45. 思わぬ天敵が現れました(本編)
「あ、ウィリアムも来たんだね」
「ゼノーシュ、……………それは大丈夫なのか?」
「うん。上から食べちゃうから、すぐになくなっちゃうんだ」
「これはこれは、終焉の君。ご無沙汰しております」
「久し振りだな、リディア。だが、ここでその呼び方はやめてくれ」
「はは、これは失敬」
ネア達は、お目当ての人気店のおまんじゅうを買って列を離れたところで、別のお店から出て来たゼノーシュ達と遭遇した。
どうやらウィリアムは、氷竜のリディアとも面識があるらしい。
ネアは、トンメルの宴という素晴らしい菓子博を開催してくれる小柄な老紳士風の竜には、好感度を上げるべく渾身の感じのいいご挨拶をしておき、手に持った籠に、ウィリアムが心配してしまうくらいの量のおまんじゅうを山盛りにしているゼノーシュに、愛くるしさでもお腹を一杯にする。
そんな、今日も蜂蜜色の髪で擬態している見聞の魔物は、檸檬色の瞳をきらめかせてネアに美味しいもの情報を齎してくれた。
「ネア、向こうにね、さくらんぼのおまんじゅうがあるんだ。甘酸っぱくて凄く美味しかったよ」
「まぁ!それは水色のテントの屋台でしょうか。新しいお店なので凄く気になっていたんです!」
「うん。そこだよ。おまんじゅうの皮の部分にも、果汁が練り込まれているんだって。果物の食感が残っているくらいに煮たさくらんぼのコンフィチュールと、ホワイトチョコレートの味なんだ」
「ああ、あれは良い味でした。微かな夜の系譜の酒の香りもして、実に手が込んでいる」
トンメルの宴の主催者にもそう教えて貰い、ネアは目を輝かせて頷いた。
勿論立ち寄る予定のお店であったが、話を聞いていると確実に好みの味なので、これはもう多めに買うしかない。
そわそわしてしまった人間が伴侶な魔物の腕を掴んで小さく足踏みしたところ、ディノは、今日のご主人様は少し刺激が強過ぎるとまたへなへなになってしまう。
「ずるい。かわいい…………」
「ディノ、弱っている時間はありませんよ!さくまるぼ…」
「言えてないぞ」
「………さ、さくまんぼ…………?」
「おい、落ち着け………」
「ネアが可愛い…………」
気持ちが昂ぶったネアは、本日はカタログ入れ兼、おしぼりと水筒をすぐに取り出せるようにする為にも役立っている斜め掛け鞄から、神妙な面持ちでかなり読み込んだカタログをまた取り出した。
あらためて順路を調べておき、さくらんぼまんじゅうを買い損ねることがないように、各店舗の位置関係を再確認しておく。
「ふむ。この位置関係であれば、チーズグヤーシュのお店の後で良さそうですね………」
「ああ、その店なら、買い占め客が出たらしいぞ。作り足しをしているから、次の販売は一時間後だと話しているのが聞こえたな」
ネアのカタログを横からひょいっと覗き込み、ウィリアムがそう教えてくれる。
「ぎゅ………?」
静かに顔をそちらに向けるとへにゃりと眉を下げたネアに、ウィリアムは、ネアが印を書き足したばかりの魚シチューのおまんじゅうと、マロンクリームの店を順に指先で辿り、新しい順路の提案をしてくれた。
「この順路なら無駄な経路ではないし、時間的にもいいんじゃないか。ネア達を探して会場を通り抜けた際に、空いているから並んだけれどかなり美味しいと呟いているお客達がいたから、評判が良さそうだったな」
「お魚シチューのお店ですね?」
「ああ。この、牛肉と香辛料のものはいいのか?」
「昨年いただいて美味しかったのですが、私の求めるおまんじゅう感とは合致しませんでしたので、帰りにお持ち帰り用を買っていって、いつかの昼食で異国風の牛肉の薄皮包みとしていただこうと思っています。もしかすると、男性の方はお好きかもしれませんよ?」
「成る程、少し生地が薄いみたいだな………」
戦場に出る事が多いからか、作戦立案に長けていたウィリアムに無駄のない購入順を決めて貰い、ネアはほっとして次のお店に向かった。
アルテアは珍しくその店には興味があったと前のめりだが、魚のシチューのおまんじゅうと聞いて怯えてしまったディノは、べったりネアの羽織物になって儚い目をしている。
「アルテアさんは、お魚のシチューを食べたことがあるのですか?」
「ウィームとヴェルリアの国境域の辺りの、古くからある郷土料理だな。ぎりぎり魔術なしでも海産物の流通があった土地だが、そのまま食べるには鮮度が危ういかもしれないと、香辛料を効かせた独特のスープが作られるようになった。あの食べ方だと、カルウィの辺りのレシピに通じるものもある」
お料理上手な魔物らしく、少し踏み込み過ぎた意見を聞かせてくれたアルテアが口にした香辛料を聞く限り、カレーに近いような風味で、使われている魚もほろほろになるまで煮込まれてしまうスープのようだ。
濃厚でとろりとしたスープのようなので、グヤーシュ好きのディノも食べられるかもしれないと考え、ネアはお魚シチューは怖くないと宥めてやった。
「確かにカルウィの辺りには、魚の香辛料煮込みがよく食べられているな。砂漠の辺りでは、保存食として作られた魚の水煮を使った香辛料の辛いスープがご馳走なんだ」
「やはり、砂漠の辺りではお魚は貴重なんですか?」
「うーん、砂漠平目や砂漠鰯の群れはよく見かけるし、夜明け前から釣り針を落としておけば、時間の座の泉から魚が釣れる事もある。………ただ、砂漠から直接釣れる魚は、ごく一部を除いてあまり味が良くないんだ…………」
思わぬ返答を聞いて目を丸くし、ネアは、砂漠でも魚が釣れるという驚くべき知見を得た。
美味しくないと聞いておいて食べたいとは思わないが、夜明けの砂漠で釣りが出来たらきっと楽しいに違いない。
ただ、砂漠産の砂地から獲れる魚達はあまりにも味わいが違うので、魚として認識されない事も多いらしい。
砂漠の国々や砂漠地帯を国土に持つカルウィなどでは、きちんと海や川、湖や池で獲れた魚のみを純粋な魚とするのだそうだ。
(味で判断したんだ…………)
きっと、当の砂漠産の魚達からしたら解せない事だろうが、世界はこのようにして残酷なのである。
おまんじゅう祭りの会場には、おまんじゅうの店以外のテントも並んでいた。
飲み物や記念品などを売っていて、おまんじゅう祭りの記念品と言えば、おまんじゅう文鎮とおまんじゅうクッションなのだとか。
とは言え、そちらは売り切れたりはしないので、午後からの方が客足が伸びるらしい。
立ち並ぶテントをひと区画抜けると、目当ての帆布の屋根が見えてきた。
お店を回る順番を変えた事で良いタイミングに当たったらしく、ネア達はあまりお客の並んでいないところで列に並べたので、早々にお魚シチューのおまんじゅうを購入出来てしまう。
「まぁ、このおまんじゅうの皮は、クネドリーキのようなしっかりめの生地なのですね」
「囓る時には慎重にしなければならないのだね…………」
「購入時の諸注意によると、中に入っているお魚シチューが、溢れないようにという事のようですね。………ディノ?」
「この絵のように入っているのかい?」
「…………ほわ、なぜお店のロゴをこれにしたのだ…………」
「うーん、なかなか斬新だな…………」
ディノを震え上がらせたのは、お店のテント屋根にばばんと描かれているこの店のロゴマークであった。
おまんじゅうの割れ目から、可愛らしい魚が顔を出してこちらを見ているイラストは、それが実写で繰り広げられた場合にはホラーにしかならない事を失念していたのではないだろうか。
ウィリアムも遠い目をしており、生きた魚が入っていそうだなと呟いているので、人間が気安く表現してしまう意匠の中には、人外者達を困惑させるものも多いのだろう。
とは言え、その魚は死んでいますという主張をイラストに付け加えると、今度は食べ物としてそれは大丈夫なのかという何とも言えないものになってしまうので、なかなかに難しいのかもしれない。
「…………色は特についていないが、皮にも香草が練りこまれているな。香草から祝福の雫だけを取り出して練り込んだのなら、かなり手が込んでいる」
「アルテアさんの感想がもはや料理人さんになりましたね…………」
「アルテアが…………」
おかずおまんじゅうあるあるなのだが、他のお店の商品を食べてお腹一杯でも挑戦出来るように、小さめのおまんじゅうが多い。
例に漏れずお魚シチューのおまんじゅうも小さめで、しっかりとした質感の皮の中にとろりとしたシチューが入っている。
ここのお店のおまんじゅうはウィリアムが買ってくれたので、ネアはお礼を言って受け取ると、まだこの食べ物をとても警戒しているディノの為に率先してかぶりついてみた。
「………………むむ!」
「ネア、大丈夫かい?」
「…………驚きの美味しさでふ。これは、今後のお魚シチュー界への参入も含め、早急に使い魔さんと納品日の話し合いをせざるを得ない出会いでした………」
「おい、何で俺が作る前提なんだよ」
こちらもお魚シチューのおまんじゅうが気に入ったのか、ふむふむという感じで食べていたアルテアが、器用に片方の眉を持ち上げてこちらを見る。
しかしながら、興味を持って食べているくらいなので、自分でも作ってみるに違いない事くらい、ネアにはお見通しなのだった。
「ディノ、お味は香辛料の効いたシチューのようですよ。ザハにある羊の煮込みにも少し似てるかもしれませんね。お魚はほろほろになっていてくっきりはっきりという感じではありません。無理に食べなくてもいいですが、ディノはちょっと好きな味かもですよ?」
「…………………うん」
ネアにそう言われ、ディノは意を決したようにおまんじゅうを一口齧る。
もそもそとそれを咀嚼し、ふっと目を瞠った。
「……………美味しいね」
「ふふ、やっぱり!」
「俺も、どちらかと言えば魚の煮込みは好んで食べる程ではないんだが、これはかなり好きだな」
「ウィリアムさんもとなると、このお店のおまんじゅうも、お魚シチューも素敵な発見をしてしまいました………」
ネアは、こんなにみんなが気に入ったのだから、お土産のものも買えばよかったと、悲しげにいつの間にかの大行列をちらりと見た。
あまり好みではなかった場合のことを考えて、この場で食べるものしか買わなかったが、これはまた食べたい味である。
(でも、こんなに並んでいると、もう一度並ぶのは大変そうだわ…………)
そう考えて諦めようとしていてその時、天はネアの味方をしたようだ。
行列の長さを確認する為に辿った視線のすぐ先に、どこかで見た事のある二人連れがいるではないか。
ネアの視線に気付き、その人物もこちらを振り返った。
「ほぇ、ネアだ」
「ふふふふふ、ヨシュアさんがいいところにいました…………」
「イーザ、ネアが僕を怖い目で見るよ……」
ヨシュアは、にんまりと笑った人間から只ならぬ気配を感じ取ったものか、慌てて霧雨のシーの影に隠れてしまった。
そんな雲の魔物にへばりつかれ、こちらを見て優雅に一礼してくれたのは、銀色の筋の入った霧雨の色の羽を持つ、ネアがとびきり美しいと思う妖精の一人だ。
イーザは霧雨のシーだ。
こんな曇天の下に立てば、その美貌が内側から光を蓄え際立つよう。
ふわりと微笑んだ美貌の妖精にネアが淑女らしく挨拶をすると、イーザは綺麗に唇の端を持ち上げて優しい微笑みを浮かべた。
「ご挨拶出来て良かったです。もし、持ち帰りのものを買い足されたいようでしたら、こちらで買っておきましょうか?……………ああ、お気になされず。後ろに並んでいる者達も知人ですので、私の購入個数が増えても気にしませんよ」
「イーザさん!………で、では、ご迷惑でなければ、頼んでしまってもいいですか?食べてみたらとても美味しかったので、お土産のものも買えば良かったなと後悔していたんです!」
「こちらこそ、ご主………ネア様のお役に立てて幸いでした。弟や妹達は、私が買って帰るおまんじゅうを楽しみにしているようでして、ネア様の様子を拝見していると、また一つ良いものを見付けられたようですね」
「ふふ。好き好きもあると思いますが、私はとてもお気に入りです」
逃げてしまったヨシュアの代わりに、そう提案してくれた霧雨のシーに、ネアはぱっと笑顔になった。
(きっと買うのはイーザさんだけだと思ったから、一緒に並んでいるヨシュアさんに頼めば、割り込みのようにならないと考えたのだけれど…………)
こちらの目論見に気付かれてしまったことは気恥ずかしかったが、柔らかな微笑みのお陰で甘えてしまえるのだから、そこは大家族で弟や妹たちの面倒を見る事に慣れた長兄らしい包容力なのだろう。
とは言え、イーザに任せるとなると、割込みに近い行為なので、後ろに並んでいるお客たちも顔見知りだと聞いてほっとした。
皆にこやかに頷いてくれているので、安心して頼んで良さそうだ。
おずおずと、お持ち帰り用の十二個セットの箱を一つ頼みお代を渡そうとすれば、イーザは一度断ったものの、こちらが困ってしまう程に固辞せずに二度目で受け取ってくれた。
このような形で誰かに買い物を任せることが初めてのディノはまごまごしており、先にネアが首飾りの金庫からお財布を出そうとしていると、今度もすかさずウィリアムが支払ってしまう。
「ウィリアムさん!さっきも奢って貰ったばかりですし、エーダリア様達へのお土産にもするのでと、十二個セットをお願いしてしまったのですが……………」
「いや、俺の分も購入して貰うついでだから、気にしないでくれ。シルハーンもとても気に入ったようだしな」
そう言われてしまうと、ネアとしてはそれ以上に言葉を重ねられない。
ウィリアム本人の自覚はそこまでないようだが、ディノのことがとても好きなのは間違いないからだ。
そのあたりは、雲の魔物の相談役として高位の魔物達と接する機会の多いイーザも心得たもので、さらりとウィリアムからのお金を受け取ってしまった。
「ウィリアム、いいのかい?」
「ええ、勿論ですよ。最近は俺も、リーエンベルクにお世話になってばかりですからね。そちらへの土産になるなら、寧ろ払わせて下さい」
「放っておけ。腹黒いだけだろ」
「はは、アルテアはどうして苛々しているんだろうな。何か気になっていることがあるなら、ネア達には俺が付いていようか?」
「ほお、お前は通りすがりだろうが。さっさと帰れよ」
ここでなぜか魔物達の睨み合いが勃発したので、ネアは思っていたより早く魚シチューのおまんじゅうが買えてしまったので、一時食べ進め保留としていた、檸檬クリームのおまんじゅうの切れ端を、手を伸ばしてえいっとそんな魔物達のお口に押し込んでみる。
突然ぎゅむっとやられてしまったウィリアムとアルテアは目を瞠ってもぐもぐしていたので、何とか鎮静化出来たようだ。
「ネアが虐待する……………」
「むむ、今度はこちらが荒ぶり始めましたね。そんなディノにも、はいどうぞ」
「……………ずるい」
こちらもお口に檸檬クリームまんじゅうを入れて貰った魔物は、目元を染めてきゃっとなるとそのまま傾いてしまった。
魚シチューの列に並んだお客たちがそんな様子をじーっと見ており、ネアは、お騒がせしましたとお辞儀をしておいたのだが、お辞儀をされてしまったとざわざわしているので、三人も高位の魔物を連れているので少し緊張させてしまったのだろうか。
どうしたものかなと首を傾げたところで、ネアとウィリアムのお願いした分のお土産まんじゅうも買って来てくれたイーザ達が、こちらに来てくれる。
「これを受け取るといいよ。僕がお金を払ったんだからね」
「ヨシュア、あなたはウィリアム様が預けて下さったお金を、店主に支払っただけでしょうに」
「あの店主は、僕が偉大だから快く頷いたのだと思うよ」
「ふふ、ヨシュアさん、イーザさん、とても助かってしまいました。有難うございます」
「いいえ。このような時は頼っていただけると嬉しいですよ。……………ヨシュア?」
「…………ふぇ。ウィリアムの分は、イーザが渡すべきだと思うよ」
「やれやれ、悪さをしなければ、怖がる必要もないでしょうに…………」
「だって、……………に、睨んだ!」
ウィリアムが頼んだのは三個セットで、気に入ったので砂漠のテントでも食べるのだそうだ。
冷たく冷やした蒸留酒と合いそうだと話しているので、仕事終わりの一杯のおともにするのかもしれない。
ネアはイーザ達にお礼を言って別れると、次はマロンクリームのお店に並び、ここでもネアは大量のおまんじゅうを購入した。
微かなお酒の風味のある大人な味わいのおまんじゅうは、とろりとしたマロンクリームの上品な甘さに、頬張ると口元が緩んでしまう。
このおまんじゅうは少し大きめなので、四等分してみんなで食べたのだが、こんな風におまんじゅうを分け合うのも何だか楽しい。
「……………さて、次はチーズグヤーシュですね。販売再開の紙が貼られているので、ウィリアムさんの言った通りに順路を変えて良かったです!」
「グヤーシュは一つでいいかな」
「まぁ、さてはディノのお気に入りですね?」
「ご主人様…………」
こんな時、控えめにではあるが最近は自己主張するようになったディノの向こうで、ウィリアムがふっと安堵や喜びの微笑みを揺らすのが、ネアは好きだ。
そこにはかつてのディノに寄り添ってくれたウィリアムだからこその、深い感慨があるのだろう。
そして、ネア達がチーズグヤーシュまんじゅうの為に、大きな木の下を通って行列の最後尾に並んだ時のことだった。
「にぎゃ?!」
突然正面でそんな声が聞こえ、ぎょっとして顔を上げれば、こちらに向かって飛んで来たらしいコグリスを、前に並んでいた青年が鷲掴みにして捕獲してくれているではないか。
そこに居たのは、時々祝祭などで見かける栗色の髪の整った顔立ちの青年で、じたばたと暴れるコグリスを捕獲したままネアと目が合うと、微笑んで会釈してくれた。
「そちらに真っ直ぐに飛んで行ったので捕まえてしまいましたが、お知り合いですか?」
「にぎゃ、にゃ、にゃーん!」
柔らかな声で尋ねられ、果たしてコグリスな知り合いがいただろうかと首を傾げたネアに、青年に鷲掴みにされてしまったもちもち猫耳妖精は哀れっぽく鳴いてみせた。
「………先程から私達を追いかけてきていた妖精だね。昨年、君からおまんじゅうを貰ったコグリスではないかな?」
「………もしかして、アルテアさんをちびふわにした………?」
「にゃーん!!」
「おい、今年は絶対にあの術符を出すなよ…………」
「む?」
「ほお、あの魚のシチューは作らなくていいんだな?」
「ぐぬぬ、何という邪悪な魔物でしょう。その交渉には頷くしかありません………」
狡猾な脅しにネアがかくりと項垂れると、青年に鷲掴みにされたままのコグリスは小さくぐるると唸った。
こちらはどうしてくれるのだと言わんばかりだが、見ず知らずのコグリスに施しを与える義務は元々ない。
じろりとそちらを見た魔物達の視線に、コグリスは、今になってとんでもない魔物の輪に飛び込んでしまったと気付いたようだ。
にゃっとけばけばになったので、ネアも不憫になった。
(あの時は襲撃されてのこととは言え、野生動物を餌付けしてしまったのは私なのだし……………)
さてどうしたものかと眉を寄せたネアは、青年の手の中でふくふくもふもふしている毛皮をじっと凝視し、それから周囲を見回した。
「……………むむぅ、見当たりませんが、どこかにアメリアさんとミカエルさんがいれば、小さな毛皮生物には、おまんじゅうをくれる筈なのですが………」
「にゃ?!」
「リーエンベルクの騎士さんと、雨降らしさんの二人連れなのですよ。一緒にいるちびこい生き物を襲わず、毛皮を触らせて差し上げれば、大事にしてくれることは間違いなく………」
「にゃ!」
ネアからその情報を聞いたコグリスは、そんな素敵な御仁がいるのであれば、もうこの恐ろしい場所には用はないと言わんばかりに、じたばたもがいて青年の手の中から逃げ出すと、ぶーんと素早くどこかへ飛んで行ってしまった。
その真ん丸な後ろ姿を見送り、ネアは少しだけ撫でてみたかったなと、指先をわきわきさせる。
「先程からじっとこちらを窺っていたようだから、アルテアを襲えば、君がおまんじゅうをくれると思ったのかな………」
「なぬ。狙われていたのは、アルテアさんだったのですか?」
「君とアルテアを何度も見比べていたようだよ」
「おい、妙な餌付けをするな。もう二度と相手にするなよ」
「昨年の件については、あのコグリスさんが意地悪な使い魔さんを懲らしめてくれたのでは?………………お、おのれ、頬っぺたを摘まむなど許すまじ!」
親切な青年の前で乙女を不細工にする辱めを受け、ネアは低く唸り声を上げた。
すると、にっこり微笑んだウィリアムが、がしりとアルテアの手を掴んでくれる。
「アルテア、俺も戦場以外では剣を抜きたくはないんですが?」
「こっちの問題だ。お前は関係ないだろうが」
「アルテアさんはまず、こちらの方にお礼をいいましょうか?」
「…………は?」
「コグリスから助けて貰ったのであれば、きちんとお礼を言いましょうね。私も一緒にご挨拶しますから」
「おい、妙な言い方をするのはやめろ」
「いえ、僕が勝手に手を出しただけですから。お気になさらずに」
「とんでもないです!お陰で助かりました。私の使い魔さんを、コグリスから守って下さって有難うございます」
ネアがそうお礼を言えば、隣にいたディノも慌ててちびお辞儀をする。
最近、ちびふわ化の著しいアルテアに対し、ディノにもどこか保護者的な自覚が芽生え始めたようだ。
そんなネア達にアルテアは何とも言えない暗い顔をしていたが、今回はふいっと姿を消してしまうこともなく、このままチーズグヤーシュのおまんじゅうを一緒に楽しんでくれるようだ。
なぜか先程よりもぴったり傍に寄り添っているのでおやっと思えば、近くの茂みをたいそう気にしている様子がある。
どうしたのだろうとそちらに目を凝らせば、何やら毛皮状のもさもさした生き物が木の影に潜んでいるのが見えた。
こちらに気付いた様子はなく、ひっそりと木の影から楽し気なおまんじゅう祭りの会場を覗いているらしい。
「そちらに何かいるのかい?」
「アルテアさんが、毛皮生物を見付けたようです。悪いものなら狩ってしまいますが………」
「おや、人間の道具に派生した精のようだね………」
「ふむ。少しだけボラボラに似ていますが、お人形のようです。………まぁ、アルテアさんが、」
ネアがそう言った途端、アルテアは、その毛皮生物を避けるようにネアの反対側に避難してしまった。
これはウィリアムも意外だったようで、呆然と目を瞠っている。
過剰反応の理由を考えていたネアは、つい最近、選択の魔物と雲の魔物を襲った悲劇を思い出した。
(あれは確か、………ボラボラ人形に囲まれたということだから…………)
これはもう、その時の恐怖体験が蘇ってしまったに違いない。
ネアは怯える使い魔が不憫になってしまい、手を伸ばしてお腹を撫でてやった。
「…………やめろ」
「大丈夫ですよ。ディノもウィリアムさんもいますから、怖くないですからね?」
「成程、アルテアはああいうものが不得手なんですね。………あなたの系譜のものでしょうに」
「…………は?」
「いや、アルテアの系譜の生き物だと思いますよ」
「……………いや、人形だろ?」
「まぁ………。ボラボラ風のお人形から派生したので、ボラボラになってしまうのです?」
ネアがそう尋ねると、ディノにも分からないのか、伴侶な魔物は不安そうに瞳を揺らしそっと首を振った。
どのような経緯で人形が選択の系譜として認識されてしまうのかは分からずとも、ウィリアムには、アルテアの系譜であることは分かるそうで、トラウマを刺激する生き物が自分の系譜だと言われたアルテア本人は黙秘してしまっている。
混迷に包まれたネア達は、順番が回って来たのでひとまずはチーズグヤーシュのおまんじゅうを買い、そろりとその場から離脱することにした。
すると、ネア達の前に並んでいた青年が、くすりと笑って声をかけてくれる。
「お話しのところ、横から申し訳ない。………おそらくあの人形は、ボラボラの要素を取り込んで派生したものの、容れ物になっているのでしょう。…………これでも、僕は精霊ですので、いい匂いがするなぁとは思っていたんです」
「ああ、やっぱり君は精霊だったんだな…………」
「一緒にいる友人は竜なので、先程から喉が痒いそうですよ。ただし、お互いに本物のボラボラへの反応とも違いますから、生粋のボラボラという訳でもないのでしょう」
「成程、それで気配が曖昧なのかもしれないね。害はなさそうだから、このままにしておいて、会場の警備の騎士達に伝えて対応を任せようかな」
そう告げたディノに、栗色の髪の青年は微笑んでお辞儀をしてくれた。
どうやらディノの方を見てそうしたようなので、何某かの面識があるのかもしれない。
(知り合いなのかしら……………)
そう考えて首を傾げたところで、ネアは、その青年の後ろに立っている黒髪の男性と目が合った。
なぜか恥じらうように青年の後ろに隠れてしまったので、恥ずかしがり屋な竜なのかもしれない。
「このような場所なので、擬態のまま失礼させていただきます」
「いや、この会場にはそういう者達が多いようだ。別に構わないよ」
「では、僕たちはこれで…………」
その二人が立ち去ると、なぜかアルテアがじっとこちらを見るではないか。
まだ怖いのかなと思ってお腹を撫でてあげようとすると、ふっと意地悪な微笑みを浮かべた使い魔の表情に、ネアは慌てて距離を取った。
「相変わらず、会員だらけだな?」
「…………む?今の方も、エーダリア様の支持者の方なのですか?」
「お前のところの会員だろうが」
「かいなどありません…………」
何ということを言うのだろうと悲し気に目を瞠ったネアは、お待たせする訳にはいかない美味しいチーズグヤーシュまんじゅうをはふはふして齧りながら、伴侶な魔物を見上げた。
「かいなどありませんよね?」
「あの精霊は、コロールで一緒だった真夜中の座の精霊だよ」
「ほわ、ミカさんだったのですね…………」
「……………おっと。全く気付かなかったな。ミカだったのか…………」
ネアはここで、なぜかウィリアムにじっと見つめられ、首を傾げた。
何の話をしていたのだろうかと思い出しかけ、心の中の総意で、会など存在しないという結論に至る。
そもそも、あの美しい真夜中の座の精霊が、いかがわしい趣味などを持っている筈がないのだ。
これは使い魔なりの苛めであると判断したネアは、つんと澄ましてさくらんぼまんじゅうのお店に向かうことにしたのだった。




