、排他魔術に引っかかる人物が侵入禁止の領域に踏み込むと、普段は壁の中に隠れている仕掛けががしゃんと発動し、侵入者は檻に閉じ込められたり地下牢に落とされたりするのだそうだ。


例えそれがうっかりの事故であれ、手続きを受けて解放されるまでは丸一日かかるので、ここを訪れる者達はとても用心している。


アルビクロムの行政は、無実の罪に荒ぶり建物を崩壊させるような人外者が少ないからか、その種の手続きにとても時間がかかるので有名だった。



「……………むむ。今回のお仕事はお昼にかかる時間でしたので、昼食は食べてきて構わないと言われております。無料なら昼食代の清算もしなくて済みますし、せっかくですので、もう二度と来ることのないであろう議員会館の食堂を試してみますか?」

「行ってみるかい……………?」



ネアとディノは顔を見合わせ、ここは議員会館であるのでアルビクロムとは言えそんな危険な料理が出される事もないだろうと、漆黒のケープ姿のアルビクロム議員達の姿もちらほら見える食堂を訪れてみた。



「まぁ!壮麗な造りですね。木造なのがとても趣きがあって、何だか教会のようです」

「人間の手による細工なのだね。…………あれは何だろう?」

「仕掛け時計のようですね。歯車がいっぱいで、不思議な光る鉱石が組み込まれているのが綺麗ですね」

「沢山動くのだね…………」



ディノは、歯車の仕掛時計が不思議なのか、綺麗な水紺色の瞳を瞠って見上げている。


そんな魔物の姿を見てしまった女性職員が、ぽかんと口を開けてこちらを見ていたと思ったら、ばたんと倒れてしまった。


慌てて同僚とおぼしき男性達が運んで行ったが、人外者の少ないアルビクロムは人ならざる者達の美貌への耐性もあまりないようだ。



(色の擬態はしてきたけれど、容姿も変えて貰った方が良かったのかしら…………)



店内は、自由に席を取り、座席にあるメニューから商品を選んだ後はテーブルの上の連絡版から注文をする仕組みのようだ。

ネアは、これ以上の被害者が出ない内にと、ディノを連れて仕掛け時計が見える席を押さえた。



議員会館の食堂は、綺麗な飴色の木をふんだんに使った内装であった。

施された彫刻は素晴らしく手が込んでいて、人間の作業の領域のものとは言え、壮麗な教会のような内観には圧倒される。


大きく取られた長方形の窓に、各所に置かれた観葉植物の緑が目に優しい。

直接床から生える方式のウィームとは違い、こちらでは全て植木鉢から生えているようだ。


重厚な天井画は、議会の様子などを描いたものだろうか。


この建物は戦前からあるものだが、王家の威光などを示した美術品は殆ど取り払われてしまったと聞いている。

ウィームもそうであったが、美術品や建築に魔術の伴わないアルビクロムは、その差し替えがより容易いからこそ徹底されたのだとか。



ふかふかとした深緑の天鵞絨張りの椅子に座り、席に置かれたメニューを覗き込む。



「むむ、メニューにあるお品書きは美味しそうですね」

「シチュー………」

「牛肉とトマトのシチューも美味しそうです!魚とジャガイモの揚げたものに、挽肉のパイ、川魚のバター焼きに、…………ホコホコ鳥のステーキ?」

「サラダだけのものもあるのだね…………」

「ふむ。その辺りは、前日に食べ過ぎてしまった方の為の軽いお食事かもしれませんね」



アルビクロムという事でかなり警戒していたが、幸いにも店内はいい香りがしていたし、他のテーブルの上の料理も美味しそうだ。

少し悩んだもののネアは挽肉のパイにし、ディノはシチューを頼むことにする。



水差しとグラスはテーブルにあるので、ネアがディノの分を注いでやれば魔物は少しだけ恥じらう。


このようなお店での注文が初めてだったからか、そわそわしているようだ。



「可愛い。ネアが頼んでくれる………」

「むむ、確かにこのようなお店は初めてですね。………まぁ、時間ぴったりになると、時計が光るようですよ」

「……………回るのだね」



昼休憩の時間が終わったからか、店内の中央に位置する大きな仕掛け時計はかちりと歯車を組み合わせる音を立てた後、ゴーンゴーンと鐘の音を鳴らし、組み込まれている結晶石を光らせながらゆっくりと回ってゆく。


柱を構築している壁面が四面をがっこんと組み換えながら動いており、時刻を四方全てに見せることと、大きな動きで注意を引くことで時刻を意識させているようだ。



「パズルみたいです…………」

「…………戻ってきたようだよ」

「ほわ、時計が戻ってきました………」



二人が仕掛け時計に夢中になっていると、注文からほんの僅かな時間で、頼んだ料理がテーブルに届けられた。


運んで来てくれたのは見事な赤毛の闊達そうな美しい女性で、弾けるような微笑みから一転、なぜかネア達の手を見た途端にとても暗い顔になる。



「………ご注文の牛肉とトマトのシチューと、挽肉のパイになります。お会計の際にこちらの伝票をお持ち下さいね。なお、緑の入館証をお持ちの場合は、会計の際に見せて下されば代金は無料となります」



眼差しはかなり暗いものの、柔らかな口調や微笑みはきちんとしていた。

丁寧な仕草で料理をテーブルに乗せてくれると、優美な仕草でからからと木のワゴンを押して立ち去ってゆく。


アルビクロムらしい装いで、そのスカートはかなり短く、ネアは、そのふりふりのスカートが可愛くてついつい目で追いかけてしまう。


ウィームには、このような服装の女性がいないのだ。



「……………ネアが浮気する」

「むむ、ふりふりのスカートが可愛くてついつい見てしまいます。さて、いただきましょうか」

「スカートなんて…………」

「これからも沢山お世話になる衣服ですので、どうかそこにまで荒ぶらないようにして下さいね」



ネアは手を伸ばして大事な魔物を撫でてやり、きゃっとなった魔物の姿にあちこちで胸を押さえた人々が蹲った。


よく見れば、胸を押さえた人達の中には男性やご老人もいるのだが、ディノの美貌は一般的な異性への憧れに留まらない魅力があるので、ネアは、ふむふむ素敵な生き物であろうと密かに嬉しくなる。


恥じらうこの生き物は、恥じらい方が解せない事もあるものの、何だかとても大事にしたくなるのだ。



「では、いただきますね。…………むぐ?!」

「……………ネア?」



議員食堂の人々の目を惹きつけて止まない魔物は、出された挽肉のパイを一口ぱくりと食べた後、すんと真顔になって無言でもぐもぐしているご主人様が心配でならないようだ。



「たべものはすべてとうといので、わたしはすべてをおいしくいただきます」

「……………うん。無理をしないようにね」

「しかしながら、おそらくこれはぱいではありません…………」

「ご主人様…………」



そんな魔物も、牛肉とトマトのシチューを一口頬張ると、とても悲しい目をする。


ネアは、なぜやっと好きな食べ物を見付けたばかりの幼気な魔物を、アルビクロムの食堂に連れて来てしまったのかと、己の行いを心から悔いた。



勿論、ここの料理はアルビクロムの人々にとっては普通のものなのだろうし、ネアは美味しいものは好きだが、以前は安価でお腹が膨れれば何でもという食事だった事もあるので、美味しくない食べ物へのハードルはそこまで高くない。




(それなのに、なぜなのだ……………)



ネアが食べた挽肉のパイは、味付けが多少不味くてもどうにかなるであろうと、この料理にしたのだ。


それなのに、もぐもぐする度に心から大切なものが失われてゆくような悲しい気持ちに襲われている。



これはもう、魔術的な弊害なのかもしれない。



「……………ミートソース的な挽肉の入った、普通のパイの筈なのです。付け合わせのポテトは普通に揚げたお芋です……………ぎゅも……………ケチャップ様…………」


耐えきれずに、ネアはテーブルの上のケチャップを沢山使い、ポテトフライを美味しくいただいた。

不思議なことに、ケチャップはかなり美味しいので、おやっと思ってラベルを見れば、そのケチャップはヴェルリアから仕入れられているようだ。


後はもう、何かが足らずにとてもごわごわしていて油の味が鮮やかなパイを、テーブルに置かれた塩と胡椒で美味しく工夫するしかない。



「……………これは、シチューなのかな」

「…………一口貰ってもいいですか?」

「ネア、危なくないかい?」

「身の危険を案じられる程に………?」


とは言え、一口いただけば塩胡椒などの足りないものが判明するかもしれないのでと、ネアは、牛肉とトマトのシチューを味見させて貰った。



「……………むぐ。…………む?」



スプーンでぱくりといただいたシチューは、トマトの酸味が際立っており、明らかにコク的なものが皆無ではあるが、それ以外に、敢えてまずいと主張する要素はないようだ。

全体的に味が薄いので、塩と胡椒を追加すればだいぶ改善されるだろう。


正直に言えば香草が欲しいが、そこまでの改変を与えるのは料理人に失礼である。



「ネア、……………大丈夫かい?」

「ふぐ、ディノ、このシチューは、こちらにある塩胡椒で、もう少し食べやすくなりますよ。自分でやってみますか?」

「……………塩と胡椒…………かい?」

「とても不安そうなので、私が薄めに整えますね。塩味が足りなければ、もう少し自分で足してみて下さい。私の塩の振り方を参考にするのですよ?」

「うん…………」



ネアはずずっと引き寄せたシチュー皿に、ささっと塩と胡椒を振り味見してみた。

塩が入るだけでだいぶ味が変わり、胡椒が加わるとまた変わる。


アルテアなどが食べたら顔を顰めるかもしれないが、これくらいであれば許容範囲という味わいに変化した。



「ふむ。これで良いでしょう。食べてみて下さいね。………あら、なぜ恥じらってしまうのでしょう?」

「ネアが、……………かわいい」

「なぬ…………」



魔物はすっかり恥じらってしまい、もじもじしながらシチューを食べ始めた。

一口食べ、味が変わったことに驚いたように目を瞠る。



「さっきと違う……………ね」

「このくらいでいいですか?嫌ではありません?」

「こちらの方がいいかな。………ネアが作った」

「むむ、このお料理には、別に作って下さった方がいますので、手作り料理と同じ扱いにしてはなりませんよ?」

「ネアの料理の方が美味しい………」

「しっ、声を落として下さい」


周囲の反感を招かぬよう、ネアは慌ててそう指示したが、幸いにも魔物はネアが塩と胡椒をしただけのシチューを、美味しくしてくれたと目元を染めながら食べてくれた。


ネアは心を無にして、パイを食べきると、最後はポテトフライをケチャップで美味しく食べる。

ポテトフライはさすがにまずくはないのだが、ここでケチャップの味を足すことで口の中からパイの存在感を消さなければ、とてもではないが生きてゆけなかった。




「…………ふぅ!食べきりました。ケチャップは良い文化ですね!」

「……………パンが変だった………」

「ディノ…………」



魔物は最後の最後に、見た目は何の変哲も無いパンに撃沈させられたようで、悲しげに項垂れている。


ただのパンが変だったとはどんな事案なのか、ネアは気になって堪らなかったが、見回した周囲のテーブルで、同じように心を無にした表情の男性が、かちかちに焼かれたパンをがしがし削って食べていたので、きっととても固かったのだろう。



「帰ったら、ザハのメランジェを飲みましょうか。夏は冷たいメランジェもあるようですから」

「…………うん」



ぺそりと項垂れた魔物を連れて、ネアはお会計の場所で入館証を見せると、不思議な満身創痍の心持ちで議員食堂を出る。

それでもお皿を空にした我々は偉大であると胸を張りたいくらい、戦場帰りな気分だ。



議員食堂を出た、廊下での事だった。



ネアは、しょんぼりしている魔物に渡された三つ編みをにぎにぎしてやりながら、ふと、既視感に目を凝らす。



(あれ、……………?)



濃灰色と飴色で統一された重厚な廊下を、この議員会館で働く職員達が行き来している。

アルビクロムで最も多いとされる漆黒の装いの人々の中、地位のありそうな装いの背の高い男性が立っていた。



肩口までの漆黒の髪を一本にまとめ、漆黒の軍服めいたデザインの制服を着込んだ美麗な男性だ。


すらりとした長身には優美さもあり、鋭い眼差しには冷淡そうな色香がある。

けれどもなぜか、見たことのない筈のその男性に、ネアは既視感を覚えたのだ。



一緒にいるのは、同じような装いに黒髪を耳下で切り揃えた黒豹のような美女と、嫋やかな金髪の儚げな美女だ。

二人の女性と打ち合わせをしている姿は絵のような華やかさで、行き交う他の職員がお辞儀をしているからには、やはり偉い人なのだろう。



「ネア……………?」

「あの方を、どこかで見たような気がしたのです。ディノはご存知ですか………?」

「……………おや、アルテアだね」



ふつりと、周囲の音が遠くなった。

ディノが、音の壁を作ってくれたのだろう。



「まぁ、アルテアさんでした。取り込み中かもしれないので、お邪魔しないようにしましょうね」


ネアがそう言えば、ディノも頷いたのでそそくさとその場を離れようとした時、強い視線を感じて振り返った。



するとそこには、冷ややかな切れ長の瞳を瞠り、ひたりとこちらを見ている先程の男性の姿がある。


周囲が気付いてしまう程の驚きではないが、それでもこちらに目を止めているのは分かるだけの表情に、ネアはひとまず、偶然目が合ってしまっただけの他人のようににっこりと微笑んで会釈をしておいた。




「さて、急いで帰りましょう。美味しいメランジェが待っています!」

「ケーキも注文するかい?」

「ふぐ、……………ケーキ」

「私が出してあげるから、好きなだけ食べていいよ」

「……………ぎゅむ。ケーキ。ティータイム…………まだ間に合います!」



必然的に早足になってしまうのは、一刻も早くその憧れのケーキに辿り着きたかったからだろう。


時折ディノの美貌にくらりとしている人々の間を抜けてさくさくと廊下を歩き、手続きをして入館証を返却する。


その時の事だった。




「…………お帰りですか?」



背後から静かな声をかけられ、振り返ったネアは、おやっと眉を持ち上げる。

そこに立っていたのは先程の黒髪の男性で、どうやらアルテアが擬態している人物のようだ。



「ええ。用を済ませましたので、失礼させていただきます」



ネアは、潜入中の使い魔の為に見ず知らずの他人感をしっかりと演出してぺこりとお辞儀をし、これ以上の会話を持たなくてもいいようにと踵を返して退出口をくぐった。


先に入館証の返却手続きをしてやったディノに合流すると、警備の兵士達にもお辞儀をして議員会館を出た。



そこからも足早に立ち去ったのは、ザハのティータイムに間に合うように仕事を終えたかったからだ。


既に時計は午後を少し回っている。

これから一度リーエンベルクに戻り、薬の配送完了の報告をして、それからもう一度外出をしなければならない。


のんびりとメランジェとケーキを楽しむ為には、残された時間はあまりないのだった。




「ふぅ。お忙しいのに一声かけてくれるだなんて、使い魔さんは意外に律儀でしたね」

「それでだったのかな……………」

「あの綺麗な女性の方々とお友達になって、いつか私に紹介してくれるといいのですが……………」



ネアは、思わずそんな憧れの呟きを落としたが、アルテアがどのような経緯でアルビクロムの議員会館で働いているのか分からないので、過剰な期待はしないようにしよう。



(そこは、アルテアさんのお仕事を優先で…………)



何と良いご主人様だろうと我ながら誇らしく思い、無事にザハのティータイムに間に合ったネアは、美味しいチョコレートケーキをいただいた。



ディノも珍しく積極的にケーキを注文しており、幸せそうに食べている。




「ふふ。衝撃的な昼食でしたが、美味しい締め括りになりました。ディノ、有難うございます!」

「うん。これからは、アルビクロムでの仕事では食事に気を付けよう。君に何かがあるといけないからね」

「…………とても思い詰めています」




その後、エーダリアに教えて貰った事によると、アルビクロムの議員会館は他領からの訪問者も多いので、一部の食堂の料理は敢えて味付けを薄めにしてあるのだそうだ。


しっかり味付けをされると手の施しようがないものも多く、塩と胡椒で救済の余地を残すのが温情であるらしい。

ネアの選んだパイのような、容易に塩胡椒出来ない料理の方が危険だったのだ。




なおその日の夜、なぜかアルテアがリーエンベルクを訪れた。


ネアが機密事項のあるかもしれない仕事の話に触れる事を懸念したのかもしれず、それではと、アルビクロムでの食事の危険について語れば、妙に沢山のパイやケーキを作ってくれたような気がする。



ネアは、きっとアルテアも食事問題が辛いのであの昼食の苦しみを分かってくれたのだろうと考え、そんな同志から献上品を有り難く頂戴しておいた。


ノアからはそうじゃないと思うよと言われたので、もしかしたら素敵な恋人候補がいることの口止め料だったのかもしれない。









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