復活祭と黒き穢れの再来 1
復活祭の朝の事だった。
この日は一年の内に何回かある死者の日の一つでもあり、ネアは伴侶な魔物と一緒に森の見回りに出ていた。
ネアの瞳が暗く翳っているのは、晴れていてもなぜか仄暗い復活祭の日が理由ではなく、昨日の夕方に訪問したアクス商会に持ち込んだ品物が、思っていたよりも高く売れなかったからだ。
『申し訳ございません、ネア様。宝石妖精の宝石は、現在、在庫過多でして。と申しますのも、宝石妖精は、宝石の数だけ何種もいるものですが、ネア様が持ち込まれた翡翠の宝石妖精を二十程採取したばかりでしたもので………』
慇懃な口調ではあるが、アイザックは商人だ。
かなりの高額査定となる宝石妖精を、その価格のままに余分に買い取る必要はない事を知っているのだろう。
宝石妖精から削り出させる宝石は、雲母のように薄く削ぎ落として売られるそうで、一体もあればかなり長い間売り続けられるのだ。
おまけに、希少だからこその価値であるので、多く売り過ぎても市場価値が下がってしまう。
となれば確かに、余分な在庫は必要ないだろう。
市場の疫病の一件で、アイザックがその後方支援を行なっていた宝石妖精達を発見し、そちらも狩ってしまったばかりでさえなければと、ネアは運命を呪った。
結果としてネアは、ハンマーで粉々にしたことでもう一段階価値の落ちた宝石妖精を想定していたよりも遥かに安くアクスに売り、帰りにザハでケーキを買うどころではないという悲しい思いで帰って来た。
庭園の花もあるのでそちらも売ろうかと考えたが、価値の低迷を考えひとまず保留として、アルテアにどう売るべきかの資産運用の手法を聞いてみようと考えている。
場合によってはアクス以外のところで、個人の好事家に売るという選択肢もあるかもしれない。
(まだ、自分の支出の半分くらいしか取り戻せてないなんて…………)
そんなこんなでとても落ち込んでいたネアは、朝食後すぐの森の見回りを引き受けてしまい、心を無にする為に働こうという決心をした。
それはノアも同じであるようで、鋸を持った恋人に追いかけ回されるという凄惨な事件の記憶を封印するべく、ウィーム領主のお守り狐をしている。
今回は、早速運用される時間指定で魔物に戻る術式の試運転も兼ねており、指定した時間通りに人型の魔物に戻れるかどうかも調べるのだそうだ。
「ネア。ザハでの食事は、今日の復活祭が終わったらにしようか。好きなものを沢山食べていいからね」
「…………ふぁい。今週から来週の頭にかけてのどこかで連れて行って欲しいでふ」
「それと、リノアールで新しい入浴剤が出たから買いに行こうと思っているんだ。何か一つ欲しいものを買ってあげるから、一緒に行ってくれるかい?」
あまりディノらしくない言葉に、ネアは足を止め、隣の伴侶を静かに見上げた。
目が合うとおろおろと視線を彷徨わせた魔物は、じっと見つめてくるご主人様に、ノアから教えて貰った言葉を使ってみたのだと告白する。
「言い方を工夫しないと、君は沢山甘えてくれないのだろう?」
「……………でも、本当に入浴剤は欲しいのですね?私の為だけのお買い物なら辞退しますが、本当に欲しいものがあるなら一緒に行ってもいいですか?」
「…………一緒に行く」
「ふふ。では帰りに、この季節らしい美味しいものを買って帰りたいです。ちまちま食べられる、もしくは飲める、個包装系のものがあると嬉しいので、甘えてしまってもいいですか?」
「ずるい。甘えてくる…………」
すっかり心は節約生活なネアが、個包装なら長期間楽しめると考えてそう言えば、一緒のお出かけが決まっただけで嬉しかったらしいディノは、目元を染めて頷いた。
そんな様子に、ふと罪悪感が疼く。
実はネアは、今回の事で一つの旅行行事を取り消している。
魔物を喜ばせようとこっそり考えていたものなのでディノは知らないが、お小遣い散財な夏の楽しみとして、以前に出かけたツベルトの宿に、魔物を連れて泊まりに行こうと思っていたのだ。
高額宿泊費な人気の宿なのでキャンセル料が発生してしまい心が震えたが、そのまま実行するにはやはり損失が大き過ぎた。
キャンセル料は後日魔術誓約書と共に支払い用紙が送られてくるので、ネアは、それはこっそり届けてくれるよう家事妖精にお願いしてある。
せっかく楽しみにしていたのにと落ち込む思いと、何とかこの損失を取り戻してディノにサプライズをしてあげたいという思いと。
「…………ディノ、今度のお休みには二人きりで別宅に篭って旅行気分を味わいませんか?とっておきの料理を作るので、一緒にのんびり過ごすのもいいかもしれません」
「……………いいのかい?」
お金のかからない慈しみ方を探した、狡猾な人間なのだ。
けれどもディノは、瞳を揺らして恥じらうように微笑むと、まるで初めての告白に成功した乙女のようにこくりと頷く。
「では決まりです!晩餐は新しいお料理を披露するので、朝食と昼食で食べたいものを考えておいて下さいね」
「フレンチトースト…………」
「あら、それでは一食だけなので、他にもまだ選べますよ?」
「ずるい……………」
大はしゃぎの魔物を撫でてやっていると、どこか遠くで、鈴の音が聞こえた。
復活祭の今日は、黒いリボンと銀色の鈴、銀色に塗った松ぼっくりの飾りをかける風習がある。
どこかにあるその鈴飾りが、思い出したように吹いた風に揺れたのだろう。
禁足地の森は静かだった。
今のネア達が歩いているところからは少し離れた森の区画だが、ウィームの森にミカエルが暮らすようになってからは、小さな毛皮の生き物達は、土地の魔術が不安定になる日にはそこに避難するようになった。
小さな毛皮の生き物達が可愛くて仕方のないミカエルは、彼等にとっては思いがけず得られた恩寵のような守護者である。
そんなミカエルの嗜好に合致する森の生き物達は、不穏な気配もある怖い日は、強くて優しい雨降らしに甘えているのだそうだ。
「皆さんが避難したからなのかもしれませんが、やはり森が静かですね…………」
「そうかもしれないね。この日は逃げ沼も現れるから、地面に暮らす者達は、巣穴や木の上に身を潜めているのだろう」
「……………今年は、誰も逃げ沼に落ちないことを祈るばかりです」
逃げ沼とは、リーエンベルクの内部にすら出現する復活祭にだけ見られる幻の沼だ。
死者の国を恐れる人々の心が作り出したものと言われているので、すとんと落ちてしまうととても怖い場所繋がりで派生した存在なのかもしれない。
(今回の復活祭でも、ウィームの近郊に開く大きな死者の門はないとされているから………)
死者の門が開けば、この日ばかりは翳った陽光の下で活動出来る死者もいる王都などでは、逃げ沼と死者の両方を警戒せざるを得なくかなりの厳戒態勢になるそうだ。
しかし、死者の門が開かないウィームの領民達は、こちらに戻ってくる死者達が到着するまでは、せいぜいその逃げ沼を警戒していればいいくらいで済んでしまう。
とは言え、そんな逃げ沼がとても厄介である事を、ネアは身を以て知っていた。
もう二度と泥人形になるつもりはない。
現在の資産状況で逃げ沼に落ちたりしたら、心の回復はかなり難しいことになるだろう。
「……………おや、」
その時のことだった。
ざっと茂みの向こうを駆け抜ける黒い影を見付け、ディノが小さく声を上げた。
不思議そうな頼りない声に違和感を覚え、そちらを見たことでネアも視認出来たのだが、動きが素早くて詳細までは確認出来なかった。
ぎりぎりと眉を寄せたネアは、迷子紐にも命綱にもなる三つ編みを握ったまま、ディノの袖口をくいくいっと引っ張る。
「…………今のは死者さんでしょうか?」
「いや、…………気配的に違うと思うよ」
「な、なにやつ…………」
復活祭の日には、死者を受け入れる家では風に消えない蝋燭に火を灯し、その特別な火と蝋の香りで死者達を受け入れるのだが、死者達に入り込まれたくない施設などでは、火の精から貰った色付きの火を焚くのが習わしだ。
勿論、リーエンベルクでもその色付きの火を焚いているので死者に屋内まで入り込まれることはないが、昨年に現れた悪意を持った死者の一件があるので、不審な人影を見たら用心せねばならない。
ネアはてっきり不審な死者を発見したのかと思ってしまっていたのだが、確かにこの時間と場所に、そうそう何度も死者がいる訳もないのだ。
幾ら陽光の下を歩ける特殊な恩赦日の復活祭とは言え、門が開くのはウィームから離れた土地であるし、死者達が地上に上がってくるのはもう少し遅い時間である。
(でも、死者さんじゃないとすると、一体何が…………)
「………うん。人間の質ではないようだね。それに、まだ、死者の日の翳りがまだらなこの時間に、昨年のような雲影などの道になるものもなく死者が活動するのは難しいだろう」
「森の生き物という感じでもなかったですよね………………」
「けれど、復活祭に動く魔術の気配を僅かに感じたから、今日だけ現れるようなものではあると思うのだけれど……………」
「なぬ。それはもしや、辛いスープおじさんでしょうか……………」
「え…………」
澄明な水紺の瞳を瞬き、不安そうにこちらを見た魔物に、ネアは、辛いスープおじさんについて説明してやった。
辛いスープおじさんは、主にガーウィンに現れる復活祭の怪人で、全身が黒い影のような人型のものが現れ、復活祭の辛いスープを飲んでいない者達に強制的に激辛スープを飲ませてくる恐ろしい存在として知られていた。
その際のスープの辛さは通常時の激辛香辛料並みであり、辛さに強くないと大変な目に遭う。
勿論、そのような危険と思春期の若者たちの荒ぶる心の組み合わせの常で、わざと辛いスープを飲まずにいて、怪人と出会いスープを飲まされたことを武勇伝にする者達もいる。
だが、軽い気持ちでそれに挑み、入院させられる若者が続出するのも復活祭のお決まりであった。
「………………君も私も、まだスープを飲んでいないけれど、大丈夫かな」
「…………そやつだった場合は、スープを飲まされる前に何とか逃げましょうね」
「ご主人様……………」
すっかり怯えてしまった魔物は、ネアにへばりついてしまったものの、そのままでは歩き難いからと引っぺがされて手を繋がれてしまい、大胆過ぎるご主人様の振る舞いにへなへなになっていた。
先程までの優美な歩き方ではなく、もそもそと歩く魔物を連れ、ネアは引き続き森の見回りを続けた。
ゆらりと陽炎のように陽光が翳る。
そんな明るさと暗さの模様に目を細めて木々の隙間から空を見上げたが、太陽を隠す雲などはないようだ。
昨年の一件で、雲を呼び寄せれば死者達は早くから動けるのだとも知ったが、その不安はないようでほっとした。
「少しずつ、日が翳り始めているみたいですね……………」
「うん。まだ斑になっているけれどね。ほら、あの辺りは明るいだろう?」
「むむ!確かに明るくてくっきりとした木漏れ日が落ちていますね……………」
言われて見てみれば、森の中は光の影が淡い部分と強い部分で斑になっており、あちこちにスポットライトが差し込んでいるような不思議な様相になっていた。
昨年は雲があって一律に薄暗くなっていたので、その変化に気付けなかったらしい。
どことなく、森の空気はひんやりとしている。
陽射しが翳り始めているので当然なのだが、そんな空気の冷たさが不穏なものの予兆のように思えてしまうのは、待つべき死者のいない者としての死者の日への印象なのだろうか。
とは言えネアは、死者の国で過ごしたこともあるくらいなので、単純にその言葉の印象からの心の小さな震えなのかもしれない。
「……………へ、変な影生物がいても、怖くないでふ」
「持ち上げるかい?」
「……………むぐぐ、お仕事中なので持ち上げは極力避け、ここは、何か陽気な感じにお仕事を続けましょうか。そう言えば最近、新しい万年雪と果実のお店が………ぐっ、節約期間中だった!」
「食べ物なのかい?幾らでも食べさせてあげるから、気にしなくていいのに」
「いえ。ここは、出費と本当に自分が欲しているかどうかを照らし合わせて、堅実に生きてゆきましょう。喉元過ぎれば熱さを忘れる感じで、途中で挫折する可能性もあるので、せめて今くらいは堅実に生きたいのです」
「堅実になってしまうのだね……………」
「こ、こうなれば、何か明るい歌でも歌って、悪いものは滅ぼしながら進むしか………」
この時、余分なお金を使えない悲しみに支配されていたネアは、昨年その歌声のせいで悲しい事故が起こったことをすっかり忘れていた。
しかし、見上げた空には雲一つなかったのだから、そこで油断してしまったのも致し方ない。
何しろ、伴侶な魔物はネアの歌を気に入っているのだ。
「時々君が歌っているのがいいかな。凄く可愛いから」
「むむ、珍しくリクエストが入りましたが、どんな感じの歌い出しでしょう?」
「むーきゅ、……………?」
もしネアに過去の事件の記憶があれば、それは滅びの歌だったと思い出したかもしれない。
しかし、その時は無自覚で歌っていた為に、ネアにはそんな自覚はなかった。
「むーきゅ?…………むーきゅっきゅ、?」
「うん。それだと思うよ」
魔物は目元を染めて嬉しそうに頷き、ご主人様はその歌を歌うと少し弾み歩きするのだと付け加える。
それが堪らなく可愛いのだそうだ。
ネアは首を傾げ、果たして本当にそうだろうかと歌い始めてみた。
(音を口ずさんだらメロディも出てきたけれど、無意識にこんな歌を歌ったりしていたのかな…………)
あまり歌っていたという記憶もないが、口ずさめばしっくりくるので、自作の歌であることは間違いないようだ。
「むーきゅっきゅ、むーきゅっきゅ、むーきゅっきゅきゅ…………。むむ、確かにきゅのところで小さく弾んでしまうようです。自らの歌声に操られるとは、ワルツのリズムなのが敗因でしょうか……………」
「操られてしまうのだね……………」
「でも、ディノが可愛いと思ってくれるのであれば、弾むのも吝かではありません。森の見回りで体力を温存する必要もありませんしね」
「疲れてしまったら、帰りは持ち上げてあげるよ」
微かな期待を滲ませてそう提案した魔物に、ネアは、むむぅと視線を向ける。
タジクーシャの事があったばかりなので、もし、ディノが持ち上げていたいのであれば、どこかでわざと甘えてみた方がいいのかもしれない。
とは言えまずはご所望の歌を、歌乞いらしく歌おうではないか。
そう考えたネアは、繋いだ手を振りながらワルツのリズムに乗った。
「むーきゅっきゅむーきゅっきゅ、むーきゅっきゅきゅ」
ぼすんと、何かが空から落ちて来たのでそちらを見ると、なかなか立派な黒い鳥が大きな木の下でこと切れている。
ネアはディノの方を見て視線でお伺いを立てると、その黒い鳥をいそいそと首飾りの金庫にしまった。
更に続きの旋律を歌いながら歩けば、しゃりんと木の上から立派な鉱石が落ちてきた。
ぺかぺか光っていて綺麗なので、こちらも有り難く頂戴する。
また少し歩くと、大きな樫の木の枝に絡みついていた祟りものとおぼしき黒い煙の怪物のようなものが、一瞬でじゅわっと消えてしまった。
消滅の瞬間の断末魔は聞こえたが、そちらを向けば当然のごとく発声もそちら向きになるので、どんなものなのかを確認する間もなく儚くなってしまう。
(……………ディノは、本当に大丈夫なのかしら……………)
そろりとディノの方を窺ったが、幸いにもネアの伴侶は目元を染めてご機嫌で聞いていてくれるようだ。
思っていたよりも観客の反応が過激なこの公演は打ち切りたいなと考えていたネアは、そんな伴侶の為にもう少しだけ歌ってやることにした。
「むーきゅっきゅ、むーきゅっきゅ……きゅ?!」
ずばんと、音がした。
最後の落下物は正面の頭上からで、白い尾を引いてなかなかの質量のものが落下してきたことに気付いたネアは、呆然としたまま、大きな塊が少し離れた木立の向こうに落下し、ぎゃーという声が聞こえてくるまでの惨事の目撃者となってしまう。
ふるふるしながらディノの顔を見上げると、万象を司る筈の魔物は、少しだけ困ったように、魔物だったのかなと呟くではないか。
「……………というか、ターバンがあるように見えたのですが、まさかヨシュアさんなのでは…………」
震える声でそう言えば、ディノも目を瞠る。
「ヨシュアだったのかい?またウィームに来ているのかな…………」
「…………ぎゅ。上を見上げても雲はないのですが、今年も誰かに雲呼びされてしまったのでしょうか?」
「雲がないのであれば、ヨシュアだとしても自分の意思で来たのだろう。どうしてこの森にいたのかな…………」
「見ず知らずの魔物さんが犠牲になったのであれば、自然の厳しさを体感する機会としてそのままなかったことにしますが、ヨシュアさんであれば救出に行かなければいけません!」
「落ちても死んでしまったりはしないと思うけれど、どうして悲鳴を上げたのか気になるね………」
首を傾げたディノ曰く、ヨシュアくらいまでであれば、今回のような鼻歌程度のものであれば、ネアの歌を聴いても立ち眩みや失神くらいで済む筈なのだそうだ。
また、時々居眠りで地上に落ちることもある雲の魔物は、落下に耐えうる丈夫な体でもあるらしい。
ネアがあまりにも呆然としていたからか、死んでしまうようなことはないからと安心させて貰ったが、大事な魔物の為に歌った鼻歌がそこまでのことを引き落とすと知り、ネアは密かに絶望した。
(今回の歌は、きちんとリズムにも乗っていたし、上手に歌えたかなと思っていたくらいなのに……………!)
だから、そろそろ切り上げようかなと考える程度の若干の過激な反応はあれど、周辺被害もスノーの時のようには大きくはなかったのだろうと考えていたのだが、まさかの人的被害が出てしまった。
ともあれ、空から落ちてきたのがヨシュアであった場合はまずいと、ネア達は慌てて白っぽいものが落下してきた方向に急ぐことにする。
「いました!やっぱりヨシュアさんです。………ぎゃ!黒いべたべたが!!」
ネア達がそこで見たのは、地面に落ちて泣いている雲の魔物と、そんな雲の魔物ににじり寄ってゆくべたべたとした黒い生き物の姿だ。
恐らく、先ほど見た黒い影の正体はこれだろう。
ぴしゃんぴしゃんと、黒い液体をこぼして歩く不恰好な人型の生き物は、何とも言えない悍ましさがあり、なぜか直立不動でじりじりと近付いてくるのがとても怖い。
ネア達に気付いたヨシュアは、いっそうに泣き出して窮地を訴え始めた。
「ふ、ふぇぇぇ!変な臭い生き物がこっちにくるよ!!」
「ヨシュアさん、ひとまずは自力で追い払えますか?」
「魔術で切りつけても、どかないんだ…………。ふぇ、助けて…………」
「では、目を閉じていて下さい!きりんさんを見せてみます!」
「ふぇぇぇ!」
「なぜいっそうに泣き出したのだ…………」
わぁわぁと泣き出したヨシュアだったが、幸いにも目は瞑ってくれたのでネアはきりん札を掲げてみたが、そもそも目が見当たらない生き物だった事がいけなかったのか、何の反応もない。
「おのれ!反応しません!」
「ふぇ、僕、これに捕まるの?」
「と言うか、立ち上がってこちらに逃げて来て下さいね。立てますか?」
「…………ふらふらするんだ。誰かに音の領域の魔術で呪われたんだと思うよ」
「むぐる…………あれは私の愛らしい鼻歌であって、呪いではないのです………」
「……………ほぇ、ネアの歌だった…………」
何とかよろよろと立ち上がってこちらに避難してきたヨシュアは、そんな恐ろしい事実を知ってしまい、ネアではなくディノの後ろに隠れる事にしたようだ。
落ちた際に葉っぱがついてしまっていたので、手を伸ばしてそれを払ってやれば、殺さないで下さいと懇願されてしまい、ネアは渋面になる。
「シルハーン、ネアが魔術狙撃するよ………」
「ぐるる!命を狙って攻撃したのではありません!ヨシュアさんと、私の歌声の相性がほんの少し悪かっただけではありませんか」
「ネアの歌はとても可愛いけれど、少し影響が強いみたいだね。目眩で木の上から落ちたようだけれど、階位は落ちていないから安心するといい」
「ふぇ。ネアは、少し歌の勉強を…」
「きりんさんを…」
「ごめんなさい。殺さないで下さい………」
じゃり、ぴしゃん。
ネア達がそんなやり取りをしている間にも、一度は距離を空けていたあの黒い影が、また近付いてくる。
黒い雫がぽたんとこぼれ、べたべたとした黒い足跡を引きずるようにして歩いてくるのだが、ネアはふと、離れた位置にはその黒い筋が残っていない事に気付いた。
(こぼれ落ちて無くなってゆくのではなく、引き摺りながら回収しているのかも………?)
「ディノ、………もしかして、これは液体が主の生き物なのではありませんか?」
「…………そのようだね。中に入っているのは案山子かな。液体の泥のようなものが、それを覆って動かしているのだろう」
「………………私は今、逃げ沼というとても嫌なものの存在を思い出しました」
「……………うん」
「…………ふぇ、僕、もう二度と落ちたくない…………。イーザ、助けて…………」
ネア達は顔を見合わせ、こくりと頷いた。
「こやつは、ウィームにはいらないと思います。因みに、中に人間などは巻き込まれて入っていませんよね?」
「うん。中身は藁束と、それを動かす為の祝福だけのようだ。………どこかに飛ばしてしまうかい?曖昧な存在だから排除するのは難しそうだけれど、転移はかけられると思うよ」
「……………お願いしてもいいですか?」
根本的な解決にはならないが、これはもう見なかった事にしようと、黒案山子逃げ沼風な生き物は、速やかにウィームの地から移される事になった。
念の為に、ピンブローチの魔術通信端末からエーダリアに連絡をすれば、そんな特異体はとても見たいと荒ぶったエーダリアが、勿論、ディノに安全確認をして貰ってからではあったものの駆けつけてしまう。
「この状態は初めて見るな………。逃げ沼も、こうして他のものと融合する事があるのか…………」
「エーダリア様、もうご満足されましたか?儀式の時間もありますので、あまり長居は出来ませんよ」
「…………ヒルド。………そうだな。惜しいとは思うが、本体は逃げ沼なのだから、捕縛する事も出来ないだろう。何とか隔離したところで、日が変われば消えてしまう………か」
「え、これを持って帰るのはやめた方がいいって。凄い匂いがして油っぽい泥なんだよ?!」
「……………そうか、お前は知っていたのだったな」
「ふぇ、こんな物は早く捨てるべきだよ。ここには、遊べる死者もいなかったし…………」
「…………もしかしてヨシュアさんは、昨年の事件を参考にして、ここであれば死者さんが来ると思って、ウィームを訪れていたのですか?」
「そうだよ。死者を空から落として遊ぶんだ」
「めっ!いけません!!ウィームでそれをやったら、あの逃げ沼めに向かって突き飛ばしますよ!!」
「ふぇぇぇ!」
死者とは言え、かつてはウィームの領民達だったものだ。
人型を保ち、地上に上がって故郷を目指す者達を、人外者の気まぐれで損ないたくはない。
知らずに失われるものはあるだろうが、ウィーム領主の下で働く職員として、こうして防げるところでは防がねばなるまいと、ネアは、死者で遊ぶなら他の領地にし給えと身勝手な人間らしい要求をする。
すっかり叱られてしまったヨシュアは声を上げて泣いていたが、その間に逃げ沼案山子はウィームから離れたとある領地の山中に強制移動させておき、エーダリアの野外研究も短い調査の幕を閉じる。
「ウィームの死者さんでは遊んではいけませんよ?ただし、我々が特定の死者を邪悪指定をした場合は、不問とします」
「ふぇ。他の領地ならいいのかい?」
「そちらの領地の方と死者で遊ばないというお約束をするまでは、ヨシュアさんご自身の問題としてお好きにどうぞ。ただし、その際には、ウィームでは禁じられているという事は口外してはなりません」
「うん……………」
「ただし、そうして禁じられることで、耐え難い不快感に苛まれるようであれば、また話し合いましょう。私は、ヨシュアさんにとって死者で遊ぶという行為が、どれだけ重要なことなのかを知らないのです」
ネアがそう付け加えると、ヨシュアは銀灰色の瞳に涙を溜めたまま、こくりと頷いた。
エーダリアは、凄い約束だなと慄いていたが、選択肢がある内は、やはりウィームを大事にしたい。
ヨシュアとて高位の魔物であるので、こんな交渉が通用しない場合もあるだろうが、ネアの歌声や逃げ沼案山子に怯えていた今であればと持ち掛けておいて良かったと、ネアはふすんと息を吐く。
「では、私達は帰路の見回りをしながら、リーエンベルクに帰りますね」
「ああ。すまないが宜しく頼む」
「はい。留守は任せて下さい。ヨシュアさんは、木の上から落としてしまったお詫びに、戻ったらお茶でも淹れて差し上げましょうか?」
「うん。僕の事をもてなすといいよ」
エーダリア達は、この後は大聖堂での儀式が控えている。
こちらについては、ネア達は出席出来ないというよりは、出席の必要がない儀式なので、その間はリーエンベルクで留守番をするのが仕事だ。
幸い、昨年までは泥人形事件が相次いでいたものの、今年は今のところ誰も被害者が出ていない。
慰労も兼ねてヨシュアを連れ帰ってしまえば、いざという時には頼りになるかもしれないので、こちらもいい出会いだったと言えよう。
ネアがそう思っていた矢先の事だった。
「このまま大聖堂に向かった方が良さそうだな。……………ヒルド?」
「もしかしますと、そこにあるのは………、」
ヒルドが何かを言いかけた直後、ぼしゃんという悲しい音がした。
「ふぇぇぇぇ!!!」
そこには、咄嗟に手の伸ばしたディノが腕を掴んでくれたので転落は免れたものの、片足を逃げ沼に踏み込んでしまった悲しい雲の魔物の姿がある。
べっとりとした泥に踏み込んでしまい、またしても声を上げて泣き始めたヨシュアは、すっかりくしゃくしゃだ。
雲の魔物なのにこうも簡単に逃げ沼に落ちるのかとその姿を呆然と見ているエーダリア達には、後は任せるように言って仕事に送り出し、ネアは、腰に両手を当てて泣きじゃくる雲の魔物を眺める。
まだ帰り道の見回りが残っているのだが、片足だけとは言え、膝上まで泥まみれな魔物を連れて歩くのは、なかなかに大変そうだ。
さてどうしたものかなと首を傾げ、ネアはリーエンベルクまでの距離を思うのだった。