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家族の薬と真夜中のスープ




「…………えっく」



小さく嗚咽を漏らすと、しゅばっと駆けてきた銀狐がネアの周りでムギムギ弾んでくれる。


ふかふかの毛並みを抱き締めて顔を埋めると、ここでは食べたいものも食べられないし、心が吹き飛びそうなお金が既に使われている事への恐怖が何とか宥められた。



ふと冷静に損失を計算をしてしまって震え上がったネアが、ふかふかの前足を握り嗚咽を押し込めようとすると、銀狐は尻尾でぱすぱすして自白を促してくる。



「き、狐さん。…………わ、わたしは、この世界に来てから、狩りを楽しんで、その獲物を売ったお金やお仕事のお金を貯めて、ちゃくちゃくと貯金を増やすのを、実はかなり陰湿な感じに楽しみにしていたのです…………」



涙目でそう訴えると、銀狐はムギーと鳴いて、こんな宿めと言わんばかりに寝台の上で足踏みしてくれる。



「ウィームは物価が高めですし、私は決して節約家ではありませんが、それでも大きく蓄えが減らないように財産を管理するのは、とても安らかな事でした…………えっく」




それは多分、ネアなりの妄執のようなものなのだろう。



元の世界で生活していた時、ネアの生家にかかる維持費や、通院の費用や社会に出る為に必要な雑費など、支払わなければならない生活費はとうに収入を越えつつあった。


仕事を続けてゆく為には、健康診断の結果を厳かに受け入れて入院をする事も避けられず、働かねばならないからこその支出も度々生じた。



(私が持っていた持病は、自覚している症状よりも検査の結果が思わしくない事もあって……………)



走ったりは出来ないけれど普通に生活は出来ていたのに、健康診断で悪い判定が出れば、解雇されない為の体裁を整える手段として検査入院が必要になる。

その期間で取りこぼす収入と、保険では賄えない通院の度の高額な検査費用。


ネアは今でも、病院の支払いで途方に暮れ、久し振りに帰ってきた家で声もなく泣いた日の事を夢に見る。



明日の事を考えると恐ろしくなり、目を閉じてベッドの上で、もう二度と目が覚めませんようにと祈る夜もあった。



子供の頃だけではなく、本当は大人になってからも大好きだった嵐の夜は、剪定を頼めずにいる庭木が雨樋を叩く音に眠れなくなる。

雨樋が壊れても、もう修繕する費用はないのだ。


それでも切り詰めて美味しいものを食べたり、一年間こつこつと貯めたお金で自分の為の誕生日の贈り物を買う。



愚かで矛盾した行為だが、ネアには他に自分を生かす為の手段がなかった。



夜眠る時間も少ないのに、それでも図書館で借りた本を夜明け近くまで読んで怖さをやり過ごし、持病が足を引っ張って、その図書館に歩いて通えない真夏の日差しを恨めしく思うこともあった。



また一つ、この薔薇は庭にない品種だからと自分に言い訳をして、帰り道に一輪の薔薇を買う。



美しかった庭は手入れを続けていても、肥料を食う花々は徐々に花をつけなくなり始めていた。


それが悲しくて恐ろしくて堪らずに、一年かけてチケット代を貯めると諦めていた舞台を一人で観に行った。



(ああ、私は何て愚かなのだろう)



歪んでいて壊れていて、愚かで愚かで、胸が潰れそうになる。



舞台と日々の食事の一回を諦めれば、一年分の薔薇の肥料が買えた筈なのに、そうすると息が止まってしまいそうで、ネアは自分を取った。


それでもあれこれ工夫して捻出したお金で何回か分の肥料を買い、更にはネアの自作の肥料風のものを与えられた薔薇は翌年の初夏に小さな蕾をつけたが、その年の長雨で蕾は呆気なく落ちてしまった。



家は失える筈もない家族の遺産で、舞台のチケットや量り売りのハムは、自分の心を生かす為の糧であった。



一人で。



どこまでも一人でゆっくりと足を引き摺りながら歩き、けれども厄介なことに不幸なばかりでもなく。


雨上がりの荒れ始めた庭はそれでも美しかったし、古びて歪んだ家の扉を塗るのは楽しかった。



ああ、あの日々。



ネアの世界のぼろぼろの宝物はあの屋敷にしかなかったけれど、それはどんなに愛おしく、そして無残であったか。


自分を滅ぼすものを愛するという事が、どれだけ惨めで恐ろしく、そして耳が痛くなるような静謐であったか。



幸せになる権利はないとは考えなかった。

ネアが成したのは、全てが幸福と安堵の為で、ジーク・バレットに復讐をしたのだって、そうしなければ自分の心を生かせなかったからだ。



ゆっくりと崩れ落ちてゆく足場から、遠くの輝かしいその他の人々を眺め、膝を抱えて蹲っていた、遠いようで決してそこまで遠くはないあの日々。




ぽたりと落ちた涙が、ふかふかの銀狐の尻尾で受け止められる。


癇癪を起こした自分が情けなかったが、こうして寄り添って見上げてくれる家族がいるからこそ、甘えて緩む心なのかもしれない。



「………だから、不本意にたくさんのお金を持って行かれたことで、そんな過去を思い出してしまった私は、強欲を拗らせた愚かな人間らしくむしゃくしゃして泣きたくなってしまいました。…………ふぇっく。…………でも、勿論、エーダリア様はしっかりとお給金をくれますし、困窮している訳ではないのですから、狩りをすれば蓄えはまた盛り返せるでしょう。ただ、リーエンベルクの皆さんに贈り物をしたり、トトラさんに夏のゼリーの詰め合わせを送ったりする予定だった、楽しく愉快に使う筈のお小遣いを毟り取られた事が、こんなに悲しいとは思いませんでした…………。ごめんなさい、愚痴なのです…………」



銀狐はそんなしょうもない泣き言を言っているネアを心配そうに見つめ、立派な胸毛を見せつけて胸を張ってみせる。



「…………むぐ。これは私の貯蓄のお話なので、狐さんが任せ給えとしても意味がないのです。…………でも、この胸毛を撫でると、むしゃくしゃが少し収まりまふ……………」



(多分、私にとっての蓄えは、この世界でやっと伸び伸びと溜め込めた安心の欠片だったのかもしれない…………)



そう考えながら、ネアは、アレクシスの入浴中にたっぷりと落ち込んでおいた。


連れ去られたのはネアの責任なのだし、これからの出費も安全の為に必要な額だ。

アレクシスが腹を立てるならともかく、ネアが悲しむのは明らかに我が儘だろう。

そう考えたから、さっきは何とか普通に振る舞えた。


手放すものも、それがある事だけで充分に恵まれている。

どうこう言っても仕方ないことは承知の上で、大人気なく落ち込んでしまうのはネアの心が未熟だからだろうか。



「…………ノア。…………狐さんが狐さんのままで一緒にいてくれなかったら、私はここで神経性胃炎で儚くなっていたかもしれません。冬毛の狐さんは私の命の恩人だったのですね…………」



ネアが思わずそんな本音を零せるのも、銀狐が塩の魔物としての姿ではなく、このふかふかもふもふの愛くるしい姿で慰めてくれたからかもしれない。



他のどんな人がここに居ても、こんな言っても仕方のない事なんて、呟けはしなかった筈だ。

きっと、さらりと割り切る平気な顔を整えようとして、密かに胸がきりきりしたかもしれない。



「つまり、ノアが擬態を解けなくなったのは、一つの失態で各所にご迷惑をかけ、なおかつ大金を失った私の心を救う為だったのだと思うのです…………」



大真面目でそう続けたネアに、銀狐は、尻尾をけばけばにして涙目でふるふると震えていたが、ムギャーと鳴くとネアの胸に飛び込んできてすりすりしてくれた。



「…………ぎゅ。このふかふかにしか、今の私の心の傷は癒せません!」




大事な家族を抱き締めたネアは、愛おしさに爪先をぱたぱたさせた。



(でも、…………どんな私でも、どれだけ惨めな人生だったとしても、私にはもう家族がいるのだわ……………)



腕の中の温もりにじんわり酔いしれ、かつて苛まれたものの影を見て怯えて竦み上がった臆病な心にそっと呼びかける。



(ディノが、私に家族とお家をくれたから、もう大丈夫……………)



「…………むむ、そんな私の大切な魔物は、カードにおかしなものを描いてきました。……………まぁ、……ふふ」



さらりさらさらと浮かび上がったものが、最初は何だか分からなかった。

けれどじっと見ていると、失敗した文字ではなくリボンを描こうとしてくれたのだと思い至り、ネアは先程とは違う涙が溢れそうになった。



いつだったか、カードにちびふわやムグリスディノの絵を描いた時に、可愛くて大好きなものだから、カードの向こうの相手に共有するのだとディノに話した事がある。


それを覚えていたディノが、この絵を描いてくれたのではないだろうか。



「せっかくディノが初めてリボンを描いてくれたのに、保存出来ないなんて!帰ったら私の手帳にも描いて貰わなければいけませんね」


ネアがその絵を銀狐にも見せてやると、このいびつな線は何だろうと必死に首を傾げていた銀狐は、暫くしてから蝶々結びのリボンを一本線で描いたものだと理解したようだ。



“ディノ、なんて可愛いリボンなんでしょう!”

“君が、前にこういうものを書くと、見た者の心が落ち着くと話していたからね……………”



それは多分、少しだけつんつんしていたアルテアに、ちびふわの絵を描いた時に話した言葉だろう。



ネアは一緒にカードを覗き込んでいる銀狐に微笑みかけると、さらさらと銀狐とムグリスディノの絵を描いて送ってみた。


大好きな家族と書き添えてみれば、ディノは少し儚くなっていたのか、絵をじっくりと見てくれていたのか、少しだけ時間を置いてから返事をくれる。



“ずるい。…………かわいい”

“ディノ、私が狐さんを連れてきてしまったので、ディノはそちらで寂しくありませんか?怖いと思ったら我慢をせずに、アルテアさんやウィリアムさん、リーエンベルクの中ならエーダリア様達に相談して下さいね?”

“…………君が怖くないなら、怖くはないかな”

“むむ、それなら、少しくしゃりとなっても狐さんの疑惑の毛皮が癒してくれますし、こうやってディノとお話出来るとほっとします”



そんなネアの文字を読み、銀狐はさっとふかふかの尻尾を体の影に隠した。

たいそう後ろめたい顔をしているので、これはもう犯行を自供したも同然ではないか。



“ノアベルトが一緒で良かった。………すぐに君の隣に行ってあげたいのに、私には不得手な事ばかりだね…………”

“あら、奇遇ですね。………私も、私という人間は何て子供っぽい怖がり方をするのだろうと、ほんの少し前に、自分の不自由さにとてもがっかりしていたのですが、ディノも少ししょんぼりだと知って、しょんぼり仲間がいてくれてほっとしました…………”

“それは、安堵する様な事なのかい?”

“ええ。狡賢い人間は、自分一人で心を揺らすのは寂しいので、大事な伴侶も同じような事を考えていてくれたのなら、お揃いみたいで嬉しいです”

“同じ事を考えていた記念日にするのかな………”

“…………少し前から気になっていたのですが、最近記念日を増やし過ぎなのでは…………?”



一緒にカードを見ている銀狐の瞳が、薄暗い部屋の明かりを映してきらきら光る。

宝石のようなその眼差しを見て、ネアは、自分にとっての宝石よりも大切な宝物が一緒にタジクーシャに来てくれたことは、とても重要な事だったのかもしれないと考えた。



“ディノ、…………アレクシスさんから、タジクーシャに慣れない人間は、この土地そのものに染み付いた宝石妖精さん達の妖精の粉の影響を受けて、感情を不安定にする事もあるのだと教わりました。………そうすると、心細くなった人間は、宝石妖精さんの輝きに魅せられてしまうのだそうです。狐さんなノアがいてくれた事と、さっきのディノのリボンの絵が届いたお陰で、私は守って貰えたのかもしれませんね”

“……………ネア。帰って来たら、君の大好きなザハで食事をしようか”

“まぁ!ケーキも頼んでいいですか?”

“勿論だよ。好きなだけ食べるといい”

“ディノは最高の伴侶ですね!”

“虐待する………。かわいい………”



ネアがこちらで一時的に困窮していることも、沢山のお金を使ってしまった事も知っている伴侶は、そんな優しさでネアの心を癒してくれる。


こんな時にネアを喜ばせるのが、失った貯蓄の心配などしなくていいのだと言う事ではなく、美味しいものをご馳走してあげるよと言ってくれる事だと知っているのだ。



ネアは、寝台にごろりと横たわってそれからもディノとあれこれメッセージを交わした。

アレクシスがとっておきの遮蔽魔術をかけてくれた部屋は、遮蔽布なしにカードを開いても問題なくなり、安心して首飾りの金庫を探る事も出来る。




「やはり、浴室は綺麗なのがいいな」



そんなアレクシスは、暫くして浴室から出てくると感慨深く呟いた。


意外に大雑把なのか、髪の毛はまだ濡れており、僅かに青みの紫がかった白い髪は花びらの色のようで美しい。


擬態を解いたアレクシスを見るのは初めてなのだが、爪まで白いその姿を見れば、ああこの人は特等の魔術師なのだとあらためて思い知らされる。



「前のお宿は、あまり綺麗ではなかったのですか?」

「共同浴場だから、土地や種族の作法の違う生き物達が集まるとなぁ…………」



そう呟き遠い目をしたアレクシスは、謎の香油をぶち撒けられた浴室よりは、いっそ野営で湖の水浴びをした方がいいと溜め息を吐いている。


ネアは、香油がぶち撒けられ、誰かの羽毛が飛び散り、苔性の生き物が土を落とした浴室と聞いて蒼白になった。


そんな浴室を見たら、ネアは入浴を諦めるだろう。



「…………でも皆さんは、きちんと入浴するのですね」

「宝石妖精の侵食が怖いからだな。商談で、良くも悪くも多くの妖精達に接触する商人達だ。湯を浴びる際にその中に特別な薬液を落として浴びると、宝石化していたらすぐに分かる。そうして警戒を怠らずにいないと、体の異変を見逃すことがあるんだ」

「わ、私もやらなくて大丈夫でしょうか?」

「ああ。ネアには俺のスープがあるから問題ない。…………よし、少しこちらに来るか?」

「む?」




ここでネアは、なぜか両手を広げてこちら向きの長椅子に座ったアレクシスに、首をこてんと傾げながらも銀狐を抱いたまま歩いていった。

すると、ひょいっと横抱きにされて膝の上に乗せられ、子供にするように頭を撫でられる。



「目の縁が赤くなっている。冷やしてやるから、擦らないようにするんだぞ」

「…………えぐ」

「うん。今朝からこちらに来ていて、食べたのは一個のジャガイモの半分とハムの皮、水分だけのスープだからな。他のものを食べても妙に空腹が促進されるだろう?」

「ふぁい。腹ぺこです………」

「滞在がこれだけ高くついて、尚且つ満足に食事も出来ないとなると、なかなかに心にくるよな。帰ったら、とっておきのスープを幾らでも飲ませてやるから、もう少しの辛抱だ」

「…………ふぁい」



アレクシスは家族ではないけれど、不思議な安心感に包まれてネアは頷いた。

ネアがアレクシスの膝の上に乗せられた時にはムギャーと鳴いていた銀狐も、ゆっくりとあやすように体を揺らされると、警戒するような持ち上げではないと理解したらしい。

吝かではないと、こちらもされるに任せる。



(……………まだ未婚のようだから失礼過ぎて言えないけれど、アレクシスさんは、お父さんに少しだけ似ている…………かな………)



父親のような安心感があるとは流石に本人には言えないが、もしかすると、かなり長く生きているらしいアレクシスは、今は未婚でもこれ迄のどこかで子供を育てたような経験があるのかもしれない。


グラストとドリーを足して割ったような雰囲気に、スープが絡むと少しだけウィリアムに似ている。


そう考えてくすりと微笑むと、こちらを見たアレクシスがおやっとネアの瞳を覗き込んだ。




「…………落ち着いたな」

「はい。ご迷惑をおかけしました。………土地の影響もあるのかもしれませんが、心が揺らいでしまっていたようです」

「そういう時は、発散してしまった方がいい。その狐がいて良かったな」

「はい!」

「俺のことも、………年齢的には父親のようなものだ。そんな感じで甘えてくれ」

「ふふ。アレクシスさんがお父さんだったら、美味しいスープが毎日飲めますね」

「ネアみたいな娘が、毎日スープを飲んでくれたら楽しいだろうな」



ネアの言葉に、なぜかアレクシスはひどく満足げに微笑んだので、やはりこの人は、どこかにそんな欲求を隠しているのだろうか。


見た目は人間の領域を少し離れた美しい男性なのだし、ネアはかつて少しだけ異性として憧れもしたのだが、今はやはり異性というよりは保護者感が伝わってくる。



(アルテアさんもだけれど、お料理が上手な人は庇護欲のようなものが強いのかな……………)



「……………ぎゃ」

「ネア……………?」

「使い魔さんに、無事ですが、タジクーシャにいますとメッセージを書いて、そのままカードを開いていませんでした……………」



恐ろしい事に気付いてしまったネアがそう告白すると、アレクシスは目を丸くしてから微笑んだ。

銀狐はすっかり慌ててしまい、ネアの膝の上から床に飛び降りるとムギーと弾み駆けずり回っている。



「それなら、これからゆっくり返事を書けばいい。きっと彼なら沢山メッセージを送ってくれているだろう」

「はい!」


ネアを膝の上から下ろすと、アレクシスは魔術でさあっと髪の毛を乾かしてしまい、ぐいんと伸びをする。

さてスープの試作品を作るかなと呟いているので、水しか生かせないこの状況でも研究に余念がないのか、仕入れたこちらの素材で何か作るのだろう。

その場合味見などはあるだろうかと思わず見つめてしまったネアに、アレクシスは苦笑して教えてくれる。



「すまないな。タジクーシャで仕入れるスープの材料は、宝石梨のように下拵えが終わるまでに時間のかかるものや、人間には飲めないものばかりなんだ。後者はファルトティーに近いかな」

「……………む、むぐぅ」

「その代わり、水しか摂り込めないが、スープが飲みたければいつでも味付けするからな。スープに入れる祝福などは吸収出来るし、空腹を紛らわせる為に必要なら言ってくれ」

「……………スープが飲めるのです?」

「お、飲めそうだな。少し満足感を出す為に、辛くて酸っぱいスープでも作るか?」

「スープ様!」


お腹に入る頃には水分だけになるとはいえ、飲む瞬間に味があれば充分ではないか。

喜びに弾んだネアに、アレクシスも嬉しそうに微笑んでくれるので、疲れている中、ネアを宥める為に無理に作ってくれるという感じでもないようだ。


ネアは、惨めさがわくわくに代わって寝台の横にある簡素な書き物机の椅子に座ると、アルテアのカードをぱかりと開く。



“いいか。タジクーシャはこの時期だけ、宝石妖精達の同族狩りが行われる。お前がいるのが外周の区画なら、絶対に夜間は外に出るなよ?屋台にどんな食べ物があってもだ”



開いたカードに記されていたのはそんなメッセージで、ネアと銀狐は顔を見合わせた。

既に夜市場に出かけてしまったし、屋台の食べ物を買うお金はないのだ。



“アレクシスさんと一緒に、夜の市場にお買い物に行きました。王族の方々の管理下にあるらしい換金所には行けず、お金がなくてホテルのご飯もお店のご飯も食べられないのです”


そう書けば、返事はすぐに返ってくる。


“お前のことなら宿は押さえているだろうが、最低限の食事は出来ているんだな?”

“はい。お宿は取っています。でも、…………歌う葉っぱまで売りに出し、一軒家が買えそうな金額を換金したのに、帰り道に使う花畑の通行料が高すぎて、食料を買う軍資金はほんの少しだったんですよ。楕円形のパンの両端と、アレクシスさんと一食につき一個を半分に分け合うジャガイモと、ハムの脂と皮の部分が買えました……………”


ここでまた心がぐわんぐわんと揺れたが、ネアは膝の上に持ち上げた銀狐をわっしゃわしゃに撫で回し、こんな真夜中に飲める酸っぱ辛いスープに思いを馳せる。



“……………帰ってきたら、何か作ってやる”

“グラタンとタルトと、おかずパイと、タルタルが食べたいです!”

“やれやれだな。……………それと、その花畑は恐らくタジクーシャの月下庭園だ。月の光だけで咲く宝石の花畑があると言われているが、度々宝石の花を盗む商人がいた為に、割に合わないような入場料で管理していると聞いたことがある”

“ふむ。では、正当な権利としてお花を摘んできてもいいのですね……………”

“やめろ。あの花は、王家のものだ。妙な騒ぎを起こすな”

“その王家の方に攫われたのです。慰謝料なのでは……………”



結局アルテアには、パイやタルトをお届けして貰うだけではなく、また家に招いて貰って三食ご飯を作って貰う特別慰労コースでもてなして貰えることになった。




「スープが出来たぞ」


ぷわりといい匂いをさせてアレクシスがスープを運んでくる頃、窓の向こうの夜空では半分に欠けていた月がゆっくりと花開くように満月に近付いてゆくのが見えた。


はっとしてアレクシスの方を振り返ると、夜半過ぎからこうして月が膨らみ、夜明けまでにはほぼ満月に近い状態になっているのだそうだ。


そんなタジクーシャの月は、昼間はほんの少しだけ膨らんで満月の日の夕方に新円となり、満月の日の日付が変わるあたりから今度は欠け始める。


つまり、帰り道が開くのは、そんな月が欠け始めるまでの猶予なのだ。




(綺麗だわ……………)



月光に煌めく宝石の街を窓から見下ろし、ネアは美味しいスープを飲んでお腹をほかほかにして寝台に入った。



助けに来てくれたアレクシスに寝台は譲ろうとしたのだが、逆に、しっかり寝台で寝なさいと叱られてしまい、銀狐と使わせて貰っている。



目を閉じると、幸いにも静謐で怖かったあの日々が蘇ることはなく、月光に照らされた宝石の街がどこまでも続いているのが見えた。



こんな月明かりの中なら、きっと素敵な夢が見られるだろう。






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