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52. 月の花畑で再会します(本編)




ネア達がホテルを出たのは、夕刻のことだった。



延泊の可能性を伝えておいたからか、ホテルフロントの女性から、満月の夜のお出かけは妖精達が獰猛になるのでご注意下さいと言って貰い、ネアは神妙な面持ちで頷いた。



上手くいけばタジクーシャとはおさらばで二度とここには帰らないのだが、万が一のことも考えてチェックアウトはしない方針だ。


明日の午前中までは宿が押さえられていることになるので、失敗した場合は宿に戻って対策を練ることになるのだろう。


このホテルは、隅々まで気配りが行き届いており、従業員の感じも良くて気に入っているのだが、如何せん宿泊費用が高過ぎる。



(だから、絶対に帰ってみせるわ…………)



月下の花畑への通行料は心が砕け散るくらいに高額なので、ネアは絶対に失敗しないし、邪魔する者がいれば抹殺するという覚悟を決めている。


ポケットにはきりんシリーズを何種類も仕込み、激辛香辛料油の水鉄砲、祝福石のハンマーも手に持った。

ネアがハンマーを持ったままでいると銀狐は震えてしまうのだが、悪さをしようと近寄ってきた妖精はその瞬間に粉々にする所存だ。



「ネア、そのハンマーは手に持ったままでいいんだな?」

「むぐる…………」

「はは、そのくらいの意気込みの方が、羽目を外している妖精達も近付き難いかもしれないな。ただ、宝石妖精には砕き方があるから、気付いたら俺に教えてくれ」



さらりとなされたその発言の不穏さに、ネアは目を瞠った。


微笑んでさぁ行こうかと手を伸ばしてくれるアレクシスは、どうやら宝石妖精は砕いて狩る方式であるらしい。

それを聞いた銀狐はけばけばになってしまい、ネアはもふんと口元に当たった震える尻尾をそっと片手で押し下げた。




こつこつと、靴音が落ちてきたばかりの夜に響く。



雨上がりの日のように澄み渡る夜空なのに、靴先に月光が絡まる不思議な濃密さがあり、足取りは軽やかだが、不思議なおぼつかなさがあるのが、あわいらしい感覚なのだろうか。



「………月の光が、光のヴェールのようですね」

「タジクーシャの街は、月光を反射させるものが多いからな。満月の夜は思っていた以上に明るいだろう?」



空の色が夜を迎えれば、降り注いだ月光がひたひたと霧のように足元に湛えられ、タジクーシャの夜は相変わらず美しかった。



家々は、壁や窓の宝石が月光を蓄えて昼間とは違う色に見える。


温度のない風にざわざわと揺れるのは、ふくよかな緑色の街路樹の葉で、宝石化しかけている葉には大輪の花のような見事な満月が映っていた。


初めて通る道にはアクアマリンのような宝石で作られた水路があり、流れてゆく水にも夜空と満月が映っている。

水路の縁で咲いているのは、ピンク色のポピーのような可愛らしい花だ。



通りは無人ではなかったが、市場に出かけた昨晩と比べると明らかに人影が少ない。

明かりをつけてまだ営業している店も見えるのに、不思議と生き物の気配が薄いのだ。



(満月の夜だから…………?こんなに美しい夜なのにと思ってしまうのは、無用心なのだろうけれど…………)



それでも美しい夜なのにと思っていると、がしゃんと、どこか遠くで不吉な音が聞こえた。


路地の奥の方からだと気付き足が止まりかけたネアは、すすり泣くような声が聞こえ、慌てて歩調を早めた。


そんな音が、近くにある食堂から聞こえてくる男達の陽気な歌声に掻き消される。

聞こえてくる歌声はカンツォーネのようで、妖精の宴独特のそら恐ろしい気配がないのであれば、タジクーシャを訪れている商人達のものだろう。



(外出を控えている人達もいるけれど、飲み屋さんみたいなところには意外にお客がいるみたい……………)



この街で存分にお酒を飲むとなれば、どれだけのお金が必要なのだろう。

そう考えてぞっとしたが、初期費用をしっかりと持ち込み、後はタジクーシャ内で運用すれば、実はそれなりにやってゆけるのかもしれない。


そう言えば、タジクーシャで商人達が買い付けてゆく宝石の価値を知らなかったことを思い出し、ネアは、絶対に花畑の花を一輪持ち帰ろうと心に誓った。



商人達はしたたかだ。



という事は、きっとこのタジクーシャには、彼等がそれでもと買い付けに訪れるだけの価値のあるものが売られているに違いない。



(そんな大切な事に、今の今まで気付いていなかったなんて…………!)



「……………アレクシスさん、これから向かうお花畑の花は、貴重なものなのですか?」

「スープの材料としてはあまり価値がないが、宝石としての価値は計り知れないだろうな。一本くらい手折ってもわからないだろう。せっかくだから土産にしたらどうだ?」

「むむ。吝かではありません………」



さらりと花泥棒を推奨してくれたアレクシスに、ネアは、しめしめとほくそ笑み頷いた。


その花が高額で買取されれば、アレクシスに負担して貰ったお金に加え、本来なら支払わなくても良かった筈の支出なのだから勿論お返しするつもりな、アレクシスの花畑への入場料も安らかな気持ちで支払えるだろう。



ネアは幸運な人間だ。

だから、これ迄に手に入れてきた品物や獲物を換金すれば、このタジクーシャで使った総額より多くの貯蓄はある。



けれどもそれは、まさに今回の事のような事件の際に使う蓄えとして、ある程度の額は常に動かさずにいたいものでもあった。


身も蓋もない言い方をすれば、魔術を扱えないネアにとっての財産は、守護や祝福と同じような身を守る手段であり、心地良さや安心を買える手立ての一つである。


損失を補填出来る機会があれば日々の暮らしに不安を抱かずに済むし、同時に、ただやり込めやられただけという悔しい思いで帰らずに済むのだ。


そう考えると荒ぶる思いに駆け出したくなったが、本当にその花を摘んでも安全かどうかも含め、安易に欲をかかないようにも気を付けよう。



しゃりんと、どこかの家の軒先に吊るした宝石飾りが澄んだ音を立てた。



ネア達が歩いたのは、真っ直ぐな菫石の石畳の大通りから、水仙の咲き誇る灰青石の小道、沢山の小さな宝石細工の店がひしめき合う黄水晶の坂道を上り、もう一度、今度は青玉の広い石畳の道に出る。



「……………ほわ」



その道はとても暗かった。


見事な木々がアーチのように生い茂り、すっかり月光を遮ってしまうからなのだが、突然の暗さにネアは慌てて目を瞬く。


けれども、木々の向こうに銀水晶の素晴らしい装飾柵がちらりと見えれば、ネアは、一軒家程の入場料を毟り取られる憎っくき花園をこの目に収める瞬間をついつい待ち侘びてしまった。



「これは、夜結晶の木々だな。葉先が硬いから、手を切らないようにした方がいい。…………ネア?」

「…………黒に近い濃紺から青紫色に変化する宝石の枝は、とても素敵なものだと言わざるを得ません。ちょっぴり、ディノとノアの色にも似ているのです…………」



さっとハンマーを構えたネアが悟りの微笑みでそう言えば、アレクシスは成る程と頷くと、どこからか、メスのような細い刃のついたバイオリンの弓に似た不思議な道具を取り出した。


糸鋸のようにも見えるが、鉛筆くらいのものなので、枝に触れたらぱりんと割れてしまいそうな繊細さに見えた。



「…………まぁ、さっくり切れてしまうのですね!」

「この枝でいいか?葉で手を切らないように氷の魔術で覆ってしまうから、帰ってから溶かして取り出すように」

「はい。アレクシスさん、有難うございます!」



アレクシスは、いとも簡単に肘から指先くらいまでの枝をさくりと、スポンジケーキを切り分けるようにして落としてくれると、そのまま魔術で氷の塊梱包にして、陽光以外では溶けないようにまでしてくれた。


喜びに弾んだネアに目を細めて微笑みかけると、銀狐にも欲しいかどうか尋ねているので、こちらの不正冬毛な生き物にもすっかり甘くなってしまったようだ。



(あ、……………花の気配がする…………)



さわりと、夜の向こうで一面に咲いた花々が風に揺れたような気がして、ネアはどきどきしている胸を押さえる。


そのまま木々の切れ間を目指して歩いてゆくと、まるで流星が落ちてきた場所に向かうかのように、木々の向こうが青白く光っているのが見え始めた。


よく見れば、石畳の道を横切るように細い川が庭園の方に流れており、その水面には満天の星と月影が映っている。

夜空を溶かして流したような美しさに、ネアはその水面を瓶で掬いたい欲求をぐぐっと堪えた。



(そう言えば、途中で同族狩りかなという気配もあったけれど、やけにあっさりここまで来られてしまったような…………)



アレクシスに手を繋いで貰いここまで歩いてきたが、道中でもネア達を呼び止めるような者はおらず、あれだけ警戒していたのは何だったのだろうと拍子抜けしてしまった事は否めない。



だけどやはり、どこかに不穏さが揺れる。

その静かな冷たさを首筋に感じたまま、ネアはとうとう、庭園の入り口までやって来た。




「……………これは」



如何にもここは素晴らしい庭園ですと言わんばかりの紫水晶の門が、目の前に聳え立っている。


石塀と円柱と装飾格子を組み合わせた造形の美しさは、リーエンベルクの正門にも少し似ていて、月の輪郭すら透かしてみせる円柱に使われている紫水晶の透明度の高さに、堪らず目を丸くしてしまう。



そしてそこには、ひっそりと石の門番が二体、佇んでいた。



(……………門の向こうには、花びらの纏う光が星空のような素晴らしい花畑が広がっていて、そんな庭園への入り口に、こんな美しい石像があるなんて、まるで物語のようだわ…………)



そう思って月の光を浴びた石像をしげしげと見つめたネアは、もしやと思ってアレクシスを振り返る。



「これは…………」

「かつてこの花畑を奪おうとした宝石妖精が石にされたものらしい。…………ほら、ここに書いてある」

「むむ、石碑のようなものがありますね。王族の守る月下の庭園に勝手に屋敷を建てようとした罪………さすがに犯行が大胆すぎるのでは…………………」

「こういう時に、人外者の理解出来ない浅慮さというか、高位さに見合わない無垢さのようなものを感じるな…………」

「……………今の私は、これ迄誰とも分かち合えなかったその謎に、私以外のひとが気付いていると知って、とても幸せな気持ちです……………」



多くの人間は、それを、人外者だからこその高慢で強欲が故と捉えるだろう。


けれどもネアはいつも、そんな人外者達の計画性皆無の荒ぶりように、どこか無防備なものを見てきた。

やっとそれを理解してくれるひとが現れ、ネアは俄かに上機嫌になる。



「通行料はここに支払うらしい」

「まぁ、この石にされた妖精さんの手のひらに…………?」



石碑に記された通りに、まずはアレクシスが自分の分と銀狐のお金を。

そして取り残されないようにネアも断腸の思いで、大金を石の妖精の手にそっと乗せた。




するとどうだろう。




夜を紡いで糸にしたハープのようなえもいわれぬ音がしゃらんと響き、重たい門扉がぎぎっと開き始める。


ネアはアレクシスに手を引かれてそこを通り抜けながら、少しだけ気になって元来た道の方を振り返ってみた。



「怖っ!」

「ネア、どうした?」

「………ぎゅ。女性の方の石像さんが、振り返ってこちらをじーっと見ているのです……………。これは監視されているのでしょうか…………」

「いや、…………俺達じゃなくてこっちだな。狐が気になるらしい」

「まぁ、狐さんは、自分が標的なのだと知ってしまい、けばけばになりました………」



石像兼門番にされた女性の妖精は、どうやらふかふかの銀狐が気になってしまったらしく、体を捻って門の隙間からこちらを覗いてくる石像に、自分のことを見ていると気付いた銀狐が震え上がる。


毛皮生物が愛くるしいのは世界共通事項だが、石像姿で凝視されるとなかなかホラーな映像だ。




ざざん。



優美な門を抜けて庭園に入れば、ちょうど吹き抜けた風に満開の薔薇の茂みが揺れる。

ネアは目を瞠り、その美しい光景をただ見つめるばかりだった。




(何て美しいのかしら……………)



どこまでもどこまでも、広がるのは宝石の花々の咲き乱れる月下の庭園だ。



花畑の花は三種しかなく、淡い水色の薔薇ともう少し深みのある青の百合、そしてこっくりとした紫色と淡い紫、黄色の組み合わせの可憐な三色菫。


それ自体が観賞用にもなる美しい葉を茂らせる他の植物もあるが、宝石の花が月光を受けてきらきらと光るので、その輝きを受けて花々を彩る影の役割を果たしている。


風が吹くと花びらが散り、地上をけぶらせる月光がいっそうにあたりの景色を曖昧に霞ませる程の眩さであった。



そんな庭園の小道へ足を踏み入れるのは恐ろしいような気もしたが、ネアはこちらを見て頷いたアレクシスに頷き返し、ゆっくりと花々の間を歩き始める。


花の近くを歩けば、花びら同士の触れ合う微かな音が聞こえてきて、ネアはしゃりしゃりと風にさざめく花畑で立ち尽くしてしまいそうになった。



「…………他にも綺麗なものは沢山ありますが、あまりにも幻想的で圧倒されてしまいそうです……………」

「満月の夜の度に月光を蓄え、ここの花々は祝福結晶としての要素も強く持っているんだろうな。そうなれば、魔術的な階位も高くなる。ネアが気圧されるのは、魔術的な要素からくるものだろう」

「…………だから、これだけ綺麗でうっとりしてしまうのに、ここでのんびりお茶をしたいなとは思わないのですね………」



薔薇はしっとりと濡れたような輝きを帯び、百合はその輝きで夜闇を切り裂くよう。

ほわりと光る三色菫は可愛らしく、アレクシスの足取りは決してのんびりとはしていない。



満月の夜にだけ、この庭園に現れる小さな泉がある。

その泉こそが、ネア達の帰り道の扉になるのだそうだ。




「百合の階段を抜けて、大きな山査子の木の下の菫の花畑を通れば、………ああ、あの薔薇の茂みの向こうだ。……………ネア。絶対に俺の手を離すなよ?」

「アレクシスさん…………?」



不意にそんなことを言ったアレクシスに、ネアはぎくりと体を揺らした。

肩の上に乗った銀狐が、ぎゅっとしがみつくのがわかる。


両手で抱き締めていたいので不安はあるものの、片手はアレクシスと繋いでいなければなので、銀狐自身に頑張って貰うより他なく、出がけにアレクシスが繋ぎの魔術で銀狐が落ちないようにしてくれていた。


言葉にするとあんまりだが、目には見えない魔術のおんぶ紐がある状態なので、随分と落ち難くはなっているらしい。



「………………っ、」



ぎゃん、と耳元の空気が鋭くうねった。

ネアが息を飲む事しか出来なかった僅かな時間の中で、アレクシスはどこからか取り出した蓋つきの持ち手がかなり長い柄杓のようなものを手にし、そこからつつっと何かの液体を地面に注いだ。




「…………な?!」



その途端、ばきばきと音を立てて地面が盛り上がった。


土や足元の草地の部分が大きく隆起して結晶化しながら、どこからともなくネア達に襲いかかった誰かをぶわりと飲み込んでしまう。


呆然と目を丸くしているネアの隣で、アレクシスはその怪異を引き起こした不思議な道具を手に、黒紫色の瞳を眇め冴え冴えと笑った。



「はは、いい飲みっぷりだ。受け皿としての魔術基盤が出来ている土地は、やはり素直だな」



一人の妖精をぼりぼりと地面に食わせてしまっておいて、飄々とした淡白さが際立つまるで研究者のような声音は、そんなアレクシスに向かい合った者達にとってはどれだけ得体の知れない恐ろしさだろう。



いつの間にかネア達を取り囲んでいたのは、一人の味方を失った五人の妖精達だ。


四枚羽でそれぞれに宝石質の鮮やかな色を持つ、いかにも宝石妖精という者達である。


剣や槍のようなものを持つ妖精と、何も持たないが魔術師なのだろうなという立ち姿の妖精がいて、互いに攻撃の連携は取れているようだ。


けれどもそんな妖精達を一瞥すると、アレクシスはネアの手を引いて先程の続きの一歩を踏むようにして、また泉に向かって歩き出すではないか。



「…………貴様、」

「灰色持ちの魔術師であろうと、所詮は人間の魔術ではないか。我等から逃げ果せるとは思うなよ?」



襲撃者の中でも気の短そうな二人の妖精が気色ばみ、アレクシスは唇の端を僅かに持ち上げる。



「合法的に宝石妖精を持ち帰れる機会が、また得られるとは思わなかった。実はな、五十年ほど前にスープにした宝石妖精は、なかなかにいい仕上がりだったんだ。いつか狩れないものかと考えていたが…………」



時として、それは例え妖精達であろうと、生き物は絶対的な危険を本能で嗅ぎ分ける事があるのだろう。


その直後にネア達に襲いかかった妖精達は、先程までの連携をかなぐり捨てて、まるで恐怖に駆られて飛びかかってきたかのような感じがした。


勿論そんな状態で冷静な攻撃など出来る筈もなく、アレクシスは手にした道具をついっと振り、空中に振り撒かれた液体の軌跡が円を描く。


ネアが視認出来たのはそこまでで、不思議な液体の円環の中に守られて目を瞬けば、後はもう、飛びかかってきた妖精達が一瞬で宝石の塊になってがしゃんと地面に落ちるのをただ呆然と見下ろすばかり。



「……………まぁ。宝石になってしまいました」

「タジクーシャでは、街を訪れた商人達が徒党を組んで宝石妖精を狩らないように、来訪手続きの際に、宝石妖精を殺してはならないという誓約が結ばされる。ただ、唯一の例外は、宝石妖精がこちらを傷付けようとした場合だ。…………思っていたよりも統制が取れているらしい。二度目の襲撃まで随分と時間がかかったな」



そう呟いたアレクシスに答えたのは、ネアではなかった。




「仕入れの邪魔になるからと、白灰色を自ら纏っているお前のせいだろう」

「それは当然だろう。俺は元々、宝石の果実を仕入れに来ているんだ」

「かつて、宝石にしようとした妖精達を、二十人近くも宝石に変えて持ち去った魔術師のことを、そうそう忘れる者もいまい。タジクーシャは、つくづく灰色持ちの人間の魔術師に悩まされる運命であるらしい」



花畑に立ち、そう微笑んだのは、大きく羽を広げたデジレだ。



擬態は解けたものか、息を飲むような不思議で凄艶な光を孕む黒い羽は六枚羽で、この妖精がシーであることを示していた。


その色は漆黒のままだが、最初に見た黒とはまるで違う。



「デジレ、十日ぶりか」

「……………よりによってお前が、その娘を保護するとはな。人間が同族にそこまで同情的だとは聞かないからには、元々顔見知りだったようだ」



デジレは、焦るでもなく泰然と花畑に立ち、時折風が吹き抜ければ気持ち良さそうに目を細めて夜風を楽しんでいる。


ここに現れたものの、先程の襲撃者達の仲間だという感じはせず、困惑したネアは、ただひたすら事の成り行きを見守ることしか出来ない。



「俺にとっては娘のようなものだ。手を出されたのは不愉快だと言いたいところだが、…………少し腑に落ちない要素が大き過ぎる。お前は確か、魔物達と不可侵の契約を結んだ筈だ」

「…………それをお前が知っている事がそもそもの驚きなのだが、そちらも顔見知りか。私が思っていたよりも、外の世界は狭いらしい」

「やはり、それを承知の上で彼女を攫ったのか」




(……………え?)




その言葉にぎょっとし、ネアは思わずデジレをまじまじと見てしまう。

僅かに目が合った気がしたが、デジレが見据えているのは、ほんの一瞬で五人の妖精達を宝石に変え、結果として六人の刺客をあっさり無力化してしまったスープの魔術師であった。



「ウィーム領主を狙ったのは本当なのだが、この人間の方が守護が頑強そうだったからな。…………可動域の低さは当てが外れたが、こうして無事に前王派が出て来た事だ。スフェンへの牽制には充分だろう」

「あの副官が暗躍しているのか…………」

「さて、私利私欲の策謀なのかすら、まだ突き止めてはいないからな。案外俺の為なのかもしれんが、さすがに万象の伴侶を殺されると俺としても煩わしい」



二人の会話を聞いていれば、アレクシスとデジレは、確かに二人で飲む事もあると言うだけあってどこか親しさを感じさせる口調だった。



(……………その、スフェンという人の企みを挫く為に、私を攫ったという事なのだろうか………………?)



だが、それだけでいいのなら、リーエンベルクの前まで来ていたのだし、正式にこちらに相談を持ちかければ良いではないか。


ヒルドはデジレの顔を知っていたようだったので、完全に見ず知らずの他人という訳でもない筈だ。



「……………あの男が、万象の伴侶と知ってそれを狙う程に浅慮には見えなかったが」

「それさな。あれは狡猾だからな。獲物は、この娘とウィームの領主のどちらかだったようだが、その人間達にどれだけの守護があるのかを知らずに、迂闊にもヒルドをこちらに呼び寄せる為の囮にしようとしたのであれば、準備が甘いと言わざるを得ない…………が……」



言外に、デジレは、それはないだろうと考えているのが伝わってきた。



「……………あなたは、その企みを挫く為に私をここに連れて来たのですか?」


ネアが尋ねられるのはそれくらいだったが、ネアとて迂闊に連れ去られたことで多くの人達に迷惑をかけているのだ。

それくらいの回答は持ち帰らなければ割に合わない。


しかしデジレは、そんな風に問いかけたネアを、呆れたような目で見るではないか。



「ヒルドを釣り上げる為だと言わなかったか?偽りは話していないぞ」

「……………むむ?では、人違いをしたふりで、私を攫ったという訳でもないのですね?」

「敢えて性別も変え、領民の娘に擬態した領主だと思い攫ったが、お前は別人だった。であれば、その頑強な守護があるのは、ウィーム領に暮らすという万象の伴侶くらいしかあるまい。だからこそ、街に一人で残していっても平気だと思い、資金だけ提供してやり好きにさせていたのだが、あの宝石は使わなかったようだ。無駄な警戒心で大金を失ったな」


その言葉にぴっとなったものの、ネアは、それもまた承知の上であるかのように冷静さを装った。

使っても問題のないものであったと判明したら、お風呂場でこっそり泣けばいいのだ。



「…………見ず知らずの、それも誘拐犯めに渡されたお財布を、か弱い乙女に警戒せずに使えという方が、無理があるとは思わないのですね」

「……………お前の右手はなんだ。ハンマーではないか」

「まぁ、これは正当防衛に必要な武器です」



そんなネアの主張に溜め息を吐くと、ふっと唇を吊り上げ、デジレは艶やかに微笑んだ。



「さて、無駄話をしていると道が閉じかねんな。さっさと帰れ。……………お前の魔物達や、ヒルドには、損なうなと言われた者が損なわれないように手を打ったと伝えておけ。その証拠に、契約の魔術は動きもしなかっただろう?」



行ってしまえと言わんばかりに手を振ってみせたデジレに、ネアは夜闇が光を放つような、艶やかで眩い黒の美しさに見惚れてしまいそうになり、月光に光りさざめく花々の中では暗く沈んでしまいそうなこの漆黒の妖精が、その花々よりも遥かに眩いのだと知った。



王かどうかと言われればそこまでの断言は出来ないが、その凄艶な美貌と存在感は、やはり普通の妖精などではありえないシーそのもの。


そして、酷薄で残忍な気質を持つ魔物達にも似た老獪な気配と獰猛さは、デジレ独自の気配であった。



「でもそれは、あなた自身が必要なものを炙り出す為に、私を利用し損なった事に違いはないのではありませんか」



一度アレクシスの方を見て、話しても構わないと頷いて貰ってから、ネアはそう切り出した。



「あの場で、私がお前達にその疑念があるのだと伝えたところで、その会談が正式なものであれば、お前達を狙う者は息を潜めるばかりだろう。今回は見送ったとしても、また次に門が開いた時に奴等はその牙を剥く。また、私がお前達と共謀し愚かな同族達を罠に嵌めれば、私は他の種族の意向に膝を折り、同族を売った薄弱な王として周知される。タジクーシャは宝石の街だ。我等の統治力が弱まれば、容易く蹂躙の対象になる」



(その通りだわ。この人の判断は王として正しいし、自分で動けるだけの力があれば、デジレさんの行動は今の説明で理解出来る………)



「……………今の説明であなた方の状況は想像出来たとしても、それは、私にとっては知ったことではないというものに過ぎません。私は、残念ながらたいそう利己的な人間ですので、あなた方の理由などと切り分けて考えてしまうのです。一刻も早く帰りたいので、あなたの思惑通りにここを去りますが、………私のこの言葉に不快感を示しもしないあなたには、きっと他の、恐らくもっと大事な目論見もあるのでしょう」

「ほお、………」



ネアがそう言えば、デジレは微かに眉を持ち上げ愉快そうに微笑んだ。



ネアがこちらの存在を低く見せようとしていた時、この妖精は既にネアの正体に思い至っていたのだろう。


であれば、デジレが、ただの厄介払いでネアを自由にさせていたのではなく、もし何かの陰謀に利用せんとしていたのなら、興味がなくなったふりをして泳がせていたその思惑に、ネアは容易く引っかかって大変な事になっていたかもしれない。



(だからここで、…………私はこの人への対処法を切り替えなければいけない)



最初の一手を誤ってしまった場合、会話の中の魔術の証跡を利用されないように、その思惑を受け入れるのは承服しかねるという言動を残しておかねばならないのだと話してくれたのは、女性問題で刺されてしまいがちな義兄だった。


女性関係に奔放であることで有名な塩の魔物の恋人の中には、隙あらば永続的な契約を魔術で結んでこようとする、たいそう頭の切れる女性もいるようだ。



「なお、私や私の大切な人達が利用されるのも御免ですし、ヒルドさんは差し上げません。どうしても会いたいのなら、正式にもう一度招待状を出されては如何ですか?」

「もう一度自身の領域を持つべきかどうかは、ヒルド本人が決めることだと言いたいところだが、………羽色を変えたのであれば最早それも叶わぬか。万象の伴侶を庇護するとは、共に王位の責務について語った昔とは違い、無謀なことをするようになったものだ」



どこか遠い目でそう呟き、デジレは冷ややかな目でネアを一瞥した。



「お前がヒルドの庇護を受けていなければ、ここで前王派の連中に篭絡されたことにして、妖精の粉で心を壊してしまっても良かったんだがな。魔物は伴侶を損なわれる事には敏感だが、人間の伴侶はそれ以上によく魔物を裏切ると聞く。お前に裏切らせれば問題なかった」



その言葉に銀狐が小さく唸ったので、ネアはただの嫌がらせですよとふかふかの胸毛を撫でてやった。



(でも、妖精の粉で………?心を壊すくらいに依存性の高い美味しさの粉が、ここにはあるのだろうか………)



宝石妖精のものともなれば、綺麗そうだが、じゃりじゃりしそうであまり美味しいという印象は持てないと考えるネアは、不可解な思いに眉を寄せる。



アレクシスが静かだなと視線を向ければ、宝石にしてしまった妖精達を回収しているようだ。


不思議な絨毯のようなものをばさりとかけると、あっという間に宝石になった妖精が消えてしまったので、金庫の魔術の一部なのだろうか。



(でも、今の会話で、この人の目的までは分からないにせよ、誰を見ているのかだけは、分かったような気がするわ…………)



「………あなたは、………選定の儀なんてものはどうでもよくて、ヒルドさんが欲しかったのですね。であればやはり、招待状はさて置くにしても、もう一度仲良くしたいのだとヒルドさんに素直に言うべきではないでしょうか?」

「……………その程度のものを得る為に、ここまで労力を割く必要があると思うのなら、お前は、俺の評価よりも遥かに愚かな人間なのだろうな」

「あら、それっぽっちの為に、もっと大騒ぎをする方々もいらっしゃいますよ。…………ただ、その、それ以上の思いがあるとなると、私ももう野暮なので黙りますが、きちんとしたお話し合いの道筋をつけるべきなのは変わりません」

「……………野暮?」



ここでなぜかデジレが眉を顰めたので、あまり気付かれたくなかった執着なのだろうか。


そこは誤魔化しきったつもりになっていて貰おうと追及しないことにし、ネアは片手で持ったハンマーをさっと振り下ろした。



その直後、がしゃんという音がして、ネアの背後から忍び寄っていた妖精が粉々になる。




「七人目か、まだ動くとはしぶといな……………」



そう苦笑したアレクシスは、背後にあった百合の花壇に潜んでいた妖精も、しっかり宝石化してしまっていたようだ。

ただし、百合の花影に隠れられてしまい、宝石化が甘く、まだ辛うじて動けたのだろう。



ネアは、リーエンベルクで借りたものに、とっておきのウィリアムの祝福を付与して貰ったハンマーの威力も確認出来てふんすと胸を張ったが、足元で粉々になってきらきらと光る宝石を見て、さあっと青ざめた。


こうなってしまうと、拾い集め難いだけではなく、スープの材料の品質上、丸ごとでなければいけなかった場合は、使い物にならなくしてしまったことになる。



「は!うっかり粉々にしてしまいましたが、スープにするのに支障はありませんか?」

「ああ。砕く分には問題ないが、せっかく一人倒したんだ。ネアが持って帰るか?」

「むむ。…………こやつの欠片は売れますか?」

「恐らくかなり高値で取引きされるだろう」

「で、では欲しいです!お花も摘みますが、この宝石もあれば、きっと今回の損失は………」



そんなやり取りの中で視線を感じて顔を上げれば、何とも言えない顔をしたデジレが、ネア達を困惑したような目で見ているではないか。



「…………宝石妖精の王の前でする話か?」

「こちらに危害を加えるものがいれば、遠慮なくスープの材料にすると、前に話しただろう。ああ、それと彼女から預かっていたこの石はお前に返しておこう」

「まっとうな慰謝料なのでは……………」

「……………どちらも強欲な人間らしい返答か。手折っていい花は三輪までだ。さっさと帰れ」




ばさりと、風の音とも違う音が聞こえはっとすれば、デジレの姿はもうどこにもなかった。



確かにもうこちらに用はないのだろうなと考え、ネアは重々しく頷く。




「この宝石を拾って、薔薇と百合と菫をそれそれ一本ずついただいたら、もう帰れそうですよ、狐さん。……………むむ、なぜ震えているのだ」

「ネアがハンマーを振り下ろしてからは、ずっと震えているみたいだな。さて、王からの許可も下りたことだ。折角だから俺も花をいただいておこう。いいスープにはならないにせよ、上手く加工すれば調味料にはなるかもしれないからな」



デジレは、二人で三輪までだとは言わなかったので、アレクシスは各自三輪ずつだと捉えたという体でゆくらしい。


ネアが、金庫から取り出した箒とちりとりで宝石を搔き集めている間中銀狐は震えていたが、一輪と呟きながら、ネアが花を一輪しかつけていない薔薇の株を、根元からえいやっと引っこ抜けば、いっそうに震えが激しくなったようだ。



菫は残念ながら本当に一輪だけだったが、百合も同じ手法で株ごといただくことにする。

アレクシスは笑って、ネアは逞しいなぁと褒めてくれた。




月光を蓄えて明るく輝く宝石の薔薇の茂みを抜ければ、鏡のように静謐な新円の泉があった。



菫の花畑の中にあるその美しい泉に、アレクシスと手を繋ぎ飛び込むと、ふわりと足元から温度のない魔術の風が吹き上がる。




(転移のようだわ……………)




冷たい水が肌に触れることもなく、新円の泉に映る満月の中に飛び込むような不思議さに、ネアはぎゅっと閉じていた目を開いた。




「ネア!」



てっきり、泉の中の風景が見えるのかなと思ったネアだったが、その直後飛び込んできた真珠色の魔物にぎゅうぎゅうと抱き締められた。



気付けば、さりさりとした砂地の地面に立っている。



「ディノ?!……………まぁ、ここはもう、タジクーシャではないのですね………?」

「サナアークの近くだよ。アレクシスからこの辺りに出るだろうと言われていたから、ここで待っていたんだ」



そう言ってそっと頬を撫でてくれた魔物に、ネアは安心してその胸に体を寄せた。

大好きな魔物のいい匂いがして、心の中の怯えが、もろもろと剥がれ落ちてゆく。



「ふぎゅ。ディノです……………」

「……………君が無事で良かった。…………アレクシス、この子を守ってくれて有難う」

「いや、俺としても、ネアに何かがあったら困るからな。こうして声をかけて貰えて良かった。今夜はこちらも月の光の質がいい。タジクーシャから持ち帰った梨を月光に晒したいので今夜は失礼させて貰うが、今回の件の共有も兼ねて、また近く、リーエンベルクを訪ねさせて貰おう」

「うん。そうしてくれるかい?エーダリア達にも伝えておこう。………それと、ヒルドが、くれぐれも君に感謝を伝えて欲しいと話していた」



ネアを抱き締めたままそうお礼を言ったディノに、アレクシスは微笑んで頷き、ネアには、スープの約束はその時になと言ってくれる。


慌てて、向こうでのあれこれはその時に清算させて下さいと言ったネアに、アレクシスは目を細めて怖い顔をしてみせると、その必要はないときっぱりと首を振った。

そのまま、スープの魔術師は魔物のように鮮やかな転移で、ふわりと転移で消えてしまう。



「たいへんな金額なのですから、色々とお支払いしないといけないのに……………」

「アレクシスがこちらに来た際に、私から話をしておくよ。……………ノアベルト、君もこの子を守ってくれて有難う」



そう言われた銀狐は、涙目で尻尾を膨らませると、ムギーと鳴いてディノの肩に飛び移っていった。



戻ったこの場所はサナアークの近くだと聞いていたが、夜の砂漠は青白く寒いくらいで、先程迄のタジクーシャの事は、夢でも見ていたのではないかという気持ちになる。


アレクシスの言う通り今夜は見事な月夜で、遠くの砂丘を歩いてゆく商隊が見えた。




「…………ディノ、ただいま帰りました。今回は怪我もしていません」

「うん。お帰り、ネア。……………さて、リーエンベルクに帰ろうか」

「はい!損失をどうにかするべく、ハンマーで粉々にした宝石妖精さんは、明日にでもアクスに売らなければいけませんが、ディノや、エーダリア様には、宝石の枝やお花のお土産もあるんですよ!………ディノ?」



ネアは良い報告として告げたのだが、なぜか魔物は、ご主人様が宝石妖精をハンマーで粉々にしたと震え上がってしまい、ノアまであれは怖かったと同調するではないか。


あわいを出たことで擬態魔術の解けたノアと伴侶な魔物を羽織りものにしながら、最後の最後で腑に落ちない思いに苛まれながら、ネアは何とかリーエンベルクに帰ったのだった。









本日は、長めの更新になってしまいました。


タジクーシャ編はこちらで前編となります。


また他の季節のお話の後に、後編を書かせていただきますので、楽しみにしていて下さいね。



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