荒ぶる木の実と仲直りのムース
夏至の日の前の夜の森が、とても賑やかなのは当然のことだろう。
真夜中の境界より夏至になるのは当然のこと、夏至の朝の妖精達は祝福と呪いに忙しい。
また、妖精達にとっての夏至祭は、年に一度の大々的な恋の日でもあるのだそうだ。
妖精達もイブメリアや薔薇の祝祭を楽しむが、やはりこの夏至祭こそが最上の恋の日であるそうで、多くの乙女達が攫われるのはそんな妖精達に気に入られてしまっての事も多い。
そんな華やかな日であるとは言え、人間達に悪さをする妖精達も大騒ぎをする日なので、やはり夏至祭は凄惨さが切り離せない祝祭でもあった。
そんな興奮にぽわぽわと淡く光る妖精達が飛び交うのが見える森を眺め、ネアはリーエンベルクの廊下を歩いていた。
中庭の花々にも祝福の柔らかな煌めきが宿り、窓枠の外側には氷結晶のような祝福石が育っている。
しゃらんと落ちたのは、窓に近い木の枝から飛び立った妖精鳥の羽ばたきからこぼれた妖精の粉だろうか。
「いいかい?夏至祭の間は、私から離れてはいけないよ。ノアベルトはエーダリアから離れないようにするらしいから、アルテアも呼んである。もし私が君のそばを離れなければいけない時は、アルテアから離れないようにね」
「はい。宝石妖精さんの問題がまだきちんとは落ち着いていないのですから、注意するようにしますね」
いつになく不安げな魔物に、ネアは微笑んでしっかりと頷いてやった。
取り敢えず宝石妖精っぽい妖精が近付いて来たらハンマーで破壊する作戦は全会一致で却下されたが、一度攫われた事で対策はし易くなっている。
タジクーシャの門が閉じるまでは、警戒を怠らないようにしよう。
「うん。君が私の伴侶になった後だから、下位の妖精達は君を侵食する事は出来なくなる。とは言え、シーやそれに準じる階位の妖精達からの影響は残るだろう」
「取り替え子と、妖精さんの伴侶にされてしまう可能性はなくなったのですよね?」
「君にはヒルドからの庇護があるから、それ以外の魔術的な契約についても、恒久的なものは結べなくなっている。………許容枠と言えばいいのかな、それが埋まっているんだ。…………ただ、それでも一時的に影響を受ける事はないとは言えないからね」
「ヒルドさんがいてくれて良かったです。…………でも、私の大事な魔物は大丈夫なのですか?」
ネアがそう尋ねると、ディノは水紺色の瞳を揺らしてから淡く微笑んだ。
「私は、階位的に有象無象の侵食は受けないよ。個人的に言葉を交わして魔術の縁を繋いだ者の中で君に害を及ぼすものは残っていないから安心していい」
「私への影響ではなく、ディノが嫌なことをされてしまう可能性を心配したのですよ?」
「………………可愛い」
「むむ、ちゃんと自分の事にも気を配って下さいね?私の大事な魔物を大事にしないと許しません!」
「………………ずるい」
「なぜいつも同じ駅に帰ってくるのだ…………」
目元を染めてもじもじした魔物は、そっと三つ編みを差し出してきた。
投げ込み方式ではない、両手で渡してくる恋文方式なのでとてもお断りし難い。
ネアは仕方なく魔物の三つ編みをにぎにぎしてやり、きゃっとなった魔物の顔を見上げた。
「もう一度聞きますが、ディノは大丈夫なのですか?」
「うん。君がいるから、妖精の影響を受ける事はないよ。魔物の伴侶は一人きりだからね」
「…………怖いことを隠してもいません?」
「…………ずるい」
「ふむ。大丈夫そうです!念の為にきりん札を渡しておきますので、もし何かあったら使って下さいね。相手が呪いなどを残す隙もなく滅ぼすのに最適です」
「……………虐待する」
「なぜでしょう、正しい使い方なのに解せぬ」
二人はお喋りをしながら、リーエンベルクの会食堂に向かっていた。
(なんと、今夜の晩餐のメニューには、春の味覚なブルスカンドリがあるのだ!)
ブルスカンドリはホップの新芽で、美味しくて堪らないというものではないものの、やはり春には食べたくなる山菜のようなものなのだが、今年はあまり食べられずにいた。
ちょうどの季節の時に仕事でウィームを離れている事が多く、また、今年は収穫量が少なかったらしい。
それがなぜこの季節に手に入ったのかと言えば、先日の牛乳商人の事件のお礼で貰ったものなのだ。
牛乳商人の中の大商人の一人にこのブルスカンドリの収穫と出荷を行なっている人物がおり、牛乳商会からのお礼にブルスカンドリの入った籠があった。
そして本日の晩餐で、ご機嫌に登場することと相成った次第である。
薄く衣をつけてさっと揚げたものに、半熟卵を添えてとろりさくさくといただく事を思い描けば、ネアは幸せな気持ちになった。
実はこのブルスカンドリ、ノアとアルテアもお気に入りで、ディノはそうでもない食材でもある。
そんなところに魔物達の食の好みが現れるのも楽しいが、夏茜のスープも今夜のメニューにあるので、ディノはそれが楽しみなようだ。
「……………じゅるり」
「ブルスカンドリかい?」
「はい。今年はあまり食べられていなかったので、楽しみでなりません。おまけに今夜の晩餐には、豚肉の香草白葡萄酒煮込みをパイで包んだものも登場するのですから、足取りも軽やかになってしまいますよね!」
「パテもあるのだろう?」
「は!そうでした。鶏レバーパテに黒胡椒をひいて、かりかりに焼いたパンに塗って食べるのでふ…………。おまけにサラダもあって、これで簡単な晩餐だなんて、どれだけ罪作りなメニューなのでしょう………」
今夜は夏至祭の前の結界補填などが滞った場合を想定し、エーダリアから厨房に、簡単に出来るもので構わないと伝えてあったのだそうだ。
確かにパイなどもオーブンに入れるだけの状態にしておけば作り置きと言えるものだが、ネアからすれば充分にご馳走である。
季節のものに好きなものが揃い踏み、必然的に会食堂に向かう足取りは軽く、時折弾んでしまう。
(リーエンベルクのレバーパテは大好き!)
バターなどと合わせて常備されているものなのだが、これが定番でもとても美味しい。
敢えて食卓に一品として出される事は稀でも、ネアからすれば尊い主戦力なのだった。
しかし、そんなご機嫌のネアの進行を止める事故は、その最も行き来している普段使いの廊下で起きたのであった。
カラカラと不思議な音がどこからか聞こえてくると、廊下の真ん中に奇妙な物体が現れたのだ。
突然の珍客に、ネア達は足を止めて顔を見合わせる。
「なにやつ……………」
「………………木の実かな」
マロニエの実に似ているが、そんな物体がカラカラと音を立てて廊下に鎮座しているのだから、まず間違いなくマロニエの実ではない。
試しにネアがそろりと近付いてみると、カラカラ音を立てていた木の実はフシャーと威嚇してきた。
ぎりぎりと眉を寄せたネアは、そっと振り返って羽織りものになりかけている魔物に尋ねてみる。
「羽織りものになろうとしているからには、ディノは知らない生き物なのですね?」
「……………うん」
「お外のものがここに入り込むという事はないと思いますが、…………このような珍妙な生き物は今迄に見たことはありません」
「……………怒っているようだね」
「ほわ、木の実のくせに尻尾をけばけばに、……………尻尾?」
ネアは、目をこしこししてもう一度木の実を凝視してみた。
するとやはり、木の実には猫の尻尾めいたものがあるではないか。
「尾があるようだね。…………妖精かな」
「にゃんこ…………いえ、よく見てみると、にゃんこ尻尾風の…………独特な作り方のタッセルでは………」
「タッセル……………」
ますます混迷に包まれたネア達が立ち尽くしていると、奥の廊下から義兄である塩の魔物が走ってきた。
こちらを見ると声を上げ、慌てて誰かを呼んでいる。
「こっちだよ、ヒルド!シル、そのカーテンタッセルを逃さないで!!」
そんなノアの言葉に、ネアはまじまじとタッセル尻尾つきの木の実を見つめた。
「……………カーテン…………タッセル?」
恐らく、そんな疑わしげな声音が癇に障ったのだろう。
その直後、尻尾木の実あらため、カーテンタッセルは、失礼な人間の小娘への報復を始めた。
「ネア!」
「む?………ディノ?!」
すぐに気付いたディノが守ろうとしてくれたものの、木の実のような固い部分でごちーんとおでこに直撃されてしまい、可哀想な魔物は呆然としているではないか。
そんな魔物を慌てて守ろうとしたネアも、続けざまに顔面にカーテンタッセルが直撃した。
「……………きゅっ」
運悪く鼻に直撃されたネアは、そのまま顔面を押さえてぱたりと倒れる。
遠くなってゆく意識の向こうで聞いたのは、ネアの名前を呼んだディノとノアの悲痛な呼び声だった。
もわもわと、不思議な浮遊感がある。
ネアはそんな感覚に首を傾げ、薄闇の中でゆっくりと瞬いた。
(……………死因が、木の実の直撃になるなんて……………)
これはきっともう、あの木の実に直撃されて死んでしまったのだと考え、ネアはほろりとした。
くすんと鼻を鳴らして目を擦ろうとしたところ、まだ腕が上がらない。
ぐぬぬと体を動かそうとすると、ふわりと意識が緩んだ。
(あ、………………)
どうやら、起きたと思っていたもののまだ眠っていたらしい。
曖昧だった意識が覚醒し、重たい瞼がそろりと開く。
「……………ほわ、生きています」
ぱちりと目を開いてそう呟けば、沢山の人達に囲まれるのが分かった。
「……………ネア」
「ディノ…………まぁ、おでこが…………」
「ネアが生きてた…………」
「ふぁい。生き返ったようです。春告げの舞踏会の祝福を使ってしまったのでしょうか?」
綺麗な水紺色の瞳に涙を溜めて手を握ってくる魔物に、ネアはその隣にいるノアに尋ねてみる。
ほっとしたように息を吐いたノアは、なぜかその隣に立っているヒルドの方を見ると、ぴっと竦み上がった。
「大丈夫、君は死んでなんていないよ。あのカーテンタッセルが顔面に直撃して、…………ええと、心因性の衝撃で気を失ったんだ」
「……………心因性」
「うん。ぶつかられた直後になぜか額を押さえて、鼻がなくなったって呟いて倒れたんだ。ほら、シルの額を気にしてたから、咄嗟に混乱したんだろうね」
「……………は、はにゃは?!」
「大丈夫、可愛い鼻はそのままだよ。さすがに直撃されたから赤くなっていたけれど、シルがすぐに治癒したからね」
それを聞いたネアは、胸を撫で下ろした。
安堵のあまりにへなへなと脱力していると、どこか呆れたような声が落ちる。
「…………やれやれだな」
「…………ぎゅわ、アルテアさんがいます」
「こちらに来た直後にあの騒ぎだ。人騒がせにも程があるぞ」
「……………危うくこの可憐なお鼻を失うところだった私に、優しい言葉はないのでしょうか?」
「ほお、そんなに低いのか?」
「ひ、ひくくありません!可憐なのは形です!!」
「可憐なら低いんだろ?」
「むぐ、むぐるるるる!!」
たいへん失礼な言葉ばかりを並べたアルテアに怒り狂ったネアは、首飾りからちびふわ符を取り出そうとしたが、慌てたノアからもうすぐ夏至祭だからねと窘められてしまう。
仕方なく、澄まし顔ですっと横を向いてみせ、鼻が低くないことを主張してみようとしたが、横を向いたところで少しだけ不安になった。
やけに鼻を貶されるが、もしかして、アルテアがそう言いたくなるだけの異変がネアの鼻にあるのだろうか。
(…………みんなは優しくしてくれているだけで、本当はもう、鼻がへしゃげているのでは……………)
そう考えるとひやりとし、ネアは平静を装って体を起こし、心配そうにこちらを見ていた伴侶な魔物のまだ僅かに赤いおでこを撫でてやった。
「ご主人様…………」
「ここは伴侶として反応して欲しかったところですが、おでこは痛くありませんか?」
「君の方が痛かっただろう。可哀想に、怖かったね」
「……………ぎゅ」
「ネア、あのカーテンタッセルはさ、祝福のカーテンタッセルなんだ。ちょっと事情があって荒んでたけれど、シルの額が赤いのは祝福の印だからね?」
「まぁ、良いものなのですね?」
ノアにそう教えて貰い、ネアはほっとした。
事件のあらましを時系列に並べると、まずは、エーダリアとヒルド、ノアが会食堂に向かうところから始まったらしい。
「エーダリア様と私が会食堂に向かう途中で、あのカーテンタッセルの精が現れまして。ちょうどその時に、ネイもこちらに来たんですよ」
「ヒルドさんも、その場にいたのですね」
「ええ。エーダリア様は、幸運のカーテンタッセルの話を文献でご存知だったようですが、私とネイは、物陰から飛び掛ってきたカーテンタッセルに咄嗟に身構えました」
「…………で、僕が払い落としちゃったんだよね。あのカーテンタッセルの精からすれば、エーダリアに祝福を与えようとしたのに邪魔されて、かなり立腹してたって訳だ」
つまりのところ、カーテンタッセルの精は、祝福を与えさせないノアに怒り狂い、祝福を与えさせろと言わんばかりにネアを襲ったのだ。
そして、それをディノに防がれてしまったことで更に荒ぶり、ネアの顔面を直撃したのだった。
なお、倒れたネアに駆け寄ったエーダリアも発見し、無事にエーダリアにも体当たりしてから廊下を走り去っていったらしい。
ヒルドは、祝福を与えるものとは言え女性の顔を狙うなんてとたいそう怒っており、ノアが慌てて宥めている。
(カーテンタッセルの精とは……………)
様々なものたちが活性化する夏至祭の前夜なので現れたのだろうと話してくれたエーダリアに、ネアは、であれば貰えた祝福は珍しいものなのかなと考えた。
「……………どんな祝福を貰えるのですか?」
しかし、ネアがそう尋ねるとなぜか、部屋の中はしんと静まり返るではないか。
顔を見合わせるエーダリア達に眉を寄せていると、どこか思い詰めた表情でエーダリアがこちらを見る。
そして、あまりにも悲しいその祝福について、静かな声で教えてくれた。
「…………カーテンレールに引っかからず、カーテンを引ける祝福だ」
「………………え、」
「良かったな。半年の間は、気持ち良くカーテンが引けるぞ」
「しかも、…………半年ぽっちなのですか?」
「……………ああ」
あまりの仕打ちにネアは打ち拉がれ、眉をへにゃりと下げた。
そんなものの為に鼻を失ったのだとしたら、あまりにも割に合わない。
「お前の好きな祝福だろ。良かったな」
ここで、笑い混じりの声でそんな風に言ってくる使い魔に、ネアはぷいっと横を向いた。
鼻がへしゃげているかもしれないのに、意地悪な使い魔を正面から見据える勇気がなかったのだ。
悲しい目のままディノの袖をくいっと引っ張ってみると、ネアの大事な魔物はそっと頬を撫でてくれた。
「ネア?」
「ブルスカンドリは………」
「食事に行けそうかい?」
「ふぁい。ブルスカンドリを食べまふ」
ネアがそう主張してみると、エーダリアとヒルドも顔を見合わせて頷いてくれる。
ノアも、そりゃブルスカンドリは外せないよねと微笑んでくれたが、ネアはその微笑みがいつもより優しいような気がして、ますます鏡を見る勇気を無くした。
繊細な乙女心を持つネアには、これ以上の精神的な苦痛には耐えられそうにない。
その後も出来るだけアルテアの方は見ないようにして、ネアはリーエンベルクの大事な家族達と共に会食堂に向かった。
(みんなは、いつも通りに接してくれるのだわ…………)
こうして、鼻がへしゃげている自分を囲んで歩いてくれるエーダリア達の優しさに感謝しつつ、やっといつもの自分の席に着けば、ほうっと安堵の息を吐く。
「…………ブルスカンドリです!」
悲しみに儚い溜め息を吐いていたネアの前には、素敵な一口前菜の盛り合わせのお皿に加えて、揚げたてで半熟卵がとろりと添えられたブルスカンドリがほかほかと湯気を立てていた。
衣に少し濃いめの味付けがあるので、卵と絡めて美味しくいただけるものの横には、さっぱり茹でただけのものも添えてあり、ほろ苦さを楽しみながらチーズソースで食べる事も出来るらしい。
こちらは事前情報にはなかった味覚なので、ネアは漸く唇の端を持ち上げた。
「良かった。少し元気になったね」
「悲しい事件でしたが、予定通りの美味しい晩餐に出会えましたので、さっそくいただきますね」
「うん。ほら、パテも来たよ」
「パテ…………」
今夜の晩餐のメニューは、パイまでのものは並べて出してしまえるからか、続けてパテも持ってこられ、ネアは食べたいものの渋滞にはわはわした。
(でも、まずは……………)
とろりと輝く卵を絡めてさくさくとブルスカンドリ揚げを齧り、ネアはむふんと頬を緩めた。
幸いにも気を失っていたのはほんの十分くらいだったようで、あの騒動のせいで大事な晩餐の時間がずれ込んでしまう事もなかったようだ。
小海老と雨野菜の蒸し物や、紫陽花トマトに新鮮な水牛チーズを乗せてオーブンでさっと焼いたものなどのさっぱりとした一口前菜の盛り合わせもいただき、最後にくるりと巻いて置かれた燻製ハムもお口に入れる。
紫陽花トマトは、初夏に黄色い紫陽花のような花が咲くトマトなのだが、赤いトマトと黄色い花の組み合わせが華やかで観賞用にも人気なのだとか。
「……………おい」
ここで、頑なに自分の方に顔を向けないご主人様を訝しんだのか、隣の席の使い魔から声がかけられた。
ネアはへしゃげているかもしれない鼻を見られないよう、あまりそちらを向かずにどう返事をしようかと考えたものの、適切な返答が思い浮かばずに諦めてパテに集中することにした。
「………おい、大人気ないぞ」
「………………むぐ。お食事中は、そちらは向けないのです」
「ったく、鼻の件を根に持ってるな………?」
その言葉に、ネアはぎくりとした。
この言い方をするという事は、やはりネアの鼻はへしゃげてしまったのだろうか。
あまりの悲しさにアルテアからいっそうに顔を背けると、ネアは、残酷な現実よりも優しく心を優しく抱き締めてくれる夏茜のスープを飲む事にした。
なぜか背後からは唖然としたような気配が伝わって来たが、今はとても心が脆くなっているのでそっとしておいて欲しい。
「……………ありゃ。僕がアルテアを叱ろうか?」
「……………鼻を馬鹿にされるので、そちらは向けません」
「君の鼻は可愛いよ?」
「……………ぎゅ。でも、あのカーテンタッセルのせいでへしゃげてしまいました」
「……………ネア?」
「…………だから、アルテアさんは鼻が低くなったと私を虐めたのでしょう?」
何でもないふりをし続ける事に耐えられなくなってしまって、涙を堪えてそう言えば、なぜかディノは目を瞠って呆然とする。
「……………アルテアの言葉で、不安になってしまったのだね?」
「………………鼻は、いつか元通りになりますか?」
「君の鼻はどこも曲がってないよ?心配なら鏡を見てみるかい?」
「……………はにゃは、……なくなってないのですか?」
「勿論だよ。あのカーテンタッセルにぶつかられた後も、赤くはなっていたけれど曲がったり折れてしまっていたりはしなかったからね。君には私の守護があるだろう?」
「………………埋没してもいません?」
「何ともなっていないよ。誓約して欲しいかい?」
微笑んだディノにそう言って貰えたネアは、やっと安心して、伸ばした手で自分の鼻に触れてみた。
すると、そこにはいつも通りの感触がある。
「……………鼻があります」
「うん。これで怖くなくなったかい?」
「……………ふぁい。では、アルテアさんは、ただ私のへしゃげてもいない鼻がお気に召さないだけなのですね?」
それもまた悲しい現実ではあるが、やっと安心して顔を向けられるようになったので、ネアが振り返ると、こちらを見ていたアルテアは僅かに息を詰めたような気がした。
「……………ったく。妙な拗らせ方をしやがって」
「………むぅ、確かに、アルテアさんの恋人さん達には及ばないかもしれませんが…むぐ?!」
恨みがましく反撃しようとしたネアは、口に押し込まれた小海老を美味しくもぐもぐする。
「俺は、お前のその可憐な鼻とやらで充分だ。そもそも、おかしな表現を始めたのはお前だろうが」
「…………ぐるる」
「言っておくが、パイは重なるからやめておけよ」
「で、では、美味しいムースのデザートを所望します!これは正当な慰謝料ですよ!」
「やれやれだな…………」
アルテアは呆れ顔であったがひとまず慰謝料交渉も落ち着いたので、ネアは心を憂いを晴らして美味しいパテを乗せたかりかりバゲットを頬張った。
「……………エーダリア様?」
ふと、訝しげにこちらを見ているエーダリアに気付いて、ネアは首を傾げる。
「…………いや、お前の鼻に治癒が間に合わない程の怪我があるのなら、そもそも普通に食事にはならないとは考えなかったのだな………」
「そうそう簡単には治せないので、優しさからそっとしておいてくれるのかと思ったのです…………」
「おや、ネア様がそのような状態にあるのでしたら、どのような手を用いてもきちんと治療させていただきますよ?」
「ぎゅ、ヒルドさん……………」
「ありゃ。まずないと思うけれど、シルが不得手な種の治癒が必要になった場合は、お兄ちゃんが必ず治すから安心していいよ」
「ノア…………」
「ネアは可愛い…………」
「ディノも………」
図らずも皆の優しさに触れてじんわりしていたネアは、これが乙女への対応であるべきだと、厳かにアルテアに頷きかけてやった。
しっかりブルスカンドリを堪能している使い魔は呆れたように目を細めてこちらを見たが、その日の夜の内に美味しいマンゴームースが届いたので、ネアは仲直りの印を美味しくいただいたのだった。
明日、7/1の更新は、構成上短いお話になります。
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