60. 静かな待ち時間です(本編)
シカトラームの牢獄からの帰り道、ネア達は見たこともない森を前に呆然としていた。
誤って反対側の角を曲がってしまっただけなのだが、無情にも既に戻り道はなくなっている。
「森です。…………ここはいっそ、狩りなどを」
「やめろ、重ねて事故るつもりか」
「…………狩りの女王は、偉大なのですよ?」
「キュキュ!」
ムグリスディノは伴侶の腕前を支持してくれたが、アルテアは不安になってしまったのか、手袋を外してしっかりネアと手を繋ぎ、それでもまだ足りないとでも言わんばかりに暗い目でこちらを見る。
「…………おかあさんです」
「この扱いが不当なら、そもそも事故るな」
「横に並んで歩いていて、なぜ一人の責任になっているのでしょう。本日の迷子は同罪ではありませんか」
「真っ先に角を曲がったのはお前だったがな」
ネアはじっとアルテアを見上げた後、そういう事にして差し上げましょうかと、淑女の微笑みを浮かべて頷いておいた。
するとアルテアは、ふっと仄暗く魔物らしい微笑みを深めると、おもむろにネアを抱き上げてしまった。
「ぎゃ!何をするのだ!!」
「お前は口で言っても聞かないからな」
「ぐるるる!捕獲を許した覚えはありません!」
「大人しく……………おい」
「……………む。この枝に素敵な梨がなっていました。目を向けるとぴかっと光りましたので、それではと頂戴した次第です」
「…………忠告した側から、よく分からないものに手を出すな。放棄区画から枝を伸ばしたものか。…………風鳴りの結晶だな」
「かざなり……………?」
続けてネアを叱ろうとしたアルテアは、もぎ取られた梨を見ると小さく目を瞠った。
ネアの手の中の梨は、月長石のような乳白色の宝石で出来ているように見えるのだが、触れるとひんやりとしている。
「キュ…………」
「むむ、素敵なものなのですか?」
「…………アクスにでも売っておけ。手ずから食べさせた者の心を、生涯自分に傾けさせる呪いを宿すものの一つだ。真実の愛とやらを知ってる者には効かないがな」
そう聞いたネアは、こてんと首を傾げた。
(それはまるで、おとぎ話の魔法のような…………)
「…………これであの従順ではないスフェンさんを大人しくさせてみます?」
「……………ほお、よくここで言えたものだな?」
持ち上げられている距離ですっと眇められた水色の瞳は酷薄だったが、ネアは、すぐさま大混乱でちびこい三つ編みを逆立てている伴侶を撫でるので大忙しになってしまった。
「キュキュ!キュ!!」
「違いますよ、ディノ。今のはアルテアさんに提案したのですからね?落としてしまうと怖いので、そこで荒ぶってはいけません!」
「……………は?」
「む?ですから、アルテアさんが、手ずからその梨をスフェンさんに食べさせると、あやつはすっかり懐くのではないでしょうか?」
「………………やる訳ないだろうが。何で俺にした」
そう尋ねられたネアは、眉を寄せる。
寧ろ、ネアがそんな事をするのは、ほぼ不可能に近いではないか。
「手ずからとなると、警戒心いっぱいのスフェンさんに力尽くで梨を食べさせる事の可能な力をお持ちで、尚且つ心を捧げられても扱いが上手そうな方と言えば、アルテアさんくらいではないでしょうか。ノアの場合は刺されてしまいそうですから」
「……………それなら、ダリルにでもやらせろ。あいつなら、喜んでわざとやりかねないだろ」
「キュ…………」
「ダリルさんは何というか…………、ご容姿的に、危険な雰囲気になってしまいそうです…………」
「いいか、あの妖精に対して、どうも妙な引っ掛かりを感じていそうだが、どんな事があってもお前がその果実をあいつには使うんじゃないぞ」
そう言い含められ、ネアは、密かに抱いていたスフェンへの僅かばかりの敗北感を気付かれていたことに驚いた。
「むぐぐ。本音で言えば、こちらがやり辛いなと感じるくらいに人間との交渉を慎重に警戒しつつも、政治的な見地と生き物としての嗜好として、私の個人評価は石ころ並にとても低いという不届きな反応を示したスフェンさんを、くしゃりとしてやりたい気持ちはあるのですが、心など捧げられても手に余りますからね…………」
「キュ!」
「あれは、分類するなら夏の系譜だ。お前への評価は低いだろうな」
「礼儀を欠かない範疇で絶妙に見下されると、何と偉大で恐ろしい人間なのだろうと感服させたいという身勝手な思いを掻き立てられるのだと知りました………」
「キュ…………」
ネアを抱えたアルテアは、足早に森の手前の小道を抜けると、もう一度屋内らしい石畳に出てくれた。
まるで帰り道が分かっているかのように細い路地のようなところを進み、幾つもの誰かの金庫室の横を通り過ぎて行くと、やがて美しい青い絨毯の敷かれた通りに出る。
「誘導路に出たな。冬夜と星空か」
「むむ、素敵そうな誘導路ですね。ここは、私も降りて自分の足で歩きたいです!」
「やれやれだな。………いいか、手は離すなよ」
「はい!」
(なんて素敵な誘導路なのだろう…………)
ちょっぴり心配性な使い魔にふわりとその上に下ろしてもらい、ネアはブーツの爪先で美しい青い絨毯を踏んだ。
緩やかな淡い光の帯を抜けて、星屑の絨毯を踏み締めるとしゃりんしゃりんと音がする。
そんな不思議で美しい最後の回廊を抜けてリーエンベルクに戻ったネアは、ムグリスから人型の魔物に戻ったディノから、現在、捕らえたスフェンを巡る動きを教えて貰っている。
「はふ。…………無事に往路の三倍くらいの時間な寄り道で帰ってこられましたね」
「……………やれやれだな」
幸いにもエーダリア達よりは早く戻れたらしく、リーエンベルクの会食堂にはネア達以外の人影はない。
このくらいの時間だとおやつに訪れるゼノーシュも、今日はグラストと騎士棟に籠っている。
昨年のものが今年にずれ込んだ事で、立て続けとなるとあまりにも不憫だと開催が少しばかり延期されているが、今年のヴァロッシュの祝祭が近付いて来たのだ。
「…………ひとまず、おかしなものを媒介されていなくてほっとしました」
「君に何かが繋がれているといけないから、その確認を終えるまでは、あの妖精の扱いなどを共有出来なかったんだ。不安にさせてしまったね」
「このような場合は、ダリルさん達に預けて当然だと考えていましたので、寧ろ、全く安心しきって伸び伸びしていました…………。ディノは私が不安ではないかと心配してくれていたのに、明日お届け予定の鶏肉のパイのことばかり……………」
ネアが、そうしゅんとすれば、ディノはほっとしたように微笑み首を振ってくれた。
この優しい魔物は、すっかりさっぱり危機感の抜けていた伴侶でこそ良かったと、怖がっていなかったのだねと喜んでくれる魔物なのだ。
「今回、ダリルは、アイザックと手を組んで、タジクーシャの対処に当たっているらしい」
無事に繋ぎは付与されていなかった事が判明したのでと、まずは必要なことを共有して貰う為の説明会が行われた。
ネアとしては、重要な情報を預けられる不安もあるのだと正直に白状しておいたが、これから久し振りに重大な任務を負うべく、ネアにも知っておくべき事があるのだそうだ。
「まず、タジクーシャの現状としては、現王派と前王派の二勢力だ。ダリルの弟子どもとアイザックの部下たちの調査から、やはり前王派が擁立しているのはスフェンで間違いないと判明した。だが、その支持も表向きで、実際には行方を眩ませている第一王子のドレドこそを、王に据えたいらしいな」
「ヒルドさんのお友達の方ですね……………」
ネアは、そんなドレドとデジレを巡る大きな謎に思いを馳せ、どこもかしこも決して明快ではない、王家というものの在り方について考えた。
(きっと、そこには大きな秘密があるのだと思う……………)
それは決して特別ですらなく、そうして秘密を飲み込み、息を殺して王冠を積み重ねてゆくのが王家というものなのだろう。
「……………とある魔物が、ドレド王子が姿を消した政変のきっかけとなった事件について知っていた。実際に当時のタジクーシャに滞在していたのだそうだ」
そう続けてくれたのはディノで、当時のタジクーシャに滞在していたのは砂糖の魔物なのだそうだ。
諸事情で数年間タジクーシャで暮らしており、まさにその事件の渦中にいたのだという。
「グラフィーツが関わっていたのは幸いだったな。それにあいつは、お前の……………いや、こちらで情報を吸い上げられる位置にいるのは間違いない」
「む、……………なぜ言葉を濁したのだ」
「お前のところの会員だろ」
「しらないかたですね。そしてかいなどありません」
「お前の面識のない相手も含め、順調に会員数を増やしているぞ」
「……………なんとおそろしいのだ。そしてかいはありません」
受け入れられない現実にぷいっとそっぽを向いたネアの頭を撫でてくれたディノが、砂糖の魔物から齎された情報を教えてくれる。
当時のタジクーシャに、一人の人間の魔術師が滞在していた。
そしてその魔術師は、お忍びで市井に出ていた当時の第一王子であるドレドと、友人であったという。
けれどもある日、そんな魔術師にドレドの妹である王女が恋をし、その想いに応えなかった魔術師を、騙し討ちで結んだ誓約で絡めとって宝石にしてしまおうと画策した。
困り果てている友人に、ドレドは手を貸して逃がしてやったのだそうだ。
結ばれた誓約が破棄されても諦めなかった王女は、タジクーシャを発とうとしている魔術師を襲ったが、その魔術師は自分を損なうものを滅ぼすような特殊な呪いを背負っており、返り討ちに遭う形で討ち滅ぼされてしまったのだとか。
「むむ、どんでん返しです!」
「その魔術師は、ウィームの系譜の者だったらしいよ。グラフィーツ曰く、階位は寧ろ低いくらいでその呪い以外に特筆するべき才能はなかったそうだ。故郷に帰って幼馴染の女と結婚し、その後に事故で命を落としたようだね」
「まぁ、お亡くなりになられているのですね。しかも、ウィームの方だったなんて…………」
ネアは、タジクーシャに残っていた馬車の呪いの魔術師の事を思い出し、逸話としてはその魔術師がそうなのか、或いはあのような土地であるので、様々な履歴を持つ特異な者達が集まるのかもしれないと考える。
「ドレド王子は、友人である人間の魔術師を救うと決めた時に、父親の思惑から離反するという覚悟も決めたようだね。ただ、彼は揺るぎない支持と力を持つ継承者だったけれど、当時のタジクーシャの王の権力は絶大だった。自身の階位が高くない宝石妖精だったからこそ、前王は恐怖政治のようなものを敷いていたんだ」
「……………それでもと決断をする程に、ドレドさんはその友人の方を大切にしていらしたのですね…………」
ネアがそう言えば、ディノはそうかもしれないねと淡く微笑んだ。
「先程のエーダリアの話を聞いて、その魔術師がウィームの人間だったからこそ、心を寄せたのかもしれないと思ったんだ。悪変や穢れを受けるという事は、ベージの事件を見ても分かるように心身共に多大な負荷を受ける。その苦痛から救われたという思いは、それなりに強烈なものだっただろう………」
その人間の魔術師とほぼ同時にタジクーシャを出てしまった砂糖の魔物は、ドレド王子がその後どうなったのか迄は知らなかったが、タジクーシャの王は、溺愛していた王女の死を招いたとしてドレドを離宮に幽閉したと言われている。
けれども、王が崩御して、やはりドレド王子こそが王座を得るべきだったのだと離宮を解放した第一王子派の臣下たちは、そこがもぬけの殻であることに驚いた。
離宮には、誰かが暮らしていた気配すら、微塵も残っていなかったらしい。
であれば、ドレド王子は最初からそこにはいなかったという事になる。
元々、幽閉されたという事実自体がなく、王子は密かにどこかへ逃がされていたのか、或いは最初から殺されていたのか。
様々な憶測や噂が飛び交ったが、その行方はようとして知れないままであった。
そして、そんな中で王位を継ぎ、王としての頭角を現したのが市井から召し上げられた庶子であるデジレだ。
当初は王としての素質はどうだろうという声もあったのだが、いざ王位を継ぐとその存在感は圧倒的なもので、不安の声はたちまち消えてしまったらしい。
「だが、お前がタジクーシャで聞いてきたこととヒルドの意見を鑑みると、現王であるデジレこそが、そのドレドである可能性も高くなってきたな…………」
「……………とは言え、そんなにも長期間、別の方に成りすませるものなのでしょうか?」
「スフェン程の誤認魔術ではないにせよ、宝石妖精には元々その種の固有魔術がある。……………だが、王が姿を偽る程のものを常に維持するのは有象無象には難しいだろう。ドレドという妖精が持つ固有魔術がどのようなものかにもよるが、擬態であれば、それを助けているのはスフェンのものであると考えるのが自然だね」
それはつまり、スフェンは、ドレドとデジレの入れ替わりの秘密を知っているということだ。
勿論ネアも、その仮定の上で、デジレがドレドであるという含みの会話を持った。
そして、その前提を織り込んだ会話に対し、スフェンが反応しなかったところを見れば、やはりそこは秘密の共有があると見て間違いないだろう。
先程の会話での最大の収穫は、デジレという宝石妖精が本当は誰なのかであったのだ。
(でも、…………)
ネアは、密かに、そうでなければいいと思う事もあった。
ヒルドの友人なのだから、勿論生きていてくれた事はとても嬉しくは思っている。
けれど、タジクーシャの思惑に逃れようもなくヒルドが飲み込まれてしまう気がして、いっそ別人であってくれれば、ヒルドもその企みに素知らぬ顔で背を向けられるのにと考えていたのだ。
人間らしい狡猾な願いだったが、残念ながら逃げ出すことは叶わないらしい。
「アイザックの方で、タジクーシャの王と交渉を進めているみたいだね。スフェンの身柄を返してやりつつ、ウィームとタジクーシャとの間に、正式な友好条約を結ぶ見通しが高い」
「スフェンさんは、タジクーシャに戻されるのですね………」
リーエンベルクに害意を以て侵入した妖精なのだ。
自身の領域を守る為には殲滅戦も止む無しと考えてしまう残忍な人間は、あれだけの事をしてのけたスフェンが、お咎めもなく自由を得ることが不安でならない。
(でも、ディノ達がそれを許すのは珍しいのかもしれない……………)
そう考えて首を傾げたので、ネアの疑問は聞かずとも伝わったのだろう。
ゆったりとした微笑みを浮かべたディノが、私が説明するよとアルテアに一言伝え、こちらに向き直る。
「君も知っている通り、タジクーシャの妖精達には品物だった時の特性がある。もし、デジレがドレドだった場合に得られるものが、かなり希少なものであることを、ダリルやアイザックは見越して交渉を選んだのだろう」
「……………ドレドさんは、宝剣で、尚且つそれを持つ方が王になるという王冠相当のものでもあったのですよね?」
「あの宝剣は、国の選定と不可侵を助けたものなんだ。上手く使えば、ウィームが今後政治的な干渉を受けたり、中央の者を送り込まれる可能性を排除出来る。それは、私やノアベルトでは、全てを排除しきれない部分だからね」
思いがけない言葉を聞き、ネアは目を丸くした。
(ディノや、ノアにも出来ない事が出来るということなのだろうか…………)
統一戦争の話をした時に、どれだけの守護があっても失われるものはあるのだということは聞いていた。
人外者達はその最高位の者であれ、決して万能ではないのだから、それも当然なのだろう。
「………つまり、ディノやノアがここを守ろうとしても防げないかもしれないものを、ドレドさんは退ける事が出来るのですか?」
「あいつは、魔術の理の因果における、災厄避けの術式の最高峰のものだからな。災いを選定し、国を守る。だからこそ、国造りの術具ともされたものだ」
その宝剣を作ったのは、一人の精霊王と一人の魔物、そして三人の魔術師だとされている。
「俺は魔術師として加わったが、他には先代の因果の成就の精霊王と剣の魔物がいたな」
「なぬ。アルテアさんが生みの親でした。つまり、ドレドさんのお父さん……………?」
「やめろ。あいつは宝石だろうが。親という概念なら、あいつを切り出した宝石職人だろうが」
顔を顰めたアルテアにべしりとおでこをはたかれ、ネアは鋭く唸って威嚇した。
「そのような事だから、今回の事の補償として、彼等と交渉を持ちたいと思うことについては、私やアルテアも賛成なんだ」
「やっと、ダリルさん達の目的が見えてきました」
ウィームを脅かす災厄を退けられるのなら、それはもう、手放せないカードと言えよう。
多少こちらから不利益な支払いが出るとしても、手に入れておきたいと考えるのは当然だった。
「私たちは不可侵の領域を作る事は出来るけれど、それは、こうして様々な者達と生きてゆく場を維持する事と同一ではないからね。それに、例えば高位の生き物による襲撃であれば私がどうにかする事は出来るが、相手が国としての施策であったり、善意を装った有用な人材の配属であったりするとその限りではない」
「ディノが言おうとしていることが、分かる気がします。ドレドさんという妖精さんの助力があれば、そちら側の災厄を退けられるのですね?」
「君はきっと、……………ウィームを出て暮らしたいとは思わないのではないかな。それなら、今回の事は使いようによっては恩寵になる」
静かな声でそう話してくれたディノに、ネアはふすんと頷いた。
こちらの世界に来たばかりの頃は、色々な土地で暮らすことも視野に入れていた。
だが、いつからかウィームは、離れる事など出来ない大切な場所になったのだ。
ウィームがどれだけヴェンツェル王子といい関係を築いていても、現在のヴェルクレアの王はバーンディア王だ。
それに、彼等の大事なものと、このウィームの大事なものはやはり違うだろう。
国なのだ。
必ずどこかで事情や環境は変わってくる。
例えば、もしここで王が急逝してしまい、不幸が重なるように正妃が王座を手にしてしまうようなことがあれば、それはウィームにとっては災厄以外の何物でもない。
(だから、ダリルさん達が無理をしてもその力を欲するのは、仕方のない事なのだろう……………)
ネアだってそうする。
「…………具体的には、どのような事が必要になるのですか?」
「タジクーシャの妖精達は、派生した品を必ずどこかに保管している。宝剣の宝石であれば、剣から外すとその価値は落ちるからな。………現王がドレドなら、どこかにメーゲットの宝剣を持っている筈だ。その実物とドレドを術式展開の場に置けば、後の手順は俺が良く知っている」
「むむ、ここでアルテアさんが関係者なのは、心強いですね」
ふと、ディノが目を伏せた。
その表情がとても不安そうに見えたので、ネアは眉を寄せて手を伸ばすと、そっと頭を撫でてみる。
視線を持ち上げてこちらを見た魔物は、水紺色の瞳が光を孕み、どきりとする程に艶やかに見えた。
「今のは補償の話だ。そこに繋げる為の条約締結際に、このリーエンベルクに所属する人間が、タジクーシャを訪問する事になるだろう……………」
「………しでかしたのはスフェンさんなのに、我々が出向かなければならないのですか?」
「厳密には、タジクーシャからの使者をこちらでも受け入れ、エーダリアやダリルとの正式な交渉の場を持つ。だが、あちらを訪れる者達も必要になるのは間違いないだろうね」
「………それではまるで、………同等な立場での交渉のようです」
少しだけもやもやしてしまったネアに、ディノはそうだよねと頷いてくれた。
「けれども、敢えて形式上はそうする必要があるんだよ。このウィームは、現王と王都の議会の許可なく、他国やその他の人外者達の都市や国を支配下に置くような、条約や同盟を結んではならないという決まりがある。今回は、前述の補償を要求するにあたり、ウィーム対タジクーシャの交渉になるから、中身はどうであれ、表面上は友好的な交渉であるという体裁を魔術的にも整えなければいけないんだ」
ディノが丁寧に説明してくれたので、漸くネアも腑に落ちた。
ここは、どれだけ中央から離れていても一領地に過ぎず、中央からはその動向に目を光らせる者も多い、敗戦国でもあるのだ。
「……………裏で、こそこそっと落ち着けることも難しいのですね」
「うん。ダリル達だけではなく、ノアベルトやアルテアも様々な方法を思案したようだが、先程の魔術は、ウィームという大きな括りで約定を結ばないと守れないものが出るのだそうだ」
メーゲットの宝剣の魔術は、元々、国というものに適応される魔術なので、それをウィーム領に書き換えるのが限界だと、ディノは重ねて説明してくれる。
(む、三つ編み……………)
伸ばされた美しい手がネアの手を取り、ぎゅっと握らされた三つ編みに、ネアはやはりかという無念さを覚える。
けれど、不安そうな目をしているディノを見ると予感のようなものを受け止め、ここで手を握ってくれるのではなく三つ編みを渡されても、健気に微笑もうと思った。
「私は、そのどちらかに加わる必要があるのですね?」
「……………うん。恐らく君は、タジクーシャに行く事になるだろう。…………私もだけれど、それはノアベルトがとても嫌がってね。回避する術を探していたのだけれど、このリーエンベルクにはそのような舞台で交渉役になれる人間は、とても少ないんだ」
確かに、ネアが考えてもそうだった。
人材の集中などで中央から警戒される事を避け、リーエンベルクでは文官などの有能な人材を置いていない。
殆どの人材を、敢えてダリルの弟子達として採用する事で、王都からの命令で人材を取り上げられる事も避けているのだ。
(騎士さん達も、望まない異動や転勤があれば退職を許される採用枠。あくまでも、現地雇用として成り立っている。………正式にウィーム領に属するのは、エーダリア様と私とグラストさん、そしてヒルドさんくらいなのだ……………)
「……………むむ。私の他にも、誰かがご一緒してくれるのでしょうか?」
「ヒルドが同行するそうだ。勿論、ぎりぎりまであちらへの影響を軽減したある程度の擬態は必要になってしまうけれど、私も一緒に行くよ。そして今回は、前回にデジレとの間に約定を交わしている、グレアムも一緒に来てくれるらしい」
「……………とても安全な訪問でした。費用は向こう持ちですよね?」
「その点に於いては、君がまた悲しい思いをする事はないから、安心していい」
目をパチクリさせ、ネアは首を傾げる。
「何某かのお話し合いの場に出るどころか、タジクーシャを壊滅させるのも吝かではない人選なのに、それでもディノは心配してくれるのですね?もしかして、妖精さんの侵食は、やはりそのような場でも厄介なのでしょうか?」
「ヒルドが共にいる以上、タジクーシャの妖精達が君を損なう事は出来なくなる。だからこそ、…………君が選ばれる可能性がとても高いのだからね」
「ふむふむ。例えばグラストさんだと、魔術上、ヒルドさんの手が届かないのですね?」
そう尋ねたネアに、ディノはゆっくりと頷いた。
魔物は狭量な生き物なのだから、こんな風にタジクーシャを再訪させるのは不本意なのだろう。
けれど、すっかりしょんぼりな魔物に対し、ネアは、一緒にあの美しい町を眺めるのは満更でもないという浮ついたことを考えてしまう。
「言っておくが、そう甘くもないぞ。どのような内情があるにせよ、排除しきれていない前王派が向こうにいるのは確かだ。それに、タジクーシャには、世界各国の老獪な商人達がひしめき合っている。こちらの訪れを好機と思って、全くの外野が手を出してくる可能性もあるのを忘れるなよ」
「は、はい!」
訪問の日が決まるのは、そう遠くはないだろうという事だった。
ウィームとしても、不安要因になりかねないスフェンをいつまでも手元に置いてはおけないし、宝石の果物を食べる宝石妖精は、費用面でも公費の負担となる。
現在はウィームの祝福の豊かな果物や水を飲んで問題なく過ごせているが、同じ宝石の系譜の上位であるヒルド曰く、後一週間もすれば、もっと宝石の果実が必要になる可能性が高いそうだ。
「ふと思ったのですが、アイザックさんは、参加しないのですか?」
「今のところ、どちらにどのように参加するかは決めていないようだな。場合によっては、アイザックもお前に同行すると言い出す可能性もあるが、あいつの交渉の席に立ち合うと余計な恨みも買いかねない。その場合はシルハーンに却下させる」
アクス商会の商談も含め、アイザックは、自身が高位の魔物であるからこその交渉や商談をする。
それは、アクス商会の代表であり、公爵位の魔物であるからこそ許される手法ばかりなので、ネア達が正式なウィーム領主の代理の立場で同席した場合は、その望ましくない影響を受けることくらいしか想定出来ないのだそうだ。
「ふむ。とばっちりで恨まれかねない的な感じなのですね…………」
「グレアムが何かの事情で来られない場合は、アルテアが同行するようになるだろう。けれど、アルテアは帰路の確保でこちらに残って貰った方が安全だからね」
「まぁ、アルテアさんが、道案内をしてくれるのですか?」
「選択の魔術領域で、置き換えの指定をしておいてやる。何か不測の事態になった場合は、こちらにいる俺とお前を置き換えられるからな」
「なぬ。じゃあ、お風呂で危険に見舞われても入れ替わりをお願いしてもいいのですか?」
その場合はどうするのかなと指摘したネアに、魔物達は目を瞠った。
「……………は?」
「こう、……………よく、娯楽物の読み物などで、女性の専用大浴場などにいる時に、男女が入れ替わり、大騒動になってしまったりしません?」
「………この話の流れで、お前はタジクーシャで呑気に大浴場に行くつもりか?」
「分からないではないですか。もしかすると、大歓迎で、仲良くなった女性の方にお風呂に案内されるかもしれませんし、大雨などでびしゃびしゃになって温まりにゆくかもしれません」
「ネア、そのような場合は、危険を回避する事を優先していいよ。アルテアは恥ずかしがらないんじゃないかな………」
「はい。では遠慮なくばしっとやりますね」
「……………おい」
アルテアはとても遠い目をしていたが、有事の場合には状況にかかわりなく、入れ替わるようにと厳命されることになった。
(もう一度、タジクーシャに行くようになるのかもしれない………………)
記憶の向こうで、きらきらと光り輝く町を飛んで行く、カナリアのような黄色い小鳥達が思い出された。
窓のカーテンの隙間から見たあの光景を、ネアは、旅人として見られたならと考え見ていたのだった。
やがて、エーダリア達がリーエンベルクに戻ってくると、ダリルを含めあまりない顔ぶれでのお茶の時間となった。
「ネアちゃん、今日はご苦労様。いい働きだったよ。やっぱり、タジクーシャの王はヒルドの知り合いの妖精で間違いなさそうだね」
「上手く働けたか心配だったのですが、そう言って貰えて良かったです」
「あれの目的を確定し、デジレ王がドレドであるという確証を得る。短い時間でいい成果を上げて、いい揺さぶりをかけてくれた」
麗しい眼鏡美女にしか見えないダリルの向かいに座って、ネアは仄かな緊張に背筋を伸ばす。
銀盆で運ばれてきたのは、このような時だからと出された試作の紅茶達だ。
星雫とミモザの紅茶は爽やかな柑橘系の香りのする黄金色の紅茶で、竜の谷の木苺の紅茶は温室ではなく険しい谷間に実る果実の仄かに甘い香りがする。
三種類目は、葡萄水晶でインクを作る際に出てくる葡萄がらを再利用したもので、インク作りに使われる葡萄水晶の品質の高さに目を付けたインク職人が紅茶商人と手を組んで生まれたものだ。
お湯に葡萄色のインクを一滴垂らしたような淡い色だが、飲むとふくよかな紅茶の味にふわりと鼻に抜ける硬質な葡萄水晶の香りが素晴らしい。
お茶請けに出されているのは、昼食がまだであったエーダリア達の為の軽食と、ネア達の為のお菓子であったのだが、エーダリアの席に運ばれて来た軽食をネアが凝視していると、給仕妖精は同じものをネアのところにも持って来てくれた。
ぷりぷりの海老をたっぷり使った丸いコロッケのようなものに、たっぷりと香草の香りの豊かなタルタルソースを乗せた串揚げと、野菜たっぷりちびキッシュを添えた、一口ローストビーフサンドともなれば、ネアとて見過ごせる筈もない。
美味しくもぐもぐしながら、エーダリアやダリルと、あれこれと報告や議論をし合う魔物達を見ている。
「ネアちゃん、タジクーシャに行ってくれるかい?」
そして、様々な議論の終結と共に、そう問いかけたダリルに、ネアは凛々しく頷いた。
「頼もしい他の方々に甘えるばかりでこう言うのも心苦しいですが、勿論、お任せ下さい」
こうして、一週間後のネアのタジクーシャ再訪が決まったのだった。




