48. 招待状はご遠慮します(本編)
その日ネアは、思いがけない事件に巻き込まれ呆然としていた。
まさかの痴話喧嘩である。
それも、全くの通りすがりの観光客の痴話喧嘩だ。
これはもう死んだ魚の目になるより他にない状況であり、そこに野次馬な観光客もやって来たのでほぼ心が死んでいたと言ってもいい。
そんな状態の時に思いがけない質問をされると、人間はついつい素が出てしまうのだろう。
それは勿論、ネアとて例外ではなかった。
「教えて欲しいことがあるのだが、」
「私はこの旅人さんに求婚もされていませんし、どこかで落ち合う約束もしていません。何しろ、ご本人がこんな地味な顔のお嬢さんには声をかけないと必死に主張されているではないですか。早急な解放を要求します………」
「………ああ、いやそっちはどうでもいいんだが、ウィーム領主を見るにはどうしたらいい?」
「…………、エーダリア様をですか?」
ネアがこてんと首を傾げれば、そう尋ねた黒髪の男性は微笑み短く頷いた。
大騒ぎのネア達のところにやって来てこちらを見ていたので、てっきり野次馬だと思っていたが、どうやらリーエンベルクの関係者を探していた観光客であったらしい。
魔術師なのか深くフードを下ろしているが、端正な面立ちの不思議な黒い瞳をしている。
黒い瞳と言えばどんなに美しい瞳でもそれまでなのだが、この男性の瞳は透明度が高い不思議な色なのだ。
思わずじっと見てみると、きらきらと光る冬の日の湖のような灰色に黒い虹彩模様がかかり黒い瞳に見えているよう。
何とも美しい瞳ではないか。
一瞬、エーダリアの名前は出していいのかどうか躊躇してしまったが、ウィーム領主の名前は問題ないのを思い出し少しだけわたわたしてしまう。
エーダリアは、本人と代理妖精しか知らない付属の名前を隠し持っており、尚且つこの国そのものや、任されたウィーム領に名前を紐付けている。
名前を隠す訳にはいかない公的な役職に就く者達には、このようにして、奪えないことを前提とした名付けもあるのだ。
つまり、自由に名乗れる者達程、守護が分厚いという事になる。
「…………ええと、祝祭の日や、その他の儀式の日にはお見掛け出来ますよ。視察などの日程も広報の掲示板に出ていますので、そちらをご覧になるのもいいかもしれません」
ネアからすれば家族のようなひとだが、ここで存じておりますと言う訳にもいかずそう教えてやれば、男性は眉を寄せて少しだけ難しい顔をする。
ネアは、その間にも、主人と長年連絡を取り続けてきたのはあなたでしょうという、観光客な奥様の厳しい追及を何とか逃れなけばならず、こちらは既婚者であるという説明をどうにかして聞いて貰おうと必死だった。
(リーエンベルクの正門はどこですかという質問に答えただけなのに…………!)
何しろこの奥様は、ネアに一言も喋らせてくれないのだ。
これでは弁解のしようもないし、何か問題を抱えているらしい夫婦の言い合いはどんどん激化してゆく。
あまりの苛烈さに、ネアの肩の上に乗っている銀狐もすっかりけばけばだ。
任された仕事があるので早くこの場を離れたいネアは、地団駄を踏みたい思いでいっぱいであった。
ネアが引き受けたのは、騎士棟の本日のボール遊び担当者に銀狐を届け、すっかりお昼休憩を忘れているヒルドを連れて帰って来るだけの簡単な任務であったが、早くも挫折の様相を見せ始めている。
困り果てたネアがじりじりと輪から離れようとすると、激高している奥さんが逃がすまいと立ち塞がってしまい、逃げることすら出来ない。
もはや打つ手なしだろうかと渋面になったところで、ふっと隣で苦笑する気配があった。
「……………ご主人はこの女性ではないと話しているが、人違いではないだろうか。彼女のことは好みではないようだし、浮気をしていないとは話していない。あなたとの夫婦関係を白紙に戻したいと言っているくらいだし、恐らく他に該当する女性はいるのだろう。きちんと、正しい当事者を連れてきて話し合った方がいいだろうな」
その声はすっと冷え込む夜の空気のような穏やかさと甘さで、荒れ狂っていたご婦人が小さく息を飲む。
やっと、怒鳴るのをやめてくれた上であらためてネアをじっと見ると、貴族かもしれない仕立てのいいドレスを着た金髪の巻き毛の美しいご婦人は、さあっと青ざめるではないか。
「…………やだ。この人の趣味じゃないわ」
「…………ふぁい。納得してくれたようで何よりです」
「え、誰なのよ…………」
「リーエンベルクの正門の位置を教えて差し上げただけの、通りすがりのウィーム領民です…………」
「…………ごめんなさい。主人は、くっきりとした顔立ちの、目の大きい女が好きなの。胸は主人の好みだけど、顔が違ったわね…………」
そそくさと、これから離婚に向けての三者間協議をしようではないかと立ち去って行く観光客夫婦の後ろ姿を見送り、ネアはがくりと肩を落とした。
(理不尽過ぎる…………貶されるだけ貶されて、謝罪すらして貰えなかった…………)
貰い事故とはまさにこの事である。
あまりにも疲労困憊しているネアに、銀狐が一生懸命冬毛の尻尾をぱすぱすさせてくれて慰めてくれたが、現在この尻尾は不正が疑われているところだ。
さすがに、まだ冬毛なのは絶対におかしい。
(あ、……………)
ここでネアは、ご婦人の誤解を解いてくれた男性にまだお礼を言ってなかった事に気が付いた。
善意からというよりは、こちらの男性も見ていてうんざりしたのだろうという感じの一声だったが、そのお陰でネアは無実の解放となったのだ。
「………あの方を冷静にしていただき、有難うございました」
「いや。さすがにあれは、傍で聞いていても不愉快だった」
「…………これまで貯め込んでおられたものを解放した瞬間だったので、あの勢いだったのでしょうね。一つ助けていただきましたので、門の護衛の騎士さんに、エーダリア様の公式行事参加のご予定をお聞きしましょうか?」
ネアがそう言えば、男性は小さく頷いた。
実は、これは親切めかしてはいるが、リーエンベルクの住人としての防衛措置である。
魔術のあれこれに長けた騎士達は、不審者の身元の照合や追跡なども行える、高位の魔術師としての才能を持つ者も多い。
おやっと思う人物と出会った時は、こうして騎士達に引き合わせておけば、さりげなく身元を特定するのに有用な情報などを引き出してくれる仕組みなのだ。
タジクーシャの問題を耳にしている以上、何となく一般人らしからぬ人物がエーダリアに示す興味は見過ごせない。
かくしてネアはふんすと胸を張り、肩の上で同じようにきりりとした銀狐と共に、近くにあった門ではなく正門の護衛騎士のところまでその人物を案内する事にした。
リーエンベルクの正門付近には常に四名は騎士がおり、内一人は、領民や観光客からの質問に対応する為に常に自由に動けるようになっているのだ。
なお、正門に立つ騎士には席次にあたる騎士が必ず一人、もしくは二人含まれるのだが、そんな騎士達は外からは見えないように門の内側に控えていることが多い。
よって、リーエンベルクを外から見ている者達の多くは、正門前の騎士は多くても三人だと認識していたりする。
(あ、……………)
けれど、正門近くに歩いていったネアは、そこに思いがけない人物を見付けた。
こうしてネアがリーエンベルクの外に出ていたのは、銀狐運送の傍ら、せっかくだからと見回りも兼ねてのことである。
勿論、銀狐が一緒だからこその一仕事なのだが、執務室から銀狐を回収した際に、まめなエーダリアが一報しておいたのだろう。
先程の騒動で随分時間を取られてしまった為、銀狐のお届けがないことを心配したのか、外周で南門に向かっていたネア達を探すようにヒルドが立っていたのだ。
ネアを見付けるとほっとしたように微笑み、直後、その表情が一変した。
(………………え?)
視線の先で、蒼白になったヒルドの、青い青い瞳が宝石のように煌めく。
家族のようなその森と湖のシーの色が、鮮やかに揺れた。
「ネイ!」
その時、ヒルドが呼んだのが自分の名前ではなく、ノアの名前だった事にネアはぞっとした。
つまりは、ヒルドが、ネアの名前を呼んではならないと判断しなければならなかったという事ではないか。
「やはりこれが領主か」
「領………?!」
ふっと耳元で落ちたのは、冷ややかで冷酷な呟き。
ネアはとんでもない誤解をされていると目を丸くしたが、その時にはもう、足元には地面がなかった。
突然真っ暗な暗い穴に放り込まれたような衝撃に、何も言えないままに歯を食い縛る。
「ディ……………、」
(ディノ……………!!)
風圧に千切れ飛んでしまう言葉に、その名前を心の中で強く呼び、肩に乗っただけの銀狐とはぐれてしまわぬように顔にぶつかったふさふさの尻尾をしっかりと掴んだ。
深く深く落とされてゆく感覚は胃がひっくり返りそうな不快感だったが、頼もしい魔物が一緒なので取り返しのつかない事になったという恐怖はない。
それよりも、あの人物の狙いがエーダリアである事を伝えられなかったのが悔やまれた。
「…………っ!」
ネアが落ちたのは、井戸の底のような暗い場所だった。
普通に高いところから落とされたように地面に叩きつけられる事はなく、気付けばその地面に立っているのだが、たった今、長い距離を落下してきたという感覚が残っているからには、魔術による転移に近いものだったのだろう。
「……………っ、ぁ」
その負荷はかなりのものだったのだろうか。
何とか背筋を伸ばそうとしていたネアは、どっと冷や汗をかいていた。
地面に手をついて蹲りたいし、背筋が気持ち悪いが、そんな事を言っている場合ではない。
ゆっくりと振り返ると、やはりと言うべきか、そこにはあの男性が立っていた。
一欠片の風も揺らぎもないその立ち姿は、この暗闇の中で闇の色とはまた違う黒さで鮮やかに浮かび上がる。
「招待状をお持ちした。ウィーム領主殿。これより我等は、百年に一度の宝石狩りを始める予定だ。タジクーシャの審判の決まり事はご存知か?」
乱暴な言葉ではない。
だが、どこか慇懃無礼とでも言うべきか、穏やかなようで嘲られている気がしてならない。
「…………あなたは、タジクーシャの宝石の妖精さんなのでしょうか?」
「如何にも。やはり、ヒルドから我々の話を聞いていたか」
「お知り合いの方がいるという事までは聞いていましたが、直接にあなたを存じ上げてはおりません。………でも、あなたはヒルドさんをご存知なのですね」
「会うのは随分と久し振りだがな。最後に会った時には、まだ互いに少年だった。………さて、聞いているのなら話は早い。王宮においでいただこう」
「随分と乱暴なやり方だとは思いませんか?私はまだ、ご招待に応じるとは言っていませんし、そもそも私が、あなたが思っている人物なのかどうかすら定かではないでしょうに」
ネアは、敢えてここで、自分はエーダリアではないとは言わなかった。
肩には銀狐がいてくれる。
であるなら、どうせ巻き込まれた以上は、ぎりぎりまでこの妖精達の目的を探っておこうと思ったのだ。
「悪く思うな。しきたりなのだ。お前も、妖精王の庇護を得るのなら、その妖精王が為すべき役割を代行する権限が生まれるという事くらい知っているだろう。…………知らないのか?」
真意の読めない飄々とした様子が、ネアが首を傾げた瞬間に少し崩れた。
知らないものは知らないので、ネアは知りませんが何かという態度で黒い瞳の妖精を見上げてみる。
(妖精さんは華奢な方が多いけれど、この人の身体的特徴は魔物みたいだわ………)
細身ではあるが、華奢には見えない。
しなやかな筋肉と長身のバランスが取れた優美さは、ディノやノア、アルテア達を思わせた。
剣を手に取り戦う姿が武闘派でもあるヒルドや、以前訳あって攫われた事のある闇の妖精達などの最古の妖精種は、他の妖精達よりは体の作りがしっかりしていると言われているが、やはり魔物達よりは体の線が細い。
だが、目の前の男性が宝石の妖精であるならば、初めて見るくらい魔物に見える妖精だと言わざるを得なかった。
「人間と妖精の代理妖精契約は、その妖精自身だけでなく、妖精の持つ力を間接的に人間が手に入れることに等しい。よって、自身より階位の高い妖精の忠誠を得た者は、その妖精の果たすべき役割への責任が生じる」
「役割を…………」
「……………妖精王を得たのなら、王を奪うだけの責任を果たすべく、妖精王が不在の時にはその一族を庇護しなければならないのは、大抵の者が知っているぞ。加えて、それ以外の約定も、代わりに果たす事が可能となる」
「であるのならばそれは、ヒルドさんが、私に代理で行ってくれないだろうかと頼んでこそのものではないのですか?」
「残念ながら、そうでもない」
ふっと微笑んだ男は、ゆっくりと目深にかぶっていたフードを外す。
長い黒髪は緩やかな巻き髪になっており、ハーフアップのような独特の髪型にしているが、柔らかな印象とは程遠かった。
「我々は、王本人では畏れ多いと、代理の者の立ち合いを望み、この招待状を用意している」
「招待状とは、受け取った側に参加の可否が選択出来るものです。あなたのこれは、招待状を渡すのに相応しい行為でしょうか?」
辺りは真っ暗だったが、ここは、どこか見知らぬ土地の円形の広場であるようだ。
本当に井戸の底でなくて良かったと安堵しつつ、ディノを呼んで迎えに来て貰うべきなのか、このままノアに連れて帰って貰うべきかを思案した。
(タジクーシャはあわいだと聞いていたけれど、入ったら出られないというような事は話していなかった。それなら、帰ろうと思えば帰れる筈…………)
「相応しくはあるまい。だが、今回の宝石狩りは、裁定者の選出にも趣向を凝らす事となった。お前を連れ出せば、ヒルドは必ず私を追うだろう。あの一族の最後の王を我等が王宮に招き入れれば、この上ない宝石狩りとなる」
「………妖精王の代理として呼び付け、実際には、ヒルドさん自身を呼び寄せる為の囮にするつもりなのですね?」
「ああ。タジクーシャの妖精には、かの一族の妖精王を招待するしきたりがある。相手が妖精王ともなれば、出席の可否には口を出せぬが、代理のお前は私より階位が低くそれを断る権利を持たない。魔術の誓約と理に縛られた、なかなか良い筋書きだとは思わないか?」
この暗さは新月の夜なのだろうか。
風はなく、からりと乾いた空気には僅かに砂の匂いがする。
一瞬、物語のあわいの事を思い出しかけてしまったが、空気の匂いはまるで違っていた。
(……………つまり、この人達の目的は、その宝石狩りの裁定者として、ヒルドさんを呼び出すこと…………?)
ネアは、てっきり狩られる側の要素として目をつけられているのではと考えていたが、そうではないらしい。
「あなた方の狩りの獲物を、ヒルドさんに評価させたいのですか?」
「我々は、長らくあの一族の裁定を得られずにいた。作られたものではない宝石を司る者の裁定を得れば、宝石の価値は計り知れなくなる。当然の事だろう」
「では、このような事をせずに、言葉を尽くしてお願いするべきでした。縁がある方からのお願いであればと、聞き入れてくれたかもしれないとは思わなかったのですね………」
ひゅっと風を切る音がした。
ネアは、いつの間にか喉元に突き付けられた半月刀を眼球だけを動かして見下ろし、まさか守護が無効化されていたりなんてしない筈だと、震え上がりそうになる自分を叱咤する。
そしてなぜか、肩の上の銀狐が必死に肩に爪を立てているようなのだが、今はそちらを見るだけの余裕がない。
「私には、お前を甘やかす道理などない。その身に宿す色彩以外の特筆するべきものも持たない人間の分際で、愚かな思い違いをしない事だ。付いて来い。このまま…………」
突き付けられた時と同じように、半月刀はひらり視界から消えた。
舞踏のような優雅さは、どこかカットされ宝飾品となった宝石の妖精らしいけばけばしさで、鋭く残忍なその仕草にはそんな華やかさが常にあった。
けれど、そのままネアをどこかに連れてゆこうとした男は、無言で瞳を瞠ると、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……………っ、」
ぞっとするような暗い精神圧に当たられ、ネアはまた奥歯を噛み締めなければならなかった。
(…………でも、……それでもこの男性が、ウィリアムさん程の階位にあるという事はないと思う……………)
妖精種の中の王族相当は、かつて相対した闇の妖精達である。
しかしながら、ネアが今感じた精神圧のようなものは、その闇の妖精達の敵意や殺意よりもずしりと重たく感じた。
(という事は、やはりここは、この人の領域なのだわ。…………タジクーシャに、呼び落とされてしまったと考えた方がいいのかもしれない…………)
警戒していたのに、なぜこんな事になったのだろう。
あの場で、こちらとしては巧みな対応をしているつもりで魔術の繋ぎ目を作ってしまったものか、ヒルドから貰っている守護から何かを引っ張られてしまったものか。
「私に、…………何をした」
「………………あなたに?」
「王宮への道が閉じている。お前が何かをしたのではないのか」
「…………その、大変残念ながら、私にはそういう事は出来ないのですが、」
つかつかと歩み寄って来た男に、肩の上の銀狐がぐるると唸った。
(……………おかしい)
ここで漸く、ネアも異変に気付いた。
刺すような眼差しの男に向かってしゅばっと片手を上げると、慌てて肩の上の銀狐を抱き下ろす。
「ちょっと待って下さい。こちらも、何かがおかしいようなので、確認をしてもいいでしょうか?」
ネアがそう尋ねたのは、目の前の、羽は見えないものの隠しているのであろう妖精が、それを許さない程に余裕のない人物には見えなかったからだ。
かなり怒ってはいるが、こう言えば状況を飲み込む為に待つ事くらいはしてくれそうだと思ったのだ。
案の定、男性は目を瞠ってこちらを見ると、ゆっくりと頷いた。
傲慢だが軽薄に見えないその仕草は、どこか高い階位にある者を思わせる。
「…………何があった」
「この狐さんは、もっと色々な事が出来る筈なのです。それなのに、…………ノ……ネイ、どうしたんですか?」
ネアがやっと瞳を覗き込んでそう言えば、こちらを見た銀狐はじわっと涙目になると、ムギーと声を上げた。
(まさか、…………)
尻尾を振り回しながら、ネアの手をたしたしと前足で叩く銀狐は、かなり動揺しているように見える。
言葉を交わす事は出来なくても、ネアはすぐに、人型の魔物に戻れなくなったのだと理解して真っ青になった。
「き、狐さんに何をしたのですか!」
「私ではない。………お前でもないとなると、…………前王派か。この門を汚染するとは、狡猾な真似を…………」
「………とても嫌な予感しかしませんし、とても巻き込み事故という気しかしませんが、どのような状況なのでしょうか」
慎重に現状を把握しなければと、そう尋ねれば、男ははっとするほどに透明な黒い瞳を細めて顔を顰めた。
言うのも不愉快なのだろうが、ここは是非、状況を教えていただきたいところだ。
「…………変質禁止の術法をかけられた門を通されたようだな。外周の街から出られないようだ」
「…………擬態をしたり、擬態を解いたりする事が出来ないという事でしょうか?」
変質禁止の術法は、タジクーシャでは珍しくないものなのだそうだ。
品物として生まれたタジクーシャの宝石妖精達の寿命は、自身が派生したその品物と繋がっている。
そんな、自然から派生する妖精より遥かに脆いこの地の妖精達は、変質禁止の術法をかけて変化を止める事で寿命を延ばすのだ。
「ウィーム領主は肩に狐を乗せていると聞いていたが、やはり、その狐は魔獣か使い魔だったか…………。その通りだ。私が、王宮への入り口を開く姿に戻れないように、お前と獣も本来の姿には戻れないだろう」
ぎりぎりと眉を寄せ、ネアは悲しい溜め息を吐いた。
つまり、銀狐な塩の魔物は、あの場で咄嗟に人型に戻らず狐姿で様子を見た事が仇となったらしい。
ノアにそれが出来なかったとは思えないので、あえて擬態を解かずにいたのだろう。
もしくは、よくあわいの入り口は魔術が不安定だと話しているので、あの状況では擬態を解けなかったのかもしれない。
「ふむ。………それなら、助けを呼ぶしかありません」
「それも出来ないだろうな。タジクーシャは、現在は一時的に門を閉じている。宝石狩りの貴族や商人達がタジクーシャに戻る迄は、十日間の間出入りが禁じられるのだ」
「…………私の魔物なら、門など、ばりんと崩せるに違いありません」
「言っておくが、無理だろうな。タジクーシャはお前達が暮らす表層の土地とは理が違う。あわいには、あわいの規則があり、ここへの門は今朝に閉じたばかりだ」
淡々とした口調でそう言われたが、ネアは諦めずに伴侶の魔物の名前を何度か呼んでみた。
しかし、エーダリアの執務室で別れたディノが駆け付けてくれる様子はなく、それはきっと、朝風呂中だからという事ではないだろう。
「ヒルドを得ておきながら、契約の魔物も得ているのか。強欲な事だ」
呆れたようにこちらを見た妖精をじろりと睨み、ネアは、首飾りの金庫の中のカードに思いを馳せた。
幸いと言うべきか、目の前の男性にはネアを害するつもりはないようだ。
けれども、じわじわと染み込んでくる不安に、胸が重苦しくなってくる。
(それなら、無謀な事はせずに、助けを待つべきだろうか……………)
となると、門が開くまでか、ディノ達がどうにかして駆け付けてくれるまでを何とかやり過ごさなければならない。
どこか安全なところでカードを開き、現在の状況を伝えなければ。
そしてその為には、絶対に知っておかなければならない事があるのだ。
「つまりあなたは、陥れられたのですね?」
「領主としての胆力かもしれないが、物怖じしない人間だな。………確かにそのようだ。だが、これもまた一興やもしれぬな。何しろ退屈はしていたところだ」
「となりますと、是非にここからは別行動とさせて下さい。ここが、外周の街というところであればお宿がある筈ですので、私は宿を探しに行きます」
念の為ではあったが、ネアは、使い魔からタジクーシャについての講座を受けている。
外周の街には、外部から宝石の買い付けに訪れた商人の為の宿屋が何軒かあった筈だ。
きっぱりとそう言ったネアに、妖精は驚いたように目を丸くする。
「…………妙に冷静だな」
「今日ばかりは貰い事故の日とでも命名したいくらいの連続技ですが、このような事に巻き込まれるのは、初めてではありませんから。では、ごきげんよう」
爽やかに挨拶をしてそそくさと離れようとしたネアは、何歩か歩いたところでがしりと腕を掴まれてしまい、そう簡単には逃げられなかったかと嘆息した。
「…………何のご用でしょうか。あなたは今、私をどうこうするよりも、ご自身の問題を解決して下さい。そして、大切な事をお伝えしなければなりませんが、残念ながら私は、ウィームの領主ではありません」
そう告げたネアに、男性は瞳を細めて冷ややかな微笑みを浮かべる。
「言うだけ無駄だとは思わないのか。肩の銀狐にその髪色、自身について言及された時の躊躇、それに、お前の背後に私がいると気付いた瞬間のヒルドのあの表情以上にそれを否定するものなどあるものか」
「狐さんはお届け中でしたし、ヒルドさんが慌てて下さったのは、我々が顔見知りだからです。最も大切な事をお伝えさせていただくなら、私とウィームの領主様とでは性別が異なります」
「あの王宮の外に出ていたので、擬態をしていたのだろう。何なら、宝石占いでもするか?」
ネアは、これは頑固そうだぞと眉を寄せつつも、宝石占いという言葉にぴこんと反応した。
「占いが得意なのですか?その、…………私に同性の女の子のお友達が出来るかどうか、占って貰う事も出来るのでしょうか?」
ネアが、我慢出来ずにおずおずとそう聞けば、銀狐がけばけばになり、黒い瞳の妖精は少しだけ唖然としたようだった。
「…………友人もいないのか」
「き、気のせいです。私は何も言っておりません…………」
「だが、私にそれを占って何の収穫がある。お前がウィーム領主なのかどうかだけを占えばいいだけだろう」
そう言うと、男はどこからか取り出した小さな宝石粒を幾つか手のひらで転がした。
色とりどりのその煌めきに目を奪われていると、小さく詠唱した黒い巻き髪の男性は見る間に青ざめてゆくではないか。
あまり良くない占い結果が出たに違いない。
(………占いの結果をすぐに信じたという事は、それだけ確実な結果が得られるものなのかしら…………?)
そして、ネアに尋ねるのだ。
「…………お前は誰だ」
「デジャブ…………?」
本日二度目の問いかけに、ネアはそのままぱたりと倒れて怒り狂いたくなった。
今日の午後のおやつは、杏のお酒をたらしたクリームをたっぷりのせた焼きたてワッフルの予定だったのだ。
もしこのまま、おやつに間に合う時間までに迎えが来なければ、多分、世界を滅ぼしてもいい頃合いに違いない。
「…………だが、妖精の決まり事で呼び落とせたのならば、お前は決してヒルドとは無縁ではないのだろう。まさかあの男は、複数の主人を持っているのか…………?」
「さて、どうでしょうね。…………なぜ、余計にしっかりと腕を持ったのだ」
「…………お前の可動域は妙に低いな?」
とても不愉快そうに低い声で尋ねられ、上から下までじろじろと見られたネアはかちんとする。
宝石狩りだか何だか知らないが、こちらにおわすは狩りの女王なのだ。
迎えを待たなければならない以上は、危害を加える宝石妖精が現れたら片っ端から狩るしかあるまい。
(その為にも、一刻も早くお宿に行って、装備を整えなければいけないのに………)
肩の上の銀狐も、これではあまりにも無防備なので、怪我などしないように、何らかの安全対策を取らなければなるまい。
つまりのところ、人違いで誘拐した犯人と共にいる余裕などある筈もないのだった。
「あら、九もあるのですから、一人でお宿くらいは探せますよ」
「九十もあるようには見えないがな」
「ですから、九です。言っておきますが、私の可動域は上品なのであって、貶してもいいものではありませんからね?」
「……………九。羽虫にも劣るではないか」
「……………狐さん。この方とは永遠におさらばしましょうね」
ネアはとても冷ややかな目で黒髪の妖精を一瞥すると、掴まれた腕をぐいぐい引っ張った。
そんなネアをあの黒い瞳でじっと見ていた男は、ふっと小さく唇の端を持ち上げる。
「…………部下を呼べばこの程度の罠など簡単に払いのけられるが、どうせ宝石が狩られてくるまでは暇だからな」
そう呟き考え込んだ妖精の姿に、ネアはひやりとした。
もっと余裕なく動いてくれれば、ネアどころではなくなる可能性もあったのだが、あっという間に冷静になられてしまった。
「お前を使ってヒルドをこちらに呼ぶまで、………一週間もあれば足りるだろう。…………それまでは逃してやる訳にはいかないが、タジクーシャの基盤となる一族の妖精王の守護を受けた者だ。殺しはすまい」
「………この状況下では、現地の住民の方との接点はとても貴重なのでしょうが、あなたは狙われているのですから、…………むぎゃ?!なぜに小脇に抱えるのだ!離して下さい!!」
「…………ヒルドが、なぜこんな人間に守護を与えたのか、まったく分からん。擬態として被った襤褸だと思っていたが、まさか姿形もこのままなのか…………?」
「ぐるるる!」
唸り声を上げてじたばたしたネアだったが、へばりついていた銀狐が落ちてしまいそうになったことに気付いて、慌てて銀狐を抱き締める。
それと同時に、この体勢だと、男が腹を立てて銀狐をむしり取ってしまえば、そのまま引き離されてしまう可能性があると考え、ぎくりと動きを止めた。
(……………今は、ノアと引き離されないようにしないとだわ。………確か、状態固定の呪いや魔術をかけられても、一定時間で強制的に元に戻るようにはしてあると話していたもの…………)
加えてこの妖精は、一週間もあればヒルドをこちらに呼べると話していた。
先程は、十日の間は道が閉ざされていると言っていた筈なので、そのあたりの相違も気になるところだ。
(どこかに、抜け道のようなものがあるのかもしれない……………)
荷物のような持ち方をされてはいるが、何らかの魔術を使っているものか、片腕を巻き付けられた腹部が痛むような事はなかった。
やはり、ネアを傷付ける意思はないらしい。
「…………むぐる」
悲しい思いで、ネアは真っ暗な広場を見回した。
随分と広い円形広場は、大きな木々で囲まれており、しんと静まり返っている。
どうやら、迎えが来るまではこのままタジクーシャに滞在する事になりそうだ。
明日6/13の更新はお休みとなります。
(TwitterでSSの更新をさせていただくかもしれません)




