6. 傘は魚で餌付けします(本編)
「…………では、いよいよの傘選びだな。…………まぁ、一応は難しい傘だ。油断はしないようにしてくれ。…………待て!ネア、何を捕まえたのだ?!」
「……………魚です。元気にびちびちしていますが、食べられる種類のお魚でしょうか?」
「……………その、お前はまさか、後ろの森の泉に手を入れたのか?」
「はい。…………むむ、跳ね回りますので、入れ物が必要ですね。お腹の部分が金色なんですよ!」
「なぜ素手なのだ…………」
「わーお…………」
今回は、厄介な傘が収められているからと扉の魔術が二重になっているそうで、封印庫の魔術師達が扉を開けている間に、ネアはちょっとした漁をしていたのだが、尻尾のあたりを鷲掴みにした魚の入れ物を探していると、どこか遠い目をしたエーダリアが、すぐに小さなバケツのようなものを魔術で作ってくれた。
「…………お前の魔物達はどうしたのだ」
「アルテアさんが私と森との信頼関係を疑うので、森は友達だと証明するべく、私が他のお土産を探していたところ、なぜかついて来てしまったアルテアさんは、このお魚さんが泉の中から跳ね上がって体当たりした木の上からあの艶々綺麗だった林檎が落ちて来て直撃し、ディノは木の皮に話しかけられてすっかり怯えてしまい…………」
「…………ええと、突っ込むところは沢山あるけれど、林檎の下りのところ、アルテアの守護結界はどうしたのさ?」
「何やら凄い林檎だったみたいで、アルテアさんの結界は粉々でした」
「……………わーお」
「とは言えその林檎は、アルテアさんのせめてもの収穫になるそうですよ」
ネアの後方には、帽子をかぶり直しつつ、白い手袋の手のひらに美しい宝石めいた輝きを放つ林檎を持つアルテアがいる。
静かな眼差しは悲しげではあるが、とても絵になる光景ではないか。
そちらから視線を戻し再び前を向くと、羽織りものの魔物がしょんぼり呟く。
「…………木の皮なんて」
「…………ディノは、あの不思議生物のせいで、すっかり怖くなってしまいましたね。かさかさ動くなぞ皮めは、森の向こうにぽいしておいたので、もう大丈夫ですよ」
「ご主人様………………」
ディノを襲った木の皮は、平べったい体でかさかさ動きながら、万象の魔物の綺麗な髪の毛によじ登ろうとしたので、いきなりのことにディノはすっかり怯えてしまった。
伴侶に無断でクライミングをしかけた不埒ものは、ネアがすぐさま手で毟り取って投げ捨ててやったものの、可哀想にまだふるふるしている。
木の皮生物を掴んだ手は、先程アルテアが丁寧に濡れおしぼりで拭いてくれたのだが、その後に魚を掴んでしまったので、もう一度、あのおしぼりに登場して欲しいとネアは考えていた。
寧ろ、おしぼりを切に欲するのは今こそと言えよう。
(でも、アルテアさんも少し弱っているような気がするし…………)
そうなると、このおしぼりを求める心の声は伝わらないかなと、しょんぼりしたネアを助けてくれたのは、義理の兄妹になったばかりのノアだった。
「ほら、お兄ちゃんが手を拭いてあげるよ。それは、陽蜜鱒の一種だね。立派なものだけど、厳密には陽光の魔術が凝っただけのものだから、人間は食べられないと思うなぁ」
「ノアは、濡れおしぼりの救世主です!お魚さんは、人間は食べられないのですね…………。他の生き物なら食べられるのですか?」
「竜は大好物だった筈だから、持ち帰った後に、ヒルドに相談して誰かにあげてもいいかもね」
「無駄にならずに良かったです。ではそうしますね」
「……………で、では、中に入るぞ」
「はい。エーダリア様、封印庫の皆さん、お待たせしてしまい申し訳ありません」
微笑んでそう頷いたネアと、羽織りものになったままのディノも、封印室の中に向かう。
封印庫の魔術師達は、ネアが魔物達より良い収穫を得たのが愉快だったらしく、からからと笑いながら、見事な収穫だと褒めてくれた。
「となりますと、今度海が現れた際には、我々も釣りをしてみましょうか」
「やや、これはいい楽しみが出来ましたな」
「では、施設管理長のサヨンには、内密に進めましょう………。また叱られてしまいますからね」
そんな打ち合わせが背後から聞こえてくるので、彼等はなかなか楽しく仕事をしているようだ。
何だか微笑ましく思いながら封印室に入れば、かつんと床を踏む音が吹き抜けの天井に響いた。
魔物達の精神圧に怯えたのか、ばさばさっと、部屋の奥で束になった傘が床に落ちる音がする。
「ほわ、…………やはり、くしゃくしゃですね」
「いつもこうなっているのだね…………」
封印室の中は、色とりどりの傘が部屋中に散らばり落ちており、壁沿いに並んだ保管用の木の棚には、すっかり空っぽになってしまっているところもある。
装飾的な鉄格子と硝子扉のある薄い抽斗にはしっかり留め金もあるのだが、内側から抽斗を押し開けて、力ずくで飛び出してしまうのだろう。
部屋の中で竜巻でも起きたのではという有様だが、雨の日には傘達が騒いでしまうので、これは珍しいことではないらしい。
かく言うネアも、傘達が乱雑に床の上に転がり重なる封印室を見るのは、これで三度目になる。
「問題の傘はどの辺りだろうか」
そう尋ねたエーダリアに、封印庫長は部屋の奥の方を見ておやっと眉を持ち上げる。
苦笑してこちらを見たが、相変わらずにこにこしているので、あまり困っているようには見えない。
薄闇の封印室の中では、長衣の深紅が一際鮮やかに見えた。
「呪いの傘は、…………脱走したようですな」
「…………脱走?」
「この部屋の中にはおりますよ。ほら、左奥に封印石の黒い箱がありますでしょう。あの中に封印してあったのですが、森が顕現していた以上、逃げ出しているとは思っていましたが、やはりいないようです…………」
「成る程…………」
軽やかに脱走中と聞かされたエーダリアは少しだけ困惑気味だったが、ネアは、薄暗い封印室の中を見上げ、天窓から差し込む光の筋に揺らめく埃や、すぐ近くで、何か腹立たしいことがあるものか、ばったんばったん暴れている黄色い傘に、物陰からこちらを見ている気弱そうな水色の傘などを順々に観察してゆく。
また一歩前に進むと、足元に転がっていた緑の傘が激しく震え出し、慌てて転がって逃げて行った。
「ネア、くれぐれも、その靴で傘は踏まないようにしてくれ」
「エーダリア様…………」
「ネア、踏んじゃ駄目だよ」
「むぐ、ゼノまで。踏みません…………」
「ネア、傘を踏もうとしていたのかい?浮気をしてはいけないよ」
「なぜこうなったのだ……………」
魔物には浮気まで疑われてしまい、ネアは悲しく眉を寄せつつ、しっかり傘選びをしています風にしゃんと立ってみた。
羽織りものの魔物は、部屋の中のどこかに呪いの傘が隠れていると聞いて警戒したのだろう。
今は、珍しくネアの手をしっかり握って立ってくれている。
ふと部屋の中を見回せば、傘達が逃げ出さないように、部屋の扉は背後で閉ざされ、ノアはぴったりとエーダリアの隣に立っているし、ゼノーシュもグラストの隣で大事な歌乞いをしっかりと守っているようだ。
(アルテアさんも林檎はしまったようだし、杖を出しているから警戒しているのかな…………)
“呪いの傘”は、ウィームの南部にある遺跡から発掘された、アルテアの術具、或いは呪具であるらしい。
らしいと言うのは、その傘に残る魔術を、傘が封印庫に持ち込まれた際に立ち会ったノアが選択の魔術だと判断したものの、まだアルテア本人が自分のものだと確認はしていないからだ。
とは言え、ノアが言う以上は間違いはないだろうし、アルテア自身にも思い当たる傘が一つあると言う。
かつてこの大陸一の大国だったロクマリアに投じた、アルテア曰く暇潰しの一石であったということまでは話して貰ったが、その傘がどんな事件や事故の引き金になったのかまでは、アルテアも話さなかった。
古い遺跡に封じられていたくらいのものであれば、きっとその傘に纏わる過去はそれなりに壮絶なものなのだろう。
(術具となると、辻毒のように怖いものもあるし、アルテアさんが作ったのなら、きっとそういうものだった筈だわ…………)
使い魔としてこうして仕事先へ同行してくれるようになっても、やはりアルテアは、残忍で冷酷な魔物のひと柱である。
趣味や暇潰しで、或いは仕事や投資で、その土地の無関係の人々や、標的にされた誰かにとって、悍ましく恐ろしいことをさらりとやってのける魔物であり、これはアルテアの変えようのない資質の一面であることを、ネアも重々に理解していた。
それは、面倒見よくパイなどを作ってくれるアルテアとは、また別の彼らしさなのだ。
(だから、そういうアルテアさんが作った傘として、ちゃんと気を引き締めて向かい合わないとだわ……………)
「…………見当たりませんな。隠れているようです」
「エーダリア様、私からあまり離れませんよう」
「グラスト、何かあっても切らないようにしてくれ。……………あの傘は、昇華させたい」
(ん…………?)
そう指示を出したエーダリアに、ネアは、内心首を傾げた。
エーダリアの言葉の中に、珍しく含むものがあったように聞こえたのだが、グラストは特に気にする様子はないようだ。
(それとも、グラストさん達も承知の上の何かがあるのかしら?)
そんな小さな疑問を一つ抱え、じりりっと一歩動けば、沢山の傘が積み上がった棚の下との間に、すっとアルテアが割り込んだ。
「おい、不用意に物陰に近付くな」
「……………アルテアさん、刺されないようにして下さいね」
「俺が、自分が作った術式から攻撃を受けることはない」
「いえ、ここの傘さん達には、呪われていなくても人を刺してしまう、一般枠の暴れん坊がいるそうですから」
「………………は?」
「本番のお祭りの時だけでなく、よく、封印庫の職員の方も刺されてしまうと聞いています。どうか気を付けて下さいね」
そう伝えておくと、アルテアはたいへん怪訝な顔をしていたが、顔を顰めて小さく息を吐いている。
「…………さもありなん、か。ウィームらしいな」
そう呟いたアルテアは、そもそも、自身の作った術具である呪いの傘を、封印されていた遺跡から気軽に拾ってきて、危なくないように傘の術式を少し剥いでしまったのが、生粋の人間である魔術師達だということを知った時は、少なからず衝撃であったようだ。
傘を回収してきたのは、ウィームに店を構えるスープ専門店の経営者の一人の、アレクシスという男性なのだが、スープを作る為だけに高位の魔物達が慄くほどに魔術の腕を磨き、世界を旅してあらゆる食材を集め、美味しいスープを振舞ってくれる素敵な料理人だ。
そんな人材がさらりと混ざっているのがウィームの民であり、その持ち物だった傘である以上、アルテアも、呪われていなくても荒れ狂う傘くらいあるに違いないと納得してくれたのだろう。
昨年など、アルテア本人の傘がどこからともなく紛れ込んでいたくらいなのだ。
(呪いの傘は、どこに隠れているのかしら。………………ゼノがいるからすぐに見付かるとは思うけど…………)
前情報によると、金の美しい細工の持ち手が特徴的な、瑠璃紺の傘なのだとか。
アルテアが手をかけたのであれば、術具としてではあっても、粗雑なものなどは作らないということは、何となく想像出来た。
きっと綺麗な傘だろうと、ネアは物陰に探索の視線を向ける。
「それはどうだろうか。私はあまりこの姿を気に入ってはいないのだ」
ふと、耳元でそんな囁きが落ちた。
「………っ?!」
慌てて振り返ると、ひやりとする程に鮮やかな銀貨色の瞳の男性が立っていた。
さらさらと風に揺れる長い髪は、最も美しい夜を切り取ったような、瑠璃紺色をしている。
不思議な装束には、砂漠に囲まれた大きな国の騎士のような雰囲気がある。
風に柔らかく揺れる黒い布を巻いており、下に見える艶消しの金色の甲冑めいた装いは、防具というよりは装飾に特化しているように見えた。
ふわりと、馴染みのない匂いの風が吹く。
ネアはいつの間にか、見たこともない壮麗な宮殿の中に立っていて、壁のないその宮殿には見事な彫刻の円柱が立ち並び、大きな噴水が遠くに見える。
どこか異国情緒な絵付けの陶器の花瓶に生けられた花の芳しい香りと、はらはらと夜風に舞い散る薄桃色の花びら。
(カルウィにあった、水竜達の王宮に似ている……………)
思わず圧倒されてしまうが、それよりもまず、頼もしい魔物達に助けを求めなくては。
そう考えたネアに、男性はくすりと笑った。
「……………ああ、ここは短い夢のようなもの。一欠片の骨になる前の私の記憶の中だ。あの精霊が残した森のように、抜ければ消え失せる幻のようなもの。そなたの仲間達が介入出来ぬ程の瞬きくらいの時間の隙間だが、その代わり私もそなたを害することは出来ぬ。そういう決まりなのだ。怖がらずともよい」
そう言われても、疑い深い人間はすぐさまディノの名前を呼んだのだが、答える声はなかった。
ぞっとして慌てて周囲を見回したネアに、銀貨色の瞳の男性は怜悧に微笑む。
「言ったであろう。声は届かぬよ。ここでそなたと私が交わす言葉は、予言や託宣の魔術に似ている。会話は許されるが、それ以上のことは成せぬ故、落ち着くといい」
すいっと振られた手の指先は、宝石を貼り付けたような黒曜石色の爪が光る。
立派な細工のある指輪には、星空を削り取ったような宝石がきらりと光った。
(とても綺麗な人だけれど、魔物の美しさとはまた違う……………。この人の体格は、多分、竜……………)
この世界の種族には、それぞれの体格的な特徴がある。
長身でバランスの取れた肢体を持つことの多い魔物達もしなやかで力強いが、肉体的な戦闘にも長けていそうな頑強な体を持つ竜種はまた特別だ。
ネアのよく知る春闇の竜のダナエは、竜の姿を見せればとても大きな竜なのだが、人型でいれば嫋やかで儚げな美貌に見える。
恐らく竜種の中でも、火竜や風竜、氷竜や海竜達の方ががっしりとした体格なのだろう。
けれど、そんなダナエですら、ディノやアルテアよりは背が高く、この目の前の男性にも、そんな特徴的な竜の骨格が見て取れた。
「…………あなたが、アルテアさんの作った傘なのでしょうか?」
ここで竜ともなれば、それしかあるまい。
そう考えて尋ねたネアに、男性は酷薄な微笑みを深めた。
「忌まわしいことに」
「アルテアさんを、恨んでいらっしゃるのですか?」
会話を続けながら、ネアはディノと繋いでいた方の手に、今も確かに頼もしい魔物の手の温度を感じていることに困惑する。
この状況を考える限り、どこか別の空間に攫われてしまったとなった方が分かりやすい。
確かにまだ手を繋いでいる筈なのに、声が届かないだなんて。
「それは恨みもするだろう。私はあの男をよく知っているし、私を骨にしたのはあの魔物ではないが、今のこの姿は不愉快だ」
「傘にされてしまったから…………?」
「婦人傘だから、と付け加えておこう」
「婦人傘……………なのですね」
目の前に立つ男性は、どうやって傘の状態からこのような空間を作り、今、こうしてネアの前に人型で現れられたのかは謎だが、婦人傘にされるのは確かに哀れな、男性らしい美貌が華やかな美丈夫である。
容貌や声音のどこにも儚げなところのない男性が、婦人傘にされてしまうのはたいへんな屈辱だろう。
「……………私をここに入れたのは、人質にするおつもりですか?」
「いや、そなたを見極める為に招き入れた。あの愉快な魔術師が、そなたは私が秘密を明かすのに値する者だろうと断言したのでな」
「魔術師さんと言うと、封印庫の方々が?」
「私に千年ぶりに、美味いスープを飲ませた男だ。美味いと認めたら、牙と爪をくれてやると約束したが、それを渡してやるに値する男であった」
「…………どなたのことか分かりました。そうなると、私があなたのお眼鏡に適えば、あなたは私に、秘密を明かしてくれるのですね?」
「その通りだ。傘祭りとやらは、持ち手を主人とし、その持ち手を認めた傘こそが、街中に連れ出され昇華を迎えるのだろう?であれば、私を使いたければ、そなたはまず、私の主人とならねばならぬ。そして主人となる者であれば、そなた達の欲する秘密を明かしてやろう」
そう言われ、ネアは思わず首を傾げてしまった。
まだ、しっかりとディノと手を繋いでいる感覚はある。
本当に不可侵なのか、解放されればひとときの白昼夢のように覚めるのか、どこにもその保証はない。
けれど駆け引きをしようにも、あまりにも前情報がなく、どうしようもなかった。
「あなたが、さも私も十把一絡げであるように仰る秘密とやらについて、私は何の情報も持ち合わせておりません。それでも、良いのでしょうか?」
隠しても仕方ないので素直にそう問いかければ、目の前の、婦人傘にされてしまったらしい竜は、微かに瞠目する。
だが、すぐにおかしそうにくつくつと喉を鳴らして笑い出した。
「これは滑稽なことよ。大人達は、何も知らない子供に、理由も教えずにその責務を負わせたか。………………ふむ。では、今夜一人で、もう一度ここに来るといいだろう。全てを教えてやった上で、そなたが主人として相応しいか真価を問うこととしよう」
「……………その、大変申し訳ないのですが、ここは、私が勝手に出入り出来ない施設です。今夜というお約束は難しいかと…………」
「勿論、そのくらいは理解している。そなたがここを訪ねられるように、私の魔術の欠片を預けておこう。…………今は、魔物達の気配が煩いからな。今夜、………そうだな、真夜中に。誰にも言わず、そなた一人で私を訪ねるといい」
そう言われて、ネアは少しだけ思い悩んだ。
先程のエーダリアの会話の中に落ちた不自然な揺らぎを聞く限り、もしかするとエーダリア達は今回の事に対し、まだネア達には明かしていない、何らかの事情があるのかもしれない。
であれば、勿論力になりたいと思う。
(でも、……………)
その言葉を胸の中でしっかりと抱き締め、ネアはこちらを見下ろす銀色の瞳を見上げ、せめて礼は欠かないようにぺこりとお辞儀はしておいた。
「ごめんなさい。折角のご提案ですが、お断りさせていただきます」
「な、…………………」
そんな返答を返されるとは、思ってもいなかったのだろう。
目を丸くしてこちらを見た男性を、ネアは真っ直ぐに見据える。
鈍く眩しい銀貨の瞳は、これまでにも見たことのある銀貨色の瞳の中でも、とりわけ強い光を放つ。
手の中で握りしめる硬貨のようなどこか温かな銀色や、怜悧な刃物のような銀色の瞳とはまた違う、ずしりと重たく力強い色だ。
けれどもネアは、その瞳をしっかりと見て、目を逸らさないようにした。
獣の上下関係を決める戦いは、目を逸らしたら負けだと本に書いてあったのだ。
「ほお、…………では、私が持つ秘密はいらぬのだな?」
「念の為に伺いますが、先程、あなたが展開されたであろう森で良くして下さったのは、あなたではないのでしょうか?」
「私は記憶の欠片を動かす者だ。あれは、傘として呪具にされた後に、その練度を高める為に精霊達が嵌め込んだ記憶の一つ。そなたを気に入ったのは、私自身ではなく、私が動かすことの出来る術式の一つに過ぎない。この提案を蹴れば、二度目の温情などないぞ」
「そういう事だったのですね。…………それでもやはり、私は今回のお話はお断りします」
「ふむ。断ると」
こちらを見た瞳は、老獪で慎重であった。
気分を害されたと怒るべきか、これも狡猾な人間の作戦なのかを思案するように、静かに、けれども容赦なくネアを観察している。
「はい。私はとても身勝手な人間ですので、私利私欲を最優先させます」
「成る程、自身の安全の保証がなければ、危険は冒せぬか。所詮人間よの」
「そうですね。そんな危ない事はとても出来ません。私はとても人間らしく私の伴侶がとても大事なので、その大事な魔物をひどく怖がらせるかもしれないようなことは、承服しかねるのです。…………私の魔物と一緒のご招待なら兎も角、誰にも言わずに一人でという条件は、きっと私の魔物をとても怖がらせ、とても傷付けるものでしょう。私は、仕事の為に新婚生活を危険に晒す程真面目ではないのです」
「新婚生活…………?」
「ええ。とても大事なものでしょう?そもそも、あなたが口を割らないことが問題ならば、強引に喋らせればいいのです」
その言葉に、男の双眸がふっと鋭く細められる。
「ほお、私を力ずくで屈服させる気か?…………その、あまりにも頼りない可動域で、私を扱えるとでも?それとも、伴侶だという魔物とやらに助けを求めるつもりか?」
人ではない生き物らしい獰猛さは冷え冷えとする程であったが、ネアは、人間というものが、誇り高い竜種の心を砕くくらい容易い残虐な生き物だと知っているのだった。
「力ずくで、あなたをボラボラの集落に放り込みます」
「…………………ボラボラ」
「はい。竜さん達は、ボラボラめが苦手なのですよね?そんなボラボラさん達は、アップリケや刺繍が上手なのを知っていますか?せっかくの婦人傘なので、とびきり可愛くふりふりにして貰いましょうね。チューリップのアップリケに、鳥さんの模様はどうでしょうか?」
にっこり微笑んでそう提案したネアに、先程までの猛々しさはどうしたものか、男は、力なく首をふるふると振った。
気位の高そうな男性なので、言葉にしてやめてくれとは言わないようだが、こちらを見る瞳は無防備な懇願に満ちている。
しかし、最も効果的だったのは、鞭だけではなく飴も提示しなければと考えたネアがそれしか思いつけずに提示した、その後の条件だったようだ。
「なお、大人しく喋るのであれば、…………そうですね、陽蜜鱒を差し上げます」
「陽蜜鱒!いいだろう!」
とても嬉しかったのか、思わずそこで力一杯頷いてしまった男は、はっとしたように息を飲んだが、もう遅い。
魔術には言葉で結ばれる契約もあり、今しがたしっかりと声に出して了承してしまった以上、その契約は違えられないものとなる。
残念ながらこの竜には、食いしん坊という弱点があったようだ。
何やら呆然としたまま、くたりと首を落としたところで不思議な世界が晴れた。
「……………ディノ」
瞬きをするとそこは元の封印庫の中で、ネアの前には見事な金の持ち手のある、瑠璃紺の美しい傘があった。
そしてその傘にはアルテアが白い杖を突きつけ、ディノはネアの手をしっかりと握った上で、魔物らしいぞくりとするような目で見下ろしている。
「ごめんね、君一人を記憶の欠片に触れさせてしまった。…………でも、この傘はもう押さえてあるから大丈夫だよ」
「ディノ、無事に交渉は終わりましたよ。先程捕獲したお魚さんと引き換えに、傘祭りでのお散歩を許し、とある秘密を話してくれるようです」
ネアがそう言うと、ディノは水紺色の瞳を揺らして視線をこちらに向けた。
まだ魔物らしい表情をしているが、ほんの少しだけ、その鋭さが緩んだようだ。
「…………交渉ということは、この傘と契約をしたのかい?…………今の内容で?」
「お魚さんと交換だというお話はしました。餌付けのようなものですが、問題になるでしょうか……………」
ふうっと、息を吐く音が聞こえ、ネアは封印室が静まり返っていたことに気付いた。
エーダリアやグラスト達も、固唾を飲んでこの状況を見守っていたようだ。
「…………魚の他に、何かを約束したかい?」
「口を割らなければ、ボラボラの集落に放り込み、少女趣味な装飾にして貰うと言いました」
「……………ご主人様」
「ありゃ、脅迫して競り勝ったんだ…………」
唖然とした様子のノアの声が聞こえ、ネアはこちらを見ていたエーダリアと目が合う。
ほっとしたような顔をしているので、この場で聞けることは聞いてしまおうと、話しかける。
様々な判断の下、ネア達には言えないこともあるだろう。
ネア自身は構わないのだが、ここでやらないと、魔物が拗らせた場合が困ったことになる。
「エーダリア様、………この傘さんは、アレクシスさんと、私を見極めてお眼鏡に適えばという条件で秘密を明かす約束をしていたようですが、何か、そのようなお話を聞いていますか?」
すると、エーダリアは困惑したように目を丸くする。
こんな薄暗い部屋でも光をよく集める瞳の透明さに、ネアは、エーダリアは何も知らなかったようだぞと考えた。
「……………いや、私は何も聞いてはいないが、…………確かにアレクシスから、この傘はお前と引き合わせた方がいいとは言われていた。………いや、アレクシスは、お前でなければ持ち手となることを許さないだろうし、その履歴として、傘祭りで昇華しないと危ういと話していたのだったか…………」
(あ、だから先程の会話に繋がるのだわ…………)
「ありゃ。それは含みがありそうだな………」
「い、言われてみればそうだな。…………すまない。てっきり、お前なら呪いの傘とて従えてしまうからだとばかり……」
「むぐる…………」
とは言え、そんな謎めいた発言をしたアレクシスは、もう次の食材探しの為にウィームを発ってしまっている。
真意を問おうにも、すぐに連絡が繋がるとは限らない。
「…………もしかして、ディノはそのお話を聞いていたのですか?」
「エーダリアからね。けれど、君はあの魔術師を気に入っているから、その言葉に影響され過ぎないように、あえて伝えていなかったんだよ」
「……………むむ。そうだったのですね」
思いがけないところで魔物らしい狭量さが、情報共有の足を引っ張ったようだが、このあたりも生態なので怒ってもどうしようもない。
ネアはそのことはさて置きと、目の前に糸で吊られたようにぴしりと直立している傘を一瞥し、腕輪の金庫から水を張ったバケツに入れた陽蜜鱒をそっと取り出してみた。
するとどうだろう。
瑠璃紺色の傘は思わず弾んでしまい、何回か喜びに弾んだ後、はっとしたように動きを止めた。
ネアはディノの方を見てその眼差しで了承を得てから、気まずそうに固まっている傘に話しかける。
「…………………では、あなたの持っている秘密と引き換えですよ。そして、傘祭りの日も問題を起こさずにいて下さいね。さもなくば、このお魚さんは、通りすがりの野良竜に与え、傘さんの目の前で美味しく食べて貰います」
その言葉に傘は激しく震え、ややあってへなりと項垂れた。
封印庫の魔術師曰く、それで契約完了となるそうなので、ネアは、ディノに繋ぎの魔術を切って貰ってから、陽蜜鱒をバケツごとすすっと差し出してやる。
アルテアも、もう問題なしと見たものか無言で杖を下げた。
「……………見ていなくていいのか?」
「何となくですが、ご婦人用の傘がお魚を食べる姿は見たくありません……………」
「ありゃ、傘ってあんな風に食べるんだ…………」
「わぁ、僕、傘が食事してるの初めて見た………!」
封印室の中には、たいそう不安な気持ちにさせるがつがつという音が暫く響いていたが、ネアは、決してそちらを見ないようにしたまま、ディノの傘選びに付き合った。
するとなぜか、食事を終えたらしい瑠璃紺の傘が弾んでこちらにやって来ると、とある一本の傘を石突きの部分で蹴り飛ばしてディノの方に転がしてくる。
「なぬ。お仲間を転がすのはやめるのだ」
「…………………おや」
ネアはしっかりと躾けようと、腰に手を当てて食事を終えたばかりの傘に怖い声を出したが、ディノは何かに気付いたものか、ひっそりと微笑むと、その水色の傘を手に取る。
ディノに拾い上げられ、びぎゃんと震え上がったその傘は、気絶したようにくたりとなってしまう。
「私はこの傘にしよう」
「む。その傘でいいのですか?好きな傘を自分で選んでもいいのですよ?」
「うん。これでいいと思うよ。……………ノアベルト、私はこちらにするから、私が引き受ける筈だった、白い傘骨のものは任せてもいいかい?」
「ありゃ。僕もその傘狙ってたんだけどなぁ。…………うん、じゃあ、僕があの白い傘骨のものにするよ」
ノアが引き受けた傘は、壁の一画になぜか木の枝と一緒に打ちつけられており、封印室に入った時から気になっていたのだが、こちらも何か曰くつきのようだ。
ネアの傘と、ディノの傘には封印庫の魔術師がラベルをつけてくれ、傘祭りの日までは再びこの封印室の中で待っていて貰うようになる。
(問題の秘密とやらは、どうやって聞き出すのかしら…………)
その辺りはアルテアが調整してくれるようだが、何だかとても傘と睨み合っている感じがするので、あの銀貨色の瞳の男性とは、因縁があるのかもしれない。
その後、なぜかネアは口煩い侍従のような瑠璃紺の傘に見守られつつ、他の面々の傘選びを見守った。
ネアが、床に転がっている他の傘に不注意に近付き過ぎたりする度にだしだしと床で弾むので、むしゃくしゃしたネアは、無邪気さを装って、傘につけられたラベルに可愛いくまさん柄を描いてやった。
結果、グラストが大きな青い妖精の細工の傘を、ゼノーシュは子供用だがその子供の母親の契約の魔物が贈ったという、なかなか気難しいオレンジ色の傘を引き受けることが決まり、無事に傘選びも終了となる。
「では、その傘との接触…………?………については、帰ってからでいいだろうか」
「ああ。俺とシルハーンも同席するようにする。………………ん?」
「まぁ、ディノの名前を聞いて、傘さんが吹き飛びました……………」
「ありゃ、シルが誰だか知らなかったんだなぁ……………」
事情が事情なのと、なぜかディノがいつもより慎重な姿勢を見せた為、その会話は音の壁を展開し小声で行われたので、幸い他の傘には聞こえなかったようだ。
ネアは、部屋の隅っこに行ってしまった自分の傘に、以後気を付け給えとそっと頷きかけてやり、みんなで揃って封印室を出た。
今年の傘選びはとても疲れたので、帰ったら是非に使い魔作のパイなどを所望したいと思っている。




