63. お土産は万全です(本編)
硬質な音を立てて、白薔薇が揺れていた。
あるかなきかの美しい風に揺らぎ、しゃりしゃりと氷の枝葉が触れ合うような澄んだ音を立てる。
そこに、吹き込んだ風のようにざあっと淡く凝ったものが砂の影に見えて、ネアはぎくりと体を強張らせてしまった。
「グレアムだよ」
「………………ふぁ」
抱き締めてくれているディノにそう教えて貰い、ネアは耳元に触れたその声にほっとして頷いた。
凝ったのは砂ではなく、きらきらと細やかに光る灰色の星雲のようで、それが輪郭を描いて美しい魔物の姿に戻るのだ。
こつりと靴音が響き、優美な白灰色のフロックコートの裾がはらりと落ちれば、ネアが思わず見下ろした宝石の床には、もう一粒の砂も落ちてはいなかった。
「申し訳ありません。……………弾かれました」
「いや、君の擬態のお陰で、この子を危険に晒さずに済んだ。…………あのように壊れていると、やはり理の領域とは違う歪み方をしているようだね……………」
「ええ。砂蛇と聞いて備えたものとは違う資質になっていたようです。魔物の皮を被った、精霊の亡霊に近しいですからね。……………もう既に?」
「うん。壊してしまったよ。半分は、ウィリアムのハンマーで、この子が壊してしまったけれどね」
「それはそれは」
ディノがそう言い、ネアがふんすと胸を張ると、グレアムはにっこりと微笑んだ。
褒めてくれそうな素敵な微笑みなので、この夢見るような瞳の魔物が大好きなネアはすっかり浮ついてしまい、いそいそと砂蛇の魔物の罪状を報告する。
「あのざらざら蛇めは、ディノに怪我をさせたのですよ!おまけにヒルドさんにも右肩下貫通という酷い怪我をさせ、…………デジレさんの腕や羽もくしゃっとやりました。もっと苦しませたかったのですが、下手に生かしておいてもしもがあると、一番いけませんからね!」
「………………ほお、我が君に怪我を」
ネアとしては、憎っくき砂蛇の罪を暴きたてたばかりだったのだが、それはどうやら、グレアムの静かな怒りに可燃性の燃料と薪をくべてしまったらしい。
微笑みを数割増しで鋭く、そして艶やかにすると、犠牲の魔物はどこか壮絶なまでの美しい瞳を笑みの形に細める。
「砂蛇には、下の弟がいた筈です。末の弟はカルウィの王女と婚姻を結び、そちらの気質に落とされて骨抜きにされておりますが、次男は念の為に処分しておきましょう。宜しいですね?」
「問題があるようなら、そうして構わないよ」
そんなやり取りを見ながら、穏やかな怒りの冷たさにすんと冷えてしまった誇らしさを胸の奥にある棚にこそこそとしまいながら、ネアは、グレアムの報復の恐ろしさを思った。
砂蛇の次男とやらがまったくの無実だとしても、もはやその命は風前の灯火だ。
だがしかし、ここで無実かもしれない者を巻き込んではならないと声を上げる程に、ネアも善良な人間ではないのだった。
(それで大切な人の安全が確保出来るのなら、いくらでも余分に踏み滅ぼそう…………)
そう考えたネアは、おやっと手の中のハンマーを見下ろし、今回は踏むのではなく叩くのだったと頷いた。
ディノがグレアムと話しているようなので、ネアは腕の中から抜け出すと、それでも保安上はディノの手を離さないようにしつつ、ヒルドの様子を窺いにゆく。
ヒルドは怪我を治すとリーエンベルクと連絡を取っていたが、そちらもどうやら無事のようだ。
(もう、どこも痛くないのかしら…………)
そうっと覗き込むと、美しい羽が僅かに広げられ、瑠璃色の瞳がこちらを見る。
我慢したら家出すると脅したディノとは違い、こちらの妖精はすぐに自分の苦痛は隠してしまいそうではないか。
「……………ヒルドさん、立っていてもどこも痛みませんか?」
表層の傷が塞がっている事は確認させて貰ったものの、その内側までは確かめられない。
そうなるとやはり、まだ少し心配なのだ。
(胴体部分のことだし、内側に癒えていない傷があったりしたら……………)
魔術に明るくないネアは、ついついそう考えてしまうのだが、こちらを見たヒルドは、おやっと眉を持ち上げてから優しく微笑んでくれる。
「ネア様から、通常のものよりも効果の高い傷薬をいただいていましたからね。あれ程に呆気なく傷を癒すとは思っておりませんでした」
「………じくじくしたり、何だか熱っぽくなったりしたら、きちんと報告して下さいね。そして、帰ったら背中側の皮膚も目視確認です!触診もしますので、我慢していたら痛い目に遭いますよ!」
「おや、それはとても情熱的ですね」
くすりとそう笑い、ヒルドは伸ばした手でネアの頬をそっと撫でる。
(…………私の一番はディノだとしても、それでも大切で、そしてディノとは違うのだ…………)
魔物はとても頑強で、大切な魔物が傷付けばわあっと怒りと悲しみで荒ぶるが、妖精であるヒルド達は、やはりどうしても魔物より儚く見える。
この、透けるような羽や、すらりとした手足で怪我をされると、あまりの怖さにぞっとしてしまうのだった。
「ディノ様がいらしたので心配はしていませんでしたが、……………あの穢れた砂が、あなたに触れる事がなくて良かった」
そう呟く声に籠る熱に、ネアは、ヒルド達でさえ傷付けた砂の恐ろしさを思う。
ヒルドは森と宝石の質の属性相性が悪く、デジレは言わずもがな、そしてディノは擬態をしていたとは言えあれだけの怪我をしたのだから、かなりの力を持つ魔物だったのだろう。
「…………あの魔物めは、祟りもののような要素もあったのですよね」
「攻撃そのものを案じたのではない。あれが、姦計を司る者だからだ。……………あの悍ましさと魔術の精密さ。それで肌を犯されたら、人間の精神なぞひとたまりもないぞ」
そう重ねたのはデジレで、ヒルドより酷い怪我だったタジクーシャの王は、円卓に添えられていた豪奢な椅子にぐったりと腰掛けている。
生きたものや概念から派生した妖精とは違い、品物から派生した宝石妖精は怪我の治りが遅いのだとか。
歪に捻れていた腕は元通りに見えるが、まだ骨や腱などの全てが綺麗に繋がった訳ではない。
ずたずたにされた羽には、美しい硝子に蜘蛛の糸のようなヒビが入っているような無残な傷跡が、まだ残されていた。
「……………むぐ、あやつを例えに出して思考してしまいました。死にたいです」
「ネア?!」
「…………むが?!なぜ突然羽織りものに?!」
「……………ネアが虐待する…………」
伴侶の危険な発言を聞き逃さず、慌ててネアをぎゅうぎゅうと抱き締めたのはディノだ。
その腕にもみくちゃにされながら、ネアは悲しく目をしぱしぱさせる。
「私の天敵を、自ら思い浮かべる自損事故が起きたのです。私の心はとても傷付いているので、おやつなどを与えてくれても構いませんよ?」
「では、これにしようか。アルテアから預かっているからね」
「ぎゅ!おやつゼリーです!」
美味しいゼリーを口に入れて貰い、もぎゅもぎゅしているネアも立ち会い、がしゃんと重たい音を立てて円卓の上に乗せられたのは、スフェンが閉じ込められている隔離牢だ。
ランタンにも似たその入れ物は、砂蛇との戦いの前にヒルドが金庫のようなところに隠していたそうで、幸いにも欠けてしまっていたりはしなかった。
「さて、面倒な積荷は早々に手放しておきましょう。ここで開けても、問題がなければ引き渡しとさせていただきますが…………」
「…………あの薔薇が自然に枯れ落ちるまでは、ここは私の権限で閉じてある。限られた時間ではあるけれど、余分は一切ないよ」
ヒルドの問いかけにそう答えたのはディノで、領域の権限を今はディノのものにしてあるので、砂蛇の魔物が入り込む隙はないのだそうだ。
「では、開けさせていただきます」
「ネア、こちらにおいで」
「むむ、またしても羽織りものになるのですね………」
ネアは、しっかりとディノに後ろから抱き締められ、魔術の噛み合う金属的な音が響くテーブルとの間に僅かに進み出たのはグレアムであった。
ヒルドがふうっと魔術を含んだ吐息を吐きかけると、ランタンの炎が消える。
その途端、ランタンがかしゃんかしゃんと音を立てて組み上がり形を変え始めた。
そのまま変化を重ねたランタンは、黄金の装丁のある美しい装飾本のようになり、それを開いたヒルドが指先で文字を辿る。
すると、なぞられた文字列がさあっと入れ替わり、掲げられたその本の真下に鮮やかな魔術陣が浮かび上がった。
(……………あ!)
目を離していた訳ではないのに、いつの間にか、けぶるような金糸の髪を持つ一人の宝石妖精が立っている。
眩しい光を避けるように目を細めていたが、ゆっくりと淡い金色の瞳を見開き、周囲を見回す。
「……………あの牢獄から、このように引き摺り出されるとは…」
どこか皮肉げにそう呟き、そこにいるデジレを呆然と見つめたスフェンは、ぎくりとしたように言葉を途切れさせた。
「王、……………その羽は、」
「愚か者めが。お前が引き込んだ砂蛇の手で、危うくこの国は滅びるところだった」
そう告げたデジレの声は、いっそ穏やかな程である。
けれども声音は霜が降りるような冷たさで、美しい黒ダイヤの瞳には、慕う者には決して向けられたくないような侮蔑の色さえ浮かべられていた。
スフェンという宝石妖精の思惑は、この王への思いなのは間違いなかった。
なのでネアは、どのように相対するのかと思ったが、ぐらりと体を揺らしかけたスフェンは、けれどもその表情を見事に立て直してみせる。
「………………やれやれ、今回はあなたの勝ちのようだ。王座への距離は、私が思っていたよりも近くはなかったようですね」
「…………スフェン、お前にその体裁がまだ必要なら、好きにするといい。だが、生かして取り戻しはしたが、それはお前の処分はこのタジクーシャで決めるべきものだからだ。ウィームとタジクーシャは、既に友好条約を結んだ。どのような絵図を描き策略を練ったにせよ、二度と私の道行きにその羽の影を落とすことは許さぬ」
ふっと笑う気配に、デジレの瞳が細められる。
ひらりと片手を振ろうとして、そこに重たい鉄結晶の枷が嵌められている事に気付いたものか、スフェンは僅かに顔を顰めた。
「…………あなたの騎士達はお役に立ちましたか?侯爵家の、あの軽薄な若者は?四大伯爵家の当主達は?……………そのように羽を痛め、そうまでして、この鉄枷のような王家に繋がれるお気持ちは如何ですか?」
「価値観の違いだな。私は、このタジクーシャの王である事に満足している。それを、お前の身勝手な感傷などで曲解されるのは不愉快だ」
「………………あなたはいつもそう仰る。ですが、政務の合間に市井に下り、それを慈しみ息を吐くお姿が、どれだけ惨めかご存知ですか?」
その言葉に、デジレは何も言わずに額を押さえて小さく呻いた。
隠していたお忍びの時間を知られていたからというよりは、自分の副官であった筈の者と、ちっとも話が噛み合わない事に苛立ち困惑しているようだ。
「…………それは、」
なのでつい、ネアはそこに言葉を挟もうとしてしまった。
あれだけの深い傷を負い、この国を愛しているのだと話していたタジクーシャの王は、ネアや魔物達を利用した狡猾な宝石妖精だが、守るものの為に汚い手立てをも講じられる誇り高い王である。
まだこの世界に来て三年しか経っていないネアを、ウィームの子と呼んでくれて嬉しかったのだ。
「口を慎め。人間の小娘めが。お前達が、………お前達、ウィーム王家の人間こそが、あの方の願いをこのように歪めたのではないか」
「スフェン、」
ぴしりと鞭打つような鋭い声に、スフェンは体を揺らしたが、その瞳に湛えられた深い絶望と怒りは、いっそうに鮮やかになる。
「あなたは、アー…」
「その名前を呼ぶな!!」
スフェンが何かを言いかけたその刹那、デジレの発したその言葉は、落雷のようであった。
声のあまりの鋭さと重さに、ネアはひゅっと息を飲んでしまう。
自ら相対したスフェンも蒼白になって喉を鳴らし、声もなく立ち尽くす。
「愚か者め!その名前は、今も尚、愛する者を食われ呪う者たちが多いからこそ封じたのだ!ここにその系譜のウィームの人間がいるというのに、かの者の名前を声を出して呼ぶなど浅慮にも程がある!!」
びりびりと空気が揺れる程の怒号に、スフェンは唇を噛んだようだった。
(ああ、……………この人は王様なのだ……………)
ネアは、あらためてその王としての振る舞いに感嘆し、ひび割れた羽がまだ痛ましいデジレを、とても美しい妖精だと思った。
彼はまだ、椅子から立っていない。
立たないのではなく、立てないのだと分かるこのような状況下であっても、それでも彼は、誇り高く王として振る舞うのだ。
砂蛇の魔物の介入を許し、副官であるスフェンがちっとも王としての彼を認めなくても、デジレは王としてこの金色の瞳を持つ宝石妖精と向き合っている。
これだけの痛手を負い、その治世を支えてくれる筈の臣下に矜持を傷付けられ、それでも尚王でいようとする人に、もういない友人を今も思う人に、スフェンという妖精はどれだけ酷い仕打ちをするのだろう。
「…………私は今、ウィームの使節として、ここにいます。ですので、私の発言は、公式なものとして尊重されるべきもの。罪人として引き渡されたあなたに、それを遮る資格はありません」
ネアは、抱き締めてくれている魔物の腕をぎゅっとしてから、そう話し始めた。
デジレがしっかりと、そしてスフェンはのろのろとこちらを向き、その美しい宝石の瞳に、ちっぽけで見栄えもしないであろう、人間を収める。
「ですが、あなたはあまりにも失礼です。この方が市井に顔を出すのは、この国のその端までを愛されているからでしょう。一つの夢を諦め、それでもとここを慈しむ人の宝物を、さもその人の為であるかのように無神経に踏み荒すあなたは、とても失礼で残酷です」
「……………何を、」
スフェンの声は、どこか弱々しかった。
言葉にして問うのはネアであるが、ここにいる者達から彼に向けられた眼差しは、どれも同じ冷たさに違いない。
「ですが、勿論あなたは、デジレさんを苦しめて悲しませ、その宝物をずたずたにしたかったのでしょう。この方が丹精込めて育てた国を悪い魔物に明け渡し、この方が大切にしている人達を、あの魔物の餌にして、心が引き裂かれるデジレさんを見て笑いたかったのですよね?」
そう問いかけ、微笑んだネアに、月光と同じ色の瞳がぞっとしたように見開かれる。
「我が儘にもデジレさんの座る王様の椅子が欲しくてならず、あなたの為だという最も酷い言葉を針のようにして、その宝物を踏み荒らしたかったのですから、勿論、あなたのした事はその思惑通りなのです」
違うと、そう呟く弱々しい声が聞こえただろうか。
「あなたの願いが叶い、デジレさんはたった一人で我々と対峙し、大きな保障を約束させられてしまいました。そして、ここでは臣下の一人もなく襲われて砂蛇の魔物に傷付けられてしまい、更には、我々との会談の場にそんな危険を持ち込んだことで、とても危うい立場になっています」
「…………っ、これは、………私が!!」
「愚かな臣下の忠義など、その主人を害する為に忍ばされた毒と変わりませんね。タジクーシャを魔物方の怒りで滅ぼせば、ドレドが自由になれるとでも思いましたか?その歪んだ自己満足は、どこを切り取ってもあなたの自己愛に過ぎません」
ネアの言葉を引き取ってそう告げたヒルドに、スフェンは深く深く息を吐いてから、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
床に広がった美しい金髪に、きらきらと月光が落ちる。
どれだけ己の理想に酩酊していても、こうして霧が晴れる事はある。
そしてそこに残されたのは、残念ながら彼が望んだようなものではなかった。
スフェンの両手を一纏めにして拘束している手枷は、解放されたばかりの時よりもずっと重たくなったように見えた。
「…………すまぬな。お客人に言わせてしまったか」
苦笑してそう詫びたデジレに、ネアは静かな目を向けた。
「まったくです。このような事は、拗れて燃え出す前にしっかりと語らい、二人で山小屋のお泊まり会で星などでも見ながら、お酒を飲み交わしつつ腹を割って話し合っておくべきだったのです」
「…………山小屋」
「邪悪な人間は、そうして共に過ごす人との距離を詰めるのですよ。………あなたはきっと、この方への対処も一人でされたのでしょう。けれどそのあなた自身が、この方の正しい扱い方を知らなかったのではありませんか。…………まったくもう!誤解とすれ違いで起こる政変に巻き込まれるだなんて、痴話喧嘩に巻き込まれるのと変わりないもやもやではないですか…………!」
砂蛇の企みがどれだけ狡猾であれ、スフェンの心がデジレに向いていたものなら、これは未然に防げた事件なのだ。
そこに巻き込まれ、大切な魔物とヒルドが怪我をした事は、ネアにとっては許し難い罪であった。
ぐるると小さく唸ったネアに、微笑む気配を見せたのはグレアムだろうか。
こちらも間違いなく、ディノが傷を負った事をずっと許さない過激派である。
(去年の、復活祭のことを思い出した……………)
履き違えて毒になった執着が、どれだけ、向けられた人を引き裂いてゆくことか。
デジレは幸いにも自分でその愚かしさを蹴散らせる人であったが、そう出来ずに傷を負うばかりの人もいる。
ネアが思い出したのは、自称婚約者である死者の女性が、エーダリアにしたという仕打ちのむごさであった。
あの話を聞いた時の腹立ちを、そして悔しさを、このスフェンを見ているとどうしても思い出してしまうのだ。
「……………そうだな。それは私の至らぬところか。今度からは、臣下達とも話をしよう」
ネアの苦言に対しそう苦笑し、けれどもデジレはゆっくりとふらつきながら立ち上がると、こちらに向かって深々と頭を下げた。
すぐにぐらりと体が揺れ、それを素早く支えたのはヒルドだ。
その様子を見て、ネアは、今回の条約締結が彼らの親交を温め直す機会になればいいなとこっそり思う。
支えられてしまったデジレは情けなさそうに溜め息を吐いたが、眼差しを冷淡にしてスフェンに視線を向ける。
「……………スフェン、タジクーシャに招き入れた砂蛇は、一人だけだったか?」
その問いかけに、スフェンは僅かに顔を上げた。
悲しげで苦しげな眼差しには、それでも今も尚、見上げた王への無垢な思慕が映る。
「……………ええ。翡翠の伯爵家から引き合わせられた者は、一人だけでした。タジクーシャである程度の地位を得たいと願っており、また、ウィームを巻き込めば、そこに暮らす白百合の魔物に報復するのにいい機会だと」
(……………おや?)
その言葉に顔を見合わせたのは、ネア達だ。
「驚いたな。その建前でジョーイに傷を付けようとしていたのではなく、本気でそう考えていたのか…………」
「……………まさかの、本気の勘違いです」
「おや、ほこりの履歴を含めてそう判断したのかもしれませんね」
「それもあるかもしれないが、…………なぜウィームなのだろうね。ジョーイがこちらに顔を出したのは、数える程だった筈だが、………グレアム、彼は、ウィームに暮らしていたような時期があったのかい?」
「ウィームに親しくしている人間の魔術師はいるようですが、そこ迄ですね。…………砂蛇は、他に白百合について語っていたか?」
そう尋ねたグレアムの硬質な声は、ぞくりとするほどに冷ややかだ。
余程の精神圧なのか、途端に蒼白になりつつ、スフェンが震える声で告白を重ねる。
「ウィームで、人間のふりをして王宮の魔術師として仕えていると話していた。恐らくは歌乞いに違いない女官の一人を伴侶にし、………」
「…………ああ。だから彼は、この子を執拗に狙ったのだね」
「…………む、…………私をですか?」
「歌乞いとなると、君しかいないだろう?…………そうか。君を標的とした目論見も、やはりあったようだ」
思わぬ事実に目を瞠ったネアに対し、なぜかグレアムが目元を覆って嘆息している。
「グレアムさん…………?」
「……………申し訳ありません。恐らく、砂蛇がジョーイだと思い込んだのは、ウィームに暮らしていた頃の俺でしょう。時間の並びもおかしいですが、あれが、半分狂っている事を失念していました……………」
「そうか。正常なように見えて、そうではないものだったね。より深い狂気を司る長兄ならば、尚更にそうだったのだろう」
「…………もしかして、完全な人違いと勘違いで、ウィームには白百合の魔物さんと、その歌乞いさんが暮らしていると考えていたという事なのですか?」
「そのようだね。…………グレアム、これは君にもどうしようもない事だよ」
「ええ。……………ですが、やはり何とも…………後味が悪い」
だが、どうやら勘違いはこれで済まなかったようだ。
「…………その魔物は、白百合の魔物ではないのか」
呆然とそう呟いたスフェンに、なぜかデジレまでも困惑したようにディノを見ている。
どんな勘違いからその認識になってしまったのかとネアもとても困ってしまい、へにょりと眉を下げる。
なぜかタジクーシャの妖精達は、ディノを白百合の魔物だと考えていたようだ。
とは言え、ここで知られていない正体をこちらから明かす必要もない。
(デジレさんは、グレアムさん達から万象の魔物がいると聞いてはいても、魔物の王様が自らここを訪れるとまでは考えていなかったのかもしれない。そう言えば、グレアムさんの階位も勘違いしていたような……………)
グレアムよりディノの方が高位であるとは考えていたようだが、まさかの誤解ぶりには驚いてしまった。
この場合、こちらの魔物達の階位を見誤っていたデジレが、ネア達を軽視したらと思うと、とても危うい状況にあったとも言える。
もしかするとその辺りは、やはり閉ざされた土地の者達らしい部分なのかもしれない。
ネアは、隔絶された王国らしい、情報の偏りにもあらためて触れた気がした。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。これを見るがいい!砂蛇の魔物を宝石にしてやったわい」
「お爺様、その宝石狩りを成したのは、僕ですからね。他ではお好きなように仰ってくれて構いませんが、姉上にだけは本当の事を言ってくれませんと、姉上は、本気で僕の腕を千切り取るおつもりなんですよ…………」
やがてデジレが王宮を開くと、タジクーシャの王を案じていた臣下達も戻ってきた。
ネアは、デジレ友達いない説を懸念していたものの、なかなかに良い者達が控えているようで、一つの物語が始まりそうなくらいに層が厚い。
そんな高貴な宝石妖精達は、ウィームの使節団と高位の魔物達に嫌な顔一つせずに優雅な挨拶をしてくれ、その中の何人かは、国内の問題でご迷惑をおかけしましたとわざわざ言いに来てくれるような一面も見せてくれる。
(高慢で扱い難い人ばかりという印象だったけれど、これだけの人達がデジレさんの側にいるのだから、スフェンさんを副官としたのは監視のためだったのかもしれない…………)
心配していた砂蛇の次男は、執念深く王宮の外に隠れていたところを、怖い姉に脅されて取り敢えず砂蛇は片っ端から滅ぼさねばならなかった青玉の伯爵家の嫡男が、頑張って宝石にしてしまったのだそうだ。
属性的に不利な相手と戦い、なんと一人で倒してしまったのかと驚いていると、デジレが、こっそり彼は王の器を持つ一人なのだと教えてくれる。
気弱なところもあるが、政治的な判断は鋭く、何しろ戦闘においてはめっぽう強い。
青焔から生まれたサファイアを核とした、戦乱の災いの系譜の長銃から派生した妖精なのだそうだ。
(それでもやはり、ダイヤでなければ王族ではないのだろうか……………)
こうしてデジレに仕える者達が国を変えてゆき、いつかそのような縛りがなくなれば、後継者の問題や補佐官などの選出が楽になり、ほんの少しだけデジレも自由になれるかもしれない。
だが、彼はきっと、その命がある限りはこのタジクーシャを愛し、守り抜いてゆくのだろう。
そんなデジレ王は、魔物達から今回の一件について、今後も調査を継続し、不審な点があれば必ず報告する事を義務付けられた。
砂蛇達の標的が白百合の魔物だという誤解の下とは言えウィームにも据えられていた事で、彼らの認識の差異に他の誰かの思惑などが絡んでいないかどうか、引き続き調べてゆく事になったのだ。
「このお茶も、お土産に有難うございます。いただいてとても美味しかったので、嬉しいです」
ネアがそうお礼を言ったのは、タジクーシャからのものではなく、デジレ本人が個人的なお土産として持たせてくれたものだ。
ネアではなく、ディノへ渡してくれるあたりも、きちんと魔術の繋ぎに気を遣ってくれている。
「他の妖精達はあまり好まないが、私は気に入っているものなのだ。…………ああ、ウィームの子であるお前なら知っているだろうか。かつて、ここを訪れたウィームの魔術師から聞いた、夏至の日に生まれた聖人の日に咲く黄色い花の薬草茶だ」
「……………むむ、ジョーンズワートでしょうか?」
もうしそうであれば、ネアにとっては懐かしい響きだ。
こちらにもあるのかなと嬉しくなり、ネアは沢山貰ってしまったお茶の缶を抱きしめる。
となると鎮静効果などが好まれているのかもしれず、疲れているのかなとネアが首を傾げると、デジレはどこか懐かしむような柔らかな微笑みを浮かべた。
「……………私の友人であった、ウィームの魔術師に因んで作らせた特別なものだ。ここはウィームではないからな、厳密には違うものかもしれないが、夏至に聖人の日を持つ国の黄色い花々で作らせてある」
「……………その方のことを、大切にしておられたのですね」
「あれに出会わなければ、私は愚かな王になり、この国を愛している事にも気付かないままだったのだろう。…………誰とも違う価値観を持ち、けれども私と同じようにどこかへ行きたいと望みながらも、どこにも行けないままに愛を見出した男であった」
だからこそ、デジレもタジクーシャへの愛に気付けたのだろうか。
「彼は、所在の知れない仲間がいるので、もしかすると自分の知る誰かが、ここに迷い込むかもしれないと話していた。……………その言葉通りではないかもしれぬが、こうしてウィームの子がタジクーシャを訪れるとはな」
(…………ああ。この人はそれが嬉しかったのだわ。私がウィームの領民で、そこにもう一度その人の面影を見付けられたから)
ただ、ウィームの住人であるという共通点しかないが、例えそんなものであっても。
ネアは、幼馴染と結婚し事故で命を落としたという魔術師のことを思った。
その人物と出会ったことで、この美しい宝石の町が守られたのなら、この話は、帰ってから是非にエーダリアにしてあげなければいけない。
(きっと、エーダリア様も喜んでくれるような気がする……………)
ウィームの名を背負い出かけた先での襲撃だったので、きっとネア達を送り出したエーダリアは、少し落ち込んでいるような気がする。
なので、この土産話は真っ先に伝えようと、ネアは微笑んで頷いた。
ウィーム使節団との懇親会は、砂蛇達の侵食があったかもしれない王宮を避け、タジクーシャの市井にある人気の料理店の個室で行われる事になる。
ささっと美味しいものを食べて帰るだけの簡単な昼食会になったが、デジレから寧ろ王宮の料理より美味しいと聞いたネアは、やっとタジクーシャで美味しいものを貪り食べる日が来たかと期待に胸が高鳴っている。
これは、頻繁に外周の町にも足を運び、タジクーシャの民たちとの交流を密にしたデジレだったからこそ設定出来た代替案であり、デジレの後援者の店は、王宮より狭い部屋で行うからこそ完全な排他術式が敷けるのだった。
敢えて公式の食事会は取り止めと公表し、デジレが普段使っている抜け道からその店に移動すると、ネアはまず、通された個室の内観の美しさにぽかんと口を開けた。
砂漠の国の高価な絨毯の模様のような足元は、基盤となる宝石をくりぬいて模様部分に他の宝石を詰め込んだものを輪切りにし、タイルのように並べた手の込んだ床石なのだそうだ。
ふくよかな青に艶やかな牡丹の花が咲く模様の精緻さにうっとりし、見上げれば、宝石の花の天蓋にすっかり見惚れてしまう。
天井から咲きこぼれるのは、満開のミモザにも似た美しい宝石の花で、その小さな花の一つ一つの煌めきがシャンデリアの灯り代わりにもなっていた。
「……………ほわ」
「王宮の壮麗さもさることながら、タジクーシャの真髄は、このようなところにある。商人達の町であるからこそ、そこに尽くされる贅は、王宮の比にならない場合もあるからな」
「いやはや、私の王子はすぐにそう仰る。この哀れな老人を叩いて虐めても、これ以上の寄付金は出ませんぞ」
「はは、お前はもう充分に尽くしてくれた。先月の共同浴場の改修費だけでも助かっている」
「……………ツゥランの若造には負けていられませんからな。あの柘榴石の若造めは、お忍びのあなた様を別荘に招いてから、いささか調子に乗っているようだ」
(……………同じ呼び方だわ)
しわくちゃだが妙な色気のあるこの店の主人は、タジクーシャの宝石妖精の中でも、最も影響力のある大商人の一人であるらしい。
青い目を煌めかせ、デジレを呼ぶ独特の呼び名には、ダリルがエーダリアを馬鹿王子と呼ぶ時と同じような温かさが宿る。
そんな素敵な商人の店で、ネアは鶏皮のようなものを甘辛く香辛料の効いたたれでしっかりと焼き上げ、もちもちした小麦の皮で包んでたくさんの野菜と共にいただく料理に夢中になった。
手でいただくその料理に夢中になり、はふはふまぐまぐと至福の時間を過ごす。
食べながら何やら考え込んでいる様子のヒルドが、この料理を持ち帰れないだろうかと尋ねると、焔の魔術で温めるだけのお土産の箱が出て来たので、鶏皮大好きっ子のエーダリアもこのご馳走にありつける筈だ。
ぱらりと振りかけるのは檸檬の宝石を砕いたもので、その柑橘系の果実めいた香りがとても爽やかではないか。
他にも澄んだ琥珀色の袋茸のスープに、ほろりと柔らかい棘牛の黒胡椒煮。
金木犀のゼリーに、宝石蜜をかけた黒い蒸しパンのようなものもあり、ネアは食べ終わる頃にはタジクーシャはとても素晴らしいところであったという結論に達する。
ネアが宝石蜜の美味しさに身悶えていると、あの青玉の伯爵子息が、青い宝石の薔薇から作られた淡い水色が美しい青玉の宝石蜜をひと瓶くれたりもした。
ディノは浮気だと荒ぶったが、ネアはどこか遠い目をしたデジレに魔術の繋ぎを切って貰い、美味しいものには罪はないとそんな宝石蜜の瓶を金庫にしまう。
「む、誰かいますよ?」
「おや、…………彼を呼んだのかい?」
「ええ。何か見付けたようですね」
帰り際に、デジレ達と別れてさて転移でと定められたタジクーシャの出口の一つを使おうとしたネア達は、壮麗な宝石の門の前で、鰻かなという謎めいた生き物を踏み滅ぼしている美しい魔物に遭遇した。
ネアと目が合うと、さっと小皿を取り出して首から下げた銀のスプーンで食べ始めたので、お久し振りな変態の出現に、ネアは慌ててディノの影に隠れた。
「グラフィーツ、この門に侵食があったのかい?」
「ええ、ご覧の通りに。門を通り抜けた砂蛇達は、己の帰り道の道標として鱗を落として行ったようですね。そして、狂った蛇程執念深いものはいない。その鱗が砂に砕け、こうして足元に潜んで自分を滅ぼした者達に取り憑こうと待ち構えていたらしい」
「……………残滓としては、気付かずに上を歩いてしまいそうなくらいに薄いな。もしそうなっても、俺達には侵食出来ないだろうが、ネアが触れていたら姦計の質の魔術は危うい。グラフィーツ、見付けてくれて助かった」
ディノの問いに答えて優雅なお辞儀をしてみせた極彩色の装いの魔物は、顔だけ見ればひやりとするような美しい男性だ。
(そう言えばこの人も、デジレさんの友達だったウィームの魔術師さんを知っているひとなのだわ…………)
そう気付けばほっこりもしかけたが、とは言え、ネアを見ながら興奮したように砂糖を食べるのだからとても怖い。
ネアは、うっかり目が合ってしまい、慌ててまたディノの影に隠れた。
とは言え、グレアムの発言からすると、この魔物のお陰で危険を回避出来たようなので、ネアは頑張ってディノの影からお礼も言っておく。
「なんのその。こうして極上の砂糖を食べさせていただいておりますしね。帰り道はこちらですよ、くれぐれも渡る橋で躓かぬよう」
そう微笑んだグラフィーツは、ふと、どこか深い色の瞳を揺らす。
振る舞いの様子はおかしいが、ネアはふと、このひともそのウィームの魔術師を大事に思っていたのだろうかと考えた。
だからこそ、ここでウィームの誰かに傷付いて欲しくなかったのだろうか。
「さて、門も綺麗になったようだし、帰ろうか。アルテアは愉快ではないかもしれないけれど、ここばかりは、グレアムがグラフィーツを呼んでくれて良かったよ」
「彼は、高階位の魔物達の中では、最も侵食の魔術に明るいですからね。……………ですが、…………ネア、これは見なくていいからな。怖いなら目を瞑っていようか」
「…………ふぁい。変な人が、お砂糖を盛り付けたお皿を手に、………ぎゅ、凄い笑顔でにじり寄って来ます…………」
安全と引き換えに最後にとても怖いものに出会ってしまったが、こうしてネア達は無事にタジクーシャとの友好条約を結びつけ、ウィームに帰ったのだった。




