『絶式√と姫狩り殺し』編(中)
緒言:『私は嘘しかつきません』
「えっと、その事に関して色々聞きたい事があるんだけど順番に聞くねミューちゃん」
「ええ、何でもどうぞ倒記さん。多少赤裸々な内容であっても私は大丈夫ですよ」
「……。まず『勝手に出歩いた』っていう事の意味を正確に教えて欲しいのと、それと『昨日も』って言う事は前にも同じような事があったってこと?」
絶式邸の赤絨毯が敷かれた広々とした食堂。その長テーブルに向かい合って座り、フランスのコース料理を食べているのは客人の倒記海人とホストの妹の絶式μである。
絶式√が出席する生徒会の役員会議が長引き、μを送り届けた倒記をそれからも長い時間拘束することになった日は、だいたいはこうして彼の手料理――それもかなり本格的な――を御馳走になっていくのが恒例なのである。
「私も自分でおかしな事を言っているのは分かっているんですけど、やっぱりそのままの意味ですね。誰かが勝手に持ちだしたりするんじゃなくて、彼女が勝手に扉を開けて部屋を出て、階段も降りて玄関を出て行ってるんだと思います。それから、はい。これまでにそれが毎日あって、昨日で丁度100日目なんです」
コース料理の締めであるエスプレッソを口にしながらそう話すμの表情には、不安や恐怖といった類のものは見られず、どちらかと言えば不可思議というような、むしろ好奇心にも似た色が浮かんでいるように見えた。
それにしても今しがた聞かされた話を大筋だけ見るならば、それはかなり使い古されたホラーネタではあるのだが、本やテレビといったメディアを媒介せず直接鉢合わせたのは倒記海人にとってこれが初めてだった。
「疑う訳じゃないんだけどさミューちゃん。ロマンのない事を言って悪いんだけど、その、それには割と現実的な問題がたくさんあるよね? 例えばその、動作機関とか何もないセルロイドとかゴムで出来たものが歩いたりとか階段降りたりとか」
「一応私が作っているのはビスクなので磁器製です……って、すいません。あんまり関係ないですね」
「いや、拘りを持って作ってるんだから全然。むしろ良く知らなくてごめん。えっと、まぁそんな感じ」
μも既にデザートまでを終えていて、倒記がエスプレッソを口に含むタイミングに合わせて自分もチビチビとやっている。
「確かに、私が作ったものに自動で動いたりするような仕掛けはありません。精々ところどころに可動部があるぐらいですし、そもそも常識で考えて有り得ないですよね。……それに、私が言うのもあれなんですけど、仮に100歩譲って動いたとしても、扉を開ける為のドアノブを掴むには全然高さが足りてないし、階段降りるのにしたって全然長さが足りてないですからね」
彼女はそう言った。倒記が思っていた以上にμは夢見る少女ではなく、冷静にものを考えているようだったし、彼が疑問に思っている一通りのことも、彼女はごく普通に、当たり前に、やはり疑問に思っているようだった。つまり常識的にそんなものは勝手に動かない事を知っているし、動いたところでこの絶式邸から出歩く事が出来ないのも理解している。要するに、彼女は一般人や常識人の知識・感覚・常識を有したうえでそんなことを言っているということである。
――彼女自作のフランス人形、リリアナが夜勝手に出歩いていると。
「コーヒーの御代りいるかなぁ?」
キッチンの方から絶式√の声がしたので、二人は席も立たず、もう充分、といような返事を大きな声で返しておいた。これは絶式√の拘りらしく、食事中は客人であれ身内であれ、トイレと緊急以外での離席は禁止で、キッチンへの立ち入りも禁止。なのでこんな風な横着な返事――と二人は思っている――をしてしまうことになるのだが、つまりこれはマナーとは別物で、やはり絶式√特有の拘りである。
倒記は中腰になり、キッチンの方へ向く。
「お前もコーヒーぐらい一緒にどうだよ?」
「あはは。有難う。この洗い物が済んだら是非よせてもらうから、待ってて」
と、さっきからずっとこんな具合である。既に絶式√は帰宅しているにも関わらず、帰るや否や準備があるからとキッチンに引き籠ってしまい、それから出てこず、今の今まで料理の受け渡しの時ぐらいにしか彼とは接点がない。それも専用の受け渡し口を介したやり取りなので、つまり帰宅後から全く以て彼の姿を見ていないのだ。さらに食事に関しても、絶式√は既に生徒会の最中にコッソリ隠し弁当を済ませていると言うからここに顔を出しておらず、まるでこれではμと二人きりで過ごしているみたいだ、と倒記海人は思った。
ともあれ、人形である。かれこれ半時間ほどそれについてμと話し込んでいるわけだが、彼女は別に季節外れで時代錯誤な怪談話を持ちかけているわけでもなければ、それで倒記海人をからかったり驚かせようとしている訳でもなさそうだ。ただ純粋に、自分の近くで起きているこの妙な状況を、まさに聞かされた倒記海人と同じ程度に不可解・不可思議に思いつつ、話を持ちかけたようである。それならばそれは、相応なかなかに興味深い事だと倒記は思う。
倒記は手元のグラスの水を一口飲んでから言った。
「あの、良かったらさ。そのフランス人形のリリアナちゃん、見せてもらっても良いかな?」
そうして持ちかけると、絶式μは両手を合わせて、その大きな眼をキラキラとさせた。
「もちろんです! と言うか実は最初からず~っとその一言を待ってました! ちょっと待ってて下さいね!」
言うや否や、彼女はテーブルの食器がガチャンと音が鳴るほどの勢いで席を立ち、そのまま小走りに部屋を出て行った。
「……」
そうしてポツンと独りに残され、倒記海人は腕を組む。『最初からそれを待っていた』とは、要するにそれが話の『目的』であったという事だろうか。それならばつまり、『人形が夜な夜な独り歩きするなんて不思議』というようなさっきからの話は、あくまで『手段』であって『目的』ではない。そしてそんな極論をすれば、人形を見てもらえるならば別に人形が独り歩きをするというような話でなくとも良かった訳で、けれども極論は極論に過ぎないのだから、やはりその話も結局はどこかで挟む事になったのであろうけれど、しかし。
「そんな風にして俺に見せたい人形って、何なんだろうか?」
単純に考えれば余程出来が良いということなのだろうが、単純にそれだけならば最初からこの食堂に持ってきて、この長いテーブルの一席にでもチョコンとさり気なく座らせておいて、そっちに意識が行くよう何度もチラ見でもすれば良いような気がする(これはとってもシャイなやり方)。あるいはむしろ、コテコテなネタとはいえ『人形が独りでに動く』と言う様な種類の話に対し、悪い意味で敏感な人も決して少なくはないので、それを人形を見てもらう為の手段・口実に選ぶと言うのは些か不適当であると、倒記海人は思う。事前に自分がその手の話が好物だと話していれば納得も出来たのだが、自分にはそんな嗜好があると絶式μに話し事は無いし、実際にそんな嗜好も無い。
「ん~、まぁ何でもかんでもスッキリ納得いくような理由があるって決めつけるのも勝手なものか」
そんな無難な結論を着けたころで、食堂の扉が再び開いた。絶式μが戻ってきたのだ。
「あの……」
ただし、手ぶらである。そして眉根を寄せていた。
「また、どこかに行っちゃったみたいです、……リリアナ」
「え?」
「私ちょっと一走り降ってきます!」
「あ、うん……え?」
尾喰坂山の手の夜はとにかく暗い。商業施設が集中する下町であれば例え深夜に練り歩こうと明るさ的に問題ないのだが、高級住宅街である山の手はワイングラス片手に星空を楽しむロマンチストなマダム様への配慮として、街灯の数が必要最低限未満にまで制限されており、今の様な午後10時という比較的起きている人の多い時間帯であっても、御覧の有様。そのままの意味で『犬も歩けば棒に当たる』というレベルである。言わんや、倒記海人。
「はぁはぁ。あー、やばい。脇腹痛い。そんで頭も痛い。マジで勘弁してくれよこれ」
真っ暗な夜道をひた走りながら倒記海人は回想する。
脈絡なく絶式μに家出を宣告されてポカンとなり、数秒後に正常思考を取り戻して慌ててそれを兄である絶式√に告げにキッチンに飛び込んだら、そこが何と蛻のから。洗い場に食器は山積みで、受け渡し口にはエスプレッソの御代りが湯気を立てていて、ただし他には何もない。というか使用済み食器はあれど使用済み調理用具が見当たらないとは如何なものか、とかなんとか思いつつも、胸に手を当てて深呼吸し、目を閉じて三つ数え、再び開眼。状況に変化なし。倒記海人の幻覚説却下。一度玄関まで出て、大声で絶式√の名をを呼んでみたものの、返事無し。
「おいおいマジでこれこそどんなホラーだよ。勘弁してくれって」
状況整理。夜独りでに歩くという人形を追いかけて妹が夜の街に出て行き、帰宅して料理を振舞っていたと思われた兄は実はおらず、しこうして広大な屋敷に一人残された倒記海人17歳。
「いやいやいやマジでマジでマジで! マジで勘弁しろ! 大雑把に振り返っただけで今日の後半半日はおかし過ぎるだろ! まして」
まして尾喰坂は連続猟奇殺人事件『姫狩り』の中心スポットであるからして、つい昨日。犯人自身が殺害されて姫狩り一段落かと一部で報じられたとはいえ、しかしつまり、だから、連続猟奇殺人事件連続記録は昨日もしっかり更新されたわけである。それを踏まえればこの状況、全く気味の良いものではない。加えて携帯電話に兄妹揃って繋がらないとは如何なものだろうか。まさか何かの事件に巻き込まれていたりしないだろうか。ん? そう言えば、件の人形、ミューちゃんの言ったリリアナちゃん連続出歩き日数って、姫狩り殺人と同じ日数じゃないか。なんだよこの嫌な偶然。まさかその偶然、必然だったりしないだろうな、なとど倒記海人は様々な憶測と、それによる不安を胸に抱きながら頼りない星空と心許ない月明かりを頼みに、闇の様に深い道路を下町の方へと降って行く。恐らく少なくとも、μの方は、下町の方に行くだろうと彼は当たりを付けているのだ。それは、彼女が食堂を飛び出す際、『降ってきます』と残したから。もちろんそれが下町へと降って行くという意味で言ったという保証などないが、他に手掛かりとするものは全くない。だからどうか
「だから、どうか、正解してくれてますように……っと」
倒記は息も切れ切れ呟いた。駆け降りて行く道が、徐々に下町の明りに照らされてきた。
「あはは。血迷った事を言わないで欲しいな。ボクは今もって、今をして、厳然たる純然たる敗北主義者だよ? 妹の命を狙われて、食卓に招いた親友をほったらかして、あげく友人の命まで狙われてると言うこの境遇の、一体全体どこにボクの勝利があるって言うんだい? もうその勝負はボクの敗北・完敗・惨敗っていう形で事は決しているんだ。……だからさ、これらは全部、後の祭り、祭りの後ってやつなんだ。勝負でもなんでもない。延長戦でもなんでもない。……けれどもただ、これは、その終わってしまった勝負と完璧に無関係かと言われるとそうでもない。そういうわけでもないんだ。そう、そういう意味ではとっても猥雑で煩雑で面倒な事なんだ。……分かりにくい? ならこれまたボクの負けだね。君に理解させることが出来なかった。まぁでも、こうして決着の着いた後だから分かり易く教えてあげる。試験が済んだら答え合わせの為に解答解説を見ても良いのと同じ理屈だよ。だからこれは、これからボクが君達に解答を見せると言う行為が試験の点数になんら関与するものではないと理解できるよね? さて、では。君達がいま置かれた現状、この境遇がどういうものなのか、その構造についてすごくシンプルに教えてあげる。それは例えばね、将棋の試合で負けた棋士が相手棋士を腹いせにブチ殺すっていうヤツさ。ねぇ? そんな事したって勝敗の結果は全く変わらないよね? 差した駒が戻るわけじゃないよね。だから良いんだよ。それが良いんだよ。それこそが全てなんだよ」
誰に聞かせているわけでもない長ったらしく冗長なセリフを、朗らかに歌い上げるようにして練り歩く絶式√が、今しがたし終えた事はと言えば、有体に言って皆殺し。
それはほぼ同時刻、丁度この上、地上で一人の少女が起こした大量虐殺行為の様に人間離れしたような業は何も用いなかったが、ただそれは、人間離れこそしていない業ではあったが、非人道的な業であったことに違いない。
むせ返る様に血の香りがするその地下室に散在する、肉片の山を、もしも精密かつ正確に戻したならば、きっと完成するのは数十人の男女達。衣装は何れも同じ白い薄絹の様なもので、顔には白い面を被っていて、そこには大きな一つ目が描かれていたに違いない。
「99人の殺害方法はどれもが個性的だったしどれもがその道の手練みたいに手慣れてたね。だから実行犯が複数犯であり多数なのは僕にさえ分かったし、『姫狩り』を号令として一つの命令系統の元で動いているという事は君達があからさまにアピールしていたし、犠牲者の血液でメッセージを残すっていうその儀式的なスタイルから、つまりは儀式めいた集会を何時か何処かで開いているだろうと予測するのも、別に突飛な事でもないよね。ならそれは何処だろうか? この尾喰坂周辺でそういう事をするのに適した時刻と場所があるとすれば、それは何時で何処だろうか? ボクには全く分からなかったよ。あはは。いったい尾喰坂の地上の何処にそんな場所があるんだってね。だからそう、地上でないなら地下しかない? まさか。ボクはたまたまこの時刻たまたまこの場所にやってきて、ちょっと大きなマンホールがあったから、その中に手榴弾を投げ入れただけさ。ただヤケを起こしてね。別に夕陽を取り入れる事を狙った小窓の様なデザインのマンホールだから気になったとか、そんなんじゃないよ? 断じて違う」
誰に聞かせるわけでもなくそう呟いて、とうとうその場所で足を止める。
足元に散らばる、木屑と布屑と石屑を血と肉と羽で練った様なそれら。それらのうち、木屑と布屑と石屑と羽だけを集めて元に戻したなら、きっとそれは小さく可愛らしい、天蓋付きのベッドになるに違いない。絶式√はそこに屈み込み、ぐちゃぐちゃとその赤黒い混ぜ物をまさぐるようにし、やがて、何かを掴んだ。それは……。
「……携帯電話」
だった。パチリ、とそれを開くと、まるで計っていたかのようなタイミングでそれは点滅とバイブレーションを始め、絶式√に通話を要求した。この一連の流れで、彼はそれが誰の仕業で、誰の謀かをすぐさま理解した。だから、通話ボタンを押して耳に当てる。
「っはーあ。ハロハロ久しぶりだねぇ絶式ちゃん。会いたかったよ~寂しかったよ~ボクだよ~元気にしてたかい?」
怖気の走る程愛らしい声に、絶式√は絶望の溜息を一つ吐いた。
「……久しぶりだねリリアナ。出来ればボクはもう一生会いたくなかったよ」
「っはーあ。つれないねぇ絶式ちゃん。切ないねぇ絶式ちゃん。最高に最低な事言ってくれるねぇ絶式ちゃん。ボク達は同じご飯を食べ同じお風呂に入り同じベッドで寝て同じベッドで起きて同じ服を着て同じ家で育った運命共同人生合一体みたいな間柄だったじゃないかぁ? 相も変わらず酷い言い方でボクを切り捨ててくれるんだねぇ。……それでもまぁさぁ、それでもボクはさぁ、君をすっげー愛しちゃってたから急に『別れてくれ』って言われた時はすっごく傷付いたけどさぁ、でもその傷以上に絶式ちゃんが大好きだったからボクはしおらしく言う事聞いて絶式ちゃんの元を離れて行ったんだけどねぇ」
「その事に対してだけボクは酷く君に感謝しているよ。お礼を言っても言い足りないくらいだったよ。本当に。本当に。……なのに、どうしてまた、ボクの前に現れたりしたんだい? 君が消える代償としてボクは君にボクの持っている全てを全て差し出したじゃないか」
鈴を転がす様な嗤い声がしばらく響いた。
「っはーあ。そうだねそうだねそうだね。すっごくそうだね。絶式ちゃんの女の子としての魅力も、絶式ちゃんの完全無欠の強さも、絶式ちゃんの明晰過ぎる頭脳も、絶式ちゃんの約束された勝利も、ボクが全部全部全部持って行っちゃって、君にはたった一つ『敗北』しか残さなかったもんね」
「そうだよ。その通りだよリリアナ。だからボクは今でも徹底した敗北主義者だし、学園生活でも私生活でも取り柄のない一人の男の子として、慎ましくも平穏な人生を送っているよ、一体それの何が気にいらなかったのかな?」
「……っはーあ」
と、また悩ましげな吐息の後、しかしリリアナからの返答はなく、しばらく沈黙が続くかに思われたが
「……バカかおまえ? それが気に入らねぇからノコノコ舞い戻って来たってのがマジ分かんないの? マジ頭悪くなったんだなおまえ。ボクに何もかも一切合財全てを奪われて負け犬の一生が確約されたお前がそんな風に幸せに幸せに生きているのかどうしようもなくムカついてんだよボクはよ」
「リリアナ。君はでも僕に幸せに生きるなとは約束しなかったよね?」
「しなかったねぇ。出来るわけがないことを約束したってしかたないからねぇ。そんでそれが出来てるからボクはどうしようもなく腸が煮えくりかえるような思いだったんだよ絶式ちゃんよぉ。おまえの全てを奪ったボクがこんなにも不幸で自分の全てを奪われたおまえがそんなにも幸福なんてあって良いわけねぇだろ? 嗤わせんなよ。笑わせんなよ。哂わせんなよ。泣かせんなよ。啼かせんなよ。鳴かせんなよ。ふざけんなよ。ざけんなよ。……おまえだけは……」
許さねぇ。
殺す。
犯す。
バラす。
「とまぁそんな感じに。っはーあ。私情本音を吐露吐露したところで一個だけ質問だよ絶式ちゃん。どうしてボクの隠れ家と木偶の集合時間分かった訳? まさかまさかさっきブツブツ言ってたあんなのが根拠なんて言わないよね? よね? あ、ちなみに正直に言ってね。でないと今すぐ弾丸の様な速度で飛んで行って弾丸の如くおまえの妹ブチ殺すから」
「……その、妹に聞いたんだよ。ボクの妹にね」
「ミューたんかい?」
「そうだよ。昨夜も妹は夢遊病で外をフラフラしていたからさ、昨日ばかりは気になって後をつけたら、案の定直観の通り襲われていたんだよ、君の言う木偶二人にね。それでそこから助けた後に彼女から直接聞いたよ。『ねぇ、何処に行ってたの?』ってさ。君の御友達は先にうっかり爆死させちゃったから事情が聞けなくてね」
「っはーあ。キッツイ冗談言ってくれるねぇ絶式ちゃん。あんな木偶二人がボクの友達だってぇ? 後にも先にも前にも後にもボクの御友達は君一人だよ絶式ちゃん?」
「そっか。じゃぁ君には友達がいないんだね」
「っはーあ。ほんとキッツイ事言ってくれるんだから困っちゃうねぇ。でも良いのかなぁボクが君の友達じゃなくてさぁ? 本当に良いのかなぁ? 本当ならもう問答無用なんだけれども、まぁボクが愛してやまない憎くくてならない絶式ちゃんがすっごく正直に答えてくれたからボクの方も出血多量大サービスしてあげるよ。まずは名前から紹介してあげるね、ボクの新しい木偶の名前は乃枯野雲水ちゃんだよ」
リリアナの言っている事はハッタリだろうか。そんなことは全くないと、他の誰でもない他ならない絶式√だからこそ分かった。知ることが出来た。
今聞いた事、これから聞くことの全て、これからリリアナの話す事の全て、それは嘘偽りない覆しようのない現実と事実であると、絶式√自身が自身の心に覚悟を求めていた。
「それにしてもあれにしてもさぁ、雲水ちゃんって今まで手に入れた中では抜群の使い心地だねぇ。可愛いし綺麗し強いし早いし格好良いしこんなのこんなのチートじゃないぃ? なにこの子ぉ? この子なにぃ? あまりに凄すぎて凄すぎるからいっそさ、もういっそのことこれまでの手柄を全部この子にプレゼントしちゃおうかと思うんだよねぇボク」
「どういうことだいリリアナ?」
勿論、このことこの意味さえ、絶式√は正確無比に理解していたけれど、しかしそれでもそればかりは確認しておく必要があった。
「分かってて聞いてくるあたり絶式ちゃんはとっても人が良いねぇ。そしてボクは人が悪いから教えてあげる。今日彼女が殺した22人と27人だけじゃなくて昨日まで死んだ101人も加えた都合150人を全部この雲水ちゃんの御手柄にしてあげようと思ったりしてるのぉ。さらにさらにでもねぇ、この子はボクにはちょっと可愛過ぎていささか綺麗過ぎて少しばかり強過ぎて心もち早過ぎてさぁ、過ぎたるは尚及ばざるがごとしで一周回ってもの足りないからぁ。……151人目はこの子にしようかなって。早い話が――」
ボクの他殺によるその子の自殺ね、と、絶式√の予想を形にした言葉を、リリアナは言った。
「それだとすっきり収まって良いんじゃないぃ? 姫狩り真の完全決着っていう感じでさぁ? ああ、うんすごく良いよね、すごく。そんな訳で適当にブチ殺しちゃうけど良いんだよね絶式ちゃん? ボクは友達の友達には手を出さないけどぉ、ただの木偶は藁の様に殺すよぉ?」
「……負けたよリリアナ」
「そんなの知ってるよ負け犬の絶式ちゃん。でーそれで、君の答えは?」
「ボクは、君の、……友達だ」
それから、しばらくしの沈黙の後
「…………ふふふふふふふふっふっふ」
可笑しくて可笑しくて仕方のない様な、
「っあっはははははははははははははははは!」
苦しくて苦しくて狂ってしまったかのような、
「あははははははははははははははははははははははははははははは――」
それでいてしかし、愛らしい愛くるしい嗤い声が、電話口より奏でられる様に鳴った。それは美しい宝石で心臓に傷をつけるような、絹で編まれた鞭で打たれるような、幼子の手で首を締め付けられるような、そんなおぞましい快感と不快感を与えるような音色だった。
「ふふふふふ! あはははははははは! 傑作だねぇ! ほんっとに傑作だよ絶式ちゃん! 紛いなりとはいえ君がボクの友達になってくれる日が再びやってくるなんて思いもよらなかったよぉ! いいよいいよいいよすっごく良いよぉ! ふふふふふ! お願いもう一回君の答えをしっかりと聞かせてくれないかなぁ!? かなぁ??」
絶式√は、軽く俯いて、静かに言った。
「ボクは君の友達だよ」
その言葉を引き金として、再び狂ったような嗤い声が電話の奥から響いてきた。快感と不快感をないまぜにしたような音が、壊れたオルゴールのように繰り返し響いてきて
「……ただしその子は君の死神だよ」
ピタリと、やんだ。
「……っはーあ。ごめん絶式ちゃん。よく聞こえなかったのぉ。もう一回言ってくれるかなぁ?」
「ボクは君の友達だよ。ただしその子は君の死神だよ」
「ふふふふっふ……その子ってどの子ぉ? どこの子ぉ?」
電話の主は嗤いを噛み殺すように、噛み殺されるように言った。しかし絶式√はそれには答えない。ただし、ただし。
あはは、
と、
少し朗らかに笑った。その声はリリアナと名乗る電話の主とは正反対で、正対称で、異質で、例えば、ぞる、っというような、背筋をライオンのザラついた舌にでも舐め挙げられた様な怖気と悪寒を孕んでいた。だからリリアナはピタリとその嗤いを、止めざるを得なかったのだ。
「考え得る最も最悪なカードを君は選んだんだね。引き当てたんだね。引き入れたんだね。引き抜いたんだね。本当に良かったよ。だからボクは今すごく安心したよ。だからボクはすごく安心して家に帰る事が出来るし、だからボクはすごく安心してご飯を食べられるし、だからボクはすごく安心してお風呂に入る事が出来るし、だからボクはすごく安心して眠る事が出来るし、だからボクはすごく安心して、幸せに今後も暮らしていくことが出来るよ」
リリアナはこの声を知らなかった。自分が絶式と心を通じて対話していた頃は、彼女からこんな様な声を聞きはしなかった。こんな、まるで退屈で退屈で死んでしまいそうな、半分死んで半分生きているような、そしてしかもその理由が、当たり前の世界が当たり前の世界だからという、どうしようもない理由のような、そんな声。何だろうかこの、何もかもに達観し、何もかに呆れ果て、飽き果て、枯れ果て、気だるげで、諦めきった様な、この声は。と、ただ洞察力が鋭い人間ならばここまでだったのだろうけれど、しかし。リリアナは誰よりも絶式√の心に通じていたので、だからこんな核心をつくような答えを直観による感覚として抱いた。
――――それは。
勝負が始まる前から全てに勝っているからこそ勝負では全て負けてやる。
そんな様な、世界そのものを憐れみ、見限り、退屈し、鬱屈し、自殺してしまいそうな、そんな声音。
「ボクのリリアナ。可愛いリリアナ。悲しいリリアナ。可愛そうなリリアナ。可哀想なリリアナ。悲しそうなリリアナ。哀しそうなリリアナ。ボクの醜く可愛い、気の毒なリリアナ。今度こそ本当に、さよならだよ」
「……どういう意味だい。それは、絶式ちゃん?」
「どういう意味も無いよ。こういう意味もそういう意味も無い。何の意味も持たない、そのままのことだよ」
「何だよそれはよぉ?」
「何でもないよ。何でもない。何のことも無い。すごくつまらない、当たり前のことだよ」
「だからそれはなんなんだって言ってんだよ絶式ちゃんよ!」
リリアナが感情剥きだして吠えた。これまでも感情を剥きだしていたけれど、今度のそれは、これまでのそれと違い、明らかにマイナスの感情を吐き出していた。それにしかし、
あはは
と、絶式ルートは朗らかに笑ってから言った。
――君、バカだろ?
と。
「自分のやったことを自分が分からないで他の誰が分かるって言うんだい? 君のやったことを君が分からなくて誰が分かるんだい? 分かるわけないじゃないか? でもボクにはリリアナ、君のやった事が痛いほど分かる。怖ろしいほどよく分かる。だってボクは君を生んだし君はボクから生まれたのだからね。だからボクは今震えている。とてつもなく震えている。怖ろしくて仕方ないから震えている。だからこそ安心したんだ。この震えは尋常なく本物だから、どうしようもない現実だから。だからこそ、ボクはすごく安心していられるんだよ」
「回りくどいよ絶式ちゃん。もしかして乃枯野雲水ちゃんの事かい? その子に期待してるなら期待外れも甚だしいし見当違いも痛々しい。既に勝負はついてるんだよぉ絶式ちゃん」
諦めにも似た溜息を、絶式√は吐いた。
「リリアナ。君が手を出した相手は本当に何の変哲もない、ごく普通の、ごく平凡な、ただの史上最強なんだ。本当につまらない、ごく当たり前の史上最強なんだ。そして君は今、今しがた勝負はついているって言ったね? それはすごく正鵠を射ている言葉だと思うよ。それじゃ、ボクはもう帰るね。さよなら。またねはないよ」
電話は切れた。
倒記海人は今自身が目にしている光景について何をどう表現して良いか皆目検討がつかなかったし、そもそもこれが現実なのかと問われた時に夢に決まってるじゃないかと即答しない自信が自分にはなかった。
絶式μなり絶式√なりを追って絶式邸を飛び出し、消去法的に辿り着いた尾喰坂下町の飲食店アーケード。そこに展開していたそれは、交通事故と言うより、テロの現場と表現する方が図的には正確に伝えられる事だろう。まして一人の女子高生が暴れた後という、真実の表現はかえって誤解を生みかねない。
横倒しになって燃えている、機動隊の車両。フロントガラスに血糊と大穴が目立つ、大破した救急車数台。血だまりと血だまりが溶けあって血の池になっている路面と、その上で無造作に転がっている救急隊員に警察の機動隊。アーケードの中、外が血の池なら中は血の海で、そこに見慣れない白い衣装――今は赤黒い――の首なし集団がぶちまけられた様に倒れていて、さて、それらの首はというと、異常なぐらい整然と、ある一か所に集められていた。
「うげえっぷ」
倒記海人はその場で嘔吐した。
絶式邸で御馳走になったばかりのコース料理を全て、胃から絞り出すように足元にぶちまけた。なんなんだよこれ。マジで、ウソだろ。なんなんだよこの、これはよ。死んでるのか皆? 殺されてるのか皆? あれはなんだよ。これはなんだよ。本当にこれ、いつものここかよ。両膝に両手を置いて崩れそうになる身体を支え、肩で息をしながら自問する。とりあえず警察か、とりあえず救急か、正確にはそのどちらもここにいて、ここで死んでいる。じゃぁ何を呼べばいい? 何をすれば良い? 携帯を握った手は震えたが、しかし
「……ミュー、ちゃん?」
気付かなかったが、その、ゴロゴロと揃えられた仮面の生首の近くに、見覚えのある少女が、ペタンと座り込んでいた。そしてそれが絶式μであると認識した時、倒記海人はよろよろと駆けだし、しかし足元のぬめりに一度転倒。半身が一瞬にして真っ赤になったが、
「だー!!! クソったれが!!」
と現状を罵倒し、ヤケを起こして気合いを入れ、立ち上がって今度はしっかりとした足取りで駆けだしてミューの元に走り寄った。
「ミューちゃんしっかり! 大丈夫かい!?」
彼女はしかし、焦点の合わない目を見開いて、歯をカチカチと鳴らして震え、両手で胸にギュッと、一体のフランス人形を抱いていた。どうやら彼女はショック状態の様だったが、身体の方に何か傷がある様子はなく、その点だけ少し倒記海人は安心し、それによってやや平常心を取り戻す事ができた。だから彼は、彼女の前にしゃがみ込み、静かに、今のこれが一体何なのかを尋ねようと口を開きかけ
「ちくしょう」
という、彼女の言葉に思わずつぐんだ。
「ちくしょう。ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう」
まるで壊れたテープレコーダーのように、彼女は繰り返し繰り返し繰り返した。
「何だよぉ。何でだよぉ。なんでボクはいつもいつも最後の最後に、最期の最期に負けちまうんだよぉ」
切羽詰まったような表情で、血まみれで、目を見開いて、ブツブツと、意味の分からない事を、彼女は呟いた。
「彼女から性別を奪った。彼女から可愛さを奪った。彼女から美しさを奪った。彼女から優しさを奪った。彼女から冷徹さを奪った。彼女から賢さを奪った。彼女から楽しみを奪った。彼女から喜びを奪った。彼女から勝利を奪った。彼女から平和を奪った。彼女から全てを奪った。なのにどうして、ボクは彼女から、幸せだけは、奪えなかったんだ、よぉ」
そして、彼女はヒックと、μの姿をしたそれは、悲痛な声で泣き始めた。
「うううううう……ひっく。うぐううう。ひっく。どうして、どうしてどうしてどうして! どうしてなんだよぉ! ぐうううう」
尋常な精神状態ではない、これは。と、倒記海人は思った。
「バカだよ、君は」
振り返ると、そこには絶式√がいた。
「君は確かにボクの全てを奪って消えて行ったけれど、ボクは何一つ失わなかったんだもの」
神に溺愛されて創造されたとしか思えない全てにおいて完璧な少女、絶式√の傍にリリアナと呼ばれる人型の破壊衝動が生まれたのは、中学一年生の中頃だった。
しかし、完璧。それを定義する人間が千差万別である為、どの程度を以て完璧とするかはもちろんそれらに依存し、つまりは完璧は最多で人の数ほど存在する訳である――などと言う言い訳染みた言い方を必要とするならば、如何に問わず断言するがそれは完璧ではない。完璧とは何が対象であれ、何を意識すれど、そこに如何なる余地も考察も交渉も残されておらず、純然たる完璧であり無欠なのだ。十人十色である好みの問題に限ってもそう。例えば絶式√の容姿は、議論の余地なく、考察の余地なく、交渉の余地なく完璧だった。だから何処の誰に聞いたところで、この世で最も愛らしく美しいのは絶式√に間違いないと、何に憚ることなく、一切の迷いなく誰も彼もが答えた。性格人格についても同上。それは好みや個人差などといった瑣末な概念を超越し、それら風情が入り込む隙間などなく、彼女は朝日が東から昇るが如き必然性を伴って、比較対象の頂上に君臨していた。身体能力、学習能力といった数値的に評価可能なものはより明確に、明瞭で、あからさまで、言うまでも無く、彼女は頂上に位置した。
絶式√。
彼女は完璧過ぎず、完璧に完璧だった。
そんな彼女の傍に、どういう偶然か、どういう必然か、破壊衝動リリアナは生まれ、彼女はあっさりと完璧から陥落する。
例えばそう、学校からの帰り道。√の足に懐いてきた野良猫の背中を彼女が撫でていたら、リリアナはその手で猫の首を砕かんばかりに絞め殺そうとしたし、√が庭に大切に育てていたベゴニアが花をつけたら、リリアナはスコップを持つその手で八つ裂きにしようとした。
それでも最初の頃、そんなどうしようもない衝動にも目を閉じて深呼吸し、対話すれば、リリアナに堪えさせる事が出来た。立ち眩みを堪えるのと大差ない、目を閉じて動かなければフェードアウトするような、そんなもの。
けれども、一度。絶式√はそうして抑え込まず、根本的な解決を図る為、あたかもまるで、その破壊衝動が一つの心と形をもった生き物であるかのように、彼女は優しく対話してしまい、結果としてそれが、彼女の完全無欠を大きく崩すことになった。
”こんにちわ。初めまして、じゃじゃ馬さん。今のは気をつけないとね。あともう少しだけ人差し指をひねっていたらこの無垢な栗鼠の首が折れていたもの。自分で治せるものしか壊したらいけないよ。そんな当たり前を失念して人は取り返しがつかなくなるんだもの。……けれどももし。それが折れる事によって君が得られるものがあるとするなら、それは何かな? 素敵なもの?”
”……”
”言葉がないのならボクから好きなだけどうぞ。欲しいままにあげるから、だからそれを聞かせて、君そのものを”
目を閉じて、彼女は自身の心を丁寧に丁寧に洗い出し、選別し、濾過し、やがて輪郭を指でなぞれるほど、その破壊衝動だけをつまびらかに分離した。一粒残らず、一滴零さず、一糸縺れず、それとそれ以外を完璧に分けて隔てた。
そしてその結果、それはあまりに明確な形をそれに宿した。
それは赤いドレスを着て、月光で編まれたようなブロンドの巻き髪をした、青い瞳のフランス人形。それはこの世のものではあり得ない美しさと愛らしさを備えた、絶式√だからこそ生みだす事の出来た幻想の生き物。そんなものがいま、瞳に焦点を宿し、√に合わせ、大きなその二重を猫のように細めた。
”……もしかしてぇ、君はボクに向かって話してるわけぇ?”
心の深淵に顕現したその人型は、憎らしいいほど愛らしいその顔に、実に生意気な表情を浮かべ、椅子でもあるかのように闇に腰かけ、足を組み、手すりに持たれて顎肘を着いた。
”改めてこんにちわ。改めまして初めまして。君は呼ばれるべき名前を持っているの?”
”ないよそんなのぉ。今しがた人格と輪郭を持った生まれたてのこのボクにぃ、そんな名前なんてものはないよぉ。あるのはさぁ、そう、君から少しばかりもらった言葉とこの形ぃ、そしてこのボクが生まれる前からボクだった破壊衝動ぐらいのものだよぉ”
常に甘えた様な、甘ったれた様な、それとも何処か人を小馬鹿にした様な声音で、その破壊衝動は言った。
”それはとても良いことね。ボクは嬉しいよ。なにせ君にボクの一番好きな名前をあげられるんだから”
”一番好きな名前ぇ?”
”そう。一番好きな名前。君は今からリリアナだよ。いつまでもリリアナだよ”
”リリアナ? なにそれぇ? まるでまるでそれって女みたいな名前じゃないぃ?”
クスクスクスと、その破壊衝動は嗤った。
”リリアナはね、1908年に発見された小惑星の名前。アメリカの天文学者の娘さんに因んでつけられたらしいんだけれど、君にぴったりで可愛いと思わない?”
”さぁ、分からないなぁそういうのぉ”
”そう感じられる心がいつか君に宿って欲しいとボクは願い込めて、その名前を君のものにする。不満はあるかな?”
”ん~、うん。他に欲しい名前とかないしボクの名前はそれで良いよぉ。けれども、けれどもどうして君はリリアナが好きなわけぇ?”
√は首を左右に振った。
”そこには理由も理屈も無いし、あってもいけないよリリアナ。理屈で好きになったものは理屈で嫌いになるし、理由で好きになったものも理由で嫌いになるの。ボクはリリアナが大好き。だからこそそこに理屈は無いの。理由も無いの。だからこそボクは生まれ変わったらその名前を名付けられて、愛され育まれたいと心から望んでいるの”
ふーん、と、そのフランス人形型の破壊衝動は長いまつげを半眼にした。
”じゃー、ボクはリリアナで良いよ”
”いいえ君はリリアナが良いのよ”
”ん~?? まぁ、うん、良い。ボクはリリアナだよ。それでよぉ絶式ちゃん”
”ボクの事なら√って呼び捨ててくれて構わないよ?”
そこでまた、クスクスクスと、リリアナは嗤った。
”いいや、違うねぇ。そこだけは違うってボクにも分かるねぇ絶式ちゃん。絶式ちゃんは自分の√って名前はそれほど好きじゃないよねぇ?”
”あはは。流石にボクの心は『ボク』には何でもお見通しだね。完璧に分離したつもりだったのだけれど”
”むりむりむりそんなのはさぁ。ボクは絶式√で絶式√はボクじゃないかぁ。ボクの事をボクが分からなくて他の誰が分かるんだぃ? ねぇ? ……それにね、ボクはボクの好きな事は分からなくてもぉ、ボクはボクの嫌いな事は皆分かるんだよぉ。その証拠にさぁ、君って嫌いなもの全く全然ないんじゃないぃ?”
と、愛らしくも刺々しい笑みを、リリアナは浮かべた。
”……そう、分かった。じゃぁボクのことは絶式ちゃんって、そう呼んで。……それで、リリアナ。君が嫌いな事って、つまりボクが嫌いな事ってなに? 教えて”
こうして心の深淵に生じたリリアナと絶式√が対話しているのは、一般人で言うところの自己分析や自問自答の延長戦にあるものに違いない。しかしながら絶式√が自らに生みだしたこの破壊衝動は、今や完璧に彼女とは分離されているため、彼女にとってそれは最早、さながら。身体を共有するだけの他人との会話と言っても差し支えなかった。しかしだからこそ、リリアナとの対話は彼女さえ意識の及ばぬ自分の本質のところ、それを正確にして明確に知る為の極めて有効な手段と言えた。
自分の中に完璧なる他人を生み、その他人に自分を語らせる以上の、完璧な自己の客観視は存在しない。だからこそ絶式√は問うてみたかった、自分は何が嫌いなのかを。
それにリリアナが答えた。
”ボクが嫌いものは絶式ちゃんが好きな事全部だよ”
それはあまりに安易な解答だったし、充分予測の範囲内だった。何故ならリリアナという破壊衝動が現れるのは、いつだって絶式√が好きなものを愛でている時に限られていたから。だからこそ絶式√は、自分が予想し考えていた事が正しかったと、リリアナ自身から裏付けれたので、それをリリアナに、心の深淵に言って聞かせる事にした。
”それなら反対にさ、ボクは君が好きなものが何か分かったよ”
リリアナは絶式√の言葉に目を細め、口を三日月の様に歪めた。
”へぇ、なぁにそれって?”
”君はボクが好きなんだよ”
”どういうことぉ?”
”そのままだよリリアナ。君はボクが好きだからボクが可愛がっているもの全てに嫉妬しているんだ。だから君はボクのナルシシズムトとサディズムで編まれたボクの人形だよ”
リリアナ誕生を境に、絶式√は以後の行動の尽く、一挙手一投足に置いて、自らの名付けた破壊衝動リリアナから交渉を迫られることになった。
今会話している友人を殴らない代わりに、
今読んでいる本を引き裂かない代わりに、
今作っている料理をひっくり返さない代わりに、
今触れている動物を殺さない代わりに、
今動かしているペンを折らない代わりに、
今している、その全てを、邪魔しない代わりに。
何か、絶式ちゃんの大事なものを、このボクに頂戴ぃ?
と。
そして彼女はリリアナの要求に応じて、彼女は少しずつ、先天的に有しているものも、後天的に有しているものも、内面的に有しているものも、外面的に有しているものも、分けなく隔てなく、どうぞと両手で差し出していった。そしてそれを躊躇わず、リリアナは奪い取って我がものとした。
ともあれそんな経過と過程を経たところで、奇妙と言うべきか、別に絶式√とリリアナの仲は全く悪くなりはしなかったし、だから√は暇があれば心の深淵に赴いて、見えない椅子に座って足を組み、リボンの付いた靴をピコピコと動かしているリリアナとの会話を楽しみ、そうして互いの理解を深め合った。絶式√の取った、この自らの破壊衝動に人格を与えて管理すると言う方法は、今まで衝動的だったそれを意識的に管理出来るようになったという意味で、その時までは最良の選択肢と言えた。
その時までは。
高校一年の冬、絶式√は絶式本家を妹と共に追い出された。
理由は母親が刺殺された現場にいたからではなく、その時の事について一言も、親戚や父親に明かさなかったから。
真相は至極単純。絶式√が母親や妹と仲良くクリスマスケーキを作っている最中、それは本当に唐突に、突然に、少なくとも傍から見れば何の脈絡も物語もないまま発生した。包丁でメロンを切っていた彼女の身体を、リリアナが突然占有し、包丁を母親の胸に深々と突き立てたのだ。
一体どうして、こんな事になってしまったのだろうか、とは、しかし茫然としていた妹や死に行く母親ではなく、返り血を真正面から浴びていた√自身が、最もそれに相応しい表情をしていた。目は大きく見開き、焦点が漂い、歯がカチカチとなり、呼吸を忘れ、ただ肩ばかりが震え、胸から抜き取った包丁を血濡れた手で握り締め、
”ねぇ、どうして、こんなことを、したの、リリアナ”
そんな彼女に怪訝な表情をしたのは深淵のリリアナで、リリアナは足をだるそうに組み替えながら
”どうしてってぇ、だぁって絶式ちゃんは今回何もくれなかったじゃないぃ?”
と、お前はどうして息をするんだ? という聞くのも答えるのもバカらしい問いを問いかけられたような表情で、面倒臭そうに言った。√は真っ赤になった自分の両手を見つめながら、その時になってようやく、リリアナがリリアナであるということを理解した。
自分達が自分達であり、人が人であり、生き物が生き物であるように、リリアナと言う破壊衝動は破壊活動を行うものなのだ。そこに善悪とか理由とか理屈を問うのは意味のない事で、破壊衝動が破壊活動を行う事は、生き物が酸素を吸うのと同じように当たり前の事で、だから、その点に置いて√はリリアナに罪も罰も何も問う事は出来ないと、そう頭で理解していた、はずだったのに、今更になって本当にそれを理解したのだった。
だから。
だから彼女は決別した。
絶式家のみならず、リリアナとも。
それを新しい住処であり現在の絶式邸にてリリアナが言い渡された時、リリアナは初めて動揺した。
”何を言ってるんだよ絶式ちゃん。そんなの出来っこないじゃないかぁ? ボクは君だよぉ? 君はボクだよぉ? 切り離すなんてそんなの、出来っこないじゃないかぁ?”
リリアナの問いかけに、絶式√は顔を俯けたままあげようとしない。
”欲しいものは、全部あげる。何もかも、全部あげる。君に、全部”
躊躇いも感情も感じられない、機械的で冷たいその声には、決然として揺るぎない、それでいて致命的とも言えるほどの黒い憎しみと、白い悲しみがない混ぜになっていた。
”だから、もう二度と、……ボクには近付かないで”
”そんな寂しい事言わないでくれよぉ? もしかしてもしかしてボクが君のお母さんにした事が関係あるのぉ? あれが君にとってボクにとってとてつもなくダメなことだったのぉ? そうだったなら謝るよ絶式ちゃん。ごめん。ごめんなさい。本当にごめんなさい。だから、そんな寂しい事言わないでよォ”
リリアナはいつも座っている見えない椅子から降りていて、彼女の足元にすがりついて、すがりつくような表情を浮かべていた。まるでこの世の終わりを迎えるかの様な。けれども絶式√は首を振る。
”お願い、許して、リリアナ。もう、許して。リリアナ……ボクの可愛さが欲しいなら、それもあげる。ボクの綺麗さが欲しいなら、それもあげる。ボクの賢さが欲しいなら、それもあげる”
”何、言ってんの?”
”ボクの哀しさが欲しいなら、それもあげる。ボクの楽しさが欲しいなら、それもあげる。ボクの勝利が欲しいなら、それもあげる”
”だから、何、言ってんの?”
”ボクの強さが欲しいなら、それもあげる”
”だから何言ってんだよ!!”
ガシっと、リリアナは俯く彼女の両肩を両手で掴んだ。けれども、絶式√は、それでも俯いていて、リリアナが掴んだ身体は魂が抜けたようにぐらりと力なく揺れて、
”……ボクの”
それからそれは、また同じように、言葉を紡いだ。
”ボクの、『女の子』が、欲しいなら、それも、あげる”
リリアナは背筋が凍えそうになった。一体絶式√に何が起きたのか、それが分からなかった。全く分からなかった。あれほど完璧だった彼女が、どこまでも完璧だった彼女が、今は見るも無残に、聞くも無残に、完璧に壊れている。破壊衝動そのものであるリリアナでさえ、唯一壊すまいと自戒していたそれが、指一つ息一つ触れていないと言うのに、壊れてしまっている。
――――どうして?
”……だからね……”
絶式√がようやく顔をあげた。
彼女は笑っていた。あまりに優しく、あまりに悲痛で、痛々しくて、それでいて苦しくなるほど愛らしく、涙を流していた。
”だから、もう、二度と、ボクの前には、現れないで”
リリアナの頬にも涙が伝っていた。
そんな風に、そんな顔で、そんな事を言われてしまったから、リリアナもまた、穏やかに壊れてしまった。体中から力が抜け、すがりついていた腕も解け、うつ伏せに倒れた。耳には√のすすり泣く声が届く。そのたびに頭痛がし、目眩がし、胸がズキズキと痛み、胃には鉛の様な重さと吐き気がじわじわと広がった。これまで壊してばかりいたけれど、壊されたのはこれが初めてだった。そしてそれがこんなにも酷いものだと知らなかったから、こんなに酷いものだと今知ったから、これまでの自分の行為と、それをするためだけの存在である自分自身と、それを最愛の存在の大切な存在にやってしまった自分の性に、
”……っはーあ”
と、諦観のような溜息が漏れた。リリアナは辿り着いた。自分の何かが悪かったわけではない。自分はそういうものとしての存在だから、そこに善悪が入るほどそれと無相関な存在ではない。だからそれを悪と断じてしまうならば、自分そのものが悪であると認めざるを得ない。今そして、リリアナは自分のして来たことも、自分の存在理由も、自分のしてしまったことも、全てが全て酷いことだと、全身を通じて痛感していた。これ以上に無いぐらいの直接的な自己否定が、蝕むように全身を駆け巡った。破壊衝動が破壊活動は最低だと感じる、というその意味。それは絶式√にさえ分からなかったし、リリアナにさえ言葉で表しようがなかった。
ただ
その結果として
”……っはーあ”
何がどう作用したのか
”……分かったよぉ”
リリアナの抱いていた愛情という感情は、
”それじゃぁ遠慮なく絶式ちゃんの全てを、ボクはもらっていくねぇ”
同じ絶対値で以て憎悪に裏返った。そしてその日、その時その瞬間、完全完璧な少女だった絶式√は、史上最弱な少年絶式√に生まれ変わった。
「……なのに何で絶式ちゃんよぉ、君はそんなにもそんなにも、そんなにも敗北に塗れ惨敗に塗れてるっていうのに、幸せな生活を過ごしているんだよぉ。ボクがいなくたって、ボクがいなくたって何一つ変わらなかったって言うのかいぃ? ボクがいなくなるなら、何一つ残らなくても、何一つ失わなかったって、そんなこと言うのかい?」
絶式μは、否、リリアナは両手をついて肩を震わせた。そしてさめざめと、押しつぶされたように泣いた。
――けれども。
倒記海人は知っている。
絶式√が幸せと言う言葉からは果てしなく遠い存在であることを。とうの昔に――今の独白から彼が察するにリリアナが壊れたその時に――心が壊れてしまい、存在する世界の全てが退屈になって、世界を見限ってしまい、世界に見限られてしまい、つまらなくなって、くだらなくなって、どうしようもなく、どうでもよくなってしまったことを、倒記海人は知っている。そしてそんな絶式√をこの世界に繋ぎとめている唯一無二の鎖、妹μの存在。その彼女でさえ、それでさえ、また失うのかもしれないという不安からか、また自分が失わせてしまうかも知れないと言う強迫観念に近い不安からか、保健室登校児童にさせてしまっている始末なのに。そんなもののどこを切れば、どう見れば幸せだいう解釈が出来ると言うのだろうか。
「……ひっく……ボクは息を吸うように壊してきた、息を吐くように壊してきた。最低だよね。酷いよね。でもさぁ、君達はそれが最低だって言われたらさ。……息を吸う事をやめられるのぉ? 罪悪だって言われたら吐く事をやめられるのぉ? 息を吸うように壊さなくちゃいけないってさぁ、息を吐くように壊さなくっちゃいけないってさぁ」
リリアナは顔をあげて絶式√を見た。その表情は乱暴に摘まれたアジサイのように悲哀一色だった。
「もう生まれて来たのが失敗じゃないかよ! 存在が最低じゃないかよ! こんな救いようのない定義の存在なんて最ッッ悪じゃないかよ! どうしてどうしてそんなボクを! 君は創り出してしまったんだよ!」
――目を閉じて、彼女は自身の心を丁寧に丁寧に洗い出し、選別し、濾過し、やがて輪郭を指でなぞれるほど、その破壊衝動だけをつまびらかに分離した。一粒残らず、一滴零さず、一糸縺れず、それとそれ以外を完璧に分けて隔てた。
「こんなのこんな風になるなんて君に分からないわけなかっただろ! どうしてこんなにもこんなにも救えないボクを君は創り出したんだよ!」
――それはあまりに明確な形をそれに宿した。それは赤いドレスを着て、月光で編まれたようなブロンドの巻き髪をした、青い瞳のフランス人形。
「どうしてそんな存在に、自分の一番好きな名前まで与えたんだよ!」
――そう。一番好きな名前。君は今からリリアナだよ。いつまでもリリアナだよ。
「そんなことされたら……。ボクはボクのままで、リリアナはリリアナのままで良いんだって、そのままで愛されてるんだって、そのままが愛されてるんだって、勘違いしちゃうじゃないかよ……」
リリアナは嗚咽していた。枯れるほど涙をこぼし、崩れてしまう程震えていた。
「誰に嫌われたって良い……誰に蔑まれたって良い……誰に否定されたって良い……けれども、ボクは、君にだけは愛されたかった」
そうしてリリアナは、大切な誰かに死なれた時みたいな声で、大きな声で泣いた。見っとも無く無様に、人目憚らず、人耳憚らず、泣いた。そんな有様を近くでまざまざと見せつけられていた、今や完璧な部外者である倒記海人の方に、静かに歩み寄って、後ろから静かに声をかけたのは、
「……おまえそれ、どうしたんだ?」
真っ赤に染まったショートヘアー。
真紅に輝く黒目がちならぬ赤目がちの目。
身体のラインをなぞるように表す、タイトな白いドレス。
まるで異世界の踊り手の様に現実離れしたその装束。
そして
なにより
真っ赤に濡れたその、両手。
そんな有様の乃枯野雲水だった。
倒記の問いに対し、ただ彼女は苦笑し、首を左右に振った。その振る舞いだけではどんな情報も読みとれないが、しかし。
「今は細かい事はなしだぜ……って言いたいんだけどさ。とりあえず出来る範囲で簡単に説明しておくよ。……当分アタシはカイトに会えないだろうしね」
「それってどういう」
「まぁ聞いてよ」
乃枯野雲水は遮った。
「順番に、全てを話すからさ?」
と、彼女は小首をかしげて見せる。
「まずもう見ての通りだけれど、リリアナっていうのはμちゃんの事なんだ。分り易い言葉を使うなら、μちゃんの二重人格でもあるし、破壊衝動とも言えるか。彼女は姉の絶式√がどうしようもないぐらい好きで、好き過ぎで、彼女の傍に常にいて、それで彼女以外の全てを嫉妬の対象にしてた。例えば絶式√が撫でていた猫を絞め殺そうとしたり、絶式√が育てていた花を八つ裂きにしようとしたりね。μちゃんは姉である絶式√の事が大好きで大好きで仕方なかったから、嫉妬心からそういう行動を突発的にとってしまったんだ。お姉ちゃんに可愛がられるなんて許せない、ってね。姉の愛情を独り占めしたかったのさ。……でも、かといってそうやって、大好きな姉に対する嫌がらせをしている自分自身に対して、μちゃんは罪悪感や嫌悪感を持った。けれども、姉が自分以外の何かを可愛がっている様を見ると、それを壊さずにはいられない。衝動を抑えられない。けれども、そんな事はもちろん姉の嫌がる事で、そんな事をしたら自分は嫌われてしまう、そしてそんなものはもちろん嫌だ。分かり易い葛藤さ。そしてその結果として――」
μは、自分とは別の存在であるリリアナを心に生んだ。姉が好きなものを破壊する衝動としてのリリアナを生んだ。そんな姉に嫌われる事をするのは、自分じゃないと言う心を糧としてさ、 と、乃枯野雲水は続けた。
「そしてその姿形のモデルになったのは、今もμちゃんが抱いているフランス人形さ。あの人形がいつどういう経緯でμちゃんの手に渡ったのかはアタシは知らない。けれど他に手掛かりはない。これは消去法だけどね」
「ちょっと、待ってくれ。俺には正直なにがどうなってるかサッパリなんだけどさ。一応自分なりに理解したものの一つとして、その。リリアナって絶式√の心にいた存在じゃなかったのか?」
乃枯野雲水は否定向きに首を振った。
「絶式√は完璧だったよ。完璧に完璧だったから、心にそんな欠陥が生まれることなんて有り得ないんだよ。そんな程度に壊れてしまうもの、そんなものは完璧とは程遠い。それは自他共に認めていることだしさ。だから絶式√の中にそんなものが生じてしまう時点で、もうそこには矛盾があるんだよ。一方、妹の絶式μちゃんは普通の女の子さ。だからもちろん完璧ではない、完璧ではないから、そういうリリアナみたいな欠陥が心に生まれたって矛盾はしないよ。むしろそんな普通の女の子が絶式√みたいな完璧な存在と四六時中傍にいて、まともで居られる方が普通じゃないさ」
「じゃぁ、絶式√がリリアナと対話していたっていうアレはどうなんだ? 自分の心の中でやっていた自問自答じゃなかったのか?」
「正確にはμちゃんの心の中だね。それをあたかも自分の心の中であるかのようにまで、絶式√の心はμちゃんの心に近付いたんだよ。これは分かり易く言うと『相手の気持ちを考えろ』ってヤツさ。相手の立場に立って考える。相手の気持ちを推し量る。それを完璧にやってのけると、それはつまり自分の心が完璧に相手の心そのものになるわけだろ? そうなってしまえばμちゃんの心に問いかけて答えを求めることと、自問自答との間に全く差はなくなるのさ」
「いやいやちょっと待て。そんな読心術みたいに相手の心を読むなんて事出来るわけ」
「出来るからこそ絶式√は完璧だったんだよカイト。何一つ不完全な部分がない事を完全完璧っていうんだろ」
そして絶式√は、妹の心に生じた破壊衝動を管理できるように丁寧に丁寧に洗い出し、選別し、濾過し、リリアナと名付けた。そしてそれに、μ自身が嫌悪感を抱かぬよう、愛着を持って共存できるような姿を、やはりμ自身の心から探り、その結果としてそのフランス人形を選んだ。
「絶式√がさ、けれども、完璧から陥落せざるを得なかった理由はさ、そこにあったんだ。いくら嫌悪感を抱かせない為にとはいえ、将来的には消し去ることを目標とするならリリアナなどという名前を与えるべきではなかったんだ。絶式√が一番好き、なんていう名前をね」
「どうして?」
「大好きな姉が一番好きな名前を与えた自分自身の中にある存在を、そんなものをμちゃんが消せるわけないじゃないか。だからどんどん、μの中ですくすくとリリアナは育ったのさ」
そしてその先に、リリアナという『姉の大好きなものを壊すと言う破壊衝動』がすくすくと育ったその先に、絶式√が大好きだった母親を殺すと言う結末が待っていた。
「じゃぁ、お母さんを殺したのはμちゃんなのかい?」
「そうだよ。けれどその責任も、罪も、全て√が引き受けた。だから彼女はその事について完璧に一切合切口を閉ざし、妹と共に家を離れ、それから絶式√は最悪から二番目の選択肢をリリアナに取ったのさ」
「最悪から二番目の選択肢?」
「リリアナをμから消すのを諦め、閉じ込めてしまうという手段さ」
リリアナの破壊衝動の原点である絶式√への愛情を憎悪に反転させ、さらに自分の持っている魅力の全てを自身の奥底に閉じ込める。μの中に閉じ込めたリリアナが、二度と目覚めて自分を好きになってしまわないように、自分の魅力となり得る全てを、リリアナに差し出した事にして、彼女はそれらを封印する。性別も含めて。
と、言う様な話を聞いたところで、倒記は半分も納得できなかったし、半分も理解できなかった。だから結末だけ尋ねる事した。史上最強の女子高生に。
「……じゃぁさ、最悪から二番目の選択肢がそれなら、最悪の選択肢って?」
乃枯野は答えなかった。目を伏せ、下唇を噛んでいる。
「……そっか。どうしても分からないんだね」
と、絶式√の声がした。
「そこまで分からないなら、ボクが教えてあげるよリリアナ。……それはね、君は確かにボクの全てを奪ったけれど、でもボクは何一つ失わなかったからだよ」
絶式√は絶式μに微笑んだ。ただしその笑みは朗らかで、壊れていた。
「良いリリアナ? 全てを奪われたぐらいで崩れる完璧なんて、そんなものは完璧ではないんだよ。そんな程度に崩れてしまう様な脆弱な完璧なんて、完璧とは程遠いんだよ。無限から有限数をいくら引いたって、無限は無限のままなんだ。リリアナ、君はおそらく数字にすれば人間何百人分、何千人分、何万人分、何億人分、何兆分人かの大切なものをボクから奪った。それは事実だよ。だからその魅力で以てあらゆる種類の人を言いなりに――君の言う『木偶』に変える事が出来たんだ。けれどもね、リリアナ。無限から億を引いたところで兆を引いたところで那由他を引いたところで、無量大数を引いたところで、無限なんだよ?」
絶式√は絶式μを抱き寄せ、そして抱き締めた。μの目は、まるで背中を銃弾で撃ち抜かれたように大きく開き、そして震えていた。
「ごめんねリリアナ。ごめんなさいリリアナ。本当にごめんなさい。ボクは君を酷く傷つけてしまったね。あの時ボクに、もう少し君に対する理解があれば、もう少し違った関係になっていのたかもしれない……」
√は子守唄を謳う様な穏やかで慈しみに溢れた口調で、血濡れたμの髪を、左手で撫でた。そして右手は、右手は乃枯野雲水でさえ言うのを躊躇った最悪の手段――近くに落ちていた一振りの曲刀――を握り、ゆっくりと掲げ――倒記海人は手を伸ばして
「待てぜっ」
「これで君はボクと一緒だよ」
止める間もなく一息に深々と、μの背中に突き立て、そしてそれを引き抜いてすぐさま自分の胸を貫いた。滑稽なぐらいあっさりと、あっけなく二人は血溜まりに沈んだ。
倒記海人は茫然とした。こんな結末で良いのか、こんな結末ってあり得るのか、こんなにつまらないものなのか、世界って。だから絶式√は半分死んでいたのか。退屈でどうしようもなくって、どうにもならなくって。それで半分に生きていた理由さえ、自分で壊してしまったから、全部死んでしまったのか。それだけなのか、世界って、そんな簡単に見限ったり、見限られたりするものなのか。
「……ふざけろよ」
それだけが、倒記海人の口から声に出た時、目からは理由のない、意味も無い涙がこぼれた。
「ふざけろよ! お前ら勝手に好き放題人の人生に関わるだけ関わって死ぬ時だけ無関係に死にやがって! ふざけんなよ!」
眼下の赤く美しい絶式姉妹を、彼は罵倒した。そしてその時
「最後の最後に、アタシさ……」
乃枯野雲水の力無い声が届いた。
そしてサイレンの音と明滅する赤いランプが近付いてきた。
「やっちゃいけない勝負しちまったな」
赤い光の当たった乃枯野の顔を見上げると、頬には涙が一つ伝っていた。アーケードの外で慌ただしく、大勢の機動隊が展開する、その硬質な靴の音が幾重にも重なった。