『絶式√と姫狩り殺し』編(上)
緒言:『失くし物は探せる。忘れ物は探せない』
絶式√はありとあらゆる当たり前を、ありとあらゆる方法で忌避してきた。
だからテストがあれば尽く0点を取ってきたし、賭けをすれば必ず裏目を出してきたし、落とし穴があれば嵌ってきたし、崖があれば落ちて来たし、地雷があれば踏み抜いてきたし、石があれば躓いてこけてきた。
もう少し一般化なり抽象化なりをするなら、彼は自分が当事者である勝負事ならば確定的に敗北を獲得し、伸るか反るかの局面に立たされた場合も徹底的に反ってきた。もうこれ以上にないぐらい本当に、これまでの彼の半生は敗北と失敗に塗れていた。
「なぁ随分と大袈裟にいってるけど要するにそれってスッゲー弱いってだけじゃないの? 何やっても勝てないって史上最弱じゃんかよ?」
「読解力ねーな。コインをトスして手の甲でキャッチして『裏か表か』ってやるあれ。あれを『確実』に間違うヤツってお前どう思うよ?」
「は? それってどうしようもなくツキに見放されてるヤツじゃねーの?」
「理解力ねーな。二者択一で確実に間違えるなら逆を取れば確実に正解するんだよ。この意味ならどうよ?」
「あー……あーあー」
絶式√はこの世界が半端なく退屈だから半分死んでいた。あまりに平凡で平和で当たり前で、真っ平らで、どうしようもなく在るべきものが在るべき状態で整然としていたから、だから本気で自殺を考えたことも何度かあった。けれども、しかし。本当に死にたいと願った事はただの一度も無かった。
この何もない何でもない平で凡で半端に半端な世界でいつまでもいつまでもずっとずっと無限に生きていたいと、そう心から願い思っていた。
「なんでだよ? 退屈で半分死んでんだろ? 何でそんな世界に未練があんだよそいつ」
「ああ、絶式√はものすげーシスコンなんだよ。もんのスゲーな」
絶式√には一人の妹がいた、否、一人の妹しかいなかった。彼女は容姿こそ人より優れてはいるようだったが、それ以外の尽くがこの退屈な世界と同じように平凡だった。学校での成績もど真ん中、リレーの順位もど真ん中、身長順に並んでもど真ん中、教室の席もど真ん中、出席番号もど真ん中。比較対象を何か用意すれば異常なまでに徹底的にど真ん中だった。
「それはそれで何かスゴイ気もするな。ちなみに名前は?」
二人組の片割れの問いに、もう片割れが答えた。
「絶式μ」
そんな徹底的にど真ん中で、圧倒的に平凡な彼女はたいそうこの世界に似ていて、まるでこの世界の有様がまるで彼女のような有様だったからこそ、だからこそ彼は半分死んではいても半分生きている事が出来たのだ、この世界で。
「じゃぁさ、それってスッゲーまずくね?」
「ようやく気付いたかよバカ。そう、そうだよ。お前が今連れて来たその可愛い子、絶式μなんだわ」
と、路地裏で会話を続けていた二人が同時に目をやった先には、後ろ手を縛られて口に猿轡をされ、両膝をつきつつも精一杯、その涙にぬれた目で睨みつけてくる黒髪の少女がいた。
「どうするよ? なぁ?」
「どうするもこうするもねーだろバカ。こちとら前金で三本貰ってんだ。今更後に引いたら逆に俺達が」
ぞる、っというような、背筋をライオンのザラついた舌にでも舐め挙げられた様な怖気と悪寒を二人は感じて、振り向くどころか動けなくなった。
「……」
物音はしていない。
影が差したわけでもない。
もちろん何かが起きたり、この真夜中の路地裏という普段は誰も立ち寄ることのない時と場所へ偶然誰かがやってきた訳ではない。ただ彼らは、単に彼らは、至極全く当たり前の事実をようやく理解しただけなのだ。
絶式√と敵対したという事実を。
絶式√と敵対したという意味を。
そしてその事実と意味が、たったいま連結した。
「やぁ。また負けちゃったね、ぼく」
無邪気な少年の声がした。
「参ったなあ。参った参った。これで億戦億敗の将来にまた近付いちゃったよ。あはは。参ったなぁ。あはは。あ~あ、どうしてどうしてこんなにもこんなふうになっちゃったんだね。ボクだって本当は勝ちたいんだよ? すごく勝ちたいんだよ? だって負けたら悔しいもんね。憤懣やるかたないもんね。試験だって100点取りたいしリレーだって1番になりたいしトランプだって最初にあがりたいし。だって負けたら悔しいよね。すっごく悔しよね。……でもさあ」
コン、コン、コン。という足音が、二人の背中に迫ってきた
「勝ってあたりまえなら、そんなものつまんないよね?」
二人は精神的にも肉体的にも振り向けなかった。
動けば殺されるとか、そんな生温い程度の怖気ではない。そんなとこにまで思考が及ぶほどの余裕など、毛ほども無かった。
「つまんないぐらいなら、絶対に悔しい方がずっと良いよね? だって、そんなのつまんないものなんてつまんないだもんね。そんなの嫌だよね? 悔しいから負けたくないし悔しくなるから勝ちたいけど、でも勝ってもつまんないなら絶対悔しい方が良いよね?」
ドン、と、二人と仲良く肩を組むように少年は腕を廻し、そして二人の間からそのあどけない顔を出した。そして彼は視線の先の、うずくまった彼女に問いかける。
「さてと。そろそろおうち帰ろっかミューちゃん? どう? 楽しかった? 夜の御散歩。つまらなかった? ああ、ごめんごめん。つまらないよねそんな格好してたら。ごめんねミューちゃん。お兄ちゃんがバカだったね。ごめんねすぐ助けてあげるからね」
二人の間を通り抜け、μを後手に縛っているステンレスワイヤーを絡まった糸くずのように指で千切り、後頭部で団子結びになってる猿轡も風邪のマスクでも外すようにブチリと解いた。直後、彼女はヒシと兄に抱きついて声をあげて泣いた。ボロボロと大粒の涙をこぼしながら彼女は泣いた。√はその堰をきったように溢れている感情を全身に受け止め、彼もまた目からボロボロと涙を零しながら、しかし笑いながら彼女の黒髪を撫でた。
「あ~よしよしよしよしよしよしよしよし。怖かったねぇミューちゃんよしよし可哀想に。可愛そうに。とっても可愛そうに。でももう大丈夫だよ。大丈夫大丈夫。大丈夫。何せ、ほら? こうしてここにお兄ちゃん来ちゃったしね。ね? 大丈夫になったでしょ?」
と、言いながら√が流すように向けたその目端は、μを連れ去ったその二人へ向けれられ、それは鞘より抜かれた冷たい刃を連想させた。
「ね~君達? 君達は僕の妹に。他の誰でもないよりにもよって僕の妹に何をし損なったのかな? ねぇ? 何をしようとしていたのかな? こんな人気のない路地裏で雁字搦めにして泣かせてさ? 答えによっては君達とってもつまらないことになるよ? 僕にとっても君達にとってもとってもつまらないことさ」
二人は反射的にポケットからナイフを抜いた。今夜の生贄解体用に用意していたそれを、しかしまるで相手を仕留めるための武器ではなく、まるで悪魔と対峙した神父が身を守る為に用意したロザリオのように握りしめていた。
「ま、ま、ま、待ってくれオイ! 聞いてくれ! ち、違うこれは違うんだよ! し、し、知らなかったんだ! 俺達はその子がお前の妹だったなんてさ!」
「ほほほほんとだよ! たまたまいつもみたいに姫狩りやってたらたまたま捕まえちまった子で、別に狙って捕まえたってわけじゃ」
絞り出すような声で二人は弁明したが、√は今も泣いている妹の涙に自分も涙が止まらなくなって、そんな二人の言い訳など全く以て耳に入ってなどいなかった。
「あー、うん、うん。もういいよ。もういいよそんなの。君達二人がつまらないと断じるには十分な理由がもうここにあるんだよね。ミューちゃんが泣くっていう、どうしようもない理由がさ」
名残惜しそうにその柔らかな黒髪を撫でてから、√はμから優しく身体を離して向き直る。そして心の底からつまらなさそうな表情を、その顔に張りつけて言った。
「ごめんね名前も知らない御二人さん。でも許してね、僕は何よりもつまらないことが許せないんだ。それじゃぁじゃあね。ばいばいだよ」
二人がその場で弾けた。
午前の授業の合間にすっかりと弁当を平らげた倒記海人は、今日も昼休みの全ての時間をインターネットに費やす事が出来た。それにしても早弁は良い。こうして学園で朝昼兼用の食事をとることによって朝はギリギリまで寝ていられるし、昼はこうして自由時間が増えるわけだからまさに一石二鳥だと彼は思った。
倒記はいつものように携帯端末のタッチパネルを操作し、インターネットブラウザを立ち上げてまずはニュース速報一覧にザっと目を通す。彼に本日のニュースチェックという習慣が身に付いたのはここ最近、尾喰坂周辺で起きている女子高生連続猟奇殺人事件が巷の噂で騒がれるようになってからだ。
通称、『姫狩り』。
発見される女性遺体の側に、必ず犠牲者の血液でそう書かれているため自然とそう呼ばれるようになったそれは、年頃の姉妹も彼女もいない倒記にとってはほぼ他人事と言っても言い過ぎではない事件ではあったのだが、しかしその死体の形態が多種多様であったため、不謹慎ながらもやや興味本位、怖いもの見たさで見守っていたのだった。
時に肢体滅裂。時に胸部陥没。時に眼部欠損。時に口部縫合。
最も、それらを99日99人と見ていくうちにとうとう飽きもやってきて、今ではヘッドラインを流し見する程度に落ち着いてはいたのだが、倒記海人は今日ばかりはその全文を食い入るように見ていた。くしくも犠牲者100人目。そんな不幸は果たして誰が手にしたのだろうと開いてみたら、それがまさかの犯人二人だったのだから。それにしても
「頭部だけが粉微塵って、一体どういう殺され方だよ。頭に爆弾でも張りつけられたのか?」
記事によれば昨晩遅く、尾喰坂下町にある飲食店アーケードの出口、その直ぐそばの路地裏。そこで男の首なし死体が二つ行儀よく長座しており、背もたれになっているコンクリート壁に二人のものと思われる血で『『姫狩り』殺し』と書かれていたらしい。
もちろん警察はそんな安直な落書きから二人が『姫狩り』の犯人だと決めつけた訳ではないのだろうが、記事の最後、そこが『一連の姫狩り事件は幕を閉じ、新たな事件の幕はあがった』というような内容で閉められていた点からして、どうやら犠牲者は犯人であるという結論をつけているようだった。
「早速見てるねぇカイト? 女子高生連続猟奇殺人事件通称『姫狩り』。記念すべき100人目と101人目の犠牲者はなんとなんと犯人当人だった~っていうね」
倒記が顔をあげると、そこには乃枯野雲水がニィと八重歯をむいて突っ立っていた。どうやら彼女は今食堂から帰って来たばかりらしく、一つ前の席に持っていたカバンをドンと置いた。
「それってもしかしてもしかしてそれってさ。か弱い美少女女子高生こと乃枯野雲水ちゃんことアタシが姫狩りにあったりしないだろうかってハラハラドキドキワクワク心配してチェックしてくれてたわけ?」
なんだよワクワクって、等と思いつつも倒記は失笑しそうになって、そして失笑した。
「あ~やっぱり笑うとこだよねぇ。あたしが美少女とかガラにもないのは100も承知なんだけどそうやってあからさまに顔に出されると若干凹むっていうか」
「いやいや俺が笑ったのは『か弱い』の方だよ。コーラの栓を栓抜きないからって指で空けるような奴は少なくともか弱くないし、どころかその現場を目撃されて赤面しつつ『ち、ちがうの! これはちがうの!これはテコの原理なの!』とか無茶な物理法則で弁明する娘はたぶん姫狩りとかにあったりしない」
「あんまりだぜカイト! 具体的なエピソードを添えて説得力マシマシにしてあたしのか弱さ全否定とかあんまりぜ!」
か弱いも何も何を隠そうこの修行僧のような名前の女子高生乃枯野雲水の二つ名は、『喰鮫雲水』である。それが何かの比喩や暗喩ではなく直喩である辺りが倒記の失笑を買った原因であることに間違いはないだろうが、ともあれ。順序立てて話すならば乃枯野は倒記と同じ二年二組に所属するクラスメイトであり、陸上部キャプテンでありながら生徒会会長でもあり成績は常に学年断トツトップというのが、まぁ彼女の上っ面の部分になる。
ならば本質的にはと言えば、
「か弱いっていうならお前さ、今までたった一度でも何かに負けたことあるわけ?」
「ん~? まっさか~。ないね全く」
倒記、失笑に次いで苦笑。
「何の勝負かも聞かず断言する辺りにお前の無敗具合が全開だな」
そう。乃枯野雲水はこと勝負と名のつくもの、こと賭けと名のつくものに対し、彼女はこれまでたった一度たり負けたことも敗れた事もなかった。マラソン大会に出れば一位をとり、テストを受ければ100点を取り、野球をやればホームランを打ち、サッカーをやればハットトリックを決め、もちろんそれらの試合には全て勝ってきた。さらに言えば100回ジャンケンをすれば100回勝つし、100回コインをトスすれば100回表を当てる事が出来るし、それが1000回になったところで10000回になったところで勝率は毛も厘も微塵も変化しなかった。
「で、それってなにか問題でもあるわけ?」
腰に手を当ててケロっと聞いて来る。
「大ありだよ。そこまで史上最強やってるお前のどのあたりを切ればか弱いなんて側面が見えるんだ喰鮫雲水」
「喰鮫! うはー、黒歴史きた!」
丁度半年前の夏、尾喰坂下町で華々しく開園して翌週に慌ただしく閉園という残念な運びとなってしまった『尾喰坂南大海賊水族館』の売りの一つに、イルカショーならぬシャークイリュージョンと呼ばれる催し物があった。
名前から内容を推定してそれが10中8,9当たる典型の一つと言えるそれは、何でもホオジロザメのアレス君とそれに心を通わせる事が出来るというインストラクターのマイケル(名前適当)が、大きな円筒型海水プールの中を共に泳いだり波高くジャンプしたり颯爽と背中に乗ったりと、そういったハラハラドキドキを織り交ぜつつ鮫と人の心温まる交流を描く言う趣旨のものだったらしいのだが、当日の炎天下、少なくとも倒記と乃枯野には100歩譲っても捕食されてるようにしか見えなかった。
それが起きたのはインストラクターがプールに入ってすぐのこと。プールに連結されている水中ケージから既に放たれていたアレス君は背ビレで水面を切り裂いて瞬く間にインストラクターに近付き、随分懐いているんだなぁ、とか、さすがにデカイだけ迫力あるなぁ、とかなんとか倒記が思うや否や”ばくん”である。
真っ青だったプールの中に赤黒い靄のような濁りを生成した瞬間、周りにホイッスルの音が鳴り響いた。すぐさま管理室や客席の定区間にいたスタッフ達がとんできてブルーシートでプールの透明な側面を覆い隠し、場内アナウンスでは唐突な避難誘導が始まった。
それに対して集まっていた客はしかし、インストラクターの尋常でない叫び声とブルーシ-トの奥で弾ける波飛沫にパニックを起こしていて、甲高い悲鳴がそこら中に響き渡ったが、倒記はといえば彼に出来る最善手候補の一つとしてまずは警察に通報をと携帯をポケットからまさに取り出そうとしていた。しかしそこで隣にいた連れの乃枯野雲水、彼女は無言で席を飛び出して真っ直ぐにプールへと駆け下りていき、ブルーシートに覆われた高さ5mはあるそのプールのアクリル壁を華麗な背面ジャンプで飛び越え、新たな波飛沫をあげた。その非常事態の最中に起きた異常事態に悲鳴さえかき消すようなどよめきが起きて、すぐ後。インストラクターが本調子でも出来なかったであろう高さ10m越えのシャークジャンプ。そしてそこ、巨大な鮫の鼻先にしがみつき、噛みついていたのがなんと乃枯野雲水だった。飛びあがったホオジロザメの鼻先に噛みつく女子高生と言う、理解不能な構図を高高度で見せつけられ、観客達は静寂。しかしそれに何かコメントが飛び出す前に再び重力に従って、巨大な波飛沫。そこから先、プール内ではどんな光景が繰り広げられていたのか、ブルーシートに遮られた視界では凡人に推測できる余地などなかったが、少なくともインストラクターのマイケルはそれにより一命を取り留めたようだった。
乃枯野は当時を回想しているらしく、腕を組んで目を閉じてうんうんと頷きながら
「あんときは予想以上に鮫がザラザラしてたからさぁ、あたしマジでびっくりしたよ。鮫肌っていうのはそのまんまの意味だったんだね~」
倒記が溜息を一つ。
「ビックリするとこのピントがズレ過ぎだろお前は。いきなり鮫のいるプールに連れに飛び込まれた俺の身にもなってくれ」
「あらら? へ~、アタシのこと心配してくれてたんだ~。嬉しいねぇカイトくんよ~」
うりうりうりと冗談で、しかし万力の様な腕力で倒記にヘッドロックをかます乃枯野女史。壮絶な圧迫感があるが、もちろん倒記はここで頭を抜こうなどとは思わない。どれだけ危うかろうとそんな勝負を挑んだところで、それが何であれ勝負である時点で全く勝てないことは約束されていたから。
この、自称か弱く他称史上最強の女子高生には。
「やぁ。……あはは、昨日も今日も明日も相も変わらず仲が良いね、二人はさ」
見なくても誰かは分かったが、それでもやはり二人は声の主の方に目をやった。パっと見はブレザーを着ているショートヘアーの女子中学生という感じのその男子高校生は、もちろん絶式√だった。
乃枯野は乃枯野でクラスで目立つ存在であるのだが、この絶式も絶式で別の意味で目立つ存在だった。それは対比的な言い方をするならば、乃枯野が自称か弱い他称史上最強なのに対し、絶式は自称史上最強の他称史上最弱という立ち位置だったからだ。
絶式√はとにかく弱い。途方も無く圧倒的に、絶対的に弱い。勝負に勝ちたければ例えミジンコであろうと雑菌であろうと彼に相対すれば間違いなく望みは叶う。が、しかし。絶式の弱さとはそこら中に有り触れている弱さとは異質であり、10000回ジャンケンすれば10000回連続で必ず負けると言うような類の弱さであるため、もちろんクラスメイト達が彼を見る目はただの弱者をみるそれではなく、クラスでイジメの対象などになったりはしなかった。ただし枯野にしろ絶式にしろ、強いにしろ弱いにしろ、それの絶対的具合が異常であることは誰もが既に理解しており、しかしそこに疑問をもって詮索するものがいるかといえばあまりそう言う事はなく、クラスメイト全員がそういうものだと受け入れている。理屈が理解できなくとも携帯電話や電子レンジを扱えない訳ではないのと同じような理由で、乃枯野や絶式もそういうものだと思ってしまえば付き合えない様な性格ではないのだ。
倒記がうめく。
「ぐうう、仲が良いように見えるならお前は一度眼科に行って来い絶式。どう見てもこれは俺が虐げられている構図だろう」
「僕には無理だよ倒記くん。まさかまさか、僕が乃枯野さんなんかに勝てるなんて思っているのかい?」
「そんなのやってみないと分からないじゃん? マジで一回アタシと本気で、何だって良いから勝負してみない?」
屈託のない笑みを浮かべる絶式に、ニィと八重歯を剥く乃枯野。既に倒記は机にタッピングしているが、乃枯野は全く離す気配がない。
「いやむしろ、何だって良いからアタシと本気で勝負しなよ? どんな競技だって良いから今すぐさ? でないと……『割る』よ?」
「えええ!?!?!?」
倒記の声に絶式は困ったように眉根を寄せつつ、ん~、と顎に手を当てる。
「困ったなぁ。ひどく困ったよ。このままいくと本当に倒記くんの頭蓋骨が粉砕されかねないなぁ。そんな事になってしまったら僕の可愛い可愛いミューちゃんに何を言われるものか分かったもんじゃないよ」
ミューちゃん、とは絶式√が目に入れても痛くない程に可愛がっている一つ下の妹で、嘘か本当かは定かではないが彼は本気で目に入れた事があると嘯いている。つまり嘘である。
「縁起でもない事言うなよ! つい昨日にそんな感じで『姫狩り』の犯人二人が死んでんだぞ! てかそんなブラックユーモア言う暇があったらさっさと乃枯野の提案に同意して俺を解放してくれ!」
「あはは。あ~、あの犯人を殺したのって実は僕なんだよね」
「だからそういうブラックユーモアとか良いから!」
「後ろから近付いて肩に腕を廻してさ。そのとき首に爆弾設置してドカーンってやってきたんだ」
「分かったからさっさと俺を助けてくれ! でないとお前の可愛いミューちゃんに『お兄ちゃんに意地悪された』って言ってやるからな!」
その言葉にピクリと絶式の肩が動いたのを倒記は見て、手ごたえありと確信した。そしてその予想通り、彼の顔からヘラヘラとした笑顔は消失した。
「分かったよ。それでは乃枯野さん、お望み通りに僕は君と勝負しよう。必ず本気で、今すぐ全力で。だから倒記くんを離してあげてよ」
言うや否や、すぐに釈放された倒記は両手でこめかみをマッサージしつつ、横目に乃枯野を睨む。しかし彼女はそんな彼にニィと八重歯を剥くばかりで、そして向けていたその目も既に絶式に向けられていた。
「へっへ~。男の子に二言は無いぜ?」
「もちろんだよ。そして女の子にも二言は無いよ? だから競技は僕が決めるし開始の合図も僕が決めるよ?」
それに大きく自信満々に頷いて見せた乃枯野女史。そして一連の様子を見守っていたクラスメイト達は野次馬と化し、三人の周囲にザワザワと集まってきた。
「さぁさぁギャラリーも集まってきたし後には引けないねぇ絶式。さっさと好きな競技名を告げて好きなタイミングで開始しちゃってくれよ。さぁさぁさぁ」
挑発的な笑みを浮かべてさぁさぁと煽る乃枯野に対し、しばらくの間を置いてから、絶式は人差し指を立ててにこやかに宣言した。
「それでは『ズボン早脱ぎ競争』よーいどん!」
「なぁ!?!?」
結果だけを言うなら、それでも絶式√は勝てなかったし、それでも乃枯野雲水は負けなかった。
「……あ、アタシの不戦勝だなぁ」
顔を真っ赤にして拳を振りおろした格好の乃枯野と、
「僕の不戦敗です」
その足元で亀裂を生んだ床に頭から突っ込んでいる絶式。結末は落ち着くところに落ち着いたと言うところだった。
時計塔から16時を知らせる鐘の音が学園一帯に鳴り響くと、高校生と中学生は主に次の四択になる。帰宅、部活、補習、会議。
それらの内、倒記海人は帰宅に該当し、絶式√は会議に該当し、乃枯野雲水は部活に該当し、教室を離れ際、絶式√はいつものようにニコニコと手を挙げ、
「それじゃぁミューちゃんの事は末永く宜しく頼んだよ倒記くん」
「末永くって、お前の家までだけじゃないか」
「それはそうだけど明日も明後日も明々後日も来週も来月も」
「あー分かった分かった。だから急げ急げ。会長不在で副会長まで不在になったらここの生徒会はおしまいだ」
「あはは。それじゃぁくれぐれもよろしくね」
と笑ってから、絶式はそのまま真っ直ぐ生徒会室へ向かった。乃枯野雲水も既に教室を離れており、今頃は陸上部のグランドでストレッチを始めている辺りで、つまり現状彼の友人はもう教室にいない。倒記は「さて」とカバンを背負い、教室を出て、絶式に頼まれた通り彼の妹である絶式μを迎えに保健室へと廊下を歩いて行った。
絶式√が所謂シスターコンプレックスであるのは自他共に認める事実の一つであり、彼は世界の誰よりも、世界の何よりも唯一人の肉親である妹を溺愛していた。それはそんじょそこらの令嬢に見られるような箱入り娘のレベルではなく、それどころか正しく囚われの姫君と言うレベルだった。彼女の平日は絶式√の目覚めのキスと手製朝食に始まり、手製夕食とおやすみのキスで完結する。
「この時点でもういろいろ可笑しいというか、可哀想だよなミューちゃん」
そして学園での大半を保健室で過ごし、帰宅時分になると、生徒会の会議で付き添い出来ない絶式√に代ってこうして倒記海人は彼女を迎えに来るというのが、彼女の日々のサイクルだった。
「失礼します。え~っと、ミューちゃんを迎えに来ました」
と適当に挨拶をして保健室に入ると、既にベッドから降りて制服姿になっている絶式μが、キチンと身体の前でカバンを持って準備を完了させていた。そしてその大きな瞳と目が合うと、彼女は愛想よく微笑んでからペコリと頭を下げた。
「どうもどうも倒記さん。いつも兄がお世話になっています。また何かご迷惑をおかけしなかったでしょうか?」
「んんん、いつも通りだったよ。相変わらず朗らかだったし機嫌も上々。それに特に変わったことも無かったかな」
彼の脳裏に乃枯野との一件がよぎったか、まぁ許容範囲だろうあの程度。
「本当ですか倒記さん? また私に気を遣ってウソをついたり何か隠してる様な事はないですか? 本当に兄さん変な事してませんでしたか? 例えばいきなり人前で服を脱いだりとか」
倒記は第六感っというものの片鱗を見たような気がしたが
「おっと、ミューちゃん随分とお兄さんに信用ないんだね。本当に大丈夫だったよ」
「そうですか。でも、ええ。信用ないですね。だって兄さんは変人だし変態ですから」
悪びれる様子も無く、サラっとその綺麗な黒髪を流して言った。
「だいたい体調悪いわけでも精神的に病んでるわけでもない妹を保健室登校児童にする時点で兄さんはどうかしてますよね。おかけで私が学ぶ授業のほとんどがクラスメイトのノート摸写っていう二番煎じだし、体育も基本見学だし、遊ぶ時間は少ないし、お食事も一人だしでイヤになっちゃいます……って、ああすいません。別にこんなこと倒記さんに愚痴ったって仕方ないですよね」
と苦笑した。彼女の言うように、そして御覧のように、絶式μは全く以て保健室登校時である必要のないごくごく普通すぎる女の子である。
「いや、俺に出来る事って精々ミューちゃんの御話聞くぐらいしかないからさ、良かったらどんどん話してよ。俺もその方が楽しいしさ」
「すいません。正直に言うと結構助かってます。……はぁ、昨日は昨日で夜にコッソリ家を抜けだしてストレス発散でもしようと思ってたらしっかり後付けられてたし、本当にもう」
と言う感じで、彼女は兄に対する不平を時に口を尖らせ、時に呆れたように肩を落とし、時に苦笑混じりにして話した。倒記はそれにウンウンと頷き、聞き手に撤する。
「……なるほどね。そりゃ流石のミューちゃんも参るわけだ」
「ですよねぇ! たまには私だって料理作りたくなりますけど包丁一つ触らせてもらえないんですよ、もう! それに限らず私の仕事は何でもかんでも片っ端から取って行っちゃんうです兄さんは!」
しかしどれだけ彼女が兄に対して不平なり不満なりを抱いているとはいえ、だからといってそれに逆らったりするような事を彼女は全くしない。それについて倒記は過去に一度尋ねた事があるのだが、彼女曰く、それは『それが兄の思いやりの形なら、無碍に出来ないです、私』というものだった。
「あ~、なんだかスッキリしました! やっぱり倒記さんとお話するのは私にとって一番の気分転換ですね! ありがとうございました!」
と、絶式μはその平均身長の身体で伸びをしながら言った。
「そう言ってもらえると俺も嬉しいけどさ、俺は俺でミューちゃんの話聞いてて退屈しないから、いちいちお礼とか言わないでよ。それからまぁストレス溜まってるのは分かるけど、今は『姫狩り』事件なんてのが流行ってるから夜遅くは出歩かないようにね」
「はい。でも、もうあの犯人二人って誰かに、その、殺されちゃいませんでしたか?」
昼に携帯で見たニュース速報の事を思い出す。
「ああ、そう言えばそんな様なニュースが挙がってたね。なんか頭が木端微塵だったっていう、なかなかすごい事があったような」
「ええ、本当に爆弾か何かでドカーンって感じだったみたいですね。あ、それに関して兄さん何か言ってませんでした?」
倒記は腕を組んで今日一日を思い返した。それに関してのつまらない冗句なら一言二言聞いた様な気もしたけれど、改めて言わなければならない大事な事は何もなかったはずだ。だから彼は「いや、特に何もなかたっと思うよ?」と言っておいた。
「っはーあ。死んでも死にきれない奴ほど殺しても殺したりなかったりするもんだからなかなかどうして世界って皮肉に出来ちゃってるもんだよねぇ。あんの男装女子? 美少女少年? まぁなんだって良いけど絶式ちゃん最後の最後の最後の最後でいっつもいっつもっつも邪魔しちゃってくれるんだからさぁ。ほんと参っちゃうよね」
そこは豪奢な天蓋付きベッド以外に何もない、冷たい灰色のコンクリートに囲まれた小さな小部屋。申し訳程度に天井に切り取られた格子付きの小窓から、これまた言い訳染みたか細い夕陽を取り込んでいるだけの、本当に目的も居場所も不明な小さな小部屋。
「っはーあ。99日と99人までボクの勝ちでアイツの負けだっていうのに、最後の1日と最後の1人だけがあんの絶式の勝ちっていうのに、上っ面だけ見ちゃうとボクの100戦99勝1敗であんの絶式の100戦1勝99敗のボクの圧勝だっていうのにさぁ」
そんな部屋のベッドの上に寝かされているのは、月明かりを編んで出来たようなブロンドの巻髪と、宝石のように青い瞳を持った愛らしい真紅のフランス人形。
「っはーあ。最後の最後に一杯喰わされたぁ、とか、これまでの99戦は全部最後の為の布石伏線だったのぉ、とか、終わりよければ全て良しぃ、とか言われちゃったらさぁ」
その人形が今、独り嗤っている。
「っはーあ。まぁるでボクが惨めに惨めに惨敗しちゃったみてぇじゃない? なんだかあんの絶式の圧勝みてぇじゃない? でもそんなのそんなの絶対絶対嫌なのでぇ……」
天井の小窓から漏れていた僅かな夕陽も陰り、部屋はとうとう闇に包まれて
「『姫狩り』ちょっと延長しちゃうよボク」
その人形の口から覗く、小さい白磁のような歯ばかりが薄らと光った。
「って、それってまるっきり八つ当たりみたいじゃないのよさぁ!」
乃枯野雲水はすっかりと静かになった飲食店アーケードの手前で目眩を感じ、顔に手を当てて天を仰ぐようにして
「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
と十年分ぐらいの溜息を夜空に溶かした。折角部活で居残り申請してまで発散してきた日々のストレスを、またここでガッツリと溜めこむことになるだろうことは確実必至だったから、だから先に、それをもうこうして少しでも逃しておこうとしたわけである。そうして吐き切ってから、けれども天を仰ぐ姿勢のまま続ける。
「けれどもまぁ、あたしから一つだけ感謝しておいてあげる。『姫狩り』っててっきり御姫様みたいに可愛い女子高生の命ばっかり狩ってるから『姫狩り』って言うんだと思っててさアタシ。で、だからさっき教えてくれた『ミューちゃんを昨日に狙った』っていう衝撃的事実にもあんまりビックリせず超納得できたし、だからアタシも狙われちゃったらそれってアタシ御姫様かも? ってハラハラドキドキワクワクしてたのよね。それでそれが今日やってきちゃったもんだからさ、アタシもしかしてやっぱり御姫様みたいに可愛かったりする!? とかキラキラしてたわけよ……なのになんだオイなんだそりゃ?」
顔から手を離し、ギリギリギリと握り拳を乃枯野雲水は作った。
「『姫を狩る』んじゃなくって『姫が狩る』だって? オイなんだそりゃ? なんだそりゃぁ~よ~? ごめんやっぱりさっきのあたしの感謝、返せてめぇら」
てめぇらと、そう呼ばれたのは、乃枯野が自宅への近道としていつも通りぬけようとした飲食店アーケード、その右から左からとゾロゾロと出て来た集団十数名である。白い薄絹のような衣装をユラユラとさせ、大きな一つ目の模様を中央に描いた面をつけている彼ら、そんな彼らの誰とに無く、乃枯野雲水はニィと八重歯を剥く。
「まぁでもさ、なんだろ、あんた達も自分の意思でそういう『姫狩り』やってるんじゃないってことも、まぁさ分かったよ。うん、よ~く分かった。だからさ、早速に聞いておきたいのだけれど、そのお姫様っていうのは誰? どんな人? そしてどこにいるの? その上どうしてこんなことしたり、絶式と知り合いだったりしてるわけ? 洗い浚い余さずスッキリ話してよ?」
「オイオイオイオイいくらもうすぐ死ぬっつってもそこまでは教えてらんねーよ102人目」
恐らく今声を発したのは、乃枯野と最も遠い距離にいる仮面の男だろう。そして今のセリフ、自分が『姫狩り』の犠牲者として100人目ではなく、102人目と呼ばれた事に対し、乃枯野は一つの疑問を投げかけて見ることにした。
「102人目ってそれってさぁ、昨晩にやられたあんた達の仲間二人も、その『姫狩り』にカウントしてるっていう風に考えていいわけ?」
「んふふふ。まぁいいんだけどよぉ、俺達には仲間も友達も共闘者も協力者も犬も猫もいねーんだよな。いるのはたった一人、ただ御一人、俺達の仕えるべき麗しく愛しく儚く悲しい、そして何よりも怖ろしく恐ろしい、俺達のお姫様だけだよ」
最も遠い仮面の男は、そんな事を言いながらどこに持っていたのか短い曲刀二振りを背中から滑りだすようにして両手に一振りずつ握った。しかしそんなことよりも、そんなことなどよりも、乃枯野は『姫狩り』の意味が『姫が狩る』と言う意味ならば、別にそれは犠牲者が『姫』即ち『女』でなくてはならない、という考えを肯定するものではないと思い至り、
「あ~うん。あ、そう。それはまぁ別にどうでも良いんだけれど、とりあえず私が狙われた理由が『御姫様だからじゃない』って事が分かれば十分だよ。十分充分さ」
「十分? 一体なにが十分だって言うんだよ女? 今この状況で十分っていうのはお前が俺達に嬲り殺しにされる可能性ぐらいのもんじゃねーの? 言っとくが今度ばかりはしくじれねーから確実に死んでもらうぜ女。ぜってー逃がさねーか……ら?」
この男が恐らく最期に聞いたのは、自分の首が発したえげつない摩擦音だった。
「……へ~」
さて。
この状況は。
果たして。
先ほどの状況と連続しているのだろうか。
今、男達の前に、『姫』より指示が下ったターゲットの女が、先ほどから饒舌に話していた男の首を片手で掴みあげているという図がある。男の足や腕はだらしくブラブラしていて、その頭もだらしなくブランと、有り得ない方向へ垂れていることから、間違いなく意識はない。しかし女と男の間は、つい今まで20m以上は開いていたし、その直線上にも数人の男がいた。そういう状況がつい今しがたまでだったのが、さて、果たして、
「ぜってー逃がさねー?」
それと今とは、きちんと時間的に連続で接続されていたのだろうか。
「そういう勝負をあたしに吹っかけたんなら、その時点で勝敗が確定してしまうって、その姫さんは教えてくれなかったんだね」
ドザっと、すっかりと物体に成り下がった男の身体が、地面に落とされた。
「いいよ。さぁ、始めようぜ? その『ぜってー逃さねー』って勝負をさ。一応言っとくけどあたし」
乃枯野雲水が、振り返った。
「『ぜってー逃さねー』から。一人余さずね」
そして『べぇ』っと、その舌を不敵な笑みを滲ませつつ見せた。
暴力。ただ暴力。ただひたすらに、純粋な暴力。
技術も技巧も技能もなく、そんな不純物は一切ない交じりっ気なしの暴力で、乃枯野雲水はその集団を時間概念をぶち壊すほどの早さで以て蹂躙し終えた。
それはただ単に動きが早いということと、それはただ単に力が強いということとに過ぎに無かったのだが、しかしあまりに常識外れであったためその仕掛けなり仕組みなり理屈なりを男達は恐怖に震えながら探ろうとして、もちろんそんなものなどないから見つからず、例外なく無駄散りした。
「さてー、まだ逃げられるぐらい生きている奴はいるか?」
どうしてこんなにも乃枯野雲水は早いのか、どうしてこんなにも乃枯野雲水は強いのか、そんな事、どうして花は花なのか、どうして人は人なのか、という程度に答えのないものだと知らなかったばかりに、彼らはこんな不幸を享受する事になったのだろう。
「ここの一人だけかぁ?」
花は花だから花であり、人は人であるから人であると、そういう風にもう少し早く、乃枯野とはそういうものだと理解していたなら、あるいはもう少し違った未来や現在があったかもしれない。
「馬鹿っ強いって馬鹿になんないでしょ? ね? 馬鹿っ早いって馬鹿になんないでしょ? ね? 馬鹿力って馬鹿になんないでしょ? ね?」
まだ意識が残ってはいるものの、しかし戦意の欠片も残っていない唯一人を見下ろしながら、にこにこと乃枯野雲水は言った。
「馬鹿みたいな事って例外なく馬鹿に出来ないんだぜ? な? 馬鹿にした奴だけが馬鹿を見るんだぜ? な ?あんた達はあたしを女だと馬鹿にしたでしょ? だから馬鹿を見たんだよ。馬鹿だよね~ほんとさ。ほんと馬鹿だよね~。……まぁ良いわ、そんなの。どうでも。今更よね。だからもう、教えてくれなくて良いよ? 洗い浚い余さずスッキリ話してくれなくて良いよ? だって今更そんなのしたら、なんだか命乞いの取引みたいでいやじゃないさ?」
身体を曲げ、足元に落ちていた一振りの曲刀を拾い、
「だからあたしはさ、今更あたしはさ、どうやってあんたを始末しようかってところを、今はすっごく微妙に悩んでるのよね」
その刃の部分を乃枯野はギューっと握り、
「どうせ生かしてたって碌なことしないでしょ? おまえら風情はさぁ?」
ベキベキベキベキバリっ! と、そのまま刃を握り砕いた。男は「ひぃぃぃいいいぃい」と見っとも無い声をあげる。
「た、た、助けてくれ~~~! お~~~~い誰かぁあああ! たすけてくれえ~~~~!」
そして抜けた腰を引きずって匍匐しながら、男は無人のアーケードで大声を出した。
「襲われてんのはぁアタシじゃね~か勘違いしてんじゃね~よボケ!」
と、乃枯野は背中を踏みつける。男が「ぐえ!」っと蛙が潰されたような声を出した。彼女なりに精一杯加減をしたので、骨にはギリギリ罅が入らなかったが、もちろんそれに匹敵する程度の痛みは男の背中を抜けた。
「ぐぅうううぅうう!! ううう~~!!!」
「痛いよねぇ? す~っごく痛いよねぇ? 息詰まるでしょ? 意識遠のくでしょ? 分かる。アタシ陸上部だもん。背中強打したらやばいもんね。背面跳びの目測誤った時はホント世界が壊れるかと思ったもん。……でもさ、何の目的かはしんないけど、あんたらが殺してきた子たちが受けた痛みってのは」
ゆっくりと、彼女は再び足をあげて
「こんな程度の比じゃないことぐらい知ってんだろうな? おい!」
ぐしゃ、っという湿った音は男の左手が踵によって押しつぶされた音だった。
「あぁああああ……!!! っぐうううぅ!!!!!」
全身の毛孔が一気に開いて発汗し、灼熱の様な痛みが左手で爆ぜった。
「言う!! 言う言う言う言う!! 何でも言うからたすけ」
「聞いちゃねぇんだよボケがぁ!!!」
その後も乃枯野はズキズキとストレスを訴える頭痛を押し切りつつ、右足、左足を加減しつつも踏みつぶし、男を悶絶させた。ここで止めたらまだ死にはしないだろうが、別に死んでも一向に構わない。ただ殺す価値が果たしてあるのかと言われると疑問であったし、殺す事によって自分の価値もこいつらと同程度まで成り下がってしまうような、そんな敗北感が自分を襲いそうだったので、彼女は携帯を取り出して救急車を呼ぶことにした。
「おえっぷ」
と、極度のストレスによる吐き気が彼女を襲ったが、しかしそれを飲み下す。頭はもはや割れそうなほど傷み、耳鳴りも爆音が響いているような錯覚を起してきた。ハァハァと肩で息をしつつも、手はコメカミをさすっている。視界もなんだか、滲むように白けてきている。このままでは自分が先に倒れるかもしれないと、彼女は思った。一方、既に虫の息になっている足元の男は、震えながら湿り気のある息をずっと吐いていたが、やがて限界がきたらしく
「……ハァハァ。……め様……ぐう……」
と呻くよう言ってから、気を失った。そしてその、男がうつ伏せのまま伸ばしていた、まだ潰されていない左腕、そのすがるように伸ばされた手。その方角がアーケードの奥を差しているようだったので、乃枯野は霞んだ目をやった。しかしもちろん、そこには誰もいなかった。
「………ハァ、ハァ」
少し頭痛がマシになってきて、耳鳴りも収まった。
「……ハァ……ハァ」
辺りを見渡す。
アーチ型の天井には定感覚の常夜灯。
例外なくシャッターが降りている軒を連ねた店舗。
ところどころに設置されている無人のベンチと、観葉植物。
……。
「……ハァ」
夜の静寂。自分の吐息しか聞こえない。周囲にはコピーペーストで生成されたかのように均質で、無機質な白い衣装の仮面の男達、その残骸。非日常的なそれらを除けば、いつもの尾喰坂下町付近の、見慣れた夜の日常風景なのだが、乃枯野雲水はどうにも感じたことのない感覚に、胸騒ぎを覚えていた。
「ハァ……ハァ」
殺気? 違う。怒気? 違う。怖気? 違う。霊気? まさか。もっと具体的で、直接的で、胃がズンと重たくなるような、気が滅入るような、元気を殺がれるような、心が折られるような、そんな自分の知らない、知ったことのない、何だろうか、これは。この、不快感にも似た――――
「っはーあ。教えたげる」
振り返ったが誰もいない。
「……」
しかし確かに、誰かに、耳元で囁かれたような、吐息の温度さえ感じられるような、そんな距離で、子供の様な愛らしい声で、誰かに何かを言われたような。乃枯野はここで初めて、否、正確には生まれて初めて、本気で構えていた。無意識に握り拳を固め、無自覚に身体を半身にし、ゆらりと脱力して感覚を研ぎ澄ませていた。間違いなく自分は、今、何かに襲われている。即ち勝負を挑まれていると。
「――あ」
しかし、そして。それに気付き、その意味を悟り、自分自身の取った行動に戦慄した。
――――アタシ、勝とうとしてるの?
今まで当然として、絶対として、無条件として与えられてきたそれを、獲得すべき何かの様に掴み取ろうとしている自分に、彼女は戦慄したのだ。
「それが敗北感だよ」
空間を断絶する超音速の後ろ廻し蹴り。
しかし手応えはなかった。
――――が。
彼女はそれに目をやった。
「……人形?」
足元に寝かされていたのは、真紅のドレスを纏った愛くるしいフランス人形。月明かりで編まれたように美しいブロンドの巻髪、宝石のように煌めく青い瞳、長くカールしたマツゲ、薄く称えた微笑みよりのぞく、小さな歯は白磁のよう。それはなんという、なんであろうか。
「可愛い……」
彼女は思わず、迷わず、今までの一切合財を忘れ、それの醸し出す可愛さと美しさと、儚さと切なさに虜になり、屈んでから優しく抱き上げた。
尾喰坂下町の飲食店アーケードで22人の男が倒れていると言う連絡を受けた、その病院の電話交換手の判断は、恐らく取り得る選択肢の中で最善のものだっただろう。彼女がその尋常でない連絡を一般人から携帯電話を通じて受け、救急隊員の他に機動隊にも出動を要請したのは、やはり機転が利いているし、そして最善の手だったと言える。
結果は最悪だったが。
夜の静寂を赤いランプとそのサイレンが切り裂き、まずは防弾仕様の機動隊の車両が3台、アーケード入口に停車。開かれた後ろ扉からは散弾銃と短機関銃を持った機動隊員が防弾シールドを構えながら素早く的確に展開し、恐らくは通報者でありつつもこの事件に関与していると思われる、その少女を中心として扇形に包囲した。もちろん一般人のそれと分かれば、彼女にはまず後方で待機している救急隊員が駆け寄ったのであろうが、
「警告。武装を解除し、速やかに投降せよ。警告。武装を解除し、速やかに投降せよ」
無線を通じた拡声器でそのような声をかけられている原因は、彼女の姿格好・出で立ちに他ならない。
スレンダーな身体のラインにピッタリと張り付いた、白い薄絹の様なドレス。右上部の欠けた白い仮面から覗く、人間離れした赤い瞳と、それと同じく赤いショートヘアー。そんな彼女は左腕で大事そうに、大切そうに、それでいて優しくふんわりと包むようにして、真紅のフランス人形を抱いている。そこまではまだ良かった。問題と言う問題は何もなかった、が、右手。その右手が、衣装とは好対照の、抱いている人形や目と髪とは同一の真っ赤に染まっていて、そして足元にはゴロゴロと、本当にゴロゴロと首が22と、まさに雁首を揃えていると言う有様だったのだ。
「警告。命令に従わない場合、この場で射殺する。警告。命令に従わない場合、この場で射殺する」
と、徐々に、彼女を囲む陣が、徐々に、ジリジリと、ゆっくりと、しかし確実に、その距離を詰めて来た。隊員達の向ける銃口は、ぶれなく真っ直ぐに、彼女の胸に向けられている。説得や威嚇射撃、警棒による鎮圧といった準平和的手段による解決は、既に彼女の脚元の首達が手遅れであると、無言に告げている。だから、なので。隊員達は一刻も早い発砲命令を、この異常な少女を前にして待っていた。遠くからでは分からない、近くだからこそ分かる現実感が、明確に告げていたから。
し ぬ
と、
「――?」
幽かに。その口が微笑んだように動いたので、隊員達は動きを止めた。
「……これは。そういう『勝負』で、良いんだ。っはは」
一人がそんな声を耳に拾った、その刹那、視界が赤一色、時々真っ直ぐの白線。
彼らは瞬きの間に、一人残らず、皆殺しに、『射殺』された。
一人残らず、胸のど真ん中を、手刀で『射殺』された。
痛みも何も、現状理解もない。状況と状況とが連続しない、正しくの瞬殺の射殺。
「また、アタシが勝っちゃったね」
と、彼女は救急車の座席まで貫いた右手を引き抜き、隊員の鮮血を浴びながら微笑した。
―――つまりはもちろん
機動隊は愚か、その後方で見守っていた、救急隊の一人も例外に該当せず、救急車内で待機していた誰かれも例外なく、真っ直ぐに瞬きの間に、深く、その胸の中心を背中までブチ抜かれて射殺されていたのだ。
「じゃぁ、今日からあたしがあの脳なしの首なし達に代って『姫狩り』をやってあげるからさぁ」
彼女は、返り血を一滴も浴びせぬよう左胸に抱いている人形に語りかける。
「あたしだけの御姫様になってよね……」
優しく問いかける。
「『リリアナ』ちゃん?」
彼女がそうして微笑むと、抱かれている愛くるしいその人形も嗤った。