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44. おまんじゅう祭りは天候命です(本編)




その日、ウィームでは毎年恒例のフードフェスティバル風のお祭りである、おまんじゅう祭りが開催されていた。



昨年とは違い雨の予報もなかったのだが、空は薄曇りのようだ。

ネアは、警戒に目を細めて空を見上げたものの、ディノから雨は降らないよと言われて胸を撫で下ろした。



ネアの溺愛するこのお祭りは、残念ながら雨天中止のものである。


魔術の理や儀式などに必要とされ、開催を強行するような祝祭ではないので、雨だと中止になってしまうのだ。

なお、開催後に雨が降ると早めの時間で切り上げられてしまったり、荒天具合によっては途中で中止になってしまうこともあると聞いてしまい、ネアは、その展開も許すまじとたいそう警戒していた。



「ディノ、うっかり雨が降らないようにするには、通り雨の魔物さんを先に狩っておくべきでしょうか………?」

「ラジエルを狩りたいのかい?ヨシュアも来るのだから、今日は雨は降らないのではないかな………」

「そう言えば、ヨシュアさんはすっかりおまんじゅうが気に入ったようですものね。今年も来てくれたら、とても頼もしいのですが………」

「浮気……………」

「あら、二人で楽しくおまんじゅう祭りを楽しみ尽くすには、ヨシュアさんの存在は大きいのですよ?」



狡猾な人間にそう言われてしまうと、魔物は荒ぶればいいのか、喜べばいいのか分からなくなったらしく困惑したような表情でこくりと頷いた。



その動きに合わせ、長い三つ編みが肩から落ちて弾むように揺れる。

柔らかな輝きの青灰色に擬態した髪に結ばれているのは、ミントグリーンのリボンだ。


新緑の季節を経て、朝靄や霧雨に育てられた緑がそこかしこに瑞々しい色を添えるこの季節のウィームは、空気を染める季節の色がこんな色合いをしている。


雨の日には淡い灰青の翳りが出来るが、水溜りに映る木々の影はいつも、淡く霧がかったミントグリーンの煌めきだ。



(山猫さんの紫陽花も綺麗に咲いて、エーダリア様はとても嬉しそうだった…………)



今朝、リーエンベルクの南門の前にある、バンルの山猫の使い魔のくれた紫陽花の茂みには見事な瑠璃色の花が咲いていた。

ちょうど満開になったのだ。


こんもりとした花が固まって咲く様子に、昨年の火の慰霊祭でその紫陽花が傷付いてしまったことを気にかけていたエーダリアは、とても嬉しそうだった。


今年からは、エーダリアだけでなく、ノアやヒルドも厳重に守護をかけているので、その大切な紫陽花が喪われる事はないだろう。


元々リーエンベルクの守護の敷かれた場所に植えられていたので、昨年まではそれ以上のものはかけていなかったものの、あの傷付いた紫陽花を見てしまった事で、皆がもっと頑丈な守護を与えなければと思ったらしい。


大切な使い魔を偲んでそこを訪れたバンルが、国宝みたいな扱いだと呆れていたくらいなので、かなり過保護に守られているようだ。


ネアはそこで、呆れたように笑いながらも、はっとする程に優しい目をしたバンルを初めて見た。


リーエンベルクに紫陽花を残しいなくなってしまった山猫の使い魔は、バンルにとっては代わりの存在などいないたった一つの宝物だったのかもしれない。


それだけの存在が喪われた後を生きてゆく人外者の眼差しに、不幸ではなくても永劫に消えないであろう傷跡は確かに残っていた。



だからネアは、少しだけ自分がいなくなった後の伴侶の事を考える。


どれだけのものを残してやれば、その怖さを埋められるのだろうかと考えて来たが、もしかするとそれは、ぽっかりと穴が空いたままなのかもしれないのだと。


ヨシュアのように自分を御せる理性的で心の間口の広い魔物もいるが、人外者達の心の傾け方は、穏やかに見えても思っていた以上に苛烈なのかもしれなかった。




(でも、そんな山猫さんの紫陽花には雨が似合うけれど、どうか今日ばかりは降りませんように………!)



とは言え、曇天だと助かることもある。


日差しがない日のこの季節のウィームは僅かな肌寒さが残るので、ほかほかの温かいおまんじゅうがこの上なく美味しく食べられる気温でもあるのだ。


そんな秘密に気付いてしまったネアは、不安げな面持ちから一転、にやりと笑い、計画していたおまんじゅうの数を一つ増やしてもいいかもしれないと考えた。



「……………おい、何だその顔は」

「む。食べ歩くおまんじゅうを一つ増やすかもしれないという、清らかな表情ではないですか」


ほくそ笑むネアに声をかけて来たのは、どこからかふわりと現れた、今年も参戦の選択の魔物である。

朝食の席を訪れて参加を宣言しに来たのだが、現地集合という事でどこかに出かけていたようだ。


本日は、あまり見る事のないラフさで、上質そうな生成り色のリネンのシャツを着て、掠れたような青色が素敵な細身のパンツを穿いていた。


おまんじゅう祭りの会場は、どこか小洒落た市場めいた帆布のテントが並ぶので、海辺の町で買い物に行くのかなスタイルで決めてきたのかもしれない。



だが、だからと言ってアルテアが仲間だと思うのは尚早だ。

昨年は途中で飽きていたようなので、ネアは、こちらの魔物は本物の同志ではないかもしれないという疑いの目で見ている。


と言うか、当然のように合流されたのだが、ご主人様的には招集はかけていないので、一緒に行動するかどうかはまだ不確かだ。


しかしながら、アルテアは、ディノよりは状況の判断が的確で買い物に慣れているので、使い魔は勿論ご主人様のものと考えるネアは、戦力としての期待もかけていた。



「……………どうせ全部買うんだろうが。結局食べるなら、その場で七つも食うのはやめておけ」

「な、なぜ私の計画数を知っているのですか?!」


正確な数を握られている事に動揺し、ネアは慌ててディノの影に隠れた。

怪訝そうにこちらを見たアルテアは、瞳の色はそのままで、髪色を珍しく華やかな金髪にしている。


アルテアの本日のこの擬態を、ネアは最初、よくある色合わせなのに何だかしっくりこないなと思ってしまった。


しかし、派手めな金色の髪に赤紫の瞳の合わせの豪奢さが、魔物らしい美貌を逆に月並みな色に纏めてしまい、造作を変えずに本来の階位より自分を低く見せるという高度な擬態なのだとか。


アルテアは擬態の種類を増やすべく、新しい組み合わせで行き交う人々の視線の動きなどを研究もしているのだそうだ。

滞在していることを隠さなくていい土地だからこそ、出来ることであるらしい。



「なぜも何も、会食堂のテーブルの上に紙を広げて、シルハーンと順路を組んでいただろうが…………」

「むぐぐ、計画が漏洩していますが、ここは予定を変えずに決行するしかありません」

「知られてしまうと、予定を変えることもあるのかい?」


無念さに歯噛みしたネアに、ディノが不思議そうに首を傾げる。

すれ違った毛玉妖精がうっかりそんな魔物を正面から見てしまい、ぱたりと地面に落ちた。


ネアはそんな毛玉妖精をそっと花壇に避難させてやりながら、人間の繊細な心模様についての説明を始めた。


「……………ええ。例えば、ご一緒するのが、ウィリアムさんやヒルドさん、そんな事は実際にはないと思いますが、ドリーさんやアレクシスさんだった場合は、もう少し控えめにしなければなりません。私の魅力はおまんじゅうを食べる数如きで削られることはありませんが、それでも小食に見せたいという可愛らしい一面もあるのは否めませんから」


ぴしりと指を立てて説明したのは、そんな人間らしい虚栄心についてである。

こればかりは、心が感じるままに、なるようにしかならないという問題なので、結論としては、ネアにもどうしようもない。


だが、大きな力を持ち、自由に生きている魔物には勿論そんな感覚はないらしく、ディノは悲しげに目を瞠った。



「ネアが色々浮気する…………」

「ディノ。人間は、浮気のような感情が動かなくても、特定の人物の前に出ると自分を実際よりも少しだけよく見せたいという気持ちになることがあるんです。………そうですね、………例えばヒルドさんは、実際にはそんなことはないのかもしれませんが、食べ過ぎると叱られてしまいそうな印象がありませんか?」



ネアのその問いかけに、ディノは、はっとしたように息を飲み小さく頷いた。


散々日常生活の中で叱られるノアを見ているからかもしれないが、万象を司る魔物でもそう思えてしまうのだから、ヒルドは偉大な妖精に違いない。



「………けれど、君の可愛らしいところは………あまり見せなくていいかな…………」

「あらあら、そこは荒ぶってしまうのですね?」

「君は私の伴侶なのだから、好きなだけ食べていいんだよ。休日の祝祭に、他の誰かと出かける必要もないのだし…………」

「そして、少しぞくりとする方に向かいました……」

「何かを食べている君は、とても可愛いからね」


ディノはそう言ってくれるのだが、やはり淑女たるもの悲しいながらも体裁は取り繕うのである。

ネアは、ここは伴侶の純粋な心を守るべく微笑んで頷いておくに留め、そんな悲しい真実を敢えて口には出さなかった。



さあっと、不思議と肌に心地良い風がスカートの裾を揺らす。



雨待ち風ではないことを祈るしかないが、僅かに風がある。


会場に続く並木道の木の枝には、誰かが落としたおまんじゅうを奪わんと今日は荒ぶる小鳥達が、あちこちから集まってきて入場前の最終確認などを行なっているようだ。



「ディノ、…………随分と沢山の小鳥さん達がいますね」

「うん。………食べる時には、私の側を離れないようにするんだよ。また襲われてしまうからね」

「ふぁい。可愛くちゅいちゅい鳴いているだけに見えますが、殺気のようなものすら感じるくらいなのですから、絶対に犠牲者にはなりたくありません…………」



そんな鳥達の作戦本部を通り過ぎれば、いよいよ色とりどりのテントが見えてきた。



甘い匂いや香ばしい匂いがこちらにも届き、昨年の失敗を生かしもっと早めに来た事で、幸いにも販売開始前に間に合えたようだ。


この、販売前に並びたいけれど、意気込み過ぎて店主達に迷惑をかけないぎりぎりの時間を算出するまでには、涙なしには語れない努力の日々があったと言い残しておこう。



しゃりんと、どこかで店の軒先に吊るされた災厄避けの鈴の音が聞こえる。

じゅわっと音を立てているのは、おまんじゅうに包む何かを焼いているのだろうか。



(こうして、おまんじゅう祭りに来ると…………)



思い出は積算だが、より強い感情が動いた日の事を忘れてしまうこともない。


ネアは、おまんじゅう祭りの日になると、心が躍る喜びを感じる一方で、死者の国に落とされたときの心細さがふっと蘇るのだ。


そんな時は、あの暗い地下室がどれだけ怖かったかや、死者達が眠っている昼間に見た、あの家の玄関前の廊下に落ちていた外から差し込む光の模様、更には迎えに来てくれたディノの痛ましい片目を思い出して胸の奥がじりりっと音を立てて軋む。



でももう、これはただの感傷のようなものだ。


実際には、あの事件で死者の国に落とされたことで、そちらでの身の振り方を学び、墓犬の友達も出来た。


もしまた死者の国に迷い込むようなことがあっても、その経験を生かして自分を守れると思えば、あれもまた必要な経験だったのだろう。



(ああ、でも死者の国には、絶対に行きたくないところはあるかな………)



それは、昨年の蝕の際に物語のあわいで出会った、リンジンという魔術師の落とされた区画。


死者の王の逆鱗に触れた者達が、この世界の終わりまで燃え続ける場所だ。

そこに落とされたリンジンを哀れだとは思わないが、その記憶が胸の底で揺れれば、あの時の様々な感情が蠢いた。


その場所の事を考えて身震いしてしまえば、隣を歩くディノが心配そうにこちらを覗き込んでくれる。

その曇天の鈍い光を受けて澄明に輝いたディノの瞳を見れば、水紺色から滲む美しさと凄艶さに、ああこの魔物と伴侶になったのだなとしみじみ思った。



「ネア、どうかしたかい?」

「初めて、マロンクリームのおまんじゅうを食べた日のことを思い出していました。私は、あの日におまんじゅうを持って来てくれた優しい魔物の伴侶になったのですね……」

「………うん」



ディノの袖をくいっと引っ張り、微笑んでそう言ったネアに、目元を染めて恥じらう魔物は、そっと三つ編みを差し出そうとしたところで、狡猾な人間に素早く手を握られてしまった。


きゃっとなって傾いた魔物の手を引っ張ろうとして、ネアは空いている筈の利き手が塞がれていることに気付く。

そろりと右手を見れば、いつの間にかそちら側に立った使い魔にしっかりと手を握られているではないか。



「たいへん謎めいておりますが、いつの間にかこちらの手の自由が奪われています……………」

「お前が暴走しないようにだな」

「……………むぐぐ。おまんじゅうお祭りで暴走せずに、どう楽しめと言うのだ………」

「する気なのかよ…………」



ぱたぱたと、風に旗やテントの布が揺れる。

張り巡らせたロープには色とりどりの旗がかけられ、曇天の下だからこそ際立つ色鮮やかさで会場を楽しく彩ってくれていた。



開場の三十五分前である。



まだそこまでお客の入っていない会場では、しゅんしゅんとお湯の沸く音や、がさがさと袋を広げる音なども聞こえ、爽やかなウィームの朝と言うにはいささか数が多く感じられる小鳥達の囀りも聞こえた。



木々の根元に咲く花々の美しさも、今日ばかりはおまんじゅうの輝きには勝てまい。

上品で理知的な気質と名高いウィームの領民達も、穏やかに季節を愛でる前にと、鋭い目で各店舗を見回していた。



(ま、負けてられない………!)



「ディノ。作戦通り、まずポイント青から始めましょうね。なぬ!もう並んでいるなんて………」

「青、赤、砂色に黄色、水色で紫だったかな?」

「はい!………それにしても、この青色テントのお店は、さすが今年初出店な話題のお店なだけありますね。やはり、肉体改造のおまんじゅうという魅惑の効能が皆の心を掴んだのでしょうか…………」

「…………は?」

「アレクシスさんのご友人の方のお店で、材料の夜明けの最初の一筋の光から収穫した黎明の蜜は、その日一日の健やかさを約束してくれるのだとか」



ネアがウィームのおまんじゅう祭りは凄いのだとふんすと胸を張ると、アルテアは少しの間無言になった。


その間に青いテントの店の行列の最後尾につくと、ネアは静謐で荘厳な思いで列の先頭の方を観察する。

作られて箱に入ったおまんじゅうの数をざっと数えれば、そこにある数でネア達のところまでは足りそうだ。


このおまんじゅうを食べて元気をつけ、今日一日を楽しみ尽くす予定なので、ネアは期待と興奮に胸を熱くしていた。



「…………黎明の最初の一筋、………シャタングレースを料理にしたのか……」

「まぁ、アルテアさんはその材料をご存知なのですか?」

「黎明の最初の一筋は、計算して観測出来るものじゃない。故に強い祝福が得られる。その蜜の一雫で、たちどころにどんな病も散らすと言われているな」

「ふむふむ。そんな蜜の入った、爽やかな初夏の果実とクリームチーズの小さなおまんじゅうですので、皆さんこれを食べて今日のお祭りを楽しむつもりなのですね」

「どんな祝福の無駄遣いだよ」

「どのような祝福とて、おまんじゅう祭りの崇高さの前には矮小なもの。所詮人間は、目先の欲には勝てない愚かな生き物なのです」



厳かにネアがそう宣言すると、なぜか前に並んでいた二人組の男性が深く頷いている。

ウィーム観光の本と一緒におまんじゅう祭りのおまんじゅうカタログを大事そうに持っているので、こちらは間違いなく同志のようだ。


みっしりつけられた付箋に番号が振られているので、この戦士達も順路を組んであるらしい。



(む……………)



気付けば、ネア達の後ろにも随分なお客が並んでいた。


男性客が多いのは、おまんじゅうの効能に心を動かされるのが男性が多いという事なのだろうか。


他の店舗でもちらほらと行列が出来始めているようなのでそわそわしていると、小さく溜め息を吐いたアルテアがこちらを見る。

全ての計画を頭の中に叩き込んでもなお頁を開いてしまう、ネアが胸に抱いたおまんじゅう祭りのカタログを指さし、赤紫色の瞳を眇めた。



「赤はどこだ?」

「昨年の、豚肉の香辛料煮込みのおまんじゅう屋さんです。今年は、夜風の祝福を貰って育てた特別な葡萄を隠し味にした鶏肉と香辛料煮込みのココナッツ風味という素晴らしい新商品もあるので、そちらも買わなければなりません」

「……………ったく。並んでおいてやる。数は幾つだ?」


そう言われて目を瞬くと、アルテアは早くしろと言わんばかりにこちらを見た。

今は良い使い魔の気分なのかもしれず、ネアは、そう言えば使い魔とはお使いに行ってくれる魔物の事だったと閃きを得る。



「一人三個までしか買えないので、人数分それぞれ上限まで買うつもりですが………」

「……………そうなると、その一店舗で既に十八個になるだろうが。本当に食うんだろうな?」

「あら、足りないくらいですよ?」

「……………並んだ人数で購入数が決められるのなら、他の店から押さえた方が良さそうだな。他に行く予定の店はあるか?」



そう尋ねたアルテアに、ネアは一人で並んでおいて後からそれよりも多い人数で割り込むようなことをしない使い魔を誇らしく思った。


なので、そちらも人気が出る事必至の、濃厚なトマトクリームに雪解け苺の花で燻製させたベーコンが入った、赤いおまんじゅうのお店での購入をお願いすることにする。



「小さめのおかずおまんじゅうですので、五個セットの箱をひと箱と、この場で食べる用のものを二つか三つ買ってきて欲しいです」

「何だ最後の数は」

「アルテアさんがあまり量を食べないようであれば、私は一個で、もう一つをディノとアルテアさんで割って食べてもいいですし、一人一つでもと思いまして」


二人で半分こにしてはと提案されてしまった魔物達は、無言で顔を見合わせたようだ。

暫し見つめ合い、同時にこちらを見る。


「…………ないな」

「しなくていいかな……………」

「あらあら、照れてしまいました?」

「ご主人様……………」



おろおろしてネアにへばりついてしまった魔物を撫でてやっている内に、使い魔は素早く離脱してしまったようだ。


そうこうしていると、店員がお客たちに声をかけてくれて、行列が随分長くなってしまったからという理由から、並んでいたお店のおまんじゅう販売が少し早めの時間から始まった。



販売を開始すると、店員の手際の良さが際立ち見る間に列が短くなった。

ネア達の順番もあっという間にやって来て、お目当てだった体力増強などの効果のある、季節の果実とクリームチーズのおまんじゅうが手の中に齎される。



「美味しそうです…………。じゅるり」

「ネアがかわいい…………」



おまんじゅうには何種かの皮のタイプがあるが、こちらのおまんじゅうは、ふかふかほんわりの柔らかい生地のようだ。

ほこほこと湯気を立てている薬草の色味が少し入った淡い黄緑色のおまんじゅうに堪らずにかぶりつけば、思わぬ美味しさにネアは目を瞠る。



「むぐ!中のクリームチーズは冷たいのですね!おまんじゅう生地のほかほかと見事な調和を遂げ、蜜で煮込んだ柑橘系の果物の甘酸っぱさと、すっきりとした爽やかなクリームチーズの酸味とで、至高の一口が訪れまふ」


このお店のおまんじゅうは男性なら一口で食べられてしまいそうな大きさなので、ぱくりとかぶりつけば、口の中に全ての味わいが収まってくれるのが、何とも素晴らしい。


まだ朝といってもいい時間なので、この爽やかな美味しさで胃を慣らす事から始められるのも、続く戦いに向けて心強い一品である。


ネアが隣を窺えば、ディノも気に入ったようで美味しそうに黄緑色のおまんじゅうを食べていた。


慣れない様子でおまんじゅうを食べる美麗な人外者の姿に見惚れながら列に並んでいた観光客らしき一家も、自分の順番になってお目当てのおまんじゅうを手にすれば大興奮で食べ始めている。



辺りは、たちまち幸せな空気に包まれた。



「むふぅ。食べたばかりですが、俊敏におまんじゅうを買い漁れそうな気分になってきました………」

「黎明の最初の一筋がもたらす蜜には、病を治すだけではなく体力そのものを上げる祝福もあるからね」

「だから、肉体改造まんじゅうなのですね。………ご馳走様です!さて、向こうで並んでくれているアルテアさんのところにも、このおまんじゅうを持って行ってあげましょう」

「うん。アルテアも元気になってしまうのかな…………」

「ちびふわにした方が、どれだけ元気になったのかがはっきり分かりそうですね……………」



ネアは、元気いっぱいでしゃかしゃかふわふわ走り回る愛くるしいちびふわを想像してしまい、欲望のままに首飾りの金庫の中のちびふわ符を引っ張り出したくなったが、その邪な気持ちをぐぐっと封じ込めた。


今もトマトソースのおまんじゅうの為に並んでくれている使い魔なのだから、本日は戦力として大事にしなければならない。



「まぁ、なかなか混んできましたね」

「うん。皆早く来るのだね」

「恐らく、お昼ご飯として食べるものを買うべく、この時間から並ぶのでしょうね」



ネア達が最初のおまんじゅうを買って移動を開始すると、祭り会場は、開始時間ぴったりに来場した人々で賑わい始めていた。



ちらほらと知っている顔もあり、最初に遭遇したのは、今日は意気込みも新たに休みを取っていたアメリアと友人の雨降らしであるミカエルだ。


この二人は毛皮の会の中心メンバーであり、今日も沢山のおまんじゅうを買って帰り、森の小さな生き物達に振舞ってあげるらしい。


かつて、小さな生き物には怖がられて逃げられてしまうと話していたミカエルだが、今ではもう、ウィームの森の小さな生き物達の守護者のような存在になりつつある。


今日の為に、誰がミカエルとおまんじゅう祭りの会場に行けるのか、肩に乗せて貰う権利を巡って毛皮生物達による大抽選大会が森で行われていたというのだから、すっかり仲良しになったようだ。


そんな二人とすれ違う際の会釈だけで済ませたのは、小さな生き物達が見慣れない高位の魔物に怯えるので当日はご挨拶出来ないと思いますと、事前にアメリアから言われていたからだ。


実際に、ミカエルの肩にしがみついたぽわぽわとした蒲公英色の子兎のような生き物は、ディノが怖かったのか震えながらこちらを見ているようだ。


怖がらせないように微笑みかけたネアは、震えるちび兎の視線が魔物ではなくこちらを見ていて、恐怖に震えているのではなく、ネアを見てじゅるりと舌なめずりをしていることに気付いてしまった。


愛くるしいという印象はたちまち消えてしまったが、よく考えなくても森の獣は人間の子供などを襲うのだ。


今日はミカエルとアメリアが引率なので問題はないだろうが、あらためて人間の物差しだけで判断してはいけない生き物なのだと考えさせられる。



(みんな楽しそうだわ…………)



ネアのお気に入りのリボン専門店の店主は、ハツ爺さんや、見慣れない美麗な男性とお祭りに来ているようで、上得意になったネアと目が合うと微笑んでくれた。


昨年も見かけたゼノーシュとトンメルの宴の主催者であるリディアの二人の姿もある。

手袋専門店の店主であるバンルは、エーダリア過激派で名高いザハの料理長と一緒のようだ。



まだまだ新参者には違いないが、いつの間にか、ネアにもこの土地の知り合いが増えた。


そうして心を添わせる風景を愛おしく思っていれば、人波の向こうにどこかで見たことがあるような、簡素な装いの背の高い男性の姿を見付ける。



ふっと目が合い、その男性は微笑んだようだ。

けれど、ネアがおやっと目を瞠ったところで、その姿は人波に紛れてしまう。



「ネア?他にも食べたいものがあったのかい?」

「カタログを見て、実物を見て買うかどうかを決めようと話していた、お魚シチューのおまんじゅうは、当たりのようですね。食べている皆さんが、買ってよかったという表情を浮かべていますので、後で一個買ってみましょうか?」

「魚のシチュー………」



ネアが、まずそちらの提案から切り出せば、魔物は聞き慣れない言葉だったものか不安そうに視線を彷徨わせた。


どうやらあまり得意ではなさそうなので、まずは、海鮮好きなアルテアと分け合おうかなと考える。

一人でも食べられそうな大きさではあるのだが、シチューの中の魚がどれくらいの存在感を主張するのかによっては、一人一つだと多いのかもしれない。



「そして、どこかでお会いした筈なのに、お名前の思い出せない方がいました。こうして混み合ってくると、どなただろうと考えている内にすぐに見失ってしまいますね………」

「……………嫌な感じはしなかったかい?」

「はい。……………寧ろ、……………む!」



はっと息を飲み、ネアは、慌てて周囲を見回した。

しかし、先程の男性の姿はもうどこにもない。



(あれは、間違いない…………!)



先ほどの男性が誰だったのか、漸く気付いたのだ。



「ウィリアムさんです!」

「ウィリアムがいたのかい?」

「先程の男性は、ウィリアムさんだったに違いありません!………むぐぐ、見失ってしまったのでアルテアさんとの合流を優先しつつ、周囲を見ておきましょうか………」

「ウィリアムは、おまんじゅうが好きなのかな…………?」

「………確かに、お一人で来る程となると、その可能性が高いですね。お会い出来たら、カタログを貸してあげましょうか?」

「使うかな…………」



そんな会話をしながら歩いていると、ちょうど、トマトクリームのおまんじゅうを買えたところのアルテアに合流出来た。


ネア達は、三店目の檸檬クリームのおまんじゅうの店に並びながら、選択の魔物が万象の魔物との半分こを警戒し、一人一つにされたおまんじゅうを美味しくいただく。


こちらは中の具材まであつあつなので、はふはふと齧れば、とろりとトマトクリームが溢れ出た。



「…………むぐ!美味しいれふ。………アルテアさん、有難うございます。こちらは肉体改造まんじゅうですので、これも食べてみて下さいね」

「…………まさか、もう食べたのか?」

「むむ、肉体改造まんじゅうを?」

「今渡したばかりのものはどうした?」

「…………お腹の中に…………」

「…………は?」



ネアは、魔物達がさてこれからという体勢に入った時にはもう、トマトクリームのおまんじゅうを片付けてしまっていた。


酸味をちゃんと残した濃厚なトマトクリームと、じゅわっとした旨味と燻製の香りが鼻に抜けるベーコンは、最高の組み合わせといえよう。


幸せな思いで小さく弾むと、すかさずアルテアに肩を押さえられ、ネアは眉を寄せた。




上気した頬を、気持ちのいい風が撫でる。

空を見上げたが、幸いにも天候が崩れる気配はないようだ。


安堵して深く息を吐いたネアは、大切なお土産のおまんじゅうを金庫にしまおうとして、ふっとディノの視線が背後に向けられたことに気付いた。



「おや、やはり君だったのだね」

「ええ。鳥籠の一つが早めに回収出来たので、食事がてらネアに教えて貰った祭りに」

「まぁ、やっぱりウィリアムさんでした!」



そこに立っていたのは、さらりとした白いシャツに、如何にも軍服ですという雰囲気の黒いパンツと軍靴姿の、栗色の髪をオールバックにした男性が立っている。


美貌であることには変わらないのだが、僅かに柔和な顔立ちになるよう造作まで擬態してるようだ。

しかし、こうして見ればやはりウィリアムなのだった。



「……………おい、何の用だ」

「はは、俺だって何かが食べたいと思うことくらいあるんですよ」

「そんなウィリアムさんには、これです!疲れが取れる効能のあるおまんじゅうなんですよ!」

「凄く嬉しいが、それはネアが持ち帰るように買ったものなんじゃないのか?」

「ふふ。実は、元々、ウィリアムさんにも一つ差し上げようと思ってお土産の数に入れていたのです」



ネアが、慌てて袋をがさがささせて取り出したおまんじゅうに、ウィリアムは嬉しそうに微笑んでくれた。


その時の気分で食べたいものもあるだろうからと、持ち帰るかどうかを尋ねたものの、折角だからここで食べるということで、美味しそうにかぶりついてくれる。



(ウィリアムさんも一緒なら、何だか楽しくなりそう…………!)



何しろ、ネアも二回目とは言え、昨年からの入念な調査の成果として、お勧めのお店は沢山あるのだ。

それに、こうして仕事の忙しいウィリアムが、食い倒れ祭り的なものに一緒に参加してくれるのが嬉しい。



うきうきと唇の端を持ち上げたネアは、会場の一角から、こちらに鋭い視線を向けている者がいることには、まだ気付いていなかった。











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