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チーズ籤と牛乳瓶の精霊



「ディノ、バルバの前にダナエさんとお買い物に行くので一緒に来て下さいね」

「ネアが浮気してる…………」

「なぜ涙目なのだ。ダナエさんとバーレンさんのお買い物に同行するので、ディノは私の伴侶として同行して下さい」

「虐待して浮気する」

「おのれ、私をどうしたいのだ………」



ネアはここがリーエンベルクの中であった事に安堵し、震える息を吐き出した。


美しい魔物が涙目でこんな事を言っているところを誰かに見られたら、ネアの淑女としての評判は地に堕ちるに違いない。



「…………お前は今度は何をしたのだ」

「ぎゃ!聞かれています!!」

「ネアが、……………浮気した」

「浮気はしていません!ダナエさん達とお買い物に行くので、一緒に来て下さいとお願いしただけではないですか!」



めそめそしながら荒ぶる魔物にネアがそう言えば、たまたま廊下でこの修羅場に立ち会ってしまったエーダリアは、片手で額を押さえて溜め息を吐いた。



「それはお前が悪いな」

「……………解せぬ」

「お前は、魔物の伴侶である事を自覚し直せ。ダナエ達と約束をする前に、その話になった時まず、行ってもいいかと確認をしてやるべきだろう」

「…………でも、他のやり取りの経緯から、ディノとはその前の日に、ダナエさん達がお買い物に行くのであれば、ご一緒しましょうかと話していたのですよ?」

「それでもなのだ。約束というのは魔術上の契約に近い行為になる。それを他の男性と取り交わした事が問題なのだろう」

「…………面倒く…………なんと繊細なのだ」

「……………ダナエなんて」



思わず真顔になってしまったネアに対し、エーダリアは生徒の不手際を窘める教師のような目をしている。


こうして向き合えば、エーダリアはやはり、人間の中でも冷ややかな美貌の持ち主で、言動にもそれを覆すような朗らかさはない。

どのような人物なのかを知らなかった頃のネアは、そんなエーダリアを冷酷で計算高い王子だと考えていた。


しかし今、ここでうっかり巻き込まれた魔物とその伴侶である部下の痴話喧嘩に誠実に向き合ってくれているエーダリアは、リーエンベルクの良心と言ってもいいくらいの優しいひとだった。


なお、この状態には希少な魔術書や魔術のない環境でという注釈がつくが、概ね善良な人間であることは間違いない。



「…………場合によっては、約束について再考した方がいいのではないか?だが、珍しいな。お前はそのような場合には、問題となるものを切り捨てて身軽になる事を躊躇わなかった筈だが…………」

「エーダリア様の中の私への認識がどうなっているのかはさて置き、今回はどうしてもダナエさん達のお買い物に同行しなければならない事情があるのです。…………エーダリア様、私達が行こうとしているのは、明日のウィームの夜市なのですよ?」



ネアがそう言った途端、エーダリアがさっと青ざめた。

鳶色の瞳を瞠り、わなわなと手を震わせる。



「……………古書店に寄るつもりなら、何でもいい。お前がこれぞと思うものを買って来てくれるか?」

「そっちに振り切った!」

「い、いや、…………夜市の古書店には、時折ある筈のない本が紛れ込むと言うからな。お前ならそのようなものを見付けるのは得意だろう」

「少しも正規の順路に戻って来てくれないエーダリア様にお伝えしますと、ダナエさんは生粋の買い物音痴です。バーレンさんは少ししっかりされていらっしゃいますが、基本はダナエさん大好きっ子で、ダナエさんの決定には物申さないでしょう。…………かつて、水槽ごと生きた鮫を買わされた事のある食いしん坊な竜さんを、ウィームの夜市に解き放ったらどんな惨事になることか………」

「…………っ、そうだった。すまない」


やっと事の重大さに気付いてくれたエーダリアは、ネアが、ディノが荒ぶっているからとは言え、明日の買い物の約束をずらせない理由も、断れない理由も理解してくれたようだ。



(ダナエさん達を野放しにしてはいけない気がするので一緒に行く必要があるし、約束を取り直そうにも、目的は不定期の夜市なのだから日程の変更も出来ないし……………)



確かにネアにも心配が高じて焦ってしまった部分があるが、ディノがこのようなところで荒ぶるとは思わなかった。



(…………でも、どうにか落ち着いて貰わないと困るのはともかく、当日は嫌な思いをせずに一緒に居て欲しいのだけど…………)



狡猾な人間はうーむと首を傾げ、どこか頑固な目をして荒ぶる魔物をじっと見上げてみた。



「ごめんなさい、ディノ。人間にはこうして、伴侶にちょっとした我が儘を言ってみて甘えたくなる事があるのです。初めてしでかしてしまいましたが、きっとディノに気を許して甘え過ぎてしまっただけなので、今後は気を付けますね」

「……………甘えていたのかい?」



ネアの言葉に、小さく息を飲んだディノは、ふるりと瞳を揺らしてこちらを覗き込む。


澄明な瞳の美しさには、どきりとするほどの無防備さが垣間見え、ネアはそんな魔物を丸め込もうとしている己の罪深さに苦笑した。



「はい。いつもなら、手順を誤らないように、気を付けるべきところで失敗してしまったのですから、私は随分とディノに甘えてしまっていましたね。今後はもう少し、気を引き締めて…」

「ご主人様…………」

「ディノ?」

「君が甘えてくれたのだから、明日は一緒にゆくよ。今日は記念日になるのかな………」

「なぬ。記念日を制定されるのは予定外です。もっと特別感のある日を是非にと思うばかりなのですが、…………」

「君が、私に甘えてしまって過ちを犯した日なのだね…………」

「そう言葉にされると、絶対に違うような気がします。エーダリア様……………ぐっ、いつの間にか逃げてる!」



ネアはいつの間にかその場から立ち去っていたエーダリアを恨めしく思いながら、一転してうきうきしている魔物の横顔を見上げる。



「……………ディノ、でも私の我が儘でしょんぼりさせていたのは事実なので、後で爪先を踏んであげましょうか?」

「……………うん。ずるい」

「ふふ、これでも私は身内贔屓なので、大切な魔物は甘やかしてしまうのです」

「……………アルテアの爪先もかい?」

「…………アルテアさんの爪先は踏みませんよ?」



ディノは、ひどく不安げにそう尋ねたのだが、ネアとしては暗い目をしてぶんぶんと首を横に振るばかりだ。


ディノだからこそ折り合いをつけているこんなご褒美をアルテアにまで欲しがられたら、使い魔とて解雇するしかなくなってしまう。



(と言うか、アルテアさんがこちらの趣味を全開にしてきたら、上手く言えないけれどとても危うい気がする。絶対に関わりたくない……………)



「もしかして、最近使い魔さんがよく来ているので、新婚なのにと、ディノが寂しく思っていたりしますか?」


こんな時、ネアはきちんと簡素な言葉で尋ねるようにしている。

すれ違いや誤解など、生来の価値観の違う二人を引き離しかねないものは丁寧に叩き潰すのだ。



「アルテアが君に懐いているのは構わないのだけれど、…………爪先を踏んだりするのは私だけでいいかな…………」

「その心配なら不要なものですよ。私は、ディノ以外の誰かにまで、そういう事はしたくありません…………」



使い魔までもが変態のお作法にまで目覚めるなど、とんでもない悪夢であるとネアはこくりと頷き、そっと握らされた三つ編みを無言で見つめる。

ディノは、ネアが三つ編みをぎゅっと握ったことでご主人様がとても懐いていると弱ってしまい、それ以上は荒ぶる事はなかった。




だからこそ、翌日の悲劇は起きたのだろうか。





「……………ネア、これは?」



約束の日の夜、ふと立ち止まり、小さな飲み物の屋台に興味を示したのはダナエだった。


本日はゆったりとした濃紺の長衣姿で、鮮やかな琥珀色に様々な花の刺繍がある帯をきゅっと巻いた姿は、異国の旅人のようで目を引いた。


濃紺の三つ編みは夜空の色を紡いだように艶やかで、特に擬態などはしておらず、白い雄鹿の角に似た片角もそのままだ。


そんな姿の美しい竜にお店を覗き込まれるとぎくりとする店主もいたが、淡い桜色の瞳を無垢に揺らして品物を見ているダナエが稚く見えてしまうからか、それ以上の動揺はなさそうだ。



「これは夜風のさざめきの祝福と、蛍石の煌めきを溶かしたお茶のようですよ。飲んでみますか?」

「小さな入れ物なのだね」

「ダナエ、それは普通の大きさなんだ。飲み物は普通の大きさで飲めていたんじゃないのか?」

「粒が入っているから、食べ物なのではないかな」

「ふふ、それは夜林檎の花の蜜粒なんですよ。林檎の香りのする甘いゼリーのようなもので、飲み物を飲みながら楽しむのが流行っているようですよ」

「…………飲む」

「…………二つ頼もう」



思いがけず甘党であったらしいバーレンも含め、いそいそと注文に向かった二人の姿に、ネアは唇の端を持ち上げる。


実用的ではあるがどこか貴族風な黒いコート姿のバーレンといい、二人が旅人達である事は一目瞭然だったが、リーエンベルクの歌乞いであるネア達が一緒にいる事で好意的に接してくれる商店主が多いようだ。



(限られた時間なのだし、楽しんでくれていて良かった……………)



その事にほっとして息を吐いたのは、ダナエが危険な商人の餌食になったり、擬態をしない事で怖がられてしまったら嫌だなと考えていたからだ。


何しろウィームには、思いがけずとんでもない人間達が隠れている。


高位の魔物達ですら絶句させてしまうアレクシスを筆頭に、ウィームには、ちょっとよく分からない逸材がそこかしこに生息しているのだと知ってしまったネアは、とても警戒していたのだ。



(白い角を持つ竜だからと怖がられるくらいならこの二人でも対処出来ると思うけれど、うっかりサムフェルの商人さん達のように髪の毛を狙われても可哀想だし、高位の竜だからと凄い高額な変なものを売られてしまうかもしれないし、ネイアさんが来ていたりしたら狩られてしまうかもしれない…………)



ウィームの領民達は殆どの人外者に寛容だが、ダナエは、その残忍さが名高い悪食の竜である。


ネア達とは良い関係を築けているが、この春闇の竜が優しい竜だとは知らずに、けれどもその恐ろしさだけを知っている誰かにとっては、ダナエ達はあまり好ましくないお客かもしれない。


春告げの舞踏会の時に見せた悲しげな様子が気になっていたので、ネアは、せっかくリーエンベルクの騎士達と仲良くなれてウィームを気に入っているダナエ達に、そのウィームで傷付いては欲しくなかったのだ。



(おまけに、本当に食いしん坊な竜さんとして荒ぶる危険性もあるのだ………)



そこに、ダナエ達が気に入った商品を他のお客さんの事を考えずに丸ごと買い占めて食べてしまったらどうしようという懸念も加わり、今夜の臨時引率者であるネアの心配の種は尽きない。



よって、ネアとディノが同行する事で、ダナエとバーレンの見張り兼身元保証人という盾にならんと画策したのが、本日のお買い物同行の裏事情なのだった。



大きな夜市の天幕の天井に張り巡らせた妖精の作った細い流星の銀鎖に、きらきらと光る星型のランプが沢山吊るされている。

時折ランプの中の星屑がじゅわっと弾けて暴れているが、そうしてランプからこぼれ落ちてくる細やかな星の光の粒もまた美しかった。



ウィームの夜市には、様々なものがある。



集まる品々を上手く組み合わせて開催されており、古美術品などの店しか出店されないこともあれば、小鳥や兎の姿をした小さな生き物な使い魔の市場となる事もあった。



(今夜のような、普通の品物が並ぶ事が多い夜市には、ご近所のお客さんが多いみたい…………)



そんな中でもウィームっ子達に愛されているのは、希少な品物を並べる店も数店舗あるが、後は野菜や食べ物の店などを集めた中階位の夜市である。


初めての飲み物を買って飲んでいるダナエ達を微笑ましく見ながら市場を見回すと、少しだけ特別な夜の買い物を楽しむ人々の姿が見えた。


珍しい品物ばかりの出店ともなれば買い物客の半数は擬態した人外者になるが、今夜のような夜市は、地元の人々のちょっとした夜の息抜きや交流の場にもなるのだ。


ネアの知り合いはあまりいないようだが、何人か、買い物に出かけた店のご主人や、食事をした事のある飲食店の店員などの姿を見かけていた。



とは言え、和やかなばかりが夜市ではない。



やはり、このような夜の市には、ふとした折にここにはいない筈のものが紛れ込んでいたり、あまり人間達の暮らすような表層には姿を見せない深淵の生き物達が紛れ込んでいたりもするので、今夜の滞在時間は二時間までと予め決められていた。


待ち時間がなくなればネア達は帰るが、ダナエ達は、もっと夜市を見たいようであればそのまま残るという約束になっている。



ふっと視界が翳って顔を上げれば、隣に立って今夜は三つ編みから手を離さないようにという大変遺憾な規則を急ぎ制定した魔物がこちらを見ていた。



「君はいいのかい?」

「他に欲しいものがなければ帰りに寄るかもしれませんが、この飲み物は飲んだ事があるので、他のものを試してみようと思っています。………ディノが飲んでみたいなら、買ってきてあげましょうか?」

「ネアと同じでいいかな………」

「あら、自己主張して下さいね?」

「初めてのものを飲むのなら、同じでいい………」



おかしな拘りを見せた魔物に目を瞠り、ネアは紙カップに入れてもらった蜜粒入りのお茶を買って帰って来たダナエ達と合流する。


二人とも冷たい方にしたらしく、からからと氷の音をさせて蜜粒を吸い込める太めのストローを咥えているのが何だか可愛らしい。



「…………美味しいね。樽いっぱい飲めるかな」

「思っていたよりも爽やかだな。このような蜜粒入りのものは初めて飲んだ」

「あら、この蜜粒は、他の土地では見かけないものなのですか?」

「店主曰く、夜林檎から蜜粒を採取出来るようになるには、花を咲かせる木の幹に潤沢な土地の祝福が蓄えられる必要があるのだそうだ。畑などで管理出来るものでもないようだし、その国の魔術的な豊かさと人々の暮らしの質が釣り合ってなければ、嗜好品として出回ることはないだろう。…………ウィーム程に恵まれた土地はやはり少ないからな」



意外に店主とのお話も楽しみ、なかなかに深い考察を聞かせてくれたバーレンは、思わぬところで竜らしい豪快さを見せ、あっという間にお茶を飲み終えてしまった。

ダナエについては、途中からストローを使う事を放棄してしまい、紙カップを傾けて一口でがぼりと飲んでしまったようだ。


蜜粒を口の中でぷちぷちさせて飲み込み、ぼりぼりと氷を噛み砕いて美味しそうに目を細めると、ダナエは、ちょっぴり人見知りな大型犬のようにネアに擦り寄ってきて袖口を指先で摘んでこちらを見てくる。



「他にも食べ物はある?」

「あらあら、揚げ鶏を食べたばかりなのに、まだ食べられますか?」

「うん」



食べたくならないネアにとても懐いているこの春闇の竜は、市場の入り口で丸ごと揚げてしまった巨大な揚げ鶏を食べたばかりである。


ダナエが美味しくいただいたのは、ココファムと呼ばれる馬サイズの鶏のような生き物で、たっぷりの香辛料をまぶして半日置き、粉をはたいてからりと揚げたココファム揚げは美味しくて有名だ。


まさかの丸ごと揚げは流石に珍しいが、市場の入り口近くの店舗なので、美味しいココファム揚げを見せつけるパフォーマンスとして準備されたものだったらしい。


店頭で香ばしい匂いを広げさせた後は、大きなナイフで切り分けて量り売りする予定だったものを、大きな揚げ鶏に感激したダナエが丸ごと買い占めてしまったのだ。


店主は驚いていたが、ダナエが幸せそうにあっという間にココファム揚げを平らげてしまうと、それ自体が良い宣伝になったようで我慢出来なくなったお客が殺到していた。



「では、私とディノが立ち寄ろうと思っていたお店で、ダナエさん達もチーズ籤を引いてみませんか?」

「チーズくじ……………」

「ええ。チーズの専門店なのですが、手のひらくらいの丸いチーズが、熟成の環境と年数ごとに陳列されていて壮観なのだそうですよ。なお、そのお店のチーズには、時々チーズの精に祝福された特別に美味しいチーズが紛れているそうなので、その幻のチーズに当たるか当たらないかを楽しむ事も出来るんです」



ネアからその話を聞いたダナエは、春色の瞳をきらきらさせて、バーレンを振り返っている。


お持ち帰り用のチーズを買って帰るネアとは違い、その場で食べてしまうダナエのようなお客こそ漏れ無く楽しめるお店ではないだろうか。



「チーズがあるようだよ」

「籤という趣向があるのなら、あまり買い占めない方がいいのだろうな」



生真面目にそう呟いているバーレンがいるので、ダナエのお口に入るチーズの量については心配しなくても良さそうだ。


思っていたよりもバーレンがしっかりとダナエを見ていてくれるので、食いしん坊の暴走が起こる事はないだろう。

このまま何事もなく過ごせるといいなと、少しほっとしたネアは、持っていた三つ編みを引っ張ってディノに耳打ちする。



「春告の舞踏会やバルバでは儚げなバーレンさんですが、このようなところでは頼もしい竜さんでしたね」

「……………ネアが虐待する。可愛い………」

「なぬ。いい加減に慣れて下さい。毎回内緒話で弱ってしまうのはなぜなのでしょう………」

「…………おい、聞こえているぞ」

「ご本人のお耳に届いてしまったようなのでつるっと言ってしまいますが、バーレンさんは、思っていたよりも市場に慣れていらっしゃって、尚且つ市場のお買い物上手だったのですね」



ネアの言葉にじろりとこちらを見たバーレンに、その理由を教えてくれたのはダナエだった。



「最初は苦手だったみたいだ。少し怖がってしまっていたのだけど、私があちこちで立ち寄るから慣れてくれたのかな」

「ダナエ!」

「まぁ!最初は苦手だったのですね。ふむ。見立て通りです」

「…………っ、最初に手間取ったのは、人間の商人達がいる市場に立ち寄るような機会がなかったからだ。今ではもう慣れたというだけだからな」

「バーレンも、釣り船を食べるかい?」

「釣り船………………?」



慣れざるを得ないだけの生活だったのだろうなとネアがこくりと頷いたところで、おかしな問いかけが会話に混ざらなかっただろうか。


おやっと眉を寄せたネアがゆっくりとダナエの方を見れば、いつの間にか儚げな美貌の春闇の竜は、ネアの身長くらいの小さな船のようなものを抱えている。


さあっと青ざめたネアは、慌てて同じ顔色のバーレンと顔を見合わせ、もう一度ダナエに視線を戻した。



「…………買ったのだな」

「うん。海の森の樹液から、精霊の銀器で削り出した船なのだそうだ。釣り船にもなるけれど、食べても美味しいようだよ」

「…………お、思っていたより素早く、とんでもないお買い物をしてしまいます………」

「船も食べるのだね…………」

「ダナエ、…………そのまま齧るのはやめた方がいい」



しっかり見張っていたのにと、無念の敗戦にがくりと肩を落としたネアに対し、バーレンはこの手の経験が豊富なのか、その後の問題を軽減する方向に意識を向けてくれたようだ。


素直に頷いたダナエは、飴細工の船にしか見えないものを、いとも容易くばりばりと割って美味しそうに食べている。


口内は大丈夫だろうかと思ったが、幸い、店主が食べられるものでもあると売っただけあって美味しかったようだ。



「ディノ…………?」

「君も食べるなら買ってあげようか?」

「…………いえ、やめておきましょう。心配そうにじっと見なくても、人間のか弱い歯では船は食べられませんからね?」

「そうなのだね。………おや、あの店に立ち寄るのではないかい?」

「むむ、チーズ籤のお店です!」



四人が次に立ち寄ったのは、ネアのお目当のチーズ籤のお店だ。


ゼノーシュに教えて貰った通り、店舗の中には直径十五センチくらいの丸いチーズが、所狭しと並んでいる。

棚ごとにラベルが貼られていて、そこには、みっしりと熟成年数や熟成の仕方が書かれてるらしい。



(わ、チーズの見た目が殆ど同じだから、ラベルを見て選ぶのが楽しそう………!)



大興奮でお店に乗り込んだネアは、鼻息も荒く試食を繰り返し、流星雨と花の雨のものと、ニワトコと薔薇の庭園のものを購入した。


どちらも香りが良く味わいが濃厚だが、まるで味の印象が違う。

良いお買い物が出来てほくほくしていると、なぜかこちらも嬉しそうなディノがそっと頭を撫でてくれる。



「満足です!」

「かわいい、弾んでしまうのだね。これも持って帰ろうか」

「まぁ、一個増えています!しかも、私が最後まで迷った朝靄と花影のものでふ………」

「うん。君が口に入れてくれたものだからね」


どうやらこの魔物は、試食の欠片を口に入れて貰ったことが嬉しかったようで、そんな記念のチーズを、頑張って一人で買って来たらしい。


誇らしげに手渡されたチーズを受け取り、ネアは微笑む。


先日のおまんじゅう祭りでのウィリアムによるお支払い具合を意識していたものか、このお店の買い物ではディノが素早く支払ってくれたばかりなのだが、ここでもう一つおまけがついたようだ。



「重いだろう。一度君に渡したから、私が持とうか?それとも、金庫に入れたいかい?」

「ふふ、ではとても大事なチーズなので、金庫に入れておきますね」

「とても大事なのだね」



きりりと頷いたディノが目元を染めてこちらを見たので、伸びあがって撫でてやっていた時の事だった。


突如としてガランガランとベルを鳴らされ、ネアは何だ何だと振り返る。



「大当たりです!雪夜と月影の五十年熟成チーズ、チーズ蔵の妖精王の祝福入りです!」



くしゃりとした穏やかな笑顔でそう声を張った店主の横で、ぱくりと丸いチーズを齧ったダナエが幸せそうにむぐむぐしている。

大当たりが出たのだ。



大当たりとはどんなものだろうと見ていたら、上品に優雅に食べているように見えたのに丸いチーズはたった三口でなくなってしまい、ネアは慌てて目を擦った。



「…………とろりとしているね」

「むぐ、羨望の当たりチーズです。美味しかったですか?」

「……………うん。とても美味しかったよ」



ネアの質問に、なぜかダナエはぎくりとした後で悲しげに頷いた。

思いがけず落ち込まれてしまったネアは、ダナエの落胆の理由が分からずにこてんと首を傾げる。


しかし、バーレンは全てを承知したかのような呆れ顔をしているではないか。



「食べてしまったのなら、それでいいだろう…………」

「…………バーレンにも祝福のチーズを食べさせてあげれば良かったのに、また食べてしまった…………。ネアにも味見をさせてあげれば良かったかな………」

「そちらの持ち帰る物にも、当たりのものが入っているかもしれないだろう」

「うん………」



どうやらダナエは、せっかくの当たりのチーズを一人で食べてしまったことに気付き、落ち込んだようだ。

おろおろとしているダナエに対し、チーズは店の裏手の魔術金庫にも在庫があると聞き、お持ち帰りチーズを二十個も買ったバーレンは慣れた仕草で肩を竦めている。



「お互いに、買って帰る中に当たりがあるといいですね」

「………うん。ネアにも食べて欲しい」

「ふふ、ウィームの住人として、ダナエさんが美味しいチーズに当たって良かったです」

「ネア…………」



このお店では、その場で食べる人には当たりを教えてくれるが、お持ち帰りチーズは帰ってからチーズを入れた木箱を開けると、当たりのものは当たりと書いた札が入っているのだそうだ。


ネアとしては、チーズ籤のお陰で何だかとても仲良しな二人の姿を垣間見てしまい、ディノと顔を見合わせてから微笑んだ。


若干ディノは、ご主人様に微笑みかけて貰って恥じらっているだけの気もするが、何はともあれ楽しい買い物ではないか。



(…………大丈夫。私だってきっと当たってると信じよう。当たってる、当たってる…………)



心の奥深くで、銀狐カードの時に閉ざした筈の開けてはいけない扉が軋んだが、ネアはその荒ぶりを素知らぬ顔で沈めてみせた。

安易に世界を呪わぬよう、心は常に穏やかでありたい。


そんな事を考えながら幾つかの店舗を巡り、ネアはエーダリアに頼まれた古書も購入しておいた。


作者不明のウィーミアの生態について書かれた本なので、先代の犠牲の魔物の手によるウィーミアことちびふわ化の呪いに溢れているウィームでは役立つに違いない。


他にも一冊、宝石辞典という素敵な本を手に入れ、ネアは大満足で戦利品を金庫にしまった。




最後に訪れたのは、新鮮な牛乳と果物から、氷の魔術でジェラートのようなものを作ってくれるお店だ。


可愛らしい絵付けタイル貼りのカウンターのある夜市場の有名店で、果物を切りささっと魔術でジェラートを作ってくれるのだが、鮮度命のジェラートは瑞々しい果物の味わいが堪らない美味しさなのだとか。



四人でメニューを覗き込み、真っ先に声を上げたのはネアだった。



「私は、雨の夜明けの苺です!」

「…………同じのにするよ」

「木苺と、オレンジと、蜂蜜と檸檬、……湖水梨かな」

「そうだな、…………桃をくれ」



こうして、それぞれに好きな果物を選んで注文すると、黒髪に羊の角のある柔和な顔立ちの店主が、特製の魔術でジェラートを作ってくれる。


ネアは、沢山食べるダナエ達のものを先に作って貰うようにして、更には、今日は一緒に来てくれたディノにも先に渡してあげたのだが、その、いよいよネアのジェラートが作られるというその時に事件が起きたのだ。



突如として、店の裏側からみぎゃーという鳴き声が響き渡り、店主がはっとしたように視線を巡らせる。



「………っ、すみません、牛乳瓶の精霊が出たようです。放っておくと通行人を襲ってしまうので、少々お待ち下さい」

「…………ほわ、せんどいのちのわたしのいちごさんは……………」



ネアの悲しい声に気付かず店主が駆け込んだ店のバックヤードからは、すぐさま、どすーんばたーんという激しい戦いの音が聞こえてくる。


そして、よりにもよって牛乳瓶の精霊が店主を打ち負かして出て来てしまったのだ。



この瞬間、ネアは世界を呪ってはいけないという心の誓いをぽいっと投げ捨てた。



「お客さん、離れた方がいいよ。今すぐ街の騎士達を呼んで…」



親切な隣の店の店主がそう声をかけてくれたのだが、そんな気遣いの言葉が途切れたのは、恐らくネアの憤怒の形相を見てしまったからだろう。




「私からジェラートを奪うなど、万死に値します!」



ご主人様の低い怨嗟の声に魔物はびゃっとなってしまい、慌ててネアに自分のジェラートを献上しようとしたが遅かった。


そもそも、みんなで楽しく食べようとしている時にこの仕打ちでは、誰かのものを貰っても怒りが収まる筈もない。




「みぎゃ?」



大きな搬入用の牛乳瓶姿の精霊は、すっと立ち塞がった愚かな人間を嘲笑うように、意外にも美少女的な睫毛ばさばさの青い瞳を細めた。


しかし、派生したばかりの牛乳瓶の精霊にとって、目の前の人間が恐ろしい狩りの女王であると知らなかったことが運の尽きとなったのだ。



「ていっ!」



そんな牛乳瓶の精霊が最後に見たものは、飛び上がり両足着地をしかけてきた一人の人間の靴底だったのかもしれない。



ガシャーンと激しい音が響き渡り、牛乳瓶の精霊は派生してすぐに粉々になった。



真っ青な顔で震えている隣の店の店主だけではなく、牛乳瓶の精霊の出現に駆けつけていた他の店舗主やお客たちから、おおっという声が上がる。



「ふむ。滅びましたね」

「店主は体当たりをされて失神していただけだ。そのカウンターの下にあった治癒魔術符を貼り付けたら目を覚ましたぞ」

「まぁ!バーレンさん、有難うございます。すぐさまジェラートを…」

「ネア、瓶の欠片が危ないよ」

「ふっ、愚かな精霊めは粉々です………」



こちらは、ネアが牛乳瓶の精霊を抹殺すると疑いもしなかった竜達が、見事な連携を見せてくれる。

バーレンが店主を起こしてくれたようで、脇の下に手を差し込まれ、ダナエはふわっとネアを持ち上げて牛乳瓶の精霊の残骸の上から移動させてくれた。



「………いたた。すみません。お待たせしました」


奥から頭を押さえて戻ってきた店主は、ネアのジェラートはあらためて新鮮なもので作り直してくれるようだ。



しかし、なぜかネアの伴侶な魔物だけが水紺色の瞳を瞠ってふるふると震えている。

いきなり精霊を滅ぼしたので怖かったのかなと思って撫でてやれば、魔物はネアにへばりついてしまった。



「……………ネアが精霊に浮気した。アルテアの爪先も踏まないと言ってくれたのに…………」

「…………謎めいた疑いをかけられましたが、その主張からすると、牛乳瓶の精霊めは、上の注ぎ口が爪先になるのでは………?」

「ひどい………。精霊なんて………」

「解せぬ」



こうして、思わぬ災難を呼び寄せてしまったネアは、昨日の話し合いで、アルテアの爪先は踏まないが、踏み滅ぼす相手についてはどこを踏んでも不問とするべしという取り決めをしなかったことを心から後悔しつつ、お店の横のベンチで、めそめそする伴侶を椅子にした状態でジェラートを食べる羽目になる。



なお、この騒ぎの間、大切なジェラートは、左隣の店で買い物をしていた通りすがりの欲望の魔物が無償で冷やしてくれていたそうだ。


すっかりジェラートが気に入ってしまったダナエは、結局全種類の味を制覇してしまい、帰り際にまた揚げ鶏を買って楽しい夜市の思い出を作ってくれたようなので、ネア達は、無事に楽しくぶらり夜市の集いを終えられたのだった。



後日、ウィームの市場では、獰猛な牛乳瓶の精霊は踏んで倒せるという噂が流れたが、三人の魔術師が返り討ちにされたので、そんな事は出来ないと噂が訂正されたそうだ。


エーダリアから何をしたのかと尋ねられたので、ネアは現在黙秘を続けている。








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