プロローグ
こんな世界は、壊してしまえ。
残酷で、中途半端にやさしい世界。
日向を歩く人間に寄り添って、日陰で縮こまった人間に嫌われる。
他人の悪意に敏感なくせに、流れる涙に気づかなくて。
あたりまえを押し付ける。
こんな世界は壊してしまえ。
心の底から、そう願う。
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「ごめんなさい。あなたみたいな素性の知れない人は採用できないの」
ここ数か月の間に何度も聞いたセリフに、僕は内心溜息を吐く。
面接のときからなんとなくそんな気はしていた。
申し訳なさそうに俯くお姉さんに、むしろ僕が謝りたい。
「いえ。ありがとうございました。忙しいのに」
僕たちはお店の外、出入口のそばに立っていた。
彼女のうしろのウェスタン扉がせわしなく動いている。
店の中から、皺くちゃな顔のおばあさんがこちらを睨み付けている。
不採用で、良かったかもしれない。
「それでは」と踵を返す僕に、しばらくしてお姉さんが「あのっ」と声をかけてきた。
「その……また、来てくれますか……。お、美味しいご飯をご馳走ふるので!」
噛んだことを恥じる姿がちょっと可愛い。
「ええ、勿論」
短く答えて、雑踏にまぎれる。
6度目の就職に失敗した。
ポケットに手を突っ込むと雀の涙程度の小銭が音をたてる。
今日は安酒すら飲むことができないかもしれない。
吐く息の白さに目が痛む。
灰色の空を見上げると、鼻先に冷たい感触があった。
雪が降っていた。
同じように空を見上げる人間が何人かいる。彼らはあの空に、何を見て、何を思っているのだろうか。
僕は外套の襟を閉めるとフードを被った。
往来から外れ、路地裏に入ると世界が淀んだ。
人の往来はほとんどなく、路傍の石のように倒れた人間や、コケのように壁に背をくっつけた人間が、生気のない表情で空を見つめている。
明日の空を知らぬまま、死ぬのだろう。
視界の端で、身を寄せあった家族が涙をながしていた。
早歩きで通りすぎ、突き当たりを右に曲がるとガタイのいい男が立ち塞がった。ナイフをちらつかせている。
「金目の物をくれりゃ、命まではとらねぇよ」
背後を確認すると男の仲間であろう細身の男と女が一人、同じようにナイフを持って立っていた。
計三人。やつれた顔が彼らの苦労を物語る。
裏路地ではよくあることだ。
「俺らも生きるのに必死なんだ」
ガタイのいい男が一歩、二歩と近づいてくる。
でかい男だ。見上げるような格好になる。
やがて男は僕の目の前に立った。
黒い瞳がかげろうのように揺れている。
外套の内側に手を入れると男は身構えた。
うしろの奴らも警戒する。
「これでいいか」
僕が出したのはお菓子。
さっきのお店で戴いた物だ。
ナイフでも出すと思っていたのか、男は間抜けな顔をしていた。
「いらないならあげない。これしかないから」
ポケットには小銭があるけれど、きっとそんな無機物は欲しくないだろう。
男の向こう、路地の先には物陰からこちらを覗く子供たちの姿があった。
「……いいのか」
「ただの偽善心だよ。数秒後には気が変わるかも」
「すまない」
男は傷だらけの手でお菓子を受け取ると、僕の背後へ向けて微笑んだ。
どこか安心するような表情。
殺す気なんて無かったのだろう。
男は僕に道を譲ると、もう一度だけ「すまない」と言った。
遠くから子供たちが駆けてくる。
僕は何も言わずにその場を立ち去った。
通り様、子供たちが僕の顔を見て「ありがとう!」と言った。
色彩のないこの路地で、子供たちの笑顔はとても眩しく鮮やかに映った。
灰色の空も、彼らには別の色に見えるのかもしれない。
6度目の就職に失敗した僕には、無理な話だけれど。
それからは大した問題もなく目的の場所に向かった。
途中、綺麗なお姉さんに腕を引っ張られて夜のお店に連れ込まれそうになったけれど、僕が無一文……まではいかないが、お金がないことを知ると残念そうに立ち去っていった。
僕はこのときほどお金がないことを呪ったことは無かった。
彼女の後ろ姿に、僕はひときわ雪の冷たさを感じた。
温もりに飢える僕に、その建物は酷く孤独に映った。
裏路地に、ひっそりと佇む屋敷のような建物。
外壁は蔓が這っているし、入り口の柵が風に揺れて不気味な声をだしている。
汚れた看板には『星の案内人』と達筆な文字で書かれていて、詳細を知らない人からしたら興味は持ってもらえても、敷地に入ろうとは思わないだろう。
僕もちょっとだけ入ることを逡巡した。
7度目の就職面接というのもあるが、仕事の内容が何とも曖昧だ。
曰く、死後の魂を導く。
曰く、世界に奉仕する。
何と突飛な内容だろう?
地中を掃除する仕事と聞いたほうがまだ現実味がある。
柵の前で腕を組んで数分が経った頃だ。
こっちに向かって銀髪の女性が歩いてきた。
滑らかな所作で近づいてくる。
「こんにちは。『星の案内人』に何か御用で?」
「面接、受ける話だったんです」
自分の回答に女性は一瞬、驚いた表情を浮かべて嬉しそうに微笑んだが「だった? 受けないんですか」と次には困惑した。
「いや、だって……怪しいじゃないですか」
強い風が吹いて、柵が甲高い叫びをあげる。
「……まあ。そうですけど。でも! 真っ当な仕事ですし! あなたならきっと大丈夫です!」
「間違っていたらすいません……関係者か何かで?」
「はい! 私、『星の案内人』の事務をしている、シンスと申します! あなたのことは伺っておりますよ、ジオンさん!」
シンスと名乗った女性は僕の手を掴むと、柵を開けて僕を引っ張った。
「さ、外は冷えるでしょう。紅茶を用意します。お話は中でしましょう!」
冷えた手に引っ張られて、僕は渋々『星の案内人』の敷居を跨ぐことになった。