『廃病棟ねんねこりんと腐快な仲間達』編(下)
緒言:『欲しいのは優しさですか? 優しさを感じる心ですか?』
絶式√の電話を受けてから半時間もしないうちに、自称奇跡師の極彩色綾乃はやって来た。
何時ものように口元を扇子で隠しながら、マンションの非常階段をコツンコツンと昇って、部屋の表で待っていた倒記海人の元へと辿り着く。
ある意味でようやく、ある意味であっと言う間にやってきた彼女に、倒記が尋ねる。
「――結局お前、今日はどこにいってたんだ?」
と。
廃病棟ねんねこりんを普通の女の子に戻すと請け負っていたのは、そもそも他ならぬ極彩色綾乃である。それならば今日の成り行きを取り仕切るのは、当然彼女であるべきはずだ。しかし本日当日、というより今朝の土壇場。極彩色綾乃が『すまぬが今しがた急用が出来た。故に今日の指示は全て絶式√に仰いでおいてくれ。まぁ『ここぞ』という辺りに恐らくこの極彩色綾乃が呼ばれるであろうから、それまでは銘々散り散りばらばら、思うがまにまに動くがよかろう。それではバイバイブーである』という内容のメールを、全員に送りつけてきたのだ。タイミング的には、廃病棟ねんねこりんが倒記邸の表に待たされていた頃である。しかし急用とやらの内容は不明。そう言う訳でこの倒記海人の至極真っ当な問いである。
彼女はしかし、まるで他愛のない冗談でも言われたかのように、その目端に紅を差した目をニコリと笑ませた。
「ふふふ。この極彩色綾乃はな、これまでここにもそこにもあそこにも、ましてどこにもおらなんだよ」
そう答えた。
「全くの全く、全くを以て皆無の空白じゃった――今の今までな。そして今の今でさえ、こうしてセリフから動作主として存在を推定されておるだけの曖昧であやふやで、漠然とした存在に過ぎぬ――という冗談はさておき、隣町にある『桜花学園』まで足を運び、旧友の子孫と会うてきた。……その名を園田美雪と言うてな、平安の都を闊歩しておった鬼の頭領:酒呑童子の末裔じゃ。この極彩色綾乃が白面金毛九尾ノ狐・玉藻御前と名乗っておった頃は男子じゃったが、いやはや輪廻に転生とは誠に面白いものじゃな。金棒担いで強力無双を誇って都を震撼させておったあの悪鬼が、あのように清く聡く凛々しく美しき女子になるとはな、誠に奇跡師をして奇跡じゃと言わざるをえんわ。っはははは」
と、扇子で口元を隠して大笑いした。倒記海人には相変わらず極彩色綾乃の話は何のことやらさっぱりだったものの
「良くわからんがお前にはスゲー知り合いがいるんだな」
とそれらしい相槌を打ってみれば、彼女は扇子を閉じて
「戯れじゃ」
「嘘かよ!」
「これこれツバを飛ばすな。……では、さて。挨拶口上も程々として、さっそく奇跡にかかるかな。これより極彩色綾乃が罷り通る事にしよう。らんらんるー」
彼女は適当な事を言ってヨガラシ・シロヒデの住まっていた部屋の扉をキィと開け、中にそろそろと入って行った。
玄関をあがってすぐの廊下では、廃病棟ねんねこりんと絶式√の二人が向かい合って話をしていた。廃病棟ねんねこりんが震えながらも小声でボソボソと何かをしゃべり、絶式√がその一言一句にウンウンと頷き、ときおり安心させる様な笑みを浮かべて相槌を打っている。話し手と聞き手に分れているようだ。
絶式√が、極彩色綾乃が部屋に入って来たのを認めると、彼女は廃病棟ねんねこりんに
「もうすぐ終わるからね、大丈夫」
と何か含みを持たせた事を言って話を切り上げた。玄関で草履を脱ごうか脱ぐまいかの様子を見ていた極彩色綾乃の元に絶式√が歩み寄り、簡単な挨拶をしてから今日の経緯をかいつまんで説明した。
その要点は二点である。
一点目――廃病棟ねんねこりんを殺し、彼女を今の様な状態に追い込んだのは、ここで死んでいるヨガラシ・シロヒデという男である事。
二点目――それを特定したのは絶式√であり、廃病棟ねんねこりんを元に戻すには、再び彼を蘇生させる必要があると言う事。
「綾乃ちゃんが生き返らせていたこのヨガラシさんをさ、再びボクが殺してまったのは本当にすまないと思っている。やっぱりボクはまだまだ不完全みたいで、彼の口から正確な情報を聞き出せるほどの能力はまだ戻って来ていないみたいなんだ。かつて完璧だった、完全無欠だった頃のボクのようにはね」
絶式√が胸に手を当てて語り始める。
「その情報と言うのはもちろん、廃病棟君を元の普通の女の子に戻す方法の事。そしてそれを知る為には、どうして彼女がこんな風になってしまったのかを知らなくてはいけない。ボクはそれをヨガラシさんから手に入れようとしたのだけれど、結論から言えば彼はそれを知らなかった。知らないからもちろん、そんなことは脅迫したって話させる事は出来ない。けれどもその情報自体は彼に刻まれているんだ。それはまるで昔の人がね、自分の足で大地に立って『地球は丸い』という情報をしっかりと身体に刻み込んでいるのに、自分の意識は『地球の丸さ』に気付いていない――それと同じ事なんだ。けれどもその感覚をね、たとえば微妙な曲面もしっかりと感知できるような精密機器に伝える事が出来たら、もしかしたらその機器はその感覚からでも『地球は丸い』という情報を得られるかもしれない。気付けるかもしれない。これは単純な理屈だよ。同じ料理の素材を与えてもさ、腕の良し悪しで出来あがる料理が違うでしょ。それと同じ。……だからボクはね」
彼女はヨガラシ・シロヒデの死体に目を向ける。
「自分の五感をフルに動員して、彼から得られる一切の情報を獲得しようとしたんだ。それらの情報から、廃病棟君を元に戻す方法を、あるいはボクなら気付くことが出来るかもしれないって。だからね――」
その為に彼の脳内に刻まれた情報を触覚で感じ取り、
その為に彼の肉体に刻まれた情報を視覚で感じ取り、
その為に彼の血液に刻まれた情報を味覚で感じ取り、
その為に彼の声門に刻まれた情報を聴覚で感じ取り、
その為に彼の内臓に刻まれた情報を嗅覚で感じ取り、
そうして彼に刻まれた情報をボクは五感で感じ取り、
結果としてボクは彼を殺す事になり、
結果としてボクは廃病棟君が今の様になった理由と、元に戻す方法を見つける事が出来た。
絶式√はそう言った。
そんな無茶苦茶を聞き終わった時、倒記海人の脳裏を過ったのは、絶式√がつい先ほどに取った猟奇的な行動だった。
――露わにした青白い首に向け、握ったバヨネットの切っ先をグチっと押しこむように突き刺した。そして刃を返し、開いた傷口から溢れて来た赤黒い血に口を寄せてゴクゴクと喉を鳴らしながら――
あれがつまり、絶式√が五感を使って彼に刻まれていた情報を読み取るという、行動を指すのだろうか。それならば一応、行動の動機は理解できる。さしあたって血液を触覚で知覚するというのがその動機なのだろう。行動の動機は理解できるけれども、しかしそれで情報が得られるという理屈は理解できない。やはり無茶苦茶だ。そしてそれにも増して滅茶苦茶だ。彼女がやった事を見も蓋も無い言い方をするならば、それは単に『死体の血をすすった』というだけの事なのだから。否、あるいは、それ以上かも知れない。
――ここから先は死体性愛か人肉嗜食に対する理解がないとキツイよ?
行動に及ぶ前に彼女はそう言った。そしてその後、倒記海人も廃病棟ねんねこりんも絶式√のバヨネットを用いた初動以外は何も見ていない。見ていられなくなって外へ飛び出したのだから。
倒記海人は、今も壁で長座の様な格好で死んでいるヨガラシ・シロヒデに目をやる。首には絶式√が深々と刺したバヨネットの傷が残っている。そしてさらに、彼女の言葉と今の思考内容を念頭に置いてよく観察してみれば、僅かではあるが『要所要所の部位が欠損していた』。
軽く目眩がした。
吐き気も催した。
ともあれこんなことをしたところで、死体を――――喰らったところで、一体全体どんな理屈理論によって彼から情報が獲得出来ると言うのだろうか。
――――いや。
違うか。
この疑問は正確ではない。ごくわずかな言葉の差ではあるが、しかしそれのもたらす意味の差は決定的である。正確には、
どんな理屈理論によって、彼から情報を獲得『出来た』と言うのだろうか。だ。
未来の予測ではない。
過去の推定なのだ。
未然ではない。
既成なのだ。
だから既に、倒記海人がそれを考えることに、意義や意味は存在しないのだ。
――実証に勝る、証明法は存在しないんだよ?
出来るのか? という疑問は、出来た、という結果の前に無意味で無意義で、そして徹底的に無力であるから。
だからもう、彼は考えるのは止めた。
「綾乃ちゃんは言ったよね」
絶式√の声。
「殺した者は死んでいないから生き返らせられる。けれど死んだ者は死んでいるから生き返らせられないって」
彼女が尋ねると、極彩色綾乃は「如何にもその通りじゃ」と頷く。絶式√もまた頷いた。
「うん、確かに。その通りだった……ボクと一緒だよ」
絶式√が、再び廃病棟ねんねこりんの方に目を向ける。
「ボクが自分のお母さんを失くした時と同じように、廃病棟君も心が死んじゃったんだよ。……ヨガラシさんに襲われちゃった時にね」
喫茶店で絶式√が、電話を通じてヨガラシ・シロヒデに言った言葉を倒記海人は思い返した。
――初めまして。こんにちわ。先月にお嬢様専用SNSでネカマやって誘い出した廃病棟ねんねこりん君を路地裏に連れ込んでレイプしようとして失敗した挙げ句に彼女をナイフで滅多刺しにした『世辛子白英』さんでい……
ネカマとは、インターネットの匿名性を利用して男性が女性になり済ます行為のことである。SNSとは、ソーシャル・ネットワーク・サービスの略で、インターネットを用いた社交サービスの一つである。
倒記海人は電話内容から事情を推察する。
ヨガラシ・シロヒデは、廃病棟ねんねこりんの所属しているSNS――お嬢様専用らしい――に、ネカマ即ち自分の性別を偽って登録し、そのまま女性を装って、何らかのきっかけで廃病棟ねんねこりんと知り合った。それから二人はコミュニケーションを続けて、次第に良くなってゆく。そして、彼の『誘い出し』に彼女が応じるぐらいに親しくなった頃合、二人はネットではなくリアルで会う約束を取り付ける。場所は言わずもがな、廃病棟ねんねこりんが『姫狩り』の犠牲となった場所である。
そしてまさに友達と待ち合わせる様な感覚で廃病棟ねんねこりんが約束の時間に待っていたら、そこにヨガラシ・シロヒデが現れる。彼女は彼を目にし、初めて自分が騙されていた事に気付く。そのとき彼女は逃げようとしたのか、警戒しつつも様子見しようとしたのか、あるいは脅えてしばらく言う事を聞いたのか、それは分からない。しかしとにかく結末は電話内容の通りである。彼は彼女を路地裏に連れ込んでレイプしようとして、失敗した挙げ句、彼女をナイフで滅多刺しにして殺した。
「仲、良かったんだね? 廃病棟君」
絶式√の問いに、廃病棟ねんねこりんが震えながら頷いた。
「……ええ。彼が『バタフライ』と名乗っていた時は、その……わたくしの数少ない親友でした」
――バタフライ。
関係があるのかは分らないが、ヨガラシ・シロヒデの頬には蝶のタトゥーが彫られている。
「日常の些細な話も、趣味の話も、ずっと、『バタフライ』は飽きずに聞いてくれたんです。……特に趣味の話をするときは嫌な素振りもなく、話題を変えるわけでもなく、しっかりと相槌もうってくれました」
もちろんこれはSNS内の事だろうから、細部には彼女の思い込みも含まれているだろう。しかし彼女の言う通り『嫌な素振りもなく』という可能性は高いと、倒記海人は思った。
「……すごく嬉しかったんです。自分の趣味に共感してくれる人なんて、そう簡単に見つかるわけないと思ってましたから……。だから」
そうして震えている彼女は、また涙を零し始めた。
それを見るのは、倒記海人は今日で二度目だった。
一度目はあの河川敷で、絶式√が廃病棟ねんねこりんに『妙な行為』を要求した時だ。
「……ふふふ、良く考えたら」
廃病棟ねんねこりんの、自虐的な笑い声。
「ちゃんと自分で気付いてましたのにね。そう簡単に見つかるわけないって……そんなの。……『女の子が好きな女の子』が、……そう簡単にいるわけないって」
――ところで人間が持つ欲求の中で一番強いのは何だろうね
――羞恥心なんてボク達の間にはもう必要ないと思うけれどね。死んだり生き返ったりしてる仲だよ? ちなみにボクは自慰がとても好き
――特にお世話になってるのは右手の中指と親指かな。次いで左手の薬指。性感帯は人それぞれだと思うけれど、ボクの場合は右胸と左のうなじがウィークポイント。お尻は単にくすぐったいだけだし、足はむしろちょっと嫌かな。だからセックスフレンドが出来たら最初にその辺りは伝えようと思うんだよね
――それから自慰じゃなくてセックスなら、やっぱり人肌を感じながら官能的な事をしたいよね。ボクの場合だと後ろから抱き締めて欲しいな。……それで、そっと項に舌を這わせてもらいながら右の胸を弄んで欲しい。割とボクって感じやすいからさ、『先』とかやられたら声出しちゃうかも
――とんでもない事を具体的に言っている絶式√。どんどん顔が赤くなる廃病棟ねんねこりん。
――やっぱり、ボクみたいな女の子が『好き』なんでしょ?
あのときは後ろを向いていたから何が行なわれていたのかは見ていない。けれど声はしっかりと聞こえていた。そしてここまで揃えば、ある程度輪郭も掴めてくる。そしてその伏線としては、まぁ廃病棟ねんねこりんが絶式√にときどき目をやり、頬染めていた辺りか。彼女はつまり――
『女の子が好きな女の子』で。
『女の子が好きな女の子』を、SNSで探していた。
そういう辺りだろう。
そしてこの廃病棟ねんねこりんの趣味――良し悪しは各自の価値観に委ねるとして――の内容についてはおそらく、今日の昼の喫茶店、そこで絶式√は知ったのだろう。地下室でバラバラになった携帯電話を頭の中で再構築し、ヨガラシ・シロヒデの住所や電話番号を手に入れた――あの時である。頭の中で復元した携帯電電話から電話番号を参照したのと同じようにして、廃病棟ねんねこりんとヨガラシ・シロヒデのメールのやり取りなども参照し、そこから彼女の事を把握したのだろう。だから事前に、絶式√は廃病棟ねんねこりんのそうした一面を知る事が出来たのだ。倒記海人はそう考えた。しかしそれにしても、一般常識から言えばこうした『同性愛』とは堂々と公言して憚らぬものではない。共感出来る者同士が、秘めて話し合うべき事項であろう。そうすると比較的些細な事ではあるが、彼には少々気に事があった。それは何故、絶式√がわざわざ廃病棟ねんねこりんにその話道中で振ったのかと言う事だ。どうしてそんな事を、人目のリスクがある河川敷で確認するようなマネを――と倒記海人は自問しかけたが、しかしすぐに答えらしいものを見つけることが出来た。
――うん、本当に混沌としていたから、ボクも『今の記憶からでは40点ぐらいが限界』だったね。はい、これがその40点。
絶式√はあの時、パスルの――バラバラになった携帯の復元――の出来が『40点』程度だったから、それについての確信が持てなかった。だからあの河川敷――ヨガラシ・シロヒデの元に辿り着く前に、ああした確認作業を廃病棟ねんねこりんに行ったのではないか。あるいはあの場でようやく、そうした情報を獲得した――そういう事なのかもしれないと。しかし最も核となる理由はしかし、絶式√がその事について確信が持てなかったという点なのだろうが。
本当に、彼女が『女の子が好きな女の子』であるか、という確信。
ともあれ。
『バタフライ』をそんな秘密の趣味が共有できる女の子だと、廃病棟ねんねこりんは勘違いしてしまった。確かにと言うべきか、『ネカマをやってまでレイプ目的に女子高生を誘い出す様なヤツ』であれば、この手の趣味の話に対して嫌な素振りなど見せず、話題を変えるようなこともなく、むしろ嬉々として聞いていたとしてもさほどの不思議はない、あるいはさもありなんである。倒記海人は改めてそう思った。
そしてそうして、結末。
彼女はヨガラシ・シロヒデと現場で出会い――
レイプされそうになり、
殺された。
滅多刺し。
心もその時に、死んだ。
筋としては分り易かった。
「倒記君も綾乃ちゃんも、一応察しはついたみたいだからもう詳しくは言わないよ」
絶式√の声で我に帰る。彼女は、もう声を殺して泣き崩れている廃病棟ねんねこりんを、両腕で抱いていた。ときおり背中を擦り、ときおり髪を撫で、体温を体温で受け止めるようにし、人肌を人肌で受け止めるようにし、優しく、そして力強く抱いている。
浅はかと言えば浅はかであり、不用心と言えば不用心である。会うまで気付かなかったとは、つまり事前に電話確認一つ廃病棟ねんねこりんはしなかったということであろう。ヨガラシ・シロヒデは絶式√曰く20前後の男であるから、電話越しとは言え流石に声を聞いていたら、彼女は騙される事などなかっただろう。実際、今日の昼に聞いたヨガラシ・シロヒデの声はとても同年代の女子と勘違いするような性質のものではなかった。
”誰だお前? 知らねぇ番号だが”――――寝起きのように気だるそうな男の声がした。
しかしそれも結果論と言えば結果論である。もしも『バタフライ』が廃病棟ねんねこりんの期待していたような趣味の共感出来る女の子の友人であったなら、これは単に、インターネットやSNSが趣味を共有できる人探しのツールとして優秀であると、それを彼女に教えるだけのイベントで終わっていたのだ。何でもない。何のこともない。少し刺激のある、ただの思い出の1ページで済んでいたのだ。そこには罪も罰も、何も存在しない。
――――不運だな。
倒記海人はそう思った。
あるいは彼女の動機にこそ原因がある、と言うのがもしかしたら一般論かもしれない。SNSを出会い系のような使い方をした彼女が悪いと、話の表面から穿って断じてしまうのは易い。こうした経緯から性犯罪に巻き込まれると言う事例など、珍しくも何ともない。吐いて捨てるほどある。彼女もその典型であり、そして吐いて捨てられた一人なのだ。そしてそういう見方により彼女が殺されたのは自業自得であるとするのも、否定までは出来ない結論であると彼は思った。だがしかしである。そうして彼女の動機を罪とし、殺された事を罰とするなら、要するに死刑判決である。少なくとも日本に於いては最高刑罰であり、これで購えない罪は今のところない。しかし廃病棟ねんねこりんに負わされた罰は、殺されてなお死ねない、というそれ以上の罰である。殺されて終わらず、その時の痛みや恐怖を残してなお生きながらえ、定期的に防腐剤などを摂取するなど、おおよそ考えられない罰である。彼女の起こした行動を罪としても、それを断じる罰にはこれが相応かと言われれば、倒記海人としては否だった。最も、このような『罪に対する罰が重すぎる』と言うような論法は、同じような事件で殺された被害者全員にも適応できるのだろうが、だからつまりそうして被害者の死を刑罰と見るような見方について、彼は共感できなかった。だからただ単に、不運としか言いようがない。彼はそう思ったのだ。
「……不憫よな」
極彩色綾乃が目を細め、眉根を寄せていた。視線の先には、絶式√に抱きしめられ、そして泣いている廃病棟ねんねこりん。彼女も倒記海人と似たような結論に落ち着いたのかもしれない。
「……廃病棟君」
絶式√が、腕の中の彼女に語りかける。
「もし怒って欲しいなら、ボクが怒ってあげる。もし優しくして欲しいなら、ボクが優しくしてあげる。どちらでも構わない。そこは君の自由だよ。好きな方を選ぶと良い。……けれども、君が選ばなくてはいけないもう一つの自由は、少し辛いかもしれない。もし君が生き返りたければ、君は生き返っても良い。でももし、君が死にたいのなら、君は死んでも良い。それも君の自由。好きな方を選ぶと良い。分らないなら、嫌な方を避けると良い。でも答えを出す前に少しだけ、今度はボクの自由を言わせて」
廃病棟ねんねこりんの肩に手をやり、間隔を少し開けて、絶式√は微笑む。
「ボクは君の事が大好き。ボクは君の事を愛している。だからボクは君にはもう一度人として生き返って欲しい。仲良くお話をして、一緒に美味しいご飯を食べて、一緒に楽しい思い出をたくさん作って、もっともっとこれからの時間を君と共有して行きたい。その上で、君はこれから少しだけ辛い自由を選んで欲しいんだ」
穏やかに声をかけながら、絶式√は極彩色綾乃に流し目。極彩色綾乃は黙って頷き、ヨガラシ・シロヒデの前に立った。
そして扇子を振り上げ
「いつまで寝ておるか」
絞殺自殺を遂げていた男の頭を打った。
ガクンと、自分の首を絞めていた両手が外れて項垂れる。
ピクリと肩を揺すった。
みるみる傷が塞がった。
廃病棟ねんねこりんが「ひ」と声をあげて逃げ出そうとして、
「廃病棟君」
その手をギュっと握ったのは絶式√で、
「いやです! は、離して!」
廃病棟は必死にその手を振りほどこうして、けれどもそれは離れなかった。
「離して!! お願いだから離して!! もういや!! もう二度とこんなの見たく」
「逃げちゃダメだよ廃病棟君。このままでは君は生きることも死ぬことも出来ないよ」
「いやです! もう二度とこんなヤツの顔なんて見たくない! 見られたくもない!」
視界の端で、男が寝起きの様な声をあげる。一層パニックになる。
「大丈夫だよ。ボクがついてる。綾乃ちゃんがついてる。倒記君がついてる。みんなが君の傍にいるんだ」
「いやです! 絶対にいやです! お願い絶式さん離して!!」
「離さない。このままでは君は犠牲者のままで終わってしまう」
「いやです! 離し――ひ」
男がゆっくりと顔をあげ――みるみると廃病棟の顔が蒼白になって、そしてもうなりふり構わず腕も解かず絶式√も引っ張って走り
「逃げるな!!」
絶式√の吠えた様な声に、彼女はすくんだ。そして同じようにビクっと顔をあげたのは、ヨガラシ・シロヒデだった。しかし絶式√は構いもせず続ける。
「ここで逃げて幸せになれるなら、ボクは君を地の果てにだって逃がしてあげる! そしていつまでも君の傍にいて、ずっと君を守ってあげる! でもそんなことは絶対にありえない! 今ここで逃げたら、君は地の果てまで行ったって不幸になる! 何時まで経っても絶対に幸せになれない! そしてそれを悔やんで死ぬことも出来ない! 諦めて生きることも出来ない! コンティニューを失ったゲームのゲームオーバーの先を、君は見続けるんだよ! 永遠にね! ……そんな結末の訪れない結末に、ボクの大好きな廃病棟君が陥るのを、ボクに見過ごせって言うのかい?」
廃病棟ねんねこりんは、足を止めた。次の彼女の言葉に。
「ボクはさ、君の探していた『女の子』になれるよ? 君が、あるいは命の危険があるかもしれない、見え透いた罠かもしれない、そう思いつつも手に入れようとした、そんな『女の子』に、ボクはなれるよ? それとも」
――――ボクじゃダメなのかな?
その言葉に、廃病棟ねんねこりんは振り返った。
真に受けたのではない。
自分の為にそうまで言ってくれる存在に出会えたこと、それが全てだった。
「……お前、あの時の出会い系の」
この期に及んで、『たかが自分を殺したヤツ』の言葉など彼女の耳に届かなかった。
「……」
t静寂か沈黙か、音のない時間がしばらく流れた。
火の消えたロウソクの様に、静かに、廃病棟ねんねこりんは項垂れている。
「…………絶式さん」
彼女が口を開いた。
「わたくしは、……それで。何をすればいいいのでしょうか?」
俯いたまま、しかし冷静に。彼女は真摯に問うた。
絶式√は何も言わず、ただ腰からバヨネットをスラっと抜いて、柄を向けて彼女に差し出した。
ただしその黒曜石の様な瞳は、今はヨガラシ・シロヒデに向けられている。
それでもう、十分だった。
やるべきことは一つだった。
廃病棟ねんねこりんはそれを受け取り、そして。
ゆらっと向きを変える。
それから、その生者でも死者でもない、真珠の様な瞳で、自分を死なせた男を冷たく見下ろした。
目が合って、ようやく。男は意識が覚醒したらしい。目を驚愕に見開いたのだ。
頭が真っ白になった男は、ゲジのように後ずさりしたが、しかし背中は壁に張り付いているので、いざった足は空しく廊下を滑るだけ。
「な、なんだよお前ら!! で、で出てけよコラ!! か、勝手に入ってんじゃねぇよ! おい!」
慌てて向きを変え、部屋の奥へ後ずさって行く男に、廃病棟ねんねこりんが、一歩ずつ詰めていく。着実に、確実に。ゆっくりと詰めて行く。
男の視界に、握られたバヨネットが入った。
「お、おい!! そ、そ、それなんだよ!? なにやってんだよお前! ……て、ていうかお前ら!! 一体なんなんだよマジ!? 何しにここまで来てんだよ! か、勝手に入ってんじゃねーよ!」
ヨガラシ・シロヒデの頭の中は、いま混乱の荒らしが駆け巡っていた。
目の前に、殺したはずの女がいる。
目の前で、死んだはずの女がいる。
益々分からない。
益々世界が分からなくなる。
なにより自分は、あの日に一度死んだはずなのに――。
狂おしいまでに愛くるしい、『姫』の導きに合い、正装で地下室に向かったら、そこで。
鼓膜を破るような爆音が鳴って、死んだ。
そのはずなのに。
けれど次の瞬間、蘇っていた。
何事もなかったかのように、生きていた。
呆然としていたら、着物の女が前にいた。
狐のように妖しく美しい女だった。
女は言った。
――目覚めたか……。ならば残りの日々は苦悩と悔悟に費やせ。そして死ぬまで怯え、震えよ。ときおり戦慄け。ではな。
そう残して、女は立ち去った。
しばし立ち尽くした。
そして茫洋と、脚に任せるままに、フラついていた。
気付けば部屋にいた
そのまま死んだように、朦朧としていた。
あれからだいたい、2カ月程度をここで生きた。
亡霊のように。
そしたら今日、電話が鳴り、そのまま耳に当てた。知らぬ番号だったが、でも、なんだかこの実感のない世界を、壊してくれそうな気がしたから。
――誰だお前? 知らねぇ番号だが
自分の声は寝起きの様に気だるかった。自分で言って、自分で聞いて、妙な心地がした。とにかくしかし、そう声を掛けた時、電話の主は自分の最も知られてはならない秘密を、ストレートに言った。
氷の刃が背中を貫く様な感覚があって、慌てて電話を切ったら、すぐまたコールが鳴った。
心臓が早鐘が打つ中、自分の手が意識に抗い、勝手に通話ボタンを押した。
一言罵倒があった。
それから自分の全てを鮮やかに否定された。
それから自分は、絶対に何からも逃れられないと、はっきりと悟らされた。
そして最後。
―――これが君が二度目の人生で聞く最後の言葉だよ。■■■■■■
聞いた瞬間、勝手に通話ボタンを押していた手が、今度は勝手に自分の首を絞め始めた。
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頭の中でその言葉が繰り返された。
■■■■■■
■■■■■■
■■■■■■
繰り返されるごとに、首を絞める手の握力が増していった。まるで他人の手の様に言う事を効かなくなった手が、どんどんどん、首を絞めて行った。明らかに自分の意思とは無関係な、万力のような力で絞めてい――――ボキン、と、そこで、また。
今日、自分は殺された。
自分に殺された。
そして今、自分は蘇った。
気付けば蘇っていた。
見渡すと、部屋に。
殺した女、
蘇らせた女、
知らぬ女、
知らぬ男。
この状況はなんだ。
いったい何なんだ。
視線を泳がせながら、呂律が回らないまま、現状が理解できないまま、男は無様に後ずさりして、部屋の奥へ、奥へ。
それに合わせて、廃病棟ねんねこりんも、ユラリと、ユラリと、バヨネットを逆手に持ち、男を見下ろしながら詰めていく。
そしてやがて、右手に握った鋭く光る、その殺意の代行者を振り上げ
「よ、よせやめ!!」
振りおろして一閃。
ベージュの壁に赤い飛沫が数滴。男は恐怖と痛みに転げ回った。
彼は自分の顔を庇おうとして、反射的に差し出した掌にバヨネットの切り傷を受けたのだ。だがしかし、それは決して深くはない、消毒液と包帯で十分手当の出来る様な、そんな浅い傷である。しかしそれでも、男は今や混乱と恐怖のどん底に陥っていて、発狂寸前のようだった。
一方、廃病棟ねんねこりんの方も、僅かながら赤い血の滴るバヨネットを、固く両手で握り、震えながら切っ先を見つめ、荒く息をしていた。
血の気が引いていた。
かすり傷程度とはいえ、初めて。殺す気で誰かを傷つけたと言うその事実に、戦慄していたのだ。
その現実の重さに、カランとバヨネットを落として、彼女は脱力してペタンと両膝をついて座り込んだ――刹那、ヨガラシ・シロヒデは表情を悪魔の様に豹変させて自分を傷付けた凶器に手を伸ばして掴み
「このクソ女が!! もっかいぶち殺し――」
――――バキボキベキと指が歪な音を立てたのはその手を絶式√が踵で踏み潰
「があぁあああああぁああ!!!!!」
鋭角に曲がった複数の指、激痛に悲鳴をあげて男は再び転げたが、しかし彼女は踵を離さない。むしろバヨネットの柄と床で指を挟み、残りの指さえスリ潰すかの勢いで、踵を捻じりながら体重をかけている。
「切り傷一つ、指三本の複雑骨折でそこまで痛がるのにね。よく滅多刺しとか出来たね?」
電話で聞いたあの声に、ヨガラシ・シロヒデの恐怖は底抜けになった。
「全く、他人に厳しく自分に優しい人間には辟易とするよ」
めきめきめき、という音は、砕けた骨が肉を潰す音であり、弾けるような衝撃が痛みの形で爆ぜって、男は獣の様な声をあげた。額から脂汗が滝の様に滴り、床に落ちる。その段になってようやく、絶式√は踵を、しかし蹴り飛ばすように離した。
「あ~~~~!! あ~~~~!!」
手を抑えてうつ伏せ、みっともなく泣いている男の声に、耳を貸すものはなく、倒記海人も無言でその様を傍観し、極彩色綾乃も扇子で口元を隠して眺めていた。そして絶式√は、まだ茫然と座り込んでいる廃病棟ねんねこりんの前にしゃがみ込み、彼女の顔色を伺った。
「……」
蒼白である。
しかしそれは、ショック症状による一時的なもののそれであって、
死んでいるからという、状態的なそれではなかった。
この意味をどう伝えるべきか。
絶式√は迷わなかった。
彼女は廃病棟ねんねこりんの手を取り、それを自分自身の頬に当てた。
ショック状態の廃病棟は、率直に言葉を漏らした。
「……冷たい」
と。しかしそれに、絶式√は首を左右に振って
「んんん、君が暖かいんだよ」
答えを告げた。そして
「おかえり」
微笑んだ。
そこまでの事を、倒記海人は乃枯野雲水とリリアナに話し終え、一度廊下に座った。脇腹が痛むのだ。
「後はもう、雲水に話した通りだよ。廃病棟さんは普通の女の子として生き返って、随分前に絶式√と一緒に家に帰ったよ」
そう言って、一つ息を吐いた。
これで一応、重要な事は話し終えたはずだ一気に語ったので、喉がカラカラだった。
そうして聞いた彼の話に、素直に納得しかけたリリアナだったが、しかし
「それはすごくすごくとっても良かったけれどねぇお兄ちゃん。でもぉ、絶式ちゃんとネコちゃんって……本当に一緒に帰ったのぉ? 家が全く全然正反対方向だったと思うんだけれど」
触れずに流そうとした話題を指摘され、倒記海人は言葉に詰まった。乃枯野雲水も視線を忙しく動かしている。両者とも落ち着きがない。真実を言えば、二人ともが内心相当焦っている。
しかし依然、頭にクエスチョンマークを浮かべているのがリリアナ。彼女は『こういう事』に関してはブレーキがオミットされた欠陥車の様に暴走気味に積極的――例えば乃枯野雲水に血涙を流させたり倒記海人を失神させたりするほど――なのだが、しかしそれを嗅ぎつけるための勘は、鋭い方ではないようだ。しかしそれは、今現状彼らにとって幸いであり、だから彼は、精一杯オブラートに包んで濁す事にした。
「えっとだな……。まぁ、うん。……二人はその、仲良しになってさ、いま絶式邸で『親交を深めてる』んだよ。ははは。なぁ雲水?」
「……あぁ、うん。確か、そうだったね。……はは、ははは」
二人の乾いた笑みを、リリアナは頭にハテナを浮かべながらしばらく見ていた。そしてやがて、一応は納得したのか、
「そっか。分ったわぁ」
リリアナは笑った。哂ったのではなく、笑った。
一安心である。
「えっと、それじゃあ、そこのぉ……『つfぐgdryts』はぁ?」
と、リリアナは、廊下に横たわっている『つfぐgdryts』に目をやった。乃枯野雲水もそれは、相当気になっている事である。話題が変わってさらに一安心のところ、しかし油断大敵。リリアナが気移りしないうちにと、彼は引き続き結末を話し始めた。
そうして当初の目的通り、廃病棟ねんねこりんが普通の女の子として元に戻ると、絶式√は彼女を連れて部屋を出て行った。何でも、廃病棟ねんねこりんと秘密の『趣味』について、じっくりと語り合うらしい。
床で痛々しい悲鳴をあげているヨガラシ・シロヒデには構いもしなかった。
そうして、部屋に残されたのは三人。
極彩色綾乃。
倒記海人。
そして
世辛子白英。
「そなたの場合は、殺されたままで良かったやもしれんな」
未だ付せっている世辛子白英に、極彩色綾乃は言った。
「そなたが廃病棟ねんねこりんに働いた罪は、姫の為に狩る『姫狩り』ではなかったのじゃな。ただ純粋に、ただ単に、『姫』の様に美しい女を狩る、私利私欲の為の『姫狩り』であったのじゃな。てっきりこの極彩色綾乃はな、そなたもリリアナの法則破壊に巻き込まれた間接的犠牲者と思うておったが――やれやれじゃな」
救われぬよ、と。そう嘆息した時だった。
「……はははは」
笑い声。
「ははははははははははははははは」
世辛子白英が、伏せたまま笑っていた。
「……ははは。は~……。やっと帰ってくれたかい、あのおっかない絶式√はよ」
ノソっと立ち上がる。
倒記海人は極彩色綾乃を庇うように前に出る。しかし、彼女は脅える様子などなく、うすく笑んでさえいた。
「……もう痛くはないのか? そなた」
「イテーに決まってんだろ……クソ女が。奇跡だ奇跡だって人を生かしたり殺したり好き放題やりやがってよ~? 何様のつもりだオイよ~?」
あのバヨネットを奪おうとした時に一瞬見せた、悪魔の様な表情を再び顔に張りつけ、世辛子白英は振り返った。そして道化の様に両手を広げて
「はいはいはいはい!! 隠れ伏線とか回収しちゃうぜ~~!?」
狂ったピエロのように目を見開いた。
「俺のSNS登録名は『バタフライ』で、さっきのレズ女を滅多刺しにしながら犯した際の凶器は『ナイフ』だったよなぁ~!?!? はいはいはいここで簡単なクイズだぜ!?!? 『バタフライ』が使った『ナイフ』ってどんなのなんだろなぁ!? 当てて見ようぜ制限時間は5秒! はい! 5,4,3,2,1,0終了~!!!!」
言ってからソイツは、パチンと、バタフライ・ナイフを、ポケットから摘まみだすように抜いて、歪な指をバキバキバキと鳴らしながらも握った。
「か~~~!! くっそクソいてー!! いてーぜクソったれが!!! はははははははマジいてーーーー!!!」
顔を苦痛に歪めながらも、愉快そうに笑うその顔は、狂ってる様にしか見えない。
「はははははは! クソが~! っはははは、はぁ。けどこんぐらいは……我慢してやるよ……なぁ」
醜悪な笑みで、彼は倒記海人と極彩色綾乃を睨めつけ
「……お前らはこれの倍の苦しみを舐めまくるんだから――なぁ!?!?」
と世辛子白英は突っ込んでナイフを突きだしてきたが、腕は真っ直ぐと動きが単調だったので、倒記海人はそのナイフを握る砕けた指に正確に蹴りを入れ、そしてアッサリとそのナイフを弾く事に成功し――ドン
と。
倒記海人の脇腹に、もう一本のナイフが刺さっていた。
反対の手にも、いつの間にか、もう一本バタフライ・ナイフが握られていたのだ。
「はははははははははっは!! はい隠れ伏線の回収に失敗したよオイ~~!! ははははははは!」
じわじわと血が広がったそこから、世辛子白英は真っ赤なバタフライナイフを引き抜いた時、倒記海人は両膝をついた。
「ははははははは! 『バタフライ』が使う『ナイフ』だから『バタフライ・ナイフ』が出て来た時点でフラグ回収とか思ったわけ~~!? んなわけねーだろボケ。はははははは!! 正解はな~、バタフライの羽根は一枚じゃなくて二枚ってことなんだよバーカ!! ははははははははは!!!」
「寝るなカイト」
パチン
と
極彩色綾乃は重症児患者の頭を扇子で打って
そしてただそれだけで、
既に無傷になっていた倒記海人は立ち上がった。
彼は奇跡的に塞がった傷にさえ目もやらず、ただ肩をすくめた。
「痒いなほんと。そして軽いなお前?」
「あぁ!?」
「確かに軟さは蝶の羽って感じだけど、お前の汚らしさを考えたらそれは蛾の羽根以下だな。蝶だって? のぼせ過ぎなんだよ……蚊」
倒記海人が笑うと、世辛子白英は額に青筋を浮かべ、「だったら痛くなるまで刺殺し」と再びナイフで刺そうとし――――パン。と、今度は、極彩色綾乃が扇子で、その腕を叩いた。
「ならばこの極彩色綾乃も、隠れ伏線など回収しておこうか?」
そして瞳を三白眼の様に細めた。
「クソガキめが」
と、
その時だった。
見間違えではない。
茫然とした。
「この極彩色綾乃は奇跡師故に奇跡的に生き返らせはするがな」
扇子で叩かれたその腕が
「 奇 跡 的 に 殺 し も す る ぞ ? 」
見る間見る間に、その腕が、『素因数分解』されていっているのだ。
右腕から容赦なくバラバラと、バラバラと、零れるように崩れるように、骨の中から血管の中から、彼を構成している『素数』が『因数』として『分解』されていった。
「お、お、おい!! な、何がどうなんてんだこれはよぉ!?!?」
3、5、7、11、23と、足元に散って行く自分の『約数』に驚愕している彼に、しかし極彩色綾乃はキツネのように目を細め、笑んだ口に扇子を当てる。
「どうじゃ? 絵にも描けぬであろう? これが奇跡的な殺され方と言うものじゃ。奇跡師のみに許された法則破壊よ。そなたが命を弄んだ対価として、そなたは命に弄ばれよ」
「クソ女が!!!」
『素因数分解』を続ける右手の代りに、彼は指の砕けた左手で掴みかかろうとし、しかし「愚かよの」と再び扇子で叩かれた時、今度はその左手がすぐさま『新規作成』されて
「!?!?!?!?!?」
『上書き保存』された。
「!?!?!? あ~!?!?」
あまりに理解できないその『白紙』な左腕の状況に、彼の精神は瞬く間に崩壊し、あっという間に腐り始め、みるみるまに壊死した。
右腕が『素因数分解』されて左手は『白紙』で『上書き保存』。
もはや両手が奇跡的に使えない。
半狂乱になっている彼に、しかし極彩色綾乃は容赦がない。
「さてさてどうしてくれようものかな? ふふふ。このまま一挙にそなたを『BackSpace』キーで消してくれようか? あるいはこれから、そなたの運命をこの世界の語り部に『目を閉じて半角でタイピング』などさせてくれようか? あるいはいっそこのまま、そなたの住まう世界丸ごと、『上書き保存』せぬまま『シャットダウン』でもしてくれようか? っふふふふ。どうなるであろうなそなたは? 悶え苦しむ? 殺される? そんな分り易く整然とした結末は待ちうけておらぬよ。っははははははは」
「待ってくれ! た、頼むから待ってくれ! 頼むから命だけは」
極彩色綾乃はニコリと笑った。
「そなたはそうやって哀願したであろう廃病棟ねんねこりんを、助けてやったか?」
鼻先に扇子が突き付けられた世辛子白英は、必死に言葉を探すが、視線ばかりが泳いで何も口から出てこない。
「そういうことじゃな。因果応報。この世の法則じゃ。ではな」
「ま、待ってくれ」
「待たぬよ」
パチンと扇子が閉じられ鳴らされた時、『それ』が執行された。
改行:
目隠し:
左手タイピング開始:
終了:
改行:
タイピング結果:つfぐgdryts:
そうして。
世辛子白英は。
『つfぐgdryts』と成り果てた。
極彩色綾乃は、今や『つfぐgdryts』』に過ぎない元・世辛子白英を憐れむように見下し、そして告げる。
「そなたはこれより『つfぐgdryts』じゃ。それ以上でもそれ以下でもない。純然たる『つfぐgdryts』じゃ。そこに意味も価値も、理屈も定義も無い。考察の余地も無く、議論の余地も無く、解釈も解説も、余談も理解も無い。人が人であり、極彩色綾乃が極彩色綾乃であるように、そなたは至極当然、至極真っ当として『つfぐgdryts』なのじゃ。受け入れよ。覚悟せよ。そうと知れ。ではな。『つfぐgdryts』よ。バイバイブーである」
そして振り返ると、倒記海人は腰を降ろして、『つfぐgdryts』を見ながらも携帯を耳に当てていた。
その一連の理解不能な、奇跡的な有様の一部始終を見て置きながらも、しかし驚いた様子は無く、ただこの経緯結末をこれからどう説明すべきかと頭を掻きつつ
「あ~。雲水か? 今どこにいる? …………そうか、リリアナも一緒か。で、廃病棟さんを殺したヤツなんだけど、それが信じられん方法で絶式√が見つけたんだよ。いいか、まず割れたグラスをパズルに見立ててだな――」
つづく