白い王城と彩りの吐息
時々、ひたりと不安が落ちる。
その不安はさらりとしたものだが、それでも指先で触れるととても冷たい。
青みがかった灰色の睫毛の影が揺らぎ、柔らかな灰色と菫色の瞳が微かに震える。
その翳りが怖くなって、伸ばした手で頬に触れた。
ネアは今日、テルナグアに遭遇したばかりなのだ。
「……………まだ怖いかい?」
そう問いかけると、ネアはこちらを見た。
膝を抱えて寝室にある衣装台代わりの長椅子に座っていたのだが、様子を見る限りは、いつものブーツとまではいかずとも、守護の厚い室内履きを脱ぐのを躊躇っていたのではないだろうか。
「…………ディノも怖かったのですか?」
「私、…………かい?」
「何というか表情が……………とても冷めています。ディノがそういう冷たくて平淡な表情をする時は、かなり怖がっている時ですから」
慎重な声音でそう言われ、胸が潰れそうになった。
深く深く息を吸えば、胸がじわりと痛みどう言えばいいのか分からなかった言葉が、唇の上でばらばらになった。
「ディノ」
少し考えるようにこちらを見ると、ネアは両手を広げてみせる。
困惑してその様子を見ていると、ネアは柔らかく微笑んだ。
「あら、今夜は椅子になってくれないのですか?」
「………………なる」
「そして、ぎゅっとして下さい。私は、テルナグアめがとても怖かったので、今日はもうディノから離れません!…………も、勿論、生理的な現象故に一時的に離脱したりはするかもしれませんが……………」
「それ以外は、側にいればいいのだね?」
「ディノが側にいてくれれば、怖くないんです。不思議でしょう?」
小さく首を傾げてそう微笑んだネアに、また胸の奥が鈍く痛んだ。
彼女がどこにも行かずに手を差し伸べてくれると、胸の奥はいつもこうして微かな熱を持ち、途方に暮れてしまうくらいに痛くなる。
「…………けれど、君が前にいた場所には、あのようなものはなかったのだよね」
そう尋ねると、ネアは微かに目を瞠った。
そうして、ひどく眩しそうにこちらを見て微笑むのだ。
「なかったのかもしれませんし、あったのかもしれません。…………ですが、もしあのようなものがあったのだとしたら、それが現れてしまった時に私を抱き締めてくれる人はいませんでした」
「……………現れることがなかったかもしれない」
現れる事はないのだ。
あちらの世界には、魔術がなかった。
庭の楓の木に宿った精霊を知っているし、脆弱な人ならざるもの達の気配がなかったとは言わないが、それはこちら側のように輪郭を持つものではなく、強く悍ましい翳りがあったところで、彼女はその身に宿した奇妙なほどの隔絶でそれに触れることはなかった。
尤も、向こう側にあったその気配の殆どは、人間達が言うところの人外者ではなく、人間から転じた祟りものや怪物、もしくは人間であることを満たさなかったもののような存在ばかりであったが。
ネアハーレイは、魔術を持たない人間だった。
魔術のない世界から呼び落としたのだからそれは当然だとしても、あちら側にあったどんな揺らぎや煌めきも、彼女はその目に映したり、宿したりする事はなかった。
それが、障りを弾くだけではなく、祝福のようなものも満遍なく削ぎ落としていたのだから、その人生はどんなものであったことか。
初めて見付けた時、たった一人で生まれたその世界からも弾き出され、誰も近付けない円環の内側に隔離されて生きているように見えたくらいに。
どうしようもなく隔絶されているのにそれを知らず、どうして自分は一人なのだろうと困惑し、手を伸ばしても届かずいつも諦める。
その姿を見ていたら、彼女に触れたくて堪らなくなった。
どうしてなのかすら分からないのにどこにも行けない姿が、自分とよく似ていると感じてしまったのかもしれない。
でも、それなのに彼女はいつも貪欲に幸せを探し出したし、自分の命の一部を殺してでもその僅かばかりの幸福にしがみついた。
ネアハーレイは、どこまでもしんと静まり返り、静謐な中に背筋を伸ばして佇み、たった一塊のハムが食べたくて持病の薬を一月も貰いに行くのをやめてしまう人間なのだ。
どうしても見に行きたい史跡の為にどれだけの食べ物を削り、擦り切れた靴を履く惨めさに俯きながら仕事に出ていた。
そうして、一人きりで念願の旅券を買って帰った日、彼女は喜びではなくてあまりの孤独に蹲って泣いていたのだ。
どうして自分は、この先もずっと一人きりで生きていかなければならないのだろうと。
こんな風に苦心して手に入れた喜びを持ち帰る時にすら、それを分かち合う者がいない生き方を思い知らされ、こんなにも惨めになるのはなぜなのだろうと。
(それでも君は、漸く見ることの出来た美しい街並みに目を瞠り、賑やかな橋の上からその国の夜景を、一人でいつまでも目を輝かせて微笑みながら見つめていた…………)
彼女には誰もいないから、彼女はいつも静かな人間だった。
それでも美しいものや気に入ったものを見付けては、目を輝かせて小さく弾み、嬉しそうに唇の端を持ち上げる。
足元はがらがらと崩れてゆき、もう立っていられなくなる程に追い詰められていても、それでも頑なに無残な足元は見ずに、遠い空の星の煌めきを追いかけるように。
そうしなければ正気ではいられないと知り、絶望の中で尊厳を保つように。
だから、彼女のその微笑みをずっと見ていたくて、呼び落とすまでに時間がかかってしまった。
(君は一人きりだったけれど、どれだけ孤独で絶望していたとしても、決して不幸なばかりではなかったから…………)
だからもし、こちらに呼び落として差し出したものが、今の彼女の孤独より悪いものだったらと思うと、その最後の微笑みを奪い取るのが忍びなかった。
その最後の火が消えてしまい、彼女が二度と動かなくなったらどうしよう。
そうしたら自分は、やっと大切なものを見付けたのに失ったこれからを、どうやって生きてゆけばいいのだろう。
狂乱して滅びるにせよ、その最後の瞬間までの時間をどう過ごせばいいのだろう。
そう考えた日々を覚えているから、ネアがまだ受け入れていない怖いものを見てしまうと、とても不安になる。
あの孤独な日々ですら彼女から奪えなかった微笑みを、そのたった一つが奪い取ってしまうかもしれないではないか。
「もしかして、私がとても怖がったので、ディノも怖くなってしまいましたか?」
「………………いや、君にはもう、怖いものを怖いと思っていて欲しいんだ。私が側にいるから、怖いものがあれば必ず君を守るからね」
「……………ディノ」
「けれど、……………耐えられないようなものを見付けてしまって、ここにいるのが嫌になってしまったら、………………どこかへ行く時は、私も連れて行ってくれるかい?」
おずおずとそう問いかけると、ネアはまた少し微笑みを深くした。
膝の上に抱き上げたネアをしっかりと抱き締めると、その温もりにまた胸が苦しくなる。
(ああ、君がここにいる………………)
最近なぜか、様々な怖さや危険を知っても尚、ネアがここにいてくれるという安堵に、涙を落としたくなる事があるのだ。
悲しくないのにどうしてそうなるのか、さっぱりわからない。
(だからきっと、私はまだ怖いのかもしれない…………………)
もう、ネアに捨てられてしまったり、置いていかれる事はないと知っているけれど、それでもこんな時にふと怖くて堪らなくなるのかもしれない。
「いつの間にか宝物だらけになったここを出てゆくつもりはありませんし、どこかに行かなければならないとしても、ディノだけは連れて行ってしまいます。こちら側に、私の大事な魔物が心配してくれるような私の知らない怖いものがいるのなら、絶対にディノなしではいられません」
「うん……………」
「でも、怖いものがいなくてとても幸せでも、ディノは大切な私の魔物なので、やっぱり連れていってしまいますからね」
「……………どうして痛くなるのだろう」
「…………どこか、痛むのですか?」
さっと表情を強張らせて、頬に手を当てて瞳を覗き込んできたネアに、心配させてしまっている罪悪感に苛まれつつも、その切実さが堪らなく嬉しかった。
その指先を取り上げ、手のひらの中に収めて指先に口づけを落とす。
「君が心配するような痛みではないんだ。…………けれど、君がもうどこにも行かないのだと思うと、胸が痛くなる」
「なぬ。それはまさか、ちょっと伴侶に飽きてきた的な…………」
「そうではないよ」
全く違う方向に会話が向いてしまい、ネアがとても悲しい顔をしたので、慌ててその言葉の続きを塞いだ。
眉を下げてこちらを見上げている伴侶に、どう繋げればいいのか分からない拙い言葉を、何とか重ねてみる。
「とても怖がっている君が、今度こそはとここから出て行ってしまわないで、私の側にいてくれると……………嬉しいのに、…………胸が苦しくなって、痛むようなんだ」
「…………………嬉しいと、思ってくれるのですね?」
ほっとしたようにしつつ首を傾げたネアに、微笑みかけ、髪をそっと撫でる。
無防備な首筋に触れると微かな欲が生まれたが、それよりも、今はただ寄り添っていたかった。
「うん……………。けれど、こうして痛むのだから、まだ怖さもあるのかもしれないね。…………ごめんね、ネア。君まで困らせてしまった」
「……………むむ、その嬉しいけれど苦しくて痛いのは、その、………自分で言うのも気恥ずかしいのですが、喜びで苦しいという領域のものではないのでしょうか?ディノは、私が何かをすると、すぐにぱたりと儚くなってしまうでしょう?それと同じものだと思うのです」
「………………あの時も、苦しいかな。君が可愛くて、…………あまりにも懐いてくれるから嬉しい……………」
「あらあら、さてはディノは、嬉しすぎると胸が苦しくなったり、突然の喜びに心が大はしゃぎしてしまってずきずき痛んだりするのだと知らなかったのですね?」
そう言われて、目を瞬いた。
嬉しくても胸は痛むのだろうか。
痛みとは、良くないものだけではなかったのだろうか。
「…………そういうものなのかい?」
「そういうもののようです。私も、こちらに来てから知ったばかりですので、あまり詳しくはないのですが……………」
「君も、…………痛くなるのかな?」
「はい。こうして、真夜中にふと、テルナグアから聞こえていた音楽を思い出し不安になっていた時に、ディノがぎゅっとしてくれると、とても幸せで少しだけ胸が痛くなります」
「………………そうなのだね」
頬を寄せて触れ合わせると、ふっとこぼれた微笑みの色をした吐息に、また苦しくなる。
こうして体を寄せても、ネアは、嫌がったり叱ったりしなくなった。
グレアムが伴侶を得た時、どうしてエヴァレインを伴侶にしたのかを尋ねたことがある。
グレアムの相手にはぴったりだと思ったが、伴侶を選ぶという事の理由がよく分からなかったのだ。
どうして伴侶を得ようと思ったのかと問いかけられたグレアムは、彼女に逃げられたら困りますからねと微笑んでいたのを思い出す。
だとすればグレアムも、こうして胸が痛んだのだろうか。
あの時はなぜか、幸福そうなグレアムを見ていると、自分には到底手に入れられない特別なものを得られるのは、グレアムだからこそだと思えた。
逃げないように伴侶にしたいと誰かを想えるのは、恐らく自分には難しい事なのだろう。
ウィリアムも、ギードも、グレアムのように伴侶を得ることはなくとも、その想いを知っていたようだった。
結局、伴侶というものについてはあまり聞けないままになってしまい、今はもう教えて貰う事は出来ない。
(…………絶対に逃したくはないのに、本当のことを話すのは愚かなのだろうか…………)
そう考えると胸が先程とは違う痛み方をしたが、その鋭く冷たい痛みは気にせず飲み込んだ。
目を閉じると、今でも、かつてネアが暮らしていた屋敷を思い出すことが出来た。
あの場所から、随分と遠い場所に連れてきてしまった。
だから、ネアにとっては自分も、テルナグアと同じようなものなのではないかと考える。
そう考えてしまうと、なぜだか堪らなく落ち着かなくなった。
ネアは、出会った時から、この姿を見るなり狂死してしまった生き物達のような反応を見せた事はないが、実はどこか知らないところで、今夜のように瞳を揺らして震えていた夜もあったのだろうか。
あの頃の自分は、ネアを呼び落とせた事と、彼女がこちら側でも小さく弾んだり、窓の外やリーエンベルクの内装を見て目を輝かせてくれている事が嬉しくてならなかったが、実は恐怖もどこかにあったのかもしれないのだ。
(ネアは、良いことも悪いことも、その全てを話してくれようとする…………)
そう思い出し、それならばこのようなことも話しておかなければならないと考えた。
ネア曰く、心配事は共有しておかないと拗れるのだそうだ。
「……………私は、在らざるものだ。出会ったばかりの頃の君は、…………私が怖くはなかったかい?」
「むむ、初めて聞くような言葉です。ディノは、在らざるものなのですか?」
「君の育った世界には、存在しない事こそが正常であったものだ。…………君にとっては、……………テルナグアのように、得体の知れない悍ましいものであっても不思議はないだろう?」
「ディノ…!」
ネアが詰るような声を出したので、今は、君がそう思っていない事を知っているよと微笑みかけた。
けれども、ネアは悲しそうな目をして膝の上で小さく弾んだ。
これは嬉しいからではなくて、少しだけ怒っている時の仕草だ。
(どうして私は、君がしてくれるように説明出来ないのだろう…………?)
思うように言葉を選べない自分の無力さに悲しくなったが、それでも説明を続ける事にした。
ネアはいつだって、丁寧に話して欲しいのだ。
途中でやめてしまって、或いはそれを怠る事で、繋いだ手が離れてしまう事もあるからと何度も言われていた。
違う生き物なのだからと、ネアは言う。
そう言いながらも、価値観の違いを嫌悪する様子はない。
お互いの知らない溝を丁寧に埋めるのは、大切な伴侶が足を挫かないようになのだと教えてくれた。
「私は、ちょっと手に負えない生き物が現れてしまったぞと考えていた最初の日から、それでもディノの事は、なんて綺麗な生き物なのだろうと思っていましたよ?」
そう言ってくれるネアに触れ、深く深く息を吐いた。
テルナグアに出会ってもまだ、ネアはここから逃げ出そうとは言わないけれど、こんな事を知ってしまったら逃げてしまわないだろうか。
「ネア、…………テルナグアは、私の系譜のものだと言われている」
「…………まぁ。…………ディノの系譜のものだったのですか?」
「実際にそうなのかは、私にも分からないんだ。けれど、……………どんな生き物も、異形を嫌がるものだからね。それなのに私は、自分がそのようなものだという事を知りながら、君をそのようなものしかいない世界に連れて来てしまったのかなと考えていたんだ。…………怖くなかったかい?」
「ディノ、私がこの世界を、怖いものから始めずに済んだのは、きっとすぐにディノに出会えたからなのだと思います。だから、そんな風に心配してしまわないで下さいね?」
「君が、怖がっていなくて良かった…………」
「ディノは、自分の系譜のものだと言われているテルナグアが、私を怖がらせた事が怖かったのですね……………」
「うん……………」
なぜ、逃したくはないのに、怖いだろうかと問いかけてしまうのだろう。
ネアと出会ったばかりの頃は、ネアが歩み寄ってくれると嬉しくて、そしてなぜか、どうして怖がってくれないのだろうかと少しだけ困惑していた。
「…………私がこうして尋ねてしまうのは、君が怖がってくれたなら、怖がらないで欲しいと言えるからかもしれない……………」
「ディノ、それなら私は、見慣れている在るべきものよりも、在らざるものなこちらの世界の方が気に入ってしまう変わり者の人間だったのだと思います。ディノを怖いと思った事がないのは、ディノが最初からとても優しい魔物だった事と、ディノこそが私の本当に欲しいものだったからなのではないでしょうか」
「……………そうなのかい?」
思わぬ言葉にそう尋ねると、ネアは微笑んで頷いてくれる。
また、つきつきと胸が痛んだ。
今度はきっと、幸福だからというあの痛みなのだろう。
「なので今夜は、そんな私の魔物に、ちょっぴり不安になってしまった時にするといい事を伝授しますね」
「何か方法があるのだね?」
であれば知っておきたいと思い、そう言うと、ネアは体を傾けて頬に口付けしてくれた。
頬に触れた温度に幸せな気持ちになり、腕の中のネアを大切に抱き締める。
「以前にも推奨していた方法ですが、そういう時は、私がディノにしてあげられる事で、ディノが幸せになる事を要求して下さい。怖さや不安の理由を説明してくれれば、私は、どんな時だってディノを最優先しますから」
「…………君がいることが、幸せなのではないかな?」
それだけで充分なのに、それ以上を望んでもいいのだろうかと首を傾げると、ネアはこつりと額を合わせてくれた。
これは頭突きというもので、人間は親しい者としかこうしない。
愛する者に甘えたり、大切な人を案じる時の仕草だと教えてくれたのは包丁の魔物だったが、自分が誰かからこうして貰えるとは思ってもいなかった。
「あら、でも、ぎゅっと抱き締めたり、フレンチトーストを一緒に作ったりする事は、それよりもっと上ではありませんか?」
「…………………そんなに、してくれるのかい?」
「ふふ、これは伴侶だけの特権なので、定期的に使わないと勿体無いですよ?」
ネアが差し出してくれるものはいつだって嬉しかったが、ただでさえ不安定になってしまうその中で、何かを余分に求めてもいいのだろうか。
そう思っていたが、どうやら望むというのも伴侶の特権であるらしい。
「……………では、城に来てくれるかい?」
それならばと、要求を口に出せば、ネアは少しだけ目元を染めた。
視線を彷徨わせかけ、すぐにこちらをしっかりと見上げる。
彼女が何を思い浮かべてしまい、どうして恥ずかしがっているのかは知っていたけれど、今回はそうではないのだと言おうとして、けれども否定することもしないでおいた。
「はい。じゃあ、…………室内履きでいいですか?」
「今夜ではなくていいよ。今日は疲れただろう。ゆっくりお休み。……………明日の仕事の後にでも、君とあの中を歩きたいんだ」
「あら、私の最低睡眠補償の時間までには、まだ一時間程ありますよ?」
「……………いいのかい?」
「ええ、勿論。欲しいものは、自分が億劫でなければ欲しい時に手に入れると、より体や心の為になりますからね。……………そう願っても叶わない事も多いのですから、叶えられる時には我が儘になって下さい」
「うん……………」
膝の上に乗せていたネアを抱え上げ、室内履きでいいよとそれを取り上げる。
室内履きとは言え、ヒルドやウィリアムが熱心に監修したので、それなりに頑強なものになっている。
ネアはお気に入りの山羊革の室内履きを逃げ沼で駄目にしてしまったことがあり、それ以降、この二代目のものをとても大事にしていた。
大事なものを丁寧に手入れ出来る環境にあり、それを許す時間があることが嬉しいのだと、ネアは言う。
もしかしたら、こんな時間もそのようなものなのだろうか。
久し振りに訪れた自分の城は、相変わらず髪色と同じ色合いの花々が咲き乱れ、ダイヤモンドダストのような細やかな光の粒子がきらきらと降っていた。
これはネアを伴侶にしてから、ずっとこうなっている。
大回廊にある大きなステンドグラスの窓は淡い色だけを集めた森の意匠になっていて、ネアはこの窓を見るのが大好きだ。
「……………私はここが大好きです!窓から落ちる淡い色が床に映ると、淡く灰青がかった白い石床に、私の大事な魔物の色が出来るのですよ」
「君が来るまで、……………あまり良く見たことはなかったんだ。ギードもよく、この窓は美しいと言ってくれていたのに……………」
「ふふ、ギードさんとは気が合いそうですね。明後日には久し振りに会えるので、最近は素敵な狼さんに会えたかどうか教えて貰う予定なのです」
「浮気……………」
「あら、どんなに素敵な狼さんがいても、ディノには敵いませんよ?」
弾むような足取りでそう微笑みかけられ、嬉しくなる。
ネアは先程までの悲しそうな顔をしていないし、嬉しそうに城のあちこちを見ていた。
ここには自分しかないのに、ネアはいつも、城に連れて来ると喜んでくれるのだ。
この城に泊まって、一緒に食事を摂ったこともある。
こうして二人で、目的もなく話しながらあちこちを歩いたことも。
そうすると、今までは何とも思わなかったその空間にも、ネアの気配が鮮やかな色を添えるのだった。
「きっと朝の光でも素敵なのでしょうが、こうして夜の光の中でディノのお城を歩くのは素敵ですね」
天井は高く、シャンデリアの光は星の光のようだ。
そうすると、窓からの月の光の方がより明るく感じられ、回廊はけぶるような青白い光を帯びる。
だからなのか、隣を歩くネアの影は柔らかな色をしていた。
「そう言えばディノは、擬態していれば馬に乗れるのですよね?」
「うん。このままだと、馬が怯えてしまうのだけれど、擬態をしていれば問題ないよ」
「以前に教えていただいた乗馬の記憶がなくなってきてしまったので、今度また教えて貰おうと思っているのです。騎士さん達のようにはいきませんが、また森のお散歩に付き合ってくれますか?」
「勿論だよ。ただ、ウィームで学ぶのであれば、夏は避けた方がいいだろう。冬の属性の馬達の階位が高いから、そのような馬で練習した方がいい。君との相性もそちらがいい筈だ」
そう言えば、ネアは目を瞠ってからこちらを見た。
何気ない仕草だが、とても可愛い。
「そう言えば、以前に乗せて貰った馬さんはとてもいい子でしたが、この季節に街中を走る馬車の馬さんには、つんとされてしまいます…………」
「系譜の相性だろう。体を預けるものだからね。時期を選べるのであれば、相性が悪い属性で無理をしない方がいい。けれど、もし今の時期が良ければ、山間の土地には冬や雪の系譜のものが通年でいるのではないかな?」
「いえ。リーエンベルクの近くの森で楽しみたいので、乗馬はもう少し涼しくなってからにしますね。夏は、直近でウィリアムさんのお誕生日会もありますし、今年も海遊びにサムフェル、ヒルドさんのお誕生日をする避暑地での夏休みもありますから忙しくなりそうです」
今年もという言葉に、また胸が熱くなる。
季節ごとに決まった予定が入るようになったのは、ネアに出会ってからだ。
もしかするとネアは、来年には飽きてしまうかもしれないけれど、本当はそれがずっと続けばいいのにと思っていた。
ネアが沢山笑っていて、こちらに行こうと手を引いてくれるのが好きだ。
彼女が好きなだけのものを食べられ、もう、どこにでも行けて一人ではないのだと、これからもずっと知っていって欲しい。
「……………ネア、夏夜の宴のことも、少し注意しておこうか」
だからこそそう言えば、こちらを見たネアは静かに頷いた。
「…………参加者ではなかったとしても、呼ばれてしまいそうな可能性がありますものね」
「そうだね。…………君がそうして怖い思いをするのはとても嫌なのだけれど、君はあの人間の魔術師が予言を落とした場所にいたから、少し心配なんだ」
「あれは、予言でもあったのですか?」
「恐らく、情報というよりは予言に近しい魔術の配列だね。過去の参加者の中でも王冠を得たものには、夏夜の宴についてのそのような魔術が付与されるらしい」
「むむ、であればご縁が出来ているかもしれないのですね」
「うん。…………縁を切る事が出来る系譜の者達もいるけれど、あの精霊達に君を会わせる事の方が危ういかもしれない。アルテアとの間に、入れ替えの魔術を敷いていてくれて良かった」
「では、今度エーダリア様にあちらの事を聞いておきます。ある程度の規則性があるのなら、知っているという事で回避できるものも多そうですから」
「アレクシスにも尋ねておこう。恐らく、エーダリアが参加した回で王冠を得たのは彼だ」
「なぬ。やはりアレクシスさんは凄いのですね…………」
アレクシスは、人間の領域の魔術を極め、こちらにはない発想と錬成だからこその新しい領域を治める魔術師だ。
そのような形で、魔物が知らない事を知りそれを成せるのはとても有り難い。
けれど時々、かつてのネアがアレクシスに向けていた憧れの眼差しを思い出し、寂しくなる。
形を結ぶには至らない程度のものであったが、あの人間はかつて、ネアが気に入るような資質を揃えてはいたのだ。
「…………ネア、こちらにおいで」
もっとしっかりと抱き締めたくなり、そう呼べば、ネアはなぜか狼狽えた。
静かな森と雪原を見渡せるバルコニーに立っていたからか、細やかな祝福の煌めきの混ざる風に、その長い髪が揺れる。
「………………ふぁ、い」
「もしかして、あまり好きではないのかな?」
「そ、……………それはありませんが、…………あわあわしてしまいます」
「嫌ではないのかい?」
「………………い、意地悪ディノです!」
「けれど、君が嫌だったら困るだろう?」
そう尋ねる声に何かを感じたものか、ネアは目元を染めて涙目でこちらを見上げると、そっと背中に回した手をばしばしと叩いてきた。
あまりの可愛さにくらりとしたが、彼女が本当に今日は望ましくないという事であれば気付けるよう、その瞳を覗き込む。
「……………て、てんやわんやになってしまい、…………もみくちゃで、あれこれ脈絡のない事を言ってしまいます」
「君はいつも可愛いよ?」
「………………っ、何を口走ったのだろうと考えると、恥ずかしくて………………ディノ?」
「………………ずるい」
「……………むぐぐ、ディノが不安になるといけないのできちんと伝えておきますが、……………嫌では…………ないでふ」
項垂れてしまった事が心配になったのか、こちらを見上げてそう言ってくれたネアに、堪らずに口づけを落とした。
甘い甘いその吐息を感じながら、この夜を少しだけ長くと、小さな魔術を振るう。
この身が朽ちるまでの時間が早く流れればいいと思う事は沢山あったが、こうして時間をより多くと望んだのは、ネアに出会ってからだ。
ただただ愛おしくて、どんなことでもしてあげるよと囁けば、ネアはなぜか、とても困ったような顔をしていた。




