62. そこで明かされます(本編)
水晶の天蓋から、宝石の薔薇と噴水の水飛沫に白くけぶるような月光が落ちる。
このようなところではやはり、どれだけ文化的な特徴がなくとも砂漠の国の気配を帯びるのだと、ネアは密かに感心する。
きっと、ネアの目には見えない魔術の何かが、そんな気配に一役かっているのかもしれなかった。
「宝石食いの砂蛇ともなれば、宝石の系譜とは決定的に相性が悪いな。…………カルウィからか」
引き続き、円卓を囲んでいささか当初の目的とは議題が変わってしまった話し合いが持たれていた。
そう呟いたグレアムは、そのカルウィを含む一帯の統括の魔物をしている。
全てを予定調和としていそうなデジレとは言え、グレアムの階位は取り違えているようなので、そこ迄を知っているのかどうかは不確かなところだ。
「厄介なものであるというだけでなく、その魔物さんは、ここまでの警戒をしなければならない程に、宝石妖精さんには良くないものなのですか?」
「砂の侵食の系譜の上位は、宝石をひび割れさせ、腐蝕させる。だからこそ、砂の系譜の層が厚い砂漠の国々でこそ、宝石の系譜の者達が厚遇されるんだよ。…………いざという時に御すべき方策も潤沢だからね」
「あ、……………」
ディノの言葉に、ネアは目を瞠った。
鉱石のそれは、それぞれの種類ごとの採掘に向いた土地などに住む系譜となるが、宝石の系譜はまた話が変わってくる。
研磨やカットを受けて宝石として流通する品々は、やはり誰かの手を経て集められるのだ。
中には、価値のあるものを生む、或いは育むという資質としていきなり宝石を作り出す人外者もいるが、そのような者達が生み出す宝石は成就や成果の属性にあたり、このタジクーシャの宝石妖精達とは厳密には系譜が違う。
(そうか、…………だからヴェルクレアも、海と火の系譜との結びが手厚く深いのだわ…………)
人間は狡猾で用心深い。
そこが人外者の集落や国ではなく、人ならざる者達を招き入れるのであれば、その系譜や性質に対処出来る環境を好むだろう。
だから宝石は砂漠の地に集まりやすく、このタジクーシャも、そちらの土地から切り離された宝石の都のあわいである。
今回の宝石食いの砂蛇とやらは、正式にというのもおかしな言い方だが、不利な属性とも言えるべき相手なのだ。
どうなってしまうのだろうとはらはらしたネアに対し、冷静だったのはヒルドであった。
ウィームなどで使われるティーカップよりは一回り小さく持ち手のないカップを受け皿に戻すと、穏やかに微笑みさえする。
「こちらの状況は概ね理解しました。然し乍ら、その魔物を退ける為の助力を我々に請うにせよ、私達がタジクーシャを訪れたその理由と目的は、リーエンベルクを脅かしたあなたの副官について議論する為であるという会談の趣旨は変わりません」
「…………だろうな。だが、不可侵の条約を結び付けるとしても、タジクーシャに敷かれた魔術誓約と土地の支配が入れ替われば、取り交わされたものの全てが無駄になるぞ」
「タジクーシャの恩恵にさして興味のない我々からしてみれば、知った事ではない。鎖の先の獣が入れ替わったのなら、その獣を繋いだ土地への橋を落とすまででしょう」
「自身が王にもなれるこの地も、既に他人事か」
微笑みを浮かべたまま、けれども刃物のような目をしたデジレに、ヒルドは薄く笑う。
「馬鹿げたことを。私にはもう、守るべきものと己の住処と定めた土地があります。少年の頃に一度訪れただけの系譜の国に、欲などありませんよ」
「……………それは、隷属ではなく庇護なのか」
「あなたがどこまでを知り、何を知らずにそう問いかけたものか。私は望まぬものの為に、羽の庇護を許しなどしません」
ヒルドの対応はいっそ冷淡なくらいで、ネアはまた少しだけハラハラする。
けれども、こちらも薄く鋭い刃を思わせる返答に対し、デジレは小さく頷いた。
「…………そうか。ならばこのようなことは、二度と問うまい。確認だけはしておきたかったからな」
「私の忠義や庇護が隷属であればと、考えましたか」
どこか冷淡にそう笑ったヒルドは、とても美しかった。
だからネアは、この気高く美しい妖精の為に、デジレは、もしもの時はこの国でヒルドを保護しようとしていたのかと思っていた。
「そうだな。古き友よ。それが強いられた屈辱であれば、友のよしみで私が殺してやろうと思っていた。だが、お前が選んだものであれば、どのような場所であれ祝福しよう」
「おや、であれば今回の一件の補償では、あなたの国興しの魔術をウィームにお借りしましょう」
「……………やれやれ、それが狙いか」
嘆息してみせ、ひらりと片手を振ると、デジレは頷いた。
ふぁさりと揺れた黒髪に、月光が鮮やかな陰影をつける。
その仕草がいつも美しく整っているのは、彼らがかくあるべきと育てられ派生した妖精だからなのかもしれない。
「これは、タジクーシャこそを栄えさせる為にある、私自身を預ける魔術だ。他のどんな土地、どんな状況下の交渉であれ切り分けるつもりはなかったが、ウィームであれば構わない」
(そこまで、口にしてしまうのだわ…………)
そう言ってのけたデジレは、自分がどれだけの執着を明かしたのか、気付いているのだろうか。
少なくともその背景を予測出来ていなかったネアは、あまりにも無防備な言葉に驚いてしまった。
そして、咄嗟に驚きを隠す為に飲んだお茶の美味しさに、おおっとまた驚いてしまう。
「……………昔から、あなたはウィーム贔屓でしたからね」
「寧ろ、ウィームであれば、俺からその補償を取り付けられると、あの強欲で有名な書架妖精に口添えしたのはお前だろう。皮肉な事だな。かつての私が、この身が滅びるまでは守ってみせようと愛したその土地に、今はお前が暮らしているのか……………」
「それもまた、巡り合わせのようなものですね。私も、あなたがこうも生真面目に国を治めているとは思いもしませんでした」
ヒルドの言葉に、デジレは深く深く艶やかに微笑んだ。
「人を得たお前とは違い、私は国を得た。自身の嗜好や願いではなく、それが容易いかどうかですらなく、どうあってもそれはこの国であったというまでだ」
またしても驚くほど明け透けにそう告げたデジレに、ヒルドの瞳がふるりと揺れただろうか。
(どんなものであれ、それを見付けてしまったらもうそれが宝なのだと……………)
捕らえられ凄惨な扱いに耐えた王宮でヒルドが見付けたのは、自身を苛む者と同じヴェルクレア王家の子供だ。
そんなエーダリアを愛したヒルドには、きっと今のデジレの言葉は響いたのだろう。
息を詰めて会話の行き着く先を見守っているネアに、ヒルドがほんの僅かにこちらを見たような気がした。
「……………そのようなものは、あるのでしょうね。あなたが国を興し守る為の宝剣だったように」
「お前にとってのそれが、あのウィームの領主であったように。そのようなものはあるのだろう。…………そして、スフェンはそれをどうにも理解しようとしない。彼は、……………かつての、私の補佐となるべく育てられたからな。おまけに錫杖ともなると、良くも悪くも受け皿になりやすい。馬鹿な真似をしないように目を配っていたつもりだったのだが、今回の件はすまなかった」
そこで落ちた短い沈黙には、ヒルドの僅かな躊躇いが映る。
小さく沈黙を薫せてから、ヒルドは瑠璃色の瞳で真っ直ぐにデジレを見据えた。
「………………なぜ、その姿と名前に?」
「前王は、屑石らしからぬ執着で、この国を手放そうとしなかったからな。…………ああも歪んでしまうと、成すべき時期と必要な名前の選択肢は少なくなる。虚栄心が強く残忍なばかりの弟には期待出来ず、とは言え私の継承権は剥奪されたばかりだった。弟の名前を持つ私が必要だったのだ」
それは、彼の友人だったというウィームの魔術師との一件で、ドレド王子が幽閉された時のことだろうか。
躊躇いもせずに語られてゆく目の前の妖精の過去に、ネアは、この人はかつてどんな妖精だったのだろうかと考えてしまう。
「王になり、国を支える為にデジレという存在を奪ったと?」
「王になり、このタジクーシャという私の愛するものを生かす為だ」
「あれだけ逃げ出そうとしていた王家を飲み込むほどに、あなたはこの国を愛したのですね…………」
静かにそう言ったヒルドに、デジレは王らしい微笑みを浮かべた。
(あ、………………)
この時になって、ネアは漸くその違いを知る。
ヒルドがどれだけ妖精王としての威厳や美しさを持っていたとしても、やはり、王として王冠をいただき君臨する妖精王とは、その眼差しが違う。
ここにいるのは、タジクーシャを治める王その人であった。
「この身を呪い、王家の因習を呪い、一刻も早くこんな国など捨ててしまうつもりであった。かつて過ごしたウィームにでも流れ、そこで画家になろうと思い続けていたが、」
「ええ。私と会った時はそのように話していましたね」
「…………妹を断罪したことで王の不興を買い、幽閉されると決まった私に、その事件を機にタジクーシャを去ろうとしていた人間の友が、私に共にこの国を出るかと問いかけたんだ」
その物語はきっと、王女に求婚されたというウィームの魔術師とのものだろう。
だからネアは、その話の顛末にも興味を持ち、息を飲んで耳を澄ます。
「だが、その時に思い知らされたのだ。…………私がタジクーシャから逃げ出せば、この国は滅ぶだろう。王の器を持つ者達は他にもいるが、どの者達も階位故に受け入れられない。…………宝石妖精は、才ではなく階位に屈し支配をこそ最上として望むからな。…………そうして、この国がやがて滅びると知ったその時、漸く私はこの国を、………この命をくれてやってもいいくらいには愛していた事に気付いた」
「それは幸いな事でしょう。この国にとっても、そしてそれを得たあなたにとっても」
「…………はは。確かにそうだな。そのような宝を生涯得られない者も大勢いる」
小さく笑い、だからこそとデジレは続ける。
「ここで、私の国を砂蛇になどくれてやるものか。その為に必要ならば、国を守る為に必要な泥など幾らでもかぶろう」
小さな溜め息が落ち、ディノは淡く微笑んだ。
「……………その言葉は、私ではなく、彼女か、ヒルドに言うべきだろう」
「そうだろうか。あなたにこそ、言うべきだと思ったのだが」
「私は、裁定を下す立場にはない。そう考えたのなら、それは思い違いだよ」
では、とヒルドがそつなく取り出したのは、ダリルが用意していた条約締結の為の書類だ。
「…………お前は、前からそのような男だが、やけに手早いな。だが、事態が動く前に済ませておくか」
「その通りですよ。あなたがある程度の損失を承知済みであれば、これは早々に済ませておきましょう。不測の事態で訪問の理由を果たせなくなると困りますからね」
ここで、次にデジレの眼差しが向けられたのは、ネアであった。
射抜くような強い眼差しはこのような場所で月光を浴びて王としての振る舞いでこそ美しく、僅かに背筋が伸びる。
「お前のような人間が、ここ迄来ておいて飾りばかりとは思えん。何か、言いたい事はないのか?」
「…………ふむ。それでは一つお聞きしますね。あなたは、なぜか私をエーダリア様の擬態だと思い込んで仕掛けたスフェンさんとは違い、私がエーダリア様ではない事を承知の上で隔離しました。………先程明かされた理由があればと、以前より納得は出来ましたが、…………ただこの国の為となると、ここまでの事をご承知のあなたであればこそ、他にも打つべき手はあったと私は思うのです」
「買い被りすぎだ。他に手立てがなかったとは思わなかったのか?」
「…………スフェンさんを守りたいのかなと考えていましたが、お話しぶりを聞くとどうも違うようです。であれば、こうしてウィームが要求するであろう保障としてのその力を付与する事を、あなたが望まれたのは何故ですか?」
そう問いかけたネアに、デジレは僅かに目を瞠り、そうして微笑んだ。
初めてネアに向けられた穏やかなばかりの艶やかな微笑みに、それを向けられたネアの方が驚いてしまう。
「……………お前が、あのウィームの子だからだ。そして、ウィーム王家の者がリーエンベルクを治め、ウィームが幸福であるからだ」
(私が、…………ウィームの子だから?)
ネアは、ウィームで生まれた人間ではない。
それどころか、この世界で生まれた人間ですらないのだ。
けれどもこの妖精は、ネアをウィームの子だと考えたのかと思えば、ネアは、胸がほこほことするような不思議な喜びを覚えた。
「……………私は、国こそをと守護する気質の強い妖精として派生した。だが、祖国を落とされ穢れた私を救ったウィームを、その次に愛した第二の祖国を、離れざるを得なかった。……………かつて、私を救った王族の子孫は、ウィームに残りそして侵略戦争で滅びたと聞いている」
「………………私は、みなさんのように、言外までを推し量る事が出来ていなかったので、これで漸く全てを納得出来たような気がします。やはりあなたは、ここまでを計算に入れて今回の事を仕組まれたのですね」
「そこまで管理された流れではない。元はと言えば、砂蛇などに隙を突かれたからこそ、こうなっている。現在のウィームの状況を知ったのも、スフェンの策略を挫く為にその後を追いかけてからだからな」
ネアの問いかけた事くらいは、ディノ達は見透かしていたのだろう。
けれどネアは、こうして言質を得て初めて、デジレの行動の背景にあったウィームへの愛着も理解する。
「…………納得したか」
「はい。納得しました」
しゃりりと氷が張るような音がしたので卓上に視線を戻すと、そこにはいつの間にか宝石の羽ペンと、しゃりしゃりと結晶化と融解を繰り返しながらインク壺の中で波立っている濃紺のインクがあった。
デジレは、ヒルドが広げた書類に素早く目を通し、眉を顰めながらも苦笑している。
「…………条約については、この内容で問題ない。私が受け入れられるぎりぎりのものを毟り取るが、議論は必要なく、無駄な時間をかけないものだ。腹立たしいくらいによく練られているな。…………そちらは、誰がサインを?」
そう問いかけられ、微笑んだネアが、卓上のペンを取った。
ウィームで行われる会談では、ウィームが用意したもので、そしてタジクーシャではこちらで用意された、ペンとインクを使う。
とは言えこれは、国際的な規格に準拠したものを使うので、質などの違いはあまりないのだそうだ。
「書類へのサインは、私がさせていただきます。そして、同席していただいているこの方が、上からサインを重ねて下さるそうです」
「…………ふむ。爵位持ちの魔物による名前封じか。私としても、それは心強い」
ネア達のサインの上から、自分の名前を記してくれるのはグレアムで、このようにして、双方のどちらもが、条約文書などの重要な書類から名前を奪われないよう、高位の人外者が上から蓋をする魔術儀式は珍しくはないのだそうだ。
用意されて持ち込んだ紙は、美しい夜を切り出し、ウィームの冬を紡いだ花を材料にしたもので両面から挟んで製紙した上等な紙だ。
まずはデジレが。
そしてネアが、それぞれの書類にサインを書き交換する。
そうして、二人分の署名が揃った書類に、グレアムがどこからか取り出した銀色のペンで署名を入れると、その文字がじゃりりっと銀色の鎖のように紙の上に雷光めいたものを走らせ、先程までは紙だったものを一枚の鉱石板に変えた。
「犠牲の魔物の名前の下に、締結された条約を施行する。ウィームからは保護した宝石妖精の返還を、そしてタジクーシャからはウィームを損なった事に対する謝罪と保障を」
こうして見ると、タジクーシャの側の陣営は王が一人で円卓に着く他には、誰も立ち会う者のいない、不思議な会談だった。
けれども、立ち上がったデジレがこちらに歩み寄り、ネアも立ち上がってその向かいに立つ。
しっかりと握手を交わせば、これでもうウィームとタジクーシャの友好条約は結ばれた事になるのだ。
「おや、想定よりも早く片がつきましたね」
「…………せかしたのは、お前だろう」
「ええ。急かして然るべきでしょう。何しろ、足元が危ういようですから」
「ですが、デジレさんは、思っていたよりも呆気なく進められたのですね。もっと内容についての議論があると思い、実は条約の内容を学んできたのですが…………」
ネアが素直にそう言えば、デジレは肩を竦めると薄く微笑んだ。
王らしい狡猾さも僅かに滲んだその微笑みには、取り分は他にもあるのだという自信が垣間見える。
「こちらではな。大枠の条約はこちら、残りはウィームで行われている筈だ。だが、残りを任されたサフィティートは、言っておくが、あの美しい容姿が化けの皮だとしか思えないくらいに性格の悪い才女だぞ」
「むむ、こちらにいらした青玉の妖精さんのお名前ですね………………」
「私が心から信頼している有能な臣下の一人だが、これでも私は、人並みに繊細な感情のある男なのでな。あの女とは半刻とて共に居たくない」
「………………まぁ。何となくですが、そんなお二人でご結婚してみて欲しいです」
とても邪悪な人間がそう言ってしまうと、デジレは如実に青ざめた。
このような表情も初めて見るので、余程怖い相手なのだろう。
ネアは、リーエンベルクではどんな会談が行われているのか少し心配になったが、主にダリルがいてくれるのできっと大丈夫だと思う。
「そちらは終わったようだね」
静かな声が落ちたのは、その時の事だった。
あまりにも静謐で、そして美しいその声にぎくりとし、ネアは、そう呟いたディノの方を見た。
高位の魔物らしい声音には冷酷さが滲み、見慣れない色彩を乗せたその表情は凄惨ですらある。
「砂は塵に、砂は喰らい、そして砂は腐らせる」
あまりにも怜悧な眼差しに声をかけようとしたものの、そんな言葉に遮られ、ネアは目を丸くした。
何のことだろうと眉を顰めたネアに対し、はっと息を飲んだのは、グレアムとデジレだろうか。
「王宮は閉じてあるぞ?!」
「…………いや、宝石の王宮であり、相手が砂だからこそ、砂蛇が全面的にここを襲うとなれば、その防壁は絶対ではない。…………ネア、入れ替えの…」
グレアムは、咄嗟にネアを逃がそうとしたのだろう。
けれどもそれよりも早く、ネアはディノに持ち上げられており、そんなディノの正面には悪夢の作法で、ゆっくりと床から頭をもたげて立ち上がった一人の男がいた。
「……………っ、」
その姿を認めた瞬間、ネアは震えが止まらなくなった。
特に醜い訳でもないし、邪悪な表情を浮かべている訳でもない。
寧ろ、美醜で言えば淡白な面立ちで、気の弱い色白な青年にしか見えなかった。
けれど、その身に纏う気配の何かが、例えようもなく恐ろしいのだ。
(ああ、………………これは憎しみだ)
その憎しみがどこか狂っていて、それなのに淡白な面立ちで柔和に微笑むので、この魔物はとても恐ろしいのだ。
「これはこれは、グレアム閣下」
「君にそう呼ばれる筋合いはない。そして、ここは俺がその施行に立ち合った条約締結の場だ。今すぐ立ち去れ」
「はは、おかしな事を仰る。客人としてここを訪れている閣下より、このタジクーシャの王族の主人となった僕の方が、王宮に留まる正式な理由があるのではございませんか?」
あっと、誰かが叫んだような声が聞こえた。
「ご退出を、閣下」
けれど、青年がそう告げる方が一拍早く、グレアムの姿が搔き消える。
「グレアムさん?!」
「……………っ、貴様、前王の遺物を食らったな。………それだけではない、誰か、王族を食ったか………………!!」
軋るような声でそう問い質したデジレに、ネアは血の気が引くのが分かった。
その詳細までを知らずとも、目の前の魔物が、タジクーシャの王宮において何らかの魔術的な権限を得てしまったのだと理解したのだ。
「その通りですよ、デジレ様。タジクーシャの王宮では、同等の階位にある王族が二人以上いる場合は、どちらかが死ぬか、誰か一人を王として認めるまでは王となり得ない。然し乍ら、それではまどろっこしいですからね。僕が取り込んだのは、前王陛下とその弟君です。さて、王族としての階位はどちらに傾くかご理解いただけましたか?」
「……………叔父上を、食ったのか……………」
「なかなか強情でしたので、腹に収めるまでに時間がかかってしまいましたが。あのひび割れた宝石に手こずらされたお陰で、条約締結には間に合いませんでした。………まぁ、あなたが死ねば解けて消えるでしょう」
ぎりりっと歯噛みする音が聞こえ、ネアはここで足手纏いとなるまいと置き換えの魔術を使おうとして、そっと手に触れたディノに首を横に振られた。
「……………足元を見てご覧」
「……………砂が、」
「我々が気付くより早く、彼が先に置き換えて侵食を済ませたんだ。砂はその侵食が危ういものだからね。ウィームに一粒でも持ち込めば、困ったことになる」
「……………それじゃあ」
「それは使えない。そして、呼び落とすにしても、既にこの場の権限が奪われている」
冷静にそう告げたディノに、ネアは震える指先を握り込む。
ヒルドはいつの間にか愛剣を構えており、デジレが手にしているのも立派な大剣だ。
目の前に立った青年は、怯える様子もなくひっそりと微笑むばかり。
けれども、その足元は美しい宝石の床がもろもろと砂になって崩れてゆき、着々と砂を増やしている。
幻想的ではあったけれど、ひどく悍ましい光景に見えた。
「…………ヒルド、君の一部の資質にとっては不利な属性を持つ相手だが、少しだけ任せても構わないかい?」
「ええ。お任せ下さい」
「……………時間を稼げということか。どれくらいだ?」
「そうだね。九十秒もあれば」
ふつりと、視界が翳る。
魔術的な明度の暗転ではなく、月光を遮るものが現れたのだ。
さらさらと凝り崩れながら形を成してゆく砂の塊にネアが目を丸くしたその刹那、ざざんと持ち上がった砂の蔓のようなものが、一斉にこちらに向かって襲いかかってきた。
(………………っ、)
ネアが、ぎゅっと目を閉じてディノの首元に顔を埋めたのは、どれだけ堪えようとしてもその勢いに体を揺らしてしまわないようにだ。
(ヒルドさん達に時間稼ぎを頼むくらいなのだから、きっと難しいことをするのだろう)
それを邪魔してはならないと体を丸めたネアの耳元に、魔物らしい美しい声が落ちる。
「……………いい子だ。そして見ずにいるんだよ。それと、可能であれば、きりんなどの狂った者には効果の低いものではなく、その他の、君を守るような道具を手にしておくといい。念の為にね」
「……………はい」
ごうごうと吹き荒ぶのは、砂嵐だろうか。
ネアは耳を塞ぎたくなるような湿った打撃音や、低い呻き声に震え上がりながら、しっかりと抱えてくれているディノの腕の中で、一番取り出し易いところにあったハンマーを握り締めた。
(きりんが効かないという事は、悪食や祟りものの要素がある相手なのだわ…………)
では、そんな相手にとって有効なのは、どんな手札だろう。
砂嵐を操るという事は、投擲型の武器や、風圧で跳ね返される激辛香辛料油のようなものを使うのは危険過ぎる。
侵入者を追い払うだけなら戸外の箒もいいかもしれないが、デジレの王位を奪った相手をまんまと取り逃がしては意味がない。
何があるだろうかと考え、ネアは一つだけとびきりのものを思いついた。
(ヒルドさんとデジレさんの耳を塞げれば……………)
だが、しっかりとネアの体を抱いているディノの指先に篭った力を思えば、この状況で二人の耳を塞いで欲しいとは言えなかった。
(大丈夫、ディノがやられてしまうことなんてない。……………っ、…………っく、ヒルドさんやデジレさんが危ういようであれば、ディノはあのような任せ方はしない筈だもの………………)
かつてであれば、この魔物をそんな風に信頼する事はなかっただろう。
けれども今は、ヒルドだってディノの家族の一人だし、そんなヒルドの古い友人であり、ウィームに強い愛着を持っているデジレを見殺しにするような事を、ディノがする事はない。
(信じて、その集中を崩してはならない)
こうしてぎゅっと抱き締めてくれているのが優しい優しい魔物だからこそ、ネアはその短いようであまりにも長く感じた時間を、情けなくても怖くても全部任せ切って、ぐっと堪えた。
怖さをやり過ごせないというだけの浅はかな理由で、大事な魔物の足手纏いにならないよう、手にしたハンマーを闇雲に振り回したい衝動をぐっと堪えた。
「……………もういいよ」
そんなネアの耳に、待ち侘びたディノの穏やかな声が届くまでは、もしかしたら九十秒よりも短い時間だったのかもしれない。
けれどもネアには、遥かに長い時間に感じられた。
(ふぁ、……………)
そろりと顔を上げれば、そこには美しい宝石の薔薇がそこかしこに咲き乱れていた。
それも、茎や葉の先に至るまでが月光を透かす透明度を合わせ持つ、白い宝石の薔薇だ。
夜の青さと月明かりを映し、ぞっとするほどに美しい光景がどこまでも広がっている。
「………………ディノ」
けれど、これでもう塞がれた何かを取り戻したのかなと引き結んでいた唇を緩めたネアは、たらりと流れた鮮やかな真紅に目を瞠る。
ディノの擬態はそのままであった。
黒髪に鮮やかな紫の瞳は刃物のようで、その口元の微笑みは、凍えるような残忍さを窺わせる。
けれど、片側の頬はべったりと血に濡れていたし、ネアの背中に添えた方の腕にも、わあっと声を上げたいような深い傷があった。
「……………あれが食らった宝石妖精の固有魔術を使われたんだ。そのせいで擬態を解き切れなかったから、傷を負ってはしまったけれど、すぐに治せるから怖がらなくていいよ」
「でも、……………痛いですよね。…………っ、ヒルドさん?!」
擬態を解けなかったとは言え、ディノがこれだけの怪我をしているのだ。
その恐ろしさに気付き、はっとして視線を巡らせたネアが見たのは、ずっぷりと片胸を真紅に濡らし、ふうっと息を吐いたヒルドと、片羽を大きく損ない、更には片腕が目を逸らしたくなるような捻れ方をしたデジレの姿であった。
濃密な血匂に、ぐっと喉が鳴る。
その名前を呼んだものの、続く悲鳴を何とか噛み殺して涙目になったネアに、苦しげな顔でこちらを見たヒルドが安心させるように微笑んでくれる。
(……………大丈夫だ)
デジレも、まだ立っているし、片手にはしっかりと剣を構えている。
だからきっと、みんな無事だったと言える状態ではあるのだろう。
(良かった……………。みんな大丈夫だわ……………)
砂蛇の魔物はどうなったのかと言えば、きっとディノが育てたに違いない白薔薇に囲まれ、必死に踠いてはいるが抜け出せずにいた。
よく見れば、その薔薇は砂蛇の魔物の肌を食い破り、体そのものを縫い止めるようにして生い茂っているのだ。
滴り落ちる血の赤さは、そちらも同様であった。
ネアはまず、怪我をしていたディノから降ろして貰って自分の足で立つと、大切な伴侶が傷を治すのを、震える息を飲み込みながらしっかりと見届けた。
ヒルドの方を見れば、このような時の為にと持っていて貰ったディノ製の傷薬を取り出して見せてくれたので、胸を撫で下ろす。
そうして、大切な人たちの怪我への不安がなくなると、今度は、胸の底に冷たくてどろりと重い怒りが揺れた。
「ディノ、私が歌えば…」
「いや、ここはタジクーシャの王宮だ。ヒルドやあの妖精の耳を塞いでも、王宮のそこかしこに眠っている宝石の子供達を壊してしまうことになる。…………そうすると、あの王との間に禍根が残るからね」
「…………では、あの薔薇の拘束は、固いものが当たっても砕けませんか?」
「…………ネア?…………そうだね。薔薇を使ったから、そのようなものでは壊れないけれど……………」
「では、固いもので、あの魔物を打ちのめしても平気ですか?」
「うん…………………」
ネアの言葉の平坦さに思わず頷いてしまった魔物は、次の瞬間、ぎゃんと音を立てて空を舞ったものに目を丸くした。
直後、ずがんと激しい音がして、くぐもった悲鳴を上げた砂蛇の魔物の半身がざらりと崩れ落ちる。
崩壊し崩れた半身と共に澄んだ音を立てて床に落ちたのは、さっきまでネアが手にしていたハンマーだ。
「……………残念です。こちらは、敢えて少し破壊力を抑えて貰っていた方だったようです」
「ご主人様………………」
床に落ちた途端、淡い光の粒子になって消えたハンマーは、またいつの間にかネアの手の中に凝って戻ってくる。
過保護な魔物達が用意してくれたこの武器は、破壊力が高い分、敵に奪われてしまったりしないよう、ネアの手を離れると形を崩して戻ってくる仕組みになっているのだ。
形を解く必要があって織り込まれた魔術の為に、永遠に使える武器ではなくなってしまっているが、百回程度は取り戻しに耐えられるようになっている。
「デジレさんにも、傷薬をお渡ししてきましょう。それと、ディノは治せていない怪我はありませんか?」
「うん。………………投げても使えるのだね」
「はい。もう半分も叩き壊そうと思いましたが、今暫くあれを生かしておく必要があれば、残しておきます」
「あるかい?」
ディノが、背後からふわりとネアを抱き締めて捕まえながらそう尋ねたのは、か弱い人間が投擲したハンマーが砂蛇の魔物の半分を粉々にしたのを見てしまったデジレだ。
傷が深いのもあるだろうが、そのショックで床に座り込んでしまっている。
「………………いや、此処までの事となって、今更問いただすことなどもない。生かしておく必要ないが、」
「では、壊してしまおう」
ディノがそう言った途端、残っていた砂蛇の魔物の半身もざらりと崩れ落ち、床にこぼれ落ちる前に、砂ではない黒い灰のようなものになった。
そしてそれも、ばさりと床に落ちるとそこからまた腐り落ちてゆき、あっという間に何の欠片も残さずに消えてしまう。
きゅぽんと、小瓶の蓋を開けるような音がした。
砂蛇の魔物の崩壊の呆気なさに呆然としていたネアがそちらを見ると、ヒルドがディノの傷薬を浴びたようだ。
きらきらと細やかな魔術の光が弾け、無残で深い傷が消えてゆく。
僅かに丸まっていた背筋が伸び、歩いてゆくと、少し離れた場所に座り込んでいたデジレの腕にも、残しておいたらしい傷薬を浴びせかけてやっている。
(…………一本では、足りないかもしれない)
「ディノ、お薬が足りないかもしれないので、お二人のところへ行きたいです」
慌てて手足をばたばたさせると、ディノは淡く微笑んで頷いた。
「運んであげるよ」
「……………私の大切な魔物は、手を怪我したばかりではありませんか。持ち上げは控えて、安静にしていて下さい」
「もう、治してしまったからね。それに、もう少しの間、警戒を怠らずにいよう」
「…………まだ、何かがいるのですか?」
「砂蛇は三体一対だから、その可能性もあるんだ。けれど、三体の全てが今回の事に関わってはいないかもしれないし、土地の支配権を書き換えたから、ここはもう安全だよ」
そう微笑んでくれたディノの頬をそっと手のひらで撫で、ネアは頷いた。
三つ編みに口づけをしてやりたくても、今はまだ髪が短いままだ。
「まずは、あちらに行って、そしてグレアムを呼び戻そうか。ウィームの様子を確認してそちらが問題がなさそうであれば、君を帰せるかどうか考えよう」
「はい」
先程まで円卓のあった中庭は、白薔薇に包まれて清涼な輝きを放っていた。
ネアは、その胸に触れてヒルドの怪我も全てが治っていることを確かめてから、漸く安堵の息を吐いたのだった。
大切な人たちの体に刻まれた深い傷跡を見てしまった怖さを吐き出すのは、安全なリーエンベルクに戻り、全てが終わって一件落着となってからにしよう。
ネア達にはまだ、スフェンの引き渡しが残っているのだ。




