反芻と酩酊
静かな朝にそっと目を開いた。
雨音に包まれた部屋の中は安らかな薄闇に包まれていて、この季節の夜明けの色はよくこんな風に淡く翳る。
濁った色彩ではなくどこまでも透明で、例えようもないほど青く、或いは森の色や雨の色に鮮やかなのだ。
体を起こして羽を広げると、ざあっと羽の全体が細やかな光を帯びた。
自分では特に意識していなかったが、ネイに指摘されて知ったこの癖は、ヒルドだけのものという事もなく、森の系譜の高位の妖精達は皆そうであるらしい。
だから、高位の者達が多く住む森の夜明けは幻想的な光の波がうねるのだと話していた塩の魔物は、永きを生きた聡明な生き物らしい美貌で少しだけ見直したものだ。
普段は殆ど銀狐姿でいる事が多いのだと、ヒルドが、塩の魔物に対してそう思ってしまうのは、銀狐がこの部屋を訪ねる機会が増えたからなのだろう。
このリーエンベルクに住む塩の魔物は、ネアが統一戦争の影絵に落とされた時間を境にかつて程に外で女性達との自堕落な夜を過ごさなくなった代わりに、ヒルドやエーダリアの部屋で銀狐の姿になって眠る夜が増えた。
女達と寝台で交わす愛よりも、ボールを投げて貰ったり、ただ当たり前のように共に部屋にいる事の方が、心の欠けた部分の修復になるのだと気付いたのだとか。
『ネアに言われたんだよね。僕が欲しかったのって、そういうのじゃなかったみたいだ』
『………でしょうね。私は王都で生活していた頃の、魔術師としてのあなたの評判を知っていますが、気儘に過ごしながらもあまり幸せそうには思えませんでしたから』
各王子達の陣営の中の、特に王子本人に近しい者達は、巧妙にそれぞれの足元の輪が重ならないようにするものだ。
ジュリアン王子の浅はかさはその当時から顕著ではあったものの、他の王子達と事を構えても益のない時期にはあえて接触を断つ方が利口である。
そのような背景もあり、ヒルドはネイと呼ばれていた黒衣の魔術師と、目立った接点があった訳ではない。
あまり素行の良い人物ではなさそうだと感じ、その享楽には嫌悪が混ざり込むようだと感じた事が何度かあった。
あれは、塩の魔物としてではなく、一介の魔術師として過ごしていたからこそこぼれ出た、ノアベルトという魔物の傷口だったのかもしれない。
『昔は、どんなに可愛いなと思う女の子で、一緒に暮らせるくらいに好きだと思えても、それでもどこか大嫌いだったんだよね。…………今はそれ程でもないかな。自由になったからこそ楽しく遊べるし。でも、ここで家族と過ごしている方が断然幸せだよね』
そんな捻くれた事を話していたネイには、であるなら、共に居たいと強く願うような女性と出会う迄は少しばかりその種の暇潰しを控えてはどうかと提案したのだが、こちらを見て声を上げて笑った魔物は、わざとらしく目元の涙を拭ってみせる。
『ヒルド、僕は魔物だよ?どうして心を傾けない者達にまで、気を使う必要があるんだい?』
それは、そんな価値観を持ちつつも、結局はあなたが傷付くからだとまでは言えなかった。
何とままならない事だろう。
そうして、心を傾けない者達を紙切れのように無下に扱いながら、実際に一欠片も心を揺らさずにそうするくせに、塩の魔物はそんな自分の酷薄さを憂うのだ。
愛する者達が出来た事で、そんな自分の残忍さをどこか穢れのように嫌悪し、時々酷く自分を軽く扱う。
僕はこんな醜い生き物なんだよと、からりと微笑んで悲しそうな目をして。
『倫理観としては総じて屑という評価ですが、ノアが家族になった以上は、見知らぬお嬢さん方の事はどうでも良いのです』
けれど、ネアはそう答えた。
(ああ、それは昨日の事だ……………)
その声音が、その時のネアの微笑みが思い出され、ヒルドは痛快さに唇の端を持ち上げる。
華奢な妖精の細工のグラスの中でからりと氷が鳴り、淡い水色の夜と斉唱の魔術の酒を飲みながら、鳩羽色の瞳の少女は何の躊躇いもなく微笑む。
魔物ほど難解な心の動きではないが、妖精達もまた、その殆どが身勝手な生き物だ。
共に、心を傾けた者達には慈悲深く、どれだけ温厚な種族であっても、他の有象無象には手を差し伸べることもない。
(その中で、人間だけが明らかに違う気質の嗜好を持つのはなぜなのだろう………)
最も短い命を全うする人間だけが、強欲で身勝手な本能とは相反し、なぜか自己の犠牲と美徳を尊重し、愚かにも見知らぬ同胞達にまで誠実であろうとする。
そんな種族的な矛盾を、妖精達は愚かで拙いと考え、竜達は幼くか弱いと考えた。
魔物達は愉快な玩具だと喜び、精霊達は脆弱で下位の生き物だと線引きをつける。
高位の存在と、人間達にとっても近しい隣人達である下位の生き物達とではまた価値観が違うが、様々な生き物達の表面的な主張を掬い上げれば、概ねそのようにして認識されてきたように思う。
だからこそ、そんな清廉で愚かな生き物達を愛してしまった人外者達は、心を痛め削り落としてゆく事になるのだ。
ただでさえ、あっという間に死んでしまう生き物を愛する苦悩を抱えているのに、なぜ愛する者達のように考え振る舞えないのだろうという、出口のない惨めさにも立ち向かわねばならないのだから、この世界はなんと不公平なことか。
どの生き物も、人間の願う形には叶わない。
それがつまりのところの、人間と人外者が伴侶になった際に、その殆どが悲劇に終わると言われる所以である。
『知らない方々の悲しみを想像したところで所詮それは自己満足でしかなく、そんな事をしたところで、本当は欲深く自己愛の強い人間は、自分の為ではなく差し出すものなどないのです。………勿論、誰にでも優しく、その為にであれば自身の犠牲を厭わない方々も沢山おりますが、私はその種の自己愛を持ちません』
けれど、ネアはそう言うのだ。
それが、自分を愛する者達を生かす一筋の道だという自覚はないのかもしれないが、そう考える人間を選べるのであれば、愛しながらも壊れてゆくものは格段に少なくなる。
(グラストもそちら側に近い。ゼノーシュがグラストの為に飲み込むものも多いとしても、無意識に踏み込み差し伸べた手に迷いがない事で器用にそこに収まってみせた………)
ネアだけではなく、古くから知る同僚もまた、多くはない長く続く道を選び取った男だった。
あの二人の場合は、父子のような関係性がそれを可能にしたのかもしれないと考えていたヒルドの向かいの席で、だとしてもと、穏やかな声で話し始めたのは、本来ならこのように共に暮らす事などなかった筈の魔物の王だ。
『でも君は、そう言いながらも悲しい目をするんだ。…………私達の為に、手放しているものはないのかい?君が言うように、………そうだね、私と君は確かに違う。………であるならば、何かを諦めなければいけないのが、君であって欲しくはない。それもまた、私の身勝手さだと思って、そういうものは全てこちらに預けてくれるかい?』
微笑んでそう言った万象の魔物には、魔物を魔物たらしめる隔絶された酷薄さすら感じられた。
こんな時、ああこの魔物は今代の世界の始まりから生きている、魔物の王なのだと思い知らされる。
擬態などしない虹持ちの白く長い髪は、この世に二つと無い美しさで、階位の近い他の魔物達ですら、それは至高のものであると手放しで讃える美貌はどこか無機質にも思えた。
でも、だからだろうか。
ヒルドは、目の前の魔物が微かに怯えているように思えたのだ。
『まぁ、私の大事な魔物はなんて我が儘なのでしょう!私が少しだけしょんぼりするのは、私の思考や価値観が、最も理想的なものではなく、また少しばかり一般的ではないものだと理解しているからです。誰しも、自分が理想の自分ではない事に恥じ入り、落ち込む事もあるでしょう。けれど、これが私であるのですから、それを手放せなどと言われたらむしゃくしゃしますよ?』
『ネア………………』
ネアは、朗らかにそう答えた。
淀みもなく、躊躇いもなく、まるで子守唄のように。
『私は、人間の中でも類を見ない程に我が儘で、自分が大好きです。おまけに、大好きなディノや、こうして一緒に過ごせる大切な方々には、私がそのような人間だと認めて欲しいという何とも強欲な願いまであるのです。………ディノ、ノア、私はこのまま、大切な魔物達がどれだけ困った事をしても、私の大切なものはあなた達なので、その足元に哀れに踏み荒らされた人達がいても知った事ではないのだと考える私でいてもいいですか?』
そう尋ねたネアに、彼女を囲むように座った魔物達がそれぞれに心を揺らしていた。
ヒルド自身も、いつかのグリシーナの夜を思い、私もその澱みを知っていると微笑んだネアの瞳の美しさを反芻し、心を揺らす。
恐らく、彼女自身が言うように、ネアは高潔な人間ではなく、種族における模範的な倫理観念を持たず、 同胞に優しくもない。
ただ、ただ、自分自身と自分の愛する者達に肯定的で愛情深い、類稀なる人間でしかなかった。
(でも、…………その歪さこそが、取り落としてしまわない心地の良い抱き易さであるのだろう…………)
ネアという人間を、必要以上に好ましく思わない人外者も当然ながらとても多い。
例えばダリルも、その気質や成果を評価し、ネアという人間の特別さを好みながらも、決して彼女を私用では誘おうとしないのだ。
ネアを知らないからではなく、よく知った上で、自分の私生活には不要なものだと、ただの隣人としての域を出ようとはしない。
それはバンルやエイミンハーヌ、その他の人外者達においても顕著である。
特定の気質の者達に偏るという事であれば、ヒルドは、アクス商会の代表である欲望の魔物が、ネアに特定の執着を一切抱かなかった事には驚いていた。
けれど、それでいいのだ。
だからこそ、自分にとっての最良ではあるのだとそう考えるばかりで。
(さて、そろそろ起き……………)
いい気分で朝の支度に取り掛かろうとしたところでふと、昨晩部屋に戻った記憶がないことに気付き、ヒルドは眉を顰めた。
(……………最後の記憶は、)
ぼんやりした記憶の中で、ネアが週末はみんなでバルバだと楽しそうに話していたことを覚えている。
柔らかなネイの笑い声や、最近ははっとする程に安らかな目をするようになった終焉の魔物と、誰かが皿の上にカトラリーを置いたからりという音。
更には、どこか悪辣な艶麗さを漂わせながら甲斐甲斐しくネアの面倒を見ている選択の魔物に、何かを手に目を輝かせていたエーダリアの姿も。
だがしかし、それ以外の記憶は靄に包まれていて、微かな記憶の濁りを訝しみ額に手を当てた。
ひやりと、背筋が冷える。
その空白で何が起こったのだろうと記憶を辿ったが、やはり見慣れぬ隔絶があるばかりで、その不明瞭さに血の気が引いた。
(いや、………だが、リーエンベルクの空気は穏やかだ………)
誰かに危害を及ぼすような良くないことが起こっているというのであれば、このリーエンベルクそのものがもっと不穏な気配を孕む筈なのだ。
それ程に、ここに住む人間達はこの建物や土地に愛されている。
であれば、ただ悪酔いでもして記憶を手放しただけなのかもしれない。
(まずは起きて、リーエンベルクの内部を見回ろう。…………昨晩は、酒席になった筈だ。ネイと私の会話から始まり、そこに後からやって来たネア様とディノ様の対話を経て、いつの間にか皆で集まり、それぞれの価値観のような込み入った話になっていった。そんな状況で酒が持ち込まれ心が揺れたからこそ、誰からともなく深酒していったのかもしれない……………)
朧げな糸を辿りながら立ち上がり、羽を広げて体を伸ばすと、着替えはしっかり済ませていたらしいことに奇妙なおかしさを覚えつつ部屋着を脱いだ。
「………っ、」
くらりと目眩がして視界が翳る。
体を動かすまで分からなかったが、どうやらかなり強い酒を飲んだらしい。
意識の内側から抗い難い酩酊と安らかさがせり上がってきて、その誘惑に屈して寝台に戻りたくなってしまう。
これは、かなり厄介なものを飲んだに違いない。
僅かに顔を顰め、手に取った着替えを一度置くと、寝具の乱れを直すべく寝台に戻った。
窓から差し込む柔らかな光の具合からすれば、本来起きるべき時間よりは一時間ほど早い筈だ。
もしかするとどこかに、であればもう一度横になってもいいのではという、怠惰な欲求があったのかもしれない。
そうして寝台に手をかけ、そこでヒルドは心からぞっとした。
「…………まさか」
この季節のウィームはまだ、夕暮れから夜明けまでは肌寒い。
起きて活動している時には身に纏う魔術領域で気温を均してしまえるのだが、どうも就寝時にはこの寒さに慣れないヒルドは、寝具や部屋着などを暖かなものにしている。
余談だが、不得手ではある寒さのそれに付随する清廉さはとても気に入っているので、ウィームを離れたいと思った事はない。
だが今はそんなことよりも、就寝時にまだ毛布を使っていたので起きた時には気付かなかった、寝具の隙間からはみ出ている、青みがかった灰色の髪の毛が最重要課題ではないだろうか。
よく見れば、寝台にある膨らみは毛布のそれだけにしては大き過ぎる。
(まさか、…………どこかで、箍を外して………………?)
血の気が引くような思いで、そう考えた。
きっともう、最初に羽の庇護を与えた時の執着よりも、ネアに向けるこの想いは家族に向けるもののような角の取れた愛情になったのだと思う。
彼女一人に執心するというよりは、彼女を含めたこの家族のような輪を何よりも重んじるようになった。
けれど、愛情とはまた違うところで動く、男としての衝動や情欲もある。
感情の動きでこぼれる良質な喜びの魔術を糧とする妖精でもあるヒルドは、赤羽の妖精達とはまた違った側面から、その種の業深さを抱えてはいる。
例えば、幸福に微笑むネアのその喜びの感情は上質な糧だが、妖精の粉を与え、背徳感と自身の欲求に溺れる彼女の心も例えようもなく甘い。
ネアの場合、妖精の粉が齎す中毒性は情欲ではなく妖精の粉そのものへの食欲に向かうようだが、それでもやはり、欲し食らう心の動きが齎す充溢感は、その他のものとは違う舌触りであった。
それを知り、朦朧とした状態で手が届いてしまう環境が整ったとしたら、自分は彼女を妖精の本能のままに貪りはしなかっただろうか。
そう考えると氷塊めいた恐怖が胃に沈み、そっと手を伸ばしてネアを覆っている寝具を剥がしてゆく。
庇護を与えた当初なら、そうなってしまっても自分の欲望から得る取り分の方が大きかった筈だ。
でも今はもう違うのだ。
共に手を取り合い、家族としてのこれからを過ごす事こそが、もっとも強い願いであるというのに、もしそれを自らの手で壊してしまったのなら。
「……………むぐ。………ぐぅ。まんぷくです」
寝具を剥いだところで、ヒルドは安堵のあまりに崩れ落ちそうになった。
多少寝乱れてはいるものの、ネアはしっかりと寝間着を着ているようだ。
この部屋で寝ているのにどこで着替えたのだろうという疑問は残るが、兎に角、取り返しのつかない過ちは犯していないらしい。
「………………ご一緒でしたか」
それどころか、ネアの隣には小さな獣たちがひしめき合っており、ヒルドの寝台の上には何とも上位三席から塩の魔物までが乗っていた事になる。
(ムグリスの状態のディノ様に、ちびふわ体のアルテア様とウィリアム様、…………狐姿のネイがいる事までは驚かないが、全員がこの姿となると、一体何が起こったのだろう………………)
眉を顰めて首を傾げたものの、ヒルドは時計を見るとふっと微笑んだ。
まだ、起床時間までは猶予がある。
こんな雨の日だからこそ、そこまで早く起きる必要もないだろう。
手にした宝物を手放すのは御免だが、妖精は生来、狡猾で欲深い生き物だ。
得られるものであれば、何だって貪り食う事こそ、変えられぬ資質なのだから。
羽を畳みもう一度寝台に戻る。
部屋着の上着を脱いだままだったが、まだ微かに残る酩酊の暗さが、戻って着直すことを面倒だと切り捨てた。
どうしてこんな事になったかの謎解きは、また皆が起きてからすればいいだろう。
あたたかな毛布の下でネアを抱き寄せると、寝ぼけた銀狐がその隙間に潜り込んできた。
柔らかな冬毛の毛皮が、寒さを不得手とするヒルドの首元を埋め、それもまた不思議な安堵感に繋がってくれる。
「…………むぎゅ、おやつ」
ネアがそう呟き、ふっと抜け落ちていた昨晩の記憶が、脳裏を過る。
(ああ、そうか。それで彼女はこの部屋に来たのだ……………)
テーブルに置かれていたのは、運試しの酒壺だったような気がする。
エーダリアが、皆がおかしな酒を飲み進める事にどこか怯えたような目をして、自分はもう自室に帰って休むと話しているのが思い出された。
ヒルドも暫くしてから部屋に戻り、ネア達もまた、そろそろ寝なければと部屋に帰っていた記憶がある。
誰もあの場では潰れなかったが、後から酔いが回ったのではないだろうか。
まだ戻らない記憶があるが、真夜中過ぎに、そんなネアが完全に泥酔状態で意識のない魔物な獣達を腕いっぱいに抱え、妖精の粉を強請りにヒルドの部屋を訪れた。
部屋に招き入れてそれを許したのだから、ヒルド自身もかなり酔っていたのだろう。
この羽に唇を寄せて妖精の粉を強請ったネアが見えたような気がして、ヒルドは深く微笑んだ。
そうして妖精の粉を強請り、口にする行為がどれだけ淫靡なものなのかをネアは知らないのだという、密やかな満足感に淡く光った羽に滑らせた指先で、愛しい少女の唇を撫でてやる。
「…………むぐ、おやつでふ」
「…………妖精は欲深い生き物だ。だからこそ、こうしてあなた達と暮らしてゆく事で、私はこの上なく幸福な妖精であると断言出来る」
そうして、大切な家族達を抱き締めて眠りについた。
時間になっても珍しく起きてこなかったヒルドを起こしに来てしまったエーダリアは、現場の惨状に暫く頭を抱えていたようだ。




