穏やかな海と雪の帳
淡い色の波がひたひたと打ち寄せる海岸を思わせる床には、一枚の基板の覆いの足場を挟み、どこまでも澄明な海の色が敷き詰められている。
その下をゆらゆらと模様を変える波紋を潜るように泳ぐ色鮮やかな魚は、このリーエンベルクの重要な魔術基盤の一つだ。
そんな魚達が宿している魔術の形を辿り、誤作動や動作不良がないかどうかゆっくりと調べてゆく。
単純な作業ではあるが欠かせない仕事で、季節の変わり目や、時間の空いた時などにはこうして地下にある基盤の上に降り立つことも珍しくはない。
小さな不安が一つ、胸の中で弾ける。
その不安の稚拙さに苦笑し、今更そんなことで悩めるようになった自分の幸福を噛み締めた。
(たわいもないことだ…………)
けれども今だけは、こうして魚たちを調べているとほっとした。
穏やかな海の色と、緻密に整えられた魔術に触れるこの作業は、ウィームに脈々と続いてきた過去の血族達の気配を感じ取れる作業であり、この偉大で美しいものを引き継げた自分への誇りを感じられる。
「やあ、エーダリア。ここにいたんだね」
「……………ノアベルト」
ふわりと誰かの影を背後に感じたかと思ったら、柔らかな声がかかって息を吐いた。
ヒルドかと思って緊張してしまったが、やって来たのは契約を交わした塩の魔物のようだ。
魔術基盤の上の床石を踏む靴音は、全く聞こえなかった。
ほんの一年前なら、それでもエーダリアはぎくりとしただろう。
ここは、リーエンベルクの全ての魔術を支える大事な場所であり、契約を交わしたとは言え、その真意を推し量ることの難しい高位の魔物は、やはりどんな気紛れでここに悪戯をするか分らないと。
信頼しているつもりではあっても、そうして無意識に身構えたかもしれないその強張りも既になくなり、今はただ、こうして探しに来てくれたノアベルトの姿にほっとする。
「……………すまない。ボールの時間だったか」
「ありゃ。ボールで遊んで欲しくて追いかけて来た訳じゃないよ。ほら、クラ・ノイがあんなことを言ってたからさ、落ち込んでないかなと思って」
おおよそ魔物の発言らしくないその気遣いを、振り返った先で微笑んだノアベルトは、当たり前のようにくれるのだ。
そんな恩寵にも似た大切なものが、この手の中にあることが驚くのと同時に怖くなるくらい、彼は当たり前のようにここにいてくれる。
淡い南洋の海の上に白いシャツを着て立つ彼は、はっとするほどの美貌を持つ高位の魔物だが、それはいつからか、畏怖や恐怖を与える白持ちの魔物として認識されるものではなく、エーダリアを安堵させる姿の一つとなった。
「………………私はいいのだ。…………このような言い方だと誤解をされてしまいそうだが、決して自分を軽んじているのではなく、お前達や、ネア達、騎士達に囲まれて万が一もないだろうと、安心していられる。それに、見ず知らずの者達に政治や利権絡みで命を狙われることも、気にしていても身動きが取れなくなるだけだと割り切れるようになっている」
「……………うん。表情を見ている限り、本気でそれは問題なさそうだね。じゃあ、エーダリアが落ち込んでいるのは、ヒルドのことかな」
そう言われて、ああやはりこの魔物は気付いてくれたのかと、エーダリアは肩の力が抜けた。
言葉にし難い問題であるその不安を、今迄は誰かと分かち合えたことはなかった。
ヒルドの事情を知るダリルは、そのくらい好きにさせておけと笑い飛ばす気質であったし、グラスト達にそこまでを背負わせる訳にもいかず、エーダリアはずっとこの不安を一人で転がしてきた。
胸の奥で転がる雪玉のように、時に崩れもするが、思いがけず大きくなることもあった不安に向かい合い、絶対に失いたくはない大事な妖精は、今どこで何を考えているのだろうと胸が潰れそうになった夜が、今迄に何度あっただろう。
「…………今回のようなことがあると、ヒルドがまた無理をしないか心配になるのだ」
「それって、この前のこともあったからだよね?」
「そうだな。…………だが、そうではなくとも、ヒルドは一人で背負い込み過ぎる。だから私はダリルにもあまり情報を隠して欲しくないのだが、あれはあれで、自分一人が毒を飲むと言わんばかりに、暗躍し過ぎる節があるな……………」
少し前まで、エーダリアの周囲にある防壁はきっぱりと隔たれていた。
代理妖精として表側で支えてくれたダリルは、その気質を全面に押し出し、あの人間の元王子を思うがままに遊ぶのだという体裁で、かなり強引な政策なども纏めてきていた。
そんなダリルの様子を見て、まだ経験のないエーダリアを利用し、傀儡に仕立てて甘い蜜を吸おうとしているのではと眉を顰める者達もいたが、このウィームの中では、そんな風にダリルの独走を案じる者は殆どいない。
あの書架妖精は、あえてエーダリアを切り離すことで、エーダリアが指示を出せば角が立つようなものも巧みに縛り上げ、このウィームの管理に目を光らせてきてくれた。
(勿論、ダリルは私を甘やかしはしない。私自身にも、身を切るような決断を望むこともあるし、厄介な案件を起案して投げ渡してくることもある…………)
その一方で、王都に残ったヒルドの立場や評判は、弱者のそれであったと思う。
第一王子である兄ヴェンツェルの代理妖精ではあったものの、通信妖精という名目で従僕として控え、常に第一王子の側に立ちながらも、彼は見栄えばかりを買われた妖精であり、何の脅威もない元王妃の奴隷の妖精だと殆どの者達が思っていた。
(今思えば、あの期間は、兄上なりのヒルドの印象操作であったのかもしれない。自分の側で衆目に触れさせ、害のないお飾りのような妖精だと王都の人々に信じ込ませることで、ウィームに送り出す為の準備としてくれたのではないだろうか……………)
ヒルドがこのウィームで暮らすようになったのは、ネアがここに来てから暫くしてのことだ。
最初は、第一王子から派遣された、監察官のような立ち位置であると伝えられていた。
エーダリアの敷いた禁術も勿論のこと、ヴェンツェルが時間をかけて取るに足りない妖精だと認識させていたからこそ、彼が、ウィームで預かることになった国の歌乞いの監視目的から、その枠を超えてウィームにいつの間にかしっかり根を下していたとしても、王都の人々は特に気に掛ける様子もない。
後にヒルドから、ヴェンツェルは最初から、折を見てヒルドをウィームに移すと話していたと明かされた。
(それは、予めそのつもりだと伝えておかなければ、ヒルドが、もう二度と日の当たる場所に姿を現さない覚悟で、私の為に手を汚し過ぎるからだ……………)
エーダリアがまだ王都に居た頃から、ヒルドは、時折ふっと姿を消すことがあった。
そんな時は、ヒルドが帰ってきて暫くすると、エーダリアを亡き者にしようとしていた貴族の訃報や、違法行為が明るみに出ての失脚などの噂を耳にするのが常であった。
だから、エーダリアが気付かない筈もない。
そうして自分の大事な妖精が、どんな風に身を危険に晒し、どんな汚泥を歩いているのかを考え、息が止まりそうになったことも何度もある。
ずっとそのことを悔やみ、そんな場所にヒルドを置いて来てしまったことを後悔してきた。
(ずっと、…………ずっと)
綺麗事を言うつもりはない。
あの王宮から自由になり、幸福になることが自分の役割だと理解はしていたし、それを望んだからこそ、あの最初の邂逅時に、幼いエーダリアは自分を守る為の剣としてのヒルドに手を伸ばしたのだ。
それでも、生き延びて王宮を出ることが叶えば、その先の幸せが欲しくなる。
ヒルドはただの味方ではなく、エーダリアにとって、この上なく大切な存在になっていた。
だからこそ、ヒルドをようやくこのリーエンベルクに迎え入れられた今は、もう二度とあんな場所に戻っては欲しくないとそう願ってやまない。
彼が戻って来られないかもしれない明日の朝のことを考え、眠れなくなる夜は、二度と過ごしたくはなかった。
「ヒルドなら大丈夫だよ。今は、暗躍に長けた僕が隣にいるから、ヒルドが、何か排除するべきだって考える時には、その思考に僕も付き合うからね。それに前回の件でヒルドも懲りてくれたみたいだし、今はほら、何かあったら僕の妹も暴れるからさ」
そう微笑んで頷いてくれたノアベルトに、深い息を吐いてようやく唇の端を持ち上げた。
ヒルドが一人で出かけて行かなかったとしても、今度は二人で行ってしまうのかと言いたいような気もしたが、この魔物であれば信じられた。
妖精とはまた違う気質のこの魔物は、盾として殉じることを良しとせず、邪魔なものを排除したら必ず帰って来てくれる。
その、自分を捧げて終わりにしない強欲さのようなものが、エーダリアにとってどれだけの救いとなることか。
「…………………ああ。お前が側にいてくれれば、安心だ」
「ありゃ、二人でも出かけたら駄目だって言うかと思った。いつか訪れるかもしれないその日の為に、今のうちに説得しておこうかなと思ってたんだけど……………」
「…………前回のことの後で、ネアに言われたのだ。魔物は自身の領域を管理する為に荒ぶるもので、それはもう習性として受け入れるより他にないのだと。その代り、彼等は自分の取り分を手放しはしないし、万が一自分を損なうようなことをしそうな場合、……………こちらの心に不安を残したまま無理をした場合には、どれだけのものを失うのかを、徹底的に理解させておく方が効率的だそうだ」
「…………………わーお。僕の妹は、そういうところ、こちら側の気質であちら側の気質だからさ、容赦がないよね」
そう呟いたノアベルトに、微かに首を傾げる。
そうすると彼は、青紫色の瞳をふっと揺らし、魔術基盤の上に乗った透明な床石を踏んで淡い色の海の上を少しだけ歩いた。
すぐ隣に立つと、エーダリアよりは背が高く、やはり、ふと目を奪われる程の人ならざる高位のものの美しさである。
「あの子はさ、任せておけって出かけていった両親が戻らなかったからさ。…………取り残された者の怨嗟と絶望をよく知っているよ。…………それは僕もだと思う。統一戦争のあの日にリーエンベルクで炎に包まれたのはネアではなかったけれど、僕はそれでも、これでなければならず、これしかなかったという存在に置いて行かれてしまった苦痛を、今でもありありと覚えているんだ。………………だからさ、僕達はエーダリアの立場に立って、大事なものは全部、絶対に帰ってこなきゃ嫌だっていう思いは共有出来るから」
魔物は我が儘だしねと微笑んだノアベルトに、何か答えようとして目の奥が熱くなった。
生き延びることを最優先とし、今はここでウィームの領主として、必要があればこの命を差し出すだけの覚悟を持ってはいる。
やっとそれだけに愛おしいものを手に入れたのだから、そうするしかない場面が来たならば、エーダリアは喜んで犠牲にだってなれるし、その時に自分が不幸だったとは思わないだろう。
それで充分だと思っていた。
(そうだ。それでも充分な幸せを得たと思っていたのだが…………)
けれど今は、そこから先に進んだ更に温かな地面に立っている。
自分も大事な者達の側にこれからも共にいたいし、誰一人だって欠けて欲しくないのだと、そう言えるだけの我が儘も許されるような、そんな安らかな場所まで辿り着いたのはいつからだろう。
だが、今ではもう、それを望んでも許されるのだ。
「………………そうか。………………そうだな」
「そうなんだよ。だから、ヒルドが過去に背負ったものについても、あまり後悔しない方がいい。そういう思いがあると、いざって時に、彼に我が儘が言えなくなるからね」
「……………それについては、ネアと話したことがあるのだ」
「おっと。僕の妹は随分と暗躍してるなぁ…………」
そう呟いたノアベルトに、ヒルドがこちらに暮らすようになったばかりの頃を見ているので、ネアも色々なことを感じ、考えたのだろうと伝えた。
彼女がそのようにして場を均さなければ、今でも飲み込めなかったことも多いだろう。
この大事な契約の魔物だって、ネアがいなければ、こうして手を伸ばすことは出来なかった。
「……………あの日のネアは、全てを失くした者にとって、大事なものを守れるという行為はどれだけの安堵であり救いなのかを、ヒルドの事だとは言わなかったが、自分の問題として話してくれた。………………彼女自身も、…………復讐は自分の心を生かす為の糧であったが、もしあの時間が残されたものを守る為であったなら、どれだけ幸福だっただろうと。……………そう言っていたのだ」
その話をした日、鳩羽色の瞳はとても遠くを見ていた。
まだエーダリアは今ほどに彼女を知らず、けれどもその部下が、ここに辿り着くまでに歩いた道の苛烈さを知り始めた頃。
『……………例えば、二度とベッドから起き上がれず、あの病院から出られなかったとしても、もう二度と以前の暮らしが戻らなくても、………………世界に愛するものが一つでも残っていてくれたなら。私の糧は、自分の心を削り取って燃やす灯りではなく、大事なものがあるのだという誇らしさや、その人に貰う安堵や喜びだったと思うのです。……………守る為にどれだけの対価を支払うことになったとしても、それは、何て素敵で贅沢なことでしょう』
せめて一つでもと願ったその手が空のまま、彼女は復讐を終えて自身の心の扉を閉ざした。
その後も強欲に、一般的な幸福を手に入れてみせようとしたと言うが、その世界ではついぞ手に入らなかったという。
『愛せないということは、あまりにも無残なことに、どこまでも自己責任なんですよ。………誰かにおはようと微笑みかけることもなくて、この素敵な景色を教えてあげたい誰かもいない。みんなは持っているのに、どうして私にだけないのだろうと、息を吸うたびに硝子を飲むような惨めさを感じるんです。私はせめて自分を愛せていましたが、それすら出来ない環境に置かれ、大切なものもなかったら、心がずたぼろになってしまいます』
そんな言葉を聞いて、その日のエーダリアは考えた。
遠く離れたウィームに逃れ、ヒルドとは離れて暮らしていた日々の中で、エーダリアはいつも、ヒルドにもこの美しいウィームを見せたいだとか、彼に恥じないような領主になりたいと考えていた。
ヒルドは相変わらずに王都でエーダリアの為にあれこれと心を砕き、そして手を汚すこともあったようだ。
その日々には確かに、お互いへの思いが心の中にあり、それは確かな道行の灯火であったのだと。
「………………その問題についてはね、僕が詳しいよ。今がまさにそうだからね。だからきっと、ネアが統一戦争で命を落としたと信じていた頃の僕が、エーダリアの為に手を汚すヒルドを見たら、何て贅沢な奴だろうって思った筈だ。……………実際にそう思ったし、彼の必死さが理解出来たから、僕は王都で色々なものを壊して遊んでいた時にも、ヒルドには手を出さなかった」
「…………………そう言えばお前は、その頃のヒルドのことも知っていたのだったな…………」
過ぎた事とはいえ、気付かないところで乗り越えた壁があると思うと、今更ながらにひやりとした。
魔術の動く温度のない風に白い髪を揺らし、ノアベルトは愉快そうに小さく笑う。
「そりゃ、僕の大嫌いなヴェルリア王族の王子の、代理妖精だったからね。……………でも、今思えば僕は、ヴェンツェルのことも、あんなにバーンチュアそっくりなのにそこまで憎みはしなかったのかな。おまけにドリーは僕の大嫌いな火竜だったのに、何でだろうね。……………そこにあったのが、僕がヒルドに感じたような、彼等の最初で最後の一つだったからかもしれない」
「最初で最後の、一つ……………?」
「そう。ヒルドにとってのエーダリアみたいに。ドリーが死ねば、多分ヴェンツェルは折れるよ。契約の子供を失ったら、勿論その竜は死ぬだろうしね。…………そんな姿が見えたから、たった一つの宝物を失う恐ろしさを知っていた僕は、無意識にあの二人を破滅させようとは思わなかったのかもしれないな。でも、もしその存在に縋るより力を欲するだけの契約だったなら、………………僕は君の兄弟にもっと酷いことをしていたかもしれないなぁ…………」
(であれば、ノアベルトはその憎しみの中でも、誠実にその相手を見たのだ)
その心を覗き込み相手を知り、己の心に触れないものだけを壊した。
ヴェルリアの王族を呪った塩の魔物の残虐さは、その血の一片を持つエーダリアの耳にも届いていた。
彼の引いた一線がどんなものだったのか。
それでもノアベルトは、ヒルドを傷付けず、気紛れとは言え、幼いエーダリアを救ってくれた。
今はここにいてくれて、こんな風に微笑みかけ、エーダリアの足りない部分を補って支えてくれる。
おはようと言い、こんなものがあったのだと報告をする。
とても大切なことも、何でもないことも。
そして彼はいつも、向かい合うエーダリアの発しなかった声にまで気付き、大切な仲間の一人として、エーダリアの方を見てくれる。
「……………私は、お前に出会えて良かった」
「…………………え、告白?!僕告白されちゃったの?!」
しかし、万感の思いを込めたその言葉に、ノアベルトは斜め上の反応をした。
慌てて首を振り、わざとらしく自分の体を抱いて見せる塩の魔物に、必死に弁解する。
「そ、そうではない!!…………………そうではないが、…………お前やヒルドがいてくれて、あの日にダリルを選んだこともきっと。そして、私が出会った歌乞いがネアであったことが、私をここまで連れてきてくれて今があると思うのだ……………」
「………………はは。僕もさ、ネアにそう言ったことがあるんだ。そうしたら、エーダリアがエーダリアじゃなきゃ、僕は君と契約しなかったし、ヒルドとも、彼じゃなきゃ友達にならなかっただろうって言われたんだよ。そこから先は、君達の取り分なんだってさ。…………僕もそう思うよ」
「……………そうか」
「ありゃ、エーダリアが照れた」
「お、お前がそのようなことを言うからではないか。……………まったく」
「そうかな?この会話って、エーダリアの物凄い熱烈な告白から始まったけど?」
「その言い方はやめてくれ…………」
何だか二人で顔を見合わせて笑ってしまい、ひどく幸せな気持ちで周囲を見回したところで、エーダリアはぎくりとして飛び上がった。
「ヒルド?!」
「ありゃ、しまった、ヒルドを隠していたのを忘れてたぞ……………」
「やれやれ。まったく、あなたという人は……………」
「ヒルドを隠していたのか……………?」
「う、うん。エーダリアの様子が不自然なのを気にしていたからさ、ヒルドの前では言い難い本音を引き出してみせるよって言って連れて来て、遮蔽魔術で隠してあったんだけど、うっかり……………」
「ネイ………………」
「うわ、ごめんってば…………………。あ、ボールはなしにしないで!」
「………………やれやれ。あなたの懇願は、まずそこから始まるのですね……………」
聞けば、ヒルドはヒルドで、エーダリアがまたしても命を狙われたことで気落ちしているのではないかと気を揉んでいたらしい。
そうではないと思うと言ったノアベルトと相談をし、ノアベルトがヒルドの姿を隠して同席させ、ここでエーダリアの本音を引き出そうとしてくれたらしい。
「……………すまない。上手く飲み込めずに、心配をかけた」
「……………いえ。あなたが案じておられたのは、私だったのですから、今回のことは私の配慮が足りませんでしたね。……………エーダリア様。もう、私は大丈夫ですよ」
その言葉にぱっと顔を上げれば、こちらを見たヒルドの瑠璃色の瞳が柔らかく微笑む。
幼い頃に何て美しいのだろうと思い、この瞳の強さと清廉さに救われ、縋り、この微笑みがあったからこそ、エーダリアはここまで来られたのだと思う。
「私は、お前が大事なのだ。どうかこれからも、壮健でいてくれ。………………ヒルド?!」
「………………っ、」
しっかりと伝えておかなければとそう言えば、なぜかヒルドは目を瞠って片手で口元を押さえると、何歩か後退してしまう。
「わーお、大胆だなぁ!それとヒルド、後ずさるとエーダリアが落ち込むから我慢しないと」
「ええ。………………不意打ちでしたので、つい」
「ネ、ネアに言われたのだ。お前達は人間とは違う種族なので、その種族なりの誤解の仕方は人間には想像もつかないことがあると。なので、定期的に自分の本音を伝えないと、暴走すると言われて……………。……………いや、今のが私の本音だ。ヒルドも、ノアベルトも、どうか無茶だけはせず、…………これからも共にいて欲しい」
ひたひたと、足元で淡い色の海が揺れる。
ふっと視界を過ぎるものがあり視線を持ち上げると、はらはらと雪が降り始めていた。
驚いて周囲を見回せば、そこに広がるのは南洋の海に降る雪という、不思議で美しい光景だ。
その雪は基盤には影響を与えないものらしく、床に触れる前に淡く光って消えてしまう。
「これは……………」
「シルが虹をかけるのと似たような仕組みだよ。エーダリアの感情に反応して、リーエンベルクが喜んでいるって感じかな。うん。エーダリアはリーエンベルクに愛されてるなぁ…………」
「……………当事者でなければただ美しいばかりですが、今はなにやら気恥ずかしいですね」
「よし、今夜は一杯飲んで、記念日にしよう!」
「………………その様子だと、あなたは、深酒して脱ぐでしょう………………」
「かもしれないけれど、幸せなことは全てに於いて許されるらしいからね!」
青紫色の瞳を細めて、潤ませるように微笑むノアベルトがそう言えば、ヒルドも呆れたように息を吐きながらではあるが、はっとする程に穏やかな微笑みを見せた。
(そうだ。……………ああ。私は幸せだ…………)
だからこの思いは、きっとこの場所にも伝えるべきなのだろう。
そう思ったエーダリアは、屈み込んで透明な床石に触れると、そっと囁いた。
「………………そして私は、このリーエンベルクでずっと暮らしたい。この土地を何よりも愛しているからな」
その夜、リーエンベルクの中を散策していたネア達は、見たこともない壮麗な広間や、美しい森を内包した小部屋など、不思議なものをたくさん見たらしい。
真夜中にはリーエンベルクの大浴場があの芳しい湯を湛え、翌朝も、リーエンベルクのあちこちでカーテンや絨毯が咲いてしまい騒ぎになったようだ。
かくいうエーダリア達も、見たことのない満開のスリジエの花を覗かせる部屋に出会い、その夜は花盛りの大木を有する部屋で酒を酌み交わした。
心が解けるような幸福な時間であったが、頼むからノアベルトは真剣に記念日にしないで欲しい。




