56. 夏至の怪物が現れます(本編)
夏至の昼食の席で、ネアはなぜか使い魔から念入りな手の魔術洗浄を受けていた。
付け根とは言え妖精の羽を掴んでしまったので、その妖精の粉が残っていないかどうか、先程まで洗面台で洗われていたのに、今度は爪の隙間まで専用のブラシで丁寧に磨かれている。
ジレ姿で袖を捲ったアルテアに手を預け、間違えた妖精を捕まえてしまったとしょんぼりする魔物を椅子にしたネアは、自慢の収穫物を実際に見せられないことばかりが残念でならなかった。
「とびきりの大きさだったのですよ。引っこ抜いた時に、自身の記録として全長を測っておくべきでした…………」
「……………ええと、僕もかなり長く生きているけどさ、体の乗り換えをしようとした妖精を素手で引き摺り出した人間って、あんまりいないんじゃないかなぁ……………」
「いや、それよりもなぜ、内側に潜んだ妖精をお前が見付けられたのだ……………」
「ディノ曰く、あまり適応されることのない筈の事象らしいですが、収穫の祝福ではないかということでした」
「わーお、収穫なんだそれ……………」
「という事はもしかすると、あの妖精さんの粉は美味しいのでは……………」
「ネア様?」
「……………ほわ、た、食べません」
にっこり微笑んだヒルドの目が怖かったので、ネアは慌てて首を横に振った。
エーダリアがそんなヒルドの表情を窺って慄いているので、ネアは重ねてふるふると首を横に振る。
「……………他に考えられるとしたら、お前が摘んだばかりの薬草だな。夏至祭の夜明けに摘んだ薬草には特別な祝福が宿る。それぞれの植物の最上位の祝福が得られたのだとすれば、セージの予知にローズマリーの覚醒、薔薇の朝露は支配だ。……………他にも摘んだのか?」
「むむ。葉っぱがいい匂いなだけではなく、きらきらして綺麗でしたので、バーベナもいただきました」
「……………魅了だ。余計な使い方をするんじゃないぞ」
「むぐぅ」
他にも、夏至の日の朝には妖精を見付けやすいという伝承もある。
夏至の日に汲み上げた水で顔を洗うと、妖精の足跡を見付けやすくなるのだとも。
夏至祭だからこそかもしれない様々な要因が重なり合い、ネアは、エドモンの内側に隠れた妖精の引き剝がしを成功させられたようなので、夏至だからこその襲撃が結果としてはネア達を守ってくれたらしい。
アルテア曰く、その宝石妖精は引き摺り出されて呆然としていたところを、頭を踏みつけられて意識を失ったようなので、暫くは目を覚まさないのではないかという見解である。
「思っていたよりも儚いので、ハンマーがなくても滅ぼせそうですね…………」
「あれは、現王の副官だ。……………今の状況なら簡単に殺せるが、背後関係を洗い出す為には、生かしておく必要があるな。デジレとの交渉も必要になるだろう」
そう呟いて、漸くネアの手を解放してくれたアルテアは、私物らしい爪掃除のブラシをしまっている。
とは言えこれは魔術洗浄の為のものなので、普段から爪のお手入れに気を使っている訳ではないらしい。
「……………人質交渉的なことをするのであれば、慰謝料は取れるでしょうか?」
「ありゃ、損失を取り戻す気満々だ…………」
「金よりも、まずは不可侵の誓約を万全にする方にしろ。デジレの治世で抑えが利かないのであれば、他に、離反した宝石妖精達を指揮する者がいた筈だからな」
「王の副官ということであれば、ネアが捕まえた妖精がそうなのではないか?」
「うーん、どうだろうね。自身が何らかの象徴だった場合は、本人が一人でリーエンベルクにやって来るかな。まぁ、デジレって妖精を見ていると、宝石妖精はそういう気質が強いのかもしれないけれどさ……………」
言われてみれば、そもそも王本人が単独でネア達を攫いに来たのだから、宝石妖精は王であれ王の副官であれ、単独で動いてしまう系の妖精なのかもしれない。
(でも、旗印になっているような人が、自ら危険な役目を引き受けるかしら…………?)
単純に考えれば、やはりタジクーシャの王には含みがあるという見方も出来る。
それに、副官とは言え、実際には対抗勢力に属していたという可能性も捨て難いと推理を進めていたネアに、新しい推理の材料をくれたのはディノだった。
「そのような気質もあるかもしれないね。彼らは、宝石妖精という種族で一括りにされているけれど、元々は独立した品物から派生した妖精だ。同じ宝石でも、武器の為にカットされた宝石はその武器の性質を帯びるし、宝飾品の妖精はその気質が強くなる。特定の魔術道具などに使われた宝石は、道具の属性の影響を受けるものなんだ」
ディノの説明に、ネアはほほうと頷いた。
それだけ資質が違うのであれば、他の妖精達のような一族の統一意思めいたものは確かに薄いだろう。
まさに先程の白百合の妖精も、原種だからこそそのような特性があったのだと思えば、一括りにしてしまいがちな妖精達にも、その派生によって気質の違いはあるに違いない。
あの白百合のシーは、アスセナという名前の王女だったそうだ。
アルテアはその姉の妖精を知っているそうで、そちらは白百合らしい清廉潔白といった気質の妖精であるらしい。
(あの人は、捕らえられた砂色の肌の宝石妖精の魔術に触れてしまって、私の契約の魔物がジョーイさんだと誤認識させられたまま、このリーエンベルクを訪れた……………)
捕まえた妖精を調べて発覚したのは、そうであると考える切っ掛けを得たものをそのまま誤認させ続けるという、認識の相違を強いる固有魔術を持っていたことだ。
魔物の中にも似たような魔術を持つ者がいるらしく、今回の場合は妖精の魔術なので浸透率が高いのが厄介であった。
そうなると、宝石妖精関連の出来事で多発した誤認識については、あの妖精の手による策略だった可能性もある。
今回、リーエンベルクの内側に入り込む為に用意された足場の数を思っても、かなり慎重な足運びをする人物だったようだ。
(牛乳商人さんの事件が起きれば、こちらでは、百合の系譜の妖精が事件を起こしたという認識が一つ根付く…………)
もしかするとその前から組まれた足場があったのかもしれないが、今回の件についてはそこからとして考えれば、幾つかの足跡が浮かび上がるのだ。
(すると、アスセナさんをリーエンベルクに向かわせれば、その日の配属がリーエンベルク内かどうかにもよるけれど、白百合の魔物さんの守護を得たユリメイアさんが対応すると踏んだのかしら…………?だとすれば、エドモンさんが灯台の妖精の系譜だという事までを知っていたのかもしれない…………)
では、このリーエンベルクに忍び寄り、ネアを捕まえてどうしたかったのか。
そこまでの危険を冒しつつも、エドモンの体に乗り換えようとした時には、ネアを害する事に執着せずにいたのはなぜなのか。
「…………宝石妖精さん達は、何をしたいのでしょうね」
ネアがそう呟くと、リーエンベルクの会食堂はしんとした。
正午には本日一度目の夏至祭のダンスが始まるので、エーダリア達は只でさえ忙しい一日なのだ。
だが、依然として目的が明確にならない宝石妖精達の暗躍は、ひとまずは後回しにしておこうと思うにはいささか不安要因が多過ぎた。
「…………シルの話を聞いていて思ったんだけど、今回の事件って、大掛かりに見えて極めて個人的なものだっていう感じがするんだよね」
「…………個人的、ですか…………」
不意にそんな事を言い出したノアに、ヒルドは困惑したように瑠璃色の瞳を瞠る。
再びタジクーシャ絡みの問題が起きてしまったことで、心を揺らしてはいないだろうかと考え、ネアは慎重にその表情を窺っている。
遅めの朝食兼早めの昼食を終えた後のテーブルの上には、夏至祭の日と言えばのプティングがそれぞれの席に出されていて、細やかな白い花が入ったシロップは、星屑を回しかけたようにも見えた。
呑気にお茶をしているようにも見えるだろうが、これもまた夏至祭の日の大切な風習の一つなのだ。
テーブル上ではなくこちらを見ながら窓辺にみっしりへばりついている小さな妖精達の方は、あまり見ないようにしよう。
つぶらな瞳と目が合っても、腹ぺこ妖精に腕を齧らせてやる訳にはいかないのだ。
「うん。あのデジレというタジクーシャの王は、ヒルドをタジクーシャに招きたかったんだろうし、それとは別に、グレアムやアルテア達と交わした誓約を、自分の事情に有利に働くようにして守りたかった」
「…………現状では、その辺りが妥当だろうな」
「僕はさ、それはそれで切り分けていいと思うんだよね。…………勿論、あの王は他の宝石妖精達が何をしようとしているのかを、ある程度は掴んでいるとは思うよ。けれど、前王派とやらの思惑には与していないって感じがするんだ」
擬態をしていない屋内では、ノアの青紫色の瞳の色が、窓の向こうに滲む緑に映えて鮮やかだ。
昨年までは一緒にダンスを踊ってくれていたので優雅な盛装姿であったが、ダンスを踊らない今年は、白いシャツに黒いパンツの飾らない服装でいる。
なお、今年はタジクーシャの妖精達を警戒してデートはしないそうで、きりりとした表情で、決して恋人に燃やされかけるからではないと主張している。
「前王派の妖精達の思惑は、デジレを王座から引き摺り下ろす事だろうな。……………王の質を考えれば明らかにデジレに分があるが、あの宝石の黒は、白と呼ばれる透明なものよりは質が落ちるというのが一般的な評価基準だ。それまでの王家の宝石達とは違う宝石職人の加工であることも理由の一端かもしれない」
「…………敵対した者達が、グレアムやアルテアとの誓約を知ったからこそ、王を失脚させる為にこちらに手出ししてきているということだね…………」
ディノはそう呟いたが、となるとやはり謎は残るのだ。
今回捕縛された宝石妖精は、一人はタジクーシャの青玉の貴族の三男で、ネアが収穫した人物が王の副官である。
少なくともその二人は同じ派閥に属しているとした場合、最も謎が深まるのが、その王の副官こそが前王派が立てうる最大の新王候補であったことだ。
ネアは、ついつい生まれた世界でのダイヤモンドの普及率を考え、王族は他にも何人かいるのだろうと考えていたが、ダイヤモンドの宝石妖精は元々あまり多くないのだそうだ。
派生したばかりの宝石妖精はある程度の年齢になるまでは眠っている事も多く、デジレの他のダイヤモンドの妖精は、ひびの入った老齢の元王族達や、まだ揺り籠の中で眠る幼い準王族達ばかりなのだとか。
「まだ幼い王族達は、旧王家の血筋とも違う宝石筋だ。擁立するにしても古参の貴族達には複雑なんだろうよ」
「となると、僕の妹が捕まえた妖精の階位は、タジクーシャの第二席相当といってもいいってことかぁ…………」
「まぁ…………。あの方は、なかなか上等な宝石の妖精さんなのですね…………」
「現王は黒だからな。その輝きの色は青、僅かに紫と言われている。対する副官のスフェンは、黄金混じりの淡い檸檬色、宝石妖精達からは黄金と呼ばれる宝石だ。その輝きはデジレどころかかつての王族達よりも強く、虹持ちには欠けるが、宝石妖精達は勝手に虹持ちと言っているらしい」
「…………そうなってくると、前王派の方々にとっては、担ぎ出し易い人材なのですね?」
その副官について、宝石妖精になるまでの履歴を教えてくれたのはヒルドであった。
「スフェンは、…………ゴーモントからカルウィの王家に伝わった儀式錫杖の頂に飾られた宝石の妖精だと言われています。血統………それを宝石妖精達は血統として捉えるのですが、その点に於いても支持を集めやすいのでしょう」
ゴーモントは既に滅びて失われた街ではあるが、カルウィと合わせどちらも砂漠の中にある都の名前だ。
砂色の肌にけぶるような白寄りの淡い金色の長い髪を思い出し、ネアは、そう言えば倒した妖精の顔はまだ知らないのだと気付いた。
「タジクーシャの妖精達は、本来の品物の履歴を血統とするのだな…………」
そのような事は初めて知ったのか、慎重に頷きながらも少しだけ身を乗り出してしまったのはエーダリアだ。
そんな場合ではないと理解はしつつも、こうして語られる未知の文化についての知識には、やはり心惹かれてしまうのだろう。
「ええ。まずは宝石の種類によって階位が決まりますが、そこに加味されるのがどのようなものに使われた宝石だったかでして、大国の王冠が最高位、次いで国宝級の儀式用の希少な道具、宝飾品、武具の順番です」
「デジレは何の宝石なのかを品物の詳細な履歴までは明らかにはしていないが、武具だと言われている。俺の印象でも武器だな」
「王族であるダイヤモンドが市井で育てられたのなら、恐らくはそうだったのでしょうね。…………ただ、彼がもし私の友人であったドレドだった場合、彼もまた剣の宝石でした」
「ありゃ、武具だったのに第一王子だったのかい?確か前王や王女は王冠の宝石だったよね?」
そう尋ねたノアに、ヒルドは過去を思う僅かに遠い目をする。
どのような友人だったのか、そしてもしデジレがその友人であった場合は何を思うのか、ヒルドにとってはさぞかし心を騒がせる事件だろう。
「ドレドは、国家創建の魔術基盤の核となった宝剣の宝石でした。武具というよりは魔術道具に近く、その剣を持つ者こそが王だとされた為に、王冠としての役割も持っていました」
「成る程ね。王冠で国宝級の魔術道具で武具だった訳かぁ。そりゃ手堅いなぁ………」
「スフェンとは面識は殆どありませんが、確か彼は、ドレドの補佐として育てられていた記憶があります。…………或いは、王宮から姿を消したと言われているドレドの代理としての旗印かもしれませんね……………」
「であれば、強欲で残忍ではあったが屑石だった前王を偲ぶよりは、よほど現実的に頷ける旗印だな。宝石妖精は、嗜好品であった履歴から支配者層の配下になる事を好む妖精だ。支配するのに相応しい者には異様な迄に執着する」
そんなヒルドの友人である宝石妖精は、継承権を放棄して王宮を去ったと言われているが、真偽の程は確かではない。
けれど、目を瞠る程の履歴を持つその王子であれば、アルテアの言うように過激な支持者が付いてもおかしくないような気がした。
(最も王様に相応しい人がいなくなってしまったから、それを惜しんで同じように血筋のいいスフェンという人を、王にしようとしているのだとしたら…………)
「……………む、なぜに皆さんは私を見ているのでしょう?」
「…………いいか、捕まえた妖精には絶対に近付くなよ?」
「仲良しでもなく、粉々も食べられないような妖精さんと接触しても何の意味もありません……………」
「僕の妹ならそう言うかもだけど、なぜか所有欲を持たせるっていうのが宝石妖精全体の固有魔術でもあるんだ。それを知っておいた方がいいかもしれないね。………ええとほら、ネアは下僕希望者がすぐ増えるからさ」
「かいなどありません…………。しかし、第一印象は最悪なのですが、アクス商会に高値で売れるのであれば、道中ご一緒するのも吝かではなく……………」
「ご主人様……………」
「ありゃ。そのまま売り捌く気なんだ……………」
「ネア、ウィームでは奴隷の売買が禁じられている。法に触れる事はくれぐれも避けてくれ」
「宝石さんなので、物品売買です!」
「……………わーお」
ここで、エーダリアとヒルドが立ち上がった。
そろそろ、夏至祭の正午のダンスの時間になるのだ。
本日は白に近い水色に銀灰色の装飾のある盛装姿のエーダリアは、ウィーム領主として夏至祭のダンスを見届ける義務がある。
幸いにも、損なってはならないという土地との誓約があるお陰で、夏至祭ではエーダリア程に安全な人間もいないだろう。
だからか、ネア達が屋内に留まると知り、エーダリア達はほっとしたように肩の力を抜いていた。
「うん。………僕の妹が祝祭を楽しめないのは釈然としないけれどさ、出ないで済む時には出ない方がいいかもしれないね」
「いいのかい?君は、夏至祭のダンスを見るのも好きだったのだろう?」
魔物然としていた眼差しを曇らせて、どこか悄然とそう尋ねたのはディノだ。
この魔物は、自分に不都合や怖さがあっても、伴侶に沢山の経験をさせてあげたいという優しい魔物なのだ。
「ええ。楽しみにしているダンスは、屋内からも見えますから。ただでさえ、ダンスの時には何組もの方々が攫われてしまうので、皆さんが対応に追われる忙しい時に私までお外にはいない方がいいでしょう。その代わり、正門向きのお部屋の窓からダンスを眺めていようと思いますので、エーダリア様達は、我々の手助けが必要な場合は、お手数ですがこちらに合図を送って下さいね」
「すまないな。お前の姿が見えれば、せめて騎士達も安心するだろう……………」
「む?騎士さん達が……………?」
ネアが首を傾げれば、なぜかみんなは得心気味に頷くではないか。
ぐぬぬと眉を顰めつつ、美しい花輪の塔に思いを馳せる。
(本当は、せっかくの祝祭だもの。綺麗なお嬢さん達が踊るのを、近くで見たいなという思いも少しだけあるのだけれど………)
ネアは、花冠を頭に乗せた美しい乙女たちが花輪の塔の周りで踊る夏至祭のダンスを、今年は観客として見るのを楽しみにしていた。
けれども、可動域の低さが災いし、ディノの伴侶になった今も、未成人としての危うさが残ることも理解している。
妖精達が好んで攫うのは、未婚の男女に子供達なのだ。
ネアが加わらなくなる今年の夏至祭は、戦闘靴による踏み締め効果の安全が確保されなくなる。
一時は世界中のどこよりも安全だと謳われたウィーム領主館前の夏至祭のダンスは、再び命がけ度合いが高まると予測されていた。
(私が参加していた時でさえ、なかなかの失踪率だったのだもの…………)
それ以上となればどんなことになるのか、既に、後先考えずに森に突撃する思春期の若者問題などに悩まされているエーダリア達の表情はとても暗く、身内となるネアまでが、そんな現場に更なる不安要因を持ち込むことは許されない。
いくら自分は戦力になれると自負をしていても、やはり万全ではない要素も大きい。
であれば、手数を最小限に抑える事こそが現場にとっては有難いだろう。
美しい夏至祭の日は、危険がいっぱいなのだ。
「今年は、夜に行われるヒルドさんのダンスを見るのを楽しみにしていますね」
「おや、あくまでも形式上のダンスですよ?」
ネアがそう言えば、ヒルドはどこか困ったように淡く微笑んだ。
夏至祭のダンスでは、リーエンベルクからも公務として誰かがダンスに参加するのだが、昨年まではネアが務めていたその枠を、今年はヒルドが埋めてくれることになった。
集まった観衆が望むような美麗な参加者として、森と湖のシーであるヒルドであれば申し分ないだろう。
お相手を務めるのは、ウィームにある魔術大学の学生筆頭の少女で、美しいシーと踊る為の抽選への参加資格を整える為だけに、結婚間近だった婚約者と婚約破棄した強者だ。
騎士の一人であるリーナも、婚約者の少女と踊るらしい。
グラストのダンスも見たいという声があったらしいが、怒り狂ったゼノーシュがそんな意見を出した愚か者達を一人ずつ黙らせていったのだとか。
エーダリア達が出かけて行くと、ネアは、いそいそと正門向きの特等席となる窓辺を確保するべく、中央棟に向かった。
先程の事件もあってとても警戒しているディノには、持ち上げではなく手を繋いで貰うようにしたところ、繋いだ手をぶんぶんされてしまった魔物はたいそう弱ってしまっている。
「ディノ、エーダリア様たちが戻って来たら、その後は二人で大広間を借りて踊りましょうね」
「ずるい……………」
「またしても用法が行方不明になっていますが、……………まぁ!ここから見ると、華やかな夏至祭のダンス会場が全体的に見えて、なんて綺麗なんでしょう!」
「…………っ、おい!」
「むぐ?!窓辺に駆け寄っただけなのに、なぜディノとアルテアさんに左右から持ち上げられたのだ……………」
やはりお祭り気分というものはあるらしく、窓からの景色にはしゃいだネアは、窓辺に駆け出しただけなのに、二人の魔物にすかさず左右から持ち上げられてしまった。
足をばたばたさせて遺憾の意を示し、何とか床の上に解放して貰う。
「いいか、窓を開けてバルコニーに立つのは構わないが、排他領域を整えるまで待て」
「むむぅ。ダンスの時に問題を起こしてエーダリア様を困らせたくはないので、バルコニーのある正面の窓ではなく、こちら側の窓の前に椅子を持って来て観覧しようと思っているのですが……………」
ネアがそう言えば、魔物達は驚きつつもほっとしたようだった。
やはりどれだけの守護があったとしても、屋内で窓を閉めているのと、外気に触れるバルコニーに出るのとでは想定される危険の度合いが違う。
ネアが選んだのは、バルコニーに出なければ外の景色を見下ろし難い一番大きな窓ではなく、その右側にある、正面からは少しずれるもののそれなりに大きな一枚窓だ。
そこからであれば、窓辺に立つだけでリーエンベルク前広場の様子がよく見えるので、窓を開ける必要もない。
それでは早速と、室内の椅子を引きずってこようとしたネアを制し、ディノが窓辺から外が見易いような、少し座面の高い椅子を魔術で象ってくれる。
よいしょとその椅子に這い上がって座れば、誂えたような夏至祭のダンスの観覧席になっていた。
はらはらと花びらが舞い、淡い光を帯びた妖精達がぽわぽわと飛び交っている。
窓枠を額縁にして見下ろす美しい光景は、おとぎ話の絵本の一頁を眺めているようだ。
上から見ると、森の方から会場を覗いている妖精達や、木々の枝の上から何かを狙っている小さな獣たちが見える。
広場に敷き詰められた花びらの上に描かれたのは、青白く輝く魔術陣だ。
「始まりますよ……………!」
集まった乙女たちが周囲に向かってお辞儀をしている。
燕尾服姿で楽器を構えた楽団員達に、周囲に配置された騎士達がふわりと騎士服のケープを翻して体の向きを整えた。
そうして、花冠をかぶり恋人の手を取った乙女たちの運命を思い息を飲んだネアの眼下で、今年の夏至祭のダンスの最初の一歩が踏み出された。
(……………わ、……………綺麗)
ふわりふわりと翻る淡い水色のドレスのスカートが、大輪の花が咲くよう。
その美しい光景に目を輝かせ、ネアは窓のこちら側まで聞こえてくる美しい旋律に耳を澄ました。
夏至祭の音楽というのは特別なもので、こうしてきっちり窓が閉まっていても耳に届くらしい。
くるり、くるりと、スカートを翻して描かれる水色の円に、花輪の塔の下に描かれた精緻な文様の魔術陣。
胸の奥がじわりと熱くなるような切なさと、爪先をぱたぱたとさせたくなるような高揚感は、夏至祭の持つ魔術の影響を受けているからだろう。
「まるで、綺麗な舞台を観ているようですね。………ディノ、こちらにいた恋人さん達が一組消えました…………」
「ネア、花輪の塔の影を見てご覧。下半分の影の濃さが少し異質だと思わないかい?」
「そ、そこに悪い奴がいるのですね?むむ、普通の影に戻りました……」
「ああ、道を閉じたようだね。あわいは、影から道を繋ぐのが最も効率的なんだ。ああ、また一人連れてゆかれたかな。一人で輪を外れた人間がいるだろう?」
「まぁ、………女性が一人で残されてしまっています。男性の方が攫われてしまうのは珍しいですね………」
恋人の姿が消えてしまった少女は、肩を落としてさめざめと泣いているようだ。
ネアはその心中を思って、胸がきゅっとなった。
(でもこれは、自由参加のダンスなのだから、例え不幸な顛末であったとしても、それは当人達が決めた事なのだわ………)
パートナーを失った状態で二人一対で魔術を整える場所に留まるのは危険なので、一人で取り残された場合はすぐにダンスの輪を外れなければいけないのだが、先程の少女は、輪を抜けるのが遅れてしまったようだ。
近くにいた街の騎士が、どこからかにゅっと伸ばされた毛むくじゃらの腕から、慌てて守ってやっている。
ネアがそちらを注視している間にもう一組の男女が姿を消しており、ぎくりとして視線を戻したネアは、花輪の塔の影の、外側の輪郭に不思議なさざ波が立ったことに気付いた。
(あ、……………)
何か大きな生き物がそこにいるのだろうかと考えた直後、ざざんと波が割れる音が聞こえそうな程に水飛沫を上げて、青い青い硝子細工のような大きな鯨が姿を現した。
(大きい…………!)
花輪の塔の下に敷かれた円形の術式陣の外側が、薄い紙に火を灯して焦がすように、じりじりっと黒く変色した。
その影の水面から顔を出した鯨は、ゆうに広場の半分程の大きさはありそうだ。
「鯨さんが………」
呆然として振り返ったネアに対し、魔物達は落ち着いているようだ。
空を泳ぐ鯨は人間を食べると言われているが、獣のような獰猛さは感じ取れない。
生き物と言うよりは鉱石や硝子に似た質感の表皮は、深い海の底の圧倒的な青さでくらりと目眩を誘う。
触れたら、ひんやりしていてさぞかし気持ちいいのだろうなと思えば、立ち上がって窓辺に駆け寄りたくなる。
その衝動にぞっとすれば、隣に座っていたディノが、祝福を深めるようにしてネアの目元に口づけを落としてくれた。
「祝福喰らいだね。夏至祭の魔術が結ばれるダンスの近くに、その祝福を食べに来たのだろう。あの花輪の塔が丁寧に造られたものだったからこそ、真下からの浮上を避けられたのだと思うよ」
「………あんなに大きな生き物が、足元に潜んでいるのですね…………」
「ウィームの魔術密度ならこれまでも現れてもおかしくなかったが、お前が都度踏み締めていたことで、息継ぎをするだけの広さがなかったんだろうな。今年から、均されていない面が広くなったから顔を出したんだろう」
「これは、一口で全員ぱくりなのでは………」
そう考えたネアはぞっとしたが、そのような時の為にリーエンベルクの騎士達が広場にいるのだ。
一組ずつの犠牲の全てを防いでいたら、夏至祭の正当な取り分であるのにと妖精達が荒ぶり出してしまうものの、鯨のようなあまり明瞭な感情を持たないものの場合は、騎士達が協力して追い払ってしまえるらしい。
素早く進み出た騎士達はネアの位置からでは鯨の影になってしまっていたが、ゼベルとグラストというかなり心強い布陣のようだ。
なお、夏至祭の魔術の上での出来事は、誓約で守られたエーダリアからは手出しが出来ない。
あくまでも、騎士達が防ぐ必要があるのだとか。
ざざんと、また水面に見立てた影が揺れた。
今度は不可視の魔術で鯨を捕縛したゼベルと、すらりと剣を抜き構えたグラストが交戦しているからのようで、しゅぱんと弾けたのは、シュプリの泡の様な明るい魔術の光だった。
たぷんと影がうねり、鯨の姿はあっという間に見えなくなってしまう。
「…………鯨さんがいなくなりました」
「あわいに押し戻したようだね。下手に討伐にしてしまうと、甚大な被害が出る。その事をきちんと理解しているのだろう」
「エアリエルの魔術がなければ、何倍も時間がかかった筈だ。夏至祭のダンスを途切れさせずに済んだようだな」
わあっと、広場に集まった人々の歓声がここまで聞こえてくる。
きらきらと細やかな魔術の光の雨が降る中を踊る恋人達に、ネアも嬉しくなって小さく弾んだ。
立て続けとはまさにこの事だという、鯨が去ったその直後の事だった。
ふつりと雲もないのに日が翳るようにして、くらりと視界が薄暗くなる。
目を瞬いたネアの隣で、アルテアは珍しいなと淡く微笑んだようだ。
「ディノ、鯨さんが戻って来てしまったのですか?」
「いや、夏至祭の怪物だね。………夏至祭の怪物の中でも、この獣が現れるのはとても珍しいのではないかな」
「夏至祭の獣さん…………」
「災厄と祝福を同時に齎すものだ。悲劇に見舞われる者と、大きな幸運を手にする者が同時に現れる。犠牲と対価の願い事を司る、グレアムの系譜の生き物だよ」
だから、夏至祭の獣の瞳を見つめて願い事を唱えてはいけない。
獣はその願い事を叶えるかもしれないが、他の誰かの願い事を叶えた獣が、こちらからは対価を奪うかもしれないのだ。
ざわりと空気が揺れ、花輪の塔の上空、即ちネア達の視線のほぼ正面に、大きな翼を持つ不思議な生き物が姿を現し始めていた。
その姿を認めたネアは、目を丸くし思わず立ち上がった。




