55. 引っこ抜きました(本編)
「ふふ、やっと会えたわ」
騎士達に囲まれて顔を合わせた妖精は、そう婉然と微笑んだ。
ネアは、ストロベリーブロンドにこっくりとした深みのある黄色の瞳が美しい女性の妖精からの優しい微笑みを向けられ、思っていたのと随分と様子が違うぞと目を瞬く。
黄菊の魔物や黎明のシーの時のような会話になるのだと思っていたが、目の前の美しい女性は、ネアの瞳を覗き込むようにして優しく微笑みかけるばかりだ。
「可愛い子、お前に会いに来たのよ。私の事を覚えていて?」
「…………い、いいえ。どこかでお会いした事があるのでしょうか…………」
「まぁ、覚えていないの?けれど、覚えていなくても仕方ないわね。お前はまだ小さかったし、人間は薄情な生き物ですもの」
(あ、………………)
そんな一言で、これは嘘なのだと理解する。
こんな風に優しく微笑んでその嘘を並べるのだとしたら、この妖精はネアが思っていたよりも厄介な相手かもしれない。
けれどもここはまだ、門のこちら側とあちら側だ。
許されない者が入り込む事は出来ないのだと自分に言い聞かせ、ネアは凡庸な表情がひび割れないようにする。
今、ネアとこの女性との間には真夜中の魔術を鍛えた格子があり、同じ部屋の中にいながらにして隔絶されているのだ。
そのことに密かに安堵するネアの隣では、この扉を早く開けてちょうだいと悲しげに訴えた女性に、ユリメイアが深々と頭を下げていた。
さらりと揺れた銀髪が艶やかで、美しい騎士ぶりなのだが、なぜかこのユリメイアは謝罪姿が妙に様になる。
硬質寄りな美貌を上品に曇らせる技術が素晴らしく、ほうっと溜め息を吐きたくなるくらいに優美なのだ。
「申し訳ありません。現在、この扉を開ける権限を持つ者が不在にしておりまして。夏至祭の朝のミサが終わればこちらに戻られますが、我々には魔術誓約上お開けする事は出来ないのです」
ユリメイアが、こうして敢えて前に出てくれたのには理由がある。
系譜の最上位である白百合の魔物の守護を持つ彼は、この白百合のシーだと思われる女性に最も損なわれ難い人物なのだ。
花々の妖精や精霊は、多くの場合はその花の種の系譜と各自が宿す資質の系譜の二重属性を持つのだが、白百合や白薔薇などの明確な最高位の存在がいる花の種の場合は、種族にかかわりなくそこを王として準じるのが決まりなのだとか。
例えば、同じ百合の花であっても、飛び抜けた最高位の存在を持たない黄百合などは、上位の黄百合達がそれぞれに権力を持ち、特定の王を持たないとされる。
だが目の前の女性は、白百合の魔物の守護を持つユリメイアの見立てでは白百合のシーであり、そうである以上は王の守護を持つユリメイアを傷付けることは絶対に出来ないのだった。
「……………何ですって?彼女がそう望んでも、この門は開けられないというの?」
「ええ。守護を与えている契約の魔物様であればそれが可能なのですが、生憎とリーエンベルクを出られておりまして、現在は扉を開く権限のある者が誰もいないのです」
ユリメイアにそう言わせる為に、魔物達はあれこれと策をめぐらせていた。
本来なら、第五席ではあるがリーエンベルクに古くから仕える騎士であるユリメイアは、個人の判断で通用門を開く資格を持つ騎士だ。
だがそんな彼に対し、まずはディノが、今回の訪問者の前でのみ自分が許さなければ門を開く資格を失うという誓約を交わし、そのディノは現在、門の外側に出ている。
可動域の足りないネアは元々門を開く資格を付与されていないので、この門越しの面会の部屋には門を開けてリーエンベルクの敷地内に訪問者を招き入れられる者は誰もいなくなるという仕組みであった。
勿論、ディノが離れていても、ネアの隣にはひっそりアルテアが控えているので不用心ではない。
こんな時に、契約の魔物ではないもののネアへの侵食などを排除出来る関係性にはある使い魔というものは、かなり有難い存在である。
「……………この門は、魔術侵食を遮る為の彼岸の境界でしょう?せっかく、妖精の国からわざわざお気に入りの子に会いに来たのに、あまりにも失礼ではないの」
「ええ、ですので、このままお帰りいただくのはあまりにも申し訳ないと思い、私の独断でお会いいただいたのです。責任者が戻れば開門の申請も出来ますので、どうかそれまではここでお話しされては如何でしょうか?」
「……………その責任者とやらは、いつになったら戻るのです?」
優美な形の眉を顰めた妖精の背後で、ほんの僅かに羽が開く。
妖精の羽には感情が反映されるものなので、ネアはその僅かな動きにぎくりとした。
「ミサの終わりの時刻からすると、もう半刻もかからないでしょう。それとも、ご訪問の日をお改めになりますか?」
「まぁ、私にもう一度出直して来いというの?……………ねぇ、お前。この子を呼んでくれたのなら、門を開けてしまうことくらい簡単に出来るのではなくて?私は、私を大事にする者には報いるようにしているのだけれど」
(……………っ、)
問いかけの前半と後半で大きく変わった妖精の眼差しと声音に、ネアはぞっとして息を噛み殺した。
これが妖精の誘惑なのだと、その恐ろしさと悍ましさに冷たい汗が背中を伝う。
それは、空気の温度が変わりそうな顕著さで、高位の人外者らしい尊大な口調から、甘やかでしたたかな誘惑の響きを帯びた声音には、可動域の低いネアですらぞくりとするような魅縛の魔術が敷かれていたのだ。
普通の人間であればひとたまりもないだろう妖精の王族の精神圧だが、ユリメイアは、穏やかに微笑むと申し訳なさそうに再び頭を下げる。
「このウィーム領主の館に仕える騎士としての誓いを立てた際に、私個人に与えられた権限はあらかじめ魔術誓約で制限されております。ご要望にお応え出来ず、申し訳ありません」
ユリメイアから何の反応も得られないとわかると、ネアの向かいに座った妖精は呆然としているようだった。
「お前は………………」
「せっかくいらして下さったのに、このような状況なのです…………。本日は、どのようなご用件で訪ねて下さったのですか?」
件の妖精が呆然としている内にと、ネアはここで仕掛けてみることにした。
ユリメイアから視線を外してゆっくりとこちらを向いた美しいシーの眼差しは、ネアのよく知る妖精達のものとはまるで違う。
人間とはあまりにも違う黄色い宝石のような瞳を覗き込めば、そこに滲んだ微かな嘲りに心が震えた。
(ああ、やはりこの人は、言葉通りの理由で私を訪ねたのではないのだわ……………)
その言葉の嘘に気付いてはいても、あなたに会いに来たのだと言われて愚かにも少しだけ心を揺らしてしまった人間は、そんな事で少しだけ悲しくなってしまう。
素早く何かを思案して方策を変えたものか、その妖精がこちらに向かってにっこりと微笑みかければ尚更のことだ。
恐らくこれが、高位の妖精による侵食の恐ろしさなのだろう。
「勝手に押しかけられて迷惑だったのでしょう?でも私は、………こんなことを言うからと軽蔑しないでちょうだいな。どうしてもお前と友達になりたかったの。今日は一年に一度の夏至祭でしょう?こんな日に訪ねない理由はないわ」
「まぁ、素晴らしく綺麗な妖精さんにそう言っていただけるなんて、なんて誇らしいのでしょう。私をご存知だということは、ウィームのお近くにお住まいなのですか?会いに行こうとした時に、お住まいが近くだったら嬉しいです」
「ふふ、やっぱりお前は可愛いわ。私の住まいは妖精の国なのよ。友達になったならば、お城に遊びに来て頂戴。ああそれと、……………」
艶やかに微笑み、その女性は黄水晶のような美しい爪が印象的な手を、ネアの方に差し出した。
「夏至祭で他の妖精達に悪さをされないように、私の守護を授けておくわ」
「………そんなものをいただいても宜しいのでしょうか?あなたはきっと、本来なら私がお会いすることも出来ないような、高位の方だと思うのです」
その妖精から見えないように死角に立っているアルテアの返答待ちの時間稼ぎであったが、妖精は、ネアが口にした言葉が気に入ったようだ。
黄色の瞳を煌めかせて微笑むと、薔薇色の唇をすぼめて声を潜める。
「そう。私は、人間に滅多に守護を授けたりはしないわ。でも、あの方がご不在のようだから、せめて夏至祭の間だけは、お前が私の庇護下にあるのだという印をつけてあげる。だからこれは、夏至祭の間だけの、そして、私がお前を守る間だけの特別な祝福なのよ」
そう微笑んだ妖精は慈悲深く美しく見えたが、ネアは、その甘い囁きの言葉選びで示されたのが、相手の指定した期間だけの暫定的な守護であるという事に気付いた。
こうした契約には魔術文言の指定というものがあり、差し出されたように見えても自分のものにならない祝福は意外に多い。
主に魔物が好む手法である為、どんなに魔物達が甘い言葉を囁いてもこの手の交渉には用心するようにと教えてくれたのは、出会った頃のエーダリアであった。
(つまり、守護で縁を繋いでおいてどこかに誘い出した後に、危害を加えようとしたところで、その守護を剥がしてしまうということなのだろうか…………)
そう考えてぞっとしていると、アルテアからの指示が入った。
ネアはその指示のメモを考える仕草でちらりと視界に収めると、困惑を装い首を傾げてみた。
「ですが、…………私の魔物はとても狭量なのです。こんなに綺麗な妖精さんから守護を貰うと荒ぶってしまうかもしれません………」
「まぁ、私の城にはこれまで人間を招いたことはないのよ?私たちは良い友達になれると思ったのに………。ねぇ、お前もシーからの祝福がどれだけ稀有なものなのかは知っているでしょう?」
そう問いかけられたユリメイアは、淡い困惑を浮かべて微笑む。
「ええ。それがどれだけ特別なものなのかは、重々承知しております。………ですが、契約の魔物の方の領域には踏み込めませんので、…………」
「私はあの方をよく知っているのよ?」
そう微笑んだ時に、少しだけ慈愛に満ち溢れた美しい微笑みが翳った。
それは僅かばかりの憎しみや狂気で、ほんの一雫の悲しみと苦しみであった。
「あなたは、私の魔物をご存知なのですか?」
だからネアは、無知さを装って朗らかにそう尋ねる。
虚栄心と悲しみは、用心深い人を饒舌にする事の出来る毒だと、よく知っていたから。
そしてそんな時、不当にその願いを奪った者の屈託のなさほど、心を掻き毟るものはないのだ。
(だからきっと、それを容易く突き付けられる私は、とてもずる賢くて醜い)
けれども、それを承知の上で使う醜さを知られたくないと思うのは、所詮綺麗事に過ぎない。
このずる賢さもまた、磨き抜かれた大事な武器の一つなのだから、使うべき時に使う覚悟は錆付かせないようにしよう。
「…………ええ。よく知っているわ。私達があの方を知らない筈もないのだから。優しくて冷酷な私たちの王が、誰かに心を傾けたと聞いてはいたけれど、歌乞いを得たと聞いてどれだけ驚いたことでしょう。…………でも、それならばと納得もしたのだわ。…………あの方の絶望や孤独に不躾に踏み込めるのは、人間くらいのものだもの」
それは、とても静かな声だった。
激昂でも怨嗟でもなく、傲慢さを装いながらもどこか疲れていて、ネアは訳も分からずにぎくりとする。
向けられたその思いには、独善的な気配よりも、大切な人の孤独への痛ましさのようなものが目立ったのだ。
だからだろうか。
とは言え悪意を以てこの場所を荒らすのだから、手を緩める訳にはいかないのだとしても、大事な魔物の孤独に目を留めてくれた相手を罠にかけてしまうことに、奇妙な罪悪感すら覚えてしまう。
(この人は、……………ほんとうに…………)
図らずも心を傾けかけてしまったネアに対して、妖精は自分が言う必要のなかった事を口走ってしまったと気付いたらしい。
鋭く息を吸い、もう一度愛想笑いを取り繕うと、境界の格子の前に美しい手を伸ばす。
「……………今日は、お前と友人になりにきたのよ。あの方の話はまた今度にしましょうか。さぁ、手をお出しなさいな」
「けれど、…………ええと、何とお呼びすれば?」
「守護を与えてからではないと、名前も預けられないわ。お前は随分と可動域が低いから、そのまま私の名前を許すには脆弱過ぎるもの」
(やはり、そう簡単に名前は教えてくれない…………)
そこでふと、妖精は眉を顰めた。
どこかに隠し持っている目的の為の演技ではなく、本物の困惑に歪んだ表情に、ネアもつられて目を瞠ってしまう。
「……………まぁ。薔薇の髪飾りをしているの?夏至祭なのだから、契約したあの方の花を飾るべきではないの」
「…………私の魔物の、…………花?」
「白百合の王の歌乞いが、薔薇の花を飾るだなんて」
「………………しろゆりのまもの」
ネアが呆然とするのも当然だった。
ここで目の前の妖精は、まさかの、誰も想定していなかったであろう新事実を切り出して来たのだ。
これは一体どういう事だろうとふるふるしたネアに、白百合のシーにもその動揺が伝わったらしい。
「……………お前は、ジョーイ様の歌乞いなのでしょう?」
その問いかけが落ちた瞬間、部屋の中は異様な静けさに包まれた。
ちょっと何を言われたのか上手く飲み込めないので少々お待ち下さいという数秒を挟み、何とか質問の意味を理解したネアは、まずは無言で首を横に振る。
「人違いです……………。寧ろ、殆ど知らない魔物さんではないですか…………」
「そ、そんな筈はないわ。 あの方は今、ウィームで生まれた醜い雛のような生き物に夢中だと皆が話していたのよ?」
「…………であれば尚更に、雛という前提で全く鳥感のない私にどうして繋げてしまったのでしょう…………」
「醜い雛と言えば、人間を示す言葉ではないの。それに、その証拠にここにはジョーイ様の守護の気配があるわ。お前があの方の歌乞いでないのであれば…………っ、」
その瞬間の音を表現するのなら、びりっという厚手の布地を引き裂いたような音であった。
そんな奇妙な音がどこから響いたのだろうと目を瞬いたネアは、こちらに差し出されていた白い手がばりばりと裂けて、その内側から砂色の手がずるりと伸ばされたのを見てしまった。
(え、……………)
その手が、超えられない筈の境界のこちら側にいるネアの手を掴もうとするのと、ネアが対面していたテーブルの下で握り締めていたものを本能的に振り下ろしたのは殆ど同時だったのかもしれない。
ずがんと物凄い音がして、まだ美しい女性の姿のままの訪問者が、向かいに座った人間が振り下ろしたものを訝しげに凝視する。
(………っ、外した!)
格子の隙間から差し込まれた片手に向かって振り下ろされたのは、ネアが、タジクーシャに連れ去られた事件以降、何度も素振りの練習を重ねて来たハンマーであった。
伸ばされた手は素早く引っ込められてしまい、ハンマーはテーブルに振り下ろされただけであったが、ひとまず退ける事は出来たようだ。
やけに虚ろな黄水晶の瞳でそのハンマーを認め、どこか不自然な動きで美しい白百合のシーは顔を持ち上げる。
じっとこちらを見つめる眼差しのなんとも言えないその違和感に、ネアは、もうそこにいるのは先程まで話していた女性ではないような気がした。
「…………ほお、内側から食い破ったシーの肉体を、そのままあわいとして境界に渡して超えたか。その発想だけは評価しておいてやる」
ネアはいつの間にか、背後に立ったアルテアに、椅子ごとしっかりと抱き締められていた。
その腕の温度に今更気付いて強張った息を吐き出せば、ネアは、突然目の前に現れた凄惨な光景に、すっかり自分が震え上がってしまっていた事を理解して愕然とする。
(異変に気付いたら、すぐに境界から離れると約束していたのに……………)
それなのに、目の前の妖精の手がばりばり裂けたのを見ていながら、ネアは離脱出来なかった。
その場から離れるという反応が出来ずに何とかハンマーを振り下ろせたのが、未熟なネアに出来た唯一の自衛であったのだ。
びりびりっと、まだ耳を塞ぎたいような湿った音は続いている。
リーエンベルクの騎士らしい抜かりのなさで、こんな想定外の展開でも素早く剣を構えていたユリメイアも、その顔は既に真っ青だ。
「……………おや、一手届きませんでしたか」
くぐもった低い囁きが聞こえ、白百合のシーの体が揺れる。
苦笑交じりの男性の声が、先程まで婉然と微笑んでいた女性の口から発せられたことに何とも言えない憤りの感情が胸の中で暴れて、ネアは、ただ震えながらアルテアの腕の中に守られていた。
(あ、……………)
ふっと視界が翳り、アルテアの手のひらで目隠しされる。
何かを引き裂くような音は先程より大きくなり、目隠しの暗転の向こう側で何が起きているのかは明白であった。
その境界には魔術が敷かれているからか、幸いにも血臭は届かない。
「成る程な。下位の百合の妖精達に事件を起こさせたのも、そうして百合の系譜の妖精を警戒させたことも、全てはここでその容れ物の橋をかける為か。…………だが、お前の言う通り一手届かなかったな」
「どうやらそのようです。手が届かなかったのであれば、このまま私は大人しく帰るとしましょう。それとも、まさかこの道から追って来られますか?」
「顛末の魔術で結ばれた、血と肉のあわいの中を追い掛けるほどに酔狂じゃないが、お前は足元にもう少し注意を払うべきだったな」
「……………足元、?」
そこで、ひっそりと微笑んだのは誰だろう。
がしゃんと、お皿が割れて粉々になるような音がした後に続いた物音は、誰かが床に倒れた音だろうか。
何が起きているのか分からないネアは、不安に胸がばくばくしたが、抱き締められたアルテアの腕の中はとても静かだったので、そのまま息を潜めていることにする。
「もう大丈夫だよ。………ネア、怖い思いをさせてしまったね」
ややあって、ディノのそんな声が聞こえてきた。
目隠しの手のひらが外され、ネアはいつの間にか隣に立ち、こちらを心配そうに覗き込んだディノの水紺色の瞳にへにゃりと眉を下げて頷きかける。
「……………あの妖精さんは、………」
「捕縛してあるよ。あわいを乗り物にしていたからね、足元の影から魔術基盤を繋いでしまうのに少しだけ手間がかかった。…………ごめん、ネア。君に不快な思いをさせてしまったね」
「アルテアさんが目を塞いでくれました…………。そして、だからアルテアさんは、足元が不注意だと言ったのですね。……………ぎゃ!ユリメイアさん?!」
怖々と視線を巡らせたネアは、部屋の隅で暗い目をして壁に寄り添っているユリメイアの暗い表情にびくりと体を揺らした。
一瞬、巻き込まれて怪我でもしてしまったのかと焦ったが、やはり自分は役立たずだとぶつぶつ呟いているだけなので、心の問題のようだ。
こんな時にと呆れずに、思わずそっと頭を撫でてやりたくなるのはこの騎士の人柄故だろう。
「ユリメイアさん……………?」
「……………申し訳ありません。白百合の系譜の侵入者だと知りお力添え出来ることを喜んでおりましたが、…………よもや、私の持つ守護そのものを目眩しにされていたとは…………。やはり私は、女性の嘘を見抜けない若輩者でした」
「……………そ、その、とても根深い過去の心の傷があるに違いませんが、今回は中にいたのは男性の方のようですので、単純に思いもよらない策略であったと考えて下さい……………」
ネアがおずおずとそう声をかければ、ユリメイアは、はっとしたように顔を上げる。
さっと目元に朱が入り、弱音をこぼしてしまった事を恥じ入るように口元を片手で押さえた。
「……………っ、心を乱し、お騒がせしました。…………ディノ様、捕縛された妖精について、ゼベルに報告をして参ります。入れ替わりでエドモンをこちらに向かわせますが、捕縛した妖精の扱いで、我々が協力させていただくことはありますでしょうか?」
「いや、少し特殊な妖精だから、こちらで捕らえていよう。今は意識を奪っているけれど、どのような固有魔術を持っているのか分からないから、リーエンベルクの土地の中で繋いでおくのは避けるつもりだ」
ディノがそう言えば、ユリメイアは深々と一礼して退出した。
扉の外側で控えていたのか、リーエンベルクの外周の見回りから戻ったばかりだというエドモンが、すぐに入室してくれた。
「ミサを終えて帰路につかれたようですので、ヒルド様を介してエーダリア様にも一報を入れておきました。…………あのような形での、排他結界の超え方があるとは……………」
騎士らしく一礼し、そう続けたエドモンの言葉に、ネアも頷く。
アルテアの様子からしても、魔物達も、まさかそのような方法で境界のこちら側に手を伸ばして来るとは思わなかったのだろう。
「この階位の選択の拒絶や、境界の魔術を超えられるのは、あわいそのもののような、魔術の特異点のみなんだ。…………私も、同族の妖精を乗り換えることで、こちらとあちらを繋ぐあわいをその場で作るとは思いもしなかった。…………シーの体でなければかけられない橋だから、随分と周到に順路をつけてあったようだね……………」
そう呟いたディノの手にそっと触れると、魔物はおやっと目を瞠ってからネアの手を握り返してくれた。
こんな時には、弱らずにしっかりと伴侶を安心させてくれるらしい。
「………そんな妖精さんを捕まえていて、ディノは大丈夫なのですか?」
「また乗り換えをしてもいけないから、何重かに空間を隔絶した檻に閉じ込めてあるから、こちら側には触れられないよ。ただ、…………少し奇妙な魔術の繋ぎを持っている。まだ何らかの仕掛けを残しているのならば、内側に呪いなどを蓄えられないように、早めに対処した方が良さそうだね」
「……………妙な事をされる前に、表層を剥いで害にもならないようなものに入れ替えておいた方がいいかもしれないな…………。そいつが目を覚ます前に、手持ちの仮面と入れ替えておいてやる」
「……………そうだね。そうしておくのが良さそうだ」
そんな魔物達の会話にもぞくりとするようや凄惨さが付き纏うのだが、ネアは、不思議とこの二人を怖いとは思わなかった。
アルテアが示唆したのは、仮面の魔物としての魔術の一端だろう。
仮面の魔物は、生き物の表面の皮を剥いでしまい、本人も気付かない内に中身の入れ替えを行う恐ろしい魔物だと伝えられている。
「……………あの女性の方は、お亡くなりになってしまったのですね…………」
「……………あの妖精を気に入ってしまったのかい?」
「おい、…………まさかあれをか?」
「あんなにも優しく綺麗に微笑みかけてくれるのですから、ちっぽけな私の心も少しは揺れましたが、………あの女性が白百合の魔物さんに向けた思いには、私がはっとしてしまうような切実さや労りがあったのです。そんな想いが目の前で喪われる様は、部外者とは言えあまり見たくありませんでした。まさかの人違いでしたけれどね。…………むむ、そう言えばここ最近、人違いが沢山ありますね…………」
ネアが、そう言った瞬間の事だった。
はっとしたように魔物達が息を飲み、ぴんと張り詰めた部屋の只ならぬ空気に、ネアはぎょっとする。
「ネア、離れないように」
「む?」
「………っ、まさか!」
そして、その中で思いがけない行動をした者がいたのだとすれば、慌ててディノの腕の中に避難しようとしたネアの横を、さも思い当たる懸念があると言わんばかりに走り抜けたエドモンであった。
ネアはその時、なぜそんな事をしたのかは分からない。
普通に考えれば、同質の宝石魔術を持つユリメイアが標的とされるべきで、エドモンが退出したばかりのそんな同僚を慌てて追いかけようとするのは至極当然に見えた筈だ。
だが、こちらに向けられたエドモンの背中に、きらきらと煌めく淡い金色の妖精の羽が僅かに見えたような気がした。
「ていっ!」
ネアは思わず、そんな羽の付け根に、ディノと繋いでいない方の手を伸ばし、むんずと掴んだ。
走り抜けようとしたエドモンの勢いと、ネアの突然の奇行に、咄嗟にしっかりと抱き締めてくれたディノとで左右に引き分かれる。
その瞬間の手応えは、やった事はないが畑から人間サイズの人参をていやっと引っこ抜くようなものだったと後にネアは思う。
一瞬でも動きを止められればというくらいの咄嗟の行動であったが、まさか、エドモンから見知らぬ妖精を引っこ抜けてしまうとは思わなかったのだ。
「ぎゃ!変なものが!!」
思いがけない収穫に慌てたネアは、ずるりと抜け落ちた妖精が動かない内にと、大慌てで踏みつけてしまう。
すると、夏至祭用にしっかりと履いていた戦闘靴でぎゅむっとやられた妖精は、抵抗することもなく床に伸びてしまった。
「………………ご主人様」
「…………ほわ、悪い妖精めを収穫しました」
「…………………おい、何だ今のは…………」
「ヒルドさんのように、ついつい羽の付け根を掴んでしまったところ、エドモンさんの体が前方に走り抜けようとしていたので、その勢いで綺麗に引っこ抜けてしまったようです…………」
「いや、普通はこんな風に引き剥がせないだろ」
「ディノの指輪がある方の手だったからでしょうか……………?」
「ネア、………羽を掴んで捕まえられるのは、シーの中でも最上位の者達だけなんだよ…………」
「なぬ…………」
「………………そう言えば、今のお前がつけている耳飾りは、その権限を持つヒルドのものか…………………」
大手柄のはずが何とも言えない雰囲気になったが、ともあれ黒幕らしい妖精は捕まえられたようだ。
その後調べたところ、ディノが捕縛した妖精も宝石妖精ではあったが、ネアを捕まえようと手を伸ばした砂色の肌の妖精ではなかったことが判明した。
どうやら、ネアが踏みつけてしまった妖精の固有魔術は、かなり高位の誤認魔術であったらしく、魔物達がそのことに気付いたからこそ、取り逃がさずに済んだらしい。
報告を受けて慌てて帰ってきたエーダリアは、ネアがエドモンに巣食おうとしていた妖精を素手で引っこ抜いたという説明を受け、なぜか頭を抱えてしまった。
幸いエドモンは、影が重なったばかりで内側や魂に損傷はなく、ヒルドからはとても褒めて貰えたので、ネアは、自身の特技に狩りの他に妖精の収穫も含めようかどうかで迷う次第である。
明日7/4の更新はお休みとなります。
TwitterでSSの更新をしますので、もし宜しければそちらをご覧下さい。




