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64. 特別な誕生日になります(本編)




その日、ウィームは朝から霧雨の一日であった。



他の土地であれば霧雨なんてとがっかりすることもあるだろうが、繊細な霧雨に彩られ、乳白色の霧に包まれたウィームは美しい。


宝石のような雨粒を纏って咲き誇る花々や、森の緑は滲むような色彩をいっそうに鮮やかに視界に残す。

それは、リーエンベルクでも同じことであった。



「こうして霧雨の日にお庭を見ていると、霧雨の妖精さんのお城に芸術家の方が多い理由が分かるような気がしますね……………」

「今はもう、雨の日は気にならないのかい?」



静かな声でそう尋ねたディノを振り返り、ネアは、穏やかに微笑んだ美しい魔物の澄明な瞳を見つめる。

無残な記憶に残ることの多かった雨の日は、この世界に来てからはその美しさに傷を癒した。


とは言えそれも、ディノが傍にいてくれたことで、安心してこの世界を眺める余裕があったからだろう。

そう考えた狡猾な人間は、理由のその一部を大胆に削り落とす。


「ええ。ディノがいてくれたお陰で、いつの間にか雨も大好きになりました。全く思い出さないということもないでしょうが、今はもう平気だと言えるようになったんです」

「……………うん」


僅かに目元を染めてはいるが、今日のディノはきりりとしてくれている。

何しろ今日は、遅れに遅れていたウィリアムの誕生日会なので、儚くなってしまっては困るのだ。



「こうして静かに過ごすだけで、穏やかな気持ちになれる場所だな……………」


そう呟き、窓の外を眺めているのはギードで、このオーロラ色の瞳の優しい魔物がネアは大好きだ。


グレアムやウィリアムと合わせ、ネアの大事な魔物を守ってきてくれた人たちであるというだけでなく、繊細で優しい心を持った魔物達の瞳は、見惚れてしまいそうな程に美しい。


言葉に合わせて揺れる大ぶりな耳飾りが、ギードの横顔に小さな光の影を落とす。

そんな揺らぎもまた、一つの風景のようで目を引いた。



「ギードさん、もう一杯お茶を如何ですか?」



ネアにそう言われて、ギードは目の前のカップが空になってしまった事に気付いたようだ。

美味しそうに飲んでいてこれで三杯目なので、かなり気に入ったらしい。

夕暮れに咲く夏の青い花びらの入った、爽やかな甘みのあるお茶である。



「……………ああ、また飲み切ってしまったな。もうすぐ始まるから、そろそろ控えておこう。その代わり、茶葉の銘柄を教えてくれるか?」

「おや、気に入られたようであればひと缶差し上げますよ。その方が、取り扱い元や詳しい銘柄の表記もありますので宜しいでしょう」

「……………いや、だが……………」

「リーエンベルクでは、季節ごとにまとめて購入しておりますので、どうぞお気になさらず。その代わり、何かその土地の珍しい茶葉などに出会う事があれば、情報をいただけますと幸いです」

「であれば、チャスカの系譜の茶畑があって………」



ギードはヒルドとの会話が弾むようで、先程からあれこれとお喋りを深めていた。

お互いに周囲のことをよく見ている性格であるらしく、気付き方や心の動き方が似ているのだ。



そして、そこにまた一人、本日の参加者がやって来た。



「…………何だ、あいつはまだ来てないのか?」


部屋に入るなりそう尋ねたのは、本日は、上品な渋めのオリーブグリーンのスリーピースのジレ姿である、選択の魔物だ。

今朝方こちらに到着してネアに料理指導を行った後、仕事でどこかに出かけていたらしい。


「ウィリアムさんは、戦場からこちらに来たので、開会時間まではしっかり休んでいただいているんですよ」

「…………おい、最近あいつは、気軽にここに来過ぎじゃないのか?」

「わーお。それ、アルテアが言う?」

「一緒にするな。こいつがどれだけ頻繁に呼びつけるのか、考えてもみろ。月に一度は必ず事故るだろうが」

「…………むぐる。アルテアさんに言われたくはありません。ですが、美味しいキノコのポタージュを飲んで元気が出たのは確かなのです」

「ったく……………」



一昨日、忙しいので呼ぶなと伝えられたその日の内に、ネアは、テルナグアという得体の知れない恐ろしいものに遭遇してしまった。


ディノが一緒だったので危険はなかったのだが、その日は思い出すたびにぞわぞわしてしょんぼりとしていたところ、リーエンベルクに様子を見に来てくれたアルテアが、キノコのポタージュを作っていってくれたのだ。


午後のおやつ代わりに美味しいキノコのポタージュを飲めたのだから、指先から冷え込むような怖さを乗り切れたのは、あの美味しい優しさのお陰なのだとも思う。


そう考え、その日の夜の事を思い出してしまい、ネアはもぞもぞした。


夜はディノのお城に連れて行って貰ったのだが、あの美しい万象のお城を歩いてテルナグアの事を忘れられた代わりに、ぱたりと儚くなるような時間を過ごすことにもなった。


テルナグアというものの記憶に恐怖だけが紐付かなくて良かったのだが、今度はその日のことを思い出すととても落ち着かなくなる。



「そう言えば、ネアは初めてテルナグアに遭遇したのか。シルハーンが一緒で無事に済んで良かった。あれは、俺も苦手なんだ」

「ギードさんでも苦手なのですか…………?」

「ああ。排除が出来ないものだから、友達が遭遇したらと思うと嫌な気持ちになる。前にグレアムが、剣で壊してみようとしていたが触れられなかったようだ」

「グレアムさんが剣で…………」

「そういうところは、ウィリアムに似ている…………」



少しだけ困ったように淡く微笑んだギードの、緑と紫の瞳が部屋の入り口の方に向けられた。



そこに現れたのは、今日はお誕生日会なので、少し寛いだような服装でやって来た主賓の終焉の魔物だ。


入り口で一緒になったのか、グラストとゼノーシュと何かお喋りしている。

ネアの視線に気付いてこちらを見ると、白金色の瞳を細めて微笑んだ。


入浴したばかりなのか、前髪が少し湿っている。

魔術でささっと乾かしてしまわないところが、何となくウィリアムらしい。




「主賓なウィリアムさんが来てくれました!」

「おや、グレアム達も来たようだね。揃ったみたいだよ」



ディノの言葉にその奥を見れば、どうやらこれで全員の到着のようだ。

すっかりうきうきしてしまい、ネアは唇の端を持ち上げて小さく弾む。



本日の会場となるのは、リーエンベルクの外客棟にある小さめの広間で、ここは舞踏会などよりも、昼食会やお茶会をするのに適した親しみやすい広さの一室だ。


床石は夜結晶のくすんだような灰紫色のものを使っており、少し灰色がかった上品な水色の壁は湖や泉のものかなと思わせて、夜明けの光を抽出した染料が、雪鉱石を染めるのに使われているのだそうだ。


小さめの広間だからこそ出来る贅沢で、この広間のシャンデリアは結晶化した百合の花を大きな花束にしたようなものである。

これは、祝福が潤沢に蓄えられて光る花を魔術で結晶化してしまい、その花明かりで部屋を照らすというウィーム王朝時代に流行った明かり取りの手法なのだとか。


特別に華美な装飾はない広間だが、全体の色合いとこの花のシャンデリアが落とす光と影だけで、惚れ惚れする程に美しい。


どうやらリーエンベルクの建造と内装の歴史の中では、森の中にいるような広間などの景観をそのまま取り込む方式の嗜好の者と、こうして人間らしい建築の中に、この土地だからこそ得られる美しく不思議なものを取り入れる者がいたらしい。


そのどちらも素晴らしいので、ネアは本日の広間も、心から堪能させて貰っていた。



(窓の外の霧雨に濡れた中庭の木々と、ちらりと見える中庭のあたりが、部屋に飾られた絵のようで、なんて綺麗なのだろう…………)



そこに置かれたのは、実に素晴らしい料理の数々で、初回のウィリアムの誕生日よりは品数が格段に増えた。


今年のお祝いは、最初のお誕生日よりもずっと人数を増やしてのお祝いとなったからだ。



「まぁ、最初からみんなで一緒に乾杯が出来ますね!エーダリア様が用意してくれた、ウィームの雪と夜のシュプリを開けます!」

「…………貸せ。お前がやると、コルクをおかしな所に飛ばしかねない。今日はまだ事故ってないんだろ」

「……………シュプリ開けごときで、失敗などしません」

「おや、私がお開けしますよ」



ネアが、意地悪な使い魔に渡すまいと、とっておきのシュプリの瓶を抱えて唸っていると、ヒルドがさらりと受け取っていってくれた。


何となくだが、ヒルドのことは自分で開けるからと威嚇出来ず、しゅぱっと何かの一閃で栓を開けてくれた凄技に目を瞬く。



「……………凄いです。一瞬でした!」

「このシュプリは、祝福が潤沢な代わりに泡持ちが良くないので、出来るだけ手早く注ぐのが良いようですよ」

「むむむ、そうなのですね。エーダリア様、特別なシュプリを有難うございます!」

「いや、私もウィリアムには世話になっているからな。それに、今年はたまたま余裕があった」



エーダリアとしては、憧れのウィリアムにとっておきのシュプリを出してくれたようだ。

淡い水色の瓶に無色透明のシュプリが入っているからか、雪と夜のシュプリは冴え冴えとしたウィリアムの美貌を思わせる。

ラベルが白地に金色の文字が刻印されているだけなのも、どこかウィリアムを彷彿とさせた。



「本日はお招きいただき、有難うございます。………ヨシュア、ご挨拶を」

「ほぇ。僕は来てあげたんだよ?…………あ!雪と夜のシュプリだね。僕はそれが好きだから、多めに注ぐといいよ」

「……………ヨシュア、ご迷惑をおかけするようであれば、帰らせますよ?」

「ふぇ…………。ヒルド、イーザが我が儘なんだよ!」



ターバン姿の雲の魔物の登場に、ウィリアムは僅かに目を瞠ったようだ。

だが、イーザが丁寧にお祝いを伝えた事で、この二人は本当に自分の誕生日の為に来てくれたのだと理解したらしい。


ゆったりと挨拶を返しながら、ほんの少しだけ途方に暮れたような無垢さを見せる。

作戦が成功したので、ネアはディノと顔を見合わせて微笑んだ。


実はイーザは、なかなかのウィリアム贔屓なので、ここも、もっと仲良くなってもいいと思ったのだ。



(ヨシュアさんはウィリアムさんのことは怖いみたいだけれど、実はかなり安定している魔物さんだから、この二人も仲良くして欲しいな……………)



ウィリアムとヨシュア程に、対照的な魔物もいないだろう。

ことごとく反対の気質は、だからこそ意外にも繊細なウィリアムに対し、現実的で落ち着いた思考を見せるヨシュアとなる。


何かの理由でウィリアムが落ち込んでいて、ネア達の誰も側にいない時に、偶然、イーザやヨシュアが近くにいたという事もあるだろう。

結べるものは結んでおけば、いつかしっかりとした命綱になってくれるかもしれない。


なのでこれは、仕事が多く遠くにいる事も多いウィリアムへの、ネアなりの命綱斡旋でもある。


昨年の蝕の際に危うい一面を見てしまってから、ネアは、何とかあの不器用な終焉の魔物を守らねばという使命感に燃えていた。



しゅわしゅわと泡の立つ、細長いグラスが皆に配られる。


今日のグラスは、細やかなエッチングの美しいウィームの伝統的な細工グラスで、足の部分が綺麗な瑠璃色になっているのが何とも華やかだ。


グラスが行き渡ると、グレアムと話していたウィリアムがこちらを向く。



「ネア、エーダリア、今日は……………世話になる」

「む、ウィリアムさんが少しだけ照れましたね」

「ほぇ、ウィリアムが照れた……………」



シュプリのグラスを持たされてしまい、みんなに向かい合った終焉の魔物は、何だか少しばかり照れてしまったらしい。


すかさず指摘してしまう残酷な人間のせいで、ウィリアムは目元を染めて白金色の瞳を揺らがせた。


今日の装いは、シンプルな白いシャツに、細身の濃灰色のパンツ姿なのだが、そのような装いでも普段の印象が強いからか休日の軍人さんのように見える。


目元を染めたウィリアムを見ているギードが、嬉しそうに唇の端を持ち上げており、グレアムもひっそりと微笑みを深めたようだ。



「……………こうして人数が増えると、何だか気恥ずかしいものだな」

「ふふ。ウィリアムさんのお誕生日をお祝いする日なのですから、勿論こうなってしまいますよね。……………ウィリアムさん、お誕生日おめでとうございます!」



エーダリアと視線を交わし、今年もネアがその挨拶をさせて貰った。

たいへんおめでたい日であると高らかに宣言すれば、ディノも生真面目に頷いている。


みんなのグラスが持ち上がり、ネアも、楽しみにしていたとっておきのシュプリを口に含んだ。




(……………わ、美味しい!)



しゅわっとした泡は、きりりと冷えたシュプリの中でより際立ち、雪を口に含んだような冷たさであった。


冬に温かな部屋で飲むのもいいが、こんな季節だからこそ喉ごしの心地よさが際立つ。

青林檎と森の花の香りがして、すっきりとした辛口である。


この、雪と夜のシュプリは、ウィームの森の中に隠されている万年雪の葡萄畑で作られているもので、ウィームでしか出回らないとっておきのシュプリだ。

リーエンベルクには毎年イブメリアの朝に一ケース納められており、それを一年をかけて大事に飲んでいるらしい。



昨年は蝕のお見舞いなどもあって五本も多めに貰えていたそうで、その内の一本がエーダリアの善意で振舞われることになった。

とは言え、ウィームの象徴的なお祝いシュプリの一つである為に、年間の使用予定の見通しが立ってから余分が分かるので、このくらいの季節にならないと出すのは難しかったものらしい。



(お誕生日会が遅れたからこそ、飲めたものなのだわ……………!)



「この、冷やしてあるからというだけではないひやっと感が、喉を通る時にとても素敵ですね…………」

「ああ。飲んだシュプリが、そのまま体の余分な熱を取るような感じがするな。これはいい」

「…………これは、私も初めて飲ませていただきましたが、門外不出とされるのも頷ける味わいですね」


ウィリアムとイーザは初めて飲むようで、あまりの美味しさに無言でじたばたしていたネア程ではないが、驚いた様子で口に含んだシュプリを楽しんでいる。


外では手に入らないものとして政治的な会談の場などで振舞われることも多く、私欲でこのシュプリを独占しないエーダリアだからこそ、リーエンベルクに住んでいてもなかなか味わえない贅沢な味なのだ。



「ウィリアム、僕とグラストが買ってきた焼き菓子もあるよ。オリーブやドライトマトのだから、食事としても食べられるんだ。ここでは食べきれなかったら持って帰ってね」

「そうか。それは食べてみないとだな。ゼノーシュ、……有り難う」

「うん!」



どこか不慣れな様子でお礼を言うウィリアムに、ネアはむふんと満足げに息を吐く。


今日は勿論、ネアもケーキを作ってみたのだが、伴侶な魔物が荒ぶらないように、クリームの花を作ったホールケーキにはディノ専用区画も設けられている。

その部分を狙ってカットすれば、ディノにもクリームの花が行き渡るシステムだ。


他にも、リーエンベルクの料理人に混ざってひそやかに他にも料理を出させて貰い、アルテアの監修の中で作ったとっておきの夏野菜のキッシュと、自作の唐揚げなどを提供していた。



魔術の繋ぎがあるので贈り物はしない系の招待客達は、朝の内にゼノーシュ達が美味しいおかず焼き菓子の詰め合わせの大箱を持ってきてくれたように、それぞれに何かを持ち込んでくれている。


他にも、ギードが上等な棘牛肉を持ち込んでくれたのでそれはタルタルとなり、グレアムは宝石のようなチョコレートの詰め合わせ、イーザとヨシュアからは、霧雨の一族お勧めの夜明けの森と霧雨の蒸留酒が届けられた。


タルタルはこの場で出されるようになるが、焼き菓子の残りや、大箱なのでひとまずは皆さんでと広げられたチョコレートの残ったものと、蒸留酒の二つはウィリアムに持ち帰って貰う予定である。


一度開けたものがばらばらしないように、家事妖精が、綺麗に袋にお持ち帰り用詰めを作ってくれるのだそうだ。



「ネア、今年もケーキを作ってくれたのか」

「ふふ、ウィリアムさんに美味しく食べて貰えるように、紅茶の香りがして、少しだけ檸檬のお酒の風味のきいた軽めのケーキなので楽しみにしていて下さいね」

「ああ。切ってしまうのが勿体無いくらいだな。今から楽しみだ」



そう微笑んだウィリアムに、ネアは、誇らしさに胸がほかほかする。

喜んで欲しいと準備したものに対し、ウィリアムは、いつもこうして言葉にしてくれるのだ。



「なお、ここに置かれたグレアムさんからのチョコレートは、何段もの箱になっていてお持ち帰り用にも出来るので、ゆっくり食べて下さいね。中に入っているものの祝福の種類によって一粒で元気にもなれるそうで、幸運のチョコレートと呼ばれているのだとか」



お祝い気分のネアは、たまたま横にあったチョコレートの解説をしてみた。

これは、ゼノーシュからチョコレートの説明をされてしまい、決して早く一粒食べてみたくてうずうずしているのではない。


角の丸い長方形のチョコレートが整然と並んでいる箱は、箱ごとにテーマがあり、チョコレートは全て中にプラリネやコンフィチュールが入っている。


様々なお酒を使ったものの箱に、果実を扱ったテーマのものや、塩を使ったものまで。

特に果実については、そのお店の得意商品である林檎のシリーズが有名なのだとか。



(ゼノ曰く、杏のクリームのものと、林檎のゼリーが入ったチョコレートの中の、二番目の甘さのものがとても美味しいみたい…………)




ウィリアムは広げられた箱を見渡し、微笑みを深めた。

その時にもう僅かな変化があったのだとすれば、その瞳には何が過ったのだろう。


けれどもネアは、グラスが空いてしまっていないかを確認しており、表情は見ていなかったのだ。



(……………ロゼで泡が立っているから、ノアが用意したものかな…………)



乾杯のシュプリは気に入ったようで、あっという間に飲み終えてしまい、今は別のシュプリを飲んでいる。



「…………これは凄いな。…………この店のチョコレートは、甘過ぎずに中に入ったものの味わいが楽しめるんだ」

「まぁ、このお店をご存知なのですか?」

「ああ。元々はウィームの店だった筈だ。今は、作っていた妖精の一族が移住して、モナの方に店がある。…………友人が、この店のチョコレートが好きだった影響で、俺もこの店のものはかなり気に入っていた」




(あ、………………)



そう微笑んだウィリアムが思ったのは、もしかすると、かつてのグレアムだったのではなかろうか。


ネアは、もしやウィリアムが気に入っていたから敢えて買ってきたのかなと思ったが、ちらりと見たグレアムが、微笑んではいたものの若干しまったという顔をしていたので、偶然の事故だったらしい。


偶然なのでグレアムの対価には響かないが、アルテアやノアの視線も集めてしまっているので、皆もひやりとしたのだろう。




「……………懐かしい味だな」



綺麗な指先で一粒を取り、料理よりも先に一粒食べてそう呟くウィリアムは、本来あまり甘いものは得意ではないのだと思う。

チョコレートの甘さを考えれば、これは食前に食べてしまうくらいに気に入っていたものなのだろう。



「ネアも一つ食べるか?」


その様子を凝視していたネアにくすりと笑って、ネアにも一粒選ばせてくれる。

ネアが、ウィリアムのお勧めだという酸味のある杏クリームが入ったものを貰い、幸せな思いでもぐもぐしていると、グレアムがこちらにやって来た。


相変わらず白灰色で統一した優雅な装いだが、やはり装飾などは一切ない装いを好むらしく、どこか鋭さもある。


けれどもグレアムは、その美しい瞳と優しい微笑みだけがあれば充分なのだと思わせてくれる魔物だ。



「その店を、…………知っていたのだな。俺個人の好みで選んできてしまったが、気に入ってくれたようで良かった」

「はは、お陰で久し振りに食べられた。感謝する。…………君もどうだ?………ああ、こっちの箱がいいか」



それは、とても自然な言い方だった。



ウィリアムが手渡したのは、裁縫箱のように何段かに組み上げたチョコレートの箱の中の二段目にある、甘く煮た林檎や乾燥林檎などの、全てを林檎で揃えた箱だ。


箱の持ち方を変えて特定のものを取らせようとした様子からすると、そこに、グレアムのお気に入りのチョコレートが収められているのだろうか。


いいだろうかと微笑んでから一つのチョコレートに手を伸ばし、グレアムは、ぎくりとしたように固まった。



いつも穏やかで冷静な犠牲の魔物が、途方に暮れたように灰色の瞳を瞠るのと同時に、ネアもはっとして息を詰める。


そして、祈るような思いで二人の魔物を見守った。



「ん?これじゃなかったか?」

「…………………ああ。このチョコレートは、特に気に入っている」

「…………そうか。間違えていなくて良かった」



(……………ど、どっち?!)




これはもうという二人のやり取りに、ネアは思わず拳を握ってしまい、慌ててディノの影に隠れた。

アルテアやノアは飄々としているが、心なしか、ディノもとても緊張しているように思える。


表面的には自然なやり取りなので、イーザを交えて、ヒルドやグラスト達と話していたエーダリアは気付いていないようだ。


イーザはこちらをちらりと見たような気がしたが、この何気ないお喋りの輪がとてつもない緊張を孕む場面であるとは思わないだろう。



「……………ウィリアム、」

「だが、何らかの制約があるかもしれないな。………俺が、今感じた以上の事を整理出来た頃に、一度ゆっくり話をしないか?…………君とは戦場で何度か相見えたのに、今迄の俺は…………個人的な事情から君を避けていた事もある。…………だが最近、…………君に、懐かしい友の面影を見ることが増えた。俺は、もしかしたらもっと早く君と話しておくべきだったのかもしれないな」



ウィリアムの声は、はっとするほどに柔らかくそして穏やかだった。

その提案に頷き、グレアムは夢見るような美しい瞳を細めて微笑む。




(………………もう少し、)



ネアが、そう心の中で呟いたまさにその時に、ウィリアムが小さく呟いた。



「すまない。何となくだが、俺が最後まで待たせていたという気がする。だが、…………失敗はしたくない。もう少しだけ、待っていてくれ」

「……………ああ。その時が来たら、声をかけてくれ。…………今日は君の誕生日だというのに、俺までこのようなものを貰えるとはな」



そう言いながら、グレアムはウィリアムが差し出した箱から一粒のチョコレートを取り上げる。

艶々としたチョコレートを口に入れ、ああやはりこれは美味しいなと満足げに呟いた。


言葉遊びのようにチョコレートにかけた感想だが、今、ウィリアムとグレアムが交わした会話は決してそればかりではない。


その決定的な瞬間を目の前で見てしまい大興奮のネアは、ウィリアムが慎重に設けた準備期間を台無しにしてしまわないよう、何とか表情を整えた。



(多分ウィリアムさんは、あのチョコレートの箱を見て、ここにいるグレアムさんが、かつて友達だったグレアムさんだと気付いたのだと思う。……………でも、それをそのまま言葉にしていいかどうかまでは、まだ判断を付けかねているのだわ…………)



魔術は、複雑で厄介なものだ。

かつてグレアムの近くにいたウィリアムだからこそ、グレアムの扱う魔術の願いと対価の関係を思い出し警戒したのかもしれない。


もう少し時間を取り、自分の確信をそのまま言葉にしていいのかどうかを考えてから、グレアムが背負った魔術を損なわないようにして二人で話をするのだろう。


或いはそれは、過去を知らず不用意にその魔術に巻き込んではいけない他の者達に配慮して、ただ、別の場所でと引き伸ばされただけなのかもしれない。




(でも、とうとうウィリアムさんが気付いた…………!)



もしかしたら、言葉ほどではなくその欠片でしかないのだとしても。


それでも、かつて自分が救えなかった友人が、こうしてここにいるのだとしたら、それはウィリアムにとってどれだけの救いとなるだろう。



万感の思いを噛み締めていたところへやって来たのは、既にあれこれと楽しく食事をしていたらしいヨシュアだ。


大きな仕事を終えたような達成感に包まれたネア達を見て、不思議そうに首を傾げている。


「ほぇ、…………料理は食べないのかい?」

「これからいただくところです。………ヨシュアさん、ふと気になったのですが、お皿の上に山盛りにしているのは、私が今日ばかりはと遠慮した、ギードさんの棘牛なタルタルでは……………」

「僕はこれが気に入ったんだよ。たくさん食べるんだ」

「ぐるるる!」

「ふ、ふぇ、怒ってる!!」



せっかくのいい雰囲気ではあったが、ネアはすぐさま意識をタルタルに切り替えた。


主賓とお客様の為にと、淑女らしく気を遣って飛びつかなかったタルタルなのだ。

それがこんな風に山盛りで奪われたとなると、まだまだ未熟な人間はとても平静ではいられない。


それを見たアルテアが、何故か呆れたように肩を竦めた。



「…………ったく、お前のはこっちだ。予め分けてある」

「ぎゅ、それは、私のタルタルなのですか…………?そして、アルテアさんが取り分けておけたとなると、このタルタルはアルテアさんが調理してくれた、あのタルタルなのですか?」

「ネアが、タルタルに浮気する…………」



ウィリアムとグレアムの様子を見守っていたディノは、ふと気付けば、ご主人様がタルタルにふらふらと歩み寄っているので慌てて捕獲しに来たようだ。



「ディノ!あのお皿のタルタルは、私のタルタルなのですよ?」

「…………そうなのかい?」

「そして、ギードさんの棘牛は、どうやらアルテアさんがタルタルにしてくれたようです」

「アルテアが、………」



ネア達のそのやり取りに、直前までの友人達の会話にじわりと涙目になっていたギードが、驚いたように目を瞬いた。



「アルテアが、…………調理をしたんだな」

「はい。そこにあるパイもアルテアさんの作品ですし、私が焼いたキッシュは、アルテアさんのレシピを教えて貰ったのです」



どうやらギードは、選択の魔物が美食家である事と、ネアに手料理を届けてくれている事までは知っていたが、そんなアルテアが、ウィリアムの誕生日会にも料理を卸してくれるとは思っていなかったらしい。


困惑したように、アルテアの方と、お皿の上に乗った可愛らしく葉っぱ模様を入れた黄金色のパイを見比べ、そろりと頷いている。



「おい、勘違いさせるなよ。あれは、お前への手入れ用だからな」

「あらあら、そう言いながらも、ウィリアムさんとはお風呂で一緒に水鉄砲で戦うくらいに仲良しです」

「やめろ」

「ウィリアムと、アルテアが……………水鉄砲で…………?」

「ほぇ、どうして僕も呼ばなかったんだい?アヒルで遊ぶのに、ネア達だって付き合うべきだよ。ウィリアムとアルテアが遊んでいたのなら、僕にも声をかけるべきだったんだ」



アルテアはすかさずその拡散を止めようとしたのだが、残念ながらここにいたのは、とても素直に言われた言葉に頷いてしまったギードと、別の角度から荒ぶり始めたヨシュアであった。



片手で目元を覆ってしまったアルテアに、その奥では、グレアムがウィリアムの方を見て、そんな風に親しくしているのだなと微笑んでいる。


驚くよりも納得してしまった様子のグレアムに、ウィリアムはどこか呆然としたように首を横に振っていたが、その秘密をあっさり喋ってしまったネアの方を見ると、わざと叱るような表情をしてみせた。



「ネア、念の為に言うが、あれは俺もアルテアも、遊んでいたんじゃないからな?」

「むむ、そうなのですか?」


それにしては、なかなかにわいわいしていたなと首を傾げたが、ネアは、大人の男性二人であるし、そのような事にしておきたいのだなとゆっくり頷く。



「それにあの時は、アルテアがネアに悪さをしただろう?」

「そう言われてみれば、ウィリアムさんは私の同盟国として戦争に参加してくれたような気がします」

「あれはお前から始めた事だぞ」

「ウィリアムさんが勝ったそうですので、我々の勝利でしたね」

「おい、勝手に勝敗を付けるな」

「いや、俺からのところで終わった筈ですよ」



そう言えば、あの戦いは途中で切り上げられてしまっていたような気がする。

ぎりぎりと向かい合ったウィリアムとアルテアの二人を見て、ネアは、かつてウィリアムに言われた言葉を噛み締めていた。




(例え、ここにいるグレアムさんがかつてのグレアムさんだとしても……………)




それでももう、ウィリアムにもグレアムにも、お互いが不在の間に得た新しい居場所がある。


だからもう、かつてのような関係には戻らないのかもしれない。



(だとしても…………)



もう一度出会えた二人は、どのような会話をするのだろうか。

ウィリアムが背負った辛い思い出が少しでも和らぎ、グレアムがそこにいる事を知る人が少しでも多くなればいいとネアは思うのだ。



そう考えるととても幸せな気持ちになり、ネアは、専用のお皿に盛られたタルタルの山を、銀色のフォークで崩したのだった。



お誕生日会は、まだ始まったばかりだ。










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