第一章・第5話 疑惑
五月――。
ゴールデンウィークが明けた日の朝、前日夜遅くまで仕事をしていた姫乃は
そのまま仕事場のホテルから登校していた。
いつもと違う路線の電車。
いつもと違う乗客の顔ぶれ。
だが、その中に姫乃が知っている顔があった。
(あ……)
思わず回れ右をする姫乃。
しかし、既に手遅れだった。
「……春川さん?」
その人物に見つかってしまったのだ。
「ほ、星野、君……」
顔を引き攣らせながら偉世の方に振り返る。
「おはよう」
「お、おはよう……」
「春川さんの家って、こっちの方だったっけ?」
(ギクッ)
「え、と……今日はちょっと……」
「友達の家にでも泊まったの?」
「う、うん」
「友達は?」
「ち、違う学校の子だから……」
「……そうなんだ?」
どうにも口の重い姫乃に偉世は首を傾げた。
学校の中で見かける彼女はいつも楽しそうに友達と喋っている。
特に自分と同じクラスの和章とは最近よく二人きりでいるところを見かける。
それなのに、何故自分とはあまり話したがらないのか?
(もしかして、俺……嫌われてるのかな?)
偉世はそう思い、それから学校に着くまで一度も口を開かなかった。
◆ ◆ ◆
「あれ? 珍しいツーショットじゃん?」
学校に着くと、正門前で和章に会った。
「あ、おはよう」
姫乃は無意識に助かったと言わんばかりの顔をしていた。
偉世はその表情でやはり自分は嫌われているのだと確信する。
「途中で会ったの?」
「うん、電車の中で」
和章の問いに笑みを浮かべて答える姫乃。
(もしかして、この二人……)
自分と話している時には見せない笑顔を和章に向けている姫乃。
偉世の中に一つの疑惑が生まれた。
「あー、そっか。そういえば星野の家もあの辺だったな」
和章は姫乃が何故、家とは違う方角から来たのかもちろん知っているようだった。
という事はやはりそういう事なのだろう。
そしてその疑惑が確信に変わった――。
◆ ◆ ◆
――その日の五時限目。
姫乃達のクラスは、近々行われる球技大会の練習をしていた。
男子はサッカー、女子はバレーボールだ。
姫乃は出来ればこういった球技はあまりしたくはなかった。
運動系は元々得意な方ではないし、突き指でもしようものなら仕事が出来ないからだ。
しかし、だいたいそういう時に限って怪我をしたりするもので……
……ズザァァーーーッ!!
チームメイトがレシーブしたボールがコートの外に飛んで行き、姫乃がそれを追って
無理にレシーブをして転んだのだ。
「姫! 大丈夫っ?」
すかさず駆け寄る晶。
「うん、とりあえず大丈……っ」
だが、右手を地面について立ち上がろうとした瞬間、手首に激痛が走った。
◆ ◆ ◆
「お? 森島さん?」
晶に付き添われて保健室に行くと和章がいた。
衝立の横に立っている。
「あれ? 新田君も怪我したの?」
「いや、怪我したのは俺じゃなくて、コイツ」
和章はツンツンと衝立の向こうで手当てを受けている人物を指差した。
晶は衝立に歩み寄り、姫乃も晶の後ろから覗き込んだ。
「……星野君?」
晶の声に顔を上げる偉世。
すると、晶の後ろにいる姫乃に気が付いた偉世は小さく「あ……」と声を発した。
「星野君、足どうしたの?」
偉世は保険医に足の手当てをして貰っていた。
「球技大会の練習やってて、敵チームのメンバーと接触してこけた時に足を捻挫したんだ。
新田は俺をここまで連れて来てくれたんだよ」
「てか、森島さんは?」
和章はてっきり晶が怪我をしたものだと思っている。
「姫の付き添い」
「「え、春川さん?」」
偉世と和章は姫乃に視線を移した。
「姫も球技大会の練習してて、コートの外までボールを追いかけてレシーブした時に手首を捻ったみたい」
「手首って、どっちのっ?」
和章はやや険しい表情を浮かべた。
「……み、右」
姫乃は小さな声で答えた。
「右ーーーっ!?」
額に手を当て、なんてっこったという顔をする和章。
偉世は不思議に思いながら二人を見つめていた。
姫乃の怪我は思ったよりは酷くはなく、保険医の見立てでは全治二週間だった。
それでも、この先の仕事の調整もある為、放課後沢村と和章と共に病院へ行く事になった。
◆ ◆ ◆
六時限目が終わると和章からメールが来た。
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HRが終わったら教室に
来てくれる?
Kaz
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いつもなら和章の方が姫乃を教室まで迎えに来るのだが、この日は珍しく姫乃の方が
彼の教室へ迎えに行く事になった。
「新田君」
和章に言われた通り、HRが終わって姫乃は彼の教室へ行った。
「わざわざ来てもらって、ごめんね。ちょっと下まで星野を連れて行くから」
なるほど。
偉世を下まで送った後、また姫乃の教室に行くのも面倒だ。
それで姫乃を呼んだろう。
「下まででいいの?」
「あぁ、今日はお姉さんに裏門まで迎えに来て貰うんだと」
「ふぅーん……」
(なんで裏門なんだろう?)
姫乃は疑問に思ったが、この間も偉世は裏門から帰っていた事を思い出し、その疑問は自己解決した。
「星野、帰ろうぜ」
「あ、あぁ」
偉世は和章と共に姫乃が現れた事に一瞬だけ眉を顰めた。
「悪いな、新田。明日は一人で歩けるようになると思うから」
和章に手を貸して貰いながら荷物を持って立ち上がる偉世。
「いいよ、無理すんなって」
偉世と和章は席も近い為か、わりと仲が良いようだ。
姫乃はそんな二人の姿を後ろから意外そうに見つめていた。
裏門には既に偉世の迎えが来ていた。
姫乃はその迎えに来ていた人物の顔を見てハッとした。
それは以前、ファミレスで偉世と一緒にいた人物の一人、三十代くらいの女性だったのだ。
思わず顔を隠すように背ける姫乃。
「すみません、ありがとうございました」
偉世の姉という女性は肩を貸していた和章に会釈をして偉世を後部座席に乗せた。
「それじゃあ」
和章と姫乃に優しく微笑んで運転席に乗ると、彼女はゆっくりと車を発進させた。
後部座席では偉世がバイバイと手を振っていた。
ブンブンと手を振る和章。
一緒にいた姫乃も小さく手を振った。
すると、偉世が少しだけ笑ったような気がした。
(今……星野君、笑った……?)
不意打ちの笑顔を浮かべた偉世。
そして彼を乗せた車をしばし見送る姫乃。
「春川さん、沢村さんが来たよ」
和章の声が隣から聞こえ、偉世の車の進行方向の逆から沢村が運転する車が来て目の前に停まった。
「お待たせしました」
沢村は姫乃の右手首に一瞬だけ視線を落として後部座席のドアを開けた。