第一章・第13話 二人きり -3-
「それじゃ、始めようか」
偉世は自分のデスクのパソコンの前にアシスタントが使っているオフィスチェアを持って来ると、
そこに姫乃を座らせた。
まずは、昼休憩に出し合った意見を箇条書きのように打ち込んでいく。
「春川さんて、今まで四コマ以外の漫画って書いた事ある?」
キーボードを打ちながらちらりと偉世は目線だけを姫乃に向けた。
「うん、小学校の頃に友達三人と私の四人でファンタジーものを描いてたよ。
もうどんなストーリーだったか、一緒に描いてたノートも今誰が持ってるのかわかんないけど」
「中学の時は? 漫画の投稿とかしてなかったの?」
「うん、その友達と描いてた漫画がすごく楽しかったから、一人だとなんか漫画を描くのがつまんなくて……。
でも、絵を描くのは好きだったからイラストは投稿してたかな」
「友達とはみんなバラバラの中学になったの?」
「うん、二人は私立の中学に進んで、もう一人は私と同じ中学だったんだけど二人じゃつまんないねって……、
四人で描いてた漫画も結局、私立に進む二人が受験勉強で抜ける事になって完成してないの。
だから正確にはちゃんと漫画を完成させるのは今回が初めてかな」
「じゃあ……、俺とコラボすんの……」
偉世は不安そうな顔で姫乃をじっと見つめた。
「っ」
不意に視線が絡み合い、言葉に詰まる姫乃。
微かな空調の音と時計の秒針の音だけがリビングに響いて、この空間の中には
姫乃と偉世の二人きりなんだという事を改めて認識させる。
……カラン……ッ
グラスの氷が音を立てて解けた。
その音に二人ともハッとした――。
「私……星野君とコラボするの嫌じゃないよ? だって、すごく嬉しかったし」
姫乃は偉世に見つめられ、恥ずかしそうに素直な気持ちを口にした。
「じゃあ……」
……と、
偉世が何か言い掛けたその時……、
「お疲れ様でーす!」
アシスタントの一人、君原籐子が突然リビングに入って来た。
「「っ!?」」
慌ててお互い顔を背ける姫乃と偉世。
「……て、あらっ? 一愛先生っ!?」
「こ、こんにちは……お邪魔してます……」
「わぁ、こんにちは! 玄関に女の子のローファーがあったから誰かと思ったら……そういえば、
一愛先生とうちの先生って同じ高校でしたよね。ところでー、今お二人見つめ合ってませんでした?」
籐子は鋭い質問をぶつけてきた。
「う……、打ち合わせ、してたんだよ」
ぎこちなく答える偉世。
「あ、今度のコラボの件ですね?」
「そ、そうそう」
「昨夜、何も言ってなかったって事は急に決まったんですか? あれ? 大滝さんは?」
「今日はとりあえず二人でどんな風にするか決めたいから、大滝さんには連絡してないんだ」
「そうですか。あ、夕飯はどうされます?」
「う、打ち合わせが一段落したら、外に出ようかと……」
元々そのつもりだったが、先程見つめ合っていたところをバッチリ見られている所為で思わずどもってしまう。
「それじゃあ、何も心配は要りませんね」
そう言うと籐子は自分のデスクで仕事を始めた。
それからどれくらいの時間が経ったのか――。
……キュルルルルルルルル……、
「あ……」
二人でコラボ漫画のストーリー案を出し合ってプロットを立てていると、偉世の腹の虫が騒ぎ始めた。
「もうこんな時間だ。全然気が付かなかった」
偉世は顔を赤くしながら言った。
時計の針はもう二十一時を指そうとしていた。
「私も」
「プロットもだいたいのところまで固まったし、これなら週末に大滝さんと沢村さんと新田を交えて
最終打ち合わせ出来そうだから、メシ行こうか」
「うん」
「あ、先生、もう少しでカツ丼来ますよ?」
しかし、ここで籐子が二人を引き止めた。
「「え?」」
「お二人とも集中してらしたし、そうかと言ってこれ以上遅くなると
一愛先生が帰るのに遅くなると思って、さっきカツ丼頼んじゃいました」
「あ、そっか……もう九時だもんね。今からメシ行ってたら帰りが遅くなるよね。
ごめん……、俺、そういう事も考えてなかった……」
偉世はばつが悪そうに俯いた。
「大丈夫、今日は仕事場に泊まろうと思ってたから」
そんな彼に姫乃は柔らかい笑みで答えた。
◆ ◆ ◆
――一時間後。
「それじゃあ、帰るね。カツ丼、ご馳走様でした」
「あ、待って。送るよ」
姫乃が帰ろうと立ち上がると偉世も慌てて立ち上がった。
「近くだから大丈夫。星野君、お仕事あるんでしょ?」
「何言ってんだよ。例えすぐそこでも、こんな遅い時間に女の子一人で歩かせられないよ」
「う、うん……」
少しばかり一人で帰るのが不安だった姫乃は偉世の言葉が嬉しかった――。
偉世のマンションから姫乃が仕事場として使っているホテルまでは徒歩で約十分弱。
偉世はまるでその短い時間を惜しんでいるかのようにゆっくりと歩いた。
「春川さんて、週何日くらい仕事場に泊まってるの?」
「基本的には週末だけかな。後は急にお仕事が入った時とか。
だから週に一日か二日、多くて三日かな?」
「ふーん……、部屋は何階なの?」
「星野君と同じ十五階、私の部屋からも大きなマンションが見えるから、
もしかしたら星野君のマンションなのかも?」
「それって、何色のマンション?」
「薄いクリーム色、かな?」
「うーん……同じ様な色のマンションがいっぱいあるからなぁ……俺が見ればわかるんだけど」
「星野君がまだ時間があるなら、部屋から見てみる?」
「えっ、俺は全然いいけど……いいの?」
「うん」
姫乃はにっこり笑って頷いた。
◆ ◆ ◆
……ガチャ――ッ、
「どうぞー」
姫乃はいつもの様にカードキーを差し込み、ドアを開けた。
「お邪魔しま~す……」
偉世は怖ず怖ずと部屋の中に足を踏み入れた。
「ほぇ……」
真っ白な天井と壁、淡いブラウンの絨毯とダークブラウンの家具が置かれている
落ち着いた室内に偉世の口は無意識に開いていた。
「ダ、ダブルベッド……」
姫乃の部屋はダブルベッドだった。
偉世は思わず良からぬ事を考えた――。