表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
112/880

51. 食べ物が足りません(本編)



魔術仕掛けの鍵を外して慎重にそっと扉を開けると、そこには、ネアの大好きなスープの魔術師が立っているではないか。


思わず安堵に弾みそうになりながら、ネアはほっとした様子で無言で頭を撫でてくれたアレクシスにじわっと涙目になる。

なぜだかは分からないのだが、不思議と保護者感のある人なのだ。



「………よし、とりあえず妖精の呪いなどは添付されていないな」

「まぁ、この一瞬でそんな事が分かってしまうのですか?」

「ああ、タジクーシャに滞在中は、妖精の侵食を避けるスープを常に飲んでいるからな」

「さすがアレクシスさんです!」



アレクシスを部屋に招き入れ、ネアはまず、深々と頭を下げた。



「アレクシスさん、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」



アレクシスは、リーエンベルクの関係者ではない。

今回のタジクーシャへの滞在も私用であるのに、こうして、ディノからの救援要請に応じてわざわざ駆け付けてくれたのだ。



だが、アレクシスは目を瞠ると微笑んで首を横に振ってくれた。



「ネア、気にする必要はない。俺のことは、…………そうだな、保護者のようなものだとでも思っていてくれ。スープを幸せそうに飲んでくれる、大事な顧客を失いたくないからな」



ネアは、若干それはただのお客ではないのかと思ったが、スープの魔術師とも呼ばれるアレクシスにとって、それ以上に大切な人員もないのかもしれない。



「けれど、タジクーシャは門が開かないと入れないあわいです。そのような土地でのご用事中に来てくれました。お時間をいただいただけでなく、もしかすると厄介ごとに巻き込むかもしれないのに、私はまんまと、アレクシスさんが来てくれた事にすっかりほっとしてしまっているのです…………」

「後はもう任せておいてくれ。タジクーシャを出ること自体は、………少し無理はするが、明日の夕方には叶うだろう」

「…………思っていたよりあっさり活路が見出されています」

「ああ。毎年この季節は、スープの材料を採りにタジクーシャを訪れているんだ。ここへの出入りについてはかなり詳しいと思ってくれ」

「毎年…………」

「スープの材料に必要な、季節の食材があるからな。タジクーシャの宝石の果実の中で、この時期だけに実をつける梨があるんだ。人間はそのままでは食べられないものだが、夜露を集めてその中に浸けておくと、最高の梨のシロップになる」

「………じゅるり」

「はは、今度、今年の宝石梨のスープが出来たら試食してくれ。とびきり美味しいぞ」



そう言われ、ネアと銀狐はまた顔を見合わせ、安堵と喜びに目を輝かせる。

そんな一人と一匹を見て微笑んだアレクシスは、いつもの菫色の彩りもある柔らかな多色性の白灰色の髪色の擬態のせいか、かなり階位の高い魔術師に見えた。



ふと、ネアはその色が気になった。

白に近いことも目を引くだろうし、タジクーシャの宝石妖精達の中では、灰色の宝石は希少なのだと聞いている。


魔術稼働域が低くて宝石に出来ないネアとは違い、アレクシスの持つ色彩は危険ではないだろうか。



「ん?この髪色か?」

「ええ。こちらに来てから、人間の宝石を扱うお店も見かけたのですが、白っぽい灰色の擬態で狙われたりはしないのですか?」

「ああ。タジクーシャでは、灰色を持つ高位の人間の魔術師については、かなり忌避されているんだ。以前、そのような特徴を持つ魔術師によって甚大な被害が出た事があるらしい」

「…………まぁ。それは知りませんでした!その方は人間なのに、とても強かったのですね」

「禁秘に近いものだから、あまり公にはならないからな。かなり強い呪い持ちの魔術師で、敵対した者達は呪いに食わせていたようだな。お陰で、灰色の人間の魔術師を傷付ける事はかなり嫌がられている」



とは言えそれだけの事だけで防波堤になる訳でもなく、正式には、かなり階位の高い灰色持ちの魔術師についてのみ、タジクーシャの妖精達は敬意を払い丁重に接するという事であるらしい。


元々、灰色の宝石は希少なので、中途半端な灰色持ちの魔術師達は、やはり狩られてしまう危険も高いのだそうだ。



「ふふ、そんな魔術師さんがいただなんて、同じ人間として何だか誇らしいです」

「ああ、俺もそう思う。知り合いかもしれないからと名前を調べてみた事があるが、タジクーシャの王女ですら亡き者にした災厄級の呪いとして、ここではその名前が封じられたらしい。黒い箱馬車の魔術師としか語り継がれていないのだそうだ」



そう教えてくれたアレクシスに、ネアはおやっと眉を持ち上げる。



「このホテルの名前にも箱馬車という名称があって、ホテルの印章が黒い馬車の絵だったのですが、もしやそれ由来なのでしょうか?」

「みたいだな。昨年の滞在の時にここを使ったんだが、ホテルの名前の由来はその魔術師であるらしい。百年ほど前にオーナーが変わった際に、呪い避けとして強い呪いから名前を貰ったらしい。そんな店や施設は、その魔術師が暮らしていたというこの緑柱石の区画ではあちこちにある」

「その魔術師さんは、この辺りに暮らしていたのですね…………」



ネアは、ディノにアレクシスと合流出来たことを知らせつつ、タジクーシャの思わぬ歴史に触れて目を丸くしていた。


アレクシスは、そんな歴史的な背景を利用して安全に過ごせるからこそこの区画に滞在していたのだというのだから、ネアは、その箱馬車の魔術師に感謝せねばなるまい。




ネアは一通りの事を口頭で説明し、アレクシスは、時折質問を挟みながら丁寧に話を聞いてくれた。


デジレから預けられた宝石も浴室に確認しに行ってくれ、特殊な植物採集用の手袋をつけ、遮蔽布を持ち上げて調べてくれたようだ。



一通りの情報共有が終わると、ネアがあまり見た事のなかった魔術師らしい目をしたアレクシスから、あらためて話があった。



「……………ヒルドを呼ぶのはやめておいた方がいいな」

「ディノからもそう聞きました。やはり、宝石妖精さん達がヒルドさんを招きたがっているからでしょうか…………?」

「いや、妖精達の行動の辻褄が合わないからだ。…………恐らくは宝石妖精の王を巡った何かの陰謀がある。ヒルドが求められているのは、その陰謀を巡る何かに彼が必要とされている為だろう」

「辻褄が、合わない…………?」



首を傾げたネアの向かいで、かつてこのホテルに滞在していたというアレクシスは、ネアがポットではなく丸太風の置物だと思っていたものを巧みに扱い、お湯を沸かしてくれていた。



(ポットだったんだ…………)



身につけている金庫のどこからか、ティーバッグというよりは紙パックに入ったお出汁の粉のようなものを取り出し、部屋に置かれているカップを使わず、これまた金庫から綺麗な白磁のカップを取り出してくれる。



「ネアが会ったのは、言動や表情の癖から恐らく本人で間違いないと思うんだ。タジクーシャの王であるデジレが、ヒルドの威光を必要とするような王には思えない。タジクーシャの貴族達の現王への心酔ぶりは、いっそ信仰にも近い。宝石狩りの裁定でヒルドが訪れなくても、揺るぎようがない程の治世だからな」

「………そんなに、凄い王様なのですね」

「ああ。冷静で残忍、余裕のあるところでは限りなく享楽的だが、王としての自覚があり、決してその治世を揺るがすような愚かな真似はしない。俺は、デジレは妖精なりに賢王だと考えている」

「むむ、お話しぶりだと、王様をご存知の予感です…………!」

「何度か個人的に飲んだ事があるが、隙を見せた途端に狩られる心配さえなければいい男だな。ただし、スープの飲み方は最低だ。二度と俺のスープを飲ませるつもりはない…………」



隙を見せたら狩られるのもどうかと思うが、微笑んでいい男だと言ったその直後、ウィリアムであればばっさり斬ってしまいそうな冷酷な微笑みを浮かべたアレクシスに、ネアと銀狐は慌ててこくこくと頷いた。


スープの魔術師にとって、スープの飲み方が認められない相手への評価はこうなるのだと、ネアは震える心にその厳しさを刻んでおいた。



(でも、という事はやはり、デジレさんには他の目的があるのかもしれない…………?)



そんなことを考えていたら、アレクシスが立ち上がって沸いたお湯で何某かの飲み物を作ろうとしてくれていたので、ネアはわたわたしてしまった。


お湯を沸かして貰っただけでなく、お茶を淹れて貰うのはさすがに心苦しかったからなのだが、そんなネアに振り返ったアレクシスはおやっという目をして微笑む。



「ネア、座っていてくれ。スープを作るのは俺の趣味だからな」

「まぁ、それはスープだったのですね。であれば、はい。座ってお待ちしていますね。…………むむ、香ばしい珈琲のようないい匂いがします!」

「これは侵食系統の魔術を、一切合切削ぎ落とすスープなんだ。俺もこちらでは毎日飲んでいる。ひとまず、これを飲んでおこうな」

「はい!これがそうなのですね。…………ぎゅわ、狐さんのものまで!」



ティーバッグのようなもので抽出されたスープは、薬草茶のような澄んだ緑色だ。


アレクシスは、そこにどこからか取り出した硝子の調味料入れから、ぱらぱらと氷の欠片のようなものを加えて、次に、ミルに似た容れ物も取り出すと鉱石化した植物をガリガリと削ってそれも加えた。


すると珈琲のような香りが爽やかな柑橘系の香りにふわりと変化し、細やかな星屑めいた煌めきの浮かぶスープが完成する。



銀狐用には、魔術で少し冷ましたスープが、いつの間にかカップではなくお皿で用意されていた。



「さぁ、これを飲むといい。………おっと、こっちのカードにもディノから連絡が来たな。俺はこれに返事を書いているから、ゆっくり飲んでいてくれ」

「はい。なんて綺麗なスープなんでしょう!早速いただきますね」



アレクシスは、飲食店経営の魔術師として食べ物による魔術の繋ぎは排除している。

安心して飲めると、わくわくしながらカップに口をつければ、すっと口の中に広がった爽やかな風味にネアは目を丸くする。



「…………お、美味しいれふ」

「お、それは良かった。やはり効能だけではなくて味も良くないとな」

「見た目はこんなに綺麗でも、きっとお薬のような味だと思って飲んだのですが、………上等なコンソメに、檸檬に似た味わいの、そしてしゅわっと弾けるようにお口からいなくなる香辛料めいたものが入っているような、…………むぐ。お鍋いっぱい飲める幸せな味です!」



大興奮のネアをとても優しい目で見ると、アレクシスは手を伸ばして頭を撫でてくれた。

その視線をふっと下げ、尻尾を振り回しながら銀狐もがふがふとスープを飲んでいるので、そちらも背中を撫でてやっている。


味わって飲もうとちびちび飲んでいたネアだったが、すぐになくなってしまったスープに、同じく飲みきってしまった銀狐と共にしょんぼりと肩を落とした。


しかし、この時はまだ、カードから顔を上げたアレクシスの言葉でもっと肩を落とす事になるのだとは知らずにいたのだ。



「ネア。ディノと話をして、このまま俺が君達をタジクーシャから出す事になった」

「ご相談を任せてしまい、お手数をおかけしました。はい。では、アレクシスさんにお任せしますね。…………その、ご用が残っていたりはしませんか?」

「問題ない。俺だけなら、今朝の仕入れが完了したところで、もういつでも帰れたからな」

「…………もしかして、私達を連れて出るので明日まで時間がかかるようになってしまったのですか?」

「ああ。俺だけなら通れる細い抜け道では、ネア達は、隣接した他のあわいに落下しかねない。もう一つの安全に連れてゆける方の道は、満月の夜にしか開かないんだ」




(少し無理をすると話していたけれど、…………)



恐る恐るそう尋ねたネアに、アレクシスは返答を誤魔化しはしなかった。

アレクシスの使う抜け道は、かつての王族が使っていた秘密の通路の遺跡なのだそうだ。

古いものなのでとても狭く、あわいの隠し通路であるその道はやはり不安定でもある。


率直に答えてくれ、真っ直ぐにこちらを見た鮮やかな黒紫の瞳に、ネアはへにょりと眉を下げる。



「重ね重ね、お手数をおかけします。戻ったらきちんとお礼をさせて下さい。せめて、明日が満月で良かったです………」

「ああ、満月自体は珍しくないんだ。タジクーシャは、満月と半月、新月の繰り返しだからな」

「なぬ…………」



アレクシス曰く、そのようなあわいは数多くあり、例えばずっと夜のところもあるのだと説明されると、ああ確かにとネアにも腑に落ちる。


スープを飲んですっかりぽかぽかの銀狐は、ネアの膝の上で居眠りをしかけては、けばけばになっていた。

ネアとしては休んで欲しいのだが、銀狐としては、今ばかりはそんな醜態を絶対に自分に許せないと思っているのだろう。


だからネアは、頑張る銀狐の耳の下を指でかしかし掻いてやって応援することにした。



「俺の方も一つ詫びなくてはならない。実は、その満月の道は通行料金のかかるタジクーシャの宝石の花畑を抜けてゆく必要がある。それがかなり高額でな。この宿の宿泊費用の四泊分はかかることを想定してくれ」

「ぎゃ!」



あんまりな言葉に飛び上がったネアに、アレクシスは続けて容赦のない宣告を重ねた。



「という訳で、こちらを出るまではかなり節制して貰う事になる。今の反応からすると、手持ちの現金の多くを宿代に充てているんだろう。明日にでも、生活資金をあらためて換金しに行く予定でいたんじゃないか?」

「な、なぜそれを…………」

「さっきの悲鳴の後、頭の中で必死に計算していただろう。タジクーシャの物価はかなりのものだからな、そうもなる」

「そうだったのですね…………。アレクシスさんは、帰るまではもう換金に行かない方がいいと考えているのですね?」



ネアの言葉に頷き、アレクシスはひらりと片手を振って微笑む。



「タジクーシャの換金所の全ては、個人経営でありながらも王家の直轄事業とされている。実際に管理しているのは王族ではなくその依頼を受けた貴族達だが、デジレや王の従者達が話に出てきているこの状態では避けた方が賢明だな」


ネアはもう既に換金所に行って品物を売ってしまっているが、アレクシスが先程調べたところ、魔術浸透や添付はなかったので、まだ換金所にまでは手が回っていなかったのだろうとアレクシスは言う。



「それはまだ、デジレの名を名乗る妖精がネアをこちらに連れ込んだ事が知られていないからかもしれない。けれど、相手のかけた変質禁止の魔術にデジレが触れた以上は、向こうが動き出すのも時間の問題だろう」

「…………そのようなところだとは知りませんでした。確かに、一度大丈夫だったから次も大丈夫だと考えるのは浅はかですものね…………」

「俺も、戦支度をしている妖精達がいることは気付いていた。あまりいい雰囲気ではなさそうだ…………」



自らネアを自由にしたデジレ本人が探しに戻ってくる事も想定されるが、警戒するべきはそちらの勢力だと、アレクシスは考えているらしい。


ネア達の存在が知られれば、デジレではなくネア達のことも捕縛しようとしかねないので、その者達から接触されないように行動することが求められているのだろう。



「俺の方で備えがあれば良かったんだが、実は、一度タジクーシャを出るつもりでいたから、滞在資金を使い果たしかけていてな………。俺もネアも、換金出来る品物はあるだろう。だが、デジレは兎も角、地上に出ていた王の従者達がこちらにいつ戻ってくるとも知れない。証跡を辿られるような危険は避けような」

「………ぐぬぬ、しかし、こちらで美味しそうな屋台の食べ物をいただけなくとも、明日の夕方くらい迄であれば、何とか金庫の食べ物で美味しくやってゆけます!」



最初の絶望から立ち上がりかけ、自信満々にそう告げたネアに対し、なぜかアレクシスはにっこりと微笑みを深めた。


とても良くない報せの気配を感じたネアは、膝の上で同じ予感に竦み上がった銀狐と共に、ふるふるとしながらその瞳をじっと見返す。



「俺のスープを飲んで、体が温まっただろう?」

「は、…………はい」

「スープの場合は、体に浸透させる守護や祝福は、あくまでも形のない魔術そのものだ。お湯はこちらのものだから、実際に胃も膨れる。…………だが、首飾りの金庫から持ち込んだ食べ物はそうはいかない。味としては楽しめるが、数分もすれば質量が無効化され体力には還元されないんだ」



その宣告は、ネアにとっては死刑宣告にも近いものであった。


これでもネアは、とても慎重な人間である。

先払いした宿泊費を計算し、万が一の為に、タジクーシャの封鎖が解けるまでの期間の滞在は何とか可能にするくらいの金額は、使わずに残しておこうと考えていた。


だからこそ、次の換金までは宿代は三日までの支払いにしたこの聡明さも、まさかのお花畑通行代金の前に粉砕である。



(となると、やはり現金が足りない。今夜はもうこのまま寝てしまうには、まだこちらはお昼になったばかりだし、そこから明日の朝食に昼食、はたまた夕方がどのくらいの時間指定なのかによっては、夕食も食べておきたかったのに…………!)



いい気になって、宝石の果物を買ってしまった自分を心の中で罵り、ネアは溢れそうになった嗚咽を飲み込む。


三食きちんと食事をしたいなら足りないし、どこかを絶食するのだとしても、いざという時の金銭的な余力がないと考えると惨めさでいっぱいになった。



「残金は幾らくらいある?」

「これで全部れふ…………。あと買った林檎はあります」



ネアがテーブルに広げてみせたタジクーシャのお金を見下ろし、アレクシスは難しい顔で小さく考え込み、その中の金貨の殆どを選別してしまい、ネアの手元には僅かな小銭だけが残された。



「その狐の通行料は、俺が支払おう。辛いだろうが、使う予定の道を探し出されて潰されては元も子もない。安全を第一に少しだけ辛抱してくれ」

「ふぁ、ふぁい。勿論でふ。狐さんの料金もかかるのですね。立て替えてくれて有難うございます。……………ぎゅ」



ネアの膝の上では、けばけばになった銀狐もこてんと横倒しになってしまった。

こちらも銀狐の時は食べて心を満たす派の生き方をしていたので、この状況はかなり堪えるだろう。



「………は!市場で物価調査の為に買った、宝石の果物を売って…」

「こちらでの商売は資格が必要だし、一度買われた食品を買い戻しはしないだろうな」

「……………ぎゃふ」

「俺の泊まっている安宿だと、湯も有料だからな。今夜は、向こうには戻らずに俺もここに泊まらせて貰って構わないか?」

「はい。そうして下さると心強いです。お荷物などは取りに行かなくて大丈夫ですか?」

「ああ。ここに来る際に、宿には戻れなくなることも想定の上で全て金庫に入れてきた」



幸いにも、部屋代は人数に応じて支払うものではないので、宿泊人数が増えても追加料金は発生しない仕組みである。

それについてはタジクーシャの法で定められており、ネアは、首の皮一枚で何とか生き延びたと言えよう。



(アレクシスさんが、狐さんの料金を支払えるだけの蓄えがあって、せめてもだわ…………)



さすがにネアよりは残金があるだろうが、銀狐の分も支払ってくれるのだから、アレクシスのお財布事情もかなり厳しいのだろう。


でも、せめてアレクシスはもう少し残金があり、食事はきちんと食べられるといいなとネアが考えていると、くすりと笑ったアレクシスが恐らくそこが金庫だなというポケットから、じゃらりと硬貨を取り出した。



「そうだな、俺の残金はこんな感じか」

「ぎゃ!アレクシスさんも銀貨すらない!!」

「近年稀に見る厳しさだが、まぁ、何も食べられないという事もないだろう。夕方になったら市場で何が買えるかを調べてみよう」

「…………外に出るのは、問題ないのですか?」



思いがけない提案にネアがそう尋ねると、アレクシスは、それは問題ないのだと教えてくれた。



「この時期の夜ともなれば、警戒をしなければならないような妖精達は出歩かないんだ」

「………その、偉い妖精さんが、市場の方にこのような特徴の誰それが来たら教えてくれと命令したりもしないのでしょうか…………?」

「タジクーシャでは、商人はどんな品物を扱う者であれ商売に関する自治権と不可侵の約定がある。唯一の法は、杜撰な商売で破産しないようギルドの保険に加入することくらいだな。金銭の流れや客の情報などの報告義務が魔術的に発生しないから、後でまた一つの理由を足すが、上手く姿を隠してゆけば市場程に安全な場所もない」



(……………でも、報告義務がないだけで安心なものなのかしら?もう一つの理由があると言っていたから、そちらに付随しているのかな…………)



ここでネアが思い出したのは、市場で見かけた、何らかの公的な役職に就いていそうな、ちょっと偉そうな気配を漂わせていた妖精達だ。


むぐぐっと眉を寄せると、アレクシスが質問してご覧と手を広げて見せたので、ネアは素直に疑問をぶつけてみる。



「市場を訪れた時、お役人さんのような妖精さんを見かけたのですが、そんな方々が市場にいるのは珍しい事なのですか?」

「定時の買い出しを見たのか。そのような者達に見咎められる事を考えたんだな」

「…………デジレさんとの会話の中で、デジレさんと敵対していそうな方々は、この土地の住人ではないものの、前王派という名前といい、公的なお役目の方々に影響力を持つのかなと思っているんです」



ネアを投獄して身柄を押さえておく手法を思案していたデジレは、けれども檻の向こうでネアが何者かに殺されてしまうかも知れないと却下していた。


最初に思案のテーブルに乗せたからには、牢獄は王の管理下にもあるのだろう。

然し乍ら、敵はその内側の囚人にも手出しを出来るだけの権限を持っていると、デジレはそう考えたに違いない。


それに、言葉だけで感じる前王派という響きにも、如何にも古参の貴族達が属していそうな感じがするではないか。



「まず、俺達が警戒するべきは、王絡みの陰謀が下りてくるであろう階級までの者達だと仮定する」



想定される事件の背景からして、そう多くの者達にまでを巻き込めないだろうとアレクシスは指摘した。


市井の出身である現王は、下層階級の宝石妖精達にも人気が高い。

これだけ明確に居住区を分けられている事もあり、中央の貴族達は死ぬ迄特区を出ない者達も多いという。

この外周の区画においてはデジレよりも掌握が進んでいないと考えるのが妥当であると、アレクシスは判断した。



「この時期は特に、特区への通行制限がかかる夜間に、こちらで中央の連中を見かける事はないだろう。こちら側に暮らす上位階級の宝石妖精達も、街を閉じている期間はあまり屋敷を出ない。夜ともなれば尚更だ」



そんな説明に、ネアは首を傾げた。


つい先程食べた筈の焼き菓子とチーズの満足感は、確かにもう残っていないようだ。

その悲しさのあまりに、胸の奥がぎゅっとなってしまう。



「………もしかして、宝石妖精さん達は、時間外にこちら側の地区の外を出歩くと危険なのでしょうか?」

「おっと、それは誰からも聞いていなかったんだな。………その通りだ。宝石狩りの期間内のこの外周の区画では、陽が落ちてからの同族狩りが許される。襲って来る者達を退ける自信はあったとしても、誰だって無駄な争いに巻き込まれるのは御免だろう」

「…………なんと物騒な種族なのだ」



唖然としたネアに、アレクシスは、そんな悍ましい事が許されている理由を教えてくれた。



宝石妖精達は、嗜好品としての宝石から派生した宝石妖精である。


そんな宝石妖精の中でも一定の基準より階位の低い妖精達は、少しでも自身の階位を上げる為に他の宝石妖精を出し抜き、より多くの名声を得たいという、とても危険な本能的な衝動がある。


だから彼等は同族狩りをして、同族の宝石妖精を宝石にしてしまい食べると言うのだ。

悪食とも言えるそんな行為に手を染めるのは全ての者達ではないが、同族狩りをする宝石妖精は少なくはない。


とは言え、通年を通してそれをやられたら治安が悪くなる事は避けようもない。

商業を生業とする妖精らしくそこはきちんと管理されており、同族狩りが解禁されるのは特区の妖精達が宝石狩りをする期間だけと決められている。



「同族を喰らう様はかなり凄惨だが、それはもう、評価によって価値と階位を変える装飾品として生まれた者達の宿命のようなところもあるんだろうな」



どこか達観した様子で淡々と語るアレクシスに、ネアは、ディノに教えて貰ったばかりの、偽物の宝石があるが故に生まれた固有魔術を思い出した。


(偽物でも望まれれば階位を上げる種族だからこそ、同族狩りというものも許容されているのだろうか…………)




「………………特区と呼ばれているところと、こちら側の居住区を明確に切り分けているのは、その、同族狩りをするかどうかなのですか?」

「ああ。爵位持ちの中でも子爵家まではこちら側の管理を任されている同族狩りをしない者達だが、それ以下ともなると、同族狩りをするかどうかが特区とこちらの境界線となる」



(タジクーシャの宝石妖精の王様は、そんな妖精達の王様なのだわ……………)



ネアの感じた得体の知れなさは、そんな生き物達を束ねるが故のものかもしれない。


そんなデジレについては、こちらの動きが筒抜けになる可能性はもはや諦めているのか、アレクシスは特に対策を講じる様子はないように思えた。



「……………少し、気の滅入る話だったか」

「いえ。教えて貰って良かったです。何はともあれ、夜の市場には今回の首謀者的な意味での警戒人物はいなさそうです」

「まぁ、擬態が解けないという、ネア達を攫った妖精はいるかもしれないがな」

「…………ぎゅも」



とは言え、ネア達に残された残金で、ホテルのルームサービスを取れる筈もないし、出来合いのものをさっと買ってくる事も、やはり金額上の問題から不可能だ。



であればやはり、夜の市場に繰り出すしかない。



それから二時間ほどの間、ネアと銀狐はアレクシスからこちらでの体験や、ウィーミアの島の様子などについてお喋りしながら、カードで大切な魔物とも沢山言葉を交わした。



そして漸く陽が落ちた頃、まずは一度外の偵察も兼ねてホテルの階段側の窓から外を見て来てくれたアレクシスが戻ってくると、いよいよ出かける時間となる。



(アレクシスさんだけで買い物に行く事も可能なのに、私を連れて出るのは、離れないようにしてくれているのかしら………?)




暗く悲しい目で頷いたネアは、少ない硬貨を握り締めて、最後の戦に挑む戦士のように立ち上がる。



「よし、出かけるか。敢えてネアも連れて市場に出るのは、こちらに留まっている可能性もあるデジレの動向も見たいからなんだが、念の為、デジレに渡された石は置いていってくれ」

「むむ、私だと気付けば接触があるのかもしれないのですね?」



その為だったかと頷けば、アレクシスは淡い微笑みを鋭くして、ぽふりとネアの頭に手を乗せてくれる。


「危ない目に遭わせてすまないな。もしデジレが襲って来ても、ネアを守って逃すくらいの技量はあるからそこは心配しなくていい」

「………さ、さすがアレクシスさんです!」

「ただ、…………接触はないような気がしている。ネアに再び様子を見に来ると告げたなら、彼にはそれ迄の間にやるべき事があるんだろう。俺の予測では、一度特区に戻っているような気がする」

「王宮に、ですか?」

「現在の王宮で、誰が不自然な動きをしているのかを確かめるには今しかないからな」



(あ、…………)



言われてみれば、その通りなのだ。

せっかく攫って来たネアを放置し過ぎではないかと思いもするが、あの宝石を持たせて魔術的な証跡から管理する予定だったのか、それを渡しておいても死ぬようならいらないという事なのか。



「市場では、見切り品や、バラ売りの品物を見付けられれば、パンとジャガイモくらいは買えるだろう。咀嚼している間はこちらの食品も形を成すから、調味料などは買う必要がない」

「ぐ、ぐるる、………ジャガイモとパンを手に入れます」

「はは、それは例えだぞ?」




つまり、嵩のあるものを安く買えばいいのだ。



ネアは悲壮な面持ちでそれを心に命じたが、市場の中に入ると、呆気なく心をずたぼろにされた。




「…………串焼き様。…………は!蜜がけの揚げ菓子です!………………トマトのソースを絡めてじゅわっと鉄板焼きにしたパスタが…………」




夜の市場は、同族狩りが行われるとは思えないくらいに賑やかだった。

よく見れば妖精ではない人々も沢山いるので、タジクーシャの閉鎖中もこちらに留まる商人達だろうか。



(ぐっ、…………に、匂いが!)



すぐ近くで串に刺してくるくると回しながら焼いているのは、美味しそうなハムの塊で、ぷわりといい匂いがして吸い寄せられてしまいそうになる。


夕暮れからの時間帯がそうさせるのか、市場には昼間にはなかった食べ物の屋台が増えていた。



香ばしい匂いや甘い匂い、あちこちから堪らない匂いが漂ってくると、ネアと銀狐はくんくんしてしまい、悲しみに打ち拉がれる。


そして追い討ちをかけるように、やはりこれだけ物価が高い土地では、蓄えが十分ではなかった皆が同じことを考えるのだろう。


見切り品や特売品の情報を得て慌てて駆けつけても、あっという間に売り切れてしまうのだ。



ネアはもう、その辺で妖精狩りをしている宝石妖精の誰かを裏できゅっとやってしまい、その懐からお金をいただけばと思わないでもなかったが、しっかり中身の詰まった楕円形の黒パンの端っこを安く売っているパン屋さんに出会い、たいへんな感動の中でパンの端っこをお買い上げした。



(ザ、ザハで晩餐が食べれる金額だけど、もうそれについては考えないようにする!!)



アレクシスと半分こする大ぶりなジャガイモを一つと、驚きの掘り出し物というか、捨てようとした店主が売れるかなと値を付けてみただけに違いない、ハムの脂身と皮の切れ端も手に入れたものの、そこで資金は尽きた。


そうしてネアは、普通にお買い物が出来る全ての人々を呪いながら、色とりどりの明かりが灯る賑やかな市場を後にしたのだった。



因みに、今夜の晩餐はハムの脂身からいただく油と香りで僅かな風味をつけたジャガイモを蒸して食べるのだ。

香辛料や塩などは時間差で食べてない事になるものの、振りかけて味を整えるのに重宝する。

お口に入るまでを美味しい晩餐にする事は出来るだけでも、とても有り難かった。


水も使えるので、アレクシス特製の煮出し系スープも飲め、貧しいながらも何とか遣り繰り出来たらしい。



(とろっと系のスープは、味が残っている内に煮込みの調理が終わらないし、アレクシスさんが持っているスープを飲んでもお腹の足しにはならない…………)



あのアレクシスがティーバッグ方式でスープを作っていたのには、理由があったのだ。




「……………ぐ、ぐるる。よくもわたしをこんなめにあわせましたね。………………取り敢えず、あの誘拐犯を見付けたら羽を毟り取って売り捌きます………」



怨嗟の声でそう呟いたネアに、それならスープにしてしまうかと恐ろしい提案をしたアレクシスは、今夜は長椅子で寝てくれると言うではないか。


恐縮してしまったネアがとんでもないと止めようとしたのだが、身内ではない異性が隣に寝たりして契約の魔物の心を軋ませてもいけないし、少なくとも自分で取っていた安宿とは違いここは気分良く入浴も出来ると、野宿にも慣れているらしいアレクシスは、案外ご機嫌なようだ。



(………そんな風に上手に節約していたアレクシスさんに、沢山お金を使わせてしまったのだわ。…………本当に、帰ったらすぐにお支払いしなきゃだ…………)



老後の蓄えから失われる金額は、どれ程のものだろうか。

ネアは、夏前に奮発して買う筈だったあれやこれを思い出し、またじわっと涙ぐむ。



それは、銀狐をもしゃもしゃに撫で回さないとやっていられないくらいに、悲しい悲しい夜であった。




“口寂しくなれば、金庫の中の物を食べればいいのです。…………でもなぜか、身にならないと知ると、食べただけ余計にお腹が空くようになりました……………”




楽しい筈の夜の市場での思い出は羨望と屈辱しかなく、寝台の上でディノにそうメッセージを書けば、魔物はとても不憫がってくれた。


ヒルドからも謝罪のメッセージが来たが、ネアとしては、そんなヒルドを狙ったかもしれない陰謀にむざむざと巻き込まれてしまったことを謝っておいた。




(リーエンベルクを訪ねた人達は、前王派なのだろうか…………)



色々と考えてしまうが、まずはタジクーシャを出る事を最優先としよう。


そう考えて涙目のままふすんと頷くと、ネアは銀狐を抱き締めて眠りについたのだった。















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ