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復活祭と黒き穢れの再来 2




復活祭の森の見回りで、ネアは難しい局面に立たされていた。


森の中で見つけた案山子逃げ沼という恐ろしい生き物に怯えて歌いながら歩いていたところ、うっかりその歌声で木の上から落としてしまった雲の魔物を保護したのだが、そんな雲の魔物は現在、片足を逃げ沼の犠牲にしてしまっている。


これは特異体の逃げ沼にやられたのではなく、普通の逃げ沼にずぼっと突っ込んでしまった悲しい事故だ。


片足だけなのですぐに浴室に駆け込む必要はないが、片足を泥人形化しているとやはり歩き難いのだろう。

歩いては止まり、歩いては止まりを繰り返している。


くすんくすんと泣いている雲の魔物が不憫になったネアは、やはりこのままでは埒があかないと、ディノに手伝って貰ってヨシュアの足の泥を少し落とすことにした。



「ふぇ。くさい…………」

「むぐぐ、我々も耐えているので、我慢ですよ。この浄化のお水でざぶんとやった後は、ご自身の魔術で乾かしてみて下さいね。完全に綺麗にはならないにしても、少しは歩きやすくなりますから」

「ほぇ、…………完全に綺麗にはならないのかい?」

「あくまでも、リーエンベルクに戻るまでの暫定的な措置です」



お仕事中のネアにきりりとそう言われてしまいヨシュアはしょんぼりしていたが、先程歌声で攻撃されたばかりなので神妙にしているようだ。


浄化の水で濡らすともわりとした臭気が鼻をついたが、ざぶさぶと足を洗って貰い乾かせば、かなり綺麗にはなったようだ。


乾いた泥に固められて関節が曲げられなくなっていた足は膝が曲がるようになり、ヨシュアは初めて歩けた子供のように拙く何歩か歩いてこちらを振り返る。



「ネア、膝が曲がるよ!」

「ふむ。これで一安心ですね。後は無事にリーエンベルクに帰るまで気を抜かずに………ぎゅわ」



ふうっと息を吐いて晴れ晴れと微笑んだネアが目撃したのは、大きな木の枝にどっぷりと覆いかぶさった液状山椒魚とでも言うべき真っ黒な生き物であった。


黒目がちな大きな瞳でこちらをじーっと見ているが、瞳以外の顔のパーツは確認出来ない。


オタマジャクシに見えない事もないが、ぬめぬめと光るというよりは、水を入れた水風船のように、たっぷりと水分を詰めた乾いた質感のものという感じがする。


ちょびっとした手足にちょび尻尾からして、両生類的な造形だと思われるが、なぜか背中にぱたぱたしている小さな翼がある。

体長の十五分の一くらいの大きさなので、到底飛べるようには見えない。


可愛いようなホラーなような、判断に苦しむ微妙なラインを攻めて来た生き物の出現に、ネアはへにゃりと眉を下げる。


そしてなぜか、周囲の湿度が急激に跳ね上がった気がした。



「おや、泥沼の精霊だね。この辺りには住んでいなかったものだけれど、どこから来たのかな…………」

「ディ、ディノ……………こやつめは、悪いものなのですか?」

「あまり、自然には見かけないものだね。よく魔術師達が瓶に詰めて持ち歩いているけれど、ウィームでは滅多に見かけない召喚獣だ」




(召喚獣……………?)




こんなものをどうして連れ歩いてしまうのだろうと呆然と見上げていると、背後の木の上に乗った泥沼の精霊を振り返ったヨシュアが、ほぇと小さな声を上げる。



「僕の嫌いな、魔術師の召喚獣だ」

「ヨシュアさん、その場合、僕の嫌いなは、魔術師さんにかかりますか?召喚獣さんにかかりますか?」

「どうしてそんな事が気になるんだい?どっちも嫌いだよ」

「…………お知り合いの方の召喚獣さんなのでしょうか?」

「魔術師の方はこの前殺したばかりだけど、この獣はいなかったんだ。術者が殺されて彷徨っているのかな…………」

「おのれ、さては呼んでしまいましたね…………」

「ほぇ、知らないよ。鼻がいいから、勝手にアルビクロムから僕を探しに来たんじゃないかな………」

「それを呼んでしまったと言うのだと思いますし、アルビクロムはそれなりに遠いのでは………」



とは言え、この奇妙な生き物はアルビクロムからやって来たらしい。

相変わらずじーっとこちらを見てくる視線は、獣のそれと変わらない程度の知性しか感じないような気もするが、体が大きい分眼差しが強いので何とも威圧感がある。



「ディノ、こやつをアルビクロムに追い返す事は出来ますか?」

「出来ると思うけれど、………」



ここで、ガルルと唸った召喚獣に、ネアは慌ててディノの背中の後ろに隠れた。

どうやら本人に帰る意思はないらしい。



「……………ぎゅう」

「可哀想に、これが怖いのだね?」

「大きさとしてはもっと大きなものに出会ってきていますが、ぱちんと弾けたら泥沼が溢れ出しそうな姿は、たいへん厄介な相手です…………」

「ほぇ、僕も嫌いだ」

「なぬ。標的にされているのはヨシュアさんなのでは…………。積極的に対応して下さい!」

「ふぇ、僕はあれは嫌いなんだよ」



まだ片足が警戒領域なヨシュアまでもディノの後ろに隠れようとするので、ネアは慌てて威嚇した。


べったりへばりついたら大切な魔物が汚れてしまうし、あの泥沼の精霊に共に襲われるのもどうにかして避けたい。


身勝手な人間の、自分が木から落としたのだというちっぽけな責任感はどこかにいってしまい、ぐるると唸ったネアに、一人にはなりたくないヨシュアもじたばたする。



そんなやり取りをしていると、にゅうっと顔を伸ばしてこちらを見ていた泥沼の精霊は、ニヤリとしか表現しようのない形に瞳を細め一声鳴いた。



「ガオー!」



想像してなかった鳴き声にネアは呆然としてしまい、その直後、しゅばっと木々の間から現れた泥沼案山子達に震え上がった。



「みぎゃ!」

「………………ご主人様」

「ふぇぇぇ!いっぱいいるよ!」

「こ、これはもう、最初からヨシュアさん狙いです!どろべた案山子達めは、あの召喚獣の僕ではありませんか!!」

「ぼ、僕はもう城に帰る!ぎゃあ!」

「に、逃してなるものですか!悪いものを呼び寄せておいて、私達を生贄にしたまま逃げるなんて許しません!!」



突然の窮地に追い込まれ、飛び上がって空に逃げようとした雲の魔物と、それを許さない人間との攻防戦が繰り広げられる。


その隙にも逃げ沼案山子達は包囲網を完成させつつあり、ネアはヨシュアの腕をしっかりと掴みながら、きりんを使うべきか、激辛香辛料油を使うべきか頭を悩ませていた。


恐らく最後の一回になりそうな戸外の箒は温存したいし、ここから転移で逃げてもいいのだが、そうすると見回りとしての役目は果たしていないことになる。



復活祭が無事に終わるように、良くないものがいたら対処するのが、今日のお役目なのだ。



「ディノ、………逃げ沼案山子達に触れないように出来ますか?」

「うん…………。けれど、囲まれてしまうと足場ごと沈められかねないから、防ぐだけでは足りないかもね」

「ほわ…………。ディノでも困ってしまっている状態なのですね………?」

「………捕まってしまうことはないよ。けれど、あの精霊の系譜で、逃げ沼を使役しているのが不思議なんだ。系譜の繋がりはそこまでではないと思うのだけれど………」



少し考え込む様子を見せたディノは、僅かに首を傾げた後、背中に隠れて心配そうに見上げているネアを安心させるように微笑みかけてくれる。



「ぎゅ…………。お手伝いするなら、どの武器がいいですか?」

「私の方で壊してしまうから、君はそこに掴まっておいで。ヨシュア、あの精霊を持ち上げる事は出来るかい?」

「ほぇ、…………僕もやるの?」

「癒着と侵食が強いから、抵抗されないようにするには君の方がいいだろう。幸い、こちらの言葉は解していないようだからね」

「なぬ。言葉を理解していないのですね?」

「召喚獣には、そのようなものの方が好まれる事もあるそうだよ」



ひたり、ぴしゃんと湿った音がして、案山子を軸にした人型の逃げ沼が近付いて来た。

ネアは、どうやってこの窮地を乗り越えるのだろうと息を殺してその瞬間を待つ。



「……………びゃ?!」



その直後、ふわりと体が浮き上がるような感覚があった。


ほんの少しだけの浮遊なのだが、爪先をぱたぱたさせてもぎりぎり届かない。


慌ててディノに掴まったネアは、ぼうっと淡く光ったヨシュアの酷薄な美しさに、おおっと眉を持ち上げた。

眦に涙を溜めた銀灰色の瞳が冷ややかに前を見据える様は、どこかアンバランスな美貌である。



(す、すごい……………!)



浮かび上がったのは、生き物だけではない。


ぱらぱらと持ち上がるのは、地面に落ちていた木の葉や、その影に隠れていた森結晶も同じで、木漏れ日が当たりきらきらと輝く結晶石の中には、不思議な強い光を放つ見慣れないものもあり、ネアは微かに瞳を瞠った。


ディノの三つ編みや純白の装いの服裾もふわりと持ち上がり、木の上にべったりと乗っかっていた泥沼の精霊も体が浮いてしまってじたばたしている。


逃げ沼案山子も浮き上がってしまい、こちらはもがくことも出来ずにただ浮かんでいた。



びゅおるりと、強い風が吹いた。




「……………まぁ!」



その風が触れると、どっぷりとした泥沼の精霊の体は端からばらばらと桃色の花びらになって崩れてゆくではないか。


さぞかし泥沼の精霊も荒ぶっているだろうとぞくりとしたが、真っ黒な生き物のまん丸な黒い瞳は、どこかうっとりと細められていた。



(不思議だわ。嫌がってはいなくて、寧ろ喜んでいるみたい……………)



ざあっと最後の風が吹いて、泥沼の精霊は花びらになって木々の向こう側に舞い上がり散らばっていってしまった。


すると、ばしゃんと音がして、案山子達に纏わり付いていた逃げ沼が地面に落ちる。

そこに五つもあるのはさて置き、ネアも見た事のある普通の逃げ沼に戻ったようだ。



そんな逃げ沼達は、まるで、我に返ってなぜ集まってしまったのだろうと慌てるように、ざっと散って逃げ出してゆく。

後に残った案山子の枠組みは、ゆっくりと傾き地面に倒れるまでにさあっと灰になった。



そこまでを見てから、ヨシュアが目を伏せると、僅かに浮き上がっていたネアの爪先が再び地面に着く。


同じように浮かび上がっていた落ち葉や森結晶なども、ぱらぱらと地面に落ちた。




「ほぇ、重たかった」

「…………うん。正気を保っていたから判別が難しかったけれど、やはり、祟りものだったようだね。元々は水草の花の精霊だったものが、住まいの水辺が泥に覆われて泥沼の精霊に転じていたのだろう」

「…………祟りものだったのですね」

「精霊が、そのような形で転属するのは珍しい。逃げ沼は人々の信仰から生まれたものだ。その花の精霊も、信仰を集めるようなものだったのだと思うよ」



そう言われ、ネアは花びらが風に巻き上げられて消えていった森の向こうを見る。

あの奇妙な生き物はきっと、桃色の花びらを持つ美しい花だったのかもしれない。


そう考えたネアはくすんと鼻を鳴らして柔らかな気持ちになっていたが、僅かに瞳を眇めてこちらを振り返ったディノの表情はやけに酷薄で冷ややかだった。



「ヨシュア、…………君が壊してしまった魔術師は、どのような人間だったんだい?」

「生粋の人間ではなくて、精霊の混ざりの魔術師だったよ。僕は大雨を降らせて町を潰したりはするけれど、そうすると大喜びで現れてその町を汚すんだ。あちこちに勝手に付いてくるから嫌いだったんだ」



それは、鈍色の髪を持つ美しい女性魔術師だったという。

いつも沢山の召喚獣を連れていて、ヨシュアを見ると微笑んでお辞儀をしたそうだ。


そんな話だけを聞いているとヨシュアを好いていたようにも聞こえるが、自分の庇護する霧雨の一族の領域も汚し始めたその魔術師を、ヨシュアは決して許さなかった。



「つまり、ヨシュアさんはイーザさん達の家族を守ろうとしたのですね?」

「僕は元々、魔術師は大嫌いだからね」

「だとしても、帰ったらイーザさんにもう大丈夫だよと伝えて差し上げると、きっと安心するのではないでしょうか?」

「ほぇ、そうなのかい?イーザ達を守るのは普通のことだよ」

「むむ、思っていたよりも頼もしかったです!」

「ヨシュアなんて……………」



ネアがヨシュアを褒めたからか、少しだけ拗ねてみせた魔物については、ネアは両手を差し出して持ち上げを所望した。



「あの泥沼の精霊さんに対処してくれた私の魔物は、更に頼もしいので、帰り道は特別に持ち上げても構いません」

「ご主人様!」



いそいそとネアを持ち上げようとした魔物に微笑みかけていたネアは、その直後はっと息を呑み、慌てて魔物の腕の中から飛び出した。



「……………ネアが逃げた………」

「ごめんなさい、ディノ。持ち上げは少しだけ待って下さいね。確か、…………先程この辺りに不思議な光り方をした結晶石があったのです。…………むむ!これです!!」



ヨシュアの魔術で色々なものが浮き上がった時に見かけた結晶石を拾い上げ、ネアは喜びに弾んだ。

指先でつまみ上げた琥珀色の結晶石は、内側でとろりとした金色の炎が燃えているような独特な煌めきがとても美しい。



「ディノ、これはいいものですか?」

「おや、黎明の祝福石だね。かなり古いものだから、今の黎明とは色相が違う」

「高く売れます?」

「アクスに持ち込むのかい?勿論、高く買い上げてくれるだろうけれど、眠りの系譜の魔術や夜の系譜の呪いや侵食に有効なものだから、……………持っていた方がいいかもしれないよ」

「なぬ。では、売らずに持っていますね」



昨日のアクス訪問で、ネアががっかりしていた事を知っているからか、ディノは少しだけ悲しげにそう教えてくれた。


勿論、大きく目減りしてしまった蓄えを増やすのは大切だが、そのようなものであればとネアが素直に頷くと、ディノはほっとしたようだった。



「その代わり、夏用の毛布は私が買ってあげるよ」

「…………なぬ。昨年のものがあるので、新しいものはいらないのですが、さては夏用の毛布を買い足しにゆきたいのですね?」

「ご主人様……………」



本当なら足りているものなので新しく買い足す必要はないのだが、魔物は昨年の夏用毛布の買い出しを思っていたよりも楽しんでいたらしい。


もじもじしながらこちらを見るので、ネアは、それについてはネアの分を買ってくれなくても同行すると伝えてやった。


目元を染めてこくりと頷いた魔物は美しかったが、これは魔物の巣材の買い足しにゆく話である。



「…………ふぇ、早く僕の足を綺麗にしたい」

「そうでした。もう集まっていた逃げ沼もいなくなりましたので、見回りをしながら帰りましょうね」

「ほら、持ち上げるのだろう?」

「むむ、忘れていました………」



かくしてネアは、誇らしげにご主人様を持ち上げた魔物に運ばれながらも、鋭い目で禁足地の森に変化がないか見回しつつリーエンベルクに帰った。




その後、リーエンベルクに帰ったネア達は、まずはヨシュアを綺麗にしてしまう作業をした。


昨年とは違うのは、ヨシュアは自分でも動けるし、ネアに言われてからヨシュアが自分で着替えが出来るようになっていたことだ。


汚れた服は脱いで貰い、ひざ上から片足を洗ってやるだけで済んだのだが、途中からヨシュアはアヒルで遊ぶのだと駄々を捏ねだし、結局は普通に入浴する事になる。


魔術で取り寄せた玩具のアヒルを湯船に浮かべ、ガアガアと鳴かせてご機嫌のヨシュアが一人で遊んでいる内に、ネア達は森で見付けたものの報告書を仕上げておき、見回りに出ている騎士達にも念の為に共有を済ませた。



そして、無事にヨシュアもお風呂から上がり、ネア達はお待ちかねの昼食の席に着く。


ことりと、テーブルの上に置かれたのはほかほかと湯気を立てる赤いスープだ。

とても辛そうに見えるのだが、リーエンベルクの料理人達の手にかかり、今は辛くて酸っぱい美味しいスープに生まれ変わっている。




「僕、このスープ大好き。でも、グラストには辛さが足りないのかな?」

「いや、これは辛いだけではないのが美味しいスープだからな。これでいいんだ。…………辛味という意味では、殆ど辛さは感じないかな」


一口飲んだネアがむふぅと頬を緩めるその向かいで、昼食が一緒になったグラストとゼノーシュも、復活祭のスープを美味しそうに飲んでいる。


ヨシュアは美味しいけど辛さとしては物足りないようで、とは言えこれは酸っぱいスープとして美味しいからこのままでいいという評価だったようだ。

どうやら、味覚の上では、グラストと気が合うらしい。



「その、ネア達が会った召喚獣って、ドラバーダの獣かもしれないね」

「まぁ、ゼノはあのずるべたを知っているのですか?」

「前にね、アルビクロムの国境の方で、綺麗な湖を泥に変えちゃった獣がいたんだ。召喚した魔術師は沢山人間を殺したんだよ」



禁足地の森で出会った奇妙な祟りものの話をすると、どうやらそれはかなり有名な召喚獣だったらしい。


それまではうちの魔物が可愛いという表情しかしていなかったグラストが、どこか厳しい騎士としての面持ちに戻る。



「ドラバーダの女魔術師は、元々は西方の小国の王女だったと聞いています。成人後に扱った魔術で、王妃と精霊との不義の子である事が明るみになり、…………不幸な事ですが、その国ではむごい扱いを受けたようですね。その国の王族達を虐殺した後に国を出ると、各地を旅して回り多くの人間をいたずらに殺し続けていたと聞いています」

「…………思っていたよりもずっと、厄介な方だったようです。その方の不幸は存じ上げないので何とも言えませんが、理由もなく襲われる方々は堪りませんね…………」

「ええ。所謂、快楽としての殺戮を好む魔術師でして、ガレンでも要注意人物として警戒されていたようですね。咎人になった魔術師は、…………同業者を傷付けることを好みますから」


ぐっと低くなった声音に、ネアは、グラストが想像したのが、その魔術師がエーダリアを傷付けた可能性だったのだと分かった。



「ディノが気にかけていたのは、そのような事があったからなのですか?」


森でディノが見せた酷薄さを思い出したネアがそう聞いてみると、そろりと辛いスープを飲んでみて美味しかったらしい魔物はこくりと頷いた。


「随分と人間を食べていたようだからね。使役される召喚獣である以上、誰かの命令でウィームを訪れた可能性もある。知能の高い召喚獣と違い、会話が出来ないような召喚獣は術者が死んでも命令を遂行し続けるんだ」

「…………となると、魔術師さんを倒した時にはその場にいなかったというあの獣は、ヨシュアさんを追いかけてきたのではなく、他の目的で動いていた可能性があるのですね?」

「うん。グラストが言うように、堕ちた魔術師は魔術師を憎悪する事が多い。ウィームには魔術師が多いからね。少し気になったんだ」

「確かにそんな事も話していたかな。魔術師が嫌いだから、魔術師で遊ぶ僕が気に入ったと話していたよ」

「ヨシュア殿は、ドラバーダの魔術師と話された事があるのですか?」



そう尋ねたグラストに、ヨシュアは銀灰色の瞳を細めて薄く微笑む。

その眼差しはどこまでも魔物らしく、ネアは、珍しく雲の魔物の魔物らしい一面を見る日だなと考えていた。



「あの魔術師が、勝手に話していただけだよ。僕は、気に入らない生き物とは話なんてしないんだ。気に入るかどうかは僕が決める事なのに、自分の意見を僕に告げるなんて不愉快だしね」

「あら。そうなると、ヨシュアさんは魔術師さんとしての一面もあるのに、エーダリア様のことはお好きなのですね?」

「…………そうなのかな。そうかもしれないね。エーダリアはちゃんと僕を大事にするし、アヒルで遊んでもくれたからね」

「魔物さんとは…………」



若干本能的な線引きをしているようで、ヨシュア自身も、なぜエーダリアは良くて他の魔術師は相変わらず嫌いなのかの理由は説明出来ないようだ。



「あの、夜狼の伴侶も悪くないよ」

「ふむ。ゼベルさんですね。あの方もどこか、エーダリア様とはまた違う性質の、高位の方達に好かれる要素があるようです。そして私も、なかなかに優れた氷の魔術などを有しておりますので…」

「ほぇ、ネアは魔術師じゃないよ。可動域が殆どないからなれないんだ」

「ぐるる…………」

「でも、歌っただけで僕を呪うから普通の人間とも違うし、怖いものをいっぱい持っているし…………ふぇ、睨んだ」



ネアは、偉大な人間の可能性を理解していない様子の雲の魔物を威嚇すると、再び美味しいスープに戻ろうとして、グラストの表情がまだ硬い事に気付いた。


そっと窺えば、こくりと頷いたゼノーシュが質問を引き取ってくれる。



「グラスト、何か困ってるの?」


ネアとしては、愛くるしさと罪深さが満点な見聞の魔物の問いかけに、物思いから覚めたようにグラストが振り返る。


そちらを見ていたネアにも気付き、心配させて申し訳ないと苦笑した。



「エーダリア様は以前に、ガレンにのみ籍を置いていた頃に、ドラバーダの魔術師と交戦された事があるんです。召喚獣が多く撤退するだけでもかなりの困難を強いられたと話しておられた事を思い出し、万が一にでもその魔術師がウィームに来ていたらと思うとつい……………」

「…………その魔術師さんが、エーダリア様を襲ったのですか?」

「いえ、襲われた国境域の町の調査で向かった際に、経由地の村で遭遇してしまったのだと聞いています。ネア殿が来てからはそのような心配はなくなりましたが、一般的な魔物の薬の効果ではその時に受けた傷を完治させる事は出来なかったようで、丸一日起き上がれなかったと…………」

「…………ヨシュアさん、悪い魔術師めを滅ぼしたお祝いに、私の秘蔵菓子折りを差し上げますね。お城に帰ったら、イーザさんと食べて下さい」

「うん。僕をもっと敬うといいよ。その魔術師はもういないからね」



誇らしげに胸を張った雲の魔物に、グラストも丁寧にお礼を言っていた。


エーダリアがそれだけの怪我を負ったのはもう随分と前の事だが、その時には既に女魔術師が使役していたかもしれない召喚獣がウィームに来ていたという事で、かなりひやりとしたのだろう。


召喚獣は人間の言葉を解さない事が多いが、精霊の血を引く主人とは会話が出来ていた可能性もあるのだそうだ。


ドラバーダの魔術師が、取り逃がしたガレンの若き魔術師を覚えていたのなら、もし再び出会う事があればという命令を召喚獣に残していたかもしれない。


その事件の当時はまだ新任の魔術師でしかなかったエーダリアにとっては、ほろ苦い敗戦の記憶となる仕事の一つであるのだろう。



グラストとゼノーシュが仕事に戻ると、ネア達は、会食堂を出て客間の一つに移動した。


どうやらヒルドが手配してくれていたらしく、リーエンベルクで昼食も食べてしまったヨシュアが満腹になったから昼寝をすると言い出したのだ。


やがて、そんな雲の魔物が客間の寝台ですやすやと眠ってしまうと、ネア達は留守番の役目も果たしながらの、本日の薬の魔物としての仕事の時間となる。



「これでいいかな」


ことりと机の上に置かれたのは、綺麗な緑色の小瓶だ。

たぷりと入っている薬は、今日の復活祭で在庫が大きく減ってしまう薬の補充をしてくれる。


「はい。鎮静の魔術薬五本ですね。このお薬は本日でだいぶ使われてしまうようですので、ディノのお薬を納品した後に、十倍に薄めて使うのだそうです」

「薄めるのだね…………」


魔物は不思議そうに目を瞬くが、ディノの薬は薬効が高過ぎて飲まされた患者が数日間恍惚状態になってしまうらしく、ウィームの薬院で薄めて増やし使用されていた。



「それにしても、今年は死者の門を潜ろうとする若者が多いようですね。お仕事に戻られるグラストさんが、少しぐったりしていましたから」

「伴侶を、死者の門に投げ込む人間もいるのだろう?」

「そうなるのは、関係が余程に冷え込んだご夫婦ですね。強いて言うのであれば、ノアを刺してしまう恋人さん達のような気質の方が行う事ですので、私はディノにそんな事をしませんからね?」

「……………うん」



実は、こっそり死者の門の中に捨てられたらどうしようと考えていたのか、そう言って貰えた魔物は嬉しそうに頷いた。


特定の人間の振る舞いを人間の種族的な習慣だと思うところは相変わらずなので、ネアはそういう場合は、悩む前に相談して欲しいと重ねて伝えておく。




視線を上げると、窓の外はすっかり不思議な翳りに覆われていて、空は晴れている筈なのに奇妙な薄暗さであった。


そろそろウィームのあちこちで、戻って来た死者達の迎え入れが始まる頃だ。


ネアは、ほんの少しだけ、あの死者の国で過ごした家のことを思い、うっかり地下室のことを思い出しかけてしまい慌てて首を横に振った。


隣を見ると、ご主人様が首を振っていて可愛いと目元を染めている伴侶な魔物がいる。



(もし、私が生まれたのがこの世界だったなら……………)


そうしたら、ネアも死者の日には鈴飾りを作って軒先に飾り、玄関には火の消えない蝋燭を灯しただろうか。


死者たちが死者の国に留まる期間的に間に合わないだろうけれど、そんな風に繋がっていたのなら、この優しい伴侶を紹介出来たのかもしれないのに。



(……………なんて、ね)



そんな事を考えてしまった自分に小さく笑い、ネアは膝の上に置かれた三つ編みを引っ張ってやりながらジリリと鳴った魔術通信機のところまで歩いて行った。


自身の勇敢さを示す為に死者の門に向かってしまう若者達や、憎たらしい伴侶や恋人を門に放り込む身の毛もよだつような凄惨な事件が生まれるその他の荒ぶる人達はどうなったのだろう。


ネアが、外から連絡をくれたヒルドに尋ねてみると、今年は街の騎士が二名、何者かに一口で昏倒するような激辛スープを飲まされるという痛ましい事件があったようだ。



まさかの辛いスープおじさん出現の可能性を知ったネアは、念の為に、美味しい辛いスープを厨房にお代わりしにゆくかどうかを真剣に悩んだのだった。









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